個人用の箸と茶碗を分ける食文化

日本の食文化のおもしろいところとして、箸や茶碗といった食器類が家族でも全員個人用のものがあるというのがあります。
あまりにもこれが常識になっているので「え?」と、思う人もいるかも知れませんが、欧米にせよ中国にせよ「これはおじいちゃんのお箸、これはお母さんのお箸、これはぼくのお箸」と、個人のお箸や茶碗が決まっているという文化は、まず日本以外ではないでしょう。せいぜい大人用と子ども用が別れている程度。
アメリカやヨーロッパではナイフやフォークに対して「これはおじいちゃんのやつ。これはお母さんの」と、区別することはありませんし、お皿もしかり。
作家である井沢元彦さんの『穢れと茶碗』(祥伝社)によると日本人はたとえ家族が使ったお箸や茶碗でも、自分以外の人が使ったものはどんなにきれいに洗っていたとしても“汚れている”と感じるそうなのです。しかもその食器は和食器に限られ、カレーライスに使うお皿やスプーンは洗ってさえいれば、何の抵抗もなく使えるのに……。
井沢元彦さんはこれは一種の宗教なのではないかとおっしゃるのですが、わたしもそう思います。
わたしたち日本人は箸を手にながら合掌し食事の前に「いただきます」と頭を下げます。欧米には食前に神に祈りを捧げることはありますが、「いただきます」に相当する言葉はありません。
日本人は誰にいただきますといっているかというと、それはもちろん料理を作ってくれたお母さんや料理人、あるいはそのために働いてくれたお父さんや農家の人々、そして田畑や山や海にいる神々にお礼をいっているのです。
(食文化研究家 巨椋修<おぐらおさむ>)2012-05
フレッシュ・ストロベリー・ティー
旬の果物が八百屋さんの店先を賑わす、いい季節になりました。今回ご紹介するのは、新鮮なイチゴを使ったフレッシュ・ストロベリー・ティーです。紅茶のお店で売られているストロベリー・ティーは、だいたいが人工的に香りを着けたものなので、ものによっては香りが強すぎたり新鮮さが感じられません。本物の果物を使ったフルーツティーなら香り・味ともに自然なものなので、ナチュラル志向の方にもおすすめできます。使用する茶葉は、個性が強くなく果物の風味を損なわない、ディンブラが適しています。また、大きい茶葉を使用すると蒸らす時間が長くなり、果物の風味を落としてしまうので、蒸らし時間が短くてすむ、BOP(ブロークン・オレンジ・ペコ)のような葉の細かいものがいいでしょう。ロゼワインを使うのは、イチゴの風味をUPさせるため。白ワインは、ロゼワインほどイチゴの風味とうまく合いませんし、赤ワインは酸味が強すぎるので、是非ロゼワインをお使い下さい。
<フレッシュ・ストロベリー・ティー・2杯分>
茶葉・・・ティースプーン2杯弱(ディンブラBOP)
水・・・350cc
イチゴ・・・小粒2個
ロゼワイン・・・ティースプーン1杯
①イチゴは横に5mmくらいの厚さにスライスする。
②へたのついた一番上の部分を温めたカップにいれ、ロゼワインを1/2杯づつかける。
③温めたポットに残りのイチゴを入れ、その上に茶葉を入れ、熱湯を注ぐ。
④約3分蒸らし、茶こしを使ってカップに注ぐ。
(紅茶コーディネーター 吉野留美/絵:吉田たつちか)
2004-05
「ボケ」と「ズレ」
第二次世界大戦中、アメリカ合衆国大統領、フランクリン・デラノ・ルーズベルト は、この大戦の最中に亡くなったことから、ノルマンディー上陸作戦や、ヤルタ会談でのソ連へのシベリア参戦要請などを始めとする、一連の決定は、果たして、正常な思考の元で為されたのか?ということが言われているようです。
ノルマンディ上陸作戦は、1944年(昭和19年)6月6日、敗色濃厚の感が強くなってきたドイツにとどめを刺すべく、連合軍によって為された、ヨーロッパ本土への強襲上陸作戦です。ところが、実は、当時、相手方であるドイツ側には、もう一カ所、別の上陸予想ポイントがあったそうです。
それが、パ・ド・カレー地区です。
当時、ヒトラーを始めとするドイツ首脳も、ここを連合軍の上陸予想地区の第一に掲げ、実際に連合軍がノルマンディに上陸したときも、一部の司令官の中には、これをパ・ド・カレー上陸の為の陽動作戦だと思い込み、早期の反撃を指示しなかったとさえ言います。
それほどに、パ・ド・カレーが重要視された。その理由は「イギリス本土から大陸への最短距離である。」、「空軍・海軍からの支援が受け易く、港も確保し易い。」、「イギリスにとって脅威であったドイツ側のロケット兵器基地がある。」ということと、もうひとつ、何より、この地は「ライン川からドイツの心臓部にかけての最短距離。」であったことです。
つまり、ここを攻撃することは、ドイツ心臓部への最短距離でもあることから、ドイツ側の頑強な抵抗が予想されるとしても、結果として、早く戦争を終わらせることが出来た可能性もあったわけです。
となれば、ソ連のベルリン進駐は間に合わなかった可能性も有り・・・。
さらに、その上、連合軍はミスを犯します。
連合軍は、ノルマンディ上陸後も、一路、首都ベルリンを目指すことをせず、まず、残存するドイツ軍部隊を撃破することを優先し、ベルリンから90度曲がって、残存部隊に殺到してしまったことです。
その間に、ソ連軍が「腐っても鯛!」とばかり、ベルリンを制圧してしまったことで、その後の東西冷戦と軌を一にして、ドイツの東西分割が決まってしまったと言われています。
その後、翌1945年2月4日からのヤルタ会談を経てドイツ降伏の1カ月前、日本降伏の4カ月前の4月12日昼ルーズベルトは突然、63歳で脳溢血により任期半ばで世を去ります。
この点について、私見を言わせて頂くなら、ルーズベルトの頭脳は、やはり、正確な判断ができない状態であったと思います。
私自身の体験としても、こういったルーズベルトのような症状は、いきなり、痴呆というものになるのではなく「ボケ」というよりも、「ズレ」という形で出てくるもののようだからです。
日常会話には支障はないから、極々、身近な一部の人以外このズレには気づかないのですが、逆に、家族や秘書など身近にいるものにはよくわかります。
ところが、こういう英雄の微妙なズレは、そういう身近ではない人たちには、なかなかわかってもらえないんです。
ズレた決定が過去の実績と相まって、深謀遠慮とさえ映る・・・。
さらには、困ったことに、ズレに気づいたところで、いくら異議を唱えようとも、逆に意固地になって一喝される・・・老人特有の症状です。
(文:小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)
2006-05
人に優しい、「土佐藩」
今年の大河ドラマ「龍馬伝」が、なかなか好評のようですね。私も「娯楽作品」としては毎週、楽しく見ています。
特に、武市半平太とその一派が、何かあるとすぐに目を吊り上げて「攘夷!」・・・と叫ぶシーンなどは、現代の、ネットなどで過激な意見を吐いている人たちと二重写しに見えます。(この手の輩が中途半端な理論武装を振りかざすところも、また、底の浅さが露呈したときのヒステリックな反応もまったく同じに見えます。)
もっとも、実際の武市がどの程度、本気で攘夷思想を推進する意思があったのかは別にして、彼には「攘夷」を唱えなければならない「事情」があったのは事実でしょう。
まず、土佐藩という藩は歴史的に関ヶ原の戦いでの勝者側である山内家武士団が進駐することによって始まった体制だけに、上士の下士に対する抑圧は他藩に比べても著しかったと言われており、また、一旦定着した支配体制が堅牢な物であればあるほど、下層に置かれた者がはい上がるのは、事実上、不可能に近く・・・。
となれば、その憤懣も一方ならぬものだったでしょうが、そんな時に、土佐藩の上部団体である徳川将軍家とは別系列になる天皇家が、将軍家とは違う意向を持っていることがわかったわけですから、これは抑圧されている側にとっては文字通り、千載一遇の好機だったでしょう。(そういう視点で見れば、楠木正成が哀しいまでに献身的に南朝方に尽くしたことも理解できるような気がします。)
また、上士と下士の間には厳格な一線があると言ったところで、上士の数だけでは限りがあり、一旦、有事の際には下士も動員しないことには絶対数が不足することは明らかなことから、下士と言えども「殿様(体制)を守る」という意味での「防衛」を唱えることは、ちょうど、今の中国やロシアなどに置ける「愛国心」のようなもので、官憲側も安易に取り締まれない・・・という面があったでしょう。
ただ、その土佐藩ですが、まったく奇妙な藩ですね。
それほどに下士を抑圧したくせに、坂本龍馬、武市半平太はおろか、彼らよりさらに一段下の出である岩崎弥太郎までも、しっかり江戸遊学を許している。
いくら有事の際には一翼を担う・・・と言ったところで、剣術修行なら金メダルを獲ってくる訳でも無し、藩内で十分であり、学問したところで幕僚に登用するわけではないわけで、被支配者階級が都会へ行くなど、百害あって一利なしで、よくぞ許したものだと思います。
本来、支配者階級にとって、被支配者層が余計な知恵を付けるのは迷惑至極な話であり、遊学どころか、外部情報からは一切の情報途絶状態に置いておくべきで、実際、彼ら下士が「攘夷」だの「天皇」だのと、余計な情報を知ったからこそ、下士の発言力拡大からやがては大量脱藩などという形に繋がってしまったわけで・・・。
この点、古代、大和朝廷などは朝鮮半島や中国大陸からの使節が到着すると、自国の民と親しく交わったりせぬよう厳重に隔離したと言いますし、鎖国を導入した江戸幕府にしても、国民が必要以上に清国人やオランダ人と交流を持つことに神経質なまでに制限を加えてます。
そう考えれば、土佐藩というのは随分と「人に優しい藩」だったんだな・・・と。
(文:小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)
2010.05
無用の用ならぬ無能の能
「果たして、理論家のTOPの下に実践派の補佐役が付いた方がいいのか、それとも、実践派のTOPを補佐する形で理論派の参謀が付いた方がいいのか」・・・・・。すなわち、智将の下に猛将が付くべきなのか、猛将の下に智将が付くべきなのか?。これは、実は、結構、以前から考えていたことで、特に学生時代、三国志を読んでいて強く思ったことなのですが、これはある意味、理論が先か、実践が先か・・・といっていいかとも思います。
となれば、「理論と実践とはどちらが欠けてもいけない車の両輪である」・・・という自説に照らせば、もちろん、両方優秀な人であるのが一番、理想なのでしょうが、それは現実社会では必ずしも実際的ではありません。(かつて、兵法評論家にして私が師と仰ぐ、大橋武夫氏は三国志に関する著書の中で「曹操は百万の大軍の総司令官であり、諸葛亮は百万の大軍の参謀総長であった」と述べられたことがありましたが、同時に「この二人が組むことが一番、理想形だったろうが、曹操では諸葛亮の保護本能をくすぐることがなかったであろうから、この組み合わせは難しかったであろう」ということを述べておられました。諸葛亮が推戴した劉備は決して、切れ者ではなかったが人徳と決断力だけは持っていた人物で、それが言うならば、劉備という男の「可愛げ」・・・であったろうと。誰かが言ってましたが、これこそ、「無用の用ならぬ無能の能」であろうと。)言ってましたが、これこそ、「無用の用ならぬ無能の能」であろうと。)その意味では、理想的・・・、あるいは、ベストという形はおそらく、存在しないのでしょうが敢えて、ベターという視点で言えば、私的には、「智将を補佐する形で勇猛な部将が付いた方が良い」ように思います。
敢えて、政治感覚のみの人と、勇猛なだけの人に極論すればわかりやすいかと思いますが、その点で、好例となるのが、源頼朝と義経、石田三成に島左近、アウグストゥスとアグリッパのような関係でしょうか?
一見、決断力に富む軍事的能力が高い人がトップに立ち、政治的能力の高い人が細部を詰めていった方がいいようにも思いますが、この場合、勇猛なだけの人に判断能力があればいいのですが、判断が付きかねる場合、また、こういう人ほど得てして妙な猜疑心を持ったりするもので、そうなると、やはり、誤った判断を下しかねないように思えます。
項羽と范増の関係がその典型でしょうか。項羽は范増の献策を活かすことなく、逆に敵の計略にひっかかり、范増を殺してしまうことにも成りかねないからです。(史書はそう伝えてないみたいですが) となれば、智将の下に勇猛な部将が付いた方が弊害が少ないと思うのですが、如何でしょうか?
(文:小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)
2009.05
福澤諭吉は勝海舟が嫌いだった?
明治草創期、新政府で勢威をふるった薩摩・長州の二大派閥。
薩摩人は、新政府構築についての意見を勝 海舟に仰ぎ、長州人は福澤諭吉に求めたといわれています。
二人は、まさしく、当時を代表する新時代の知識人だった。
勝も福澤も、共に、当時の社会体制にあっては優遇された立場からのスタートではなかったこともあり、門閥優先の封建制度を激しく嫌悪しており、優れた能力者同士、一度出会えば、すぐに肝胆相照らす仲であったように思えるのですが、実際には、両人の仲はあまり良好なものではなかったようで、特に福澤は、勝が維新後に栄達を得たことを批判するなど、生涯にわたり批判的でした。
この、福澤の「勝嫌い」は、元を辿れば万延元年(1860年)、咸臨丸での太平洋横断に始まります。
このとき二人は、遣米使節団の一員としてアメリカ合衆国へ渡ったのですが、後に福澤をして、「蒸気船を初めて目にしてから、わずか7年たらずで、日本人の手によってのみ行われた世界に誇るべき名誉」と言わしめたほどのこの大航海ですが、実は、初めて経験する太平洋の荒波の前には、日本側乗組員の大半はまるで使い物にならず、事実上は、同船していたアメリカ側乗組員の手によって、相当の部分が運行されていたとか。そして、この点は事実上の指揮官として、また、海軍通の第一人者を自認していた勝も例外ではなく、特に、伝染病の疑いが懸念されたこともあって、航海の大半を自室に閉じこもって終えたのに対し、逆に福澤は医学的知識が豊富だったこともあって、船酔いもせず病気にもならなかったことで、福澤の、勝を見る目は太平洋の海面よりも冷たかったでしょうか。
さらに、福澤の目を厳しくしたのが、勝が艦長・木村摂津守喜毅に次ぐNO.2として、事実上の操船指揮官であったのに対し、福澤は、その、木村の従者として、自費での乗船だったことでした。
そういうと、従者待遇への不満が原因であったかのようですが、ことは勝の「上司」にして福澤の「主」である、この木村という人物に起因します。
木村喜毅は、勝・福澤と違い、浜御殿奉行の嫡子という名門の家に生まれました。従って、叩き上げの実力派を自認する勝からすれば、木村という男は、「名門の出」というだけで艦長の役職を与えられた唾棄すべき存在であり、このため、勝はこの航海中、木村を露骨なまでに無視・・・、というよりも、いじめ抜きます。
しかし、一方で、木村は、元々、幕臣でも何でもない福澤の乗船を許したくらいですから、身分を鼻に掛けるだけの無能な人物などではなく、航海中も、外に出るときは福澤を従者として扱ったものの、一旦、自室に戻ると、年下の福澤を自分と同じ椅子に座らせ、「師」として遇し、真摯にその意見を聞いたとか。
これなどは、「同じ価値観を持つ一級の人物同士でも、見る位置が違えば、これほどに違って見える」・・・という好例でしょうか。
従って、福澤からすれば、勝というのは、木村の人となりを見ようともせず、「ボンボンだから無能」と決めつけ、ことあるごとに偉そうなことを言うくせに船酔いばかりで何も出来ない嫌な奴以外の何ものでもなく、一方で、勝の度重なる嫌がらせにも温顔を崩すことなく耐えている木村の姿・・・。たぶん、私が福澤だったら、たとえ、勝の学識や人物は認めたとしても、「こいつとは、一生、付き合うことはない」と思ったでしょうね。もっとも、勝からすれば、木村はともかく、何で自分が福澤からこんなに嫌われているのかは困惑ものだったでしょうが・・・。
(文:小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)
2008.05
権限が集中することの危険と効用

以前、橋下徹・大阪市長が「独裁が好ましい」というような発言をして、物議をかもしたことがありましたよね。
まあ、実際に演説を聞いた限りでは、それほど、目くじらを立てるほどではなかったように思いましたが、とかく、こういう物は独り歩きしてしまうもののようで・・・。
ただ、それとは別にナポレオン三世の統治下でも皇帝独裁の頃が一番、実績が上がったという話があるように「独裁=悪」というつもりもありません。
権限が一人に集中している方が、正しいかどうかはともかく、結論が出るのは早いわけですから・・・。
無論、問題は「絶対権力は絶対的に腐敗しやすい」という言葉がある通り、当初は理想に燃えて始まった独裁であっても、とかく、時の経過と共に腐敗堕落に陥ってしまう・・・ということは今日でも世界中の独裁者がその悲惨な末路とともに示してくれているわけで、やはり何らかの目障りな存在というのは必要でしょう。(この点を、私が師と仰ぐ、兵法評論家の大橋武夫氏は「経営者にとって、もっとも嫌なことを言ってくれるのは労組である」と看破しておられましたし、その意味では、野党というのは時の権力にとっては健全性を担保するという意味では無くてはならない存在なのでしょう。)
実際、ソニー、シャープ、パナソニック・・・などなど近年、日本企業が軒並み苦境に陥っている一方で、サムスンに代表される韓国企業の躍進・・・を考えれば、これは、必ずしも円高ばかりが原因ではなく、やはり、意思決定機関の弱体化ということも一因にあるように思います。
ソニーの社長・会長を歴任した出井伸之氏は、「社長だからって大組織は思うようには動かせない」・・・ということを言っておられましたが、それはそうなんでしょうね。
思えば、かつての本田宗一郎、松下幸之助などの創業者は社長であると同時に大株主でもあったわけで、自分が「右」と思えば「右」と出来たのでしょうが、その後の社長となると、他の重役は少なからず、かつての同僚ということも有り得る話で、なかなか、社長の独断で決裁するというわけにもいかないのでしょう。(トヨタが創業家から未だに社長を出し続けていることの背景がここにあると思います。)
その為には、社長に就任することが決まった時点で新社長は金融機関から個人的に融資を受けて、自社の新株を必要かつ可能と思われるまで買うことが出来るようにする・・・というのも一案でしょう。
無論、買う買わないは個人の自由で良いと思いますが、少なくとも、もう少しトップの任期中は権限と責任を集中させねば、企業としての競争力は保てないように思えてなりません。
(小説家 池田平太郎/絵:そねたあゆみ)2013-05
高級レストランでのマナー

結婚式や食事会、またはプライベートで高級レストランを訪れた時、マナーが気になりますよね。緊張して十分に食事が楽しめないこともしばしば。でも、ある程度の作法を知っておけば、食事中に困ることもないでしょう。今回はそんな高級レストランでのマナーを紹介したいと思います。
まず、レディーファーストを心掛けましょう。入店する時や座席に着席する時などは、女性が先です。ワイン等の飲み物を注ぐ時も、男性が行なうのがマナー。そして注がれる女性側は、ワイングラスを持ち上げないようにしましょう。
コース料理では、テーブルに沢山のナイフとフォークが並べられています。内側と外側、どちらから使えばいいのか迷ってしまいますよね。基本的には外側から使います。そして右手でナイフ、左手でフォークを持ちます。ただし左利きなら逆でもかまいません。もし落としたら、自分で拾わずに、ウエイターに相図して新しい物を持ってきてもらいましょう。
スープは音を立てないで飲みます。肉をナイフで切る際にも食器の音を立てないようにします。そして、食べるスピードを同席している人に合わせます。皆が食べ終わったら残さなきゃいけない、と言う訳ではありません。食事中にさりげなく相手の皿を観察し、食べる速度を合わせるようにしましょう。
トイレは入店する前に済ませているとは思いますが、どうしても食事中に行きたくなってしまったら、メイン料理を食べ終えてから席を立つのが望ましいです。その場合、ナプキンを椅子の上に置きます。テーブルの上に置くと、食事は終了という相図になってしまうからです。
一部を紹介させていただきましたが、このような細かいマナーを知ると、高級レストランでの食事が本当に堅苦しいものに思えてきますね。しかし、マナーというものは絶対的なものではありません。一番大切なのは、その場の雰囲気に合わせること。誰もが食事を
楽しめるよう、配慮することが肝心なのです。
(フードアナリスト 愛川いつき/絵:そねたあゆみ)2013-05
犬に残飯をあげる是非
最近、姪とメールのやり取りをするようになった。料理つながりで話が盛り上がっている。
ところが、我が家にいる連れっ子ならぬ連れ犬の件で、意見が分かれた。私は、犬は外で飼うこと、食事は人間が残した残飯を主にすることを受け入れの条件にした。
ところが、いままで部屋で飼われていた犬は、せっかく買った新築犬舎を嫌い、夜中じゅう吼えている。ついには町内会長から、近所で、犬を虐待しているとの通報があったので善処してもらいたいとやんわりと忠告された。やむなく、家の中に入れ、一匹は居間に、一匹は玄関の中に置いたダンボール箱が居場所となり、新築犬舎は2棟とも使われじまいだ。
数年前、仕事で台湾を訪れた際、朝市で、黒い犬(台湾犬)が、引き縄も着けずに自由に闊歩しているのに、何度も遭遇した。人々は別に怖がりもせず、さりとて、特別、関心を寄せるでもなく、犬が町に溶け込んでいる風情だ。台湾の知人に聞くと、犬を縛っておくから、犬がストレスを感じて吼えたり、悪さをするのだという。また、店の前で犬が糞をしても、別に咎めることなく、店の人が、気が付いたら処理するという。犬が糞や小便をするのが当たり前という大陸的な心持なのである。
そういえば、私が子供のころ、紐につながれていた犬はいなかった。そのためか、年に何度かは、犬のドッキング風景を目撃した。そういう場合は、子供も大人も犬に水を掛けて、引き離そうとするのだが、容易には離れない。
当然、ドッグフードなるものは売っていないので、家人の残飯を食すのが普通であった。かくて、生ゴミなど生じることも少なく犬猫がゴミ処理の一翼を担っていたのだ。海辺では今でも、魚調理後の残ったはらわたは海岸に捨てる。カラスや海鳥がすぐにやってきて食べつくすのだ。姪曰く、ドッグフードでなければ、犬の寿命が短くなる、ましてや、残った味噌汁をあげるなど言語道断、高血圧になって早死にすると、私が殺犬者であるかのごとく怒る。
我が家の犬は、残飯を与えてからというもの、ドックフードには見向きもしない。残飯がなく、ドックフードだけだと分かる時だけやむなく食べる程度だ。ドッグフードより残飯の方が美味しいのだ。まずいドッグフードを食べて、少しばかり長生きしたからって犬にとって幸せではあるまい。残飯を食べている犬の方が世界中では多いはずだ。
犬が紐につながれ、囚人のような生活をしているものだから、一生、童貞、処女のままの不幸な犬が少なくない。
田舎暮らしで是非やりたかったことが、鶏を飼い、毎朝、産みたての卵を食することであったが、これは犬を飼う以上に難しい。近所の老夫婦の高床土台柱内には金網が張ってある。昔、ここで、鶏を飼っていたが、周りに家が建て混んできてからは、鴇(とき)の声が近所迷惑になるからと、やめたのだそうだ。カラスや鶯の鳴き声は我慢できて鶏の鳴き声を我慢できないのも不思議だが・・・・。
昔、栃木の湯西川温泉など、平家の落人部落では、鶏を飼うことや米のとぎ汁を川にながすことが禁じられていた。源氏方に知れるのを恐れたからだ。現代はまさに、ほとんどの場所が平家の落人部落状態になってしまったようだ。
犬の幸せ優先といいながら、実は、飼い主の利便性優先なのではあるまいか。人間の価値観で犬を飼うのはいかがなものか。
(文:ジャーナリスト 井上勝彦/絵:吉田たつちか)2009.05
簡単に始まってなかった武士の時代

織田信長を特集した雑誌の中に、信長を評して「近代への扉をこじ開けた男」という紹介が為されていたことがありましたが、そこには続けて、「日本の歴史の中でも他にこういう人物を探すとすれば平 清盛くらいしかいない」ということが書いてありました。
その意味では、信長が近代なら、清盛は「中世への扉をこじ開けた男」と言えるのでしょうが、一方で、米タイム誌が「2000年までの千年紀(ミレニアム)に偉大な功績を残した人物」として採りあげた中で日本人で唯一、そこに載ったのが源 頼朝だった・・・という話があります。
確かに、「革命」という物を単なる権力闘争ではなく、階層の流動化という意味での階級闘争と定義づけたなら、日本の歴史上では明治維新よりもむしろ鎌倉幕府開闢の方が適当だとさえ言えるわけで、その意味では頼朝が日本人で唯一、そこに載るのはそれほどおかしな話でもないでしょう。
ただ、一口に、「明治維新まで700年間続いた武士の時代」などといいますが、それは頼朝が鎌倉の地に武士の政権を樹立した段階でいきなり確立したわけではなく、具体的には、頼朝の時点では源平合戦で勝利を収めたとはいえ、その勢威はかつての奥州藤原氏と同様に東国に割拠した地方政権の趣が強く、むしろ、頼朝の死後、権力を掌握した執権・北条義時によって承久の乱において朝廷方の討幕軍が逆に鎌倉方に撃破されたことの方が武士の全国支配という意味ではエポック・メイキング的な出来事だったように思えます。
その意味では、後の戦国乱世が、信長・秀吉・家康という英傑三代によってようやく収斂していったように、武士の時代の始まりも清盛が切り開き、頼朝が基盤を作り、義時によって一応の確立を見た・・・というべきで、その意味では、武士の時代の始まりは清盛にこそ求められるのではないでしょうか。
ちなみに、その100年以上後に、再び朝廷権力の再復を目指した後醍醐天皇によって鎌倉幕府が倒れたことを思えば、朝廷の勢威がいかに根強かったかがわかるでしょうか。
もっとも、皮肉なことに、そのことが武士の時代の定着をいよいよ後押ししたと言え、即ち、後醍醐天皇を吉野に追い新たな権力者となった足利尊氏は、反対を押し切り、鎌倉ではなく京都に幕府を開きますが、このことにより武家政権という物はようやく全国区になり得たわけで、その後、その孫の三代将軍・足利義満の時代になり、朝廷は全国の荘園や公領からの税の徴収を自ら行えず、幕府に依存したことで、朝廷の弱体化は誰の目にも明らかになり、ここに名実ともに武士の時代が成った・・・と。
つまり、「ローマは一日にしてならず」と言いますが、清盛、頼朝の時代からここまで実に200年以上の歳月が流れていたわけで、そう考えれば、やはり、武士の時代の最初の扉を開けた・・・という点では清盛にこそ、高い評価を与えるべきだと思います。
(小説家 池田平太郎)2012-05
「情けが仇」の見本?
「新平家物語」のDVDを見る機会がありました。
若き日の仲代達矢扮する平清盛の乾坤一擲の気迫と、斜陽化してからの、やることなすことすべてが裏目に出るという閉塞状態が強烈に焼き付いております。
「清盛は頼朝を助けたばかりに、頼朝は平家を滅ぼしてしまった」という、巷間、言われる「情けが仇」の見本のように言われることについてですが、私は清盛が源氏の幼子を助けたというのは、決して間違っていなかったと思います。
なぜなら、保元・平治の乱という熾烈な権力闘争の後、人々は新しく権力者になった平家という武力新興階級に対し、どのような人たちなのか不安があったはずで、それに対する不安感を払拭し、政権発足早々の人心掌握に意味があったと思うからです。
私が学生時代に愛読した本の著者である大橋武夫氏も「平家の滅亡の原因は、よく敵に情けを掛けたことのように言われるがこれは違う。平家の滅亡の大きな要素は清盛亡き後、平家の側に清盛に代わる柱石がいなかったことだ。その意味では、清盛の長男で、器量人、重盛の早逝が惜しまれる。その証拠に、現に平家を都から追ったのは頼朝でも義経でもなく、木曽義仲なのである。」と書いておられました。
たしかに義仲の将帥としての能力は非常に高く、大橋氏は「義経よりは上」とさえ言っておられたほどで、頼朝や義経、範頼ら義朝の子らがいなかったとしても、木曽義仲(それがだめだったとしてもあるいは他の勢力)によって、結局は滅んでいただろうと思います。
もっとも、ここまではいいとして、ここで私が疑問に思うのは、命を助けるのはともかく、なぜ伊豆になど流したのか?ということです。関東はもともと源氏の地盤であり、今は平家に靡いているとはいえ、湿った火薬庫に、火の気を投げ込むようなものではなかったでしょうか?私なら、頼朝は京に留め置きます。
さらにベストの選択は貴族制に代わる武家政権の樹立という源平共通の利害目的を掲げ、その上で、一門の娘をあてがい(義経らも仏門になど入れず)、平家一門(武家側と言いかえても)に取り込みます。
それができないのなら、やはり殺すべきで、それをやらないなら、源氏の基盤である東国ではなく、平家の基盤である西国へ流すべきだったと思います。
(小説家 池田平太郎絵:吉田たつちか)2007.05
低燃費車が人気沸騰
地球温暖化問題がクローズアップされている。最近の異常気象もこれが原因と推測されており、温暖化の原因の一つとして、自動車の排出ガスが槍玉にあがっている。
かくて、自動車メーカー各社は低燃費自動車の開発競争に突入、これの成否がシエアにも反映している。ハイブリッド車や軽自動車の販売シエアが伸びているのだ。
最近、国土交通省と民間のIT会社(アイ・アール・アイ コマースアンドテクノロジー)から、あいついで「低燃費車ランキング」が発表された。
国交省は、自動車ユーザーの省エネルギーへの関心を高めるとともに、燃費性能の優れた自動車の開発・普及を図るため毎年、現在販売されている自動車の燃費性能を整理した冊子「自動車燃費一覧」を作成するとともに、燃費の良いガソリン乗用車ベスト10を公表。(詳細は下記サイト参照)
平成17年末現在販売されている自動車のうち、最も燃費の良いガソリン乗用車は小型・普通乗用車ではインサイト(ホンダ)、軽乗用車ではミラ(ダイハツ)だった。
後者の調査はインターネットと携帯電話を使って調査しているもので、マイカー情報管理サービス『e燃費』(http://e-nenpi.com/)の2006年1月~ 12月の1年間における燃費データベース分析結果をまとめたもの。e燃費は、ケータイでマイカーの健康管理ができる便利サービス。簡単な入力でオイルなど消耗品の交換時期がわかったり、他のユーザーと燃費を比較したり、最新のクルマニュースを画像満載で毎日更新するなど、楽しくて便利なサービスだ。無料版と有料版があるが、とりあえず無料版を試してみよう。
これによると、国産乗用車部門では、プリウス(トヨタ)、シビックハイブリッド(ホンダ)、マーチ(日産)の順。調査方法が異なるものの、ハイブリイド車が上位を独占している。
小生も、昨年、プリウスを購入したが、注文してから納車まで4ケ月以上もかかった。担当セールスの話では、ガソリン価格の高とまりの影響で、特に米国での需要が急進しており、米国輸出を優先しているとのこと。発売当初、1台売るたびに数10万円損したというプリウスだが、今や同社の稼ぎ頭だ。損して得取れとはこのことだ。ちなみに、国交省やメーカーデータでは35.5(km/l)、e燃費調べでは23.4(km/l)、小生の車では21.4(km/l)だ。
(国土交通省)http://www.mlit.go.jp/kisha/kisha06/09/090328_.html
(ジャーナリスト 井上勝彦/絵:吉田たつちか)2007.05