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1

2009年、秋・・・・・・。

 

10月下旬にしては寒くない。ウインズはきょうも人で一杯だった。

桜井栄光は新聞を両手で握り締めながら、売場窓口の前にある画面を見上げていた。

画面に映るサラブレッドは皆美しく、歩き方も堂々としていて力強い。

「迷うぜ」

彼は中学生のときから競馬をスポーツとして観戦していた。知らぬは親ばかりなりで、そういう中学生は珍しくない。

20歳になると晴れて馬券を買った。キャリアは今年で7年だ。

桜井栄光は、画面に映し出されるオッズや馬体重を新聞に書き込んでいった。

「ふう」

桜井栄光 Sakurai Eikou.

見た目はギャンブラーというより、売れないロックンローラーという感じだ。

黒髪は洒落ていてファンキーな雰囲気を醸し出している。桜井の隣に男が並んだ。

「マサルさんは何買いました?」桜井が聞いた。

「オレはこのレースは買わない」

「それができるからマサルさんは黒字なんですね。オレみたいに東京と京都で両方24レース全部手出しちゃうから、当たっても大赤字なんですね」

「24レースは無謀だよ」マサルは明るく笑った。

桜井栄光も引き締まった体をしているが、マサルはスプリンターのごとく逞しかった。

飛志勝 Hishi Masaru.

名前も珍しいが性格も珍しかった。正真正銘アメリカ生まれの日本人。

マサルは桜井と同じ会社にいたが、会社と闘って解雇された。

短い黒髪に日本人離れした精悍なマスク。自信満々の笑み。会社で勤務していたときから、その素性は謎が多かった。

 

 

 


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2

桜井が早口に言った。

「マサルさんが辞めてから、倉庫にいい子が入りましたよ。マサルさん好みのボンバーガールが」

「オレはじゃじゃ馬タイプは苦手だ」

マサルは桜井の先輩。37歳だが若々しく、目も生き生きと輝いていて、ハリウッドスターのようだと皆から言われていた。しかし会社の上層部は、マサルのことを「会社を傾かせる怪物だ」と批判していた。

桜井が一生懸命アピールする。

「じゃじゃ馬といってもルックスは抜群ですよ。まあ、かわいくないじゃじゃ馬なんかだれも相手にしませんが。ハハハ」

「暴言だな」マサルが笑顔で呟いた。「女は顔じゃない。ハートだ」

「確かに昔から男は度胸、女はアンヨって言いますもんね」

「言わない」

ファンファーレが鳴った。

「そのボンバーガールの名前は?」

「國里尚。ハタチです」

「クニザトナオ」

「気性激しいですよ」桜井栄光は自慢げに話した。「キレるとよくオレの頭を引っ張り棒で叩きまくるんです」

「危ない子だな」

画面はスタート地点を映し出す。各馬はゲートの中に順次入っていくが、暴れて入らない馬もいる。

「マサルさんに一度合わせたいですよ。暴れ馬だけど純ですよ」

「エーちゃんの説明だと性格がよく掴めないな」

「もっとわかりやすく言うと、プライムステージを人間にしたような感じです」

「全然わかりやすくない」

 


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3

スタートした。桜井栄光は会話をやめて一緒に走る。しかし馬券を買っていないマサルが話しかけてきた。

「エーちゃんはその子はダメなのか?」

桜井は画面と新聞を交互に見ながら答えた。

「オレの本命は別にいますから」

マサルも画面を見ながら話す。

「エーちゃんの本命。亜美か?」

「何を言う気ビバーチェ。涼子ですよ」

マサルは感心した。

「なるほど涼子チャンか。あの子は魅力的だな」

「魅力的?」桜井は一瞬マサルを見てから画面に目を戻した。「魅力的ってまさかマサルさん?」

「エーちゃんが出走するレースには、オレは出ないよ」

「ありがたき幸せ」桜井は頭を下げた。「マサルさんの大外一気のゴボウ抜きは破壊力抜群ですからね。同じレースは走りたくないです」

桜井は画面に見入った。恋のレースも大事だが、まずは目の前の競争だ。

第4コーナーをカーブして最後の直線を駆け抜ける。

「よし取れる。そのまま、そのまま!」桜井が画面に向かって絶叫した。

50歳くらいだろうか。スーツを着たサラリーマン風の男が、桜井の隣で叫ぶ。

「差せ、差せ!」

「そのまま!」

「差せ!」

「そのま・・・NO!」

桜井が買っていた馬は後ろから来る二頭の馬に交わされた。

 


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4

「よし取った!」

男は満足の笑み。桜井は放心状態。男は勝ち誇った笑顔で桜井を見た。

「明日のメインも教えてあげようか?」

桜井栄光はハズレ馬券と新聞を宙に投げた。

「わあああ!」

「ダメだよ」マサルが腕を掴んで止める。

「あ、そういう姿勢じゃ一生当たらないね」

男は笑いながら去っていく。桜井は床に落ちた新聞にストンピングの嵐。

「どこに印つけてんだバカヤロー!」

「人のせいにしたか」マサルが笑顔で呆れる。

「てい、こらあ! ほらあ!たわけこらあ!」叫びながら新聞を踏みつける桜井栄光。

「何でそこで長州力が出てくるんだ、幅広いな」

「やるかこらあ! タコこらあ!」

 

土日で大切なお金を失い、月曜日の朝は精神的ダメージを負った状態で出勤。良くない生活のリズムだった。

桜井栄光が勤務する冠田ゴム工業株式会社は、毎週月曜日に朝礼を行う。

都会にある小さなビルの3階が本社で、朝礼はそこで行われる。

本社には、社長、専務、部長がいて、営業や事務員が働いている。その本社から歩いて5分のところに倉庫がある。桜井はそこで働いていた。

 


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5

朝は8時半から始まる。月曜日は9時5分前になると、皆でゾロゾロと本社まで歩いていく。

倉庫の社員が本社に到着すると、朝礼が始まった。

冠田社長の面白くない話。相川専務の毎週同じ挨拶。そして黒田部長の叱咤と行くはずだったが、いつもと違ってニコヤカだ。

眼鏡を直すと、黒田部長は人事を紹介した。

「えー、埼玉工場で製造の責任者をしていた岸守涼子さんが、きょうから本社勤務となりました」

若い女性が一歩前に出た。やや照れた感じで皆に挨拶した。

「岸守です。よろしくお願いします」

彼女は深々と頭を下げた。

岸守涼子 Kishimori Ryouko.

肩までの黒髪。穏やかな表情。控えめな雰囲気に見えるが、涼子は反骨心が旺盛だった。

冠田ゴム工業株式会社は、東京本社と倉庫のほかに、埼玉工場と神奈川工場がある。総勢100人の会社だ。

涼子は桜井と同期だった。年齢も同じ27歳。

マサルが言った通り、涼子は魅力的な女性だ。笑顔が素敵で、責任感が人一倍強く、性格は優しかった。

朝礼が終わると同時に倉庫のメンバーがロケットスタート!

バタバタと部屋から出て行き、エレベーターでもめる。

「ほらブザー鳴っちゃう、ブザー鳴っちゃう」桜井がうるさい。

ブザーが鳴ってしまった。

「何で5人なのに鳴るんだよ。コクオーが馬体重オーバーしてるからだな」

「うるせえ。静かに乗れば大丈夫だ」

ブー!

「ほらみろ」

「黙れ。テメーの声がうるせえからだ」

「声で鳴るかバカ!」

 

 

 



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