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怪物と出会った日

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1

ここは社長室。

大きなデスクの前に冠田社長がすわる。向かって左側に相川専務。右に黒田部長が立っていた。

これがいつもの位置だ。三人とも眼鏡をかけている。桜井栄光は陰で「メガネトリオ」と呼んでいた。

冠田社長が言った。

「黒田君。倉庫はどうにかならんかね」

「はい・・・」

柏原を係長にして、倉庫の責任者にしようとしたが、その案は完全に消えた。

「やはり柏原君のように役職でガツンと行くタイプは、3分で倉庫から突き出されるハメになりますからな」

黒田の弱気を、相川専務は指を差して責めた。

「君がそんな甘やかしているからダメなんだよ。ねえ社長」

急に顔を向けられ、冠田は答えた。

「マサル君の影響で、みんなは幹部を枝葉だと思っているからね」

相川は険しい表情になった。

「飛志の話はよしましょう。彼の言う通りにしたら、会社は潰れますよ。彼はただの理想主義者です。組織というものをわかっていません」

「マサル君のあのセリフがまだ忘れられないよ」社長は両手を額に当てた。「組織に上下関係を持ち込む者は、悪魔の化身・・・・・・か」

「社長」相川が焦る。「感動しちゃダメですよ。彼が会社にいたら、組織は崩壊します。辞めさせて正解だったんです。ああいう怪物を入れてはいけなかったんです」

黒田は何かを言いたそうな顔をしたが、話題を変えた。

「社長。岸守さんはどうです?」

 


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2

「どうって?」

「倉庫の責任者に」

「何を言うんだね!」相川が怒る。「飢えたハイエナの群れに美しいカモシカを投げ込むようなものだよ」

「私は適任だと考えます」黒田が社長に言った。

「君!」

相川の反対を押し切って黒田は力説した。

「実は彼女と桜井君は同期で親友なんです。桜井君は彼女に協力しますから、間違っても岸守さんがいじめに遭うことはありません」

「なるほど」冠田社長は興味を持った。「岸守さんなら威張らないしね。黒田君と岸守さんで、ちょうど鞭とローソクになるしね」

相川が腰をかがめた。

「社長。飴と鞭です」

「そうそう、飴と鞭、両方が大事だからね」

「しかし役職が主任では」相川が言った。

「社長」黒田が意見を述べる。「わが社初の女性係長となりますが、岸守さんなら十分その資格があると思います」

冠田は感心した。

「黒田君。君はだれとだれが仲良しとか、一人ひとりの性格や実力を把握していて、なかなか素晴らしいよ」

「あ、ありがとうございます!」黒田は感激した。

 

 


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3

善は急げ!

早速、岸守涼子は社長室に呼ばれた。

彼女は、特にミスをした覚えはないが、緊張した面持ちで社長室に入った。

「岸守さん」冠田社長が言った。

「はい」

「私は入社以来ずっと君を見てきたが、皆に優しいし、新人には懇切丁寧に仕事を教えるし、素晴らしい人がわが社に来てくれたと思ったものだよ」

思いがけない話に、涼子はかしこまった。

「ありがとうございます。嬉しいです。でも私なんかまだまだです」

顔を紅潮させて一礼する姿も美しい。三人は思わず見とれた。

「そこでだね。君を、係長に昇格させたいんだ」

「・・・係長!」

涼子は目を丸くした。嬉しいというよりも驚きが先だ。三人は笑顔で涼子を見つめる。

「受けてくれるね」

「しかし・・・」

ためらう涼子に、黒田がニコヤカな顔で言った。

「社長は実力で人事を決める人だから。そんなに驚くこともないでしょう」

冠田もすかさず返す。

「実は黒田君の推薦なんだよ」

「いえいえ」黒田は謙遜ではなく別の意味で慌てた。

 

 


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4

「部長」涼子は感動した顔で黒田を見つめた。

黒田は落ち着かないそぶりで目をそらす。涼子は社長を見ると、満面に笑みをたたえて質問した。

「でも、係長って、何をすればいいんですか?」

冠田の目が泳ぐ。

「黒田君。言いなさい」

「いやいやいや、社長から」黒田の笑顔が怪しい。

「じゃあ、相川君」

「私が言うんですか?」相川は咳払いをすると、涼子を真顔で見た。「君を、倉庫の責任者に任命します。おめでとう」

一人で笑いながら拍手する相川専務。重い空気を察知してやめた。

「・・・・・・そうですかあ」涼子が落胆の色を見せる。「そういうことでしたかあ」

散々持ち上げられてその気になってしまった自分にも腹が立つ。涼子は落胆が段々怒りに変わっていった。

「つまり、あたしに辞めろって言いたいわけですね?」

「何を言うの!」社長は慌てた。「そんなこと思うわけないでしょう」

涼子は怖い顔で冠田社長を見た。

「人事を断ったら首ですか?」

「まさか。黒田君。黙ってないで何か言いなさい」

「岸守さん。大丈夫だよ。倉庫は優しい人たちばかりだし」

「よく言いますよ!」涼子は目を剥いた。「部長が言ったんでしょ。倉庫は野蛮人の集まりだって!」

「野蛮人?」相川は指を差して黒田を責めた。「君! 自分の部下に何てこと言うんだね」

「野蛮人はまずいよ野蛮人は」冠田も顔をしかめた。「せめてゾンビの集まりくらいにしとかないと」

 

 

 


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5

相川がまた腰をかがめた。

「社長。ゾンビのほうがひどいと思います」

「ゾンビはかわいいじゃない」

「かわいい?」相川が首をかしげる。

「だって、ゾンビって、こうやって飛ぶ奴でしょ?」冠田社長は両手を前にして飛び跳ねる真似をした。

「あれはキョンシーです」

「キョンシー?」

「ゾンビとキョンシーは何も繋がっていませんけど」

「そうだっけ?」冠田は黒田にも聞いた。

「はい。ゾンビならまだ野蛮人のほうがいいと思います。ハハハ・・・」

バン!

「わあ!」

涼子が両手でデスクを叩いたので、社長も思わず立ち上がってしまった。涼子は直立不動の三人を睨みながら言った。

「社長」

「はい」

涼子の目が怖い。

「あたしは係長にも倉庫の責任者にもなりません!」

 


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6

「きょうから、倉庫の責任者として頑張ってもらことになった、岸守係長だ」

倉庫内で黒田に紹介され、涼子は緊張した顔で挨拶した。

「岸守です。よろしくお願いします」

涼子は深々と頭を下げた。不安な顔色を浮かべ、声に元気がない。

桜井栄光がすかさず言った。

「涼子チャン。オレがいるから心配すんな」

「頼りにしてます」涼子は力なく笑った。

黒田部長が口を挟んだ。

「桜井君。涼子チャンはないだろう」

「じゃあ、涼子係長」

「岸守係長って普通に呼べばいいじゃないか」

怒りそうな黒田を、涼子が止めた。

「いいですよ、自由な呼び方で」

「じゃあ涼子」

いきなりの呼び捨てに、黒田は桜井を睨んだ。

「いや、公私混同はいけない」

「混同?」桜井はすかさず踊った。「君はあ、足でピアノを弾いたことがあるかあ」

「やめろよ」尚が桜井の肩に右ジャブ。

「イテーなあ」

「桜井君」黒田が厳しく言った。「友達だからこそ、君が先頭切って彼女を立てるのが友情じゃないのか?」

 

 


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7

「一本取られたな」尚が桜井に笑顔を向ける。「今のは部長のほうが正しい」

「尚。いつから幹部の味方をするようになった?」

「幹部とか関係ない」尚は口を尖らせた。「正しいほうの味方だ」

思わぬ尚の攻撃に、桜井は反撃した。

「テメー、いつからゴマすり少女に変身したんだ?」

「そういうこと言ってるとぶっ飛ばすよ」尚が拳を見せる。

「あ、わかった。尚、テメー、ボーナスが近いからだろう。図星か?」

「何だと!」

これ以上の心外な言葉はない。笑う桜井に尚は襲いかかった。部長と係長の前なのに構わない。

「NO!」

尚は桜井の髪を掴むと、拳を脳天に連打する。ここは職場だ。あり得ない光景に涼子は笑顔のまま硬直した。

「わかった、わかった・・・」

「殺す」

尚は足を掛けて桜井を倒すと、上から顔面パンチ連打のポーズ。

「ギブアップ、ギブアップ!」

「何がボーナスだテメー!」

涼子は横にいる黒田を無言で睨んだ。黒田は涼子と目を合わせないように前方を見ていた。

 


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8

黒田部長は本社に戻り、倉庫のメンバーも作業を始めた。

桜井栄光は、涼子係長を一人ひとりに紹介して回った。

「涼子係長。そこにバッファローみたいな男がいるけど、名村国男。通称コクオーだ」

「ちゃんと紹介しろ」名村が睨む。

「涼子係長。コクオーは一見獰猛そうに見えるけど根は凶暴なんだ」

「おい。どこにフォローがあるんだ?」

涼子は礼儀正しく挨拶した。

「名村さん。よろしくお願いします」

「こちらこそ」

「コクオーの担当は出庫だよ」桜井が説明する。

「あ、出庫は大変なんですよね」

桜井は自分の部署に行った。

「オレの担当は海外部品の管理。で、そのボンバーガールの仕事は出庫」

「ちゃんと名前を言えよ」尚は桜井を睨んだ。

いよいよ来た。涼子は緊張した。桜井が明るく言う。

「紹介しよう。プライムステージです」

尚は鉄でできている引っ張り棒を掴むと、逃げる桜井を追い掛け回した。涼子はため息をつく。前途多難だ。

「バカ、プライムステージなんて最高の誉め言葉なんだぞ」

「うるさい!」

 

 


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9

引っ張り棒で殴ろうとする尚に、桜井は言った。

「尚、涼子係長に引っ張り棒の使い方を教えてやれ」

涼子と尚の目が合う。

「國里さん。よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

尚は不良少女とは違う。礼儀には礼儀で応えた。

「エーちゃんとは友達なんですか?」

「まあ、付き合いは長いからね」

尚は、部品が入ったケースの端に、引っ張り棒の先を掛けて、引っ張って見せた。すると桜井が自慢げに説明する。

「見たか涼子係長。いちいち台車に乗せて運ぶよりこっちのほうが数倍速いぜ」

「へー」涼子は感心した。「エーちゃんの発明?」

「そういうわけじゃないけど」

「重くて持てないケースもありますから」尚が言った。「これは便利ですよ」

「尚の場合は凶器に使うから一石二鳥だ」

尚が睨むと、桜井がまくる。

「涼子係長を見る顔とオレを見る顔が違うじゃないか。阿修羅男爵と呼ぶぞ」

「あしゅら?」尚が首をかしげる。

「尚。阿修羅男爵も知らないのか。ヒットマンラリアットだよ。それは阿修羅原。突っ込めよコクオー」

「知らねえ」名村が呟く。

尚は引っ張り棒を桜井に向けた。

「さっきから意味のわかんないこと言ってんじゃねえよ」

 

 


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10

桜井はとりあえず尚から逃げると、涼子を事務室に連れていった。

「そこにいるスターバレリーナは幹中亜美チャン。知ってるよな?」

「ええ」涼子は笑顔で言った。「亜美チャン、よろしく」

「大歓迎ですよ」亜美も満面笑顔だ。「涼子さんと仕事できるなんて嬉しい」

亜美は24歳。涼子よりも3歳年下だ。

「亜美チャンは電話の受付と事務的な仕事をしている」

桜井が事務室を出ると、名村が小声で聞いた。

「栄光。亜美は、スターバレリーナの意味わかってんのか?」

「トップシークレットだ。知ったら泣かされる」

桜井は倉庫の2階を見上げた。

「健三さん。ちょっと下りて来てください」

「何だ?」

「涼子係長に健三さんの作業の説明を・・・」

「バカヤロー! レース中だぞ」

仕事中はレース中という意味か。涼子は内心焦った。

(苦手かも・・・)

しかし桜井は笑顔で語る。

「健三さんにとっちゃ、チャイムはファンファーレだからな。次のチャイムが鳴るまで走り続けるんだ」

「素晴らしい」涼子は感嘆するしかなかった。

「健三さんの担当は入庫だよ」

 


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11

涼子は少し安心した。一人ひとりを見れば基本的に皆いい人ばかりではないか。野蛮人など一人もいない。

「涼子係長。実は健三さんを1階に下ろすのは簡単なんだ」

「簡単?」

桜井は重い金型を持ち上げる真似をした。そしてわざと2階まで聞こえるように大きい声を出す。

「重い。これは一人じゃ持てねえやあ!」

すると、藤山健三はすぐに下りて来た。

「どれだ?」

「これです健三さん」桜井が笑う。

「こんなもん」健三は重い金型を軽々と持ち上げた。「どこに移動するんだ?」

「この台車の上に」

健三は台車の上に金型を置いた。

「これくらい持てねえでどうする?」

涼子は、健三の怪力よりも桜井の臨機応変に感心した。

「健三さんは入庫だけど、出庫も手伝っている」

「あ、健三さん。よろしくお願いします」涼子は深々と頭を下げた。

「よろしく」健三が言った。「そうだ。涼子ちゃんの歓迎会をやるぞ」

涼子が驚いていると、健三は桜井の肩を叩いた。

「幹事を頼んだぜ」

 

 


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12

金曜日はどこの店も混むので、平日を選び、倉庫だけの飲み会を居酒屋で開いた。

名目は涼子の歓迎会だが、酒好きは飲めれば何でもいいのだ。

定時は5時半。残業はない。仕事を終えると、職場の近くにある居酒屋へ行った。倉庫のメンバーは常連客だ。

皆は座敷に上がった。

いちばん端に尚。尚の向かいの席はあいている。

尚の隣は亜美。亜美の向かいに桜井栄光。隣に涼子。その隣に藤山健三。その向かい、つまり亜美の隣に名村国男がすわった。

料理やビールが運ばれてきて乾杯した。

健三が聞く。

「エーちゃん。マサルは呼んだのか?」

「もうすぐ来ますよ」

「マサルさん来るの?」亜美が目を輝かせた。

「あたぼーよ」

社内1番人気の亜美が凄く嬉しそう。よく出る名前の「マサル」という男に、尚は興味を持っていた。

「この中でマサルさんと初対面なのは尚だけか」桜井が言った。

尚はすました顔で聞く。

「そういえば、あの柏原も怖がっていたね」

「そりゃあ、イタチとトラみたいなもんだからな」

「ふうん」

 

 


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13

健三がなぜか誇らしげに尚に話す。

「専務たちには、怪物・飛志勝と呼ばれていたな」

「怪物?」

尚が怪物のような巨漢を想像していると、亜美が瞳を輝かせて言った。

「尚チャン、マサルさんカッコイイよ」

「亜美さんが言うならよっぽどですね」

「エーちゃん。あたしもほとんど会話したことないよ」涼子が言った。

「そっか」

「涼子ちゃんはマサルの一件を知っているのか?」健三が聞く。

「噂でしか聞いていません」

(一件?)

尚はますます関心を強くした。

健三が静かに語る。

「マサルは会社を変えようとしていた。まずは社長と二人きりで食事をして、マサルの描くビジョンを伝えた。社長は感動してマサルのビジョン実現に着手したから大騒ぎになった」

「何で大騒ぎになるんですか?」

尚の質問に亜美が答える。

「会社組織って悲しいけどそういうところよ。マサルさんは倉庫の責任者だけど、役職は平だから」

桜井が口を開いた。

「皆社長っていったら普通はビビるんだ。平が社長と二人きりで食事して意見を言うこと自体びっくり仰天の幹部連中は多い。ましてや社長がマサル君は凄いなんて賛嘆したから、妨害が始まったんだ。まあ、ジェラシーだな」

 

 


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14

今度は名村国男が語る。

「マサルさんのビジョンは具体的だったな。この会社は変えられると言っていた」

「それは机上の空論じゃなくて?」尚が聞いた。

「ハハハ」健三は笑った。「尚ちゃんも独特だからな。マサルと合うかもしれねえぞ」

桜井が話を戻した。

「まあ、重役からしてみれば従順な社員でいて欲しいんだ。しかしマサルさんは社長すら目上の人という感じに見ていなかった風があるな。別組織の人間みたいな感覚っていうか」

涼子も埼玉工場にいて、会社乗っ取りなど、マサルの悪い噂は聞かされていた。確かに社長を目上の人と思っていないのはメチャクチャな気がした。

外見は怪物という感じではなかったから、なぜ怪物と呼ばれているのか不思議だったが、おぼろげながら見えてきた。

桜井が続ける。

「で、マサルさんを社長から遠ざけようと、上はマサルさんに神奈川工場の転勤を命じた」

名村がビールをグイグイ飲むと、言った。

「東京から神奈川は遠い。しかし神奈川に引越すか東京から通うかはご自由にと」

「こっからがホラー映画だ」桜井が笑顔で語る。「マサルさんを辞めさせようと画策した幹部が、一人、また一人と退職していった。どんな技を使ったんだ?」

尚は顔をしかめた。

「脅したの?」

 

 

 


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15

「脅されたら警察に言うだろうよ。もっと違うやり方だと思うぜ。とにかくランボーのゲリラ戦のように、一人、また一人と消えていくんだ。だから、ほかの幹部は恐れおののいた」

健三が結論を急いだ。

「一人の平社員に半年も振り回されているわけにはいかねえ。会社は円満退社の方向で話を進めた。表向きは円満退社だが、会社が負ったダメージは大きい。今でもマサルの名前はタブーだ」

尚は神妙な顔つき。涼子は少し納得いかない表情をしていたが、黙っていた。

「エーちゃんは全部真相を知ってんじゃないの?」尚は睨む。

「オレの口はコンニャクより堅いんだ」

「過去の話はよそうぜ」健三がビールのジョッキをかざした。「きょうは今週の土日のレースの検討会だ」

「違う違う、全然違う」亜美が真顔で言った。

「そうだ。涼子係長の歓迎会だ。質問攻めでスッポンポンにしようぜ・・・NO!」

尚は桜井の顔面に箸を投げた。

「あ、マサルさん!」

亜美の声を聞き、尚と涼子は入口のほうを見た。飛志勝がゆっくり入ってきた。

洒落た黒髪。自信満々の笑み。目は生き生きと輝き、スプリンターのように逞しい肉体を誇る。

革ジャンにジーパン。颯爽と登場する姿は、何かハリウッドスターを彷彿とさせるし、何か一頭、違う馬がいるという他を圧する存在感も感じた。

尚は小声で亜美に聞いた。

「日本人?」

「外国人みたいでしょ?」亜美が笑う。

 

 


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16

健三が言った。

「マサル、久しぶりだな」

「どうも」

「マサルさん、席用意してますよ」桜井が尚の前の席を指した。

「サンクス」

マサルが席についた。亜美が笑顔で手を振る。

「久しぶり!」

「元気?」

「マサルさんがいないから寂しいよ」

尚が亜美を見て小さく首を左右に振る。桜井が皆を制した。

「まあまあまあ。とりあえず乾杯か?」

マサルが空のグラスを持つ。亜美の席はマサルから少し遠い。尚は目の前の自分の役目だと思い、瓶ビールを両手で持った。

「どうぞ」

「ありがとう」

尚は唇を結んですました顔のままマサルにビールを注いだ。それを見た桜井が絶叫する。

「おおお! な、尚が人にビールを注いでいる!」

(テメー)

尚は声には出さず口だけ動かして桜井を睨んだ。

「め、珍しい!」

「エーちゃん」涼子が腕を掴む。「デリカシーってある?」

「巷でオレはミスターデリカシーと呼ばれている」

「ダメだ」涼子は諦めた。


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17

皆ビールやウーロンハイを持つと、改めて乾杯した。それぞれ軽くグラスを合わせる。

「カンパイ!」亜美が手を伸ばしてマサルと乾杯した。

マサルは目の前の尚ともグラスを合わせ、桜井に続き涼子とも乾杯した。

「岸守さんも久しぶり」

「あ、どうも」涼子は慌ててグラスを合わせた。

マサルから涼子に話しかける。

「係長になったんだ?」

「そうなんですよ。緊張ですよ。でも皆さんが優しい人ばかりだから助けられています」

桜井が割って入る。

「涼子チャン、逆ゴマスリか?」

「ゴマスリ?」

「ほら、涼子チャンのほうが役職上だから部下に逆ゴマスリ」

「部下なんて思ってないから。仲間ですよ、みんな」

すでに酔っ払っている藤山健三が、名村国男に聞いた。

「史上最強馬っていったら、やっぱりルドルフかディープに絞られるだろう」

「ここへ来て馬の話はやめようよ」

亜美の哀願を無視して、健三と名村は盛り上がった。

「いや、健三さん。ファンは戦績だけじゃ納得しませんよ。マックイーンもテイオーもブライアンも黙ってないです」

「なるほど」健三はビールをグイグイ飲む。「最強牝馬はもっと複雑だな」

「馬の話はまた今度。せっかくマサルさんがいるんだから」

「亜美。マサルがいるから馬の話しなきゃ、いつ話すんだ?」健三が暴走すると止まらない。

 

 


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18

「千八の鬼・藤山健三を止められるヤツはいないぜ」桜井も加わる。「最強牝馬はヒシアマゾンでしょう」

「エアグルーヴもいるぞ」健三が言った。「あとシンコウラブリイにノースフライト」

「ふーちゃんか」

亜美が顔をしかめた。

「あのね。日本語で喋っているのに、英語より難しい会話を目の前でされているあたしの立場って考えたことある?」

健三は、亜美の猛追を振り切り、マサルを見た。

「マサルはだれだと思う。最強牝馬?」

「成績からいったら最強じゃないかもしれないけど、印象深いのはスターバレリーナだな」

「わあ、わあ、わあ!」桜井が騒ぐ。

「スターバレリーナ?」亜美の顔が怖い。

「わあ、わあ、わあ!」

「エーちゃん」

呼び止める亜美を無視して桜井はマサルに言った。

「マサルさん。ベガを忘れていませんか。ベガはベガでもホクトベガ!」

「でも好きだったのはスターバレリーナだな」

「わあ、わあ、わあ!」

「エーちゃん」亜美は笑顔だが蒼白だ。

「何だダンスパートナー?」

亜美は割り箸やおしぼりを手当たり次第桜井の顔面に投げた。

「馬に例えられて喜ぶのはあんたらだけなんだよ!」

「痛い、あ、割り箸をないがしろにするとは、さては環境問題に無関心だな?」

「話をそらすな!」


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19

桜井と亜美は放っておき、尚はマサルにビールを注いだ。

「マサルさんって、外国人に間違われませんか?」

「たまに国籍を聞かれる」マサルは笑顔で話した。

また桜井栄光が乱入する。

「尚。マサルさんは正真正銘の外国産馬だぞ」

「サンバ?」

「サンバといってもお嫁サンバじゃねえぞ。知らないか」

「アメリカで生まれたんだ」マサルが言った。

「そうなんですか?」

驚く尚。涼子も黙って聞いていた。桜井が早口で説明する。

「両親は日本人。でもマサルさんが生まれたのはアメリカだ」

「英語ペラペラとか?」尚が聞く。

「そんなことはない。ナチュラルなアクセントには自信があるけど」

「尚。マサルさんの仕事を知りたいか?」

「いい」マサルが一瞬真顔で桜井を睨む。

「何です?」

「尚。何を隠そう、マサルさんは馬券生活者。さすらいのギャンブラーだ」桜井は自慢げに語った。「年収は1000万円」

「1000万?」涼子が聞いた。

「その話はいい」

マサルがそこに触れたがらないので、尚も涼子もそれ以上聞くのをやめた。

 


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20

桜井が話題を変えた。

「マサルさん。この尚もなかなか非凡ですよ」

「非凡?」

マサルが熱い目で尚を見た。尚も憧れの眼差しで見つめ返した。

二人の視線を涼子は複雑な気持ちで見ていた。

「マサルさん。尚は中学生のとき、スピーチコンテストで優勝しているんです」

「スピーチコンテスト?」マサルが興味を示した。

「ディペートでも優勝しているんです。まさに無敗の二冠馬」

「バじゃねえよ」尚が睨む。

「それに彼女は頭の回転が速い。入社3ヶ月で出庫の仕事を全部覚えてしまったからね」

「3ヶ月?」マサルが目を見張った。「普通1年はかかるよ」

尚はかしこまった顔で言った。

「それは、エーちゃんの教え方が上手いからでしょ」

「それがすべてとも言えるけどな」

「ハハハ」

マサルと同時に笑った涼子は、笑顔のままマサルと顔が合ってしまった。なぜか慌てて目をそらす。その二人のそぶりを尚は真顔で見ていた。

「そろそろお開きか?」

桜井が言うと、亜美が口を尖らせた。

「嘘、あたしマサルとほとんど喋ってないよ」

「知るか」名村が小声で呟く。

金曜日ではない。皆は仕方なく自分のグラスを飲みほした。