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 船を待っていた。
 湿って熱い空気が風もなく人々を包み、うだるような真昼の時間が、ねっとりと這うように過ぎていく。
 船着き場は、細長い木の葉でかれた屋根があるだけの、掘っ立て小屋のような建物だ。人々はそこの地べたに直に座りこみ、思い思いの方法で時間をつぶしていた。
 私には行くあてがなかったが、とにかくこの河を渡ってしまいたかった。
 一見、海かと思うほどの、雄大なる大河だ。泥のような色をした水がうねり、水量豊かに流れ去っていく。
 河岸かがん近くには、丸い形の大きな浮き草が繁茂していて、その上を歩けば、水の上に立っても沈まないのではないかと思えるような、鮮やかな緑の絨毯となっている。
 浮き草は、鮮やかなピンク色の大きな蕾を、いくつもつけていた。
 あれが咲く時には、ぽん、と弾けるような音がしそうだ。
 私はそんな妄想をして、河岸の柵にもたれながら、わずかな荷物を抱えていた。
 もう朝からずっと、ここで待たされている。地元の者らしい他の客たちが、文句を言う気配もないのを見ると、この船着き場に船がなかなか来ないのは、どうやらいつものことらしい。
 とにかく暑い。蒸籠せいろの中で蒸されるように、暑い。汗にまみれた喉頸が、垢じみて痒かった。誰の目もなければ、今すぐ裸になって、目の前の河に飛び込んで泳ぎたいくらいだ。たとえ泥のような河でも、いくらか涼しくなるだろう。
 私がそんな軽口を言うと、私に世間話をしかけてきた地元の老人は、楽しげに私を止めた。
「それは止したほうがいい、旅の人。この河には、人食い魚がおるから」
 なんなら試しに飛び込んでみたらどうかという、悪戯好きな悪童の表情が、白髭を蓄えた老人の、穏やかな赤銅色の顔に浮かんでいる。
「人食い魚? それはいったい、どんな魚なんです?」
 興味をそそられて、私は訊ねた。この際、どんな法螺話でも、退屈しのぎに有り難い。
「なに、どうということもない、普通の魚だよ。手のひらぐらいの大きさで、群れでやってくる。やつらは何でも食うだけだ。人も魚も獣も、分け隔て無くな」
「それは怖いですね」
 調子を合わせて、私は応えた。すると老人はくしゃくしゃと顔をしかめた。
「いやいや、この河岸で本当に怖いのは人食い魚などではない。船に乗ってやってくる人買いだ」
 首を振り、舌打ちをしながら、老人は語った。
「貧しさのあまり、娘を街に売って糊口ここうしのぐ連中がおる。ほら、見ろ、そこにもおる」
 老人が指さす先を見ると、船着き場のすみに、ひとりでじっと座っている若い娘がいた。
 すらりと伸びた美しい脚をしており、細かく波打った長い黒髪を、華奢な体にまとうように伸ばしている。赤銅色の肌をした顔には、硬い表情が浮かんでいたが、河を見つめる彼女の黒い瞳は、はっとするほどの強い視線を放っていた。
 綺麗な娘だった。
 荷物に腰掛けて、河を見つめる横顔をこちらに向けている彼女に、私はしばし見とれた。
 彼女は首からさげた、麻ひものようなものを、しきりに指でなぶり、そこに吊してあるらしい何かを、まさぐっている。首飾りのようなものに、私には見えたが、それは美しい彼女の身を飾るには、あまりにもお粗末だった。
 彼女のためになら、高価な装身具や衣装を、いくらでも買い与える男がいるだろう。河岸の泥に咲いた、鮮やかな花のように、彼女はこの船着き場の埃っぽい空気の中でも、際だって美しい、異質な存在だった。
 それは周囲で待つ者が、彼女を避ける様子でいるせいかもしれなかった。こんなに美しい娘なのに、誰も彼女に微笑みかけもせず、物欲しげに眺める者さえいない。忌まわしい不運に関わらぬようにと、皆が皆、知らん顔を決め込んでいるらしかった。
 その姿に、じっと目を向けているのは、通りすがりのよそ者である私ひとりだ。
 娘は私の視線に気づく様子はなく、決然と押し黙り、河を見つめるだけだった。
 やがて不意に彼女は立ちあがり、首からさげていたものを、力任せに引きちぎった。そして手の中にある何かをじっと見つめ、とうとう意を決したように、河へ向かって投げ捨ててしまった。
 彼女が何を投げたのか、私はとっさの興味で河へと視線をうつした。長い弓のような軌跡を描き、それは丸い浮き草の尽きた先の、河の流れの中へと落ちていった。
 河の上流から、一艘の白い船が現れていた。
 船体は三階建てになっており、船の両脇に二つ建った黒い煙突から、もうもうと白い煙を吐いている。その客船は外輪船と呼ばれる種類のもので、石炭を焚いて湯をわかし、その蒸気で水車のような巨大な輪を回して、船を推進させる仕組みになっているものだ。
 汽笛を鳴らし、船はこちらへやってきていた。
 船着き場で待ちくたびれていた乗客たちが、一斉に、よっこらせと重い腰をあげる。
 ゆっくりと接岸した外輪船は、大人の腕ほどもある太い舫綱もやいづなで、船着き場に係留された。船の柵が開くと、そこから降り立つ乗客は多くはなく、街から戻った土地の農民ふうの者がちらほらいる他には、明らかに異質な、太鼓腹で、口ひげを蓄えた、赤いシャツの男がひとりきりだった。
 男は白いハンカチをとりだして、汗をふきながら、大股で船着き場へと入り込んできた。一目見て、いやな男だと思える人物だった。
 旅を楽しむふうでもなく、嫌々やってきたという不愉快顔で、河岸に降り立ち、男は少しの間きょろきょろとして、船に乗り込んでいく他の乗客たちの中を、探し回る目をしていた。
 太った男の目元は、だらりと緩みきっており、鈍重そうだったが、それでも群れの中から、ほふる一頭だけを見極めるような、鋭い目つきだった。
 大汗を垂らしながら、男は立ちつくして自分を見ていた若い娘を、やっと見つけた。
 私と老人は、それを眺めた。
 男は酒に焼けたような大声で喋った。
「こりゃあ別嬪だなあ、畜生め。これなら街の旦那も気に入ってくださるだろうよ。お前は運がいいぞ。旦那は牧場もお持ちだし、こんな田舎の連中には思いもつかないような、学もおありになる立派なお方だ。せいぜいご奉仕して、可愛がってもらえ」
 大笑して、男は腫れたような指をした手で、娘の尻を叩くように撫でた。
 娘はただ、うつむきがちに、険しい顔でそれに耐えていた。
 そうしていると、彼女はまるで、殉教者のようだった。これから火にあぶられるか、銃で撃たれるかするが、それでも我が身に変わりはないと、そういう決意の表情をしていた。
「それにしても汚ねえなりだなあ。街に着いたら、綺麗な服着て、化粧もしねえと。別嬪さんに磨きをかけてやるから、楽しみにしてろ。さあ、とっととご乗船といこうや」
 汗をふきふき、男は娘に背を向けた。
 彼は娘の手を引くわけでも、縄をかけるわけでもなかったが、彼女が男に牽かれていくのは、誰の目にも明らかだった。
 抗いもしない重い足取りで、娘はさっさと歩く男に従い、とぼとぼと乗船口へ歩いていった。
「ナナ!」
 その時突然に、船着き場に走り込んできた者の声が叫んだ。
 娘はそれに、驚いたふうに振り返った。
 太った男もそれに倣い、私と老人も、叫んだ者のほうを見た。
 そこには粗末な格好をした、しかし若くて健康そうな青年が立っていた。全力で走ってきたらしく、彼はまるで雨にでも降られたように、赤銅色の顔に、滴るほどの汗をかいていた。
「行かないでくれ、ナナニータ」
 乱れた呼吸を整える間もなく、青年は、まだ乗船口にいる娘に、喘ぎ喘ぎそう呼びかけた。
 それが彼女の名前のようだった。娘はどこかぽかんとして、青年を見返した。
「やっぱりお前を、忘れるのは無理だ。俺の女房になって、一緒に住んでくれ。俺が一生懸命働いて、借金も返すし、お前の家族も食わせていくから」
 そう掻き口説く青年の顔は、滑稽なまでに真剣そのものだった。娘は険しい顔で、じっと彼を睨んだ。そして今はもう無くなった、あの粗末な首飾りを、彼女は探ろうとした。それがいつもの癖だったのか、そこにあるはずのものを握ろうとする指が、一瞬彼女の豊満な胸元をまさぐったが、指は何もないところを虚しく掴んだだけだった。
「何を寝ぼけたことを言ってやがるんだ、こん畜生が」
 太った人買い男は、大笑して言った。
「こいつの借金を、てめえみたいな貧乏人の小倅こせがれが、返せるわけがねえ。このあまの飲んだくれの親父がよう、いくらせびったか知ってるのか。娘が別嬪なのを笠に着て、ずいぶん吹っ掛けやがったよ。とっとと帰んな、若造。お前にゃあ、勿体ねえ上玉よ」
 面白い冗談を聞いたという笑い方で、人買いは笑い続け、うつむいて立ちつくしている娘の腕をとった。それに引かれるまま、娘はやはり、とぼとぼ歩いた。
 青年は食い入るように娘を見つめたが、彼女はただそれに背を灼かれ、項垂れて甲板にあがってゆくばかりだった。
 老人は私と顔を見合わせた。
「乗ったらどうかね、旅の人。船はもうすぐ出るだろうよ」
 柔和に微笑んで、老人は私に勧めた。その口調が見送るふうに聞こえたので、私は軽い驚きを覚えた。
「お爺さんは、乗らないんですか」
 私の問いに、老人は頷いた。
わしはここに、船に乗る連中を見に来ておるだけだ。気をつけていきなさい、旅の人。河には人食い魚がおる。わずかでも血を流している時は、決して河に落ちるでない。やつらは血を嗅ぎつけると、あっという間にやってきて、あんたを骨だけにしちまうからな」
 憎めない意地悪さでそう教え、老人は湿気た熱気の中でも、なぜか不快さのない温かく乾いた手で、私の頬をぽんぽんと優しく叩いた。それは別れの挨拶だった。皺だらけに乾いた手のひらが、自分の肌に触れた一瞬で、私は不思議に勇気づけられた。
 こちらも別れを告げ、船に乗り込んだ。
 乗船口の柵が閉じられ、船の煙突があげる、もうもうとした蒸気が、さらに強まった。
 舫綱もやいづなが解かれ、出航を告げる河船乗りたちの声が、低く朗々と川面に響いた。船を推進させるための黒い鉄の外輪がいりんが、機構のうなりと水音をたてて回り始めた。
 甲板から見返すと、青年はまだ船着き場の入り口で、じっと佇んで娘を見ていた。
 人買いは舷側げんそくから物見高くそれを見返し、煙草に火をつけた。
 娘は両手で舷側を掴み、じっと青年を見つめ返していた。
 河からは泥を溶かした水の、何とはなしに薬くさいような苦い匂いが立ちのぼっていた。どこかで密林の獣が吼えていた。
 船が岸を離れた。
 ゆっくりと用心深く、船は岸辺の丸い浮き草を押し分けて出て行った。鮮やかなピンク色をした蕾が、はじかれて咲くのではないかと、そんな妄想が湧いた。
 浮き草と思っていた大きな丸い葉たちは、長い茎で水底からつながってでもいたのか、船に押しやられても、結局もとのところへ戻っていき、またすぐ川面を埋めた。
 その上を歩いて、また岸に戻れそうな密集した群生だった。
 船がその濡れた緑の果てるあたりまで岸を離れる頃、私は川面の丸い葉に、何かが浮き沈みして引っかかっているのに気づいた。
 娘が投げた首飾りだった。
 濁った河の悪戯か、流れに揉まれて、押し戻されて来たようだった。
 甲板から見下ろすと、それはただの木ぎれを削って作った不器用な品で、細長い棒のようなものに、地元の部族の祖霊トーテムらしきものが彫り込まれていた。その正体が何か、旅人である私に分かるはずもなかったが、なぜかそのかたちは、愛を守護する魔法を持った者と思えた。
 ふと見ると、娘も川面の落とし物を見つけたようだった。
 彼女はさらに険しい表情を、眉を寄せた美しい顔に浮かべ、じっと睨むような目で、濁った水面に見え隠れする首飾りを見下ろしていた。
「ナナニータ」
 いつの間にか河岸の水際まで来ていた青年が、船に叫んできた。娘は、はっとしてそれを見た。
「俺がやった、約束のお守りはどうしたんだよ。お前はあれを、捨てちまったのか」
 叫ぶ声に訊ねられ、娘は首飾りを探る手で、自分の心臓のあたりを掴みしめた。
「落としちゃったのよ、レオニート」
 想像もしていなかったような美しい絶叫で、娘が答えた。
 ぎょっとして、私も人買いも、美貌の娘を見た。甲板の誰もが、ぽかんと驚いて、娘を見た。
「河に落としちゃったけど、でもそこにある。草に引っかかってるの」
 川面を指して、娘は教えた。そうかと答える青年の声が、川面を渡ってきた。
「心配するな。俺が拾ってやるから」
 そう言って、青年はおもむろに、河に飛び込んだ。
 船着き場の老人が、面白そうにそれを目で追った。
 ほとんど水しぶきをあげない軽快な抜き手で、青年は丸い草の葉を押し分けて泳ぎ、娘が指さしたあたりへと、あっという間に泳ぎ着いた。
 離れてゆく船の上から、娘は両手で口を覆って、それを見ていた。
 青年がこともなげに見つけて拾いあげた首飾りを、振りあげた手に握っているのを見つめ、娘は目を見開いて胸を喘がせていた。
「あったよ、ナナ」
 器用に立ち泳ぎしながら、青年は叫び、まじめに教えてきた。
 船上のナナニータはそれに大きく頷いただけだった。
「戻ってきてくれ、ナナニータ。俺と暮らそう。お前のためなら、ジャガーだって素手で殺してみせる。お前もここで、一緒に戦ってくれ。俺と生きよう」
 再び掻き口説く若者の声は、しだいに遠ざかっていった。船は流れをつかみ、速力をあげるらしかった。
 娘は微かに震えながら、押し黙っていた。
「ばかな色男があったもんだぜ」
 煙草を吸いながら、人買いが笑って罵った。
 それを聞き終わることもせず、娘が舷側に足をかけた。
 河に飛び込もうとする彼女に、人買いが驚いて飛びついた。男に比べて華奢な体に、背後からとりついて激しく揉み合う様子は、まるで太った人買いが哀れな娘を力ずくで犯そうかという有様に見えた。
 それに呆然として、船上の人々はどこか青ざめ、二人を見つめている。
「やめねえか、このくそあまが。金はもうお前の親父に払ってやったぞ。いまさら逃げられると思うなよ」
 怒鳴って男は娘の体を甲板に引き戻した。男がくわえていた煙草の燃えさしが、つばきとともに河に落ちていった。
 娘は甲板にうつぶせのまま押し倒されながら、男を振り返って、その顔に容赦なく爪をたてた。
「はなしてよ、この悪魔。誰があんたみたいな豚野郎に買われていくもんか」
 娘は美しい声なのに口汚かった。
 それでも娘は、少しも下品には見えなかった。この河岸の密林と同じ、天性の野性味のある美が、彼女を包んで見えた。
 固唾かたずを呑む船上の空気は、明らかに彼女を応援していた。
 河岸から、この男に娘がさらわれてゆくのは、これが最初じゃないだろう。船に乗るうちの幾人かは、別の娘が泣きながら河を下るのを、見た者がいるのだろう。
 誰も手を出せずに立ちすくんでいるので、私は思いあまって、娘に加勢しようかと思った。
 しかし娘が、乱れたスカートの裾から露わになった脚で、人買いの男の急所を激しくけっ飛ばしたのは、まさにその時だった。
 ぎゃあっと悲鳴をあげて、太った男は股間を押さえ、甲板に背を丸めうずくまった。
 見守る人々はそれぞれに、猛烈に痛いという顔と、してやったりという顔をしていた。
 娘は男の体の下から勢いよく這い出し、そのままの素早さで、舷側に足をかけ、一瞬の迷いもなく河に身を躍らせた。
 水しぶきがあがった。
 さすがに彼女は河岸の娘だった。先ほどの若者が見せたのに似た、華麗な抜き手を切って、彼女は河を泳いだ。まっしぐらに、若者の待つほうを目指して。
「畜生め、なめやがって……」
 汗と血を滴らせ、人買いが立ちあがった。
 男の頬を引っ掻いた娘の爪は、想像以上に鋭かったらしい。
 ざっくりと二筋、男の無精ひげの伸び始めた頬に、縦に引き裂かれた傷が走っていた。
 その傷よりさらに血走った憎悪の目で、男は河を泳ぎ戻る娘の背を見ていた。
 そしてそれを追うため、舷側に足をかけた人買い男を、皆がじっと押し黙って見つめた。
 男が血を流しているのを、おそらく誰もが見ていた。
 そしてこの河にいる、血を好む魚のことを、脳裏に思い描く静かな戦慄した目を、皆がしていた。
 ざぶんと激しい水音をたてて、男は飛び込んだ。
 誰ひとり、悲鳴もあげずにそれを眺めた。危ないから止せと教えてやる者も、誰ひとりいなかった。
 私もそれを、ただぼんやり見守った。
 人買いは水しぶきをあげて泳ぎ、娘を追いかけた。その距離はなかなか縮まらなかった。
 娘はもうすぐ愛しい男のところに泳ぎ着きそうだった。
 畜生めと人買いが叫ぶ声がした。
 それは始め、娘か、その相手の男に向けられたものだった。
 しかし大した間断もなく、男が悲鳴をあげるのが聞こえた。泳ぐのをやめて、畜生めと、彼はまた叫んだ。腕や脚をばたつかせ、彼は何かを振り払おうとしていた。
 やがて見る間に、男を包む水面が泡立ち、小さくはね回る泥のような水面に、真っ赤な血がまじり始めた。逃れようと藻掻く男の悲鳴は、耳を突く恐ろしい絶叫に変わっていた。
 泳ぎ着いた娘は、愛しいレオニートと抱き合い、振り返ってそれを見た。
 船上からも、無数の目が、河に食われていく都会の男を見下ろしていた。
 魚たちはすみやかに食事を終えた。船着き場の老人が言っていたとおりだった。
 泡立つ水面に、どれくらいの数の魚が集まったのかは、一見しただけでは分からない。魚たちは貪欲に食べ、水面を汚した血液までも、すべて綺麗に平らげてしまった。
 男の骨はたぶん、水底の泥に沈んだだろう。
 そしてそれは、魚よりもっと貪欲で、ゆっくりと食う微細な生き物たちに、しばらくの饗宴を与えるだろう。
 若い男女は、目の前に見た恐怖を振り払うように、お互いをそれから守るように、川面を見つめたまま、ぎゅっと固く抱き合い、それから離れて、船着き場へ戻るために、それぞれ静かに泳いでいった。
 船はもう、河を下り始めており、泳ぎ戻った彼らが老人に手を引いて助けあげられ、水浸しの体で河岸に再び立ったのを、私はちらりと見ただけだった。
 河岸も密林も、どんどん流れ去って見えなくなった。
 下流にある対岸の都市まで、一日半の船旅とのことだった。
 私はそこからさらに西へ、旅を続けるつもりだった。
 だからこの場所へ再び戻る日があるかは、怪しいことだ。
 だが、もしも。あてにならない風の便りにでもいい。この密林の出来事を、遠い旅の空の下に、伝え聞くことができるなら、私は訊ねてみたかった。
 美しいナナニータがそれからどうなったか。一途なレオニートが彼女のために、素手でジャガーを倒したか。彼らが遠い密林で、幸せに生きられたか。
 そんな旅先のおとぎ話を、私に聞かせてくれる風があればいいが。
 外輪船は熱帯の川風の中、泥の河を快調に下っていった。
 私はその夜、ねっとりと熱い密林の風にふかれ、揺れるハンモックで眠った。とても静かで、時折けたたましく、獣の騒ぐ夜だった。


文:椎堂かおる(しどう・かおる)
http://www.teardrop.to/
執筆歴二十数年の子持ち主婦です。ファンタジーやSF作品を主に執筆しています。心理描写が主体の地味な作風ですが、心に響く物語を目指して書いています。


絵:塩(しお) (イラスト特別提供)
http://www.pixiv.net/member.php?id=131016
主に水彩絵。
23
最終更新日 : 2012-08-10 08:49:11

 1

 闇に支配された空間を進む。
 一歩、また一歩と足を進める度に、熱い空気が首元を撫でる。
 俺を待ち受けるのは不偏の闇。ありとあらゆる光の存在を認めない暗黒の空間。
 俺の目は、光を感じるようにできていない。だから、俺の前に存在するのは闇。闇とは光のない状態。光がなければ何も見えない。何も映らない。この世界における原則。
 だが、世界の形を知る方法ならば、光に頼らずとも他に幾らでもある。

 足元に広がるのは剥き出しの地面。タイルもシートも敷かれてなどいない。
 絡み付く熱気。鼻に付く臭い。いずれも不快極まりない。
 ガソリン、油、火薬、焼けたゴム。それらすべての臭いが、競い合うようにして鼻腔に侵入してくる。
 熱気の正体は炎。
 燃えているのは車。
 炎上させたのは俺。
 必要な情報はそれだけだ。
 車には誰も乗っていないが、無人の車に火を付けて回る趣味があるわけじゃない。爆発の直前に乗員が脱出しただけのこと。だからこそ、運転席にも助手席にも焼死体はない。勿論、後部座席にもだ。
「手間を掛けさせてくれる」
 俺に銃口を向けた者が辿る末路は常に一つ。生きているのならば、見つけ出して始末しなければならない。これは見せしめなのだ。
 炎上する車に背を向けて、自身の車へと足を進める。
 俺の愛車、フォードGPW。通称・ジープ。屋根はなく、フロントガラスも取り払ったフルオープンカーだ。
 運転席に乗り込み、キーを差し込む。それと同時に、後部の荷台に隠れていた何者かが掴み掛かってきたが、意に介さずキーを回し、エンジンを始動させた。
 連続した二発の銃声が響く。
 背後から俺の首に回されつつあった二本の腕は、銃声を合図に力を失い、重力に引かれて車から転落した。
 車を奪いに来ることは分かっていた。なぜなら、この地域で車を失うことは、そのまま死に直結するからだ。
 ここは、アメリカ合衆国アリゾナ州ソノラ砂漠。西隣のカリフォルニア州と、国境を跨いだ南隣、メキシコ合衆国ソノラ州に広がる、北アメリカ最大の砂漠だ。
 砂漠と言っても、見渡す限りの風紋が広がる砂地ってわけじゃない。随所にサボテンが生え、その周りには低木植物が群生している。
 サボテンの花が咲けば昆虫が飛んできて花粉を運び、サボテンの実が生ればそれを食べる動物が集まる。昆虫を食べるキツツキはサボテンに巣穴を掘り、使われなくなった穴はネズミが再利用する。ネズミを餌とする食肉類までもがサボテン周辺に集い、食物連鎖が形成される。
 しかし、人間にとって厳しい環境であることに変わりはない。容赦なく照り付ける太陽は、あらゆる生命を死に追いやるのだ。
 再び、二発の銃声が響く。
 断末魔の呻きは、遥か遠方から飛来するヘリのローター音に掻き消された。
「ごくろうさん」
 略式の敬礼でヘリの搭乗者を慰労し、直後にそのままアクセルを踏み込んで、一路、南へと車を走らせた。

 俺の名はトープ。名付け親はフランス人で、モグラ、という意味があるらしい。
 俺は、アメリカへの密入国の手配と、入国後に就く仕事の斡旋を生業としている。俗にコヨーテと呼ばれる密入国斡旋業者の一人だ。
 ソノラ砂漠を横断する国境には、アメリカ側への不法な入国を防ぐためのフェンスが設置されている。フェンスはそれほど高くはないため、大人が数人集まれば、道具がなくても乗り越えることが可能だ。
 フェンスが設置される以前は、カリフォルニアのサンディエゴや、テキサス州の南側で比較的容易に国境を越えることができていた。
 フェンスが設置されてからはそうもいかず、フェンスがない砂漠や山地を越えるルートを使った密入国を試みる者が増加している。フェンスは、市街地から数マイル離れたところで途切れているのだ。
 しかし、フェンスが途切れたところは砂漠のど真ん中。そのルートは危険度が高い。国境巡視員に発見されることじゃない。命を落とす危険度だ。密入国者たちは、危険を回避するために俺のような密入国斡旋業者コヨーテを利用するってわけだ。
 残念なことに、密入国斡旋業者コヨーテには悪質な奴らが多い。俺を含めて、まともな人間など皆無だろう。尤も、密入国させようって輩にまともであることを期待する方が間違っているんじゃあないかとも思ったりするわけなんだが。
 手口はこうだ。
 まず、手数料を取ってアメリカに密入国させ、労働力として働かせる。そこまでは本人が望んでいた通り。雇う側にしても、安い労働力が手に入るため、諸手を挙げて歓迎する。
 悪質なのはこの先だ。
 自らが斡旋した就業先を、不法就労者がいる、と通報する。不法就労者は逮捕されるが、雇い主は罪に問われることはない。ただ一言、知らなかった、と言うだけだ。
 そして、逮捕された不法入国者の保釈金を肩代わりするなどして、生涯にわたり上前を撥ね続けるってわけだ。奴隷の出来上がりだ。
 被害者が警察に訴え出ないのは、メキシコに残してきた家族を人質にされていたり、家族をネタに脅されていたりするためだ。酷いときは、警察と雇用主と業者とが結託している場合さえある。
 俺はそういう他人を不幸にして食っている奴らが嫌いだ。
 許せないんじゃない。
 自身を正義だと勘違いしている奴らが得意気な顔をして振りかざす、〝許せない〟という言葉も嫌いだ。
 だから、許せないんじゃない。
 ただ、嫌いなだけだ。



 2

 メキシコ合衆国ソノラ州。面積の八割以上を砂漠が占め、西側はコルテス海に面している。主な産業は、畜産と鉱業、そしてコルテス海を利用した観光業。
 州都エルモシージョから北へ百二十マイル。ノガレスという国境の町がある。
「おや、旦那。珍しいことで」
 朝食を求めて喚く腹を黙らせるために足を踏み入れた店で、店主のトーマスよりも先に声を掛けてきた人物がいた。半端な時間のせいか、俺と声の主以外には誰も客がいない。
「白々しい真似は止せ、アントニオ」
「へへ、出会いってのは、いつでも偶然の産物なんですぜ。出会えなかったかもしれねぇって考えると、出会いそのものに感謝するようになる」
「何が偶然の出会いだ。俺は毎朝ここで食事をする」
 アントニオはノガレスで情報屋をやっている男だ。町の外やフェンスの向こうから来た連中に関する情報を取り扱っている。非合法な仕事をしている以上、町を訪れた者に注意を向けるのは当然のことなのだが、来訪者が客かどうかを見極めているってわけじゃない。
 俺たち密入国斡旋業者コヨーテは、人間をフェンスの向こう側に送り届けるのが仕事。
 仕事にはルールがあり、同業者間には仁義がある。
 ルールは三つ。
 客を盗らない。客から盗らない。人間以外は運ばない。
 第一のルール『客を盗らない』
 値引き合戦などという馬鹿げた事態に陥らないためのルールだ。稼ぎが過ぎれば、少ない者のところへ回す。尤も、仲介人がバランスを考えて割り振っているため、滅多にそういった事態にはならない。一つの業者に肩入れしていた場合、その業者の摘発と共に失業してしまうため、仲介人は複数の業者とバランス良く付き合う。
 第二のルール『客から盗らない』
 密入国という性質上、家財道具一式を抱えて行くわけにはいかない。それでも身に着けている物は、本人にとって今後の人生の支えとなる品物だ。
 第三のルール『人間以外は運ばない』
 言ってしまえば、麻薬だ。
 メキシコ国境からアメリカ国内へと流れる麻薬は、カリフォルニアが麻薬漬けから抜け出せない要因の一つとなっている。麻薬の流入が増えれば、国境の監視がより厳しくなり、仕事にも支障をきたす。
 来訪者に注意を向けるのは、麻薬をこのノガレスに持ち込ませないためだ。もし持ち込んだと分かれば、しばらく好きに泳がせて、買った方の人物を叩く。否、買った方の人物も叩く。そのときは、俺のような武闘派の出番ってわけだ。
 ルールを破れば、それに応じたお仕置きが待っている。だがそれは、俺の独断で実行することじゃない。

「また派手に暴れなすったらしいじゃねぇですか」
「久しぶりだったからかな、加減を間違えたかもしれん」
「旦那は毎回加減をお間違えなさるようで」
 アントニオは陽気に笑っている。
「なら、いつも通りだ」
 トルティーヤの焼けた香りが鼻腔をくすぐり、唾液の分泌を促進させる。トルティーヤとは、すり潰したトウモロコシを小麦粉の代わりに使った生地を、薄く円形に引き延ばして焼き上げたパンだ。
「今日は旦那に仕事をお願いしたいんでさぁ」
「いつから仲介を始めた?」
「いえいえ、そんなんじゃありやせん。これが最初で最後でさぁ」
「急ぐのか?」
「できれば」
 アントニオは声のトーンを落とした。言葉以上に急を要しているらしい。
「朝食の時間ぐらいは欲しい」
「食べ終わる頃に本人を連れてきやすよ」
 仕事を引き受ける前に、必ず本人と会うことにしている。話して気に入らない相手であった場合は、どんな大金を積まれても断ってきた。俺は金に興味はない。反対に、気に入った相手には、住む場所から仕事の世話までしたことがある。
 アントニオは、ごゆっくり、と言い残して店を出た。歳は六十に近いはずだが、足取りからその年齢を感じることはできない。
 アントニオとは、もう四年の付き合いになる。余所者の俺を、この町に馴染ませてくれた。今の俺があるのは、ひとえにアントニオのおかげだ。
 本来なら俺が敬語で話すべきなのだが、アントニオはそれを拒み、更には俺を旦那と呼んでへつらう。俺が情報屋としてのアントニオと付き合うようになった以上は、そういったけじめが必要不可欠らしい。
 朝食にはタマーレスを注文した。鶏肉とサルサをトルティーヤに包んで蒸した、メキシコでは一般的な料理だ。
 残念ながら俺はその色を感じることはできないが、目を失う前に見たタマーレスは、トウモロコシの色が映える一品だった。

 目を失ったのは、今から五年ほど前のことだ。
 軍人だった俺は、派遣された中東における戦闘で重傷を負った。命は取り留めたものの、両目を失うという大きな代償を払うこととなった。
 現在、俺の眼孔には義眼が収められている。
 それはただの義眼ではなく、盲人となってしまった俺でも世界の形を知ることが可能になるというとんでもない代物だ。
 反響定位という言葉がある。
 それについて説明をする際に、蝙蝠と言えば大抵の人間は察しが付く。
 蝙蝠は、自身が発した超音波の反射によって周囲の状況を把握しているため、暗闇の中を自由に飛び回れる。それが動物の反響定位というものだ。
 人間の耳で反響の違いを聞き分けることはほぼ不可能とされているが、稀にそういう特殊能力を持った人間もいる。ハリウッドでは、日々そういうヒーローたちが作り出されている。持って回ったが、普通の人間の耳では、蝙蝠のような反響定位は不可能だということだ。
 とはいえ、ある程度までならば把握することは可能であるし、反響の具合で物質を判断することも可能だ。
 例えば、盲人が持つ白杖は中空で軽いために音が良く響き、杖が当たった物質を判断することができる。石と土では、叩いたときに全く違う音がする。アメリカでは、白杖の使い方と共にこの反響定位のトレーニングを推奨している。
 反響定位を行うためには、二つの条件がある。
 一つは、一定の周波数と音量を持つ音を、断続的に発生させられること。
 もう一つは、その反射音を聞き分ける耳を持っていること。これは、反響によって得た情報を頭の中で整理し、メンタルマップとして組み立てる能力と言い換えてもいい。
 一つ目の条件に当てはまるのは、白杖で地面を叩く音などだ。
 二つ目の条件であるメンタルマップの作成については、個人の能力に依存する部分が大きく、不安定になってしまうことが課題となっている。
 俺もこの反響定位を利用して周囲の状況を把握しているのだが、厳密には違っていて、少しばかり特殊な方法で反響定位を行っている。現時点でその方法が可能なのは俺だけだ。間違えないで欲しいのは、俺自身が映画の主人公たちのような特殊能力を有しているわけじゃないってことだ。

「ほらよ」
 トーマスは、俺に向かってタマーレスを突き出した。
「早いな」
 俺は驚嘆の声を上げた。なぜなら、注文してから十五分以上待たされるのが、この店の常識だったからだ。
「時間ぴったりだろ? トーニョ(アントニオの愛称)がこの時間にこれを出せって」
「ぴったりと言われてもな」
 だが言われてみれば、俺が注文する前からトルティーヤの焼ける匂いがしていた。
 注文する品だけではなく、店に来る時間までもが見通されていたわけだ。情報屋ってのは恐ろしいもんだ。
「ビールは?」
 トーマスの声は、いつも通りにやる気がない。
「これから仕事なんだ、コーラにしてくれ」
「はいよ」
 ずれていたサングラスを正し、カウンターの奥から瓶コーラを開栓する音が聞こえてくる前に、大口を開けて極太のタマーレスにかじりついた。

 アントニオは、俺がタマーレスの最後の一口を放り込んだ瞬間に戻ってきた。
 足音は二人分。一つはアントニオの足音。もう一つの足音は、その大きさと間隔、一歩毎の音量比較から、体重は軽く身長が低い人物であると分かる。
 瓶に残っていたコーラを一気に咽喉へと流し込んでから、二人を迎える。
「この人がそうなの?」
 耳に飛び込んできたのは、幼い少女の声だった。声質の幼さに比べると、口調には理知的な雰囲気がある。年齢は十歳前後といったところか。
 メキシコの公用語であるスペイン語を話していることから、恐らくはメキシコ人。
 そうそう、俺の母国語は英語だが、三年も過ごしていれば、日常会話程度ならなんとでもなる。
「あぁ、そうだよ」
 いつもは野卑なアントニオの口調が、不似合いな優しい口調に変わっていて、気持ちが悪い。
「そういう趣味があったのか」
「止してくださいよ旦那、子供の前ですぜ」
「悪かった。品のない冗談だった」
「何も言わず、何も聞かず、旦那のところで預かっていて欲しいんでさぁ」
 密入国斡旋業者コヨーテの仕事だとばかり思っていたが、どうやら違うらしい。
「俺は子守りじゃない」
「旦那にしかできないことなんでやすよ」
 立ったままの二人に着座を促す。
「ビールってわけにはいかないな。コーラを二人に」
 カウンターの奥から、はいよ、というやる気のない返事が聞こえた。
「こいつはありがたい。ソニア、お礼を言いなさい」
 名前を呼ばれた少女は、ありがとうございます、と丁寧に礼の言葉を述べたあと、俺の隣の椅子に腰を下ろした。物怖じせず人見知りしない女の子のようだ。
「ソニア、か。覚えやすくていい」
「お願いできやすか?」
 アントニオは父親のような存在だ。尊敬も信頼もしている。
 そんなアントニオの頼みなのだから、是非とも引き受けて信頼に応えたいところなのだが、生憎と俺は子供が苦手だ。
 嫌いなんじゃない。苦手なんだ。
「旦那、どうしやした?」
 アントニオの声で我に返った俺は、大きくため息を吐く。
「なんでもない。あぁ、一つ確認したい」
「なんでやしょう?」
「〝俺〟が預かればいいんだな?」
「そういうことでやすよ」
 間違いなく厄介事だ。この少女には、何かとんでもない秘密があるのだろう。間違いなく荒事になる。
 少女は余所者で、余所の町で何者かに狙われて、ノガレスまで逃げてきた。アントニオには少女を守りたい理由があって、俺に護衛を頼んできた。その理由については想像もできないが、金じゃないことだけは間違いない。
 アントニオには恩がある。今の俺にできる恩返しは、どんな厄介事であっても、二つ返事で引き受けることぐらいしかない。
「分かった」
「恩に着やす」
 アントニオは、自分の出番はこれで終わりだ、とばかりに一歩後退した。
「トープだ。よろしく」
 俺が右手を差し出すと、少女はすぐに手を取った。
「ソニアです。お世話になります」
 少女の手は、とても小さかった。



 3

 ノガレスの道路は、南にある州都エルモシージョへと続く幹線道路以外のほとんどが舗装されていない。年中を通して気温が高いため、アスファルトなどは溶けてしまうのだとか。詰まるところ、資金不足なのだ。
 ノガレスの中心を南北に貫き、サンタ・アナを経由してエルモシージョまで続く幹線道路は、アメリカから国境を越えてやってくるトラベラーやバイカーたちに人気のあるルートの一つだ。
 アメリカからメキシコに入る際には、一切の手続きを必要としていない。それはメキシコ側の怠慢でもあって、本来は複数の書類に記入しなければならない。アメリカに再入国する際には最低限パスポートが必要となる。
 うっかりパスポートを忘れてしまい戻れなくなったアメリカ人の再入国を手助けするのも、密入国斡旋業者コヨーテの役割の一つとなっている。国境係員の友人や、非番の国境係員などもやっているが、あくまでもパスポートを忘れてしまったアメリカ人だけに限定したものだ。
 町の中心地から二マイルも離れると、周囲はサボテンが立つ砂漠の景色となる。
 地面は砂と土だが、この辺りは比較的多くの植物が目に付くため、歩いても死に直結するようなイメージを抱くことはない。
 軍人時代のアリゾナ演習で見た砂漠と同じだが、砂漠と聞いて俺が思い浮かべるのは、やはり中東で見た砂漠だ。目を失った場所であるという不快な印象しかない。
 トーマスの店は、ノガレス西辺の町外れにある。少し歩けば、そこはソノラ砂漠だ。
「よし、着いた。歩かせてすまなかったな」
 俺は謝罪の言葉を述べる。気持ちは少しも入っていないが、言わないよりはマシだ。
 ソニアが逐一丁寧で丁重な物言いをしてくるので、こちらもそうしなければならないような気分になってしまったのだ。
「ふあ、大きい」
 目印はそびえ立つ一本のサボテン。ソノラ砂漠の固有種であるサワロ・サボテンだ。
 ソニアは、立ち止まってサワロ・サボテンを見上げていた。成長したサワロは、高さ十四ヤード、重量十五トンにも及ぶ。
「サワロは初めてか?」
「はい。写真で見たことはありますけれど」
 丁寧な言葉使いは、彼女の育ちの良さを余すことなく伝えてくる。しかし、粗野な俺には少しばかり耳障りでもある。
「これから向かう場所には、嫌というほどのサワロがある」
 俺は一足先に車に乗り込み、助手席のシートに積もった砂を払い落とした。
「それは楽しみですね」
 俺の愛車フォードGPWは、二輪駆動と四輪駆動を切り替えられるパートタイム方式の四輪駆動車であり、更には運転席にあるレバーでタイヤの空気圧を変えることもできるため、町中でも砂漠の荒地でも難なく走ることが可能だ。意外と知られていないが、砂地を走る際は、タイヤの空気を少し抜いておくものだ。

 ノガレスから西へ。本格的にソノラ砂漠へと進入する。
 国境を右手にしばらく車を走らせると、少しずつ剥き出しの地面が目立つようになる。そうなると、車も走らせやすくなる。
 厄介なのは、走りやすいのは俺だけじゃないってことだ。
「チッ」
 ブレーキを踏み、エンジンも切る。
「どうかなさったのですか?」
 ソニアは怪訝な声を出した。しかし、好奇心の方が強いようだ。
「あっちに土煙が見えるはずだ」
 後部の荷台から双眼鏡を取り出して、ソニアに渡す。言っておくが、俺の物じゃない。アントニオの忘れ物だ。
「んー……あ、見えました。向こうの方に移動しているみたいですね」
「北へ向かっているんだ」
「あれは何なのですか?」
「〝最も単純な国境の越え方ドライブ・スルー〟だ」
 ソノラ砂漠の真ん中には、国を隔てるフェンスが存在していない。そのため、砂漠越えによるアメリカへの密入国を試みる者が後を絶たず、カリフォルニアとテキサスに増設されたフェンスのおかげで、更なる増加傾向にある。
 勿論、捕まる危険も高い。途中で国境巡視員に発見されてしまった場合は、メキシコ側まで全速力で戻る。メキシコ側に戻ってしまえば、国境巡視員は手を出せない。
 非常に見通しが良い砂漠は、発見されやすい反面、逃げやすくもあるということだ。
 この方法でアメリカへと運び込まれる麻薬もある。
「国境巡視隊のヘリが飛んでやがるから、すぐに発見されるだろう。そうなれば、俺たちも巻き添えを喰らっちまうからな。しばらくここで待機だ」
「あれは、悪いことをしているのですか?」
「そうだな。少なくとも、真っ当なことはしてない」
 俺が言えた義理じゃないが、と密かに自嘲する。反省はしてない。
「麻薬、ですか」
 この界隈で麻薬の密輸が行われていることは子供でも知っているが、密入国斡旋業者コヨーテとの見分け方は誰も知らない。
「機会があったら聞いておこう」
 答えは〝いいえ〟だろうがな、という続きは飲み込んでおく。
「私、麻薬なんか嫌いです」
「そりゃ良いことだ」
 後部の荷台から帽子を取り出して、ソニアの頭に被せてやる。いわゆるカウボーイハットで、勿論これもアントニオの忘れ物だ。俺の帽子じゃない。
 砂漠の日差しを直接浴び続けるのは酷ってもんだ。
 何度も言うが、子供は苦手なだけで嫌いじゃない。それに、俺はこれでもフェミニストだ。
「どうして麻薬なんて存在するのでしょうか?」
「さぁな」
 ソニアからは、麻薬に対する強い憎しみが感じられた。
 麻薬に対して憎しみを持つまでに至った経緯は知らないが、余程のことがあったのだと推測するのは容易いことだ。
 だからといって、俺にはそれを解決してやる義理などはなく、その必要もなければその気もない。他人の人生に、求められてもいない介入を行うほどお人好しじゃない。
 俺の役割は、この子の安全を確保することだ。下手に口出しをして機嫌を損ねられでもしたら、その方がずっと厄介だ。
「そろそろいいだろう」
 ソニアは未だに不快な空気を発していたが、構わずにキーを回してエンジンに火をいれた。
 目的地に到着するまでに、彼女の機嫌が直るような何かがあればいいのだが。
 そんな幸運に巡り会えるように、と願いながら、アクセルを踏み込んだ。

 ソニアを連れて向かったのは、ソノラ砂漠の中では植物の比率が高い地域にある俺の家だ。二年の月日を費やして自力で掘った、家と呼ぶには申し訳ない洞穴なのだが。
 付近には、ネズミや毒蛇、毒トカゲが多く生息しているし、業者ではない獣のコヨーテもうろついている。
 俺は、とてもじゃないが、町中には住めやしない。俺に対して報復を企てる奴らがいるからだ。客を装って俺に近づき、隠し持った銃で、ズドン、だ。逆恨みもはなはだしい。
 アメリカに麻薬を持ち込ませないために、客の所持品はすべて検査しているのだが、俺の場合は身を守るためでもあるってわけだ。
 尤も、大抵の場合は調べようとした途端に銃撃戦になってしまう。市街地でそんなことをやられてはたまらない。
 ノガレスに住んでいた頃、寝込みを問答無用で襲撃されたことがあった。勿論、一人も逃さず返り討ちにした。俺に銃口を向けた者が辿る末路は常に一つ。
 しかし、近隣住人には多大な迷惑を掛けてしまった。こう見えても俺は、ご近所付き合いを大切にしていたんだ。
「えっと、あの……」
 ソニアの困り果てた声が、俺の耳に届いた。
 どうした、と訊ねても、聞こえてくるのはハッキリしない返事ばかり。
 俺は光を必要としないのだから当たり前の話だが、洞穴の中には照明がない。唯一あるのは、アントニオが訪れた際に置いていったランタン一つだ。
 到着した際に火を灯して渡しておいたし、今も炎の匂いと揺れる音がしているから、ランタンの火はまだ消えていない。
 ソニアが困っているのは、明かりの問題ではないということだ。
「あぁ、なるほど」
 少し考えて、一つの答えに辿り着く。
 俺の家に存在しないもの。電気、ガス、水道。そして、トイレだ。
 俺は男だからその辺で済ませてしまうのだが、さすがに十歳の女の子にそんなことをさせるのは、あまりにも忍びない。
 だが、どうしようもない。
「すまない。今日だけは我慢してくれ」
 洞穴の外へと小走りで向かうソニアの足音に、何年振りかに心の底から申し訳ないと思い、同様に、何年振りかにその思いを言葉にした。

「トープさん」
 ソニアが俺の名を呼んだのは、夜も更け、ランタンの灯火が消されてしばらく経ってからのことだ。
「眠れないのか?」
 車のシートよりも硬い寝台、淀んだ空気、環境は最悪に近い。寝付きが悪くても仕方のないことだ。
「トープさんは、目が見えないと聞きました」
「アントニオから聞いたのか」
「はい。ごめんなさい」
「謝る必要はないさ」
 知らない男の元に身を寄せるのだから、不安があって当然。その不安を取り除くために、俺の話をしたのだろう。
「本当に見えていないんですか?」
「本当だ」
「嘘ですよね? 見えてないなんて」
「嘘じゃないさ」
「でも、普通に食事していたし、瓶コーラも飲んでいたし、平然と歩くじゃないですか」
 なるほど、と俺は思う。
 目が見えないと聞いておきながら、俺が運転する車に平気で乗り込めたのは、本当は見えているのだと思っていたからだったのだ。
 どうやらアントニオは、見えないことまでしか話していないようだ。
 確かに、俺の目は何も映さないし、俺の目には何も映らない。それでも、どこに何があるのかを把握することはできる。
 例えば、顔を洗った際、伸ばした手の先にはタオルがある。夜中に家に帰れば、真っ暗な中でも明かりのスイッチを押せる。
 それを可能としているのは、記憶から得た情報を基に組み上げたメンタルマップの存在だ。
 強引に言ってしまえば、見えていると思っている映像は、目に入った光から得た情報を基に組み上げたメンタルマップに過ぎない。
 精度に雲泥の差があるとはいえ、両者の違いは何の情報を基にしているかだけなのだ。
 目が見えないからといって、周囲の状況を全く把握できないわけではない、という話だ。
「見えてはいないが、分かるんだ」
「分かるとは?」
「そうだな……自分の耳を手探りで探したりはしないだろう?」
「自分の身体ですから、当たり前です」
「その通り。だが、なぜ分かるのか、と聞かれたら答えられるか?」
「それは……」
「意地悪を言っているわけじゃない。分かるから分かる、としか言いようがないのだ」
「じゃあ、どうして目が見えなくなってしまったの?」
「神様に、もう何も見たくない、とお願いしたんだ」
「それは嘘ですよね? 子供扱いは止めて欲しいです」
 我ながらユーモアを効かせた良答だ、と思ったのだが、ソニアにとってはそうではなかったらしい。子供の相手は難しい。
「戦争で、な」
「痛かったですか?」
「もう覚えていない」
 ソニアは矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。
 それが不安からの行動なのか、好奇心からの行動なのかは分からないが、もう少し付き合ってやることにした。
「いつからここに住んでいるんですか?」
「二年だ」
「寂しくないですか?」
「大人なら寂しいなんて思わないさ」
 少しの沈黙のあとに聞こえてきたソニアの声は、暗く沈んでいた。
「お父さんとお母さんも、私がいなくなっても寂しくないのでしょうか?」
「ソニアはどうだ? 両親がいなくなっても、寂しくないか?」
「寂しい、です」
「だったら、同じ気持ちのはずだ」
「トープさんには、いなくなったら寂しいと思う人はいないのですか?」
 子供という生き物は、遠慮なしに傷を抉る。悪気がない分、タチが悪い。
「もう眠れ。明日は遠出をする」
 少し強めに言い放つと、ソニアが萎縮する気配が伝わってきた。
 すん、すん、と鼻を啜る音も聞こえてくる。どうやら泣かせてしまったらしい。
 まったく。これだから子供は苦手だ。



 4

 夢を見る。
 場所は中東の国イラク。
 バグダッドの西、ファルージャ。
 そこでは、互いに自らを正義と信じる者同士が、互いに相手を悪だと罵り合っていた。両者の間で飛び交っているのは、すでに言葉ではない。そこにあるのは、鉛、鉄、血、火薬、砂、土、そして、命。
 市街地での銃撃戦。雷鳴のような轟音は鳴り止む気配を見せず、撃たれて倒れる際の悲鳴さえも聞こえはしない。
 そんな場所で、俺は引き鉄を絞り続けていた。それだけが自分の存在価値であるかのように。
 不意に銃声が止む。あまりにもあっさりと止んでしまったことに対して、何かを思う暇などはない。
 部隊は前進を始める。
 道端に倒れていた男が急に息を吹き返して銃を乱射したが、これまでに何度となく繰り返されていたこの手の奇襲攻撃は、もはや通用するものではない。
 部隊は、立っていようが倒れていようが一切お構いなしに、ひたすら鉛玉を打ち込んでいく、という対応策を採用した。
 感覚はあっという間に麻痺した。
 〝彼ら〟は戦士だ。死を恐れていない。敵を排除するためならば、何の躊躇もなく命を捨てる。〝彼ら〟にしてみれば、捨てているのではなく捧げているのだ。恐れることなど何もないのだろう。
 〝彼ら〟は、擬死、虚偽降伏、自爆、あらゆる手段を使ってきた。
 〝彼ら〟は、女や子供や老人でもあった。
 俺が引き鉄を絞り続けていたのは、そんな場所だ。

 子供が歩いてくる。男の子だ。小さな男の子。歳は十にも満たない。
 その小さな手に、あまりにも不似合いな箱を抱えて、ゆっくりと歩み寄ってくる。
 俺は叫んだ。止まれ、その箱を置くんだ、繰り返し叫んだ。
 それでも少年の歩みは止まらない。頼むから止まってくれ、という懇願にも似た祈りも、届きはしなかった。
 指を引き鉄に置き、照準は爆弾と思われる箱を避けて、少年の額に合わせる。
 ひゅー、ひゅー、と空気が乾いた音を立てて気管を往復する。
 涙で視界が滲んだ。
 こんな幼子を兵器として利用する奴らも、こんな幼子を兵器と見なして射殺するしかできない自分たちも、どちらにも正義を語る資格などないように思えた。
 そんなものは、現実を知らぬ者が口にする甘ったれた戯言だ、と分かっていながらも、そう思ってしまった。
 殺すか殺されるか。
 俺は、ハッキリしていて分かりやすいその現実を、受け入れられなかったのだ。
 少年は俺の目の前に到達した。
 少年は笑いながら箱を差し出し、俺は少年が差し出した箱に手を伸ばす。
 何の前触れもなく、少年の箱が爆ぜる。
 音も色も、痛みもない。そして後悔もない。
 あぁ、良かった。今度は撃たなかった――

「トープさん、おはようございます」
「おはよう。ソニア」
「もしかして、まだ寝ていました?」
「いや、大丈夫だ」
 本当は寝ていた。
 誰かの声で目を覚ますのは、いつ以来になるだろうか。と、そんなことを思い出そうと試みることさえも、随分と久しぶりのような気がした。
「あそこにある箱……」
「箱?」
 俺の過剰な反応に、ソニアは驚いたようだ。
「ヴァイオリン……ですよね? 触ってもいいでしょうか?」
「弾けるのか?」
「少しですけど」
「聴かせてもらおうか」
 それで少しでも気が紛れるのならば。俺はそう思っていた。
 電気もなければトイレもない。この洞穴には娯楽など何一つとしてない。普通の人間が長時間滞在すれば、精神の崩壊を招く恐れがある。ましてや十歳の少女ならば尚更だ。
 嬉々としてヴァイオリンを取り出したソニアは、その場で構えて弾き始めた。
 緩やかで自由な旋律。ヨハン・セバスチャン・バッハ作曲、無伴奏ヴァイオリンソナタ第一番ト短調。ヴァイオリン独奏の名作だ。
 ヴァイオリンの音色は、狭い洞穴内でいつまでも反響を繰り返す。
 その残響音は、俺を回顧の旅へといざなった。

 俺は音大の学生だった。
 大学院に進む奨学金を貰うため、志願兵となった。
 兵役が残り一年となった年、イラクへの派兵が始まった。奨学金という見返りのために入隊した志願兵は、戦時に退役することは許されない。
 イラクに派兵された俺は、ファルージャの戦闘〝新たな夜明け作戦〟で負傷した。
 即日のうちにフランスに運ばれ、ある特殊な手術を受けた。
 頭蓋骨に存在する副鼻腔と呼ばれる空洞に、超音波振動子と受振機を埋め込み、反響定位を実現するという人体実験だ。光を失った絶望と混乱の中にいた俺は、得体も知れない実験に自分を提供してしまった。
 圧電素子(ピエゾ素子)によって超音波を発生させ、その反射情報を専用の受振機である擬似眼球を通して脳に送る。反響で得た情報を基に作られた信号であるため、色に関する情報は含まれていない。
 何も映さないし、何も映らない。しかし、どこに何があるのかは分かる。
 それが俺の目。
 俺の他にも同様の手術を受けた者が数人いたらしいのだが、俺のように自由に歩くことはできなかったらしい。
 たまたま俺が成功したのか、俺に適性があったのかは分からないが、再び世界の形を知ることができるようになった。勿論、そうなるまでには過酷な訓練と実験の繰り返しがあった。
 俺の視神経は残っているが、そこには外部の光によって得られる情報の一切が送られないため、何も見えていない状態となる。完全に機能していない状態だ。
 受振機が脳に送った信号を基に周囲の状況を把握しているのだが、『Aという信号だからこれはa』といった判断をしているわけじゃない。
 正直なところ、なぜ分かるのかは俺にも分かっていない。
 その辺りをじっくりと考えたこともあったが、硬いとか、柔らかいとか、深い浅い、軽い重い、そんな曖昧な表現でしか整理することができなかったため、あっという間に行き詰まってしまい、すぐに止めてしまった。
 結局は、ソニアに言ったように、分かるから分かる、としか言いようがない。

 俺が立ち上がると、ソニアはピタリと演奏を止めた。自分の演奏が俺の気分を害してしまったと思ったようだ。
「もっと自由に楽しみながら弾くといい。楽しまなければ音楽ではない」
 俺自身は優れた奏者ではなかったが、感覚的な助言ならばしてやれる。
 ソニアの演奏は隙の少ないものだったが、悲しきかな、楽譜をなぞっただけとも言える。とはいえ、十歳にしてこの曲を譜面通り正確に弾ける技術は、驚嘆に値する。
「トープさんも弾かれていたんですよね? 私にも聴かせてください」
 偉そうなことを言ったが、俺の演奏は下手の横好きというやつだ。技術ではソニアの方がずっと上手い。俺は奨学金を貰えなかったのだ、わざわざ聴かせるほどの腕前ではない。
「朝食に行く」
「……はい」
 ソニアは悲しげに返事をした。
「ヴァイオリンを忘れるな」
「え?」
「食後に弾いてやる。ヘタクソだが笑うなよ」
「はい!」
 ソニアの返事は、ヴァイオリンの音に負けない反響をみせた。
「約束ですよ!」
「あぁ、約束だ」
 さっそく出掛ける準備を始める。
 俺の準備は、日差し避けのスカーフとショールを巻くだけで終わる。
 朝になっても洞穴の中には太陽の光が入らないため、ソニアは準備に手間取ったようだ。
「トープさん、大変です! 車がありませんよ!」
 準備を終えて外に出たソニアは、開口一番にそう叫んだ。
「心配ない、こっちに向かっている」
「向かっている?」

 反響定位による周囲の把握が可能となった俺は、アリゾナ州の州都であるフェニックスへと移された。
 〝人間の脳からの直接命令ブレイン・マシン・インターフェイス〟による機械の遠隔操作の研究に、実験体として参加するためだ。
 研究を行っているのは、国防総省の機関・国防高等研究計画局。
 人間の脳に人為的に手を加える行為が倫理面で問題とされるため、この研究は公にされていない。俺に拒否権はなかったが、あったとしても拒否はしなかった。フェニックスへと移る際に、トープ・ソノラという新たな名前を与えられた。俺はイラクで死んだことになっている。
 フェニックスでは、カメラと脳とを接続させる実験が行われていたが、その成果は軍事利用に耐え得るまでには至らなかった。その頃、光の影響を受けない反響定位を可能とした俺の存在を知って、新たな可能性を見出したらしい。
 俺には難しすぎて、受けた説明のほとんどを理解できていなかったのだが、実験は見事に成功した。

 彼方から走ってきた無人のフォードGPWは、ソニアの真横にピタリと停車した。
 ソニアは、驚きのあまりに声を失っていた。
 呆然と立ち尽くすソニアを、背後から一気に抱え上げて助手席に座らせた。
 このフォードGPWには、俺と同じように超音波振動子と受振機が搭載されている。電波を介して信号を受信することで、遠く離れた車の周囲の情報を把握することができ、電波を介して送信することで自分の身体のように操作ができる。
 電波の送受信には、中継アンテナを使う。勿論、馬鹿正直に設置したりはしていない。アンテナは、ソノラ砂漠のシンボルであるサワロ・サボテンに偽装した状態で、砂漠全域を網羅するように設置されている。
 夜間、車を近くに置いていないのは、この場所が突き止められるのを防ぐためだ。車が止めてあれば、この付近にいる、と言っているようなものだ。
「さぁソニア、朝食の希望はあるかな?」
 食事を楽しもうという気になったのは、随分と久しぶりだ。
 自分でも気付かないうちに、ソニアに心を開いていたらしい。
25
最終更新日 : 2012-08-10 08:51:59

 5

「結局これか」
 いつものトーマスの店で、いつも通り十五分以上待たされたタマーレスにかじりつく。
「昨日トープさんが食べているのを見たときから、美味しそうだなぁって」
 いつもと違うのは、右隣にソニアが座っていることだ。
「アントニオは来てないのか?」
「今日は見てないねぇ。ビールは?」
 そしてトーマスの声は、いつも通りやる気を感じさせない。
「これから仕事なんだ、コーラにしてくれ」
「はいよ」
 コーラ瓶が小気味良い音と共に開栓される。
「お嬢ちゃんはどうするね?」
「ハマイカがあるのでしたら、それを」
 ハイビスカスの花弁から抽出した飲み物、それがハマイカ・ティー。酸味があり、砂糖を加えて飲む。冷やしても温めてもいい。飲食店や一般家庭に必ずと言っていいほどあり、大人から子供まで広く飲まれている。
 俺には少々上品な飲み物だ。
「はいよ」
 トーマスの声は、やはりやる気を感じさせなかった。

「遠出をするって言ってましたけど」
 トーマスのトルティーヤが口に合ったのか、ソニアは店を出てからも上機嫌だった。
「サルサが付いたままだ」
 親指でソニアの頬に付いたままのサルサを拭う。
 超音波は激しく減衰しながら空気中を進む。やがて何らかの物体に到達した際に、反射を起こしてその存在を知らせる。専門用語では固有音響抵抗というのだが、音波は物質間の境目で反射を起こす。つまり、最初に音波が伝わった物質である空気と、その他の物質との境目で反射が起きるわけだ。空気中の塵などにも反射してノイズを生むが、微細な粒の一つ一つを知覚できるほど繊細な感性は持ち合わせていない。
 人の肌とサルサとでは固有音響抵抗が異なるため、異物の付着にも気付くことができる。口元に付着する異物など、タマーレスに使われていたサルサ以外には考えられない。
「やっぱり、見えてますよね?」
 わざと付いたままにしていたのだと気付く。どうやら、まだ俺の目のことを信用していないらしい。だが、語調から感じる雰囲気では、怪しんでいるというより、好奇心を持って楽しんでいるようだ。
「その前に、アントニオの家に行く」
 俺の洞穴いえはソニアが生活できる環境ではないため、他の場所へ移動することにした。アントニオにはそのことを伝えておく必要がある。
 それに、どうにも胸騒ぎがする。
 トーマスの店から南、ノガレスの南西部にアントニオの家がある。大きくも小さくもない、町中にありふれた、ごく普通の家だ。
 いつもは、家の前に車を止めるとすぐに声を掛けてくるのだが、今日はそれがない。
 車を降り、玄関を開ける。中にも外にも人の気配がない。目の見えない俺でも、異常はすぐに分かった。
「どうして……」
 ソニアは声を震わせる。
 家中が荒らされていた。争った、というよりは、憂さ晴らしに暴れた、そんな形跡だ。何かを探した形跡を消そうとしたのかもしれないが、俺の目はそういった分析には向いていない。
「行こう」
 外に出ると、こちらを監視してくる複数の気配を感じた。
 俺は、内心舌打ちをしていた。
 荒事になると認識しておきながら、ソニアを連れ回した挙げ句、のこのことこんなところにまで来てしまった。結果、まんまとソニアの居場所を教えてしまったわけだ。
 勘なのだが、ソニアは自分が狙われていることだけではなく、狙われる理由も知っているのではないだろうか。自分を狙う相手の正体も、知っているのかもしれない。その証拠に、助手席に座るソニアは、聞かれたくない、という空気を発している。
 アントニオは、どこまで事情を知っていたのだろうか。

 南のサンタ・アナに向かって幹線道路を走り、途中で道を外れて砂漠に入る。道なき道を走れば、相手は開き直って追跡を続けるか、尾行を中止するかのどちらかを選ばざるを得ない。尾行者がいなければ、そのまま目的地へと向かうだけだ。
 追跡は二台。相手は開き直る選択をしたようだ。距離を詰めようと速度を上げている。砂漠の真ん中で目撃者もいないことだし、実力行使に出るつもりらしい。
 分かりやすくていい。実に俺好みの選択だ。
「トープさん」
 ソニアは不安そうに俺の名を呼んだ。
 返事代わりに、アントニオの帽子を被せる。
「大丈夫だ。すぐに終わる」
 気休めなどではない。ここソノラ砂漠は、俺の猟場なのだ。
「〝狩りの時間だシステム・ブート〟」
 声と同時に世界が広がる。
 俺の意識は、サワロ・アンテナを介して、上空二万マイルにある準天頂衛星に繋がる。
 システムオールグリーン。正常に作動している。
目標捕捉ゲツト・ア・グリツプ
 目標は、追跡してくる二台の車。
 ソノラ砂漠のあらゆる場所に、サボテンなどの植物に偽装した観測装置が設置されている。それらから送られてくる情報によって、ソノラ砂漠のどこに何があるのかを把握することができる。
 そして、把握するだけでは終わらない。
 俺の本領は、〝人間の脳からの直接命令ブレイン・マシン・インターフェイス〟による無人攻撃兵器の遠隔操作なのだから。
弾薬装填ローディング
 長距離狙撃銃スプリングフィールドM21二丁に装弾。照準は右前輪に。
照準固定ロツク・オン安全装置解除セーフティ・オフ

 〝人間の脳からの直接命令ブレイン・マシン・インターフェイス〟による操作は、本来ならば声に出す必要などは全くない。だが、声に出して目的を明確にすると、不思議とスムーズに進む。
 細かい動作は勝手にやってくれる。俺がやるのは、攻撃目標の設定と装弾、発射のトリガーを引くだけだ。
 連続した二発の銃声が響く。続いて、スピンした車が砂地を削る音が聞こえてきた。
「終わったぞ」
 ソニアに声を掛けて、緊張から解放させる。
 ソニアは、背後を振り向いて接近してくる車がないことを確認してから、ようやく安堵のため息を漏らした。
「……殺して……しまったの?」
「いや、タイヤを撃った」
 砂漠で車という移動手段を失ったわけだが、ここは町からそう離れていない。タイヤを交換することも、ノガレスに歩いて戻ることも、どちらでも可能だ。
 これで命を落とすようなら、運か頭のどちらかが悪かったということだ。責任を問われても困る。……などと言えるわけもなく。
 そうして、沈黙の時間が訪れた。

 砂漠を走ること数時間。
 到着したのは、アメリカ合衆国はアリゾナ州にあるツーソンという都市。
 ソノラ砂漠の東端に位置するツーソンには、ノガレスから車で一時間ほど北に走ることで到着する。それは国境がなければの話だ。
 メキシコ国内をうろついてソニアを危険に晒すよりも、国境を越えてアメリカに入ってしまった方が安全だと判断し、砂漠の真ん中を突っ切ってアメリカに入った。
 ツーソンには俺が自由に使える一軒家があり、普段は国防高等研究計画局の関係者が住んでいる。年に二回ある雨期の間は、そこで過ごすことにしている。
 ツーソンの北にあるフェニックスまで行けば、高層マンションに俺専用の部屋が用意されているのだが、そこを利用するのは年に数回といったところだ。
 高いところはあまり好きじゃないんだ。
「あら、雨期にはまだ早いわよ」
 別荘の管理人、アミー・マーティン。
 彼女は自身の年齢を〝二十七〟と言い張ってはばからないのだが、三十代の後半に差し掛かっているのは間違いない。
 初めて会った四年前に〝二十七〟だったのだから、よしんば最初は本当の年齢を口にしていたのだとしても、現在は〝三十一〟だ。
「あらやだ。貴方ってば、そういう趣味があったのね」
「子供の前だ。品のない冗談は止せ」
 そう言いながら、以前同じことを口走った自分を思い出して苦笑う。
「ソニアだ。事情があって預かっている」
「ソニアです」
「こちらのおねえさんは、アミーだ」
「よろしく」
 二人が握手を交わしている間、何となく居場所を失った気分になった。
「連絡してくれたら、ご馳走を用意して待っていたのに」
「缶詰なら食べ飽きている」
「あら奇遇ね、私もよ」
「ソニアにシャワーを浴びさせてやってくれ」
 アミーはソニアとバスルームに向かった。
 リビングに残った俺は、身体を投げ出すようにしてソファーに身を預けた。
 〝人間の脳からの直接命令ブレイン・マシン・インターフェイス〟による遠隔操作を長時間連続で行うと、脳は多大な負荷を受けることになる。体力的にも著しく消耗する。それは肉体的な消耗ではなく、頭脳労働を行った際のいわば精神的な消耗であり、単純な睡眠だけでは完全な回復が見込めない。
 回復に効果的なのは、アルコール、運動、そして音楽。
 アルコールについては、酔いによる誤作動を防止するために禁じられているのだが、飲んだところでお咎めを受けることはない。局の連中は、アルコールに酔った際のデータも欲しいのだろう。
 ツーソンの家には地下室があり、各種運動器具とグランドピアノが置かれている。
 ここならば何も気にすることなく演奏できるし、アミーはピアノを始めとした複数の楽器に通じている。少なくとも、ソノラ砂漠の洞穴にいるよりは楽しめることだろう。
 何より、ここにはシャワーとトイレがある。
「何か食べる?」
 バスルームから戻ってきたアミーは、そのままキッチンへ素通りする。
「俺はいい。ソニアに合わせてやってくれ」
「あの子も同じことを言っていたわ」
 前後して、冷蔵庫の開け閉めが行われた。
「トープ。貴方、誘拐犯だったのね」
「なんだと?」
「あの子の写真がニュースに出ていたわ。フアレスで誘拐されたそうだけど」
 メキシコ合衆国チワワ州の最大都市であるシウダー・フアレスは、東西に走る国境の中央付近にある。国境となるリオグランデ川を挟んで、アメリカ合衆国テキサス州のエル・パソと一つの経済圏を形成している。
 両市では収入に数倍の格差があり、フアレスに住んでいるがエル・パソで働いているという者は数多い。大半が不法な入国を繰り返している。
 フアレスでは、夜のうちに川を歩いて渡るのが一般的な密入国の方法だ。フアレス周辺のリオグランデ川は意外に浅く、膝下までしか濡らさずに川を渡れる場所がある。
 そのためアメリカへの麻薬流入が激しく、〝多数の麻薬密売組織フアレス・カルテル〟が居を構え、組織同士の争いや警察との衝突が日々絶えることなく繰り広げられている。
「年間何千人もの犠牲者がいるのに、子供一人の誘拐を取り上げたのか」
「事件に大小はないって知り合いが言ってた」
「その知り合い、良いことを言う」
 あるのは当事性の有無だけだ。自分が関わっていなければ、その事件は起こっていないも同然。年間何千人もの犠牲者を出すフアレス麻薬抗争も、今の俺にとっては他人事だ。
 俺は国防高等研究計画局に飼われている身。勝手な行動は許されない。
 許されているのは、密入国斡旋業者コヨーテとしての活動と、降り掛かる火の粉を払うために行う、少々の荒事だ。不可抗力で巻き込まれたのならばまだしも、他人事に自ら首を突っ込むことは許されていない。
「言ったのは貴方よ」
「そうだったか」
「それで、あの子は何者なの?」
「知らん。アントニオから預かっただけだ」
 そうは言ったものの、予想は付いていた。
 ソニアは、荒らされたアントニオの部屋を見て、おじいちゃん、と心配そうに呟いていた。聞こえないと思ったのだろうが、俺には聞こえてしまった。
「ここで預かるのは構わないけど、私まで誘拐犯扱いされるのは困るわ」
「何が言いたい」
「貴方の目を使わせて欲しいの」
 アミーはコンピュータのスペシャリストだ。いわゆるハッカーであり、国防高等研究計画局に勤める以前は、フリーの産業スパイをやっていたらしい。〝人間の脳からの直接命令ブレイン・マシン・インターフェイス〟による遠隔操作に興味を持ち、自ら名乗り出て計画に参加したのだと聞いている。
 テレビ局や警察のデータベースにアクセスし、必要な情報を取り出す。これがハッキングと呼ばれる行為。参照履歴などで発覚し、侵入経路から正体を突き止められることがある。
 だが、俺の目を使用した場合は少々異なる。容量の次元が違う。セキュリティを潜り抜ければ、システムをまるごとごっそり頂いてしまえるのだ。
 このやり方で、汚職や脱税の証拠などを山のように見てきたし、上院下院議員やスーパースターの子供が引き起こしたスキャンダルの類も、掃いて捨てるほど知っている。
「今度はどこに入り込む気だ」
「分かるでしょ? 私が知りたいの」
 アミーが、誘拐報道の裏側を調べよう、と言っていることはすぐに分かった。
「何も聞かないと約束してある」
「一インチ(約二・五センチ)、右にずれてたわ」
 アミーの呆れた声が、俺を貫いた。
「何がだ?」
 分かっていても、聞き返すことしかできない。
「ここに来る前に使ったでしょう?」
「熱で銃身が曲がっていたんだろ、俺はしくじってない」
「二丁とも同じように? 考えられないわ」
 三百三十フィート(約百メートル)の距離で一インチずれるのは、角度にして〇・〇二度以下の狂いが生じていることになる。通常は誤差の範囲内。だからこそ、偶然ではない。
「それがどうした」
「右側に気を取られる何かがあったのよね」
 運転席の右側は助手席。あのときそこにいたのは、身を震わせるソニア。
「だが俺は――」
「もう甘えるのはやめなさい、トープ」
 俺は言葉を失ってしまった。
「いいじゃない、守ってあげたいんでしょ?」
 俺には、一度だけ頷くのが精一杯だった。

「準備できたわ」
 アミーの合図を受けて、深く息を吐く。
「システム起動」
 声と同時に意識は上空二万マイルの衛星軌道上に飛ぶ。
 システムオールグリーン。感度は良好だ。
 衛星にはカメラも取り付けてあるが、俺はその映像を見ることができない。もしも擬似眼球に映し出すことができたのなら、それだけを見て生活するだろう。
 どこかの国の宇宙飛行士が、宇宙からは国境が見えなかった、と言ったそうだが、地上にはハッキリとした金属フェンスの国境が存在し、今日この瞬間も拡張され続けている。
 ハッキリしているのは俺好みなのだが、そればかりは好きになれそうにない。
「ポート解放。チャンネル接続」
「オーケー、接続したわ」
 アミーは僅かに興奮した声を発した。ハッキングは彼女にとって至福の時間なのだ。
 どういう状況で誘拐されたことになっているのか。現場はどこになっているのか。ソニアの素性、アントニオとの関係、ソニアを狙っていた者たちの正体。アントニオの安否と所在。調べることは、まだまだ他にもある。
「ソニアがシャワーを終える前に済ませよう」
「そうね、まずはどこから行く?」
 ソニアが誘拐されたというシウダー・フアレスでは、麻薬密売組織同士の抗争と、それを取り締まるメキシコ警察との間で起こる銃撃戦が、場所も時間も選ばれることなく発生する。それを引き起こしているのは、国境の存在でもなければ、南北の経済格差でもない。
 麻薬。すべてはその一言で説明できる。
 そして、その麻薬に関する情報を扱っている機関が――
「エル・パソ情報センターだ」



 6

 子供が歩いてくる。男の子だ。小さな男の子。歳は十にも満たない。
 その小さな手に、あまりにも不似合いな箱を抱えて、ゆっくりと歩み寄ってくる。
 俺は叫んだ。止まれ、その箱を置くんだ、繰り返し叫んだ。
 それでも少年の歩みは止まらない。頼むから止まってくれ、という懇願にも似た祈りも、届きはしなかった。
 俺は引き鉄を引いた。
 死にたくない。それだけが頭にあった。
 非戦闘員は市街に退避している。逃げ遅れた市民には外出禁止令が通達されている。
 俺は繰り返す。非戦闘員は市街に退避中。逃げ遅れた市民は外出禁止。俺は繰り返した。何度も、何度でも。
 箱は爆弾ではなかった。
 殺すことを拒否し、殺されることも拒否し、最終的に我が身を優先した。
 俺は、受け入れられない現実から逃げるために、自らの命を絶たんと銃口を頭に据えたのだ。
 生き延びはしたが、心は死んでいた。残った身体は、〝意思を持たぬ殺戮兵器トープ・ソノラ〟になった。

「トープ、起きて」
 アミーの声。俺はいつの間にか眠りに落ちていたらしい。
「あぁ、すまん」
「疲れているところ申し訳ないけど、あの子がシャワーを終えて出てくるわ」
 俺とアミーは、この騒動の全貌を解明するために、エル・パソ情報センターのデータベースに侵入した。
 まず、ソニアの母親について。
 彼女はアメリカ麻薬取締局の特殊捜査官だった。これは、センター経由でバージニア州アーリントンにある麻薬取締局に侵入して確認した事実だ。
 フアレスでの潜入捜査を行っていた彼女は、麻薬密売組織の男に近づいた。それがアントニオの息子、ソニアの父親となる男だ。
 記録によれば、彼女は十年前に死亡している。ソニアを産んですぐのことだ。ここで分からないのは、麻薬捜査官が麻薬組織の男の子供を産む理由だ。
 次に、ソニアの父親について。
 彼の情報は、麻薬取締局に重要機密として保管されていた。彼はアントニオの息子だ。従って、ソニアはアントニオの孫となる。
 彼は父親であるアントニオに自分の娘を預けた。ただでさえ面倒見の良いアントニオのことだ、頼みを断ることはないだろう。この仮定は筋が通る。ただ分からないのは、彼がソニアを預けた理由だ。
 そしてアントニオ。
 アントニオは、息子から預かった孫娘を俺に預けた。俺に預けたのは、これは俺の勝手な想像だが、自分が息子の元へ向かうためだと考えている。その根拠はある。
 アントニオは麻薬を忌み嫌っている。自分の息子が麻薬密売組織に加担していると知れば、地の果てまでも追い掛けて、殺してでも止めさせる。アントニオとはそういう男だ。
 だがアントニオは、そんなことのために息子の元へ向かったのではない。もしそうであれば、家が荒らされる理由がない。
 アントニオは俺にソニアを預け、自分の意思で家を出た。そのあと、何者かが家を荒らした。俺がタイヤを撃ち抜いた車に乗っていた連中なのだろうが、奴らの狙いがソニアであれば、家を荒らす理由がない。
 最後にソニア。
 アントニオの孫で、麻薬密売組織の構成員と麻薬捜査官との間に産まれた子供。
 仮に、父親が大幹部で、母親はその信用を得るために子供まで産んでみせた、とすると、ソニアには辛い現実となる。麻薬に対して強い憎しみ抱くソニアが、こっそり家を出てアントニオの元に向かったとしても不思議ではない。
 だが、ソニアは父親に対して憎しみを抱いていない。会えなくて寂しいとまで言っている。父親によってアントニオに預けられた、というのは確定的だ。
 また、そうでなければ、アントニオは自分の息子、つまりソニアの父親の状況を知ることはなく、自ら出向くこともない。
 孫娘を置いて町を離れる理由が別にあるのならば、話は変わってくるのだが。
 父親と共にアントニオを訪ねたのか、父親に言われて一人で訪れたのかは分からないが、ソニアがフアレスから来たのであれば、アントニオが向かった先もフアレスだ。
 これらの事実と仮定とを整理する。
 ソニアが狙われているのは、何らかの付帯的な理由だと考えられる。例えば、父親に対する脅迫の道具などだ。
 しかし、アントニオの家が荒らされていた事実を踏まえると、何かを探していると考えるのが妥当だ。つまり、狙いはソニア自身ではなく、ソニアがフアレスを離れる際に持ち出した何か、にある。
 ソニアの父親は、麻薬密売組織の連中が必死になって探さねばならないような何かを自分の娘に持たせ、アントニオに託した。
 こう考えると、麻薬捜査官であるソニアの母親が、麻薬組織の男の子供を産んだ理由も見えてくる。
 単純なこと。二人は愛し合っていたのだ。
 志を同じくした者同士が惹かれ合うのは至極自然の流れだ。つまり、ソニアの父親も麻薬密売組織を潰すために潜入していたのだ。
 アントニオはそれを知っていたからこそ、追い掛けて撃ち殺すような真似をしなかったのだろうし、ソニアの父親の情報が麻薬取締局に重要機密として保管されていたことも、協力者なのであれば納得できる。

「俺はどれぐらい眠っていた?」
「そうね、五分ぐらいかしら」
 ソニアに確認しておきたいことがある。大差はないが、アミーからではなく俺から確認するべきだろう。
 バスルームの扉が開くと、アミーはそそくさとキッチンに向かった。
「おかげさまでとても爽快です。ありがとうございました」
「えっと、フルーツジュースを作るけど、苦手な果物ある?」
「いえ、平気です。いただきます」
 ソニアの逐一丁寧で丁重な物言いには、アミーも対応に困るようだ。
 ソニアは、俺の対面のソファーに座った。
「最初からここに連れてくるべきだったな」
「聞いてもいいですか?」
 ソニアは俺の様子見の軽口をあっさりと撃ち落とす。
「ん? あぁ、いいぞ」
 機先を制され、少々途惑ってしまった。
「タイヤを撃ったと言っていましたけど、どうやって撃ったんですか?」
 ソニアは、何かの意図を持って質問しているようだった。誤魔化すこともできたが、そうしてはならないような気がした。
「砂漠のあちこちに仕掛けがあるんだ。車と同じように、それを自由に動かせる」
「車の運転をしていたのに、同時にそんなことができるんですか?」
「それはだな……」
 俺の感覚では手足と同じであって、身体の一部なのだ。どうやれば両手両足を同時に動かせるのか、と聞かれても、答えに困る。
「それは?」
 ソニアは、考える暇も与えてくれない。
「トープはそれ以上説明したくてもできないのよ。よく分かってないから」
 そこにアミーの助け舟が入った。助け舟かは怪しいが、そういうことにしておく。
「アミーさんはご存知なんですか?」
「彼はね、指揮者マエストロなのよ。音楽をやっているなら分かるわよね? 理論が知りたいのなら特別に教えてあげるけど」
「いえ、そこまでは。でも、指揮者と聞いてナントナク分かりました」
 指揮者という説明が正しいのかどうかは俺にも分からないが、ソニアが納得できたのならそれでいい。
 ソニアは息を呑んで身体に力を入れた。緊張が伝わってくる。
「トープさん、お強いんですよね?」
 鳥肌が立った。
 ソニアの言葉は、悲壮とも言える決意に包まれていた。出方を窺った自分が恥ずかしくもなる。
「聞いて欲しいことがあります」
 それが何かなど、考えるまでもない。俺が聞き出そうとしていたことだ。
 今まで話そうとしなかったのは、口止めされていたからだ。
「待て、ソニア」
「トープさん、聞いてください。私は!」
 何も言わず、何も聞かず。それがアントニオとの約束だ。
 俺は、約束を破るわけにも、約束を破らせるわけにもいかない。
「約束を破ること、約束を破らせること、どっちが悪いことだと思う?」
「それは……」
 勝手な行動は許されない。そんなものは、ただの甘えだ。
 俺は、すべてを他人任せにすることで、責任から逃れたかっただけだ。命令されたからやった、そんな子供の言い訳で、一体誰が納得するというのか。
「一つだけ、教えて欲しいことがある」
 問いただすべきこと、確認すべきこと、それは幾つもあった。だが、すべて頭から消えた。そんなことはどうでも良くなった。
「ソニアの夢を教えてくれ」
 訪れる数秒の沈黙。
「世界一のヴァイオリン奏者になることです」
 アミーの忍び笑いが聞こえた。ソニアではなく、俺に向けられたものだ。
「いいね、実に俺好みだ」
 アントニオは、フアレスに息子を助けに行っている。二人ともまだ生きているかどうかは分からないが、ソニアに父と祖父の両方を失わせるわけにはいかない。
「アミー、俺はフェニックスへ行く。ソニアを頼むぞ」
「トープさん?」
 ソニアは、俺に困惑の声を投げた。
「任せておいて」
 果物の皮を剥く音。柑橘系の甘い香り。出来上がったジュースは、きっとソニアを落ち着かせてくれるだろう。
「トープさん!」
 手を伸ばし、ソニアの頬を撫でた。
 たったこれだけのことなのに、俺は何を恐れていたのだろうか。
「ソニア、世界一になれ。約束だ」
 ソニアは今、どんな表情をしているのだろうか。分からないことが残念でならない。

 ツーソンの家を出た俺は、トープ・ソノラが生まれた場所、フェニックス・シティへと車を走らせた。トープ・ソノラという俺の名前は、ソノラ砂漠でしか生きられないモグラ、という意味の蔑称だ。
 シウダー・フアレスは、ソノラ砂漠に設置されているサワロ・アンテナの範囲外にある。つまりは巣穴の外。巣穴の外に出たモグラは、餌を獲ることができずに餓えて死んでしまう。
 何の準備もせずに乗り込めば、どんな運命を辿ることになるのかは考えるまでもない。兵役と戦争を経験しているからといっても、俺はスーパーマンでもアクションヒーローでもない。
 サワロ・アンテナがなければ、代替品を用意すればいい。ここフェニックスには、それがある。
「お帰り、トープ・ソノラ」
 できるなら聞きたくなかった声が、国防高等研究計画局の実験施設に着いた俺を迎えた。声は扉脇のスピーカーから発せられている。
 奴の名はジョゼフ。俺に、モグラ、という名を付けたフランス人マッドサイエンティスト。認めたくはないが、俺の恩人でもある。
 ジョゼフは、俺が行った遠隔操作の情報をスタッフと共にここで分析し、新たな技術開発の糧としている。
「〝その名前フルネーム〟は好きじゃないと言ったはずだ」
 俺の声に反応して、扉の電子ロックが解除される。
 開かれた扉の先には、ほんの数歩先にまた同じような扉があり、足を踏み入れると、後方の扉はロックされる仕組みだ。
「君好みのいい名前だと思うがね」
 この他人を見下した口調は、いつ聞いても癇に障る。慣れることはない。相手にしないに限る。
「アミーから連絡を受けているはずだが」
 二つ目の電子ロックが解除される。
 残す扉はあと一つ。
「勿論だとも。早く君に自慢の玩具を見せたくて、うずうずしていたよ」
「一番の玩具は、この俺だろうに」
 三つ目の電子ロックが解除され、最後の扉が開かれた。
 ジョゼフの肉声が耳に届く。
「言うようになったな、トープ。良いことでもあったのかね?」
「大したことじゃない。失くしていた意思ものを取り戻しただけさ」



 7

 夜明けが訪れた。
 肌に当たる太陽の光を感じながら、シウダー・フアレスの西にある山の麓へと向かう。
 そこには、とある麻薬密売組織のアジトがある。敷地を塀で囲んだ二階建ての豪邸で、メキシコには似合わない欧州建築の外観をしているそうだ。
 警察もこの情報を知っているが、監視するに留まっているようだ。
 本当の理由は、署長が麻薬密売組織の頭・バシリオと癒着しているからなのだが、そうでもしなければ、署長の家族は全員が蜂の巣にされてしまうのだそうだ。
 同情はするが、興味はない。
 鉄柵で閉ざされた入口には、二人の見張りが立っていた。
 車から降り、両手を上げて武器を持っていないことを示しながら、徒歩でゆっくり近づいた。
「止まれ、何者だ」
 鉄柵の向こう側、俺に向けられたアサルトライフルの銃口が二つ。
「バシリオに話がある。取り次いでくれ」
 歩みを止めずに声を掛ける。
「帰れ。お前には会わ……」
 消音装置サプレツサー付き長距離狙撃銃スプリングフィールドM21による、距離千三百フィート(約四百メートル)からの眉間に孔を穿つ精密射撃。
 今の俺は、ただの密入国斡旋業者コヨーテではない。
 目が見えなければ、容姿に惑わされることもない。武器を持った何か、ただそれだけが知覚できればいい。大きいか小さいかは問題じゃない。武器を所持しているかどうか、ただその一点のみ。
 武器を向けてくる相手に対しては、躊躇なく引き鉄を引く。テレビゲームのモンスターに対するように。淡々と。冷徹に。冷酷に。
 俺には覚悟がなかった。
 殺すか殺されるか。
 ハッキリしていて分かりやすいその現実を、受け入れるだけの覚悟がなかった。
「いいさ、勝手に会いに行く」
 愛車フォードGPWが俺を追い抜く際に、荷台のシートを引き剥がす。
 荷台に搭載してあるのは、一分間に四十発の榴弾を発射できるグレネードマシンガン。勿論、〝人間の脳からの直接命令ブレイン・マシン・インターフェイス〟による遠隔操作に対応している。
 フェニックスから持ち出した遠隔兵器おもちやは、まだまだある。
「〝開演時間だシステム・ブート〟」
 声と同時に、俺の意識は上空二万マイルの衛星軌道上へ。
 この敷地の周囲には、サワロ・アンテナの代替品を設置済みだ。
 コンディショングリーン。チャンネルロック。システム、一部制限付きで稼動中。
 まずは鉄柵の門をこじ開ける。
弾薬装填ローディング
 グレネードマシンガンに装填される第一弾は、暴徒鎮圧用ゴム弾。発射されたゴム弾は、十字形に展開して目標に打撃を与える。
照準固定ロツク・オン
 目標は言わずもがな。邪魔な鉄柵の門だ。
安全装置解除セーフティ・オフ
 にわかに敷地内が騒がしくなった。いつまでも動かない車のエンジン音を不審に思ったのだろう。
 だが、もう遅い。
 ゴム弾は狙い通りに鉄柵の門を薙ぎ倒し、その場に倒れていた二人の見張りを下敷きとした。これで、車は簡単にはここを通れなくなる。
「見張りよろしく」
 見張りの男であった物体に向けて、別れの言葉を告げる。
 敷地内に入った俺の頭上を、次弾が高速で通過する。三発目までは爆薬が詰まった対物弾が発射され、建造物を破壊する。
 三発目のグレネード弾は、見事に正面玄関を吹き飛ばした。
 続く四発目と五発目は煙幕弾。射角を変え、二階の窓へ撃ち込む。
 六発目は音響閃光弾。煙から逃れようと窓から顔を出した相手を嘲笑う一発。
 屋敷の上空には、二十四インチ(約三十センチ)程度の小さな飛行船が複数飛んでいる。
 当然、すべて俺の遠隔兵器おもちやだ。
 遥か頭上から煙幕弾を投下し、俺の周囲を包み隠す。また、低反動のサブマシンガンを搭載し、上空からの強力無比な射撃を加える。
 煙によって視界を奪うことで、俺自身は勿論のこと、上空の飛行船の姿をも隠すことができる。音に頼って気配を探ろうと耳を澄ませば、音響弾によって耳をやられる。煙の隙間に目を凝らせば、閃光弾が飛んでくる。
 音と光と煙。この三つに支配された空間を見通せる者などいない。
 音響弾は、イヤープロテクターをしていれば脅威ではなくなるし、閃光と煙幕は、元より俺には無効だ。少し臭うが。
 あとは、玄関から飛び出してくる者、窓から銃を構える者、それぞれを個別に狙い撃つだけだ。麻薬密売組織のアジトとはいえ、何百人と常駐しているわけではない。制圧は時間の問題だ。
 門から玄関まで百フィート(約三十メートル)。屋敷の間取りは頭に入っている。バシリオの部屋は二階の奥だ。
 玄関前には、虫の息の男が横たわっていた。震える手で銃口を向けてきたが、引き鉄を引く力は残されていなかったようだ。
 無意識に拾い上げたその銃が、かつて自分の頭を撃ち抜こうとした銃・ガバメントであると分かり驚愕する。同時に、笑いも込み上げてくる。
 入ってすぐの広いエントランスホールは吹き抜けになっていて、正面には二階へ上がる大階段、左右には一階部分を見下ろせる廊下がある。待ち伏せに適した構造だ。
 予想通り、複数の銃口が待ち構えていた。
 発煙筒をまとめて投げ込み、視界を奪う。ホール全体を煙で満たす必要はない。自分の周囲か、相手の周囲か、もしくは両者の中間、そのどこかに視界を遮る煙があればいい。煙に紛れて飛行船を侵入させた時点で、勝負は決まっている。ヘリではなく飛行船を採用しているのは、ローターの風圧で煙幕が流れてしまわないようにするためだ。
 エントランスを抜け、階段を上がり、奥へと進む。
 突き当たりにあるバシリオの部屋にいるのは、一人だけだ。窓が割れてさえいれば、飛行船からの反響定位で把握できる。
 扉を開ける前に、グレネードマシンガンの砲撃を止め、煙幕が残っている間に飛行船を退避させた。
 ノブに手を掛け、引き開ける。
「派手に暴れてくれたな」
 俺を迎えた声は、冷静を装っているものの、怒りを隠しきれていなかった。
「俺はいつも加減を間違うんだ」
 大きな椅子に身体をうずめて、大物の余裕を演出しているつもりなのだろうが、そもそも俺はこいつ自身に興味がない。
「幾らで雇われた? その倍を払おう」
「金はいらん」
「では、何が望みだ? 言ってみろ」
「友人を捜している」
「では取引をしよう。見逃してくれたら、友人の場所を教える」
「断る」
 ガバメントの銃口を向け、引き鉄を引く。銃弾は、スタンドライトを弾き飛ばした。
 ひぃ、と情けない悲鳴が聞こえる。
 俺は続けて引き鉄を引いた。瓶が割れる音がして、強いアルコールの匂いが漂った。テキーラでも入っていたのだろう。
「ここにはいない! いないんだ!」
 次の一発は、頭近くの背もたれ部分を抉り取った。
「分かった! 言う! 俺の店の倉庫だ!」
 四発、五発、六発と、構わずに撃ち続けた。
「本当だ! 助けてくれ! もう手は出さない! 許してくれ!」
 残弾は一発。俺はその一発を天井に向けて撃った。バシリオのような小物が組織の頭であれば、これ以上大きな動きは起こさないだろう。
 弾を撃ち尽くしたガバメントを投げ捨てる。
「次はないぞ」
 あとは、アントニオを見つけ出してノガレスに帰るだけだ。
 部屋を出ようと背を向けた瞬間、背後で拳銃の安全装置が解除される音がした。俺は反射的に身体を右に倒し、回避行動をとる。
 左肩に激痛が走る。
 どうやら手元に銃を隠していたらしい。回避行動をとっていなければ、致命傷を受けていただろう。
 苦痛に耐えながら、足で扉を閉めた。
 弾が命中したことはバシリオも分かっているはず。ならばとどめを刺しに来る。ただ閉めただけの扉では、時間稼ぎにもならない。
 自分の迂闊を悔やむ間を惜しんで立ち上がり、壁に身を預けながら扉から離れる。
 弾は肩を貫通しているが、左腕はしばらく使えそうにない。更に、撃たれたショックで全身の運動機能が低下している。
 背後の扉が開き、嘲笑交じりの荒い息が聞こえてきたが、俺は意に介さず前進を続けた。
「命乞いをすれば、助けてやらんでもない」
 その直後、銃弾が俺のすぐ脇を掠めて飛んでいった。
「ヒャッハーー!」
 バシリオは狂ったような叫びを上げている。
 耳障りで不快極まりないが、相手にしている場合ではない。
「こんな思いは……」
「何だって? 聞こえねぇぞ?」
 俺のすぐ後ろの壁に弾が命中し、飛び散った破片が背中に当たる。
「……二度とごめんだ」
 俺はゆっくりと振り向いた。
「やっと観念したか」
 次の弾は、俺の足元に着弾した。発射時の銃口角度から、命中しないことは分かっていた。そんな虚仮威こけおどしは通用しない。
「許してやろうと思ったが、やはりお前のような男は嫌いだ」
「あ?」
照準固定ロツク・オン安全装置解除セーフティ・オフ
 俺の狙いは、グレネードマシンガンの対物弾で奥の部屋を砲撃し、部屋ごと奴を吹き飛ばすことにあった。その際、廊下にいては爆風に晒されてしまう。
 だから俺は、わざわざ別の部屋の入口こんなところまで歩いたのだ。
 俺に銃口を向けた者が辿る末路は常に一つ。
「〝追加演奏アンコール〟は一度だけだ」
 グレネード弾が奥の部屋を直撃し、バシリオの背後の空間が一気に膨張する。
 俺は廊下から室内へと身体を投げ出した。
 床に倒れ込んだ際の衝撃が肩の傷に強く響いて、気を失いそうになったが、何とか爆風を避けることができた。
 だが、これで終わりではない。
 警察が来る前に周囲に設置したアンテナも回収して立ち去らねばならないし、アントニオの救出にも向かわねばならない。
 それを思うと、頭が痛い。
「本当に〝最初で最後にして約束は守つて〟欲しいものだ」
 なぜかは分からないが、俺は笑っていた。



 8

 メキシコ合衆国ソノラ州。八割以上を砂漠が占め、西側はコルテス海に面している。
 主な産業は、畜産と鉱業、そしてコルテス海を利用した観光業。
 最後にもう一つ、アメリカへの密入国斡旋業。俺が生業としている仕事だ。
「おぉアントニオ。珍しいな」
 朝食のタマーレスにかじりついていた俺は、店に入ってきたアントニオに対し、店主のトーマスよりも先に声を掛けた。
 ついさっき、アントニオが毎朝ここに来ていたことを聞いたばかりだ。
「怪我はもういいんですかい?」
 アントニオはまだ足を引き摺っているが、順調に回復しているようだ。
 アントニオは、バシリオが経営している酒場の倉庫に、息子と一緒に監禁されていた。二人とも酷い怪我をしていて、殴る蹴るの拷問を受けていたらしい。
「ご覧の通りさ」
 盲人の俺が、ご覧の通り、という言葉を使うのは、なかなかにハイセンスなユーモアだと思っている。俺は気に入っている。
「お祝いに乾杯でもしやしょう」
 バシリオのアジトに乗り込んだあの日から、すでに一ヶ月が経過している。
 その間、俺はフェニックスの研究施設に拘束されていた。拘束とは名ばかりで、傷の治療と目のメンテナンスを受けていたのだが、新しい感覚に慣れるのに時間が掛かったのだ。
「奴ら、このノガレスを密輸ルートにしようとしてやがったんですよ」
 一連の顛末は、研究施設で聞かされている。
 バシリオは、ノガレスの国境警備隊の一部を抱き込んで、新たな麻薬密輸ルートを作り上げようとしていた。
 その第一手として、邪魔な密入国斡旋業者コヨーテと情報屋たちを一掃する計画があった。
 その計画の情報を掴んだソニアの父親は、即座に麻薬取締局へ知らせようとした。ところが、内通者であることに気付かれてしまい、すべての情報が入ったディスクを娘に持たせ、ノガレスのアントニオの元へと行かせた、というわけだ。そのディスクは、ソニアが俺の洞穴いえの傍に埋めていたそうだ。
 以前から司法取引によるテキサス州への移民が決まっていて、すでに父娘揃ってアメリカ国籍を取得している。
 ソニアとは、ツーソンで別れてから一度も会っていない。
 アミーを通じて、お見舞い行ってもいいですか、との連絡が何度かあったのだが、すべて拒否した。
 今の俺は、表舞台に立つことを許されぬ身。そんな俺に関わっていれば、ソニアの未来に悪影響を与えてしまう。
 俺の名はトープ・ソノラ。その名が持つ、ソノラ砂漠でしか生きられないモグラ、という意味の通り、地面の下に住む者であって日陰者ですらない。
 ソニアが夢を叶えるためには、これ以上関わってはならないのだ。
「お礼を言い忘れてやした」
「礼などいらん。好きでやったことだ、俺自身のためにな」
 俺には夢があった。人生の目標があった。
 世界中に音楽を届けたかった。世界一のコンサートホールで、世界一のリサイタルを開きたかった。世界一のヴァイオリン奏者になりたかった。
 ソニアには、俺の代わりにその夢を叶えて欲しいと思った。その夢を叶えるには、支える存在、家族の存在が不可欠となる。
 だから、俺自身のためにやったことなのだ。

「おや、こいつは珍しい」
 アントニオが、驚きの声を上げた。
「お久しぶり」
「なんだ、アミーか」
 どちらに言ったのか分からない挨拶に対する皮肉を込めて、精一杯がっかりしてみせる。
「ソニアちゃんの方が良かったかしら?」
「そんなことはない」
「トープ、貴方に渡す物があって来たの」
 アミーは俺の右隣の椅子に箱を置いた。それは、アミーの家に持ち込んだままになっていた、俺のヴァイオリンケースだ。
「それと、ソニアちゃんからのお手紙」
「手紙だと?」
「大丈夫よ、音声で録音してあるディスクだから。すぐ聞きたいでしょ?」
 アミーは俺の耳にイヤホンを押し付けた。

『――トープさんへ
 これを聞いているということは、元気になられたということでしょうか?
 面会もできないほどの重傷だと聞いているので、とても心配です。でも、大丈夫だと信じてこれを送ります。
 私はドイツに留学することにしました。トープさんと約束した通り、世界一のヴァイオリン奏者を目指します。アミーさんが、ベルリン芸術大学の先生を紹介してくださったのです。今はドイツ語を勉強しながらなので、とても大変です。
 そういえば、トープさんのお名前はドイツ語だったんですね。〝トープ〟が〝場所〟という意味だったので、スペイン語の〝ソノラ〟と合わせたお名前はとても素敵だと思いました。
 トープさんのヴァイオリン、本当はドイツまで持って行ってしまおうと思ったのですが、やっぱりお返しすることにしました。
 トープさんにも、ヴァイオリンを弾き続けていて欲しいから。
 まだまだ話し足りませんが、私もあまり時間がありません。
 だから、最後に一つだけ。
 正直、ヴァイオリンの練習は毎日とても辛いです。逃げ出したくなります。
 だから、お願いがあります。私が世界一のヴァイオリン奏者になったら、そのときは、私と一緒にヴァイオリンを弾いてください。私はそのためだったら、どんなに辛くても耐えられます。
 お返事をいただけたら、嬉しいです。
 ソニアより――』

 俺はイヤホンを外した。
「アミー」
「何かしら?」
「約束を破ること、約束を破らせること、どっちが悪いことだと思う?」
「そうね。難しい質問だけど、これだけはハッキリ言えるわ。悪いのは貴方よ、トープ」
 薄々感じていたことをハッキリと言われると、かえって気持ちが良い。
 ハッキリしていて分かりやすいもの。それが俺の好み。
「一つ、頼まれてくれるか」
「いいけど、高いわよ?」
 俺はまだ、約束を果たしていない。

 翌日の明け方、俺はただ一人砂漠の真ん中で、ヴァイオリンを構えた。
 明らかに睡眠時間が足りていないが、演奏を失敗したときの口実にしてやる。
「〝ヘタクソだが笑うなよシステム・ブート〟」
 意識は上空二万マイルの衛星軌道上へ。
 システムオールグリーン。
 ソノラ砂漠に散らばる情報収集用サワロ・センサを使って、ヴァイオリンの音を集音する。その際、集音マイクまでの距離の差を利用して、屋外では起こらないはずの反響による音の重なりを実現する。ソノラの砂漠は、世界一のコンサート会場へと変貌するのだ。
 ここで行われた演奏は、衛星回線を通じてどこまでも響きわたる。
 そう、ドイツのソニアにも届けられるのだ。
 時差は七時間。こちらでの明け方は、向こうでは昼過ぎだ。

 こうして俺は、ヴァイオリンを演奏して聴かせるというソニアとの〝一つ目の約束〟を果たした。
 俺の名はトープ・ソノラ。
 トープは、ドイツ語で〝場所〟という意味を持ち、ソノラは、スペイン語で〝響きわたる・音〟という意味を持つ。
 ソニアが教えてくれたこの言葉を都合良く意訳すれば、〝音が響きわたる場所〟となる。
 俺が毛嫌いしていたトープ・ソノラという名前は、案外心地の良い名前だったらしい。



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