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 船を待っていた。
 湿って熱い空気が風もなく人々を包み、うだるような真昼の時間が、ねっとりと這うように過ぎていく。
 船着き場は、細長い木の葉でかれた屋根があるだけの、掘っ立て小屋のような建物だ。人々はそこの地べたに直に座りこみ、思い思いの方法で時間をつぶしていた。
 私には行くあてがなかったが、とにかくこの河を渡ってしまいたかった。
 一見、海かと思うほどの、雄大なる大河だ。泥のような色をした水がうねり、水量豊かに流れ去っていく。
 河岸かがん近くには、丸い形の大きな浮き草が繁茂していて、その上を歩けば、水の上に立っても沈まないのではないかと思えるような、鮮やかな緑の絨毯となっている。
 浮き草は、鮮やかなピンク色の大きな蕾を、いくつもつけていた。
 あれが咲く時には、ぽん、と弾けるような音がしそうだ。
 私はそんな妄想をして、河岸の柵にもたれながら、わずかな荷物を抱えていた。
 もう朝からずっと、ここで待たされている。地元の者らしい他の客たちが、文句を言う気配もないのを見ると、この船着き場に船がなかなか来ないのは、どうやらいつものことらしい。
 とにかく暑い。蒸籠せいろの中で蒸されるように、暑い。汗にまみれた喉頸が、垢じみて痒かった。誰の目もなければ、今すぐ裸になって、目の前の河に飛び込んで泳ぎたいくらいだ。たとえ泥のような河でも、いくらか涼しくなるだろう。
 私がそんな軽口を言うと、私に世間話をしかけてきた地元の老人は、楽しげに私を止めた。
「それは止したほうがいい、旅の人。この河には、人食い魚がおるから」
 なんなら試しに飛び込んでみたらどうかという、悪戯好きな悪童の表情が、白髭を蓄えた老人の、穏やかな赤銅色の顔に浮かんでいる。
「人食い魚? それはいったい、どんな魚なんです?」
 興味をそそられて、私は訊ねた。この際、どんな法螺話でも、退屈しのぎに有り難い。
「なに、どうということもない、普通の魚だよ。手のひらぐらいの大きさで、群れでやってくる。やつらは何でも食うだけだ。人も魚も獣も、分け隔て無くな」
「それは怖いですね」
 調子を合わせて、私は応えた。すると老人はくしゃくしゃと顔をしかめた。
「いやいや、この河岸で本当に怖いのは人食い魚などではない。船に乗ってやってくる人買いだ」
 首を振り、舌打ちをしながら、老人は語った。
「貧しさのあまり、娘を街に売って糊口ここうしのぐ連中がおる。ほら、見ろ、そこにもおる」
 老人が指さす先を見ると、船着き場のすみに、ひとりでじっと座っている若い娘がいた。
 すらりと伸びた美しい脚をしており、細かく波打った長い黒髪を、華奢な体にまとうように伸ばしている。赤銅色の肌をした顔には、硬い表情が浮かんでいたが、河を見つめる彼女の黒い瞳は、はっとするほどの強い視線を放っていた。
 綺麗な娘だった。
 荷物に腰掛けて、河を見つめる横顔をこちらに向けている彼女に、私はしばし見とれた。
 彼女は首からさげた、麻ひものようなものを、しきりに指でなぶり、そこに吊してあるらしい何かを、まさぐっている。首飾りのようなものに、私には見えたが、それは美しい彼女の身を飾るには、あまりにもお粗末だった。
 彼女のためになら、高価な装身具や衣装を、いくらでも買い与える男がいるだろう。河岸の泥に咲いた、鮮やかな花のように、彼女はこの船着き場の埃っぽい空気の中でも、際だって美しい、異質な存在だった。
 それは周囲で待つ者が、彼女を避ける様子でいるせいかもしれなかった。こんなに美しい娘なのに、誰も彼女に微笑みかけもせず、物欲しげに眺める者さえいない。忌まわしい不運に関わらぬようにと、皆が皆、知らん顔を決め込んでいるらしかった。
 その姿に、じっと目を向けているのは、通りすがりのよそ者である私ひとりだ。
 娘は私の視線に気づく様子はなく、決然と押し黙り、河を見つめるだけだった。
 やがて不意に彼女は立ちあがり、首からさげていたものを、力任せに引きちぎった。そして手の中にある何かをじっと見つめ、とうとう意を決したように、河へ向かって投げ捨ててしまった。
 彼女が何を投げたのか、私はとっさの興味で河へと視線をうつした。長い弓のような軌跡を描き、それは丸い浮き草の尽きた先の、河の流れの中へと落ちていった。
 河の上流から、一艘の白い船が現れていた。
 船体は三階建てになっており、船の両脇に二つ建った黒い煙突から、もうもうと白い煙を吐いている。その客船は外輪船と呼ばれる種類のもので、石炭を焚いて湯をわかし、その蒸気で水車のような巨大な輪を回して、船を推進させる仕組みになっているものだ。
 汽笛を鳴らし、船はこちらへやってきていた。
 船着き場で待ちくたびれていた乗客たちが、一斉に、よっこらせと重い腰をあげる。
 ゆっくりと接岸した外輪船は、大人の腕ほどもある太い舫綱もやいづなで、船着き場に係留された。船の柵が開くと、そこから降り立つ乗客は多くはなく、街から戻った土地の農民ふうの者がちらほらいる他には、明らかに異質な、太鼓腹で、口ひげを蓄えた、赤いシャツの男がひとりきりだった。
 男は白いハンカチをとりだして、汗をふきながら、大股で船着き場へと入り込んできた。一目見て、いやな男だと思える人物だった。
 旅を楽しむふうでもなく、嫌々やってきたという不愉快顔で、河岸に降り立ち、男は少しの間きょろきょろとして、船に乗り込んでいく他の乗客たちの中を、探し回る目をしていた。
 太った男の目元は、だらりと緩みきっており、鈍重そうだったが、それでも群れの中から、ほふる一頭だけを見極めるような、鋭い目つきだった。
 大汗を垂らしながら、男は立ちつくして自分を見ていた若い娘を、やっと見つけた。
 私と老人は、それを眺めた。
 男は酒に焼けたような大声で喋った。
「こりゃあ別嬪だなあ、畜生め。これなら街の旦那も気に入ってくださるだろうよ。お前は運がいいぞ。旦那は牧場もお持ちだし、こんな田舎の連中には思いもつかないような、学もおありになる立派なお方だ。せいぜいご奉仕して、可愛がってもらえ」
 大笑して、男は腫れたような指をした手で、娘の尻を叩くように撫でた。
 娘はただ、うつむきがちに、険しい顔でそれに耐えていた。
 そうしていると、彼女はまるで、殉教者のようだった。これから火にあぶられるか、銃で撃たれるかするが、それでも我が身に変わりはないと、そういう決意の表情をしていた。
「それにしても汚ねえなりだなあ。街に着いたら、綺麗な服着て、化粧もしねえと。別嬪さんに磨きをかけてやるから、楽しみにしてろ。さあ、とっととご乗船といこうや」
 汗をふきふき、男は娘に背を向けた。
 彼は娘の手を引くわけでも、縄をかけるわけでもなかったが、彼女が男に牽かれていくのは、誰の目にも明らかだった。
 抗いもしない重い足取りで、娘はさっさと歩く男に従い、とぼとぼと乗船口へ歩いていった。
「ナナ!」
 その時突然に、船着き場に走り込んできた者の声が叫んだ。
 娘はそれに、驚いたふうに振り返った。
 太った男もそれに倣い、私と老人も、叫んだ者のほうを見た。
 そこには粗末な格好をした、しかし若くて健康そうな青年が立っていた。全力で走ってきたらしく、彼はまるで雨にでも降られたように、赤銅色の顔に、滴るほどの汗をかいていた。
「行かないでくれ、ナナニータ」
 乱れた呼吸を整える間もなく、青年は、まだ乗船口にいる娘に、喘ぎ喘ぎそう呼びかけた。
 それが彼女の名前のようだった。娘はどこかぽかんとして、青年を見返した。
「やっぱりお前を、忘れるのは無理だ。俺の女房になって、一緒に住んでくれ。俺が一生懸命働いて、借金も返すし、お前の家族も食わせていくから」
 そう掻き口説く青年の顔は、滑稽なまでに真剣そのものだった。娘は険しい顔で、じっと彼を睨んだ。そして今はもう無くなった、あの粗末な首飾りを、彼女は探ろうとした。それがいつもの癖だったのか、そこにあるはずのものを握ろうとする指が、一瞬彼女の豊満な胸元をまさぐったが、指は何もないところを虚しく掴んだだけだった。
「何を寝ぼけたことを言ってやがるんだ、こん畜生が」
 太った人買い男は、大笑して言った。
「こいつの借金を、てめえみたいな貧乏人の小倅こせがれが、返せるわけがねえ。このあまの飲んだくれの親父がよう、いくらせびったか知ってるのか。娘が別嬪なのを笠に着て、ずいぶん吹っ掛けやがったよ。とっとと帰んな、若造。お前にゃあ、勿体ねえ上玉よ」
 面白い冗談を聞いたという笑い方で、人買いは笑い続け、うつむいて立ちつくしている娘の腕をとった。それに引かれるまま、娘はやはり、とぼとぼ歩いた。
 青年は食い入るように娘を見つめたが、彼女はただそれに背を灼かれ、項垂れて甲板にあがってゆくばかりだった。
 老人は私と顔を見合わせた。
「乗ったらどうかね、旅の人。船はもうすぐ出るだろうよ」
 柔和に微笑んで、老人は私に勧めた。その口調が見送るふうに聞こえたので、私は軽い驚きを覚えた。
「お爺さんは、乗らないんですか」
 私の問いに、老人は頷いた。
わしはここに、船に乗る連中を見に来ておるだけだ。気をつけていきなさい、旅の人。河には人食い魚がおる。わずかでも血を流している時は、決して河に落ちるでない。やつらは血を嗅ぎつけると、あっという間にやってきて、あんたを骨だけにしちまうからな」
 憎めない意地悪さでそう教え、老人は湿気た熱気の中でも、なぜか不快さのない温かく乾いた手で、私の頬をぽんぽんと優しく叩いた。それは別れの挨拶だった。皺だらけに乾いた手のひらが、自分の肌に触れた一瞬で、私は不思議に勇気づけられた。
 こちらも別れを告げ、船に乗り込んだ。
 乗船口の柵が閉じられ、船の煙突があげる、もうもうとした蒸気が、さらに強まった。
 舫綱もやいづなが解かれ、出航を告げる河船乗りたちの声が、低く朗々と川面に響いた。船を推進させるための黒い鉄の外輪がいりんが、機構のうなりと水音をたてて回り始めた。
 甲板から見返すと、青年はまだ船着き場の入り口で、じっと佇んで娘を見ていた。
 人買いは舷側げんそくから物見高くそれを見返し、煙草に火をつけた。
 娘は両手で舷側を掴み、じっと青年を見つめ返していた。
 河からは泥を溶かした水の、何とはなしに薬くさいような苦い匂いが立ちのぼっていた。どこかで密林の獣が吼えていた。
 船が岸を離れた。
 ゆっくりと用心深く、船は岸辺の丸い浮き草を押し分けて出て行った。鮮やかなピンク色をした蕾が、はじかれて咲くのではないかと、そんな妄想が湧いた。
 浮き草と思っていた大きな丸い葉たちは、長い茎で水底からつながってでもいたのか、船に押しやられても、結局もとのところへ戻っていき、またすぐ川面を埋めた。
 その上を歩いて、また岸に戻れそうな密集した群生だった。
 船がその濡れた緑の果てるあたりまで岸を離れる頃、私は川面の丸い葉に、何かが浮き沈みして引っかかっているのに気づいた。
 娘が投げた首飾りだった。
 濁った河の悪戯か、流れに揉まれて、押し戻されて来たようだった。
 甲板から見下ろすと、それはただの木ぎれを削って作った不器用な品で、細長い棒のようなものに、地元の部族の祖霊トーテムらしきものが彫り込まれていた。その正体が何か、旅人である私に分かるはずもなかったが、なぜかそのかたちは、愛を守護する魔法を持った者と思えた。
 ふと見ると、娘も川面の落とし物を見つけたようだった。
 彼女はさらに険しい表情を、眉を寄せた美しい顔に浮かべ、じっと睨むような目で、濁った水面に見え隠れする首飾りを見下ろしていた。
「ナナニータ」
 いつの間にか河岸の水際まで来ていた青年が、船に叫んできた。娘は、はっとしてそれを見た。
「俺がやった、約束のお守りはどうしたんだよ。お前はあれを、捨てちまったのか」
 叫ぶ声に訊ねられ、娘は首飾りを探る手で、自分の心臓のあたりを掴みしめた。
「落としちゃったのよ、レオニート」
 想像もしていなかったような美しい絶叫で、娘が答えた。
 ぎょっとして、私も人買いも、美貌の娘を見た。甲板の誰もが、ぽかんと驚いて、娘を見た。
「河に落としちゃったけど、でもそこにある。草に引っかかってるの」
 川面を指して、娘は教えた。そうかと答える青年の声が、川面を渡ってきた。
「心配するな。俺が拾ってやるから」
 そう言って、青年はおもむろに、河に飛び込んだ。
 船着き場の老人が、面白そうにそれを目で追った。
 ほとんど水しぶきをあげない軽快な抜き手で、青年は丸い草の葉を押し分けて泳ぎ、娘が指さしたあたりへと、あっという間に泳ぎ着いた。
 離れてゆく船の上から、娘は両手で口を覆って、それを見ていた。
 青年がこともなげに見つけて拾いあげた首飾りを、振りあげた手に握っているのを見つめ、娘は目を見開いて胸を喘がせていた。
「あったよ、ナナ」
 器用に立ち泳ぎしながら、青年は叫び、まじめに教えてきた。
 船上のナナニータはそれに大きく頷いただけだった。
「戻ってきてくれ、ナナニータ。俺と暮らそう。お前のためなら、ジャガーだって素手で殺してみせる。お前もここで、一緒に戦ってくれ。俺と生きよう」
 再び掻き口説く若者の声は、しだいに遠ざかっていった。船は流れをつかみ、速力をあげるらしかった。
 娘は微かに震えながら、押し黙っていた。
「ばかな色男があったもんだぜ」
 煙草を吸いながら、人買いが笑って罵った。
 それを聞き終わることもせず、娘が舷側に足をかけた。
 河に飛び込もうとする彼女に、人買いが驚いて飛びついた。男に比べて華奢な体に、背後からとりついて激しく揉み合う様子は、まるで太った人買いが哀れな娘を力ずくで犯そうかという有様に見えた。
 それに呆然として、船上の人々はどこか青ざめ、二人を見つめている。
「やめねえか、このくそあまが。金はもうお前の親父に払ってやったぞ。いまさら逃げられると思うなよ」
 怒鳴って男は娘の体を甲板に引き戻した。男がくわえていた煙草の燃えさしが、つばきとともに河に落ちていった。
 娘は甲板にうつぶせのまま押し倒されながら、男を振り返って、その顔に容赦なく爪をたてた。
「はなしてよ、この悪魔。誰があんたみたいな豚野郎に買われていくもんか」
 娘は美しい声なのに口汚かった。
 それでも娘は、少しも下品には見えなかった。この河岸の密林と同じ、天性の野性味のある美が、彼女を包んで見えた。
 固唾かたずを呑む船上の空気は、明らかに彼女を応援していた。
 河岸から、この男に娘がさらわれてゆくのは、これが最初じゃないだろう。船に乗るうちの幾人かは、別の娘が泣きながら河を下るのを、見た者がいるのだろう。
 誰も手を出せずに立ちすくんでいるので、私は思いあまって、娘に加勢しようかと思った。
 しかし娘が、乱れたスカートの裾から露わになった脚で、人買いの男の急所を激しくけっ飛ばしたのは、まさにその時だった。
 ぎゃあっと悲鳴をあげて、太った男は股間を押さえ、甲板に背を丸めうずくまった。
 見守る人々はそれぞれに、猛烈に痛いという顔と、してやったりという顔をしていた。
 娘は男の体の下から勢いよく這い出し、そのままの素早さで、舷側に足をかけ、一瞬の迷いもなく河に身を躍らせた。
 水しぶきがあがった。
 さすがに彼女は河岸の娘だった。先ほどの若者が見せたのに似た、華麗な抜き手を切って、彼女は河を泳いだ。まっしぐらに、若者の待つほうを目指して。
「畜生め、なめやがって……」
 汗と血を滴らせ、人買いが立ちあがった。
 男の頬を引っ掻いた娘の爪は、想像以上に鋭かったらしい。
 ざっくりと二筋、男の無精ひげの伸び始めた頬に、縦に引き裂かれた傷が走っていた。
 その傷よりさらに血走った憎悪の目で、男は河を泳ぎ戻る娘の背を見ていた。
 そしてそれを追うため、舷側に足をかけた人買い男を、皆がじっと押し黙って見つめた。
 男が血を流しているのを、おそらく誰もが見ていた。
 そしてこの河にいる、血を好む魚のことを、脳裏に思い描く静かな戦慄した目を、皆がしていた。
 ざぶんと激しい水音をたてて、男は飛び込んだ。
 誰ひとり、悲鳴もあげずにそれを眺めた。危ないから止せと教えてやる者も、誰ひとりいなかった。
 私もそれを、ただぼんやり見守った。
 人買いは水しぶきをあげて泳ぎ、娘を追いかけた。その距離はなかなか縮まらなかった。
 娘はもうすぐ愛しい男のところに泳ぎ着きそうだった。
 畜生めと人買いが叫ぶ声がした。
 それは始め、娘か、その相手の男に向けられたものだった。
 しかし大した間断もなく、男が悲鳴をあげるのが聞こえた。泳ぐのをやめて、畜生めと、彼はまた叫んだ。腕や脚をばたつかせ、彼は何かを振り払おうとしていた。
 やがて見る間に、男を包む水面が泡立ち、小さくはね回る泥のような水面に、真っ赤な血がまじり始めた。逃れようと藻掻く男の悲鳴は、耳を突く恐ろしい絶叫に変わっていた。
 泳ぎ着いた娘は、愛しいレオニートと抱き合い、振り返ってそれを見た。
 船上からも、無数の目が、河に食われていく都会の男を見下ろしていた。
 魚たちはすみやかに食事を終えた。船着き場の老人が言っていたとおりだった。
 泡立つ水面に、どれくらいの数の魚が集まったのかは、一見しただけでは分からない。魚たちは貪欲に食べ、水面を汚した血液までも、すべて綺麗に平らげてしまった。
 男の骨はたぶん、水底の泥に沈んだだろう。
 そしてそれは、魚よりもっと貪欲で、ゆっくりと食う微細な生き物たちに、しばらくの饗宴を与えるだろう。
 若い男女は、目の前に見た恐怖を振り払うように、お互いをそれから守るように、川面を見つめたまま、ぎゅっと固く抱き合い、それから離れて、船着き場へ戻るために、それぞれ静かに泳いでいった。
 船はもう、河を下り始めており、泳ぎ戻った彼らが老人に手を引いて助けあげられ、水浸しの体で河岸に再び立ったのを、私はちらりと見ただけだった。
 河岸も密林も、どんどん流れ去って見えなくなった。
 下流にある対岸の都市まで、一日半の船旅とのことだった。
 私はそこからさらに西へ、旅を続けるつもりだった。
 だからこの場所へ再び戻る日があるかは、怪しいことだ。
 だが、もしも。あてにならない風の便りにでもいい。この密林の出来事を、遠い旅の空の下に、伝え聞くことができるなら、私は訊ねてみたかった。
 美しいナナニータがそれからどうなったか。一途なレオニートが彼女のために、素手でジャガーを倒したか。彼らが遠い密林で、幸せに生きられたか。
 そんな旅先のおとぎ話を、私に聞かせてくれる風があればいいが。
 外輪船は熱帯の川風の中、泥の河を快調に下っていった。
 私はその夜、ねっとりと熱い密林の風にふかれ、揺れるハンモックで眠った。とても静かで、時折けたたましく、獣の騒ぐ夜だった。


文:椎堂かおる(しどう・かおる)
http://www.teardrop.to/
執筆歴二十数年の子持ち主婦です。ファンタジーやSF作品を主に執筆しています。心理描写が主体の地味な作風ですが、心に響く物語を目指して書いています。


絵:塩(しお) (イラスト特別提供)
http://www.pixiv.net/member.php?id=131016
主に水彩絵。
23
最終更新日 : 2012-08-10 08:49:11

 1

 闇に支配された空間を進む。
 一歩、また一歩と足を進める度に、熱い空気が首元を撫でる。
 俺を待ち受けるのは不偏の闇。ありとあらゆる光の存在を認めない暗黒の空間。
 俺の目は、光を感じるようにできていない。だから、俺の前に存在するのは闇。闇とは光のない状態。光がなければ何も見えない。何も映らない。この世界における原則。
 だが、世界の形を知る方法ならば、光に頼らずとも他に幾らでもある。

 足元に広がるのは剥き出しの地面。タイルもシートも敷かれてなどいない。
 絡み付く熱気。鼻に付く臭い。いずれも不快極まりない。
 ガソリン、油、火薬、焼けたゴム。それらすべての臭いが、競い合うようにして鼻腔に侵入してくる。
 熱気の正体は炎。
 燃えているのは車。
 炎上させたのは俺。
 必要な情報はそれだけだ。
 車には誰も乗っていないが、無人の車に火を付けて回る趣味があるわけじゃない。爆発の直前に乗員が脱出しただけのこと。だからこそ、運転席にも助手席にも焼死体はない。勿論、後部座席にもだ。
「手間を掛けさせてくれる」
 俺に銃口を向けた者が辿る末路は常に一つ。生きているのならば、見つけ出して始末しなければならない。これは見せしめなのだ。
 炎上する車に背を向けて、自身の車へと足を進める。
 俺の愛車、フォードGPW。通称・ジープ。屋根はなく、フロントガラスも取り払ったフルオープンカーだ。
 運転席に乗り込み、キーを差し込む。それと同時に、後部の荷台に隠れていた何者かが掴み掛かってきたが、意に介さずキーを回し、エンジンを始動させた。
 連続した二発の銃声が響く。
 背後から俺の首に回されつつあった二本の腕は、銃声を合図に力を失い、重力に引かれて車から転落した。
 車を奪いに来ることは分かっていた。なぜなら、この地域で車を失うことは、そのまま死に直結するからだ。
 ここは、アメリカ合衆国アリゾナ州ソノラ砂漠。西隣のカリフォルニア州と、国境を跨いだ南隣、メキシコ合衆国ソノラ州に広がる、北アメリカ最大の砂漠だ。
 砂漠と言っても、見渡す限りの風紋が広がる砂地ってわけじゃない。随所にサボテンが生え、その周りには低木植物が群生している。
 サボテンの花が咲けば昆虫が飛んできて花粉を運び、サボテンの実が生ればそれを食べる動物が集まる。昆虫を食べるキツツキはサボテンに巣穴を掘り、使われなくなった穴はネズミが再利用する。ネズミを餌とする食肉類までもがサボテン周辺に集い、食物連鎖が形成される。
 しかし、人間にとって厳しい環境であることに変わりはない。容赦なく照り付ける太陽は、あらゆる生命を死に追いやるのだ。
 再び、二発の銃声が響く。
 断末魔の呻きは、遥か遠方から飛来するヘリのローター音に掻き消された。
「ごくろうさん」
 略式の敬礼でヘリの搭乗者を慰労し、直後にそのままアクセルを踏み込んで、一路、南へと車を走らせた。

 俺の名はトープ。名付け親はフランス人で、モグラ、という意味があるらしい。
 俺は、アメリカへの密入国の手配と、入国後に就く仕事の斡旋を生業としている。俗にコヨーテと呼ばれる密入国斡旋業者の一人だ。
 ソノラ砂漠を横断する国境には、アメリカ側への不法な入国を防ぐためのフェンスが設置されている。フェンスはそれほど高くはないため、大人が数人集まれば、道具がなくても乗り越えることが可能だ。
 フェンスが設置される以前は、カリフォルニアのサンディエゴや、テキサス州の南側で比較的容易に国境を越えることができていた。
 フェンスが設置されてからはそうもいかず、フェンスがない砂漠や山地を越えるルートを使った密入国を試みる者が増加している。フェンスは、市街地から数マイル離れたところで途切れているのだ。
 しかし、フェンスが途切れたところは砂漠のど真ん中。そのルートは危険度が高い。国境巡視員に発見されることじゃない。命を落とす危険度だ。密入国者たちは、危険を回避するために俺のような密入国斡旋業者コヨーテを利用するってわけだ。
 残念なことに、密入国斡旋業者コヨーテには悪質な奴らが多い。俺を含めて、まともな人間など皆無だろう。尤も、密入国させようって輩にまともであることを期待する方が間違っているんじゃあないかとも思ったりするわけなんだが。
 手口はこうだ。
 まず、手数料を取ってアメリカに密入国させ、労働力として働かせる。そこまでは本人が望んでいた通り。雇う側にしても、安い労働力が手に入るため、諸手を挙げて歓迎する。
 悪質なのはこの先だ。
 自らが斡旋した就業先を、不法就労者がいる、と通報する。不法就労者は逮捕されるが、雇い主は罪に問われることはない。ただ一言、知らなかった、と言うだけだ。
 そして、逮捕された不法入国者の保釈金を肩代わりするなどして、生涯にわたり上前を撥ね続けるってわけだ。奴隷の出来上がりだ。
 被害者が警察に訴え出ないのは、メキシコに残してきた家族を人質にされていたり、家族をネタに脅されていたりするためだ。酷いときは、警察と雇用主と業者とが結託している場合さえある。
 俺はそういう他人を不幸にして食っている奴らが嫌いだ。
 許せないんじゃない。
 自身を正義だと勘違いしている奴らが得意気な顔をして振りかざす、〝許せない〟という言葉も嫌いだ。
 だから、許せないんじゃない。
 ただ、嫌いなだけだ。



 2

 メキシコ合衆国ソノラ州。面積の八割以上を砂漠が占め、西側はコルテス海に面している。主な産業は、畜産と鉱業、そしてコルテス海を利用した観光業。
 州都エルモシージョから北へ百二十マイル。ノガレスという国境の町がある。
「おや、旦那。珍しいことで」
 朝食を求めて喚く腹を黙らせるために足を踏み入れた店で、店主のトーマスよりも先に声を掛けてきた人物がいた。半端な時間のせいか、俺と声の主以外には誰も客がいない。
「白々しい真似は止せ、アントニオ」
「へへ、出会いってのは、いつでも偶然の産物なんですぜ。出会えなかったかもしれねぇって考えると、出会いそのものに感謝するようになる」
「何が偶然の出会いだ。俺は毎朝ここで食事をする」
 アントニオはノガレスで情報屋をやっている男だ。町の外やフェンスの向こうから来た連中に関する情報を取り扱っている。非合法な仕事をしている以上、町を訪れた者に注意を向けるのは当然のことなのだが、来訪者が客かどうかを見極めているってわけじゃない。
 俺たち密入国斡旋業者コヨーテは、人間をフェンスの向こう側に送り届けるのが仕事。
 仕事にはルールがあり、同業者間には仁義がある。
 ルールは三つ。
 客を盗らない。客から盗らない。人間以外は運ばない。
 第一のルール『客を盗らない』
 値引き合戦などという馬鹿げた事態に陥らないためのルールだ。稼ぎが過ぎれば、少ない者のところへ回す。尤も、仲介人がバランスを考えて割り振っているため、滅多にそういった事態にはならない。一つの業者に肩入れしていた場合、その業者の摘発と共に失業してしまうため、仲介人は複数の業者とバランス良く付き合う。
 第二のルール『客から盗らない』
 密入国という性質上、家財道具一式を抱えて行くわけにはいかない。それでも身に着けている物は、本人にとって今後の人生の支えとなる品物だ。
 第三のルール『人間以外は運ばない』
 言ってしまえば、麻薬だ。
 メキシコ国境からアメリカ国内へと流れる麻薬は、カリフォルニアが麻薬漬けから抜け出せない要因の一つとなっている。麻薬の流入が増えれば、国境の監視がより厳しくなり、仕事にも支障をきたす。
 来訪者に注意を向けるのは、麻薬をこのノガレスに持ち込ませないためだ。もし持ち込んだと分かれば、しばらく好きに泳がせて、買った方の人物を叩く。否、買った方の人物も叩く。そのときは、俺のような武闘派の出番ってわけだ。
 ルールを破れば、それに応じたお仕置きが待っている。だがそれは、俺の独断で実行することじゃない。

「また派手に暴れなすったらしいじゃねぇですか」
「久しぶりだったからかな、加減を間違えたかもしれん」
「旦那は毎回加減をお間違えなさるようで」
 アントニオは陽気に笑っている。
「なら、いつも通りだ」
 トルティーヤの焼けた香りが鼻腔をくすぐり、唾液の分泌を促進させる。トルティーヤとは、すり潰したトウモロコシを小麦粉の代わりに使った生地を、薄く円形に引き延ばして焼き上げたパンだ。
「今日は旦那に仕事をお願いしたいんでさぁ」
「いつから仲介を始めた?」
「いえいえ、そんなんじゃありやせん。これが最初で最後でさぁ」
「急ぐのか?」
「できれば」
 アントニオは声のトーンを落とした。言葉以上に急を要しているらしい。
「朝食の時間ぐらいは欲しい」
「食べ終わる頃に本人を連れてきやすよ」
 仕事を引き受ける前に、必ず本人と会うことにしている。話して気に入らない相手であった場合は、どんな大金を積まれても断ってきた。俺は金に興味はない。反対に、気に入った相手には、住む場所から仕事の世話までしたことがある。
 アントニオは、ごゆっくり、と言い残して店を出た。歳は六十に近いはずだが、足取りからその年齢を感じることはできない。
 アントニオとは、もう四年の付き合いになる。余所者の俺を、この町に馴染ませてくれた。今の俺があるのは、ひとえにアントニオのおかげだ。
 本来なら俺が敬語で話すべきなのだが、アントニオはそれを拒み、更には俺を旦那と呼んでへつらう。俺が情報屋としてのアントニオと付き合うようになった以上は、そういったけじめが必要不可欠らしい。
 朝食にはタマーレスを注文した。鶏肉とサルサをトルティーヤに包んで蒸した、メキシコでは一般的な料理だ。
 残念ながら俺はその色を感じることはできないが、目を失う前に見たタマーレスは、トウモロコシの色が映える一品だった。

 目を失ったのは、今から五年ほど前のことだ。
 軍人だった俺は、派遣された中東における戦闘で重傷を負った。命は取り留めたものの、両目を失うという大きな代償を払うこととなった。
 現在、俺の眼孔には義眼が収められている。
 それはただの義眼ではなく、盲人となってしまった俺でも世界の形を知ることが可能になるというとんでもない代物だ。
 反響定位という言葉がある。
 それについて説明をする際に、蝙蝠と言えば大抵の人間は察しが付く。
 蝙蝠は、自身が発した超音波の反射によって周囲の状況を把握しているため、暗闇の中を自由に飛び回れる。それが動物の反響定位というものだ。
 人間の耳で反響の違いを聞き分けることはほぼ不可能とされているが、稀にそういう特殊能力を持った人間もいる。ハリウッドでは、日々そういうヒーローたちが作り出されている。持って回ったが、普通の人間の耳では、蝙蝠のような反響定位は不可能だということだ。
 とはいえ、ある程度までならば把握することは可能であるし、反響の具合で物質を判断することも可能だ。
 例えば、盲人が持つ白杖は中空で軽いために音が良く響き、杖が当たった物質を判断することができる。石と土では、叩いたときに全く違う音がする。アメリカでは、白杖の使い方と共にこの反響定位のトレーニングを推奨している。
 反響定位を行うためには、二つの条件がある。
 一つは、一定の周波数と音量を持つ音を、断続的に発生させられること。
 もう一つは、その反射音を聞き分ける耳を持っていること。これは、反響によって得た情報を頭の中で整理し、メンタルマップとして組み立てる能力と言い換えてもいい。
 一つ目の条件に当てはまるのは、白杖で地面を叩く音などだ。
 二つ目の条件であるメンタルマップの作成については、個人の能力に依存する部分が大きく、不安定になってしまうことが課題となっている。
 俺もこの反響定位を利用して周囲の状況を把握しているのだが、厳密には違っていて、少しばかり特殊な方法で反響定位を行っている。現時点でその方法が可能なのは俺だけだ。間違えないで欲しいのは、俺自身が映画の主人公たちのような特殊能力を有しているわけじゃないってことだ。

「ほらよ」
 トーマスは、俺に向かってタマーレスを突き出した。
「早いな」
 俺は驚嘆の声を上げた。なぜなら、注文してから十五分以上待たされるのが、この店の常識だったからだ。
「時間ぴったりだろ? トーニョ(アントニオの愛称)がこの時間にこれを出せって」
「ぴったりと言われてもな」
 だが言われてみれば、俺が注文する前からトルティーヤの焼ける匂いがしていた。
 注文する品だけではなく、店に来る時間までもが見通されていたわけだ。情報屋ってのは恐ろしいもんだ。
「ビールは?」
 トーマスの声は、いつも通りにやる気がない。
「これから仕事なんだ、コーラにしてくれ」
「はいよ」
 ずれていたサングラスを正し、カウンターの奥から瓶コーラを開栓する音が聞こえてくる前に、大口を開けて極太のタマーレスにかじりついた。

 アントニオは、俺がタマーレスの最後の一口を放り込んだ瞬間に戻ってきた。
 足音は二人分。一つはアントニオの足音。もう一つの足音は、その大きさと間隔、一歩毎の音量比較から、体重は軽く身長が低い人物であると分かる。
 瓶に残っていたコーラを一気に咽喉へと流し込んでから、二人を迎える。
「この人がそうなの?」
 耳に飛び込んできたのは、幼い少女の声だった。声質の幼さに比べると、口調には理知的な雰囲気がある。年齢は十歳前後といったところか。
 メキシコの公用語であるスペイン語を話していることから、恐らくはメキシコ人。
 そうそう、俺の母国語は英語だが、三年も過ごしていれば、日常会話程度ならなんとでもなる。
「あぁ、そうだよ」
 いつもは野卑なアントニオの口調が、不似合いな優しい口調に変わっていて、気持ちが悪い。
「そういう趣味があったのか」
「止してくださいよ旦那、子供の前ですぜ」
「悪かった。品のない冗談だった」
「何も言わず、何も聞かず、旦那のところで預かっていて欲しいんでさぁ」
 密入国斡旋業者コヨーテの仕事だとばかり思っていたが、どうやら違うらしい。
「俺は子守りじゃない」
「旦那にしかできないことなんでやすよ」
 立ったままの二人に着座を促す。
「ビールってわけにはいかないな。コーラを二人に」
 カウンターの奥から、はいよ、というやる気のない返事が聞こえた。
「こいつはありがたい。ソニア、お礼を言いなさい」
 名前を呼ばれた少女は、ありがとうございます、と丁寧に礼の言葉を述べたあと、俺の隣の椅子に腰を下ろした。物怖じせず人見知りしない女の子のようだ。
「ソニア、か。覚えやすくていい」
「お願いできやすか?」
 アントニオは父親のような存在だ。尊敬も信頼もしている。
 そんなアントニオの頼みなのだから、是非とも引き受けて信頼に応えたいところなのだが、生憎と俺は子供が苦手だ。
 嫌いなんじゃない。苦手なんだ。
「旦那、どうしやした?」
 アントニオの声で我に返った俺は、大きくため息を吐く。
「なんでもない。あぁ、一つ確認したい」
「なんでやしょう?」
「〝俺〟が預かればいいんだな?」
「そういうことでやすよ」
 間違いなく厄介事だ。この少女には、何かとんでもない秘密があるのだろう。間違いなく荒事になる。
 少女は余所者で、余所の町で何者かに狙われて、ノガレスまで逃げてきた。アントニオには少女を守りたい理由があって、俺に護衛を頼んできた。その理由については想像もできないが、金じゃないことだけは間違いない。
 アントニオには恩がある。今の俺にできる恩返しは、どんな厄介事であっても、二つ返事で引き受けることぐらいしかない。
「分かった」
「恩に着やす」
 アントニオは、自分の出番はこれで終わりだ、とばかりに一歩後退した。
「トープだ。よろしく」
 俺が右手を差し出すと、少女はすぐに手を取った。
「ソニアです。お世話になります」
 少女の手は、とても小さかった。



 3

 ノガレスの道路は、南にある州都エルモシージョへと続く幹線道路以外のほとんどが舗装されていない。年中を通して気温が高いため、アスファルトなどは溶けてしまうのだとか。詰まるところ、資金不足なのだ。
 ノガレスの中心を南北に貫き、サンタ・アナを経由してエルモシージョまで続く幹線道路は、アメリカから国境を越えてやってくるトラベラーやバイカーたちに人気のあるルートの一つだ。
 アメリカからメキシコに入る際には、一切の手続きを必要としていない。それはメキシコ側の怠慢でもあって、本来は複数の書類に記入しなければならない。アメリカに再入国する際には最低限パスポートが必要となる。
 うっかりパスポートを忘れてしまい戻れなくなったアメリカ人の再入国を手助けするのも、密入国斡旋業者コヨーテの役割の一つとなっている。国境係員の友人や、非番の国境係員などもやっているが、あくまでもパスポートを忘れてしまったアメリカ人だけに限定したものだ。
 町の中心地から二マイルも離れると、周囲はサボテンが立つ砂漠の景色となる。
 地面は砂と土だが、この辺りは比較的多くの植物が目に付くため、歩いても死に直結するようなイメージを抱くことはない。
 軍人時代のアリゾナ演習で見た砂漠と同じだが、砂漠と聞いて俺が思い浮かべるのは、やはり中東で見た砂漠だ。目を失った場所であるという不快な印象しかない。
 トーマスの店は、ノガレス西辺の町外れにある。少し歩けば、そこはソノラ砂漠だ。
「よし、着いた。歩かせてすまなかったな」
 俺は謝罪の言葉を述べる。気持ちは少しも入っていないが、言わないよりはマシだ。
 ソニアが逐一丁寧で丁重な物言いをしてくるので、こちらもそうしなければならないような気分になってしまったのだ。
「ふあ、大きい」
 目印はそびえ立つ一本のサボテン。ソノラ砂漠の固有種であるサワロ・サボテンだ。
 ソニアは、立ち止まってサワロ・サボテンを見上げていた。成長したサワロは、高さ十四ヤード、重量十五トンにも及ぶ。
「サワロは初めてか?」
「はい。写真で見たことはありますけれど」
 丁寧な言葉使いは、彼女の育ちの良さを余すことなく伝えてくる。しかし、粗野な俺には少しばかり耳障りでもある。
「これから向かう場所には、嫌というほどのサワロがある」
 俺は一足先に車に乗り込み、助手席のシートに積もった砂を払い落とした。
「それは楽しみですね」
 俺の愛車フォードGPWは、二輪駆動と四輪駆動を切り替えられるパートタイム方式の四輪駆動車であり、更には運転席にあるレバーでタイヤの空気圧を変えることもできるため、町中でも砂漠の荒地でも難なく走ることが可能だ。意外と知られていないが、砂地を走る際は、タイヤの空気を少し抜いておくものだ。

 ノガレスから西へ。本格的にソノラ砂漠へと進入する。
 国境を右手にしばらく車を走らせると、少しずつ剥き出しの地面が目立つようになる。そうなると、車も走らせやすくなる。
 厄介なのは、走りやすいのは俺だけじゃないってことだ。
「チッ」
 ブレーキを踏み、エンジンも切る。
「どうかなさったのですか?」
 ソニアは怪訝な声を出した。しかし、好奇心の方が強いようだ。
「あっちに土煙が見えるはずだ」
 後部の荷台から双眼鏡を取り出して、ソニアに渡す。言っておくが、俺の物じゃない。アントニオの忘れ物だ。
「んー……あ、見えました。向こうの方に移動しているみたいですね」
「北へ向かっているんだ」
「あれは何なのですか?」
「〝最も単純な国境の越え方ドライブ・スルー〟だ」
 ソノラ砂漠の真ん中には、国を隔てるフェンスが存在していない。そのため、砂漠越えによるアメリカへの密入国を試みる者が後を絶たず、カリフォルニアとテキサスに増設されたフェンスのおかげで、更なる増加傾向にある。
 勿論、捕まる危険も高い。途中で国境巡視員に発見されてしまった場合は、メキシコ側まで全速力で戻る。メキシコ側に戻ってしまえば、国境巡視員は手を出せない。
 非常に見通しが良い砂漠は、発見されやすい反面、逃げやすくもあるということだ。
 この方法でアメリカへと運び込まれる麻薬もある。
「国境巡視隊のヘリが飛んでやがるから、すぐに発見されるだろう。そうなれば、俺たちも巻き添えを喰らっちまうからな。しばらくここで待機だ」
「あれは、悪いことをしているのですか?」
「そうだな。少なくとも、真っ当なことはしてない」
 俺が言えた義理じゃないが、と密かに自嘲する。反省はしてない。
「麻薬、ですか」
 この界隈で麻薬の密輸が行われていることは子供でも知っているが、密入国斡旋業者コヨーテとの見分け方は誰も知らない。
「機会があったら聞いておこう」
 答えは〝いいえ〟だろうがな、という続きは飲み込んでおく。
「私、麻薬なんか嫌いです」
「そりゃ良いことだ」
 後部の荷台から帽子を取り出して、ソニアの頭に被せてやる。いわゆるカウボーイハットで、勿論これもアントニオの忘れ物だ。俺の帽子じゃない。
 砂漠の日差しを直接浴び続けるのは酷ってもんだ。
 何度も言うが、子供は苦手なだけで嫌いじゃない。それに、俺はこれでもフェミニストだ。
「どうして麻薬なんて存在するのでしょうか?」
「さぁな」
 ソニアからは、麻薬に対する強い憎しみが感じられた。
 麻薬に対して憎しみを持つまでに至った経緯は知らないが、余程のことがあったのだと推測するのは容易いことだ。
 だからといって、俺にはそれを解決してやる義理などはなく、その必要もなければその気もない。他人の人生に、求められてもいない介入を行うほどお人好しじゃない。
 俺の役割は、この子の安全を確保することだ。下手に口出しをして機嫌を損ねられでもしたら、その方がずっと厄介だ。
「そろそろいいだろう」
 ソニアは未だに不快な空気を発していたが、構わずにキーを回してエンジンに火をいれた。
 目的地に到着するまでに、彼女の機嫌が直るような何かがあればいいのだが。
 そんな幸運に巡り会えるように、と願いながら、アクセルを踏み込んだ。

 ソニアを連れて向かったのは、ソノラ砂漠の中では植物の比率が高い地域にある俺の家だ。二年の月日を費やして自力で掘った、家と呼ぶには申し訳ない洞穴なのだが。
 付近には、ネズミや毒蛇、毒トカゲが多く生息しているし、業者ではない獣のコヨーテもうろついている。
 俺は、とてもじゃないが、町中には住めやしない。俺に対して報復を企てる奴らがいるからだ。客を装って俺に近づき、隠し持った銃で、ズドン、だ。逆恨みもはなはだしい。
 アメリカに麻薬を持ち込ませないために、客の所持品はすべて検査しているのだが、俺の場合は身を守るためでもあるってわけだ。
 尤も、大抵の場合は調べようとした途端に銃撃戦になってしまう。市街地でそんなことをやられてはたまらない。
 ノガレスに住んでいた頃、寝込みを問答無用で襲撃されたことがあった。勿論、一人も逃さず返り討ちにした。俺に銃口を向けた者が辿る末路は常に一つ。
 しかし、近隣住人には多大な迷惑を掛けてしまった。こう見えても俺は、ご近所付き合いを大切にしていたんだ。
「えっと、あの……」
 ソニアの困り果てた声が、俺の耳に届いた。
 どうした、と訊ねても、聞こえてくるのはハッキリしない返事ばかり。
 俺は光を必要としないのだから当たり前の話だが、洞穴の中には照明がない。唯一あるのは、アントニオが訪れた際に置いていったランタン一つだ。
 到着した際に火を灯して渡しておいたし、今も炎の匂いと揺れる音がしているから、ランタンの火はまだ消えていない。
 ソニアが困っているのは、明かりの問題ではないということだ。
「あぁ、なるほど」
 少し考えて、一つの答えに辿り着く。
 俺の家に存在しないもの。電気、ガス、水道。そして、トイレだ。
 俺は男だからその辺で済ませてしまうのだが、さすがに十歳の女の子にそんなことをさせるのは、あまりにも忍びない。
 だが、どうしようもない。
「すまない。今日だけは我慢してくれ」
 洞穴の外へと小走りで向かうソニアの足音に、何年振りかに心の底から申し訳ないと思い、同様に、何年振りかにその思いを言葉にした。

「トープさん」
 ソニアが俺の名を呼んだのは、夜も更け、ランタンの灯火が消されてしばらく経ってからのことだ。
「眠れないのか?」
 車のシートよりも硬い寝台、淀んだ空気、環境は最悪に近い。寝付きが悪くても仕方のないことだ。
「トープさんは、目が見えないと聞きました」
「アントニオから聞いたのか」
「はい。ごめんなさい」
「謝る必要はないさ」
 知らない男の元に身を寄せるのだから、不安があって当然。その不安を取り除くために、俺の話をしたのだろう。
「本当に見えていないんですか?」
「本当だ」
「嘘ですよね? 見えてないなんて」
「嘘じゃないさ」
「でも、普通に食事していたし、瓶コーラも飲んでいたし、平然と歩くじゃないですか」
 なるほど、と俺は思う。
 目が見えないと聞いておきながら、俺が運転する車に平気で乗り込めたのは、本当は見えているのだと思っていたからだったのだ。
 どうやらアントニオは、見えないことまでしか話していないようだ。
 確かに、俺の目は何も映さないし、俺の目には何も映らない。それでも、どこに何があるのかを把握することはできる。
 例えば、顔を洗った際、伸ばした手の先にはタオルがある。夜中に家に帰れば、真っ暗な中でも明かりのスイッチを押せる。
 それを可能としているのは、記憶から得た情報を基に組み上げたメンタルマップの存在だ。
 強引に言ってしまえば、見えていると思っている映像は、目に入った光から得た情報を基に組み上げたメンタルマップに過ぎない。
 精度に雲泥の差があるとはいえ、両者の違いは何の情報を基にしているかだけなのだ。
 目が見えないからといって、周囲の状況を全く把握できないわけではない、という話だ。
「見えてはいないが、分かるんだ」
「分かるとは?」
「そうだな……自分の耳を手探りで探したりはしないだろう?」
「自分の身体ですから、当たり前です」
「その通り。だが、なぜ分かるのか、と聞かれたら答えられるか?」
「それは……」
「意地悪を言っているわけじゃない。分かるから分かる、としか言いようがないのだ」
「じゃあ、どうして目が見えなくなってしまったの?」
「神様に、もう何も見たくない、とお願いしたんだ」
「それは嘘ですよね? 子供扱いは止めて欲しいです」
 我ながらユーモアを効かせた良答だ、と思ったのだが、ソニアにとってはそうではなかったらしい。子供の相手は難しい。
「戦争で、な」
「痛かったですか?」
「もう覚えていない」
 ソニアは矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。
 それが不安からの行動なのか、好奇心からの行動なのかは分からないが、もう少し付き合ってやることにした。
「いつからここに住んでいるんですか?」
「二年だ」
「寂しくないですか?」
「大人なら寂しいなんて思わないさ」
 少しの沈黙のあとに聞こえてきたソニアの声は、暗く沈んでいた。
「お父さんとお母さんも、私がいなくなっても寂しくないのでしょうか?」
「ソニアはどうだ? 両親がいなくなっても、寂しくないか?」
「寂しい、です」
「だったら、同じ気持ちのはずだ」
「トープさんには、いなくなったら寂しいと思う人はいないのですか?」
 子供という生き物は、遠慮なしに傷を抉る。悪気がない分、タチが悪い。
「もう眠れ。明日は遠出をする」
 少し強めに言い放つと、ソニアが萎縮する気配が伝わってきた。
 すん、すん、と鼻を啜る音も聞こえてくる。どうやら泣かせてしまったらしい。
 まったく。これだから子供は苦手だ。



 4

 夢を見る。
 場所は中東の国イラク。
 バグダッドの西、ファルージャ。
 そこでは、互いに自らを正義と信じる者同士が、互いに相手を悪だと罵り合っていた。両者の間で飛び交っているのは、すでに言葉ではない。そこにあるのは、鉛、鉄、血、火薬、砂、土、そして、命。
 市街地での銃撃戦。雷鳴のような轟音は鳴り止む気配を見せず、撃たれて倒れる際の悲鳴さえも聞こえはしない。
 そんな場所で、俺は引き鉄を絞り続けていた。それだけが自分の存在価値であるかのように。
 不意に銃声が止む。あまりにもあっさりと止んでしまったことに対して、何かを思う暇などはない。
 部隊は前進を始める。
 道端に倒れていた男が急に息を吹き返して銃を乱射したが、これまでに何度となく繰り返されていたこの手の奇襲攻撃は、もはや通用するものではない。
 部隊は、立っていようが倒れていようが一切お構いなしに、ひたすら鉛玉を打ち込んでいく、という対応策を採用した。
 感覚はあっという間に麻痺した。
 〝彼ら〟は戦士だ。死を恐れていない。敵を排除するためならば、何の躊躇もなく命を捨てる。〝彼ら〟にしてみれば、捨てているのではなく捧げているのだ。恐れることなど何もないのだろう。
 〝彼ら〟は、擬死、虚偽降伏、自爆、あらゆる手段を使ってきた。
 〝彼ら〟は、女や子供や老人でもあった。
 俺が引き鉄を絞り続けていたのは、そんな場所だ。

 子供が歩いてくる。男の子だ。小さな男の子。歳は十にも満たない。
 その小さな手に、あまりにも不似合いな箱を抱えて、ゆっくりと歩み寄ってくる。
 俺は叫んだ。止まれ、その箱を置くんだ、繰り返し叫んだ。
 それでも少年の歩みは止まらない。頼むから止まってくれ、という懇願にも似た祈りも、届きはしなかった。
 指を引き鉄に置き、照準は爆弾と思われる箱を避けて、少年の額に合わせる。
 ひゅー、ひゅー、と空気が乾いた音を立てて気管を往復する。
 涙で視界が滲んだ。
 こんな幼子を兵器として利用する奴らも、こんな幼子を兵器と見なして射殺するしかできない自分たちも、どちらにも正義を語る資格などないように思えた。
 そんなものは、現実を知らぬ者が口にする甘ったれた戯言だ、と分かっていながらも、そう思ってしまった。
 殺すか殺されるか。
 俺は、ハッキリしていて分かりやすいその現実を、受け入れられなかったのだ。
 少年は俺の目の前に到達した。
 少年は笑いながら箱を差し出し、俺は少年が差し出した箱に手を伸ばす。
 何の前触れもなく、少年の箱が爆ぜる。
 音も色も、痛みもない。そして後悔もない。
 あぁ、良かった。今度は撃たなかった――

「トープさん、おはようございます」
「おはよう。ソニア」
「もしかして、まだ寝ていました?」
「いや、大丈夫だ」
 本当は寝ていた。
 誰かの声で目を覚ますのは、いつ以来になるだろうか。と、そんなことを思い出そうと試みることさえも、随分と久しぶりのような気がした。
「あそこにある箱……」
「箱?」
 俺の過剰な反応に、ソニアは驚いたようだ。
「ヴァイオリン……ですよね? 触ってもいいでしょうか?」
「弾けるのか?」
「少しですけど」
「聴かせてもらおうか」
 それで少しでも気が紛れるのならば。俺はそう思っていた。
 電気もなければトイレもない。この洞穴には娯楽など何一つとしてない。普通の人間が長時間滞在すれば、精神の崩壊を招く恐れがある。ましてや十歳の少女ならば尚更だ。
 嬉々としてヴァイオリンを取り出したソニアは、その場で構えて弾き始めた。
 緩やかで自由な旋律。ヨハン・セバスチャン・バッハ作曲、無伴奏ヴァイオリンソナタ第一番ト短調。ヴァイオリン独奏の名作だ。
 ヴァイオリンの音色は、狭い洞穴内でいつまでも反響を繰り返す。
 その残響音は、俺を回顧の旅へといざなった。

 俺は音大の学生だった。
 大学院に進む奨学金を貰うため、志願兵となった。
 兵役が残り一年となった年、イラクへの派兵が始まった。奨学金という見返りのために入隊した志願兵は、戦時に退役することは許されない。
 イラクに派兵された俺は、ファルージャの戦闘〝新たな夜明け作戦〟で負傷した。
 即日のうちにフランスに運ばれ、ある特殊な手術を受けた。
 頭蓋骨に存在する副鼻腔と呼ばれる空洞に、超音波振動子と受振機を埋め込み、反響定位を実現するという人体実験だ。光を失った絶望と混乱の中にいた俺は、得体も知れない実験に自分を提供してしまった。
 圧電素子(ピエゾ素子)によって超音波を発生させ、その反射情報を専用の受振機である擬似眼球を通して脳に送る。反響で得た情報を基に作られた信号であるため、色に関する情報は含まれていない。
 何も映さないし、何も映らない。しかし、どこに何があるのかは分かる。
 それが俺の目。
 俺の他にも同様の手術を受けた者が数人いたらしいのだが、俺のように自由に歩くことはできなかったらしい。
 たまたま俺が成功したのか、俺に適性があったのかは分からないが、再び世界の形を知ることができるようになった。勿論、そうなるまでには過酷な訓練と実験の繰り返しがあった。
 俺の視神経は残っているが、そこには外部の光によって得られる情報の一切が送られないため、何も見えていない状態となる。完全に機能していない状態だ。
 受振機が脳に送った信号を基に周囲の状況を把握しているのだが、『Aという信号だからこれはa』といった判断をしているわけじゃない。
 正直なところ、なぜ分かるのかは俺にも分かっていない。
 その辺りをじっくりと考えたこともあったが、硬いとか、柔らかいとか、深い浅い、軽い重い、そんな曖昧な表現でしか整理することができなかったため、あっという間に行き詰まってしまい、すぐに止めてしまった。
 結局は、ソニアに言ったように、分かるから分かる、としか言いようがない。

 俺が立ち上がると、ソニアはピタリと演奏を止めた。自分の演奏が俺の気分を害してしまったと思ったようだ。
「もっと自由に楽しみながら弾くといい。楽しまなければ音楽ではない」
 俺自身は優れた奏者ではなかったが、感覚的な助言ならばしてやれる。
 ソニアの演奏は隙の少ないものだったが、悲しきかな、楽譜をなぞっただけとも言える。とはいえ、十歳にしてこの曲を譜面通り正確に弾ける技術は、驚嘆に値する。
「トープさんも弾かれていたんですよね? 私にも聴かせてください」
 偉そうなことを言ったが、俺の演奏は下手の横好きというやつだ。技術ではソニアの方がずっと上手い。俺は奨学金を貰えなかったのだ、わざわざ聴かせるほどの腕前ではない。
「朝食に行く」
「……はい」
 ソニアは悲しげに返事をした。
「ヴァイオリンを忘れるな」
「え?」
「食後に弾いてやる。ヘタクソだが笑うなよ」
「はい!」
 ソニアの返事は、ヴァイオリンの音に負けない反響をみせた。
「約束ですよ!」
「あぁ、約束だ」
 さっそく出掛ける準備を始める。
 俺の準備は、日差し避けのスカーフとショールを巻くだけで終わる。
 朝になっても洞穴の中には太陽の光が入らないため、ソニアは準備に手間取ったようだ。
「トープさん、大変です! 車がありませんよ!」
 準備を終えて外に出たソニアは、開口一番にそう叫んだ。
「心配ない、こっちに向かっている」
「向かっている?」

 反響定位による周囲の把握が可能となった俺は、アリゾナ州の州都であるフェニックスへと移された。
 〝人間の脳からの直接命令ブレイン・マシン・インターフェイス〟による機械の遠隔操作の研究に、実験体として参加するためだ。
 研究を行っているのは、国防総省の機関・国防高等研究計画局。
 人間の脳に人為的に手を加える行為が倫理面で問題とされるため、この研究は公にされていない。俺に拒否権はなかったが、あったとしても拒否はしなかった。フェニックスへと移る際に、トープ・ソノラという新たな名前を与えられた。俺はイラクで死んだことになっている。
 フェニックスでは、カメラと脳とを接続させる実験が行われていたが、その成果は軍事利用に耐え得るまでには至らなかった。その頃、光の影響を受けない反響定位を可能とした俺の存在を知って、新たな可能性を見出したらしい。
 俺には難しすぎて、受けた説明のほとんどを理解できていなかったのだが、実験は見事に成功した。

 彼方から走ってきた無人のフォードGPWは、ソニアの真横にピタリと停車した。
 ソニアは、驚きのあまりに声を失っていた。
 呆然と立ち尽くすソニアを、背後から一気に抱え上げて助手席に座らせた。
 このフォードGPWには、俺と同じように超音波振動子と受振機が搭載されている。電波を介して信号を受信することで、遠く離れた車の周囲の情報を把握することができ、電波を介して送信することで自分の身体のように操作ができる。
 電波の送受信には、中継アンテナを使う。勿論、馬鹿正直に設置したりはしていない。アンテナは、ソノラ砂漠のシンボルであるサワロ・サボテンに偽装した状態で、砂漠全域を網羅するように設置されている。
 夜間、車を近くに置いていないのは、この場所が突き止められるのを防ぐためだ。車が止めてあれば、この付近にいる、と言っているようなものだ。
「さぁソニア、朝食の希望はあるかな?」
 食事を楽しもうという気になったのは、随分と久しぶりだ。
 自分でも気付かないうちに、ソニアに心を開いていたらしい。
25
最終更新日 : 2012-08-10 08:51:59


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