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 ――夏などない。

 船はすでに港を離れ、宇宙空間をのんびりと航行している。
 あたしは手元のキーボードをやや乱暴に叩いて、むふふと笑った。メインディスプレイの隅に表示された室温表示が「25℃」からゆるゆると上昇していくのを横目に、コンソールの上に足を投げ出す。
 船の全システムのうち、いまマニュアル操作しているのは、操船とは関係のない居住環境系がひとつきり。操縦系はロックしてあるから、多少変なところを蹴り飛ばしても運行には影響しない。
 宇宙船の操縦にオーディン・システムが用いられるようになって以来、コンソールはすっきりとまとまっている。必要な機材はすべてフラットな卓か、操縦席正面に広がるパネル状のメインディスプレイ、そうじゃなきゃあたしたちのここ……頭の中にある。や、比喩じゃなくて。
 宇宙船製造技術は日進月歩で、より速く、楽に、快適に、安くて長もちするものを! と、尽きることのないニーズに応えて、ソフト・ハード両面のバージョンアップや改造、改装が以前に比べて格段に気軽に、安価でできるようになっている。
 この船は少人数での運用を目的にしたものだから、速くも強くも大きくもないけれど、まあまあそれなりに多機能だ。
 あたしが、念願の「夏」を再現できるくらいには、ね。


「おい、足どけろ、足!」
 ふいに電子音声が響いた。機械っぽさがまったくなくて、聞き慣れてない人はこれが電子音声だなんて思わないだろう。そのくらい肉声に近いから、不機嫌そうな声だ、なんてこともばっちりわかる。
「どけませーん。どけたらぱんつが見えちゃうじゃないの」
「アホかッ、ぱんつが見えるような服を着るな、規定外だろうがっ! ああっ、やめろっ、レンズが曇る!」
 あたしは船内カメラのひとつ、コンソール上のそれに素足を突っ張るようにして、ペディキュアを塗っていた。
 割って入った声は、この船のメインコンピュータのもの。頭の悪そうな物言いではあるけれども、単なる大容量の計算機ではなく、人工知能――A.I.だ。
 A.I.との音声でのやりとりは、あくまでインターフェイスのひとつにすぎないんだけど、キャッシュディスペンサーみたいな電子音声や、メッセージの棒読みが味気ないってことで、最近はA.I.に色んなキャラクタをインストールして、個性を持たせることができる。これは、「幼馴染み」。たまに入れ替えると、気分転換にいいんだよね。
 他にも「俺様」「兄貴」「王子様」「執事」バージョンを持ってるけど、「執事」以外は相方にすこぶる受けが悪い。きっと、「執事」以外はユーザーに、というより、あたしに対して横柄な口調だからだろう。それがいいのに、まったくわかっちゃいないんだから。
 ちなみに、いまのをキャラクタなしで言うなら「その服装は『宇宙もしくは無重力・無重量空間における服装規定』に違反しています。直ちに着替えてください。船内カメラのレンズの曇りを除去してください」とでもなるだろうか。
 発売当初、ふざけていると非難が集中したA.I.のキャラクタ市場も、閉鎖環境で長時間過ごすクルーたちのストレス軽減に役立つ、っていう論文が発表されてから、俄然活気づいた。まったく、学者さまさまだ。
 不機嫌だった音声に、呆れたような響きが混じった。
「あのさあ、何で居住環境系だけ、マニュアルにしてんの? 室温三十五度って、ばかかお前? 俺を壊す気? それともお前を壊す気?」
「うるさいなあ。今日のコンセプトは夏! 夏を楽しむの!」
 だから勤務中の服装規定を破ってまで、パフスリーブのTシャツとミニのティアードスカート、生足に生腕といういでたちなのだ。放射線防護スーツでは、夏の雰囲気が味わえないから。というか蒸れて倒れるわ。
「何か夏っぽい映像とか、ない?」
 訊いてみると、データベースにアクセスした一瞬の間をおいて、すぐに答えが返ってきた。
「三百年前の海水浴場のホームビデオがライブラリにあるけど」
「かいすいよく? ってことは、地球の話?」
 何でそんなものがライブラリにあったのかはわからないが、ペディキュアを乾かす時間つぶしにと思って許可すると、メインディスプレイにでかでかと現れたのは、とんでもなく破滅的な映像だった……涼を求めて海にやってきた人、人、人の渦。
 生々しいし暑苦しいし、見てるだけじゃちっとも楽しくない。
 メインの被写体は三つか四つくらいの男の子。初めて海に来たのだろう、おっかなびっくり、母親らしき人と波打ち際まで歩いていく。寄せてきた波に足をすくわれてよろめき、ぼてんと尻餅をついて泣き出した。朗らかに笑う母親のもとへ、べそをかきながらも駆け寄る男の子。
 うーん、とあたしは唸った。次々に浮かぶ不満の言葉を、キャンディを舐めてごまかす。
「あたしが見るには、少々面白みに欠ける気がするんだけど」
 だってこの子、生物学的には男でも、ちょっと若すぎでしょ。興味ないわよ。
「どこ見てんだよ」
「そりゃもう、地球人類と地球外人類の外見上の相違を比較してるんじゃない。わかんないかなあ?」
「わかんないね」
 雑談しながら何気なくディスプレイの端に目をやったあたしは、思わず身を乗り出した。たいそうはしたない格好だけど、慣性航行時に乗員の姿勢を注意する機能はA.I.にはないから気にしない。
 もちろん、ディスプレイに近づいたところで、映像がよく見えるようになるわけじゃないんだけども。
「あのサングラスのお兄さん、いい腹筋……!」
 あっと、よだれが。……ん、いや、でも、あのゴールドのぶっといネックレスはいただけないわ。男ならボディで勝負しなきゃ。
「ねえ、お年頃でお色気むんむんのお兄さんばっかり登場するとか、鼻血もののビデオはないの?」
「ポルノは感心しない。この前大量にダウンロードしてたアニメーションも」
「あたしの『兄貴の花園』秘蔵コレクションにケチをつけようっての? いい度胸ね」
 A.I.の小言に応じつつ、あたしは画面に映る夏の象徴を眺めた。水平線から立ちのぼる、マシュマロのような積乱雲。人々の肌をじりじりと焦がし、砂浜に濃い陰影をつくる強い陽射し。発泡スチロールの皿に盛られた焼きそば。真っ赤な顔をして、昼間だというのにビールで乾杯してる若い人たち。
 どれもこれも、はるか昔の光景だ。いま、地球の海に砂浜はないし、地球で暮らしている人もほんのわずかしかいない。
 海、と言われてあたしたちがまず思い浮かべるのは、砂と石しかない月の海か、この宇宙だ。月の居住区から三十八万キロ離れたところに浮かぶ水球の青みを、一番はじめに挙げる人って少ないと思うな。
 それくらい、あたしたちにとっては馴染みのないものなんだ、地球の海って。あたしたちのご先祖がこの映像みたいに海で泳いでいたなんて、ちょっと信じられないもの。
 映像をオフにして、A.I.に呼びかける。
「この肉の海はもういいから。写真撮って、記念写真」
「記念?」
「オペレーション・夏の記念に決まってるでしょうが。早くしてよ、汗でファンデーションが流れちゃう」
「暑いなら、室温を下げればいいのに。そんなに汗をかくのは、身体に悪いと思うけど」
 またしても発せられた小言を受け流し、あたしは服と同時に衛星通信網インサネツトのオークションで手に入れた、ミュールというゾーリをはいた。地球で人類が暮らしていた頃、あたしのような年頃の女性に人気があったシューズで……うぐ、何よこの非実用的な履き物はっ!
 こんなちっぽけな船に、遠心重力装置なんて立派な設備はない。あたしはゾーリ、もといミュールと格闘しながら、「植木鉢」につかまって浮遊する。土に代わる、無重力空間でも植物の育成が可能な培地が開発されてから、宇宙船の中でもガーデニングは可能になった。低重力環境でも「上」に向かって蔓を伸ばすように改良された朝顔のそばで、にっこり笑ってピースサイン。天井のカメラが赤い光を瞬かせ、撮影終了を告げた。
 あたしは忌々しいゾーリを即座に脱ぎ捨て、居住環境系をオートに再設定、イニシアチブをA.I.に譲る。ふごー、という間抜けなエアコンの稼動音を聞きながら、四季も風流なだけじゃない、とため息をついた。


 環境汚染による森林破壊や砂漠化が、地球規模の問題になっていたのも数世代前のこと。地球は再び「水の惑星」としての姿を取り戻している。
 早い話、決壊しちゃったんだ。極地の氷が。
 気温が上がって氷が溶けて海面が上昇して、異常気象に次ぐ異常気象、天変地異のフルコースの末に、陸地のほとんどがドボンしてしまった。猛り狂った水の蹂躙が一段落ついた後の地球、その陸地面積の割合は、かつての二割弱だと言われている。
 この一連の大災害による死者数は、莫大なものとなった。桁が把握できないほどにゼロが並んでいて、何度も数え直さなきゃならないくらいに。
 人類の多くは大災害の前に、虫が追い立てられるみたいに宇宙に出ていたから、そのまま何事もなかったかのように月や火星の居住区で暮らしているんだけれどね。
 皮肉なもので、人類がほとんど宇宙に出払ってしまったせいで、地球環境は落ち着いているらしい。けれど大災害は陸地だけでなく、季節の移り変わりまでも奪っていってしまった。いまや、地球にも地球外の居住区にも、四季という概念はない。生まれ育った居住区もこの船も、温度や湿度はいつも一定に保たれている。
 あたしのような宇宙生まれ、宇宙育ちの世代からしてみれば、「四季」なんて死語だ。そりゃあ、知識としては知ってるけど、「貝塚」や「はやぶさ」とかとおんなじレベル。理科や歴史のテストのためだけに覚えるような、薄っぺらい知識でしかない。
 でも、四季に、季節のうつろいに憧れはある。あたしは、四季を愛でたというジャパニーズの子孫だから。あたしは八月、夏生まれなのだけど、夏がどんなものか知らないだなんて、悔しいじゃない?
 そう、あたしが「夏」を求めた理由がこれだ。シミュレーションや記録映像やテキストで得られる、想像と大差ない知識。そんなニセモノはいらない。あたし自身が、自分の感覚で、本物の夏に触れてみたかったんだ。
 うだるような暑さ、流れ落ちる汗、日焼けした真っ黒な肌。風鈴の音を聞きながら、冷たい畳に貼りつくように昼寝して、縁側に座ってスイカを食べて、ひまわりと背比べをして、短くなってゆく蚊取り線香を眺めて、煙くさくなるまで花火をして、それから……。
 そんな経験を、したかったんだ。
 あたしがここで再現しようとしたのもニセモノ、そんなことは百も承知だけど。


「終わった?」
 キャビン側の通路から首を出したのは、あたしの相方。名をユーリという。
 幼馴染みという関係にあるあたしとユーリは、なぜか常に進路が同じだった。いまもこうして、同じ船に乗っている。
 彼はあたしのオペレーション・夏に爪の先ほどの興味も見せず、個室に引きこもっていたのだけど、計画も終了とみて、出てきたらしい。
「暑かったわ」
 肩をすくめてみせると、彼はさもありなんというふうに鼻で笑って、有無を言わせずA.I.のキャラクタ機能をオフにすると、メインディスプレイを確認した。あたしも何となく、彼にならう……現在位置、速度、進路、推進剤残量、各種レーダー。オールグリーン。
 あたしはライトグレイの放射線防護スーツに着替え、写真用のメイクをきれいに落とし、再びコンソールの前に戻っていた。
 足蹴にしたカメラをきれいに拭ってから、卓の側面からケーブルを引き出し、首のジャックに差し込む。一瞬の作動音の後に、脳内に移植されたコンピュータが起動、船の航行・操縦系と同期する。
 この高速神経網汎用操縦システム、すなわちオーディン・システムのお陰で、あたしたちのような若造が無限の空間を航行できる。あの肉の海の時代からしてみれば、飛躍的な進歩じゃない?
 今回の出航は、アステロイドベルトの外れにあるS型小惑星に設置された観測ポッドの回収と、航路のデブリ(宇宙ゴミ)拾いのためだ。かけもちするには少々ハードだけど、ぶうぶう文句を言うほどでもない。デブリはあたしたちにとって、共通の脅威だから。
 ユーリはふとあたしの顔を覗き込んだ。くすんだ紫の目に見下ろされ、落ち着かない気分になる。オペレーション・夏が大成功とはいえない結果に終わっていらいらしてるのを、勘づかれたかもしれない。
「マスカラがだまになってる」
 むかっ。
「それに、髪をしばる位置が左に一センチずれてる。直していい?」
 いいとも悪いとも言わないうちに、彼は慎重な手つきで髪の束の根元を持ち、ヘアゴムを抜き取った。後れ毛を丁寧に拾い上げて、満足のいく位置でくるくるとお団子を作る。
 ユーリはものすごく頭がいいのだけど、ものすごく神経質だ。まっすぐであるべきものがまっすぐでないとか、彼ルールから逸脱しているものが許せないらしい。手直しできるものは手直しせずにはいられないんだ……こんなふうに。
 あたしたちは、小さい頃はお風呂に一緒に入ったりもしたけど、いまは花も恥じらうお年頃の男女だ。こんなのを二人きりで長期間、船に閉じ込めておいて、何かあったら会社はどう責任を取ってくれるんだろう。いや、ユーリは責任を取ると嬉々として申し出るだろうけれど。
「動かないで」
 ユーリはマスカラのだまに取りかかった。蜘蛛の足みたいに細長い指が近づいてきて、あたしは反射的に目を伏せる。目元をくすぐる乾いた熱が離れるまで、そうしていた。
 頭の中で時報が鳴る。定時報告の合図だ。異常なしの定型文を港の管制室と、会社の航行管理部に送る。処理はすべて移植されたコンピュータを通じて行っているから、手足を動かす必要はない。メインディスプレイに送信完了の表示が出てはじめて、ユーリがそちらに視線を逸らした。
「あとどのくらい?」
 あたしたちはいま、ポッドの回収に向かっている。コイントスの結果、船外作業はユーリが担当することに決まっていた。その後、方向転換してデブリを拾って(こちらはあたしが船外作業を担当する。まったく腹立たしいコイントス!)、月に帰還する。
 気圧順化の必要ない宇宙服が一般化されたことで、船外作業の準備はうんと楽になっている。大昔は宇宙服内の気圧を下げなければ、宇宙に出たときに宇宙服が膨らんでしまって作業ができなかったから、身体を低圧に慣らす長い時間が必要だったとか。
「二時間二十九分。一時間前になったら準備ね」
 うん、と幼い返事をして、ユーリはシートに身体を預けた。長い足を組んで(あたしが足を組むと怒るくせに)、ディスプレイに回収するポッドと小惑星の情報を呼び出す。
 もうすっかり覚えてしまっているに違いない詳細なデータを見ながら、ユーリはどこかに意識を飛ばしている。
 何を考えているのか、きれいに整った横顔はまったくの無表情。
 彼の宇宙を包むものは居住区の隔壁よりはるかに薄いのに、あたしには到底届かない。そのことがほんの少しだけ、寂しいような気がする。


 観測ポッドの回収、デブリ拾い、それぞれを無事に終えて、あたしたちは報告書を作っていた。
 こういう場合は、実際に船外作業をした方が報告書を書くのがルールだ。ユーリの場合、トラブルがあったわけではないから、用意されたテンプレートを埋めるだけで済むけど、あたしが船外に出たデブリ拾いの場合、重量、形状、作業にかかった時間、その他細々したことを測定し、記入しなくちゃならない。デブリ拾いの船外作業が嫌なのは、この面倒くさい報告書をやっつけなきゃいけないからだ。
 嫌だ嫌だと言ってても、埒があかない。デブリの回収作業ももう慣れっこだから、宇宙服を脱いだついでに、デブリを積んだコンテナの重量も船外作業時間もちゃんと調べてある。
 船外作業をしたあたしに代わり、オーディン・システムを立ち上げたユーリが、できあがった報告書と定時報告をまとめて送信している間に、あたしは席を立っておやつを取り出した。
一口サイズのフルーツクッキーと、アイソトニック飲料。どちらも、ビタミンやらミネラルやらがふんだんに添加されてて、まずくはないけど、嘘くさい味のやつだ。まあ仕方ない。
 ルーティンワークのように、クッキーをもぞもぞと噛んで、ドリンクで流し込む。不満はないけど、満足というわけでもない――航行中は、こんなのばかりだ。ううん、普段の生活だって。
 ニセモノ。
 見せかけだけの。
「ねえ、どうして夏にこだわるの」
 ぼんやりしているとばかり思っていたユーリが絶妙の間合いで話しかけてきたので、あたしはぎょっとした。
 考えていることが伝わってしまったのかと思った。ユーリとは幼馴染みだけれど、以心伝心というほどではない。断じて!
「どうしてって……夏が好きとか……」
 歯切れが悪いのを、クッキーを食べるふりをしてごまかす。やはり嘘くさい味がした。
「何かね、最近元気がなかったから。ほたるちゃん、毎年誕生日が近づくとそわそわするんだよ。すぐわかる」
 なんですって。
 シートに投げ出していた身体をしゃんと起こして、我が身を振り返る。彼に、そんな素振りを見せたっけ? あたしは普段通りにしていたはずなのだけど。
 クッキーの袋と、ドリンクのアルミパウチを芸術的な形にたたんでから、ユーリはゴミ入れにそっと入れる。これも、彼ルールだ。
「そんなに、変だった?」
 あたしはゴミを適当に丸めて捨てた。ユーリは頭がいいばかりじゃなくて、妙に気が回るところがある。気配りができるという意味ではなくて、相手の感情を根拠に推論するんだ。それがまたぴたり当たるから、気持ちが悪い。そんなわけで、あたしはユーリに隠し事ができない。隠しても、すぐにばれる。
「変っていうか……いつもなら、こんな本気で夏ごっこなんかしないよ」
「だって、夏がどんなのか知りたいから……」
 あたしの声は、どんどんと小さくなってゆく。そういえば、何で夏なんだっけ?
 夏だけじゃなくて、冬も春も秋もあたしは知らない。四季を感じるというなら、たとえば室温を下げて冬を演出してもよかったはずだ。なのに冬じゃなくて夏を選んだのは、どうして?
 とどめとばかりに、ユーリの声が突き刺さった。
「ニセモノ嫌いのくせに?」
 意地悪くにやっと笑う。女心をまったく理解しないやつなのだ、昔から。そういうこともあるんだ、なんて譲歩は、彼には通用しない。


 あたしは、ニセモノが嫌いだ。
 そもそもあたしがニセモノという言葉に敏感になったのは、忘れもしない、十二歳のとき。その日は家族参加の課外授業だった。
 あたしは五歳の誕生日に父親を亡くしていたので、母さんと、伯父さん……父さんのお兄さんが参加してくれた。伯父さんはそれまでもあたしたちの家庭を何かと気にかけてくれていて、顔もおぼろげな父さんよりずっと現実味のある存在でもあったから、伯父さんが課外授業に来てくれることに対しては、何とも思っちゃいなかった。
 それで……まあ、どこにでもいるんだよね、調子に乗った考えなしのやつって。
 お調子者でクラスいち乱暴なそいつは、覚えたての薄っぺらな言葉であたしを、母さんを、伯父さんを、それから父さんまでをも侮辱した。
「フギの子!」
 もう、そのときのクラスの空気ったらない。
 まずは大人たちの表情がマネキンみたく強張って、その緊張は子どもたちにも伝染した。穏やかな雰囲気だったクラス中が、あっという間にぎこちなく凍りつく。手を伸ばせばさわれるんじゃないかってくらい、こちこちに冷えて固まったあの気まずさを、あたしはいまでもはっきり覚えている。
 時間が止まったみたいな静けさを打ち破ったのがあたしだった。あたしはそいつを、ごく控えめに言ってぼこぼこにし、ぼこぼこになったそいつばかりか、あたしまでもが病院に連れて行かれるはめになった。
 腫れ物もしくは危険物扱いの数週間が過ぎ、学校に戻ってみると、クラスでいちばんの乱暴者はあたしということになっていた。何のことはない、こんな末端までこの世は実力社会だったということだ。
 その一件が、微妙なお年頃だったあたしの心理にどんな影響を与えたのか、詳しいことは聞いていない。どうだっていい。その後はきちんと人並みに感情を制御することができるようになって、オーディン・システムの移植手術もできたし、宇宙船操縦免許も取れた。あたしにひどいことを言ったあの男の子は、実はあたしのことが好きだったんじゃないか、なんて、思い返す余裕もできた。
 変わってしまったのは、むしろユーリだ。
 病院に運ばれて心理テスト漬けになっていたあたしに、好物のシュークリームを差し入れてくれて、そこまではいい。麗しき友情、というやつ。その後がどうにもいけない。
 ユーリは、箱越しにも感じられるバニラの香りにそわそわしてるあたしの手を取って、「結婚しよう」とのたまったのだ。
 大人しくて控えめで、可憐な、という形容がはまる美少年だったユーリが、だ!
 あたしはユーリよりもシュークリームを愛していたから、シュークリームに同じことを言われたら、間髪いれずにイエスと答えていただろう。けれど、言ったのはユーリだった。おまけにあたしたちは十二歳で、何一つ公的な権利を持たない、ちっぽけな子どもだった。
 ノーと答えたあたしを、誰が責められるだろうか?


 彼はしたたかだった。へこたれるということを知らなかった。諦めるとか懲りるとかも知らなかったし、習得するつもりもないようだった。むしろ打たれて鍛えられているふしもある。
 その後もユーリはことあるごとにあたしに愛を囁き、婚姻届をふりかざし、結婚しようと繰り返している。プロポーズというものは一生のうちでごくまれにしか起こらないからこそ、価値のあるイベントなのだとあたしは思っているのだが、ユーリはそうではないらしい。彼にとってプロポーズは日常茶飯事、宇宙港へのドッキングより回数をこなしている。
「昔さ、『愛は地球を救う』って言った人がいたんだって」
 彼は突然、話し始めた。たぶん彼の頭の中では一連の話なのだろうけれど、あたしには理解できない何度かの飛躍を経ているから、がらりと話題が変わったように感じられる。もう慣れっこだ。
「僕はそういうの、思い上がりだと思うんだよね。愛って言えば、何でもできると思ってる。地球を救えるくらいの愛なんて、存在すると思う?」
 と、偉そうな口調なのは思い上がりではないのだろうか。言い負けるのは確実なので、黙っておく。
「でもね、愛することに力があるのは本当だと思うんだ。心の底から誰かを愛するその思いが、もしかすると巡り巡って地球を救ったかもしれない。もちろん、地球人がみんな本当に地球を愛していたなら、地球環境は守られてたと思う」
 つまり、と彼は続けた。
「僕がほたるちゃんを愛することで、ほたるちゃんは救われる」
「あたしはそういうの、思い上がりだと思うけど」
 我慢できなくなって口にすると、ユーリはおばさんくさい仕草で右手をぱたぱた動かした。
「ほたるちゃん、だからね、僕とほたるちゃんの間で愛を育むわけ。なせばなるって言うだろ。やればできるとか」
「意味が違う」
 あたしの言うことなんか、聞いちゃいない。ユーリはうっとりと続けた。だから嫌なんだよね、頭のいい人って、自分の考えに浸っちゃうから。
「僕とほたるちゃんだけじゃ、ちゃんと証明はできないけど、ほたるちゃんが赤ちゃんを産めば、ほたるちゃんがニセモノじゃないって、ちゃんと立つ場所があるって証明になるだろ。僕の愛はほたるちゃんを救うって、実証できる」
「ちょ、ちょっと待って。話しながら飛躍しないでくれる? あたしがニセモノじゃないって、どういうことよ」
 意味のわからないことを熱っぽく語るユーリを、慌てて止める。自分がとんでもなく鈍いのではと不安になった。もしかして、わかってないのはあたしだけ?
「ほたるちゃんはね、あのとき自分のルーツを否定されて、不安になったんだ。自分が何なのか、わかんなくなってるんだよ」
 目の前でクラッカーが破裂したような気がした。ぱぁん。


 そもそも、あたしがニセモノって何よ? アンドロイド? クローン? ばかげてるわ。
 あたしはあたし、それ以外の何でもなくて、そのことはあたし自身がいちばんよく知ってる。ユーリにどうこう言われる筋合いはない。
「そんなの、考えたこともない」
 あたしはきっぱりと答えたけど、それを上回る断固とした声音で、ユーリは言ってのけた。
「僕の考えでは、そうなる。ほたるちゃんはずっと自分が何なのかわかんなくって、自信がなくて、それが怖いんだ。だからニセモノを嫌って、本物を好むんだよ。自分があやふやなニセモノじゃなくて、ちゃんとした本物だって思いたいんだ」
「ちがうわ……」
 あたしが本物かニセモノかって言うなら、本物に決まってる。記憶に自信もある。曖昧なのは、父さんの顔だけだ。それだってアルバムを見ればいい、小さい頃の写真はちゃんと残してあるんだから。
「おじさんが亡くなって、足元が揺らいじゃったんだ。夏にこだわるのも、関係あるんじゃないかな。おじさんが亡くなったの、ほたるちゃんの誕生日だったから」
 医者だって断言はしなかったっていうのに、大した自信だ。思い上がりだ。
 そう思いつつもあたしは、まったく最低なことに、ひどく動揺していた。その証拠に、ユーリの目が見られない。
 父さんが亡くなったことと、あたしのニセモノ嫌いに関連なんてないはずだ。なのにユーリは違うと言う。あたしのニセモノ嫌いの原因は自己不信で、それを遡れば父さんの死に行き着くのだと。……本当に、そうなんだろうか。
 ユーリはいつも、あたしの心情を手品みたいに言い当てる。外れたことなんてない。だから逆に、彼の言うことこそ本当なのではないか、なんて思ってしまうんだ。
 おまけに、この問題を解決するにはユーリと家庭を築けばいいんだっていう、策略以外の何でもない彼の言い分にまで、それも一理ある、なんて納得してしまったんだから重症だ。
 そんなわけないじゃないのって、笑い飛ばせたらどんなによかっただろう。
 でも、ユーリの言うことを受け流せなかった時点で、認めたのと同じだった。
「僕がほたるちゃんを好きになっても、解決しないってわかってるでしょ? ほたるちゃんが、僕を好きにならないとだめなんだよ」
「人を好きになったことくらい、あるわよ」
「観測されない事実は存在したとは言えない」
 あっ、何か小難しいこと言ってる。舌戦で勝てるはずがない。ずうっと小さな頃から、そうだった。
「……何で、ユーリじゃなきゃだめなの」
 辛うじて言い返すと、彼はフワフワした最高の笑みを浮かべた。天使の笑み、というやつを。
「何でほたるちゃんを他の男に渡さなきゃだめなの?」
「……っ」
 いやいやいや。ちょっとぐらっときたじゃないか。ちょっとだけ。もうほんと、ちょっとだけだから。
 ユーリはあたしの理性をなぎ倒す笑みを浮かべたまま、プリンタが吐き出した厚手の光沢紙をあたしに寄越した。……これって、オペレーション・夏の記念写真じゃないの。
 いや。少しだけ、違う。
 あたしが写真を撮ったときには、明らかに存在しなかったものが写ってる。デブリ拾いに出ている間に、ユーリがオーディン・システムを使って加工したんだろう。
「ばかじゃないの?」
 あたしはユーリに言った。たぶん、顔は赤かったと思う。室温はとうに戻っていたのにも関わらず。
「愛ゆえに、だよ」
 晴れやかな笑みは、あたしの中のモヤモヤしたものをすかっと吹き飛ばしていった。


 パフスリーブのTシャツに、紺色のティアードスカート。ちゃらちゃらしたシルバーのミュールをはいて、にっこり笑うあたし。
 その隣、朝顔の「植木鉢」を抱えるようにして。
 ハイビスカス柄のど派手なシャツと、膝丈のワークパンツ。安っぽいサンダルをひっかけて、くすぐったそうに目を細めるユーリ。

 ――なんてすてきな、愛すべきニセモノたち。

文:中井かづき(なかい・かづき)
http://panorama-2.lix.jp/
異世界ファンタジーを中心に、ほのぼのからシリアスまで、気の向くままに書いています。明るめの作品が多いです。


絵:あから
http://www16.ocn.ne.jp/~ukatsu/gauss/index.html
初めまして。あからと申します。
絵も全く最近は描いていないのですが、この企画をきっかけにまた描きたいなぁと思って参加させていただきました。
どうぞよろしくお願い致します!
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最終更新日 : 2012-08-10 08:46:38

「何で!! 死んじゃだめよリリ!!――……

 ……――また、あの日の夢を見た。
 あの日、私は愛犬のリリと、朝の日課で散歩をしていたのだ。
 だけどリリの体調が悪そうで、私は早めに家へ帰ろうといつもとは違う道を歩いた。
 それがいけなかった。
 走って交差点を渡った時、横からものすごい勢いでトラックが向かって来た。
 あ、と思った時には、すでにトラックは目の前だった。
 ぶつかる瞬間、リリの声がした。そして衝撃。次に思考を取り戻した時には、私は地面に倒れていた。ぼやけた頭のまま、何で私、生きているんだろうと思って、ふと辺りを見ると――二十メートルほど先の道路にリリが倒れていた。
 リリはぴくりとも動かない。
 そうだ。トラックとぶつかる瞬間。リリが体当たりをして来て、私は突き飛ばされたんだ。だから、私は生きている。
 でも、あそこにいるリリは。
 一目見てわかる。
 リリは、死んでいた。
 道路には赤い血が線になって続いている。錆びた、鉄の臭いがする。
 さっきまで一緒に。一緒に散歩をしていたリリが死んでいる。
 私は立ち上がって、よろよろとした足取りでリリの許へ歩いた。動かないリリは、苦しそうだけど何かをやり遂げたような、そんな表情だった。私は膝をついて、その場でまだ温かみが残ったリリの白い――今は赤い――身体に顔をうずめて、泣くことしかできなかった。


 夢がだんだんと薄れて、私は目を開ける。
「朝……」
 カーテンの隙間から光が洩れている。顔に当たって眩しい。
 パジャマの袖で目をこすると濡れていた。まただ。また夢を見て泣いていたみたいだ。
 頬のほうまで涙がつたっていたので、それも拭って、私は布団から起きあがる。
 ちらっと横を見ると、そこには仏壇があった。
 毎朝、毎晩、毎日目にする仏壇。そこにはリリと、リリの首輪が、置かれている。
「リリ……」
 あの日からたったの一度も線香をあげていない。ううん、あげたくないだけ。ただの私のわがままだ。
「まだ、さよならしたくないよ……」
 未練がましくしているからなのか、毎日のように事故の夢を見る。
 悪夢だ。
 赤く染まったリリの姿を見るのも、血の臭いも、全部嫌だ。あれ以来、交差点に近づくことにさえ抵抗を覚えるようになった。近づくと、リリの死をはっきりと告げられているようで……つらい。
 時計を見ると、六時ちょうどだった。リリと散歩に行く時間なのに。こんな時間に起きても、今は何もすることがない。
 あの日の夢を見て泣いて、起きてしまう時間に滅入って、仕事に行くのにどうしても通ってしまう交差点がつらくて。こんなことならいっそ、外に出ないほうがいい。つらいから、もう外には出たくない。
「今日は休みだし、まだ寝よう……」
 現実から目を逸らすように、私は再びまどろみの中に沈んだ。

     ○ ○ ○

 目を覚ますと、私は床に寝転がっていた。
「……?」
 ここは……寝室の床だ。
 私、ベッドに寝ていたはずなのに、何で床に寝ているんだろう。もしかしてベッドから落ちたのか。いや、そんなことは今まで一回もなかった。そんなばかなと思い、立ち上がる、と違和感があった。
 視界が低い。
 目線の高さがベッドの高さとほとんど変わらないくらいだった。まるで世界が違って見える。明らかな違和感。いったい何が自分に起きたのか、全くわからない。周りを見回すけど、やはりここは私の家の寝室だ。いつも使うベッドはもちろん、今は見上げる形になっているけど、見慣れた仏壇だってある。
 しばらくぼーっとして、何気なく、鏡を見た。
 人がおさまるほどの縦に長い鏡――に何かが映っていることに私は気がついた。
〝犬〟が映っていた。
「あれ……? これ、リリ?」
 それはどこをどう見ても、リリだった。
 すらっとしてるけどたくましい大きな真っ白い身体。
 ピンクのポイントが入った赤い首輪――はなぜか色が落ちてモノクロになっている。
 そして鈴。くりくりした瞳がとてもかわいらしい、私自慢の愛犬。
 夢?
 そう思うが、あれ以来見る夢で、事故の日以外のものはなかった。それに、これは夢にしてはリアルだ。ちゃんと自分で自分の身体を動かせる。ほら、現にこうやって――
 カツ
 鏡に映るリリに触れようとして、指先が当たった。反射的に手を引いて――
「――へ?」
 手が、どう見ても犬のそれだった。
 なんだ。
 なんだなんだ?
 考えを巡らせるが、どうしてもわからない。
 さっきからどうもおかしい。目線はやけに低いし、手は何でか白い毛でふさふさで、目の前の鏡にはリリが映ってるし。
 映ってるし――
 姿が紛れもなく犬だった。ためしに身体を動かすと、鏡のリリは私と同じ動きをする。改めて手を見ると、肉球的なものの存在が確認できる。お尻らへんに、謎の感覚がある。
――尻尾……。
――ああ。
「私――リリになってる!?」
 身体も犬臭かった。
 そうか……私は犬か。
 成す術もなく放心していると、突然後ろでガチャ、とドアが開く音がして、はっと振り返る。
「リリー、散歩行くよー」
 これは夢なのだろうか? もし夢じゃないならきっとここは天国だ。もしくは私の知らないどこか別の世界なんだ。
 だって、そこに立っていたのは、私だったから。

     ○ ○ ○

 もし夢なら、これは悪夢に入ると思う。
 私は今、私に引っ張られて、散歩をさせられていた。
――なんでこんなことに……は、恥ずかしい……。
 私は犬で、ぺたぺたと地面を四つん這いで歩いているのだ。
 首には当然のように首輪がつけられていて、歩く度にチリン、と鈴が小気味よい音を鳴らしてくれる。何度か首をグイッとやられてオエッとくる。
 私は幾度もわんわんと抵抗の声をあげたが、人間の私はそんなのどこ吹く風で、とろいのかにぶいのか「おーよしよし」と犬バカの様相を呈していた。
 必死の声はまるで届かなかった。
 毎朝日課の散歩は家から遊歩道、遊歩道から公園、公園から商店街、そして家という道のりだ。遊歩道を歩いていると、両脇にある桜の木は小さな薄桃色の芽を出している。春前だから普通ならちょっと肌寒い空気なんだけど、犬の身体だからなのか、ちょうどいい温かさだ。散歩は続く。
――うわっ、近所のおばさんだ。こんな姿、なんて説明すればいいんだろう!?
――わっ、おばさんが近づいて来た! あ、頭を撫でられて……き、気づいてない?
――げ、今度は悪ガキが! おいこら石を投げるな!
――おお、私が悪ガキに怒ってる。うん、さすが私。よい飼い主だ。
「リリちゃん今日は元気ないでちゅねー。どうしたでちゅかー?」
 前言撤回。全然よくない!
 よりにもよって猫撫で声。普段はしないだろ、は、恥ずかしい……。
 自覚は多少あったけど、いざこう自分自身の親バカもとい犬バカっぷりをまざまざと見せられると、恥ずかしいと言うか、泣けてくると言うか、精神的にきつすぎる。
 夢なら早く覚めて……。
「むー、今日はリリちゃん体調悪いみたいだし、散歩早めに終わろうか。あっちに行こうね」
 覚めないまま。
 そうして普段の散歩コースから外れる。
 時間がない時は、遊歩道から出て商店街のほうへ曲がる。商店街を真っ直ぐに行き、交差点を渡って、短く町内を一周できるお手軽な順路。
 そして、少し歩いて、私はあることに気づく。
――あっちに行こう?
――あっちって、どっち?
 この先。私たちが向かっている方向には、あの交差点がある。
――え……ちょっと待ってよ。
 とたんに強い既視感。頭に鈍い痛みが走り、それがどんどん強くなっていく。
 この道順は、この交差点へのルートは、リリが死んだ日と同じものだ。
――これ、事故の日と同じだ!
 そうだ。このやり取りを私は知っている。何で今の今まで気づけなかったのか!
 そう考えている間にも、刻一刻と交差点に近づいて行く。ほら、もう交差点が見えている。今は信号は赤。そして私たちが渡る頃にちょうど青になる。横からトラックが来て、轢かれる。
 意識があの交差点を激しく拒む。なのに、身体の動きが、歩みが、止まらない。首を引かれて一歩一歩、確実にあの場所に近づいて行く。
――だめ、あそこは行っちゃだめ! 私はもう二度と行きたくない! だから、だから止まって! 行きたくない行きたくない行きたくない!!
 こんな必死に叫んでいるのに、声は一言も出てこない。私に届かない。反対の信号はもう点滅し始めている。
「リリ、早く帰って、朝ごはん食べようね。そしたらリリも元気になるよねー」
 もう交差点はすぐそこだった。身体が言うことを聞かない。私の意識は身体に抵抗を続けるけど、言うことを聞いてくれない。
 信号が青に変わった。
 人間の私が走る。私も引っ張られて駆ける。私たちは交差点を一緒に渡る。横からトラックが来て――
 その時、身体が急に軽くなった気がした。
 すべての思考がひとつに収束されて、身体が爆発するかのように動く。

「ダメ――――ッ!!」

 私は叫び声をあげながら、人間の私に体当たりをした。
 次の瞬間、強い衝撃が意識を吹き飛ばした。

     ○ ○ ○

「何で!! 死んじゃだめよリリ!!」
 気がつくと、目の前で私が泣いていた。足許にはリリがいて、道路には赤い血が線になって続いている。錆びた、鉄の臭いがする。
 私自身の意識は幽体離脱と言うのか、リリの身体から少し浮いているところにあった。
 周りには何人か人が集まってきているのに、そんなことには意も介さないで、私はぐちゃぐちゃな顔をして泣いていた。
 あの時の私が、今そこにいた。
――もうなんで、なんでこんな顔して……本当に、もう、バカなんだから……。
「――ユウちゃん」
 そんなことを考えていると、ふいに、私の名前を呼ぶ小さな声が後ろから聞こえた。
 意識だけで振り向くと、そこには私の愛犬の――白くてすらりとした身体に、赤い首輪に鈴――リリがいた。
「リリ……」
「今日でもう四十九日だから、ユウちゃんとは、もう、さよならだね。明日から僕の夢も見なくなるし、自分を責めるのも、全部終わりだよ……」
 幼い男の子のような声だった。リリの言葉が、不思議と胸に響いてくる。身体に浸透して心地いい。
「僕は、ユウちゃんを助けられて、すごくうれしいよ。だから、明日からも頑張って、僕の分もちゃんと生きてね……」
 私は何を言えばいいのか迷った。
 言いたいことはたくさんあるはずなのに、いろんなことが頭をかけ巡って、ぐるぐるしていて整理ができない。
 でも、ただ、浮かんだ気持ちがあった。
――私は、私は今までリリに何をしてあげられていたのか、これからは何ができるのだろうか?
「じゃあ、またね」
 リリが私に背を向ける。
 行ってしまう。もう、さよならをしなきゃいけない。何か、何か言うことは――
「リリ!」
 気づいたら叫んでた。リリが振り向く。私の口から、自然と言葉がこぼれる。
「毎日、毎日お線香あげるから! あとリリの分もちゃんと生きて、それから、それから、リリのこと絶対忘れない! だから、助けてくれてありがとう……じゃあ、じゃあ……」
 それ以上の言葉は口から出なかった。
 そしてリリは、ふっと、煙のように消えた。
 最後消える時の表情は、笑っているように見えた。


「!! ここは……」
 はっと起き上がって辺りを見回すと、私は寝室のベッドの上にいた。
 少し落ち着くと、目からたくさんの涙が頬にこぼれているのに気づく。起きあがったせいで布団にも落ちてしまっていた。私はパジャマの袖で顔を何度も拭う。そして拭い落とすと、目はもうすっかり乾いていて、涙は流れてこなかった。
「夢、だったの……?」
――あれは本当に夢だったのだろうか。
 そんなことを思いつつ、私はベッドから立ち上がろうとする。
 チリン。
 その時足に何かが触れた。
「あ……これ、リリの首輪……」
 ピンクのポイントが入った、赤い首輪。ちゃんと仏壇に置いておいたはずなのに、どうしてベッドに……。
 私は立ちあがって、仏壇にかけよった。
 そこには白い箱があった。その中にはリリの遺骨が入っている。
 箱の横に首輪をそっとそなえる。ロウソクを用意して火を点け、線香を一本取り出して火を灯した。ゆらゆらと、細い煙があがった。
 それから、長い長いお祈りをした。
「うん……元気出た。もう、あの夢を見ても私泣かない。内にこもったりしないで、目を逸らさないで、ちゃんと前を向いて行くよ。じゃあね。さよなら、リリ」
 そうして私は、リリにさよならをした。



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