閉じる


<<最初から読む

3 / 29ページ

 南中学校の図書館棟二階、職員棟との連絡通路手前に机が置かれている。その上には一冊のノートがある。表紙に赤い線が入った何の変哲もないキャンパスノートだ。そのノートは通称をブルーノートという。
 国語科の教師が置いたブルーノートは生徒の誰もが好きに書き込むことが出来、そして読むことが出来る。当初は生徒たちが自由に書き込んでノートの中で様々な問題提議をし、また解決していくことを望んだがその思惑は簡単に外れた。
 最初のひと月はまったく書き込みがなかった。次のひと月は程度の低い落書きがされた。更に次のひと月には無記名なのをいいことに特定の生徒の悪口が書かれ始めた。さすがにまずいと撤去も検討されたが、ある一文によって、ブルーノートの中身は一変した。
 それはそう、ある恋の告白から始まった。



1、佐藤春生の否定的恋心

 ブルーノートのことは知っていた。だけど俺がそれを実際に目の当たりにしたのは、告白があってから随分後のことだった。
 ブルーノートに書き込まれた告白はこうだ。
 ――佐藤君、好きです。
 この、たったの一言。
 俺は最初にそれを聞いた時、悪戯かと思った。だが告白の話題はヒートアップしていった。しかもそれは本当の告白だったらしい。だから友達との会話の中でその話題になった時にブルーノートを読んだことがないと言ったら、半ば強制的に連行され見せられた。そこには確かにかわいらしい女子の字で告白文が書かれていた。
 どうだ、と感想を求める友達だったが俺には反応の仕様がなかった。だって、だってだ、佐藤なんて名字の奴は俺以外に何人もこの学校にいる。それなのに、名字だけで俺だと自惚れることは出来ないだろう。第一確率を考えたら俺じゃない方が高い。それなのに一体どんな反応をすればいいんだ。
「つっまんねー。佐藤、ここ見てみろよ」
 誰もお前を喜ばせるつもりはないんだから、俺としては当然の反応をしているだけだ。溜息はきつつページをめくる彼の指を目で追う。そこには二年の佐藤からのコメントが寄せられていた。
 ――告白の相手は二年の佐藤じゃありませんか? それも僕だったら嬉しいです。
 そりゃあ、曲がりなりにも俺も佐藤の端くれだ。同じ佐藤としてその気持ちはよくわかる。だが見せられても、俺であるはずがないだろう。
「お前はこれ見てもなんか感想ねーのかよ」
「だってなあ。佐藤ってうちの学校多いじゃん」
 俺だって、もしも自分だったらと思わないわけじゃない。だけど俺、結構自分のこと知ってるんだ。女子からは単純だって思われてることとか、運動しか出来ないってみんなに知られてることとか、あと俺の顔は人並みだってこともわかってる。だから期待はしない。それに今はそれほど彼女が欲しいと思ってないのも理由の一つだ。
「多くてもそこはときめけよ」
 不満げな友達に俺は段々うんざりしてきた。こんな所で謂われのない責めを受けるよりか外でサッカーをしていたい。
「気持ち悪いこと言うな」
「ちぇー。佐藤って女子に興味ないのかよ。もっと顔真っ赤にして慌てるかと思ってたのにマジつまんねー」
「うるせえ」
 何を言われたところで直接告白されたわけではない。それでは慌てることも出来やしないさ。
 俺は隣で文句を言い立てるクラスの友達に嘆息しながらブルーノートのもとを離れる。そもそも、それが本当に本当の告白かも怪しいというのに、一々喜んだり哀しんだり振り回されてたまるものか。
 俺はそうしてブルーノートのことを忘れたんだ。

 暫く周囲で話題にのぼらなかったブルーノートの告白を、俺が再び思い出したのは学校についてすぐにその話題を耳にしたからだ。普段はそうしょっちゅう口にしない男子も混じっているのをみると、今回は何か大きな進展があったらしい。
「告白の続きはどうなったんだ?」
 皆が口々に言っていても大して興味なかった。とりあえず経過だけを聞いておこうと俺は訊ねる。すると教室中の人という人が俺に白い目を向けてくる。これにはさすがの俺もたじろいだ。向けられる視線は普段よりずっと冷たかった。
「佐藤、知らないの? 当事者かもしれないのに」
「はあ?」
 比較的仲のよい女子が馬鹿にしたように俺を笑う。当事者とはどういうことだ。遂に名字だけでなく名前も出されたのだろうか。
「告白相手の佐藤が二年じゃなかったのは知ってるでしょ?」
「………」
 二年の佐藤が告白に対して書き込んでいる文章はおぼろげに覚えているが、その返事は知らなかった。答えられずに戸惑っていると彼女は呆れた様子で事の成り行きを教えてくれた。
「……告白さんは二年生じゃないって返事をしたのよ」
「へえ」
 じゃあ、一年生に別の佐藤がいるのだろうか。興奮するでもなく続きを待っていると、彼女は再び眉をひそめた。
「反応が薄い! 佐藤って恋愛がらみは興味ないのね。遊び甲斐もなくていやになるわ」
「お前らは一体俺に何を望んでんだよ。まったく」
 盛大に溜息をはくと、ようやく彼女が先刻の続きを話し始めた。
「……あの後は憶測が色々飛んでたのよ。二年生の線は消えたから、残った一年と三年でどの佐藤かって予想。誰が一番格好良いかってノートの中で討論してたのよ」
 それこそ一番どうでもいい。しかも議題に挙げられたものとしては余計なお世話でしかない。
「でもさー、結局告白さんが返事をくれないと話も盛り上がらないわけ」
「まあ、そうだろうな」
「でしょう。そこに今度は一年生の佐藤君は格好良いですよね、って誰かが書き込んだの。そしたら一年生の佐藤君は知らないって答えが返ってきたのよ。そうしたら残るは三年生しか居ないじゃない」
 ついさっきまで不機嫌な面をしていたのに、彼女の頬には赤みさえ混じっている。うんざりする俺とは反対に彼女は目を輝かせている。
「だからこの五組の佐藤であるあんたか、一組か七組の佐藤が相手なのよ」
 すごいでしょう、と言わんばかりの笑顔に俺は目を瞬かせる。そのまま数秒経過して、彼女の眉がぴくりと動いた。
 これはまずいと思ったが、その判断はもう遅かった。
「少しは驚くとかさあ! それか照れるとかしてよぅ」
「出来るかよ」
 どうもみんなが俺にはもっと大げさな反応を期待しているらしい。俺は深い溜息をはいた。

 みんなに感化されたわけではないが、少しだけ気になってブルーノートを見に行った。すると放課後だというのに幾人かがその周辺に集まっている。そして色々と意見を言い合っているのがわかる。特にどの佐藤か、という予想が一番の話題――ではないらしい。
 漏れ聴こえる会話に俺は首を傾げた。
「えー、どうせならして欲しい」
「だよねえ。そんでうまくいったら漫画みたいだよね。ホント気になる」
「ねー。どうするんだろ」
 会話の意味が飲み込めない。俺はどうしたもんかとその場で立ち尽くす。
「あ、れ? 佐藤?」
 背後から呼びかけられて振り向いた。だがそれ以上に佐藤の名に反応した人たちが他にもいた気がする。
「あ、お前もやっぱり気になるんだ」
「別に。ただみんなが騒ぐからさ」
 振り向いた先には元クラスメイトの野宮がにたにたと笑って立っている。いやらしい笑みを浮かべる彼に来るんじゃなかったと後悔した。だが野宮は俺の様子など無視して話を進めていく。
「それにしても驚きの展開だよなあ。みんなが煽ったとはいえ、乗っかってくれるとは思わなかったぜ」
 楽しそうな野宮の表情だが、その意味が俺にはまだわからない。
「絶対告白の主は大人しい子だろうけど返事があるとはな。でもそうなると、やっぱりどの佐藤かが問題だよなあ」
 そう言ってにたにたと眼鏡の奥の目がまだ笑っている。だが俺が怪訝な表情をしていることに気付くと、少しだけ笑いを収めた。
「佐藤……もしかして知らないのか」
 野宮のしかめた顔に俺はこっくりと頷いた。
「あはははは! お前、なんちゅー馬鹿だよ。勿体ねえ、折角佐藤が話題になってるんだから渦中にいろよ」
 今度はさっきとは比べようもないほど大きな声で笑い始めた。しかも俺の背中を容赦なく叩きまくる。段々この態度にも慣れてきてしまった。だが野宮は俺の疑問に答えてくれた。
「ブルーノートの中でな、告白はしないのかって話が出てるんだ。頑なにしないって言ってんだけどさ。だけど三年はもうすぐ卒業だ。それに何もしないで諦めるのはどうかって諭されてるところ。みんなが告白したらって勧めてるけど、まだ返事はきてないみたいだ」
 もうそこまで話が進んでいたのか。俺もさすがに驚いた。
「ま、そんなわけでみんな注目してるのさ」
 野宮は俺の頭にポンと手を置くと、何事もなかったようにこの場から離れていく。俺もその背を追うようにブルーノートから離れた。一回だけ振り返るとまだ、人が集まっていた。返事が来ていないとしても、気になる人は多いらしい。確かにどの佐藤かは俺も少し気になってきた。初めの時と違い、俺である確率も格段に上がってしまったのだ。しかも周りがやたら騒ぎ立てるせいでその熱が伝染したかのように奇妙な高揚感がある。今日はもうさっさと帰って布団に入ってしまおう。
 そう思って過ごした翌日。

 俺は机の中に手紙を見つけた。



2、真崎奈緒の予期せぬ事態

 どうしてこんなことになってしまったのか。過去に戻って自分を引き留めたい。穴があったら入りたい。もう顔から火が出そうなほど恥ずかしい。今更だけれど、ひどく後悔している。
 ブルーノートが出来たと聞いた時すぐにノートを開いてみた。それは何ヶ月も前の話。その時はまさかこんな大事になるなんてまったく思ってなくて、本当に困り果てている。でも自業自得に違いない。本当にあの時は魔がさしたとしか思えない。どうして私はノートに告白文を書こうとなんて思ったんだろうか。

 ブルーノートは図書室の傍にあったから、私は時々それを開いて見ていた。けれど書き込みは全然なくて、あったかと思うと誰かの悪口だったり落書きだったりで少し寂しかった。真面目に見ている人なんてきっと私だけなんだと哀しくなった。そしてふと思ってしまった。私も何かを書こうと。だからって告白文なんて書かなきゃよかったのに、何故か書いてしまった。告白するつもりなんてなかったから、つい言葉にしなくても文字として残したくなったのかもしれない。それに私の予想では悪口の中に埋もれて、誰にも相手にされないまま忘れ去られるはずだったんだ。
 それなのに今、学校中で話題にされているのは私の告白話なのだ。不思議というか、もう笑うしかない。
 そして後悔でいっぱいなのに、私は今日もブルーノートの前に立ってしまっているのだ。
 私の書き込みに返事があったのは私が書き込んでから一週間も後だった。だけど書き込んでから、それまであった悪口はなくなっていた。そのうえでの返事である。

 ――あんた、誰? 

 短い誰何の言葉に驚いた。同時にどうしてか嬉しさも感じた。
 だけど私は自分のことを知られたくなくてそれに返事をすることはなかった。なのに、その後もぽつぽつと増えていく書き込みに私は何か答えなくてはと焦りを感じて、本当のことだと書いてしまった。もしかしたらあれが引き金だったのかもしれない。その後から一気に書き込みは増え、教室で話題にする人も増加した。それは例外なく私のクラスでも。
 教室内ではどんな風に思われているのか気になって耳をそばだててばかりいた。だから佐藤君の声も聴こえてしまった。友達とブルーノートのことを話している佐藤君は告白に対してたった一言の感想しかくれなかった。
 曰く、興味ない。
 それはそれで寂しくて、私はひそかに落ち込んだ。
 私にとって佐藤君は明るい太陽のような人だ。運動が苦手な私でも楽しそうにサッカーをしている佐藤君を見ていると体を動かしたくなってくる。いつも笑顔で、友達と楽しそうに笑っていて、こっちまで元気になる。休み時間に校庭でサッカーをしている佐藤君は私にとって眩しくて仕方がないのだ。サッカーだけじゃなくて運動全般が得意で体育大会ではしなやかな走りも見せてくれた。その時の真剣な表情は普段と違って凛々しく見えたものだ。それに、佐藤君はやさしい。私に限ったことじゃないけれど、気軽に話しかけてくれるのが嬉しい。名前を呼ばれるだけで飛び上がってしまいそうになるのだ。だけど告白をする勇気はない。だというのに、私はブルーノートに書き込んでしまった。
 それ以来、私は日々ブルーノートと向き合わなければならなくなった。それはある意味耐え難い苦痛を与えられているようにも思えた。
 ブルーノートの書き込みの内容は時間が経つにつれて少しずつ変化していた。初めは私のこと、次に佐藤君の捜索。そして告白の行方へ――。

 ――告白はしないんですか?

 出来るわけがない。その書き込みを見た瞬間倒れそうになった。出来るのなら、こんな所で伝えずに直接告白しているはずだ。だから私はするつもりはないと、伝える気は初めからなかったのだと返事をした。すると何故か、おそらく女子からの書き込みが激増した。それはもう、怖いほどに真剣で、私は自分を恥じた。
 そこには純粋な応援と少しの好奇心と、私への配慮があった。意味もなく告白をしろと言っているのではなく、後悔するからという理由で勧める人が多かった。自分の実体験を持ち出して説得に乗り出す人まで現れて、私はどうしようもなくなってしまった。そんな勇気があるはずないのだ。ただ自分のうちだけで完結するのも寂しいと思ったから、埋もれてもいいとブルーノートに書いたのに。
 放課後になってみんなが帰った頃を見計らい、私はブルーノートの前に立った。暗くなり始めた空の下で、私は一人ノートを手に取った。

 ――好きだってことすらも伝えられない人もいる。
 ――三年生はもう卒業しちゃうんだよ。もし彼女が出来たら絶対悲しいって。せめて自分の想いだけでも伝えようよ。
 ――私は告白の前に相手が転校して、すごく後悔した。だから告白さんに同じような気持ちは感じて欲しくないな。
 ――なんでも踏み出してみないとわからないよ。もしかしたら佐藤も告白さんを好きかも知れないんだから。
 ――泣くことを考えるんじゃなくて、笑って次へ進めることを考えたら?
 ――僕は告白さんの恋を応援するよ。
 ――そうよ。みんな応援してるから。もし振られるようなことになっても、ここに来てよ。みんなでなぐさめるよ。
 ――ガンバレ
 ――ファイト、一発!
 ――がんばって。
 ――勇気出して。告白しようぜ。
 ――応援してるよ。

 伝わる。伝わってくる。
 鼓動が外に聞こえてしまいそうなほど大きい。みんなの言葉が私の心臓にまで響いてくる。
 どうしよう。涙が出ちゃいそう。勢いあまって鼻水も出そうになり、鼻を啜る。
 一つ一つの文字が私の中に熱をもって入り込んでくる。ここには私一人なのに。暗くなった廊下にたった一人。なのに、みんながいる。言葉が実感を伴って私の心を揺らす。
 ああ、どうしよう。嬉しくて、本当に嬉しくて、もう死んでしまいそうだ。胸がいっぱいで、頭はくらくらと熱い。ただの文字なのに視界がぼやける。拭っても、拭っても溢れ出てくる涙。
 暗い廊下に一人きり。だけど一人じゃない。
 ブルーノートが私に勇気をくれる。私は泣き顔を隠すようにブルーノートで顔を覆った。

 その朝はいつもよりずっと早く起きた。いつもよりずっと早く家を出て、学校へ歩き始めた。
 早鐘を打つ心臓を、紅潮していく頬を感じながら私は教室の扉を開ける。私は誰もいない教室にゆっくりと足を踏み入れた。



3、野宮章吾の期待する結末

 僕はブルーノートを手に取る。
 朝の早い時間にはさすがに誰もいない。暇つぶしではじめたブルーノートの確認はいまや楽しい日課になっていた。読み始めたのは告白の後からだが、なかなかに面白い。僕ら男にとっては女子の思考は未知の世界だ。それをこのノートは教えてくれる。女子が恋バナで騒ぐ気持ちも少しわかった。告白の行方が気になって仕方ない。ドラマなどではない、現実だというのがどうなるかとハラハラとさせてくれる。生身の物語だ。
「お、野宮」
 職員棟から国語の蓮見がゆったり歩いてくる。彼こそがこのブルーノートを置いた人物だ。
「進展あったか?」
「ノートの中じゃなくて現実での告白コールがされてますよ。すっごい女子の書き込み。でもこれ見たら、本当に告白しちゃうかもしれないですね」
「へえ、それはそれは」
 微笑を浮かべる蓮見は嬉しそうだ。朝の日課が出来てから、同じように蓮見も日課にしていることを知った。それでなくても自分の置いたものだ。気になるのは当然だろう。
「聞いてみたかったんですけど、先生?」
「ん?」
 頭を傾ける蓮見に僕は兼ねてからの疑問をぶつける。それはとても単純で、だけどどうしても不思議だったことだ。
「ブルーノートってネーミングはどっからきたんですか。これ、普通に僕らが使ってるやつと同じノートじゃないですか」
 もっと洒落た名前でも付ければいいのにと常々思っていた。しかも色もブルーではない。定着してしまっているので今更な疑問ではあるのだが気にはなる。蓮見は笑顔のままではにかんだ表情で答えた。
「だって青春は青いものだろう」
「……そ、それだけ?」
「それだけです」
 なんて理由。ブルーノートのブルーは青春の青だったのか。これならば聞かない方が夢があってよかった。僕は疑問を口にしてしまった自分を呪いたくなった。
「それより、先生にも見せてくれよ」
 僕の手からひょいとノートを奪い、蓮見はページをめくる。ここ数日間はずっと告白して欲しいという書き込みばかりだ。だけどそれはどれも期待に彩られていて、告白の主を後押しする。告白の主はこれを読んでいるだろう。どう思っただろうか。それを僕もみんなも聞きたい。

 昼休みになってぼんやり告白の行方に思いを馳せていた。告白の主が誰かはわからないが、見てくれているといいなあと思う。正直蓮見の言う青春はどうかと思うが、ああいうものがあると学校にも楽しみが出来る。まったく、面白いことをしてくれたものだ。
 と、同じようにぼんやりしている人物を目の端に捉えて、僕は視線を動かした。昼休みなのに校庭に出ていないのは珍しい。五組の佐藤だ。あいつにはブルーノートの顛末を先日話したばかりだった。
「佐藤」
 窓枠に肘をついている佐藤に話しかけた。だがまだ呆けて空を眺めている。本当に珍しい。
「佐藤、どうした?」
「うお! 野宮か。びっくりしたー」
 びっくりしたのはこっちのほうだ。僕はじと眼で彼を見た。
「なんか魂抜けてるぞ。どうした?」
 訊ねると口をへの字に曲げて情けない顔を作る。変な顔だ。口を開こうとしない佐藤の手許に視線を走らせるとくしゃくしゃに握りつぶされた手紙らしきものが目に付いた。
「……手紙?」
 僕の呟きに佐藤は大げさなほど反応した。俺の口を自身の手で塞ぎ、顔を真っ赤にさせて睨みつける。どうやらそれが放心の原因らしい。
「なんだ、今時ラブレターか。古めかしいことする奴もいるもんだなあ」
「……誰にも言うなよ」
「返事はしたのか? それがブルーノートの告白さんからだったら面白いんだけどなあ」
「うるさい」
「ふぎゅっ」
 佐藤を無視して勝手に話していたら頭を叩かれた。佐藤の顔は面白いくらいに真っ赤だ。体中の血液が全部顔に集まっているんじゃないかと思うほどだ。しかしこの反応。もしかして、もしかするのか。
「……当たりか?」
 視線を逸らして無言で頷く佐藤に俺は思わず口笛を鳴らす。ということは告白の主はブルーノートの書き込みを読んだのだろう。そして腹を決めたのだ。けど肝心の佐藤の返事はどんなものなのだろうか。この様子からも多少の状況は窺い知れるが僕は口に出して訊ねてみた。
「返事はしたのか」
 ふるふると彼は頭を振る。やはりまだしていないのだ。悩んでいる様子だったのでそうだろうとは思ったが、どういう返事をするつもりなのか非常に気になる。
「明日まで待ってもらった。驚きすぎて頭真っ白になった」
 まあ、それはもし僕が当事者でもそうなると思うが――僕は佐藤の手に眠る手紙を見やった。相手は誰だったのだろう。
「どうすりゃいいんだよぅ」
 情けなく頭を抱える男に僕もどうすればいいだろうかと考える。出来るなら返事はよいものをして欲しい。だが佐藤が嫌っている相手だったら無理強いは出来ない。そもそも佐藤はその相手をどう思っているのだろう。
「どうするも何も、告白の主はそんなに悩まないといけない奴なのか? ブサイク? あ、性格ブスとか? それともお前はそいつが大っ嫌いなわけ?」
「べ、別に真崎のことは嫌いじゃなっ」
 慌てて口許を手で覆うがもう遅い。しっかりと僕の耳に真崎の名前は届いてしまった。つい抑えられずに口角が上がる。こんな楽しい事態に感情を抑えていられるか。
「そっか。真崎か。ふうん」
「な、なんだよ。悪いのかよ」
 覆った手の下からくぐもった声が弱々しく答える。悪くはない。むしろいいんじゃないかと思う。予想通りに告白の主は大人しい女子だった。だからブルーノートの中でひたすら告白を否定していた。それは自分に自信がないからだ。告白する勇気がないからだ。真崎は図書室の常連だと聞いたことのある。それならブルーノートのようなものに興味を持ったのも少しわかる気がする。
 僕はどうすればこの恋が成就するかと考える。相手が別の佐藤なら迷わず頷きそうだけど、ブルーノートに一切興味を持とうとしなかったこの佐藤だから、迷っているのだろう。どれだけの想いを真崎が抱いていたかわかれば、と思って僕は変化球を投げてみる。
「佐藤」
「……なんだよ」
 声はもう憔悴している。笑いたくなるのを抑えて、僕は言葉を続ける。
「ブルーノートは読んだか? この間会った時も結局は読んでなかったよな」
 佐藤は視線を彷徨わせていたが、僕が真面目に話し始めたことを察したようだ。僕を真っ直ぐに見据えた。
「初めからずっと読んでみろよ」
「はあ?」
「あれはお前には結構価値があると思うぞ。それに普通に読んでてもちょっと感動する」
 人の気持ちの純粋さ。取り巻くみんなのあたたかさ。それに励ましと叱咤。
 ブルーノートを読んだ後には例えようのない気持ちが湧いてくる。それを佐藤は知らないのだ。ならば是非とも知って欲しい。
「いいから。ブルーノートを読んでから返事をしても遅くないだろう」
 僕はくしゃくしゃにされてしまった手紙に目をやって、佐藤に微笑した。
 放課後はぎりぎりまで残っていた。明日の朝でもきっとよいのに、僕にしては珍しく我慢が出来なかった。図書室で宿題をして、それが終わると本を読んで過ごした。そして校門が閉められる前に職員棟の連絡通路の方へ足を向けた。そこにはそう、ブルーノートがある。

 佐藤は読んだだろうか。きっと読んだと思う。単純な奴だから誰かに読んでみろと言われたら、言われたままに行動してしまうのだ。あれを見てどう思っただろう。僕だったら勢いのままに返事を書き込んでしまう気がする。だけど佐藤にそんな芸当は期待出来ない。ただブルーノートを開いて、真崎の心や応援しているみんなの気持ちを感じてくれればいいと思う。すごく、思う。それに僕だって応援しているうちの一人なのだ。
 佐藤の意思がどう転ぶかわからないのが難点だが、だから自然と願ってしまう。ノートに書かれた一文から始まったこの恋が、綺麗な形で終わるのを僕は見たい。
 連絡通路の手前の机には無造作にノートが置かれている。
 僕はブルーノートを手に取った。開く為にいつもよりやや時間を要した。僕もさすがに緊張しているらしい。そしておもむろに最新のページを開いた。
 瞬間、飛び込んできたのは大きめの文字。のびやかに、穏やかに、明るい性格をそのまま表したような彼らしい字だ。
 僕の頬は自然と緩む。そうだ、これが僕の見たい告白の行方だ。ブルーノート、いいじゃないか。蓮見の言う青春が確かにこのノートにはある。朝は否定したけど、今この時になって思えば悪くない。全然悪くない。
 僕は改めて一番新しい書き込みを見た。暗がりに浮かぶそれは僕の目には輝いて見えた。とても眩しくて、目がくらんでしまうくらいだ。
 にやにやと顔が笑うのをとめられない。この気持ちを表すには一つしかない。そう、これしかないだろう。
 祝福の言葉を書き込むべく、僕は備え付けのペンを手に取った。

 

文:恵陽(けいよう)
http://www.geocities.jp/keiyo_u/top.html
現代、ファンタジー、恋愛、友情、青春、などなどとりあえず書きたいものを書いています。楽しんでもらえるお話を書いていきたいですね。今回絵描きの方でも参加予定です。


絵:東雲一(しののめ・はじめ)
http://cls.moryou.com/
東雲と申します。
普段は#twnovelや詩や短編などを書いているますが、今回は絵師で参加です。
PCで絵を描き始めたばかりで、まだまだ絵をかく技術は拙いのですが、 楽しそうな企画なので力いっぱい良いものにしたいです。よろしくおねがいします。


5
最終更新日 : 2012-08-10 08:39:26

 光の川が緩やかに流れている。観光客がいる展望台からは、出勤する人々で溢れた朝の喧噪が、そんな風に見えるらしい。その川の中、雲上を歩いている俺にも、それぞれの頭にある輪や金髪が輝いて、美しいのは確かだ。
 とはいえ、通勤途中の俺にとっては、ただの人混みに過ぎなかった。しかも今は、早足で歩く周りの人たちをひたすら追い越しながら先を急いでいるため、その風景を乱す迷惑な奴になっているだろう。
 だが、そんなことは構いやしない。間に合うか間に合わないか、それが問題だ。
「お? 君はうちの社員じゃないか」
 俺を呼び止めた恰幅のいいスーツの男は、幸福保護株式会社天上支所の所長、つまり俺が勤めている会社のお偉方だった。遅刻ギリギリのタイミングで、やっかいな奴に出くわしてしまった。
「所長、走らないと間に合いません!」
「おお、そうか」
 返事をした所長も俺に倣って走り出した。が、遅い。意を決して所長を引き離そうとしたとき、プヨッとした手が俺のスーツをつかんだ。ぐいと後ろに引っ張られ、勢いで前に飛んでいきそうになる頭を押さえる。危なく鞭打ちになるところだ。
「おいていかんでくれ」
 所長は、うるうると涙を溜めた瞳で、目と鼻の先から見上げてくる。俺はその縋るような視線を避け、所長の後ろに回った。
「とにかく走ってください!」
 風を受ける面積が広いからか、そっくり返って走る所長の背中を押しながら会社を目指す。朝から災難だが、あと五十メートルほどの距離で助かったと思い直した。
 会社に駆け込むと、位置的に俺の前にいた所長が、まず網膜認証機器に瞳を当てた。ピッと小気味よい音を聞いてから、俺も慌てて認証を試みる。覗いた先に、定時五秒前で登録された表示が浮かび上がり、ホッと胸をなで下ろした。
「間に合ったのか、よかったな」
 よかったなもなにも、俺がギリギリだったのは所長のせいだ。
「これで君も食いっぱぐれなくて済むな」
 いや、所長は会社にいればいいのかもしれないが、俺は仕事をしないと食いっぱぐれる。
 下界の人間たちが幸せを取り落としたら、その分下界のそのまた下にあるライバル会社が潤ってしまう。それを防がなくては、倒産の憂き目に遭ってしまうかもしれないじゃないか。この微妙なバランスが崩れたら、世界の幸福経済全体が狂ってしまう。
「助かったよ、ありがとう」
「いえ。では」
 ニッコリ笑って手を振る所長を背にし、俺は所属する恋愛七十三課へと急いだ。ドアを開けると、モニターが整然と並んでいるいつもの光景が目の前に広がる。
 このモニターに映し出されているのは、幸せを手放してしまいそうな人間たちだ。どれもこれも、俺の同僚たちが対処しているところが映っている。それに対し、画面と向き合っているのは内勤の人たちだ。頭には俺たちの特徴である光の輪が乗っているが、画面はその光が反射しない特殊な素材でできている。
 俺はそのモニター群を左に見ながら、右奥にある出動待機室へと向かった。
 待機室は実動隊員個人の部屋に細分されている。俺は三メートル四方ほどの自分の部屋に入り、ユニフォームに着替えた。身体にフィットするこの黒いウェアは、着ると頭の輪が見えなくなる仕組みになっている。暗い中で輪だけ目立つと都合が悪いからだ。それに、このユニフォームには打撃軽減機能やら透明機能やら、色々便利な機能が付いている。仕事には欠かせない。
 それからもう一つ欠かせない道具である翼の点検に取りかかった。すでに専門の整備員がメンテしてくれているのだが、なにせ翼には俺の命が掛かっているのだから、自分の目で見ておかないと気が済まない。
 一通り点検を終えて翼をコンソールテーブルにセットすると、俺は一息ついた。これでいつでも出動できる。それまでは完全に俺だけの時間を過ごせるというわけだ。
 コンソールテーブルの前のボタンを押して少し待つと、側の小さな扉が開いて熱いコーヒーが出てくる。俺はカップを手にすると、その香りを体内へ導き入れた。
 なんでもボタン一つだ、いい時代になったものだと思う。ただ、この仕事は科学がいくら進んでも、ボタン一つでは済まないのだが。
 それでも、一昔前は小さな翼を付けただけの裸で行われていたこの仕事が、科学の進歩と共にユニフォームが開発され、翼は自動操縦も付き高性能になっている。当然、赤ん坊の姿だった俺も成長したし、今では精鋭の一人に数えられるほどになれた。昇進も近いだろうと噂されている。
 が、名前はまだ無い。所長までとはいわなくても、ある程度のお偉方にならないと、個人の名前を貰えないのだ。横に育った所長の名誉のため、彼の名前は口にできないのだが、実は下界の誰もが知っている有名な大天使だったりする。できることなら俺もそこまで上り詰めたい。
 コーヒーが半分ほど減ったとき、壁のモニターが音を立てて通電した。先ほどのモニター室にいた一人が映っている。俺はテーブルと一体化しているコンソールで交信を開始させた。これで向こうにも映像が行き、話が通じるようになる。
「どうした?」
「案件NO.573494に出動要請です」
 俺の指がコンソール上を走り、その数字を条件反射的に打ち込む。割れてしまうはずだったグラスを愛おしそうに抱きしめる女と、彼女を冷たい目で見下ろす男がモニターに映し出された。二人とも三十歳前後だろうか。
「割れるはずのグラスが割れなかったという報告を受けています」
 その言葉を聞きながら、俺は翼のコードを引き抜き、背中に取り付ける。
「了解、出動する」
「準備は?」
「OKだ」
 返事をしながら、左目だけのゴーグルを手に取った。
「では、開けます」
「ラジャ」
 シュンと小気味よい音を立てて、床が消える。俺は落下していく中でゴーグルを付けて体勢を整え、翼を作動させた。
 左目だけのゴーグルの隅には、彼らの現状が映し出されている。背筋が寒くなるほど冷たい、無言のケンカだ。だが、ゴーグルには彼らの感情が字幕になって浮き上がっているので、俺には手に取るように状況が理解できる。
 彼との大切な思い出のあるグラスが割れなかったからホッとしたのだと、彼女はなぜ言えないのか。それをまた、別れ話でホッとしたのだと勘違いしている男も男だ。そのグラスがなんだったのか思い出すだけで、全てが氷解するのに。手を出すことすらアホらしい事件だ。
 ことがこじれないうち、一分一秒でも早く現場に到着したい。俺は空気抵抗を極限受けない体勢を取り、加速スイッチを押した。

 現場に着いたとき、すでに二人は離ればなれになっていた。こうなってしまっては著しく面倒臭い。俺は翼を仕舞い、戸が開いたままの玄関でうずくまっている彼女の前に姿を現した。なにより先に、まずは報酬の約束を取り付けなくてはならない。
 現場に集中するため、上との音声を切る。放心していた彼女の視線が、足元から上がってきた。目が合ったことで、彼女にこちらが見えていることが分かる。
「きゃああ!? 誰!? あんた誰!!」
 俺が近くに立っていることに驚いたのだろう、目の前が黄色い字幕でいっぱいになった。左目が見えなくなり、俺は慌てて字幕機能を切る。
「おどかしてしまって申し訳ない。私はこういう者です」
 ユニフォームのポケットから名刺を取り出し彼女に差し出す。彼女は俺の顔と名刺を交互に見つつ、おそるおそる受け取った。
「幸福保護株式会社、天上支所、恋愛七十三課、主事、名前はまだ無い……? なによこれ」
「名刺です」
「名刺って。肝心の名前が書いて無いんだけど?」
「名前はまだ無いんです。付くのはこれから……、いえ、名前を貰えるかは、私がこれからどれだけ利益を上げられるかに掛かっているのですが」
 女はポカンと口を開けて俺を見ている。できることならその顔は、彼に見せない方がいいだろう。すげえアホっぽいぞ。
「まだ無いって、あんた歳いくつよ」
「そんな細かいことは覚えていません。二千なにがしだと思いますが」
「二千!?」
 目を丸くして言うと、彼女は疑いのまなざしで俺を見た。
「見た目は十七、八よ、ありえないわ」
「や、あるんですって」
「そんなに長い間名前も無く過ごして、不都合ありまくりだったんじゃない?」
「大丈夫ですよ。や、ホントに」
 彼女は俺を見たまま、大きくため息をついた。なにを考えているのか分かりゃしない。っと、忘れていた字幕機能のスイッチを入れる。邪魔、という青い文字が大写しになった。思わず頬がヒクヒクと引きつる。
「いえ、落ち着いてもう一度名刺を見てください。大切なのは会社の名前です」
 彼女はいくぶん肩を落としたまま、ゆっくりと名刺に目を向ける。
「幸福保護株式会社……? なんの会社なのよ」
「文字通りです。あなたの幸福を守りに来たんです」
 俺に斜めから向けられた彼女の視線は、字幕が無かったとしても全力で疑っていることがよく分かる。
「幸せを逃す人はたくさん見たけど、あなたみたいな人は一度も見たことが無いわ」
「そりゃ、逃した人のところには、俺らは行ってないわけですから」
 彼女は一瞬きょとんとしてから、ああ、と手のひらを拳で打った。なににつけても、しゃべる前に頭で考えるということをした方がいいと思うんだけど。
「なんで行かないのよ」
「なにぶん人手不足で。とにかく、これっきゃないって幸せだけは取りこぼさないよう、これでも頑張ってるんですよ?」
 彼女の疑いは全く解けそうにない。が、このままでは大事な利益を取りこぼしてしまう。精鋭の一人として、そんな失態をさらすわけにはいかない。
「だからですね、あなたは今最愛の人とケンカをして、別れる寸前にあるわけです」
 俺は、彼のことを思い出すよう、彼女に働きかけた。彼女は眉を寄せ、悲しげに視線を落とす。
「もう遅いわ、別れたのよ」
 よっしゃ、思い出した。
「いえ、今なら間に合うんですよ。どうか俺に任せてください」
 畳み掛けた言葉に、彼女の中で色々な感情が渦を巻いた。ゴーグルに彼女の気持ちが次々と浮かんでくる。彼を愛しいと想う気持ち、元に戻りたいという想い、俺への期待感、俺に依頼した場合の支払いのこと、預金の残高、ローンの支払い。
「あ? いえいえ、支払いはお金じゃないんです。ありがとうと、ほんのちょっと思っていただければそれで」
「ありがとう、ですって?」
 不思議そうな彼女に、俺はうなずいて見せた。そう、実は感謝と幸福はセットになっているのだが、人間はその辺、なぜか疎い奴が多い。
「そりゃ、戻れるならいくらでも感謝するわよ」
 よっしゃ上客、とガッツポーズを取りそうになり、その思いを顔に出してはまずいと自分をいさめる。だが、その喜びを読み取ってしまったのか、彼女は俺を全力でいぶかしげに見つめた。やるな。
「あんた、もしかして悪魔じゃない?」
「はあっ!?」
「その全身タイツも悪魔っぽいし」
 全身タイツだと!? 不意打ちだ。こういうダメージはユニフォームの中にじわじわと染み込んでくる。言ってみればボディブローだ。地味に痛い。
「お代は魂で、とか言うんでしょ」
「ひでえ。それはライバル会社系列の奴らが使う手で、俺の会社は人間の世界では天使と呼ばれる方なんですよ?」
「天使!」
 字幕に(笑)と浮かんだ。心の中で笑いやがった、この女。
「なにが可笑しい!」
「あのね、天使ってそんなじゃないわよ? ちょっと待ってて」
 女はスリッパの音を立てて部屋に入っていき、一冊の厚い本を抱えて戻ってきた。そしてパラパラとめくった百二十一ページ目を俺の鼻先に突き付けてくる。目の前に大写しになったのは、なんの因果か俺が赤ん坊のときの仕事風景だ。
「てっ、てめえがなんでこれを! はっ、恥ずかしいだろ!!」
 俺は彼女の手から慌てて本を奪い取った。二度と開かせるものかと、本をガッチリ腕に抱え込む。
「顔が真っ赤よ? ホントに天使なのね? ねえ、さっきの三匹のうち、どれがそうなの?」
「匹じゃねえ! 放っとけ!!」
 本は俺の手の中だが、彼女の記憶に残っているのだろう、絵がゴーグルのモニターに浮かび上がった。彼女はその記憶と俺の顔を交互に三度見る。
「あ。真ん中でしょう? 面影があるもの」
 クソ、当たっている。なにがwwwだ、それは嘲笑か、嘲笑なんだなこんちくしょう。ニヤニヤとした顔を見ていられずにうつむいたが、恥ずかしさにゼエゼエと息が漏れる。
 wwwwwwww。モニターに増えていった字幕のwが不意に途切れた。間があって彼女が口を開く。
「もしかして、……ホンモノ?」
 顔を上げると、彼女の瞳は真剣になっていた。
「だから、さっきから幸福保護株式会社の社員だって言ってるじゃないか」
 もう情けなくて涙が浮かんでくる。だけど、な、泣くもんか。きっと泣いたら負けなんだ。
「本当に、まだ望みがあるの?」
「無かったらここには来ないし。だいたい、その顔で他の縁談が来るとでも思ってんの? これを逃したらチャンスは一個も無いんだからな」
「ちょっと!」
 頭をバシッと叩かれた。彼女は気付いていないが、輪が脳天に当たって激烈に痛かった。そこは唯一、ユニフォームに守られていないというのに。俺は、こぼれそうになった涙を慌てて手で拭った。
「あ、ごめん、つい……。痛かった?」
 彼女はヨシヨシと俺の頭を撫でる。俺は彼女の手を払いのけた。
「子供扱いすんな」
「ごめんなさい。悪かったわ」
「い、いいよ、もう……」
 彼女の目の前には字幕が映らない。俺の気持ちは全部言葉にする以外、伝える方法は無いのだ。涙声でも言葉を出さないわけにはいかなかった。
「それでね? ホントに助けてくれるの?」
 おずおずとのぞき込んでくる彼女に、俺はうなずいた。
「やるよ。それが仕事なんだから。感謝さえしてくれれば」
 彼女はウンウン分かったと何度もうなずいている。非常に恩着せがましいが、これで商談成立だ。あとは男の方を操作して、なんとかこの幸せを取りこぼさないようにしなくてはならない。
「じゃあそのグラス、大事に持っとけよ!」
 彼女はそのグラスをそっと胸に抱いた。カットが入ったところがキラキラと輝く。俺は泣きかけた赤い目を見られるのが嫌で、ろくに彼女の顔も見ずに振り返って翼を広げた。飛び立つとき地面に腹をこすったのは、この世界では愛嬌と呼ばれているんだ、問題は無い。

 男の元にも、やはり翼が自動的に運んでくれる。ずっとトボトボと歩いていたらしく、すぐに男の姿が見えてきた。トレンチコートの後ろ姿は、悩んでいるどこかの探偵のようだ。これからが大変だというのにひどく疲れてしまったが、これが仕事だ、やり遂げる以外ない。
「俺よりグラスが大事だなんてな……」
 本当にそう思うのか。っと、字幕どころか声に出るくらいだから思っているんだろうなバーカバーカ。
 男の心に、グラスが無事でホッとした彼女の表情が映り、その優しい微笑みがナイフの先のように男の気持ちを傷つけているのが分かる。すがりついて欲しかったのにカラッポのままの胸が、ただただ寂しいようだ。
 この心の穴がふさがらないうちに、コイツの勘違いをなんとかしなくてはならない。ハートの弓で落とすのが手っ取り早いが、あれはちんまりとしていて最近はとみに使いづらい。それに、そんなことをせずとも恋愛感情を持っているのだから、それを気付かせてやるのが一番の良策だろう。理由は無いよりもあった方がいいに決まっている。
 だが、どうやって? ここが考えどころだ。
 とりあえず、あのグラスの過去を探ってみようと、男の記憶をゴーグルのモニターに呼び出してみた。今は忘れているが、それほど昔のことでもないらしく、その記憶は難なく引き出されてくる。
 場所はこの近辺の酒場だ。男はカウンター席に座り、マスターらしき人間と楽しそうに話をしている。手にしているのが例のグラスらしい。カットがキラキラと美しく輝き、氷とスコッチウイスキーが入っている。他の客のグラスは、それぞれ違った形をしているようだ。棚にも色々なグラスが並んでいるところを見ると、客ごとにお気に入りのグラスを使っているというわけか。
 その記憶に先ほどの彼女が加わった。マスターとの挨拶を見ると、彼女もそれなりに馴染みの客らしい。彼女が注文したのはロンググラスの酒だったらしく、男のとは全く違う、細長い形のグラスが机に出された。
 あのカットの入ったグラスを彼女が持っているということは。二人が付き合うようになったから、マスターが彼女にそのグラスをプレゼントした、というのが自然だろう。そりゃ彼女が大切にもするわけだ。
 ということは、あのグラスがなんだったのかをこの男が思い出せば、彼女がどうしてグラスが大事なのかも理解できるだろう。男を近くにある思い出の酒場に向かわせれば、全て解決することになる。
 アホだ。俺がきっかけを作らなければ、思い出さないということなのだから。精鋭と呼ばれる俺が来るほどのことはなかったじゃないか。だが、いつか名前を貰うためにも、割り当てられた仕事はこなさなくてはならない。
 大きな通りにぶつかって、男が足を止めた。結構な交通量だ。左側に行くと彼女と出会った酒場があり、道を渡って右側には、帰宅するためのバス停がある。ここはナチュラルに左に行ってもらいたい。
 が、俺の悪い予想の方が当たってしまった。バス停のある向こう側に渡ろうと、男は信号の押しボタンに向かって歩いている。押されてたまるかと、俺はユニフォームの透明機能をオンにして、手でボタンを覆った。
「あれ? なんだ、この感触」
 男はよりにもよって親指で、ボタンの上にある俺の手をグイグイと押している。あまりの痛さに声が出そうになるのを必死でこらえた。押せないボタンを何度か押してみてから、男は通りの左右を見やる。
「なんだ、今なら渡れるじゃないか」
 はあ? なに言ってるんだ。赤信号で渡っていて事故に遭ったら、いくら歩行者でも賠償金が少なく、って、こら。
 俺は翼を使って、さっさと通りを渡っていく男の先回りを敢行した。途中、ユニフォームは透明機能から保護色機能へと切り替えておく。バス停に着くと、建物に付いている電光時計で時間を確かめ、時刻表にあるこれから来るバス三本分の数字を隠し、その部分を白く修正する。俺の指をのぞき込んだ男は、疑わしげに首をかしげた。
「あれ? バスが無い?」
 目をこすってもう一度確認しているが、保護色機能の自由性を舐めるなよ。だが、隠しているだけでバスはあるから、本当に来てしまっては困る。早くあのグラスを使っていた店に行かせたい。
「仕方がない、寄ってくか」
 思惑通りに行きそうだと、思わずホッとして頬が緩んだ。だが、男が入ったのは近くのコンビニだった。ここからなら、バスが見えてからでも走れば間に合うだろう。面倒な場所に入ったものだ。
 窓側に進んだ男が手に取ったのは、キュートな女の子が表紙の週刊誌だった。パラッとめくると表紙の女の子が、うわーお。服は着てるけど、ほとんど透けて見えてるし。バストちょうどいい、ウエストちょうどいい、ケツはちょっとでかい。俺は男でも女でもないが、この子は確かにイケていると分かる。
 ふと我に返り、コイツはホントに落ち込んでいるのかと顔をのぞき見た。難しそうな顔をして雑誌の女の子を見ている。俺は試しにモニターを男視点に切り替えてみた。
 なんと、女の子の顔が彼女の顔にすり替えられている。ブッと吹き出しそうになって手で口を押さえた。ちょっと待て、彼女こんなにナイスバディだったっけ? いや、でも、こんなだったと思った方が、彼女の元に戻りたい想いが強くなるだろうから好都合か。
 それにしても、よく噂に上るアバタモエクボという超常現象は、凄い力を持っている。あきれるというか笑えるというか、わっはっはっは、バンバン。
 ついつい壁を叩いた音で、周りの視線がこっちを向いた。しまったと思ったがもう遅い。ここから逃げ出さないと……、と、どうやら視線は俺ではなく男に集まっているようだ。そう、忘れていたが、ユニフォームの保護色機能のおかげで俺は見えづらかったのだ。俺がここにいることを周りに気付かれないよう、ひたすら動かずに頑張る。
 男はバツが悪そうに雑誌を棚に戻すと、そそくさとコンビニを出た。その目の前をバスが通り過ぎていく。俺は周りの視線が散ったのを確認してからユニフォームの機能を透明に戻し、通り過ぎるバスを放心状態で見送っている男の元に駆け寄った。いやあ、今日の俺はツイてるぜ。
「ツイてない」
 男はため息と共にそう言い捨てると、今度こそ馴染みの飲み屋の方向へと歩き出した。悪いな。俺がツイてる分だけ、あんたがツイてないんだよ。
 それにしても、あの店に向かっているのに、コイツはあのグラスがなんだか思い出せないのか。彼女、こんなアホでも好きなんだな。少し不思議に思うが、仕事で関わる人間はみんなこんなものだ。相性というか、ちょうどいいというものが、下界にはちゃんと存在している。
 店が見えてきたが、まだ思い出さない。ずいぶん近づいたが、まだ思い出さない。扉に手を掛けたが、まだ思い出さない。俺は、手に力を込めて扉を押そうとした男の頭を、思い切りどついた。
「あ、いらっしゃい」
 そう中から声が掛かったが、男はハッとした目でマスターを見ている。
「まっ、また来ます!」
 男はコートをひるがえして駆け出そうとし、俺にぶつかった。
「すみません! え???」
 見えない俺には謝罪の向けようがない。
「き、きっと気のせいだ」
 そうつぶやくと、男は前髪のホコリでも払うように首を振って走り出す。俺はその遠ざかる背中に、頑張れよ、と小さく声を掛けた。

 こっちは空を飛んでいるのだから先回りできる。そう思って気持ちよく風任せで移動していたら、彼女のアパートに駆けつけた男が見えた。近道があるのか、ぬかったぜ。
 慌てて近くまで寄ってみると、男はドアノブを握るのももどかしく玄関ドアを開けている。勢いよくドアが開くと、すぐ側にいた彼女が驚き、その手からグラスが転げ落ちた。
 グラスはカットの部分をきらめかせながら、玄関のコンクリートに落ちて砕ける。グラスの断末魔の声が、空中にいる俺にも聞こえてきた。
「いやあ! グラスが、あなたのグラスが!」
 グラスの破片をかき集めようとした彼女の腕を、男が慌てて捕まえた。
「危なっ、駄目だ!」
「だって、だってこのグラスは」
 男を見上げる彼女に、男は軽くため息をついて微笑む。
「分かってるよ。でも俺はこのグラスより君の手が大切なんだ。君は? グラスと俺と、どっちが」
「あなたが大事に決まってるじゃない!」
 彼女の瞳から、グラスの欠片に負けじと輝く涙がこぼれ落ちる。彼女は腕を引かれ、男の胸に開いた穴にスッポリと収まった。うん、さすがうちの会社が守らなくてはならない幸福だけはある。ぴったりだ。
 これで彼らに対する俺の仕事は終わりだ。あと、残る問題は報酬。ちゃんと支払って貰えるように、ここで俺の存在を主張しなくてはならない。
 俺は透明機能を解いて翼を広げ、彼らに注ぐ夕日をさえぎって見せた。開いたままのドアから、ちょうどよく俺が逆光に見える位置だ。ユニフォーム姿を見せるよりも影だけの方が、下界での天使のイメージに添って見えるだろう。
 影に覆われたことに気付いた男が、こっちを見上げてきた。
「あれは……」
「天使よ」
 彼女もこちらに目を向ける。男は苦笑した。
「なに言ってんだ、天使ってこういうものだろ」
 男は側に落ちていた本の百二十一ページを開き、例の赤ん坊な俺の肖像を指し示した。彼女が指先をのぞき込む。
「あははは、これ、あの子よあの子」
 そんなことをバラすんじゃねえ、クソバカ。
「私、あの子に感謝するわ。本当にありがとう」
 俺に向かって言った感謝の言葉と彼女の幸福感は、まっすぐ天上界へと向かっていく。結構大量じゃないか、やっぱり上客だった。これで約束の支払いは終了だ。あとは二人でよろしくやってくれればいい。
 やり遂げたと思ったら気負いが無くなり、それっぽく広げていた手をだらんと下に落とした。さすがに疲れた。報酬もいただいたし、もうどう見えても構わない。
「えーと、あの子……。あの子? 願いを叶えてくれたような気が。神様、だっけ?」
「いや、あれはどう見ても神様には見えないよ」
 そうそう、俺は決してそんなもんじゃねえ。俺は二人に構わず、疲れた身体を翼に引っ張り上げてもらいつつ天上界を目指した。ゴーグルの隅には、まだ彼らの様子が映し出されている。
「そうよね、神様が見えるわけがなかったわ」
 そうだろうそうだろう、もうすでに俺がいた記憶が消えていく頃だ、見えたとしても天使だなどと信じられるものではない。
「だったら、あれはなに?」
「んー。あ、蚊だ、蚊じゃないか?」
「そうね、それっぽいわね」
 ありえねえ、なんでそうなる……。
 いや、達成感で脱力した身体は、確かに翼にぶら下がっているように見えるだろうから、遠目に見間違えられても仕方がないのかもしれない。
 ……なんてことがあるものか! 距離感はどうした、距離感は!
「蚊じゃねえぞバカ野郎!!」
 思い切り叫んでみたが聞こえただろうか。モニターには二人が唇を寄せ合うのが映っている。もう彼らだけの世界って奴に包まれていて、他のことはどうでもいいらしい。蚊にされたままでは後味が悪いが、これで仕事は完了だ。もう帰って忘れよう。彼らも俺のことは忘れるのだから。
 抱き合う二人の向こう側で、俺の名刺が音も無く燃え上がる。真っ白な灰になって風に飛んだのを確認して、俺はモニターを切った。

 さて、次の仕事が俺を待っている。精鋭の一人と呼ばれ続けて名前を貰うまで、俺の死闘は続くのだ。それまでは決して挫けたりはしない。
 それに。幸せになる二人を見られる仕事ってのは、思った以上にやりがいがあるものなんだぜ。なにより、自分も幸せになっている気がするんだ。まあ、俺自身はなにも変わっていないのだから、気のせいかもしれないんだが。
 次の二人はどんな恋人同士だろうか。ここぞというところでは、絶対に取りこぼしたりはしない、すぐに駆けつけるから待っててくれよな。
 蚊という言葉は引っかかるものの、俺はおおよそ爽やかな気持ちで幸福保護株式会社天上支所へと戻った。



読者登録

なびさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について