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炒り豆をめぐる冒険

 おおー、着いたぞーっ!
 そう心の中で叫んでから、リーナは大きく伸びをした。豪快な動きに合わせて、太い三つ編みがぶんぶんと揺れる。
 喧騒渦巻く、州都の停車場。つい今しがた停まったばかりの乗合馬車から、リーナに少し遅れて、残る乗客がのろのろと地面に降り立ちはじめた。皆一様に疲れの目立つ表情で、大儀そうに腰を叩いたり伸ばしたりしている。
「リーナちゃんは元気ねえ」
「へへへへ、そりゃー、若いですからね!」
 リーナは思いっきり得意げに胸を張って、長旅の道連れ達に笑い返した。
「リーナちゃんのお蔭で、楽しかったよ」
「そうそう。また帰りも一緒だったらいいね」
 馬車から降り立った八人は、それぞれ荷物を抱えて、各々の目的地へと散っていく。さてと、と大きな鞄を肩にかけようとして、リーナは外套のポケットのふくらみを思い出した。右のポケットから干し芋を、左のポケットから炒り豆が入った袋を取り出し、鞄の中に移し替える。どちらも、馬車に乗り合わせたおじさんおばさんから貰った大切な品物だ。
 ――私って、年上受けするのかなあ。
 これで、一食分の食費が浮いたかも。リーナはにんまりと笑みを浮かべた。
 
 
 峰東ほうとう州の都ルドスと、東の最果ての街サランとの間を、十日に一度の割合で長距離の乗合馬車が行き来している。元々郵便を運搬するために開設されたこの馬車便は、いつの頃からか、同行者がおらず、経済的に余裕が無くて護衛やお供を雇えない旅人を、比較的安価な運賃で運ぶという重要な役割をも担うようになっていた。
 リーナがその乗合馬車に乗り込んだのは、もう半月も前の事だ。
 サランの西隣、イという名の小さな田舎町でリーナは暮らしている。町に一つしか無い教会の、治療院が彼女の勤め先だ。この旅のために、リーナはここ数ヶ月間、休日を全て返上する勢いで働いた。
 だが、そうしてやっとの事で手に入れたひと月余という長期休暇も、州都までの長い道のりの前にはあまりにも心もとなかった。多くの路銀と時間とをつぎ込んだにもかかわらず、彼女がルドスに滞在する事が出来るのは、わずか一週間にも満たない。
 ――仕方が無いよねえ。あっちだって、状況は同じようなものなんだし。
 大きく溜息をついて、リーナはこれから会う予定の人物の顔を思い描いた。栗色の前髪の下から覗く人懐っこい瞳。男前には違いないが、どこか掴みどころの無い笑顔が特徴の恋人――サンが出仕している帝都は、ここから更に西、険しい山々の向こうにある。
 二年前、サンが上京して半年、初めての里帰りに彼はわずか一日しか故郷に滞在する事が出来なかった。それも、悪天候を一切考慮しない、やけっぱちもいいところな強行軍だったらしい。
 たまたまあの時は運に恵まれた、だが、流石にもうそんな無茶は出来ないだろう、次はいつ帰れるか分からない。そう語るサンからの手紙に、じゃあ、どこか途中で落ち合わない? と返したのは、リーナの方だったのだ。
 ――って、でも、こうするしか他に手は無かったよねえ?
 ルドスで会おう、って自分が切り出さなければ、サンは一体どうするつもりだったんだろう。まさか、それっきり、はい、サヨウナラ、って事は無いと思いたいけれど、あのままでは、いつまでたっても「会いたいね」「会えたらなあ」を繰り返したまま、二人の関係は自然消滅してしまったかもしれない。
 ――大体、煮えきらなさ過ぎなのよね、あいつ。何を遠慮してるんだか知らないけれど、したい事、して欲しい事があるなら、ずばーんっと言えばいいのに。
 まったく水臭いんだから、とリーナが鼻息も荒く両手を腰に当てた、その時。石畳を蹴る軽い足音とともに、彼女の背中に何かが勢い良くぶつかってきた。
 うぎゃっと情けない悲鳴を上げて、リーナは前方につんのめった。その拍子に、肩にかけていた鞄が路面に落ちる。すんでのところで体勢を立て直したリーナの前に、帽子を目深にかぶった一人の少年が、息せききった様子で回り込んできて、落ちた鞄を拾い上げてくれた。
「ごめんよ、急いでるんだ!」
「危ないでしょ、まったく。気を付けなさいよ」
 分かった、と大きく頷きながら、少年は路地の向こうへと走り去っていく。
「……全然解ってないし」
 ふう、と大げさに溜息をついてみせてから、リーナは大通りをゆっくりと歩き始めた。
 
 
 
「もう逃げ場はねえぜ」
「さあ、観念してアレを渡すんだな」
 見るからに悪人面をした二人の男が、ひとけの無い路地に追い詰めているのは、先ほどリーナにぶつかってきたあの少年だ。
「お前がアレをお頭からスリ取ったのは分かってんだ。酷い目に遭いたくなければ、返してもらおうか」
 背が高い方の男が、少年の胸倉を掴んで力任せに引き上げる。少年は両足をばたつかせながら、必死で大声を上げた。
「知らないよ! 僕、そんなもの知らないよ!」
「嘘をつけ!」
「嘘なんかじゃないよ! 持ってないよ! 嘘だと思うんだったら、探してみろよ!」
 少年の叫びに、背の高い男――仮に、悪党其の一とでもしておこう――がほんの少しだけ怯んだ様子を見せた。その隙に、少年は其の一の腕を振り払って地面に着地する。即座に脱兎のごとく逃げ去ろうとした少年を、今度はもう一人の男――こちらは悪党其の二か――が捕まえた。
「やい、お前、どうしても痛い目に遭いたいらしいな」
「だから、持ってない、って言ってるだろ! 離せよ! あんたら、子供を捕まえるのと、宝石を取り戻すのと、どっちが目的なんだよ!」
 その言葉を聞いて、悪党其の一と其の二はお互いに顔を見合わせ、しばし沈黙した。
「なるほど」
「よし分かった、お前の持ち物を調べさせてもらうぞ」
 言うが早いか、其の二が少年の上着のポケットに手を突っ込む。其の一はズボン。服の上から少年の身体をパタパタと叩き、帽子を逆さに振り、上着の裏地を調べ……。
「兄貴、こいつ、持ってねえ……」
 最後に少年の口の中を覗き込みながら、其の一がそう絞り出した。
「ほら、知らないって言っただろ?」
 得意そうな顔で少年が上着の襟元を正す。じゃ、頑張ってね、と立ち去ろうとした彼の首根っこを、其の二が慌てて鷲掴みにした。
「って、お前、なんでアレの中身が宝石だって知ってるんだ!?」
 重要な点にようやく気が付いたらしい男は、しまった、という表情を作る少年に向けて拳を固めた。
「お前、やっぱり、盗ってやがったな!」
「知らない、知らないよ!」
「ふざけるな!」
「でもよ、兄貴、現にこいつ、何も持ってなかったぜ」
「おい、お前、どこに隠した!」
「知らないって!」
「まだトボけるか!?」
 噛み付かんばかりの勢いで少年を恫喝する其の二に、其の一が至極不安そうな視線を絡ませた。
「どうすんだよ、兄貴。お頭にどやされちまう……」
「待て、良く考えるんだ。あの時、お頭にこいつがぶつかって来るまでは、あの袋はあったんだろ?」
「で、その後すぐに俺達はこいつを追いかけた」
「どこかに隠したか、仲間に手渡したか……」
 そこで、二人はもう一度顔を見合わせて、今度は叫び声を上げた。
「あー! さっきの女!」
 一瞬生じたわずかな隙を、少年は見逃さなかった。勢い良く其の二のむこうずねを蹴り上げ、緩んだ手を振りほどく。そうして少年は全速力で袋小路から逃げ出した。
「うわーっ! 助けてー! 殺されるーっ!」
 表通りへと続く細長い坂道は、人通りこそ無いものの、彼らが先ほどまでいた場所とは違って見通しは格段に良い。石畳と家々の壁に反響した少年の声に、男達は激しく動揺した。
「おい、こら、人聞きの悪い事言うな!」
 ひと角走ったところで、其の二はやっと少年に追いつく事が出来た。問答無用で少年を羽交い締めにし、なんとか口を塞ごうとする。
「あの女の居場所を言えば何もしねえよ!」
「たーすけてーっ! 人さらいだー!」
「くそ、黙れ! クソガキ! あの、茶色の三つ編みの田舎娘はどこだ!」
 あれだけの邂逅で、リーナの事をこれだけ把握出来ているというあたり、この悪党其の二、ある意味大した慧眼の持ち主なのかもしれない。
「ころされるぅうー!! だれかー!」
「何だか知らないけど、子供相手に大人げ無い。離してやれよ」
 突然頭上から涼しげな声が降ってきた事に驚いて、其の二と少年は一様に顔を上げた。
 ひょろりと背の高い、だが意外にがっちりとした肉付きの若い男が、腕組みをしながら二人を見下ろしていた。
 その飄々とした態度と気の良さそうな瞳に勇気を得たのか、其の二は不敵な笑みを浮かべて若い男をねめつける。
「よぉよぉ、兄ちゃん。これは身内の問題なんでね、関係無い奴はすっこんどいてもらおうか」
「嘘だ、嘘だよ! 身内なんかじゃないってば! こんなおっさん知らないよ!」
「……って、言ってるけど?」
「反抗期ってやつさ。さあ、とっとと……」
 威勢良くそこまで啖呵を切って、それから其の二は動きを止めた。硬直した視線は、若い男の腰に注がれている。外套越しでも窺う事の出来る、ひと振りの長剣の存在に。
「兄貴、どうしたんですかい。こんな優男、さっさと……」
 少年が自由を取り戻すのを見て、其の一の目が丸く見開かれた。
「兄貴!?」
「……どのみち、あのガキは持ってなかったんだ。女を捜すぞ」
「で、でも兄貴……」
「うるさい、行くぞ!」
「ええー!? あにきぃー」
 
 どたどたと騒々しく走り去っていく二人を、若い男は無言で見送っていた。
 その後ろでは、危機を脱した少年が、これ幸いとばかりに、そろりそろりとこの場から離脱しようとしている。
「ちょっと待った」
 だが、少年が走り出そうとするよりも早く、若い男の手が少年の右手首を掴み取った。
「な、なんだよ」
「……何か言う事があるだろ?」
「へ?」
 本気でわけが解らない様子の少年に、若い男はがっくりと肩を落とした。
「あのねえ、別に感謝されようと思って助けたわけじゃないけどさ、こういう時は、一言お礼を言うものだろ?」
 なるほど、と合点がいった様子で、少年は深々とお辞儀をする。
「助けてくれてありがとうございました。……じゃ、そういう事で」
 爽やかにそう言い捨てるや否や、すかさず回れ右をして駆け出そうとする少年であったが、今度は男に左手首を掴まれ、大きく前につんのめってしまった。
「な、何すんだよ!」
 子供らしからぬ気迫を瞳に込め、少年は男を睨みつける。その視線を事も無げに受け流しながら、男は顎に手を当てて何事かを考え込み始めた。
「……茶色の……、田舎……、いくらなんでも、考え過ぎだと思うけど……でも、なんかひっかかるんだよなあ……」
「何だよ、手を離せよ!」
「……ま、時間もあるし、思い過ごしだったらそれはそれで問題無いわけだし……」
「おい、何言ってんだよ!」
「……よし」
 何やら納得した表情で大きく頷いてから、男は長身を折り曲げるようにして少年の眼前にしゃがみ込んだ。じたばたと暴れる少年と改めて視線を合わせて、にっこりと笑顔を作る。
「さてと。どういう理由で、あいつらに追われていたんだ? おにーさんに話してごらん?」
「……あんた、何者だよ」
「俺? 俺はサン。通りすがりの旅行者さ」
 朗らかに少年に笑いかけているにもかかわらず、サンの眼差しは少しも緩んではいなかった。
 
 
 
「いやーん、かっわいー!」
 いちの立つ広場の一角、硝子細工の装飾品を並べた小さな屋台店の前にリーナはいた。キラキラと目を輝かせながら、組み合わせた両手を右頬に当てて、うっとりと首飾りに見入っている。
「お嬢ちゃん、お目が高いねえ。それ、ウチの自信作だよ」
「そうなんですかー。こんなに綺麗なの、私、今まで見た事無いですよー」
「嬉しい事言ってくれるねえ」
 鼠色のショールをまとった年配の女が、ワゴンの中の小箱から一粒の硝子玉を摘み上げて、陽にかざした。綺麗に磨かれた多面体が、秋の太陽を幾つも映し込んで幻想的に輝く。
「どうだい、宝石もかくやのこの煌き」
「ホントだ、すっごーい! キラキラしてる! 宝石なんて見た事無いけど、本当にこんな感じなんだろうなあ!」
「んふふふふ。お嬢ちゃんたら、上手だねえ。どうだい、特別にオマケしておくよ?」
 女主人が思わせぶりに片目をつぶる。リーナはほんの一瞬だけ目を輝かせて、……それから穴の開いた皮袋のように、みるみるうちにその身体を萎ませてしまった。
「……あ、でも、持ち合わせがそんなに無いんですよね……」
「うーん、じゃあ、これなんかは? どうだい?」
 そう言って女が取り出したのは、普通の丸い硝子玉と、美しくカットされた硝子玉とが、ほど良く混ざり合って作られた首飾りだった。
「これで、お値段は……」
 続きを耳打ちされたリーナの目が、再び見開かれる。だが、彼女はすぐに悲しそうな表情になって、再度がっくりと肩を落とした。
「……帰りの馬車代をとっておかなきゃならないし……」
 さしもの女主人も、少し不機嫌そうな眉で小さく唇を尖らせる。
「ルドスに着いたばかりって言ってたろ? 買い物に来たんじゃなかったのかい?」
「買い物もしたいけど、一番は、人に会いに来たから……」
 そこで、女主人の瞳がきらりん、と光った。
「デートかい」
「ええ、まあ」
「なんだい、なんだい、景気の悪い顔をして」
「いや、ちょっと今、我に返ってしまって……」
 右手でこめかみを押さえながら、リーナは、はあっ、と大きな溜息をついた。
「バカみたいな大金使って往復一ヶ月も馬車乗って、せっかく州都に来たのに好きなもの一つ買う余裕も無くて、そこまでしても一年にほんの数日しか会えなくて、私、一体何やってんだろう、って……」
 リーナのぼやきに、女主人の眼差しが同情の色を帯びる。と、ふと何かを思いついたらしく、女は悪戯っぽく口のを上げてリーナの肩をポンポンと叩いた。
「馬鹿ねえ。簡単な事じゃない。彼氏に買ってもらえばいいのよ」
「へ?」
「向こうの都合で、遠路はるばる呼びつけられてるんでしょ? 好きなものの一つぐらい、彼氏に買わせなさいよ!」
「買わせる……」
「そうそう」
「好きなものを……?」
「そうよぉ」
 にこにこと頷く女主人につられるように、リーナは晴れ晴れとした表情で顔を上げた。
「そっか! 買ってもらえばいいんだ!」
「こんな遠くまで来てあげたんだぞ、って、お礼の品ぐらいねだっても構わないわよ」
「そうですよね! 構わないですよね!」
「そうそう、その意気!」
「よーし、なんだかやる気が湧いてきましたーーー!」
 
「……って、どう考えても無理よねえ……」
 硝子細工の店から離れて、リーナは再び大きく嘆息した。店のおばさんに乗せられてああは言ったものの、数歩も行かないうちに彼女の足取りはすっかり重くなってしまっていた。
「あいつだって、無理してルドスまで来てくれてるんだもん。買わせる、つってもなー」
 興奮した時の癖で独り言を連発している事に気が付かないまま、思考だだもれ状態でリーナは歩き続ける。
「でもさ、近衛兵のお給金って、なんだか良さそうだよね。……ああ、でも、帝都って物の値段が高いって言ってたしなあ。『葡萄酒が一杯どれだけすると思う?』って、それは単に贅沢してるだけじゃん」
 サンの声色を真似てみせてから、自分で反論してみて。独り芝居を繰り広げつつ、リーナは広場を歩き続けた。そうこうしているうちに、暗い気持ちが少しずつ晴れ始めて、再び買い物気分が盛り上がってくる。そもそも、彼女はあまり落ち込みが持続する性格ではないのだ。
「そうだよ、見るだけならタダだもんね。眼福、眼福」
 リーナは鞄を肩にかつぎ直し、足取り軽く買い物客の人波の中へと戻っていった。
 
 
 ぐう、と腹の虫が自己主張を始め、リーナは正午が近い事を知った。今日の朝食が、小さな硬いパンと干し肉一切れだけだった事を思い出してしまい、空腹感が更に増幅される。
『十月の第一週あたりの夕刻に、前回と同じ宿屋で』
 これが今回、サンとなされた約束である。お互い天候に左右される長い旅程ゆえに、正確な日付を指定しての待ち合わせは不可能だ。無事会えた暁には夕食をともにする予定だったが、果たしてそれが叶う日が来るのかどうか……。
 もしも自分が魔術師だったなら、この風に声を乗せて彼に届けるのに。そこまで考えてから、リーナはがくりと大きく肩を落とした。あの複雑怪奇で意味不明な古代語の呪文を習得するなど、自分に出来よう筈が無い。そもそも癒やしの術で手一杯な身が何を言う、と。
「……ま、悩んでも仕方の無い事は忘れるに限る、ってね」
 あっけらかんと自分に言い聞かせてから、リーナは改めて辺りを見回した。
「晩ご飯は、出たとこ勝負という事でいいけど、まずは昼ご飯よね。干し芋も炒り豆も、帰りのためにとっておきたいしなー」
 ついつい視線が、食材や軽食の屋台に吸い寄せられてしまう。
 ――無難にパン屋を探そうか、少し奮発してあそこの揚げ菓子を買ってみるか、うーん、でも、向こうにあった果物の露店も魅力的だ……。
 眉間に皺寄せ考え込むリーナの背後に、ふっ、と黒い影が立った。
 
 
「お嬢さん、何かお探しですかい?」
 揉み手すり手猫なで声に精一杯の愛想笑いも付けて、悪党其の一は、標的であるところのリーナに話しかけた。周りの買い物客が、ぎょっとした表情で二人を見比べては、そうっとこの場から離れていく。
「何を、って、それが、今悩んでいるところなのよ」
 だが、当のリーナは何かぶつぶつと呟くばかりで、一向に背後を振り返ろうともしない。其の一は負けじと、ぎこちない丁寧口調で食い下がった。
「お洒落なお召し物なら、お向こうにお安くて良いお店があるぜ……ますよ」
 客を呼び込むどころか、全力で逃げられかねない上ずった声が、痛々しい。
「別に、服は間に合ってるからいいや」
 心ここにあらずといった風な返事ののち、リーナがぴん、と姿勢を正した。そうして何やら鼻をひくひくさせながら、きょろきょろと辺りを見回している。
 ややあって、彼女はすたすたと歩き始めた。依然として悪党達に背を向けたまま、広場の片隅へと向かっていく。
「……ちょ、ちょっと待ってくれよー、向こうに安い店が……」
 置いてけぼりを食らった其の一を肘で小突いてから、今度は其の二が小走りに標的を追った。
「お嬢さん、いい靴屋を教えてやるよ?」
「これ、まだまだ履けるしなあ。いらないや、ありがと」
 リーナの歩調が更に少し速くなった。其の二は雑踏に揉まれながらも、必死で声をかけ続ける。
「鞄とか、帽子とかは?」
「いらない。お金に余裕ないし……」
 すげ無い声が、瞬く間に周囲の喧騒にかき消される。
 呼び込みの声、値切る声、笑い声、歓声。それらを彩る、行きかう人々の多種多様な服装。山の民、海の民、白い頭巾は砂漠の民か。色とりどりの人波に、香辛料と炙り肉の匂いがかぶる。……そう、おいしそうな串焼きの香りが。
 香ばしい煙が上がる一角へと邁進するリーナの後ろで、二人の悪党はひそひそと額を突き合わせた。
「兄貴、なんか話が違うぞ? 作戦間違いなんじゃ……」
「おかしいな。田舎から買い物に出て来る娘っこのお目当てといったら、このあたりの筈なんだが……」
 流石の其の二も、まさかこのリーナが人に会うためだけにわざわざ州都にやって来たとは、思ってもいないのだろう。
「意外なところで、装飾品や化粧品の方が釣れるかもしれんな」
「でも、本当に金を持ってなさそうだぜ?」
 二人とも、かなり失礼な事を言っている。
「嘘に決まってるだろ! 買い物に来るのに、金を持って来ない奴がどこにいる?」
「なるほど」
 お互いに大きく頷き合ってから、二人は改めて追跡を再開した。広場の外れ、串焼き屋台のすぐ近くまで歩みを進めた茶色の三つ編みに、なおも勧誘の言葉をかける。
「土産物にぴったりな、首飾りなんかはどうだい?」
「あー、もう!」と、そこでようやく、リーナが二人を振り返った。「その事は、今は考えない事にしてるの! お腹空いてるんだから、ちょっと後にしてよ!」
 そうして両頬を見事にふくらませたまま、再び串焼きへと向き直る。二歩ほど進んだのち、ふと彼女の足が止まった。
「……って、おじさん達、誰?」
 あまりの言い草に、悪党二人のおもてに朱が入る。たまりにたまった鬱憤の堰が、遂に切れてしまった瞬間だった。
 
 
 
「全部話したんだから、もう帰ってもいいだろ?」
「だーめ」
 にっこりとサンに笑いかけられて、スリの少年は思わず背筋を震わせた。視線を合わす事が出来ずに、鳥打ち帽を目深にかぶり直す。
 身体を掴まれているわけでも、紐で繋がれているわけでもないのだから、逃げようと思えばいつだって少年はサンのもとから離れる事が出来る。なのにそれを実行する気になれないのは、サンの屈託の無い笑顔の奥底に、言葉には言い表せない不穏な何かが蠢いているような気がしてならなかったからだ。少年は今、助けを求める相手を間違えたんじゃないかという思いに、心の底から苛まれている最中であった。
「カイがあいつらの財布をスリ取ったのが原因なんだから、きっちり最後まで付き合う事」
「警備隊には突き出さないでくれるんだよな?」
 二人は、前を行く荷馬車にならって大通りから細い路地へと角を曲がる。薄暗い建物の影がしばらく続く向こうに、明るく開けた広場が見えた。
「それは俺の仕事じゃないからね。ま、あまり人様に迷惑をかけないようにして生きる事だね」
 余計なお世話だ、と鼻を鳴らしてから、カイと呼ばれた少年は、不貞腐れて腕組みをした。
「んじゃ、今している事は、あんたの仕事なのか?」
「そうかもね」
 そう軽く答えたのち、サンが少し真面目な表情でカイを見やった。
「身長が五フィートとちょい、年の頃は十七、八。茶色の三つ編み、東部訛りで連れは無し。色んな布をはぎ合わせた大きな肩下げ鞄、おせっかいっぽいおばさん口調……。流石、スリをしているだけの事はあるなぁ。大した観察眼じゃん」
「それほどでも」
 露店の並ぶ大広場に足を踏み入れた途端、二人の顔面を喧騒が打った。群衆のざわめきが、広場を取り囲む建物の壁々に反響して、うねるように四方から押し寄せてくる。
「その人物像が確かなら、その女とやらが俺の知っている人間と同一人物である可能性は、かなり高いんだよな」
 長身を活かして辺りをきょろきょろと見回していたサンが、小さく頷きながら、広場の奥の方へと足を向けた。カイも慌ててその後を追う。
「で、もしも彼女なら、市の立つ今日、ここに来ないわけが無い」
「って、もしかして兄さんの恋人?」
「まぁ、ね」と、少しだけ照れたような笑みを浮かべて、サンが再び前方へ向き直った。「折しも、昼飯時。彼女ならきっと、何を食べようか悩んで食べ物関係の屋台をさすらっているに違いない。手ごろで美味そうな店から聞き込んで回れば、多分すぐに……」
 ふんふん、と適当に相槌を打っていたカイだったが、次の瞬間、あるものを認めて大きく目を見開いた。
「あーー! 兄さん、あれ!」
 カイの叫び声に、サンが弾かれたように振り返った。
 買い物客でごったがえす広場とは対照的に、建物の壁沿いには、幾つかの屋台がまばらに出ているだけで、通路ともいえる空隙くうげきが細長く開けている。その遥か遠くの向こう隅、見覚えのある凸凹コンビが一塊となって建物の陰へと姿を消した。それはほんの一瞬の出来事であったが、二人組の悪党が三つ編みの女を無理矢理連れ去る様子が、はっきりと見てとれた。
「冗談じゃない!」
 毒づくと同時に、サンが駆け出した。
 何度も人にぶつかりそうになりながらも、彼はまるで風のように、俊敏に人波を避けては、女が連れていかれた路地を目指す。
「……すげー」
 カイはしばし呆然とサンを見送って、それから慌ててその後を追いかけ始めた。これは面白い事になったぞ、と上唇を湿しながら。スリの本領発揮とばかりに、これまた見事な身のこなしで人々の隙間をぬい進む。
 広場を抜けたサンに続いて、カイも角を曲がった。
 明るさに慣れた目が、路地の薄暗さに視力を奪われる。思わず足を止めたカイの眼前で、サンの背中が影の中へと飛び込んでいった。微塵も躊躇わぬその豪胆さに、カイの口から感嘆の息がもれる。
 石畳や塗り壁が次第に輪郭を取り戻し始める視界の中央、ひと角向こうで馬車の扉が閉まった。同時に辺りに響き渡る、鞭の音。
 ゆっくりと車輪が回り始め、馬車は建物の陰へと消えていく。
「待ちやがれ! そこの馬車!」
「兄さん! こっちが近道だよ!」
 すぐ左手の建物の裏、溝とも通路ともつかない家々の隙間が、大通りに繋がっているのを、カイは思い出したのだ。
「馬車が通れる道なんて、限られているもんね」
「なるほど。スリには土地勘も必要ってわけか!」
「その通り! 僕にまかせてよ!」
 言うが早いか、石壁の間へとカイは身をおどらせた。
 
 
 
 二人組の男に飛びかかられて、問答無用に口を塞がれ、力任せに引きずられ、馬車に押し込まれて。
 未だかつて無い非常事態に、半ばパニック状態に陥りかけたリーナを正気づかせたのは、馬車の中で待ち受けていた中年の男の、くるりんと見事なカールをえがいた口髭の存在だった。
「さあ、アレを返してもらおうか」
 細面の輪郭からはみ出た焦げ茶色の巻き髭が、口の動きに合わせてゆらゆらと揺れるさまに、リーナは思わず二、三度と瞬きをし、それからふき出しそうになって思わず下を向いた。
「なに、怖がらなくったっていいんだよ、お嬢ちゃん。アレさえ返してくれたら、無事に家に帰してあげるから」
 ゆらゆら、ゆらりん。
 夏の太陽の下で風に揺れるキュウリの蔓を思い出しながら、リーナは必死で笑いをこらえつつ顔を上げる。
「……あ、アレって、何ですか?」
 辛うじてそう答えたリーナに向かって、巻き髭氏はフン、と鼻を鳴らしてみせた。それから、リーナの両脇を固める悪党其の一と其の二に、ちらり、と視線を投げた。
 小型の二輪馬車の座席は狭く、一人で片側の座席にふんぞり返る巻き髭氏に対して、其の一と其の二は半分以上お尻が座席からはみ出した体勢で、窮屈そうにリーナを両側から捕まえている。そんな不安定な姿勢にもかかわらず、巻き髭氏の目配せを受けた其の二は慌ててリーナの鞄を奪い取った。
「な、なにするのよ、ちょっと、これ私の鞄……!」
 抗議の声を上げて身を乗り出そうとしたリーナを、其の一が座席に押さえ込んだ。うひゃあ、としりもちをつくリーナには目もくれずに、其の二が彼女の鞄の中を探り始める。
「あ! ありましたぜ、お頭!」
「あーっ! 私の豆ーっ」
 得意そうに吼える其の二の手には麻の小袋が掴まれていた。それを見たリーナが思わず叫び、傍らの其の一が耳を押さえて床にうずくまる。
「何が豆だ。往生際が悪いぞ」
「って、お頭、本当に豆です」
 その瞬間、ぴくり、と髭が痙攣するように震えた。ほんの一呼吸の間硬直していた巻き髭氏だったが、はっと我に返って其の二の手から麻袋をむしり取る。滑稽なほどに慌てた様子で袋の中に手を突っ込み、そして再び動きを止めた。
「……豆だ」
 信じられないものを見る眼差しで、巻き髭氏は摘み上げた炒り豆を凝視する。
 悪漢達三人の注意が一粒の豆に集中した隙に、リーナは勢い良く身を起こして、其の二から鞄を、巻き髭氏から炒り豆の袋を奪い返した。手早く小袋の口を縛り直してから鞄の中に放り込み、誰にも渡すものか、と身体全体で鞄を抱え込む。
「帰りに食べるのを楽しみにしてるんだからね! おじさん達なんかにはあげないんだから!」
「誰が豆を欲しがるか!」
「取ったのはおじさんじゃん」
 ぐ、と言葉に詰まりながらも、巻き髭氏はトカゲを思わせる瞳に精一杯の威厳を込めて、リーナを睨みつけた。
「宝石をどこへやった」
「何、その、ホーセキって」
 怪訝そうに問い返すリーナに、今度は其の一が詰め寄ってくる。
「スリの小僧から受け取っただろう!」
「知らないよ」
「知らない筈が無いだろ! あいつはお前以外の誰とも接触しなかったんだぞ! さあ、答えろ、宝石はどこだ!」
 今度は、リーナが耳を塞ぐ番だった。さっきの仕返しと言わんばかりの、其の一の大声は、狭い馬車の内部をびりびりと震わせる。
 耳元でがなり立てる其の一の剣幕が一段落ついたところで、彼女はそうっと耳から手を離し、そうして大きく溜息をついた。
「だから、本当に知らないんだってば。ねえ、そんなに大変な物をスられたんだったら、警備隊に行った方がいいよ。私も一緒について行ってあげるからさ」
「行けるわけが無いだろう!」
 血相を変えてそう答える巻き髭氏に、リーナは殊更に軽い調子でひらひらと手を振った。
「やだなぁ、おじさん、警備隊に行けないなんて、お尋ね者じゃあるまいし……」
 冗談めかしてそう言ってから、リーナは微かな違和感を覚えて一同を見渡した。
 向かいの席に座る巻き髭氏が、右隣に腰かけている悪党其の一が、左側に中腰で立つ悪党其の二が、やけに神妙な顔で黙りこくっている。
 ――嫌な予感、が、する。
 しかしあるじの懸念をよそに、リーナの口は見事な勢いで言葉を吐き出し続けた。
「……それに、宝石が盗品だっていうわけじゃあるまいし……?」
 その場に降りた沈黙は、更にその深みを増して、リーナの身体を呑み込んでいく。……そう、まさしく泥沼のように。
 わざとらしい咳払いののち、巻き髭氏は手に持ったステッキで、馬車の天井を三度小突いた。
「おい、スーリャの店へやってくれ。場所を変えて仕切り直しだ」と、ねっとりと粘着質な視線をリーナに絡ませ、「なに、そのうち嫌でも隠し場所を喋りたくなるだろうよ」
 藪をつついて、なんとやら。あまりの事にリーナは大きな目を更に丸くして、そして叫んだ。
「ええええーっ? 正解なわけー!?」
 にやり、と口角を上げる巻き髭氏。その拍子にご自慢の髭が、くるりんと可愛く揺れた。
 
 
 
 馬車はそれからしばらくの間走り続け、ようやく目的地に到達した。
 もちろん、リーナとて大人しく捕まっているつもりは無かった。他に何のとりえも無い自分だが、こう見えても癒やしの術だけは自信がある。イの町一番の癒やし手たる自負も充分に、「昏睡」の術で活路を開こうとした。
 いわゆる魔術とは違い、癒やしの術は施術相手に触れる必要があるため、どうしても一度に相手が出来る人数が限られてくる。だが、最初に二人を昏倒させる事が出来れば、残るは一対一。相手が武器を持っていたとしても、この狭い馬車内ではあまり役に立たないだろう。
 そう覚悟を決めると、リーナは抱えた鞄の陰で慎重に指を動かし、密かに術の印をえがいた。気付かれないよう口の中でボソボソと呪文を詠唱しながら、両手をそっと悪党達に差し伸べる……。
 その瞬間、馬車が大きく跳ね上がった。車輪が小石を噛んだのだろう、つぶてが馬車の底面に当たる鈍い音が響く。
 予期せぬ揺れに、リーナの両手が虚しく空を切った。驚きのあまり声を抑える事を忘れ、詠唱の続きが悪党達の耳に入る。
「お頭、こいつ、癒やし手だ!」
「なんだと」
「こいつ、汚い真似を!」
 汚いのはどっちだ、とリーナが文句を口にするよりも早く、彼女の両手は其の二によってねじり上げられてしまった。そのまま後ろ手に手首を拘束され、術を封じられる。
「痛い痛い、痛いって! 暴力反対!」
 そうやって、成すすべも無いままに、リーナは馬車から引きずり下ろされ、どこかの裏口から薄暗い建物の中へと連れ込まれてしまったのだった……。
 
 
「ちょっと。何か良からぬ事にアタシの店を巻き込まないでおくれよ」
 泣きぼくろがちょっと色っぽい三十代ぐらいの女性が、気だるそうな表情で三人組とリーナとを交互にねめつけた。
 ベッドと机だけが置かれた殺風景な部屋。窓には鎧戸が下ろされているのか、真っ昼間にもかかわらず暗い室内に、ランプの光がやけに頼りなげに揺れている。机に浅く腰をかけた女性の冷ややかな視線に怯む事無く、巻き髭氏は部屋を悠然と横切ってベッドに腰をかけた。
「まあ、そうカリカリするなよ。これから長いお付き合いだろう?」
「まだ、そうと決まったわけじゃないよ」
 ――あれ? この人、この連中の仲間じゃないのかな?
 扉の前、凸凹コンビに両脇を固められて立つリーナは、大きな瞳をぐるりと巡らせた。
 両手を塞がれて術を使えない現在、彼女に出来る事といえば最善の機会を窺う事のみだ。三人がかりで襲い掛かられるという事態にでもなれば別だが、そうでない限りは下手に騒げば体力を消耗するばかりである。
 癒やし手という博愛主義に満ち溢れた職業柄、曰くありげな怪我人の治療をする事も、それに付随した騒動に巻き込まれる事も、リーナは何度か経験している。我ながらヘンな度胸がついたものだわ、と嘆息しながらも、彼女は油断無く辺りに注意を配り続けた。ほんの一秒だけでも片手が自由になれば、こっちのものだ。そうなったら、ものの数秒で全てのカタはつけられる、と。
 ――あのおかしな巻き髭のおじさんはともかく、右側に立つ背の高い奴はちょっとどんくさそうだし、左側の兄ちゃんは根は人が良さそうな雰囲気をしている。あのお姉さんも立ち位置が微妙そうだし、最初に狙うのは髭のおじさんでいいだろう。いや、それとも、まずは両側の二人を倒す方がいいかな……?
「『そうと決まったわけじゃない』? なんだよ、まだ使ってなかったのかよ」
 ――やだなあ、このおじさん。なんだかさっきから急に口調がねちっこくなってしまってるよ。
 そう思いつつリーナがちらりと左右を窺うと、其の一も其の二も彼女同様に、げんなりとした表情で自分達のボスを見つめていた。
「馬鹿言うんじゃないよ! いくら薬師やくしが問題無かろうって言っても、あんなもの、いきなりあの達に使えるわけないだろ?」
「わざわざ薬師に調べさせたのか。用心深いこったな」
「当たり前だろ」
 ――何の話をしているんだろう。ってか、私は一体どうなるんで?
 疑問符を頭の周りに飛び交わせながら、リーナは黙って事態の推移を見守り続ける。
「……で、自分が試そう、と。相変わらずイイ女だな、スーリャ。俺が相手してやろうか?」
 ふゆふゆと揺れる髭が、全てを台無しにしているような気がする。気障な男に徹しきれない巻き髭氏を見つめながら、リーナはつらつらと考えていた。人間、中身で勝負って言うけれど、やっぱりある程度の外見は必要だよねえ……、と。
「謹んで遠慮させてもらうよ。今晩にあの人が来るからね」
「ふん。だが、その必要は無いぜ。今から、この女で試せばいいんだからな」
 そこで初めて、巻き髭氏はリーナの方を向いた。その、やけに粘ついた視線に、リーナの背筋に悪寒が走った。
「で、一体何事なのよ。このが一体どうしたって言うのよ」
 スーリャと呼ばれた女性が、怪訝そうに眉をひそめる。美人はどんな表情をしても美人だなあ、なんて暢気な事を考えている場合ではなくって!
 急に話題の矛先が自分に向けられた事に、リーナの心臓は早鐘のように打ち始めた。
「なに、この女が、俺からくすねたブツのありかを、どうしても言いたくないらしくてな」
「だから、知らないんだってば!」
「……って、言ってるけど?」
 すまし顔のスーリャに、リーナの左腕を掴んでいる其の二が、どういうわけかどこか得意そうに胸を張る。
「姐さんともあろう人が騙されてるんじゃねえよ。この女がどんなにしたたかに俺達の追跡をかわしたか、見せてやりたかったな」
 ――追跡? かわす? なんだそれ。追跡されている事に気が付かずにかわせてしまう追跡って、それ、追跡って言えるわけ?
 当然の疑問ではあるが、流石に口にするのは憚られて、リーナは眉間に皺を寄せるだけにとどめた。
「それに、あんただって、いくら薬師のお墨付きを貰ったにしても、効果の良く解らないものを使うのは、勇気がいるってもンだろう?」
「え、まあ、そりゃあ、ね……」
 得意げな巻き髭氏に、言いよどむスーリャ。リーナの胸中に不吉なものが押し寄せてくる。
「じゃ、決まりだ。あれを一つ持ってきてくれないか?」
「……ここにあるわよ」
 少しだけ躊躇いがちに、スーリャが懐から小箱を取り出した。
「あのー。イマイチ話が見えないんですけど……」
 嫌な予感に耐えきれず、リーナはおずおずと口を開いた。と、巻き髭氏が、酷くもったいぶった調子でスーリャを指し示す。
「この姐さんはな、ここ、『風雪花』の女将なんだよ」
「『風雪花』って?」
 巻き髭氏の手にいざなわれるがままに、今度はスーリャの方に問いかけるリーナ。
「妓楼さね」
「ぎろー? って、え? その、あの、妓楼!?」
 リーナの故郷、辺鄙なイの町には、売春宿など存在しない。純朴な田舎娘としては、思わず叫んでしまうのも仕方が無いだろう。
「……したたか? なんか、雰囲気違うんだけど?」
「演技だ、スーリャ。騙されちゃいけねえ」
 勝手な事をしたり顔で述べてから、巻き髭氏がゆっくりとベッドから立ち上がった。
「とにかく! この姐さんは妓楼の女将で、先日、この俺様を頼って、ある悩み事を相談してきたのだ!」
「別に、相談したんじゃなくて、あんたが勝手に愚痴に喰いついてきただけじゃないか」
「とにかく! 曰く、新人のウブなが、客をとるのを躊躇らっていて、ナンギだと! 出来れば、無理矢理させるのじゃなく、自然と職業意識を出してくれるようにならないだろうかと!」
 不必要に力の篭った演説に、リーナの両側から微かな笑いがもれた。
「そこで! この『貪欲丸』の登場だ!」
 ――何、そのイケてない名前。
 今度は、リーナも失笑を禁じえなかった。だが、そんな聴衆の様子に欠片も気付く事無く、巻き髭氏は芝居がかった態度でスーリャから小箱をむしり取った。
「東の砂漠近くの秘境に生えているという、神秘の植物ルカカラの根を煎じて調合した、究極の媚薬! わざわざ辺境から取り寄せた、貴重な一品! これさえあれば、どんな生娘だろうが、瞬くうちに艶めかしい妖婦に変身する事間違いなし!」
 なるほど。それは確かに、薬師に相談もしたくなるだろう。毒ではないと判ったにしても、こんなにいかがわしいもの、なかなか使用には踏みきれない筈だ。
 そこまで考えて、リーナは、ふと我に返った。我に返った途端に、一気に全身から血の気が引いていく。
「ちょ、ちょっと待って! もしかしてそれを……」
 好色そうな目つきで、巻き髭氏が口のを吊り上げた。これまで笑いの対象でしかなかった口髭が、急にいやらしいものに感じられてくる。
「拷問ってのはな、痛いモノとは限らないんだよ、お嬢ちゃん。すぐに俺達の言う事をききたくてたまらなくなるだろうさ。スーリャも、薬の効果を直に見る事が出来るわけだし、まさしく一石二鳥だな」
「お頭、あったまいいー」
 物凄く嬉しそうに其の一が合いの手を入れる。ぞわぞわと鳥肌が立つのを覚えて、リーナは無我夢中で大声を上げた。
「冗談じゃないわよ! なんで私がこんな目に遭わなきゃならないわけ!?」
「嫌なら、宝石のありかを白状する事だな」
「だーかーらー、知らないって言ってるでしょ、この禿オヤジ!」
 その言葉に、目を丸くして頭を押さえる巻き髭氏。どうやら痛いところを突かれてしまったらしい。
 言っちまった、と思いつつ、気が治まらないリーナは、勢いに任せて暴れ始めた。
「大体、お尋ね者が盗品スられて何をブチ切れているわけ!? 自分がした事を他人にされて怒ってりゃ、全然世話無いじゃん! 子供じゃないんだから、自分の胸に手を当てて良く考えてみたらいいのよ!」
「語るに落ちたな。やっぱりお前がスったんじゃないか!」
「おじさん達がそう言ってたんでしょ! バッカじゃないの!」
 小娘に罵倒されて、巻き髭氏の顔色がみるみる赤みを増してくる。だが、歯軋りののち大きく息をつき、彼はにやり、と卑猥な笑いを浮かべた。助平心が怒りを呑み込んだのに違いない。
「そうやってしらばっくれられるのも、これまでだ。やい、お前ら、娘っこを押さえつけろ!」
「了解!」
 二人組の、これまでに無い絶妙のコンビネーションに、リーナの頭は真っ白になった。
 ――こ、こんな事態は完全に想定外だ。どうすればいい? どうやって……
「そ、そこのお姉さん! 助けてー!」
「この状況では、ちょっと無理ねー」
 苦笑とともにスーリャが肩をすくめた。本当に美人は、どんなポーズをとっても美人だ……なんて見とれている場合じゃない。
「ええええ、そんなぁー!」
「ごめんねえ」
 リーナの膝の裏を、其の一だか其の二だかが軽く蹴った。がくっと膝が折れて、リーナはそのまま床の上に正座する形となる。
 先刻までの余裕はどこへやら、リーナの背中を冷や汗が滝のように流れ落ちていく。叫び声を上げようにも、カラカラに乾いた舌は全く動こうとしてくれない。
 ――ああ、どうしよう。媚薬、って、やっぱり、ソノ気にさせる薬なんだよね? 究極の……って、何? 私、こんな奴らの相手をさせられるわけ!?
「さあ、観念するんだな」
 うきうきとダンスのステップを踏むかのような足取りで、巻き髭が目の前に近づいてくる。
 必死で歯を食いしばるリーナの口を、男の指がこじ開ける。
 ――助けて、サン!
 リーナは心の中で絶叫した。


 『風雪花』と書かれた扉を開け放した途端、甘ったるい香りがサンの身体を包み込んだ。薄暗い店内、釣り灯籠が投げかける華やかな光に、お香の煙が薄っすらと渦を巻く。カイが追いついてきたのを目の端で確認してから、サンは室内へと足を踏み入れた。
「ちょっとお兄さん、一体……」
「悪い、上がらせてもらうよ」
 出迎えの女を軽やかにかわし、サンは早足でまっすぐ広間の奥へと向かう。何事か、と視線を向ける女達に、にっこりと微笑みかける事だけは忘れずに、彼は奥の扉を押し開いた。
「何が近道だ」
「近道には違いないさ。ただ、ちょっと、予想外だったかなーって」
「結局回り道だったろ」
「そんなの、僕のせいじゃないぞ!」
 カイが教えてくれた近道はあまりにも効率が良過ぎたために、かえって悪漢達の馬車を見失う羽目になってしまった。慌てて裏路地を戻り、偶然見つけたカイの仲間達の目撃証言を得、そうして彼らは、ようやっとこの妓楼に辿り着く事が出来たのだ。
 二人は押し問答をしながら狭い廊下をずんずん進んでいく。片っ端から扉を開けて中を覗き込んでは、傍若無人に家捜しを続けた。食堂、厨房、風呂場、洗濯室、……リーナが囚われているのは、どうやら一階ではないらしい。
 鉤の手状に曲がった廊下の突き当たりに、上の階へと向かう階段があった。吹き抜けの天井を見上げてから、サンは大きく息を吸う。
「リーナッ! どこだ! 返事をしろ!」
 
 二人が二階に到達する頃には、あちらこちらの扉から店の女の子達やその客が、何事かと顔を出し始めていた。これ幸いと、サンは開いた扉から強引に中を覗きつつ、廊下を奥へと進みゆく。あちこちから湧き起こる誰何と非難の声をものともせずに、彼らはリーナの姿を求めて次から次へと部屋を渡り歩いた。
「大騒ぎじゃん、兄さん」
 至極楽しそうにカイがそう言うのを聞いて、サンは微かに眉をひそめた。
「誰のせいで、こんな事になったと思ってるんだ」
「そりゃあ、もちろん、あの悪党達のせいさ!」
 大きく溜息をつき、サンは目の前の扉を開けた。ほとんどの扉が開いている中、唯一固く閉じられた部屋に踏み込めば……簡素なベッドの上、四つん這いになった金髪の女に覆いかぶさる男の姿が……。
 咄嗟に、サンはカイの目を塞いだ。そのまま慌てて扉を閉じる。
「おい、手を離せよ! 前が見えないじゃんか!」
「……お前にゃ、五年は早い」
 
 
 店の主人が不在なのが幸いしたのだろう。サン達の暴挙に対して女達は文句を言いこそすれ、それを止める手立てを持たなかった。彼の腰で揺れる長剣の、並々ならぬ存在感のお蔭とも言えるかもしれない。二人は誰に邪魔される事も無く、とうとう最上階である三階に足を踏み入れた。
 彼らの少し後方には、事態の推移を見守る女達が階段の幅一杯に列をなしていた。そういったてんやわんやの外野には目もくれずに、サンはただひたすら捜索を続行する。これまでと同じように手近な扉から開こうとしたところで、彼はふと、その手を止めた。
 微かな金切り声。……女の、悲鳴?
 声の聞こえてきた方角へと、即座にサンは振り向いた。
 廊下の一番奥か、その手前。そう見当をつけて足を速めるサンの耳に、今度は明瞭に女の叫び声が飛び込んできた。
 リーナ、無事でいてくれ。それだけを祈りながら、サンは勢い良く一番奥の部屋の扉を押し開く!
 
「あんた、こんな危険なものを、よくもアタシらに売りつけようとしたね!」
「いや、これは何かの間違いだ」
「何が間違いなのさ! もう、金輪際あんたには店の敷居は跨いで欲しくないね! さっさと目の前から消えとくれ!」
 扉を開けたサンが見たのは、一人の女が、センスの悪い口髭の男に物凄い剣幕でくってかかっている姿だった。
 青い顔でヒステリックに叫ぶ女の形相は、なかなか鬼気迫るものがあった。怒りのあまりに吊り上がった目が、くっきりと血走っている。部屋の隅へと巻き髭氏を追い詰めたところで、女はくるりと振り返り、今度は泣き出さんばかりの表情で部屋の中央へと戻ってきた。
「ああ、可哀想に。まさかこんな事になるなんて思ってなかったから……、許しておくれね」
 そう言って女がひざまずいた先に倒れているのは……、茶色の三つ編みの若い女。
 リーナだ。
 板張りの床に無造作に投げ出された細い腕は、ピクリとも動かない。
 その一瞬、サンは我を忘れそうになった。伝説の狂戦士のごとく、その場の全てを薙ぎ払いたい衝動にかられながらも、彼は辛うじておのれを制す。
「お前ら、彼女に何をした?」
 やっとの事で、サンはその一言を絞り出した。地獄の底から響いてくるかのような怨嗟の篭った声に、その場の空気が完全に凍りつく。
 怒りに震える手を必死で制御しながら、サンはゆっくりと腰の剣を抜いた。
 
 
 
       * * *
 
 
 
 漆黒の闇に、薄っすらと光がさしてくる。
 完全なる静寂に、微かなざわめきが押し寄せてくる。
 
 失われていた手足の感覚が戻り始め、心地良い浮遊感が身体を包む……。
 
「気が付いたか?」
 懐かしいその声に、リーナは反射的に微笑み返した。少し遅れてようやく焦点が定まってきた彼女の視界に、心配そうなサンの顔が大写しになる。
「あれ? ここは? サン? 私、どうしてこんなところで寝てるの?」
 陽光の差し込む明るい部屋は、狭いながらもとても開放的であった。大きく開かれた窓の向こうには、少しだけ色づき始めた広葉樹が、気持ち良さそうに風に梢を揺らしている。
 眩い陽の光に照らされながら、リーナはベッドの上に起き上がった。洗いざらしの寝具からほのかに立ちのぼるお日様の香りが、鼻腔をくすぐる。首を巡らせば、白を基調とした壁紙と、掃除の行き届いた室内が目に入ってきた。清潔感に溢れたその部屋は、リーナにとって、とても馴染みの深い気配がした。
「憶えてないのか?」
「え? いや、ちょっと待って。えっと……」
 酷く混乱しながら、リーナは額に手をやった。記憶の中を探りつつ、もう一度ゆっくりと室内を見渡す。ベッドに起き上がる自分は、普段着のまま。窓際の小さな台には自分の鞄が載せられていた。知り合いから貰ったはぎれで作った、遠出用の丈夫で大きな鞄。
 ――そうだ、ルドスに来てたんだ。サンに会うために。
 ベッドの足元には、白のエプロンをつけた妙齢の女性が静かに立っている。彼女の佇まいと部屋の調度から、リーナはここが治療院である事をはっきりと確信した。
「今日の未明に、ここルドスのとある名家の屋敷に賊が押し入って、宝石を幾つも奪っていったらしい」
 ベッド脇の椅子に腰かけたサンが、リーナの目を覗き込みながら静かに語り始めた。何の話だろうか、と、思いつつも、リーナは黙ってサンの語りに耳を傾ける。
「で、こいつが……」サンが自分の肩越しに背後を振り返った。「……たまたま財布をスリ取った相手がその賊で、その財布には盗品の宝石が入っていた、と」
 サンの後ろから、ひょこっと小柄な影が飛び出てくる。ばつの悪そうな笑顔を浮かべて、少年はリーナに向かってペコリと頭を下げた。
「追いかけられ、捕まりそうになったところで、こいつは、たまたま道でぶつかった相手の鞄に、盗った財布を紛れ込ませてしまった」
 
『ごめんよ、急いでるんだ!』
『危ないでしょ、まったく。気を付けなさいよ』
 
 おお、と両手を打ってから、リーナはカイを指差した。
「あの時の少年!」
「ごめんよー、姉さん」
 口では謝っているものの、カイは一向に悪びれる様子も無い。
 サンが苦笑を浮かべながら立ち上がった。リーナの鞄の傍に行くと、一言「悪りぃ」と断りを入れてから、やにわに鞄の中に手を突っ込む。突然の出来事に文句を言う事も忘れて、ただ口をぱくぱくと開閉するリーナの目の前に、小さな麻袋が差し出された。
「ほら、これだ」
「私の豆!」
 やたら力の入ったリーナの台詞に失笑しつつも、サンは黙って小袋の紐をほどく。摘み上げた彼の指先では、目も眩むばかりの貴石が一粒、日光を受けてキラキラと輝いていた。
 顎が外れそうなほどに、あんぐりと口を開けて、リーナは固まってしまった。
 その様子を見るなりサンが盛大にふき出した。肩を小刻みに震わせながら宝石を袋に戻す。それから彼は、空いた方の手を再び鞄の中へと差し入れ、第二の袋を取り出した。
「豆はこっち。石は重いからね、すぐに鞄の底の方に潜っていってしまったのさ」
 袋はお互い瓜二つで、ぱっと見ただけではどちらがどちらか判別出来ない。もう一度双方の中身を確認したのち、宝石の方の袋を手に、サンが再び椅子に戻ってきた。
「それより、リーナ。どうしてこんな無茶をしたんだよ。たまたま俺が間に合ったから良かったものの……」
 サンの言葉を継いで、部屋の隅に控えていた癒やし手が静かに言葉を発した。
「あなた、自分で自分に『昏睡』をかけたでしょう? どうやって『解呪』するつもりだったの? 彼がここに運んでくれなかったら、大変な事になっていたわよ」
「あー……」
 そこで、やっとリーナは全てを思い出した。
 変な巻き髭の男、悪党面した二人組、妓楼の女将。
 宝石を返せ、ってこういう事だったのか、と、得心のあまり繰り返し頷く。
「……助けに来てくれたんだ」
「ああ。偶然にこいつと出会って、もしや、と思ってさ。あの店で倒れているお前を見た時は、本当にどうしようかと思ったぞ……」
 何度目か知らぬ溜息をもらして、サンが大きく肩を落とす。その横でカイが、心持ち及び腰でサンを一瞥した。
 
 
 数刻前、妓楼『風雪花』。
 サンの後を追ってその部屋に飛び込んだカイは、即座に激しい後悔の念に苛まれる事となった。
 鎧戸を締めきった薄暗い部屋の中で、鬼火のように光るのは、ランプの灯りを映し込んだ長剣の刃。その向こう、床に横たわっているのが他でもない自分達の尋ね人と知り、冷や汗がカイの背筋を伝う。
 調子に乗ってこんなところまでついてきた自分が馬鹿だった。隙を見てさっさと逃げるべきだったんだ。おのれの浅慮を呪いつつ、カイはじりじりと廊下の方へと下がり始めた。サンを刺激しないよう細心の注意を払いながら。
「……彼女に何をした?」
 サンが、低い声で同じ言葉を繰り返す。凍てついた氷のようなその気配に、カイは自分の直感が正しかった事を知った。
 ――この兄ちゃん、怒らせたら絶対怖そうだと思ったんだよな。
 情けない悲鳴を上げて、巻き髭の男が床にしりもちをついた。がくがくと震える顎からは、意味不明な音の羅列がもれ出てくるのみ。
 部屋の反対側では、悪党其の一が、壁に張り付くようにしてサンとの距離をとりつつ絶叫した。
「し、知らねえよ! 俺、何もしてねえぞ!」
「お、俺もだ! あいつが、」と、今度は其の二が巻き髭男を指差して、「変な薬をこの娘に飲ませて、そしたら急にぶっ倒れてしまって!」
 ガツン、と突然響いた大きな音に、カイは心の底から震え上がった。床に剣の切っ先を突き立てたサンは、柄から手を離す事無く、倒れ伏すリーナの傍らに膝をつく。そうして、指先をそっと彼女の首筋に当てた。
「……生きてる」
 その瞬間、その場にいる全員から大きな溜息がもれた。これで、あの剣が血の舞を舞う事は無くなった、と。
 静寂が降りる室内に、金属同士が擦れる音が響く。一同が顔を上げれば、剣を鞘に収めたサンが、リーナを抱きかかえて立ち上がるところだった。行く手を塞ぐ巻き髭に、刃のごとき瞳で一言。
「どけ」
「ひぃぃぃいいいっ、どきます、どきます、どきますからぁっ、命だけはご勘弁をぉおおっ!」
「カイ」
「は、はい!」
 話しかけられただけなのに、どうしてこんなに心臓がばくばくいうのだろうか。カイは必死で平静を装って、サンの前に立った。
「治療院はどこだ」
「あ、う、うん、案内するよ!」
 急いで部屋から出ようとしたカイは、ふと大事な事を思い出し、立ち尽くす凸凹コンビの傍に転がるリーナの鞄をかつぎあげる。
「急ぐぞ」
「了解!」
 
 
 ――本当に、この姉ちゃんが無事で良かった。でなきゃ、今頃自分はあの世行きの船の上でべそをかいているに違いない。
 思い出すだけでも身の毛がよだつ。知らず背筋を震わせて、カイはもう一度サンを――穏やかに微笑むサンの顔を――盗み見た。
「聞けば、あなた、結構な使い手だっていうじゃない。もしもルドスの治療院に、自分よりも腕前の良い癒やし手がいなかったらどうするつもりだったのよ?」
「すみません……」
 リーナが申し訳なさそうに下を向いて身を小さくした。癒やし手は、ふう、と大げさに息を吐くと、眉間を緩めて優しい笑みをリーナに向ける。
「ま、大事に至らなくて、本当に良かったわ。もうこんな馬鹿な事をしては駄目よ。解っていると思うけれど、しばらくはふらふらする筈だから、もう少しここでゆっくりしていけばいいわ。今はベッドも部屋も沢山空いているから」
 そう言ってから、癒やし手はサンから例の小袋を受け取った。「じゃ、これは警備隊の方に届けておくわね。それと、君」
 天使の微笑みを向けられて、カイは思わず頬を染めて姿勢を正した。癒やし手の右手が優雅にカイに差し伸べられ……
「君には、助祭様からお説教のプレゼントがあるからねー」
「痛たたたたたたっ!」
 
 
 耳たぶを引っ張られながら、カイが扉の向こうに姿を消した。廊下に反響した悲鳴が、ゆっくりと遠ざかっていく。
 苦笑を浮かべつつ、サンは静かに立ち上がった。ようやく訪れた二人きりの時間である。彼は今まで座っていた椅子を脇へよけ、ベッドの縁に腰をかけた。そうして、ぽんぽん、と優しくリーナの頭を叩く。
「まったく。無茶にもほどがある」
 言いたい事は山ほどあったが、それを全部彼女にぶつけるわけにはいかないだろう。そこまで考えて、サンはようやっと重要な事実に気が付いた。今回の騒動において、リーナは被害者の立場にあるのだ、という事に。
 そういえば、彼女はさっきからずっと俯いたままだ。あのリーナが、ただ黙ったまま、しょぼくれているなんて。恐ろしい目に遭った筈の彼女に、ねぎらいや慰めの言葉をかける事無く、あろう事か彼女の非を責めてすらいた自分に気が付いて、サンはほんの刹那瞼を固く閉じた。
「怖かったろ。もう大丈夫だから」
 可能な限りの優しい声でそう囁きながら、静かにリーナを胸に抱き寄せる。彼女がそのまま自分に身を預けてきた事に、彼は心底ほっとした。
「……仕方が無かったのよ……」
 ぽつり、とこぼしてから、リーナが顔を上げた。
 潤んだ大きな瞳がやけに艶めかしく思え、サンは小さく息を呑んだ。慌ててわずかに視線を外し、軽く咳払いをする。
「……ん。あー、どうした? 顔が赤いけど」
「ああ、どうしよう。やっぱり?」
「やっぱり、って?」
 サンの問いに、リーナがもじもじと身じろぎした。何事か言いよどんでから、彼女は再び下を向く。桜色のうなじが、サンの目を射た。
 久しぶりに会うせいだろうか、なんだか今日の彼女はとても色っぽく思える。知らずサンは彼女を抱く腕に力を込めた。ついうっかり弾みそうになる声を抑えつつ、当たり障りの無い会話を続けようとする。なんとかすぐにでもここを出て、一刻も早く宿屋にしけ込めないだろうか、と、その事だけを考え続けながら。
 今朝早くルドスに到着したサンは、既に待ち合わせの宿に部屋をとって、荷物もそこに置いてきているのだ。後は、リーナを連れてその部屋に直行するのみ。しまり屋の宿の親父相手に、宿泊条件の押し問答を長々と繰り広げる必要も無い。
「……あのね、やばいのよ」
 会話の流れとして有り得ない単語が、突然リーナの口から飛び出てきた事で、サンの夢想は強制的に中断させられた。眉間に皺を寄せながら、リーナの顔をそうっと覗き込む。
「何が?」
「飲まされたの」
「何を?」
「なんて言ってたっけ……、究極の媚薬、とかいうやつ」
「び……!?」
 絶句、そして硬直。
 動きを止めて固まったサンを、濡れた瞳が切なそうに見上げてくる。
「宝石のありかを教えろ、って。知らないって言っても、全然聞いてくれなくて。あ、やだ、なんか……」
 更に頬を上気させ、リーナが目を伏せた。微かに身体をうねらせる様子に、サンの喉がごくりと鳴った。
「…………で?」
「でね、白状させてやる、って言って、そのぉ……、薬を無理矢理飲まされて……」
 リーナがそこで一旦息を継いだ。サンはといえば、固唾を呑んで、話の続きを待つばかり。
「抵抗しようにも、両手縛られてたら呪文も唱えられないでしょ? 無理矢理、口をこじ開けられて……、仕方が無いから、素直に飲み込んだわけ」
 息切れがするのか、またもリーナが大きく息を吐く。
「私が飲んだのが判って、連中は手をほどいてくれたから、とりあえず自分に『昏睡』かけて。そうやったら、薬も効きようが無いでしょ?」
 ……いや、違う。息切れなどではない。高まってきた気分を逃がすために、彼女は深呼吸をしているのだ。
 その事に思い当たってしまったサンの口の中に、再び唾が溢れてくる。
 ――まずい。
 おのれの身体の変化を自覚して、サンの背中を冷たいものが走った。ここは、神聖なるアシアスを祀る教会の、その敷地内にある治療院なのだ。更に言えば、自分は休暇中とはいえ、帝国の要を守る選ばれし近衛兵。こんなところでこんなものをおっ勃てている場合ではない。
 そんな彼の葛藤を知る由も無く、リーナがまたしても顔を上げた。そしてサンを真っ向から見つめる。……熱の篭った目で。
「店の人は、悪い人じゃなさそうだったから……そのうちに治療院に運んでいってくれるだろう、って思ったし。その頃には、薬の効果も切れているかな、って思っていたんだけど……」
 確かに、それは良い考えだったかもしれない。サンがこんなに早く助けに来なければ。
 だらだらと冷や汗を流しながらも、どろどろとした熱い塊が身体の中で蠢き始める事を、サンは感じ取っていた。
「あ……、だめ、やっぱり、まだ……」
 甘い吐息とともに、リーナが身をくねらせる。こう見えて彼女は結構スタイルが良い。柔らかい双丘が胸に押し付けられる感触に、サンの身体を衝撃が走った。
 ――ヤっちまえよ。あの癒やし手は当分戻っては来ないだろうし、残りの癒やし手も、こちらが呼ばない限りは奥には来ないだろう。
「……まだ?」
 ――いやいや、やはりそれはまずいだろう。もしも他人に見られでもしたら、末代までのいい語り草だ。
「やっぱり、まだ、薬が……」
「……効いているんだ?」
 こくりと小さく頷くリーナのあまりのいじらしさに、サンは思わず彼女の耳元に口を寄せていた。途端に、腕の中の身体が、びくん、と跳ねる。
 誰もいない部屋、そして恐らくは、当分誰も来ないであろう部屋。
 サンは生唾を飲み込んで、大きく息を吐いた。
 ――治療院の奥の部屋。そうだ、これって、俺が何度もおかずにしている設定じゃないか? これで彼女がいつものあの白いエプロンをつけていれば、もう完璧に。
 いや、しかし! ここで踏みとどまってこそ、後の楽しみが増すというものだ!
 そう必死でおのれに言い聞かせるサンの決意を、リーナは容赦無く揺り動かす。
「…………ごめん、サン……」
「何が?」
「……お願い、少し、離れて……。耳が……」
「耳がどうかした?」
「くすぐったい……の」
 逆効果、とはまさしくこういう事を言うのだろう。艶めかしいリーナの声に、サンの鼻息は更に荒くなった。
 おのれの呼吸に合わせて腕の中で小刻みに震える肩が、たまらない。
 一年間も待ったんだ。メインディッシュはもう少しおあずけだとしても、これぐらいは許されるだろう? 言い訳じみた思いを胸に、唇が触れるか触れないかという距離で、サンは囁き続ける。
「耳、触ってないけど?」
「でも、息が……っ、ほら、また……」
「え? 何だって?」
「や……、もう、バカっ、意地悪っ、サンなんか……っ」
 溢れんばかりの雫をたたえた瞳が、まっすぐサンに向けられる。切なげに震える彼女の唇に、サンの喉がごくりと大きく上下した。掌が一気に汗ばむのを感じながら、彼は静かに問いかける。
「俺なんか?」
 輝石の煌きが、リーナの頬を伝ってサンの膝に落ちた。たった一滴の熱が、サンの身体から一瞬にして自由を奪い取る。
 言葉を失い、身動き一つ出来ないサンの胸元、縋るようにしてリーナがしがみついてきた。
「…………だい、す、き……」
 
 熱い吐息が、サンの呪縛を解き放つ。彼はリーナの身体を強く引き寄せると、空いている手で彼女の顎をすくい上げ、唇を重ねた。
 この、何ものにも代え難い瞬間を、一年もの間彼は渇望していたのだ。
 肉体の乾きは、やろうと思えばいくらでも潤せる。例えばおのれ自身で、また例えば色町で。だが、お互いの心と心を溶かし合うこの行為だけは、彼女が相手でなければ叶わないのだ。
 そっと瞼を開けば、恍惚とした表情のリーナがサンの視界を満たす。少しだけ眉間に皺を寄せて、眠るように目を閉じ、頬を紅色に染めたリーナの顔。こんな頼りなげな表情をしていながら、今まさに彼女は激しく貪欲に自分を求めてきているのだ。
 サンの頭の奥底、一番深い部分で、ぷつん、と何かが切れた。
 
 
 
「ただいま」
「あ、お帰りなさい。どうでした?」
「丁度、警備隊に被害者が詰めていたから、すぐに手渡せたわ。盗まれた宝石も全部揃っていたみたい」
 治療院の玄関脇、職員詰所。リーナに解呪を施した癒やし手が、話しかけてきた同僚にそう答えていた。脱いだ外套を壁にかけ、背中越しに今度は逆さに問いかける。
「で、例の彼女の様子は?」
「いえ、特に問題無いみたいですよ? って、ちょっと前に来た怪我の子供に皆でかかりっきりだったから、一度も見に行ってないんですけど」
「まあ、彼氏がついているから、何かあったら言いにくるでしょうけど。ちょっと見て来ようかしら」
「本当に、どうしてまた、自分で自分に術なんてかけちゃったんでしょうねえ」
 同僚の声に軽く肩をすくめてから、癒やし手は奥へと向かった。日の光が差し込む明るい廊下を、ゆっくりと歩いていく。
 
 リーナのいる病室の前に立ち、ドアノブに手をかけた癒やし手は、何かの気配を感じ取って一歩下がった。
 ほぼ同時に、ばたん、と大きな音をたてて扉が内側から開かれる。戸を蹴破らんかの勢いで、リーナを抱えたサンが彼女の目の前に飛び出してきた。
「すみません! 治療代は明日に、必ず! 払いに来ますから!」
 酷く切羽詰まった様子で、サンが叫ぶようにそう宣言した。彼の腕の中では、上気した頬のリーナがぼんやりと彼に身を預けている。
「え、ええ。いいけど……?」
「じゃ、そういう事で!」
 癒やし手の返答を聞くや否や、サンは物凄い勢いで廊下を走り去っていく。外へ向かって。
「…………お大事にー」
 呆然としながらも、癒やし手は二人の背中に向かってひらひらと手を振った。
 
 
 
       * * *
 
 
 
 明けて翌日、市の最終日。
 買い物客でごったがえす人ごみの中を、小さな人影が悠然と歩いている。鳥打ち帽を目深にかぶり、あちらこちらにさりげなく視線を巡らせて歩くのは、誰あろう、カイだ。
 助祭様のお説教などどこ吹く風といった調子で、カイは鋭い視線を前方から歩いてくる中年の紳士に絡ませる。
 そっと深呼吸して、いざ獲物に近づかんと歩調を速める彼の足が、唐突に止まった。
「身体のあちこちが痛いー」
 聞き覚えのある声に、カイは慌てて傍らの屋台の陰に隠れた。声のした方をこっそりと覗けば、予想通りの顔が二つ、こちらに向かって歩いてくる。
「酷いよー、一体ナニをしたのよー」
「憶えてないわけ?」
「憶えていたら、訊かないよー。大体、私、治療院にいた筈なのに、なんで気が付いたら宿屋なわけ?」
「それは、まあ、色々とあって」
 昨日とは打って変わって、サンの表情はやたら晴れ晴れしく、そしてスッキリとしている。随分な変わりようじゃんか、とカイは思わず一人心の中で呟いていた。
「ああ、もう、痛いったら……」
「そんな、無理をしたつもりは無いんだけど。おっかしいなあ」
 見つからないように屋台の隙間に身を縮ませるカイの目の前を、二人は横切っていく。
「絶対変な事した。そうじゃなきゃ、なんでこんなところが筋肉痛になるのよ」
「まあまあ、お詫びに何でも好きなもの買ってあげるからさ」
 その台詞に、リーナがぴょん、と跳びはねる。「本当!? じゃあね、昨日見つけたんだけど……」
 そこで、彼女はしばし動きを止めて、眉根を寄せた。
「あれ? 今、お詫び、って言ったよね? やっぱり悪い事した自覚があるんだ!」
「そりゃないだろ……」
 
 二人が完全に通り過ぎていったところで、カイはそっと物陰を脱した。人波に埋もれていく背中を見送ってから、ふう、と息をつく。
 ――なんだか知らないけど、色々大人も大変なんだな。
 大きく伸びをしてから、カイは再び鋭い瞳で人々の海へと飛び込んでいった。


最終更新日 : 2012-08-10 08:45:21

文:GreenBeetle(ぐりーんびーとる)
http://greenbeetle.xii.jp/
ファンタジーや謎解き、恋愛など、その時々の萌えのままに書いています。タネや仕掛けのある物語が大好きです。


絵:女将(おかみ)
まだまだ未熟者ですので、どこまでできるか怪しいですが精一杯やりたいと思っています。どうぞよろしくお願いします!
最終更新日 : 2012-08-10 08:42:59