閉じる


幻覚

気付いたら、明かりを持っていた。

だが、周囲は暗い。私の手元しかそれは照らしてくれないようだ。消してしまおうか、と明かりに眼を向ける。手をかざし光を閉じ込めると周囲の闇が私を飲みこんでいった。段々と、段々と。

心地よい感覚。快感とともに闇と一つになる。そして、無感覚になっていく。

光の感覚を感じる。眩しい。もう朝のようだ。眼を開けると周囲にはいつもの光景。本棚。ベッド。CDプレーヤー。それと……何だ、あれは。ドアの前に何かがいる。

 

目を醒ます。真っ暗だ。夢を見ていたような気がするが内容を思い出せない。手を動かして周囲を確かめてみるが、自分がベッドに寝ているらしいということしかわからない。ベッドから降りてみようと恐る恐る足を地面につける。足をぶつけないようにしながら歩いて行くと壁に突き当たった。壁越しに進んでいるとスイッチらしい出っ張りに指が触れたので押してみた。急に周囲が明るくなる。

8畳ほどの洋室だ。窓を見てみると雨戸がぴったりと閉まっている。どうりで真っ暗だったはずだ。そこでようやく自分がなぜここにいるのかを思い出した。

たしか昨日は、薬島と酒を飲んでそのまま意識を失ったのだ。最後に彼の家に入ったことを覚えている。とするとここは彼の部屋ということになるのだが、肝心の彼の姿は無い。どこに消えてしまったのだろう。不思議に思ったが体調がすぐれないのでその場で寝ころんでしばらくそのままでいた。時計が無いので今が何時なのかわからない。何時でも良いかと考えてボーっとする。

次々に現れては消えていく幻想たち。首の無い象。目が五つある犬。胴体が無い猫。内臓が透けて見える蜥蜴。タライ回しにされるタライ。現実感も脈絡も全くない。

気づくといつの間にか友人が帰ってきていた。雨戸が開け放たれて日の光が窓から差し込んできている。友人はまだ私が寝ていると思っているのだろう。気を遣っているのがわかる。気を遣わしておくのも悪いので起きたことを伝えた。彼が言うにはもう昼過ぎらしい。

…おかしい。なんだろう。良く見てみるとさっきの生き物が一匹まだベッドの脇に座っている。

 

頭を振ってみる。

まだいる。

もう一度。

それは素知らぬ顔で座っている。

今度は強く振ってみる。

 

まだ、そこにいた。

 



幻覚?

夢の続きを見ているのだろうか。友人に目をやると、別段驚く様子もなくテレビを見て笑っている。のんきな彼に目で必死に訴えてみた。すると彼はその生き物と目を合わせたあと大きなあくびをしてテレビに目をやってしまった。

何かがおかしい。

昨日までは、あんな生き物は存在しなかったはずだ。私にしか見えていないのだろうか。彼にとってあの生き物は存在していないのだろうか。そんなはずはない。確かな存在感がある。

ひらり。

テレビの上に飛び乗った。その拍子に卓上時計が落ちる。気づかない筈はないのだが、彼はいまだにテレビを熱心に見ている。そんなに面白い番組なのだろうか。その番組は、近くの公園で地割れが見つかったことを伝えていた。地割れが起きるほど大きな地震など最近あっただろうか。不可思議現象だとコメンテーターもしきりに首を捻っていた。

不思議なことがあるものだ、驚きながらも目の前の生き物を見るとそれが小さなことに思えてくる。いくらテレビを見ているとはいえこんな生き物に気づかないことなどあり得ない。私なら驚いて飛び上がる。やはり私にしか見えていないのだろうか。頭が変になりそうだ。こんな目が五つもある生き物が現実にいるわけがない。彼に問いかけてみると「んー?」と素っ気ない返事を返された。「なあっ!」と強い口調で聞きなおしてみるが、彼はうるさそうにしているだけで、特にそれに対する反応はない。

 きっと昨日の酒がまだ残っているのだ。そうに違いない。そう言えば少し頭が痛い気がする。そう考えると少し気が楽になった。しかし、私がどう思おうとそれはそこにいる。目を合わせてみようと凝視してみると五つの目がこちらを一斉に向いた。

「さっきから顔色が悪いけど大丈夫なのか?」

「少し飲み過ぎただけだよ。すぐに治る」

そうでなきゃ困る。

「気分が悪いのなら顔でも洗ってこいよ」

「そうだな。そうするよ」

 洗面所に行って鏡を見てみる。確かに顔が青白い。飲み過ぎたとはいえ白過ぎる。あんな生き物を見たら誰だって真っ青になるだろう。それにしても白い。白色灯のせいだろうか。顔を洗うと少し気分がすっきりした。

洗面所のドアを開けてみると、それはやはりそこにいた。

「やっぱり気分が悪いから帰らせてもらうよ」

「おう、気をつけてな」

 気が遠くなりそうになるのをこらえながら家路に着く。それは当然のように私の後をついてきた。途中、何人かの人とすれ違ったが誰も気づかない。気づいてくれない。私の後ろ、ちょうど2メートルくらいの距離を保ってそれはついてきている。怖くなって走り出した。ついてきているだろうか。振り向いて確認してみると遠くの方から走って追いかけてきていた。犬の様な形をしているので俊敏そうかと思ったらそうでもないみたいだ。これなら追いつかれることはないとひとまず安心する。百メートルも走ると案の定、それの姿は消えた。幻覚とは分かっていてもあんな気持ちの悪い生き物を目にしているのは気分が悪い。家のすぐ近くまで来ていたし、追いつかれるのも嫌なので、そのまま家まで走って帰った。

 どうやら追いつかれずに帰れたようだ。後ろを振り返ってあの生き物の姿がないことを確認してようやく人心地つくと、なんだか急に馬鹿らしくなってきた。幻覚だと分かっているものがあんなに怖かったことに、だ。大体、あんな生き物が存在している筈がないのだ。笑いが治まってみると本当に気持ち悪くなってきた。やはり昨日は飲み過ぎだったのだ。

再会

昨日は、朝から講義を受けるために大学に向かっていた。出席さえしていれば単位が取れる講義なのだが、いかんせんいつも寝坊をしてしまうため出席日数が足りていなかった。今日の講義に遅れればその場で留年決定である。だから、私は一限目が始まる九時に間に合うように眠い目をこすりながら大学までの道のりを歩いていた。そのおかげで、どうにか講義の五分前には教室に着くことができた。読書をして講師が来るのを待つ。だが、その日はいつもと様子が違った。講師が来なかったのだ。なんでも急用が出来たとかで休講になったらしい。大学の講師というのはなぜこうもいい加減なのか。せっかく早起きして大学に来たというのになんとなく損をした気分になる。午後の授業までまだ間があるので、図書館にでも行って寝なおそうと思っていると、薬島と会った。

「どうしたんだ?不機嫌そうな顔して」

「せっかく早起きして来たのに休講だったんだよ。やってらんねえ」

「そりゃ災難だったな。ところで、今晩久しぶりに飲まないか?」

「いいけど、金が無いからお前の家でな」

「金なんて俺も無えよ。まあどっちみちウチで飲むつもりだったし。夕方から始めてるからそのくらいに来いよ」

「今日は暇だし七時くらいに行くよ」

「そうか。じゃあまたな」

実際に何も予定の無い日だった。後は午後に一コマだけ授業に出れば何もしなければいけないことはない。だから、薬島の家にはいつ行ってもいいのだが、そんなに早く行くのも嫌だったので七時にした。夕飯を食べるくらいの時間だから何か差し入れでも持って行ってやるつもりだ。と言っても金が無いので、カップラーメンだが。


図書館に着き、窓際の日当たりの良い席を探しているとどこかで見た顔が同じように席を探して歩き回っている。誰だろうと不思議に思いながら近づいてみると、桑野だった。桑野は小学校の時の友人で内向的な少年だった私に良く話しかけてきてくれた。今だからこそ思うが、当時の私は彼のおかげでずいぶん救われていたと思う。だが、私は進学校に、桑野は地元の中学に入学したために疎遠になってしまった。その後は中学の時の同窓会で会ったきりだからもうかれこれ七年ぶりになる。無性に懐かしくなり声をかけた。

「もしかして桑野か? 久しぶりだなあ。どうしたんだ、こんなところで」

思いのほか、声が反響した。

確かに図書館で話すには積もる話が多すぎる。

「それなら学食にしよう。今なら空いているはずだし。」


 学食に行くと思った通り空いていた。私と同じように時間を持て余した学生が眠たそうな顔をして何人か座っているだけだ。奥の方まで行って、窓際の席に桑野と座ることにした。晴れている日は、穏やかな日射しが心地よい。

「本当に久しぶりだなあ。今何やってるんだ? まさかウチの学生ってわけじゃないよな?」

不思議だったのだ。私の知っている桑野は、正直に言って勉強ができる子供ではなく同窓会で会った時も「留年しそうだ」と冗談めかして話していた。その桑野が図書館にいただけでも不思議なのにましてや大学にいるとは。

「そのまさかだよ。今どき大学くらい出ていないとな」

良く見ればいかにも苦学生という格好をしている。眼鏡をかけてジーパンを履き、白いワイシャツを着ている。さっぱりした服装なのにどこか薄汚れて見えるのはなぜだろう。月日が彼を変えてしまったのか。それは私には分からない。しかし、そこまでして学びたいこととは何なのだろう。

「マジかよ? それに変わったって言うけどお前の方こそ随分変わったぞ。昔は勉強なんて死んでもやらないって言っていたのに」

「それ、いつのことだよ? おまえは明るくなったな。昔は本だけが友達って感じの暗い奴だったのに」

「それこそいつのことだよ。 それにしてもやせたな。しかもなんか臭いぞ。ちゃんと洗濯してんのか?」

「ちゃんとしてるよ。これなんかたった一週間しか着ていない」

「一週間って…今、実家に住んでいるんじゃないのか?」

「いや、今は一人暮らしだよ」

「じゃあ仕送りは? バイトもしているんだろ?」

「仕送りはないよ。ていうか実家がないし。バイト代は学費でほとんどパアだ」

「え?」

「親はどちらも死んだんだ。高二のときだったかな」

「そうなのか。悪いな。変なこと言わせちまって」

ショックだったのだ。桑野と遊んでいた頃は、よく家にも行ったし両親にも会った。お母さんは綺麗で、日曜に遊びに行ったときはお父さんもいて、お母さんと仲が良さそうで、ウチの両親もこんな風だったら、と良く考えたものだった。自分が将来、結婚したらこんな家庭を気づきたいとも考えていた。私にとっての理想だったのだ。

「そうか。大変だったな」

「まあな。ところで、このあと空いてる? 良かったら家来いよ」

この後は、午後の講義があるだけだ。その講義は出席が厳しくないので、どうとでもなる。それに何より桑野の様子が気になった。

「じゃあ行こう。校舎のすぐ近くなんだ」


 本当にすぐ近くだった。そこは、校舎の真裏にあたる位置にあり、校舎や周囲のマンションに遮られて日射しがあまり当らないじめじめした場所だった。いつだったか、大学に来て間もない頃、学内を探検していたとき見たことがある。その木造二階建ての建物は、見るからにボロそうで今にも崩れ落ちてきそうだった。その時は「こんな場所に本当に人が住んでいるのだろうか」と思ったが、そこに彼が住んでいたのである。旧来の友人の生活を思うと胸が締め付けられるような気分になった。

「ここは大学の寮なんだ。築三十年のボロ寮だ」

こんな場所がったなんて知らなかった。確かに入口に表札らしきものがあった気がする。かすれてはっきりとは読めなかったが、あれは「日光壮」と読むのだろうか。彼に促されて玄関脇の階段を使い二階に上る。入ってみると急に暗くなったので目が慣れるのに時間が掛った。これの一体どこが「日光壮」なのだろう。なぜこんなに暗いのかと窓を見ると納得がいった。周囲の建物のせいで日射しが全くと言って良いほど入ってこないのだ。

桑野が一番奥の部屋だと言うので後をついていった。

「あ、足元に気をつけろ。時々、床が抜けるから」

良く見ると床のあちこちに他とは明らかに違った色の部分がある。床が抜けて補修したのだろう。つぎはぎの床はとても不気味に見えた。良く見るとまだ抜けたままの場所もある。

「ここが俺の部屋だよ。汚いけど適当にくつろいでくれ」

 

一歩中に入ってみて驚いた。彼の部屋は明るかったのだ。

 

「驚いたろ? この時間だけ日射しが入ってくるんだ」

時刻は十時半だった。突然明るくなったので眩しくて目を閉じていた私が目を開けると、子供が自慢をするときの様な顔で彼が笑っていた。



豹変

 中は六畳の和室になっていた。部屋の形は正四角形になっており、廊下側の辺に台所が、入って右側の辺に押入れがあり、正面にベランダに続く窓がある。残りの一辺は壁だ。隅に奇妙な生き物を象った置物(オブジェというのだろうか)がある。あとは、真ん中に四角いちゃぶ台が置かれているがそれ以外は殺風景な部屋だった。光が窓の上の方から差し込んできていることを考えると、この窓はどうやら東向きらしい。トイレと風呂は共同のようだ。私には整然としているとしか思えない部屋でどこに座るべきか思案していると、彼が座布団を出してくれた。とりあえずそれを尻の下に敷いて座ることにする。

「ちょっと待ってて。」

明るい日射しを体の左側に感じながら待っていると、彼が粗末な茶碗に水道水を入れてくれて持ってきてくれた。そのまま私の真正面に座る。

「それにしても久しぶりだなあ。中学の時以来か。」

桑野が言った。

「そんなに久しぶりか。そういえばあれ以来同窓会なんてなかったもんな。それよりお前、両親が亡くなったって言っていたけど何があったんだ?」

「交通事故だよ。夫婦水入らずで温泉旅行に行ったまま帰ってこなかったんだ。それからはまあ……色々あったよ」

「そうか。でも、じゃあ、なんで大学なんて入ったんだ? 高卒でも就職できるし金がないならそっちの方がいいだろ? 第一、おまえは勉強が嫌いだったじゃないか」

「まあそうなんだけどな…。実は俺、高校中退してんだよ」

「そうなのか? 全然知らなかった。同窓会の時は確かに本当に高校行けるのかと思っていたけど…」

「あの時はまだ親が生きていたしな。高一の時に親が死んで、親戚の家に引き取られたけど高校にもなって他人の世話になるのも嫌で、それで一人暮らしはじめて、そしたらバイトしながら学校行くのが思ったよりしんどくて、そうしているうちに何で学校に行っているのか分からなくなっちまってさ。その時に体を壊して学費も払えなくなっちゃったんだ。それでブラブラしてたときにある人に会って、その人に大学には行った方がいいって言われたんだよね」

そう話す桑野は私の知っている彼ではなかった。

私の知っている彼は、明るくて活発で、誰とでも仲良くなれるそんな奴だった。同窓会で会った時も少しぐれてはいたが、相変わらず皆の中心にいて楽しそうに笑っていたように思う。小学生の私は、内向的でよく自分ひとりで遊んでいた。だから、桑野の存在は眩しかった。遠い存在だと思っていた。だが、あるとき、彼は私に話しかけてきてくれた。今にして思えばほんの気まぐれだったのだろう。しかし、私にとっては大きな救いとなった。一度ならず彼が話しかけてきてくれて誘ってくれたことで、私も周囲の輪に入ることができたし、一人で遊んでいるうちに私と周囲との間にいつの間にかできていた檻の様なものも壊すことができた。だから、中学に入り彼と別れてからも、孤立することはなくなったし中の良い友人を持てるようになったのである。私にとって彼は闇を照らしてくれた光だったのだ。ところが、今、私の目の前にいる彼は、私の知っている周囲を明るくさせる太陽のような男ではなくなっていた。今の彼は明るく見える。明るく見えるが、それはそう振舞っているだけなのだ。彼自身が明るいわけではないのだ。やはり両親の急逝が拭えぬ影を彼に与えてしまったのだろう。まだ出会って数十分しか経っていないが、彼がまとう雰囲気がどことなく陰鬱であるのがそのことを表していた。

「そうなのか。良い人に出会ったんだな。どんな人なんだ」

しかし、そう言った途端、桑野の表情が変わった気がした。

「先生か。先生は本当に素晴らしい人だよ。先生が言ったことは何でも正しいんだ。先生が明日は雨だと言えば必ず雨だし、晴れだと言えば必ず晴れるんだ。そうだ、こんなことがあった。ある日、俺が先生と公園を歩いていると先生が急に立ち止まった。俺が『急にどうしたんですか?』と聞くと、先生は『お前も止まれ』と言った。だから、俺はその場に立ち止まったんだ。それから十分も経っただろうか。俺は先生が動きだすまで絶対に動くつもりはなかった。でも、急にトイレに行きたくなったんだ。それから五分ほど我慢したけど先生はまだ動こうとはしない。どうしても我慢できなくなった俺は、すぐそこにあったトイレに駆け込もうとしたんだ。そしたら先生がとてもその小さな体から出したとは思えないくらい大きな声で『絶対に動くな』って叫んだ。俺は思わずちびってその場を動けなくなった。その直後だよ。それが起きたのは。何が起きたかって? 俺の目の前で地面がぱっくりと割れだしたのさ。その地割れの中に俺が駆け込もうとしていたトイレは飲み込まれて跡形もなく消えてしまったんだ。地割れはすぐに元に戻ったけど、もしあの時、先生が俺を止めてくれなかったら俺も地割れの中に落ちて今ここでおまえと話すことなんてできなかったろうな」

そう話す彼の表情はいつの間にか昔の私の知っている桑野の顔に戻っていた。いやそれ以上に眩しかった。とても明るくて、まるで世界そのものを愛しているかのような表情だった。

「しかも先生は何でもできるんだ。俺が本当に困っていたときに何もないところからひょいと金をとりだして俺に渡してくれたんだ。俺が『どうやったんですか』って聞いたら『正直に生きていれば出来るようになる』って言ってくれた。俺も正直に生きて、いつかあんな風になろうと思うんだ」

「そうか。凄い人なんだな、その人は…」

私は呆気にとられてそれ以上のことが言えなかった。彼の言っていることの内容は分かる。分かるが、全く理解できない。まるで別世界の住人のようだ。

「ああ。本当に、凄い人なんだよ、先生は。お前も会ってみるか?」

「え?」

突然の展開に驚く、というよりも彼の言う「先生」が実在していることに驚いた。一体、どんな人物なんだろう。怖いもの見たさで「会いたい」と返事をした。

「じゃあすぐそこだから、今から会いに行こう」

これも急な展開だ。日を改めて会うのかと勝手に勘違いしていたので、まだ心の準備ができていない。

「今から? 今からはちょっと」

嘘だった。ただ超能力者(彼が言ったことが本当だとして)に何の心構えもなく会うのは気が引けたのだ。

「すぐそこだからさ。まあ来いよ」

結局、彼の熱意に負けて会うことになってしまった。


先生

彼と共に日光壮を出てすぐの公園に向かう。外に出ると汗ばむほどの暑さだった。

「先生とはいつも公園で会っているんだ」

そう言って彼は公園の奥にどんどん入っていく。もう昼になろうというのに、周囲が薄暗い。この公園には私も来たことがあるが、奥まで入ったことはなかった。こんなに広い公園だったのか。途中、木の根っこにつまづいて左膝をすりむいた。彼の後についていくと、ちょうど彼の部屋くらいの広さに開けた場所に着いた。周りは緑で薄暗いのだが、この場所だけはやけに整然と刈り取られた芝生があるだけで木が一本もなく、遮蔽物がないため太陽は強烈にその光を降り注いでいた。真ん中にテーブルとベンチが置いてあり、奥の方のベンチに汚らしい老人が一人ぽつんと座っている。彼はその老人に向かって歩いて行くと、老人の隣に背を真直ぐに伸ばして立ち、挨拶してから、部屋にあったオブジェをテーブルの上に置いた。いつの間に持ってきたのだろう。気づかなかった。

「こんにちは、先生。今日は友人を連れてきました」

彼が手招きしているので、仕方なく私はどう見てもホームレスにしか見えないその老人に挨拶した。

「はじめまして。坂下です。桑野とは幼馴染みです。今日は桑野が世話になっている人を紹介してくれるということで来ました」

挨拶をしたのに老人は私のことなど見えていないかのように、テーブルの上に置かれたオブジェを見詰めたまま動こうとしない。聞こえていないのだろうか。

「先生は無愛想だけど気にすんな。まあ座れよ」

釈然としない顔でたたずんでいる私に彼はそう言って席を勧めた。座ってみるとベンチは意外と座り心地が良かった。彼はもう私のことなど目に入っていないようで夢中で老人と話している、日光を浴びているせいで体の左側がやけに暑い。今日はこんなに暑かったろうか。老人はいつまでも微動だにせずただオブジェをじっと見つめている。彼の話など聞いていないかのようだ。だが、二人には私にはわからない何かがあるのか、老人が全く反応していない(かのように見える)ことなど気にも留めず、彼はしきりに話しかけては頷いたり感心したりしていた。老人の声など私には聞こえないのだが、きっと喋らないでも通じるものがあるのだろう。それにしても暑い。何か飲み物はないのか。冷たいお茶でも出してくれると嬉しいのだけれど。すると、老人が何か言葉を発した。あまりに突然のことなので、しばらくは犬か何かの声だと思った。しかも老人は口だけを動かしただけで、ほかの部位は奇妙なくらい動いていない。だが、何度か同じように口を動かしたのでなんとか聞きとることができた。

「茶が欲しいのか?」

老人はそう言っていたのだ。どうして分かったのだろう。そんなに暑そうにしていただろうか。

「何だ、坂下。喉が渇いたのか?」

彼が、老人と同じ目で私の目を覗きこみながらそう言った。

「茶ならそこにあるだろう? さあ飲みなさい」

いつの間にかテーブルの上に湯呑に入ったお茶が置かれていた。光が耐えきれないほどの暑さを左肩に伝えている。汗だくになりながら、私は目の前のお茶を飲み干した。

「一杯じゃ足りないだろう? もっと飲みなさい」

飲み終えて湯呑をテーブルに置くと、いつの間にかもう一つ湯呑が置かれていた。美味しそうなお茶がなみなみと湯呑を満たしている。まだまだ飲み足りなかった私はそれも一息に飲み干した。しかし、足りない。むしろ、飲む前より酷くなっている気がする。

「余程のどが渇いているんだね。安心しなさい。まだまだあるから」

老人がそう言うと、桑野の右手にいつの間にか薬缶が握られていた。

「良かったな。先生がいてくれて」

そう言って彼は、私にその薬缶を渡してくれた。なぜこの老人は私の考えていることが分かるのか。いやそれ以前にいつの間に薬缶なんてものを用意したのだろうか。脳髄からあふれ出る疑問は先ほどから感じている強烈な渇きにかき消された。私は夢中で薬缶の注ぎ口から直接お茶を飲み下す。

ごくっ。

もう一口。

ごくっ。

 止まらない止まりそうもない。喉から音を出して飲んでいるとすぐに薬缶は空になってしまった。だが、喉の渇きは治まらない。物欲しそうな顔で老人を見ると、老人は目で桑野に合図した。すると、桑野の手には今しがた飲んだものと同じ薬缶が握られている。彼が渡すのも待ちきれないで、薬缶を乱暴にひったくると浴びる様にお茶を飲んだ。

ごくっ。

もう一口。

ごくっ。

何個の薬缶を空にしただろうか。空の薬缶でテーブルの上が一杯になる頃、やっと渇きは治まった。だが、それと同時に猛烈な眠気に襲われる。出会って間もない他人の目の前で眠りこけてしまうなんてあまりに失礼だとは思いながらもその強烈な睡魔には勝てず、私はそのまま気を失ってしまった。




読者登録

本屋好きさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について