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10

「この子に免じて、あなた達は見逃してあげる」
 産女は一方の方向を指差した。
「帰りなさい。手鏡をこの世界に投げ入れれば、この世界の入り口は閉じて、アパートの封印は開放されるわ」
 ヘレンは産女を見上げながら断言した。
「でも、守るって約束したの。和ちゃんを残して帰るわけにはいかない」
 マリアが産女の前面に立ちふさがるように言った。
「やっと、分かった」
 この場の雰囲気に似つかわしくない言葉に、仲間は戸惑い、産女は怒りの言葉を発した。
「何が分かったって? あなたたちに私の苦しみの何が分かるというの?」
 マリアは続けた。
「やっと分かったの。和ちゃんが、私たちに『助けて』って言ったこと」
「なんですって?」
「あれは、自分を助けてくれって言ったんじゃない。産女さんの苦しみを助けてあげてって言ってたのよ」
「この子が?!」
 自分の母親ではないと知りつつ、寄り添っていた理由はそれか。産女の疑問が解けた。
「この世界に来たときに、私たちを襲ってきた子供たちも同じ。一生懸命に、あなたを守ろうとしたのよ」
 ヘレンとジェスールは顔を向きあわせて納得した。あの子供たちがマリアとヨゼフを避けて襲ってきたのは、産女に敵対する意識を持たないものを避けて、産女に害意を持つ者を押し返そうとしていたのである。
 産女は反論する言葉もなく感情を発散させた。
「黙れっ、黙れっ、だまれぇぇ……」
 その感情の噴流は全てをなぎ倒すように激しい。ジェスールらはその勢いに耐えきれずにしゃがんだり伏せったりした。ただ、マリアだけが、やや眉をひそめて口元を結ぶのみで立ちつくしている。
「マリアぁ」
 チェルニーは伏せて勢いを避けろと合図をしたのだが、マリアは怯む様子もなく立ちつくした。正面から受け続けている産女の感情の噴流はマリアの長い髪が後方になびく程の勢いである。
「マリアが」
 ヘレンがマリアの異変に気付いた。
 マリアの外見を辿るようにぼんやり輝く新たな気配があり、まるで衣服が激しい風に引きちぎられ、剥ぎ取られ、吹き飛ばされるように、マリアの表面の姿は失われ、内側の別の姿が現れた。
 産女は、事情を察した。和ちゃんの心がぼやけて読み切れず、和ちゃんの周囲に見られた数々の異変もこの女の仕業だったのか。エレンとジェスールはこの新たな姿に記憶がある。管理人室の仏壇の写真で見かけた和ちゃんの母親である。和ちゃんに寄り添うようにいて、今は、マリアの体を借りて現れたに違いない。そんな母親の姿と、マリアの姿が揺らめくように交互に重なり合っていた。
「あなたは?」と、産女は尋ねた。
 マリアからの返答は無く、まるで聞かずとも分かるはずだというように微笑むばかりである。
「和ちゃんの、母親ね」
 産女にそう指摘された和ちゃんの母は、産女に語りかけた。
「私はあなたの一部であり、その子の母親でもあります」
「だから、どうしたというの?」
「その子を、解放してください」
「嫌よ。すでに私のもの。私の大事な和ちゃん」
「その子は、貴女を傷つけることを望んでいません」
「えっ、この子が、私を傷つけるとでも?」
「いいえ。でも、あなたは自ら傷ついている」
 和ちゃんの母親は、湖に目を移して言った。
「子供たちはみな、自分のせいであなたが傷つくことを望んではいません」
(子供たちは、みな?)
 ヘレンたちは顔を見合わせた。自分たちを襲撃してきた子供たちのことか、と気付いたのである。
「私が傷つくですって、違う。私があの子たちを沈めて離さないのよ。」
(沈めている……)
 ヘレンたちは湖を眺めた。そう言われれば、この湖で言いようのない哀しみを感じた。産女は再び感情を発散した。子供を失い、あるいは子供を残して命が途絶え嘆き悲しむ無数の女たちの記憶である。
「私の哀しみは未だ癒えない。私の心の空白は、まだ満たされない。きっと永遠に」
 産女の感情の発散と共に、再び尽きる気配もなく子供と引き離されれた女たちの無数の記憶が流れ出して仲間の周囲に溢れた。チェルニーは、産女が和ちゃんを欲する動機を察して叫んだ。
「だから……、だから、子供たちをさらって、孤独が満たされれずに子供の魂をこの湖に沈め続けたのね。和ちゃんの魂も沈めてしまうつもりなの?」
 和ちゃんが、いかに無垢な心を持っていようと、これほど濃く、これほど深い闇を満たすことは出来まい。失望した産女は和ちゃんの魂をこの湖に沈めて封印し、次の無垢な魂を求めて彷徨うのである。この湖に象徴される、この世界には、沈められてきた無数の子供たちが囚われているに違いない。
「あなたも、子供たちの声を聞くといい」
 ヘレンはそう言いった。無数の子供たちの恨みの声を聞けと言うのである。産女が応じて自嘲的に微笑んだ。
「ふんっ、子供たちの声など、私の満たされぬ哀しみにかき消されて聞こえるものか」
「いいえ、すでに子供たちの声が」
 マリアに姿を借りた和ちゃんの母親が湖に腕を伸ばした。腕の先からさざ波が広がった。
(私もあなたの一部)
 産女にそう言った和ちゃんの母親の意図が知れた。この湖の封印は一片の産女、和ちゃんの母親にも解除可能なのである。産女は悲鳴を発するように言った。
「止めてぇー」
「子供たちの本当の哀しみの声を聞きなさい」
 産女にそう言い放った和ちゃんの母親は湖に向き直り、閉じていた腕を広げて湖に向かって呼びかけた。その視線の先は静まりかえった湖の底にあり、子供たちに癒されるように優しい。
「さあ、みんな、出ておいでなさい」
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ」
 和ちゃんの母の呼びかけに、子どもたちを湖の景色で象徴される心の鎖の鍵が解かれた。それを知った産女が悲痛な叫びを上げたのである。
 この時のヘレンとチェルニーの心情を考えるなら、子供たちの魂を解き放とうとする和ちゃんの母親への期待ではなく、産女に共感する憐憫の意識だったに違いない。和ちゃんの母の行為が正しいと思いつつ、産女の心を思いやれば、無数の子供と引き離される女の、目を覆いたくなるほど悲しげな結末が予想される。
 産女の叫びが長く尾を引いて途絶えた。
 一瞬、湖は静寂に包まれた。辺りは暗く、手探りでなければ、仲間の存在が知れない。この世界が産女の心の中だとすれば、産女の絶望的な心情を映し出す景色に違いない。
  完全な静寂になった世界で、仲間たちはこの世界に踏み込むときに気付かなかった脈動が、ずっと変わらずに彼女たちを包み込んでいたことに気付いた。
(まるで、お母さんの子宮の中にいるよう)
 脈動は温かく優しい感情を伴って肌から伝わるように染み渡ってくるのだが、やがて、その脈動が独立するように小さな鼓動がいくつも響いて伝わってきた。
 手探りで仲間の存在を探っていたヨゼフは、手探りの指先に感じる感触ではなく、薄ぼんやりとした輝きに、仲間の輪郭が浮かび上がってきたのに気付いた。
(ああっ)
 ヘレンたちはその小さな鼓動が湖から開放される子供たちの魂、子供たちの心臓の鼓動だと気付いたのである。
 湖が淡い輝きを放っている。輝きは増し、仲間は色を取り戻した。ヘレンの金髪も、チェルニーの黒髪も闇から切り離されて浮かび上がり、風にそよぐようにたなびいた。柔らかい風がある。湖の底からわき上がるらしい。そして、まるで輝く泡がゆらゆらと漂いながら冷たく淀んだ湖の底から浮かび上がってきた。大きなもの、小さなもの、一つ、二つ、三つ、やがて湖全体を数え切れないほどの輝く泡が覆った。産女が底知れぬ孤独を癒し続けた魂である。彼女は間もなくこの無数の魂を失う。仲間はその悲しい予感を抱いて立ちつくした。
 しかし、何やら様子がおかしい。
 泡はぷかりと宙に浮いたかと思うと、まるで、戸惑い、恥じらう子供たちのように、ふわふわと宙を漂い、産女を囲んだ。
(何かの音が?)
 産女はそう思ったが、すぐにそよ風にそよぐ葉の音は意味を持ち始めて、産女を包んだ。
「ありがとう」
「ありがとう」
「お母さん、ありがとう」
「心配させて、ごめんなさい」
「生まれてきて、ほんとうに、よかった」
 無数の声は、母親を気遣い、いたわる、子供たちの声である。自身の孤独を癒すために子供たちを集め、それでも満たされない孤独を癒すために、子供を眠らせ湖に沈め続けた。そんな産女に、子供たちは愛してくれたお礼、孤独を癒しきれなかった謝罪を述べているのである。ちらりと背後に目をやると、和ちゃんの母親が僅かに肯いていた。
(子供たちの本当の哀しみの声。それは、これか、)
 耳を塞いでしまった産女に、自らの気持ちを伝えきれなかった子供たちの哀しみが、今ここで解き放たれて、子供たちは自分たちの感謝のメッセージを母親に伝える喜びに満ちているのである。輝く泡は時に幼児の姿を取り、時に微笑む少女の表情に変じ、時に柔らかな幼児の指先だけが産女の頬を撫でた。
 ただ、自分の感謝の思いを伝えることが出来た、その喜びと、率直な感謝の念が伝わってくる。
 やがて、光の子どもたちは名残惜しそうに、しかし、避けられない別れを決心したようにくるくると渦巻き、上昇を始めた。
 ヘレンたちは意外に感じた。最初に出会った子供たちと対照的ではないか。最初に出会った子供たちは、はっきりと見える姿だった反面、実態もなく消えてしまって、存在感を残さなかった。それは実態を持たない意識だけの存在だったからに違いない。今、現れた子供たちは淡い光で覆われて明確な姿はないものの、ヘレンたちにまとわりつくときに幼児らしい柔らかさと暖かさが伝わり、生きている幼児という存在感がある。
(えっ)
 ヘレンは何かに気付いて息をのんだ。柔らかな光の粒に包まれていたが、その中に二粒、自分の意志を持ってヘレンにまとわりつくものがある。光の粒は大きさを変えたり、形や光の柔らかさを変えながら、ヘレンに意志を伝えた。その意志の中に顔立ちを思い浮かべることが出来る。ヘレンの尻を棒で打ち据えた後、睨み付けられて涙目になった少女の印象。その少女がぺこりと頭を下げて詫びていた。もう一方の光の粒は、ヘレンの脛を蹴り上げて逃げ去った男の子の印象。こちらは上目遣いにヘレンを窺うようだが、もじもじと戸惑う様子にお詫びの言葉を探す様子が伺える。
(許してあげるわ)
 ヘレンは苦笑いをして「クソガキ」という感情を取り消した。やがて、輝く泡は消えてしまったが、この世界は柔らかな薄桃色の光を取り戻している。癒された産女の心象である。産女は戸惑うように腕に抱いた和ちゃんを眺め、和ちゃんに頬ずりをして子供の暖かさを味わい、最後に決断を下した。
「でも、あなたに出会えたこと。本当に幸せだった」
 そして、産女は和ちゃんの母親に向き直り、無言のまま和ちゃんの体を差し出した。二人の母親の腕が柔らかく温かく交差して、和ちゃんの体は和ちゃんの母親の腕から胸へ抱きしめられた。
(このまま時が止まればいいのに)
 仲間を包むそんな戸惑いと満足感。光景が静止し、仲間たちがそう感じる暖かさを伝えた。しかし、和ちゃんを手放した母親の姿が淡く揺らめく。
 女の後ろ姿が溶けるように揺らめいたかと思うと、柔らかな光に変じ、その光は一羽の鳥の輪郭を取った。白鷺のようでもあり白鳥のようでもあり、様々な鳥のイメージが重なっていて特定の鳥の名は判別しがたい。ただ、その純白に輝く姿は、子供たちに対する愛情からのみ構成されるように濁りを感じさせない。産女が鳥の姿を取るというのはこのことか。
 鳥は音もなく翼を広げ羽ばたいた。そして哀しみや孤独を流し去って身軽になった体を音もなく宙に羽ばたかせた。
 ヘレンたちは空を見上げた。輝く産女はヘレンたちの頭上を、名残惜しく旋回している。
(雨?)
 ヘレンたちに何かが温かく降り注ぐ。
(いえ、涙よ、きっと)
 チェルニーたちはそう信じて疑わない。産女が溢れさせた喜びと感謝の涙が降り注いでいるのである。
 一声、かん高く鳴いたかと思うと、産女は羽音もさせずに静かに飛び去って、その姿を闇に溶けこませるように消した。しかし、その声は癒しきれない哀しみを含んでいるようにも感じられた。


11

「和ちゃん」
 そう声をかけて和ちゃんの無事を確認しようとしたヘレンは、和ちゃんの母親の口から流れ出した呟きを聞いた。
「マリアさん、今しばらく」
 マリアにもう少し、我が子の息吹を感じる間、体を貸していてくれと言うのである。和ちゃんの母親は、胸に抱いた我が子を慈しむように眺め、頬ずりをした。マリアの体を借りた和ちゃんの母親が、生き別れになった息子の生命を感じ取っているに違いなかった。
「和ちゃん、目を覚まして!」
 目をつむったままの和ちゃんに、ヘレンは目覚めよと呼びかけたのである。和ちゃんはぐっすりと眠り込んだように意識がない。母親のぬくもりの記憶のない和ちゃんにとって最後のチャンスを逃してはならないと考えたのである。そんなヘレンを涙を浮かべたチェルニーが制した。
「ヘレン、止めて」
「どうして、止めるの?」
 しかし、チェルニーの涙に、ヘレンも察した。
 もし、この場で和ちゃんが目覚めればどうなるだろう、一瞬の母親のぬくもりの記憶の代償に、和ちゃんは避けられない悲痛な別れを経験しなくてはならないのである。
 成長した我が子を抱くゆりかごのようなマリアの腕が小刻みに震えてもいる。直後の避けられない別れを嘆く感情がにじみ出すのである。この悲しさが彼女の中に一片の産女を形作る。
 マリアは和ちゃんの母親と体と心を共有して、腕の中の和ちゃんの生命観をその重みと柔らかさと暖かさとして同時に感じ取っている。二人は想い出も共有した。
 幼かった我が子が大きく重くなった驚き
 和ちゃんの妊娠を知ったときのこと、
 和ちゃんがお腹の中にいるときに語りかけたこと
 看護婦さんから産着にくるまれた我が子を差し出されて抱いたときの感覚
子供を失った悲しさより、和ちゃんという子を身ごもったことに対する感謝の念、この子が人々にはぐくまれつつ生きているという幸せな暖かさを強く感じている。その点が、産女と、和ちゃんの母を隔てているようだ。しかし、和ちゃんの母親が母親でありつづけたのは、その直後に成長した我が子を手放してヘレンに託したことである。
 やがて、マリアの体を借りた和ちゃんの母親は、腕に抱いた和ちゃんをヘレンに託すように預けて、仲間を向き直った。ヘレン、アダム、ヨゼフ、ジェスール、チェルニー、ゆっくりと彼らの顔を眺めて礼儀正しく一礼した。
「みなさん、ありがとう」
 母親として、息子を慈しんでくれる人々に礼を言ったのである。彼女は軽く目を閉じると、マリアの体は糸が切れた操り人形のように地に崩れ落ちた。その体からまばゆい光が飛び出して、先に姿を消した産女の後を追うように消えた。
 地に崩れたマリアは涙に濡れた目を開けた。和ちゃんの母親と体と心を共有していて全てを知っていた。
「女って、母親って……」
 誰でも哀しみや孤独を背負っていかねばならないのか。チェルニーとエレンは肯いた。貧困、飢え、争い、事件、事故、この世界では様々な理由で母と子が引き離される。今は癒され飛び去った産女に背負わされる業である。産女が鳥に姿を変えて飛び去るときに、子供達に癒される喜びの涙と共に、悲痛に漏らした叫びは、これからも避けきれない哀しみをことを思って発したに違いない。ただ、母を思う子供たちに気付いたことが唯一の救いに違いない。
「私はあなたの一部です」
 和ちゃんの母は産女にそう言ったが、マリアもヘレンもチェルニーも母性という心の奥底で産女の欠片を抱えているのかも知れない。
「アパートに引き上げよう」
 母性の余韻に浸っていた女性たちを叩き起こすようにヨゼフの声が響いた。ヨゼフがうかがう周囲の景色を見れば淡くぼやけている。ここが産女の精神世界の中だとすれば、産女が姿を消した今、消滅してしまう世界である。
「オレが抱いて行こう」
 ジェスールはマリアから眠ったままの和ちゃんを受け取って走り始めた。方向は意味がない。とりあえず急いでここから遠ざかったところに、この世界の出入り口があるはずだ。
この世界でずいぶん彷徨ったつもりだった。しかし、僅かに駆け戻ると、ぽっかりと宙にういた穴に、瓢箪荘の部屋が見えた。懐かしい景色を見つけたマリアが、ふと思いついたように言った。
「あらっ」
「どうしたの?」
「私、お仕事に行くのを忘れてたわ」
 マリアにつられるようにヨゼフも言った。
「そういえば、ボクも学校に行くのを」
「こんな時に……」
 チェルニーはこの非常事態を自覚しないマリアとヨゼフの脳天気ぶりにあきれるように空を仰いだ。その空に靄がかかるように景色が薄れ始めていた。
「そんな事を言ってる暇は無いようだぞ」
 ジェスールが指さす先に、出入り口の穴が揺らめいて見えた。この世界の構築主の産女が去った以上、この世界がどうなるかわからないのである。
 彼らは慌てて穴に飛び込んだ。部屋の隅の鏡台と鏡台と向かい合わせに椅子の背にくくりつけた手鏡。もといた部屋に間違いがない。エレンは脛のホルダーのナイフを抜いて手鏡を固定する紐を切り離して手鏡を手にした。
「みんな居るわね?」
 ヘレンは部屋の中を眺めて、欠けているメンバーが居ないことを確認した。この手鏡を目の前に明いた穴にほおりこみさえすれば、この穴は永遠に閉じて仲間はあの世界から切り離される。
 ヘレンとチェルニーは、和ちゃんに視線を注ぐマリアに気付いた。和ちゃんの母親がマリアに乗り移っていたとき、彼女たちは和ちゃんを目覚めさせなかった。その行為が本当に正しかったのかどうか、今でも迷うのである。
「いいわ、入り口を閉じて」
 マリアの言葉に誘われるようにヘレンは手鏡を空間の穴に放り込んだ。産女の言葉通りなら、これでこの出入り口は閉じ、この瓢箪荘を包む結界も解除されるはずだ。
(何も起きないのか?)
と、疑問に感じる一瞬の間をおいて、仲間は顔を見合わせ、今回の事件のきっかけになった和ちゃんに視線を移した。
 先ほど、厳しい別れの運命ではなく、マリアに乗り移った和ちゃんの母が和ちゃんを抱く姿が優しく美しく、和ちゃんを包み込む雰囲気がした。
仲間の目の前で、和ちゃんの閉じた目から、ついっと一滴の涙が溢れて頬を伝った。その口元には笑みが浮かんでいるようで満足そうな感情が伝わってくるかのようである。たとえ一時にせよ、成長した和ちゃんは母親の記憶の一部に満たされたに違いない。
 直後、彼らは皆くらくらと立ち上がれないほどの目眩を感じ周囲の景色が揺らめいて見えなくなるような感覚の後、気を失った。
事実、彼らの周囲で景色と雰囲気が一緒になって渦巻いた。

終章 1

 和ちゃんはすやすやと眠っていた子犬の目覚めのように、無邪気に大きな口を開けてあくびをした。ちょっと背を丸めた格好で畳の上で寝っ転がっていて、傍らにアダムから借りた子どもの遊び歌の本がある。和ちゃんはしばらくその本を眺めていて、自分がこの本に飽きて眠り込んだと決めた。挿絵や写真に気を引かれて借りたが、内容はさすがに難しすぎたようで、和ちゃんは本に興味を失ってしまっていた。本を抱きしめて立ち上がったのは、本をアダムら返しに行くつもりだからである。
 和ちゃんが階段の所にさしかかると、チェルニーの姿が見えた。
「えっ? 変なこと言わないでよ」
 チェルニーは受話器を持ってそう言った。受話器の向こうで母親が変なことを言う。冗談で言っているのかと考えたのだがどうやら本気らしい。和ちゃんの母親が本当に生きているのかと尋ねてきたのである。チェルニーがこのアパートに来たときから和ちゃんは母親を失っている。何を馬鹿なことを言うのだろう。そして、彼女の母は娘がそんなことを言ったかのように言う。彼女の母親は今年で55になったばかりで、まだボケるには早すぎるはずだ。
 チェルニーは傍らを通りかかったヘレンに首を傾げて見せた。
「母親って、心配性ね」
 ヘレンはそう言うことには興味がない。彼女がベッドで目が覚めると、脛と腰にコンバットナイフを身につけた戦闘状態で、弓は組み立てた状態で彼女と添い寝をしているように転がっていた。本来は腰から右の股に下げるべきクイーバーは何やら細工が施してあって、背中に背負えるようになっている。
「ロビンフッドじゃあるまいし」
 ただ、矢はどこかに紛失してしまったようで、その矢を探してアパートの中を彷徨っているのである。記憶を無くすほど泥酔することがある。ただ、昨夜の記憶を辿ってみても、酒を飲んだかどうか思い起こせない。失った矢の代償に、温かな記憶の残滓がわだかまっているような気がして不満ではない。
 アパートのドアを開けて帰ってきた者がある。ヘレンは帰宅したヨゼフに尋ねた。
「まさか、あんたが狩りに使ったんじゃないでしょうね?」
 この日本で古い部族の習慣に目覚めて、ヘレンの矢で狩りをしたのかと問うている。むろん冗談だが、その意図が分からずヨゼフは首を傾げた。ここの所、ヨゼフの母親に対する不満は、母親が息子の話を信じないことである。しかし、ふと思いついた。鉄道マニアの彼が、駅のホームで自身を撮影したデジタルカメラの画像があり、彼の姿の背後に駅の時刻表が写り込んでいる。この時刻表の運行スケジュールを見れば疑り深い母親も、息子が語る「列車が発車して左の方向に見えなくなる前に、もう右の方から次の列車が走ってくる。」という状況を納得するだろう。そう思い、画像データーをアダムに頼んで印刷してもらったのである。ヨゼフはその印刷した画像を郵便で送るという配慮をした。画像を受け取った母親は息子の言葉に納得すると共に、息子の姿を見て安堵するに違いない。長らく顔を合わせることが出来ない母親を安堵させることが出来る。そのことが多少の親孝行をしたようで心地よい。
 大人たちは和ちゃんには無関心で、自分たちの会話に没頭している。和ちゃんもまた、彼らを眺めたのみで階段を登った。
 和ちゃんがアダムの部屋を前にして立ち止まったのは、半ば開いたドアから、ぼそぼそと呟くようなアダムの声が聞こえたせいである。誰か来客でもあったのかと首を傾げる和ちゃんに途切れながら聞こえた。
(お母さん、今、僕は、この東洋の外れで、母と子の関係について、考えています。時代や、地域や、民族や、宗教や、思想信条、そんなものに左右されない普遍的な愛情。もしも、僕が……)
 以前、アダムが妹を通じて母に宛てたメールの原稿である。アダムは頭に浮かぶそんな言葉をディスプレイ上の文字で辿りながらやや戸惑ったが、その後、迷いもなくマウスを操作して全文を指定して削除した。アダムは小さなノックに気付いて振り返り、和ちゃんの存在に気付いた。和ちゃんが笑顔で抱える本で、和ちゃんの用件を察した。
 アダムは手招きで和ちゃんを迎え入れ、二人でディスプレイを見つめた。アダムはメールのメッセージ欄に新たなメッセージを入力し直した。むろん、彼の母国語で和ちゃんは読むことが出来ない。和ちゃんのためにアダムは日本語に直して読み上げた。
「ぼくは日本でそちらと変わらず快適に過ごしてます。ただ、夏の暑さはちょっとこたえるけどね。何故か、この国で故郷のこと、家族のこと、両親のことを思い出します。お母さんとお父さんに伝えて。あなたの息子は変わらずあなた方を愛していると」
 和ちゃんの笑顔を見ていると、綴るべき文章はこれだけで良いように思われた。むろんメールには産女のことには触れられて居らず、アダムの記憶から産女は綺麗に失われている。しかし、自分が世界の東の果てで何か母性というものに触れた気がし、その本質が文面を変えさせた。複雑な言葉は要るまい。愛していると言うことだけ伝われば充分だと考えるのである。
 和ちゃんはアダムの所で用件を終えて部屋を出た。廊下でぼやいている人物が居る。
「しまった。どこかで」
 たしか、ペットボトルに富士山の湧き水を汲んだはずだが見あたらない。せっかくの土産をどこかに置き忘れてきたのかも知れない。思いもかけず旅の疲れが出たのか、ジェスールは先ほどまで部屋でぐっすり眠り込んでいて、目覚めたばかりである。広げてしまった荷物をさっさと片付けねばならない。廊下の西の窓辺から入ってくる陽の光が赤みを増している。
「まぁいいか」
 傍らを通りかかった和ちゃんを見て、何故かそう納得した。富士の湧き水の代償に得たものがあるような気がする。この満足感は価値のあるもののような気がするのだが、その正体は知れない。
 和ちゃんは壁掛けの時計で公園に行く時間を察知して、階段を下って玄関をくぐった。

  陽は西のビルディングの屋上にかかっていて、ブランコ、滑り台、鉄棒、この公園にある物の全ての影が長い。周りの子供たちは母親に連れられて一人また一人と帰宅して、公園からせわしく動く影が途絶え、聞こえる物も遠くに聞こえる電車や車の喧噪だけである。幼児が一人取り残されてブランコで揺れていた。
 和ちゃんだけがぽつんとブランコで揺れていた。
 既に秋の気配が満ちていて日暮れが早い。和ちゃんは公園の外に待ちきれぬものを求めるように見つめて、一つの決心をした。じっくりと周囲を窺いつつ、いつもと反対側の出入り口から公園を出た。注意深く周囲を窺いながらも不安そうに足を進め、やがて行く手を阻まれるように足を止めた。和ちゃんの前に視界が広がった。川岸に公園を抱えた大川の流れである。ここまで一人で遠出をしたのは初めてだった。ゆったり波立って流れる河面に係留された川船や、長いオールを突きだしたカヌーが目を引いた。
 その流れを目で辿ってみると、和ちゃんの幼い目には、流れが途絶えることなく、流れに乗れば何処までも旅が出来そうに思える。もちろん、夢見る行く先は今はこの世にいない母親の居場所である。和ちゃんの視線や心はこの世界を離れるように静止した。
「和ちゃん」
 優しく呼びかける声がして、和ちゃんの背後に伸びる女の腕がある。和ちゃんの心をこの世界に留めた暖かさがした。和ちゃんは振り返って笑顔を浮かべた。期待通りであり、ちょっと期待を裏切られたような寂しさも滲んでいた。マリアは振り返った和ちゃんを確認して悟った。いつもより帰りが遅くなった自分をここまで迎えに来たのだろう。
 マリアは遅くなったことを説明するように和ちゃんに語りかけた。
「ちょっと不思議。気がついたら、会社で仕事が終わったところだったの」
 マリアは和ちゃんの笑顔でそんな言い訳が必要ないことを知った。ちょっと大人びた笑顔。この子はいつもより行動半径を広げ、いつもよりちょっと冒険をし、新しい世界を知ったらしい。ちょっと自信が付いた表情が微笑ましい。マリアがふと気付いたのは、そんな姿に癒される自分に気付いたことである。
(私も、いつかママになるのかしら)
 彼女は期待を込めてそう思いつつ、自転車の荷台を和ちゃんの傍らに進めて言った。
「乗って。しっかり掴まってなさい。手を放さないで、」
 マリアはペダルに駆けた足に力を込め、和ちゃんはマリアの腰に回した腕に力を込めて抱きついた。その姿は仲の良い親子に見える。
 和ちゃんがふと背後の夕日を振り返った、何かおぼろげな記憶が思い起こされて、和ちゃんの目にうっすらと涙が滲んでいた。その口元の笑みは和ちゃんの涙の理由が寂しさではなくて、しっかりとした芯のある暖かさを感じているからである。

                                   了

あとがき

 今回は私の作品を最後まで読んでいただいてありがとうございました。

 実はこの作品は、日本ホラー小説大賞で落選したあとで、ネット上に公開して皆さまの批評やアドバイスを頂いて改稿した作品です。
アドバイスや励ましをした抱いた方々にお礼を申し上げます。ただ、私自身の力不足で、今回の作品についてもまだまだ改める点があろうかと思います。
 また、物語を書き上げて公開したものの、作者としてこの物語の結末に大きな迷いがあります。和ちゃんが本当のお母さんに抱かれているときに、チェルニーとヘレンは和ちゃんを目覚めさせることなく終わりました。結果的に、和ちゃん自身はお母さんの温もりの記憶を持たないまま結末を迎えました。作者の私がチェルニーとヘレンを通じて行った判断は本当に正しかったんでしょうか? この物語を読んでいただいた方、それぞれの立場で、ベストの選択だったのか、それとも、貴女がチェルニーやヘレンの立場なら違う行動を取ったのか、皆さまの厳しいご批評をお待ちしています。また、感想やアドバイスなどもお寄せくだされば幸いです。
 
 2012.08.14
表紙を差し替えました。
 それから、この物語には姉妹編とも呼ぶべき物語があります。孤独な魂が触れあうテーマが、1つはこの『悲翔』として、
もう一つは、
不思議な能力を持っているために、周囲にとけ込めず孤独を深める少女と、両親に捨てられた子どもが、童話の世界を旅する物語
『冬の魔法使い すすむと春香の7つの旅』
よろしければこちらもご覧下さい。
*済みませんが、現在、某出版社に応募中で審査中は公開停止しています。8月に再掲載するかもしれません。
 
2016.05.26
この「悲翔」は、世界の様々な国の住人たちが、日本で、自分たちにも当てはまる普遍的な母性愛を見つめる話です。今度は、同じ登場人物たちが普遍的な父親の姿と向き合う物語「約束の土地」を、このサイトで公開しました。5世紀末の大阪にタイムスリップしたアダム、ヘレン、チェルニー、ヨゼフの4人は、イスラエルの失われた10支族の末裔の男と、日本人女性の悲恋を目撃します。
よろしければお読みください。
「約束の土地」
 ちょっと、作者として本音を言わせていただくと、母親をテーマにした「悲翔」は、公開後4年経過した現在でも、1日10アクセス以上あるほど読んでいただいてます。「約束の土地」は、公開して未だ2週間なのに、1日のアクセス数が10件以下の日もしばしば・・・・・・。なんやねん、この母と父の差は? みんな、父親に冷たすぎませんか(笑)。 父親の復権を望みたいです、うんっ。
 
 


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