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「手前の部屋はいい。一番奥から行こう」
 そう言ったアダムが全力で駆けることができる、長く幅の広いまっすぐな廊下である。
(これほど広ければ、)
 チェルニーはそう思った。人間の世界で言えば、これだけの大きな館なら、館の主人以外に大勢の家来や召使いが居ても良いはずだ。しかし、人の気配は絶えていて、この世界に存在する者が、自分たちだけのような孤独感に苛まれる。
「いったい、いつになったら和ちゃんの居る部屋にたどり着けるの?」
 向こうの廊下を歩んでいるはずのヘレンと同じ事を、こちらの廊下でチェルニーは思っただけではなく口にした。ドタバタと格闘する物音やヘレンやヨゼフの叫びが小さく響いてきている。彼らは予定通り、あの化け物を引きつけているはずだ。しかし、彼女たちは両側を部屋に囲まれた果てのない廊下を走り続けるのみで、未だ目的地にたどり着けない。しかし、幸いなことに、直感を行動規範とするマリアが居た。
「気配を遡りましょう」
 アダムとチェルニーはこの世界に入ってからのことを思い出した。方向が定まらない。気配を辿ってここまで導かれた。あの化け物の気配を辿ってきたと言っても良い。同じ事がこの館の中でも言えるだろう。ヘレンたちが化け物を引きつけている今は、あの化け物の気配から遠ざかるように進めば、そこは元の入り口か、彼女たちが目指す場所である。
「気配が薄れるのは、入り口か、館の奧か、一か八かね」
 マリアは腕に下げた籐製のバスケットからポーチを取り出した。数本の輝く針と糸が見える、裁縫道具である。彼女は右の部屋の襖に穴を開け、ボビンに巻き付けた糸の端を結びつけた。
「なるほど」
 どちらに進んでも、糸を辿れば元の場所に戻ってこれると言うことである。マリアは部屋の中央で気配を伺い、意外なことに、元居た部屋に戻った。その後、回ったり、迂回したり、戻ったり、彼女たちが描き出す目に見える軌跡には意味はない。しかし、気配を遡って進む先では着実に哀しみの意識が薄れ、別の意識が高まっている。言葉では説明しがたい。幼子が産着に包まれてすやすや眠っている。そんな柔らかなイメージを伴う意識である。
(一歩づつ、和ちゃんに近づいている)
 そんな確信が女たちにあった。しかし、いつのまにやら、彼女たちは行き止まりにいた。正面と左右は清楚な白壁で、出入りできるのは、今、入ってきた襖の面だけ。
「行き止まりなの?」
 チェルニーがそう言った。いままで左右に迂回するルートなどいくらでもあった。しかし、この部屋は見た目は正真正銘の行き止まり。幼子の気配に、流れる様子が無く、部屋の中に充満しているようで、確かに館の一番奥の部屋だという感じがする。
「あとは……」
 マリアが正面の壁に手を触れた。正面に見えていたもの揺らめいたかと思うと、御簾に形を変えた。壁なのか御簾なのか考えることは意味がない世界である。ただ、その奧に幼児の姿がかいま見える。
「和ちゃん」
 3人の言葉が同時に響いて、3人は和ちゃんの寝床に駆け寄った。
「和ちゃん、無事かい」
 そう呼びかけて揺り起こそうとするアダムに、幼児は答える様子がない。まるで、今まで親鳥に抱かれていた雛のように、和ちゃんの体温は温かく大切に保護されれており、鳥の柔らかな羽毛に覆われていたように、触れるものは瑞々しく柔らかい幼児の素肌である。チェルニーが耳の下に当てた指先に、和ちゃんの鼓動が伝わってくる。呼吸は規則正しく、ぐっすりと眠り込んでいる幼児の姿である。
「大丈夫。生きてるわ」
 チェルニーは自信を持って断言した。
「和ちゃん」
 再び、和ちゃんを揺り動かして目覚めようとするアダムを、マリアの手が制した。
マリアは体温や柔らかさなどの生命感を感じ取るように、頬に和ちゃんの手を当てた。和ちゃんを保護すると言うより、子供によって癒される母親の姿に似ている。
「あの化け物の魔術か何かで、眠ったままなのかもしれない」
「産女よ」
 マリアは、化け物ではなく「産女」という名の存在だというのである。
「うぶめでも何でも良いわ。とりあえず、和ちゃんを連れて逃げましょう」
「僕が抱いて逃げよう」
 アダムが和ちゃんを抱き上げようと、腕を和ちゃんの体の下に差し入れた。意識を失っていてずしりと重い。指先から伝わる暖かさで、その重さが和ちゃんの生命感のようにも思われた。
「この笛を吹けばいいのね」
 チェルニーはジェスールから預かった笛を口にした。
「ちょっと早すぎる」
 アダムが注意する間もなく、チェルニーは逃げ出す合図の笛を吹いた。
 アダムの指摘通り、ちょっと早すぎるだろう。館の外に逃げ出してから吹くはずだった笛の音である。
 ピィーーーーーー
 笛の音が館に響き渡った。
「逃げるぞ。走れ」
 アダムは和ちゃんの柔らかな体を寝床から引き出した。一瞬、自分の手で胎児を堕胎するかのような罪悪感に苛まれた。罪悪感に耐えつつ、彼らは糸をたどって走り続けた。


  ジェスールはヨゼフとヘレンに目配せをした。ヘレンは察して肯いた。ヨゼフの視線はペットボトルに固定されていてチャンスがあれば飛びつくだろう。何やら突然に膨張した空間の中で、ヨゼフからペットボトルまでの距離が直線で20メートルばかり、彼の脚力ならペットボトルを手にするまで3秒と言うところか。ヘレンの見るところ、ヘレンの位置とペットボトルを結ぶ線上には化け物が居り、化け物を避けてターゲットに向かえば化け物の注意は彼女に向く。
「GO!」
 ヘレンは自分自身に号令をかけた。ヘレンは重心を低く抑え、化け物を中心に左側から円弧を描いて駆けた。この間、ヘレンの視線はペットボトルの水にあり、化け物はその視線を追ってヘレンの意図を察して、ヘレンを阻もうと腕を伸ばした。不安や憎しみや嫉妬の感情で、女の体は膨張し続けてヘレンの数倍の身長になり、その体にすら収まりきらない恐怖や憎しみや焦りの感情があふれ出して、ヘレンたちに伝わった。化け物は巨大な体、長い腕を伸ばした。むろん、ヘレンはそのリーチを察して、手の届かない範囲を駆け抜けている。
(えっ?)
 ヘレンをぎょっとさせたのは、その腕と指が人間の形を崩して伸びて、駆けるヘレンの前方を塞いだからである。ヘレンはその指に捉えられるのを避けて、受け身を取るように斜めに跳ねて床に転がった。
 化け物がヘレンの誘いに乗っている。その瞬間、ジェスールが床を蹴って突進した。ヘレンから目を移す間もなく、ジェスールのタックルは効を奏して化け物の両足を捉えて放さない。
(ちぃぃぃぃぃ)
 化け物の苛立ちが舌打ちと共に伝わってきて、ジェスールは巨大な力が自分を掴んで持ち上げようとしているに気付いた。ヘレンが背負ったクイーバーから矢を抜き取って、化け物めがけて放った。慣れた手つきで十数秒の内に七本の矢を射たが、いずれの矢も化け物に届く手前で動きを止めて、ぽとりと床に落ちた。タックルしたはずのジェスールの体は巨大な手で捕まれて、逆に動きを失った。ヘレンとジェスールの攻撃は効を奏していない。
 しかし、化け物がペットボトルに入った水を狙い、水を取り戻そうとするヘレンたちを妨害することで得られた確信がある。ペットボトルの中身が化け物にとって都合が悪いと言うことである。
 ヨゼフは化け物が二人に集中している隙を読んで、化け物の背後に転がっていたペットボトルに突進した。ヨゼフが図ったタイミングは絶妙で、化け物の背をかいくぐってペットボトルを握りしめ、高く掲げてヘレンとジェスールに成果を伝えた。
 化け物はその姿に気付いてヨゼフに鋭い視線を向けた。ヨゼフの全身は麻痺したように動かない。強い力で押さえられたというのではない、全身から力と気力が奪われた感じである。彼らはなすすべを失った。
 ヘレン、ジェスール、ヨゼフ。3人に絶望感が漂い始めた瞬間、別の部屋でチェルニーが吹いた笛の音が響き渡たり、その甲高い音色に化け物の悲鳴が重なった。
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ」
 化け物は雷に全身を貫かれたかのように体を反らした。振り返った化け物は、起きたことを察して悲しげな悲鳴を上げたのである。振り返った方向で起きていること、その方向に和ちゃんが居たのだろう。この化け物は別働隊が和ちゃんを救い出したのに気付いたのである。しかし、ジェスールらの計算にも狂いが生じている。化け物が振り向いたその方向から脱出の合図の笛が聞こえたのである。別働隊が脱出し、化け物の手を逃れてから聞くはずの合図である。化け物の視線の先から聞こえるというのは何かの手違いがあったに違いなく、化け物を視線の先に行かせるわけには行かない。
(あいつらが逃げ出すまで5分か、)
 自分たちが目一杯時間を稼いでもそれが限界だろう。この時、化け物の注意が逸れたのか、凍り付いていたヨゼフは、自分の体が幾分自由を取り戻しているのに気付いた。
「ヘレン」
 ヨゼフは名を呼んでペットボトルを投げた。ヘレンはヨゼフが投げてよこしたペットボトルを左手に受けた。彼女はペットボトルの蓋を開けて、水を口に含んだ。彼女は背負ったクイーバーに残った3本の矢を取り出し、その矢の先に口に含んだ水の一部を吹きかけ、残りをグリップを握りしめた拳と弓に吹き付けた。
 2本の矢は弓のグリップと共に握り、最初の矢をつがえて弦を力一杯引き絞った。
「お願い……」
 彼女がそう祈ったのは、水を吹き付けた弓と矢が、あの化け物に効き目を発して欲しいという思いである。最初の矢は見事に化け物の着物の左袖に命中して縫い止めるように柱に突き刺さった。
(しめた)
 ヘレンがそう思ったのは、最初の矢が縫い止めた袖を、化け物が引き抜くことができない様子だからである。足止めの効果はある。
 彼女は続け様に、残りの2本を射た。右袖に1本、裾に1本、見事に化け物を傷つけずに行動を封じて、化け物の体を柱と襖に縫いつけた。何故か、彼女は無意識に化け物を傷つけることを恐れて、体を避けて矢を射ていた。
「よくやった」
「だめだわ」
 ヘレンがそう言ったのは、子供を奪われて身悶えする化け物の動きが激しく、縫い止めた袖が破れかけていることに気付いたからである。あの袖口や裾が破れ落ちて、縫い止めた矢に効果が無くなってしまえば、あの化け物は再び彼女たちを襲い、その時にはヘレンたちには抗うすべがない。
「逃げよう」
「どっちへ?」
「あの化け物から離れればいい」
 ジェスールの言葉にヨゼフとヘレンは肯いた。この世界の摂理の一部を理解し始めている。どちらの方向にという情報は不要であるらしい、ターゲットに近づくか、遠ざかるかそのどちらかの選択肢しかない。
 ヘレンは走りながら歯を食いしばったが、流れ出る涙を抑えることができない。ヘレンの矢によって自由を奪われた化け物が、もがきつつ発する叫びのせいである。叫びと同時に伝わってくる感情は怒りや憎しみではない。哀しみや後悔や孤独、幾つもの感情が入り交じって入れ替わるが、一言で表現するなら、愛する我が子を失った母親の情念である。
 彼らが入り口を出たとたん、巨大な館はこじんまりとした和風の一軒家に戻った。ヘレンたちは、そこで先に脱出したマリアたちを見つけた。
「私たちは、なんと言うことを」
 胸をかきむしられる思いでチェルニーが言った。肺腑をえぐられるほどの悲痛な叫びが館の中から響いてくる。子供を奪われた母の叫びである。一人や二人ではない、数十人、数百人、その数百倍の哀しみや後悔が凝縮されている。その叫びを浴びていると、決して侵してはいけないことに手を染めた罪悪感に囚われる。
 ジェスールは和ちゃんを抱いて息を切らせているアダムから和ちゃんを受け取って走った。アダムとヨゼフは、しゃがみ込む女性たちを支えながら走った。目的地はない。とりあえずここから遠ざからねばならない。
 耳を刺す悲鳴ではなく、押し寄せる悲しみや孤独感が彼らに追いつき包みこみ、駆ける体や足にすがりついて行く手を留めようとしていた。

 和ちゃんを抱きながら駆けるジェスールの体力が尽きた場所が、休息の場だった。澄み切った湖の畔、マリアたち女性が異変を感じた場所である。アダムが息を整えながら言い、ヨゼフが意見を吐いた。
「和ちゃんは救出した。次はどうする?」
「まずは和ちゃんを安全な場所に。和ちゃんが目覚めれば何か聞き出せるかも知れない」
 ジェスールは太い腕の中の和ちゃんを眺めたが、目覚める様子はなく、傍らのマリアに尋ねた。
「他に、分かったことは?」
「産女だわ、あの人」
「うぶめ?」
「子供と生き別れになった哀しみが凝縮した、哀しい妖怪」
 何故、マリアがその妖怪の名を口にしたのか分からない。その名を断定する理由も分からないが、仲間には異論を唱える思考力も体力も残っていない。
「彼女を産女だとしよう。他に何か」
「彼女、ここが心の中だって言ってなかった?」
(私の心に侵入してきて好き勝手なことを)
 確かに彼女はそう言った。とすれば、ここは産女の心の中の心象世界か。とすれば、全ては産女の思いのままになる世界……。頼みの綱だった富士山の湧き水を切らした以上、彼らに勝ち目はあるまい。
 ここまで来て疲れきってしまっているが、鏡の入り口からこの湖までたどり着くまでの時間の長さを考慮すれば、まだ先が長い。逃げ切ることは難しいかもしないという絶望的な雰囲気が漂っていた。
 ヘレンは荒い呼吸をする仲間を励まして言った。
「大丈夫? 呼吸を整えたら直ぐに出発しましょう」
 ヘレンの視線は既に湖を背にして、これから歩む先にある。ヘレンの言葉にも関わらず答える者が無く、荒い息づかいが聞こえるのみである。
 沈黙が続いた。
 なすことなく苛立ったヘレンは振り返ったが、その表情が和らいだ。和ちゃんはチェルニーに見つけられたときと変わらない表情でいる。
「かして、」
 彼女は傍らに弓を置き、ジェスールに手を伸ばして和ちゃんを受け取ろうとした。ヘレンの声が、落ちつきを見せていて、矢を放った戦闘の荒々しさを消している。ジェスールから和ちゃんを受け取る指先が、しなやかに和ちゃんの肌に沈み込んだ。和ちゃんの生命感がずしりと重みを持って感じられ、和ちゃんの鼓動が伝わってヘレンの鼓動が共鳴するようにも感じられる。
(どうして?)
 子供はこんなに人を癒す事が出来るんだろう。それとも、自分の中の母性のせいか。頬を重ね合わせてみると柔らかく温かい。癒してあげるわけではなく、こちらが癒される。チェルニーやマリアも、傍らでエレンを見ながらそれを実感した。
 腕の中の和ちゃんを眺めていたヘレンは、突然に違和感を感じた。和ちゃんの表情の中に、別の子供の顔が重なったような気がしたのである。じっと眺めてみると、たしかに別の顔が浮かんで消えた。女の子の顔であったり、男の子の顔であったり、無邪気に笑っているのやら、つんとおすまししたのやら、無数の子供たちが和ちゃんと重なって入れ替わる。
 マリアには、ヘレンが和ちゃんを抱く腕に力を込めたように見えた。ヘレンの腕の筋肉が張り、和ちゃんの体に重みを感じさせる。更に、ヘレンが地を踏みしめるように、股やふくらはぎの筋肉に目に見えて緊張感が走った。事実、ヘレンは腕と足に力を込めている。突然に、和ちゃんがずしりと重くなった。幾つもの子供たちの生命感が加わって何人もの子供たちがヘレンに抱かれているようでもあり、更に、子供たちがヘレンの腕から肩や腰にすがりついてくるイメージが浮かぶ。
 ヘレンはその命の重さに耐えきれず、がくんと膝を屈して地面に右膝をつけたが、和ちゃんをしっかり抱いたまま手放すことはなかった。
「くっ」
 ヘレンの緊張感はピークに達して、食いしばった歯の間からうめく声が聞こえた。ようやく異常を察知した仲間たちがヘレンに駆け寄った。ただ、ヘレンには仲間の姿は眼中にない。ヘレンが上半身で覆い隠すように、必死で和ちゃんを抱きしめているのは、母犬が子犬を守る姿に似ている。
「誰かが、和ちゃんを」
 ヘレンは、彼女から和ちゃんを引き離そうしている者が居るというのである。必死で抗うのだが力が入りすぎれば、幼い和ちゃんの体を傷つけそうになる。トレーニングを積んでいるとはいえ、ヘレンも女性としての柔らかな体のラインを持っている。そんな彼女の爪の色が変わり、手の甲に腱が浮き上がる程の力に抗して、エレンが和ちゃんを抱く指が一本ずつ引きはがされ、右手が引きはがされ、和ちゃんに密着していた二の腕が引きはがされ、ヘレンは目に見えない力で、和ちゃんの体から引きはがされて、突き飛ばされるように尻餅をついて転がった。和ちゃん手足をたらりと垂らして宙にぷかりと浮いた。異様な光景である。
 この場を支配していた緊張感が融ける気配で、仲間たちは知らぬうちに、自分たちの心を圧する緊張感の中にいたことを知った。もちろん仲間の緊張ではない。和ちゃんを取り戻すために細心の注意を払っていた産女の緊張感である。緊張の解けた理由は目の前の光景で分かった。ぷかりと宙に浮かんだ和ちゃんの体は、地表数メートルの高さに上昇し、もはや仲間の手に届かない。和ちゃんの体の向こうに、ぼんやりと影が揺らめき、姿を見せた。右袖は引き裂かれ、左の袖は肩の辺りで破れて失われている。エレンの矢に縫いつけられて、必死で暴れて破れた着物の裾もぼろぼろで、両足が膝の辺りまで露出している。和ちゃんを抱く胸元は乱れて乳房が露出しているが、体裁を気遣う風はなく、愛するわが子を奪われた母が必死で子供のあとを追ってきた。そんな姿だった。その彼女は全ての不安や不幸から解放されたように、安堵感と愛情に満ちた表情で和ちゃんを抱きしめていた。
 ややあって、一通り和ちゃんを味わい尽くしたように、そして再び奪われることはないという安心感を込めてヘレンたちに向き直った。
 沈黙の後、チェルニーが断言した。
「和ちゃんを返して。あなたは、和ちゃんのお母さんじゃないわ」
「お黙り!」
 産女はそう叫んだ自分の声の大きさに、びくりと怯えて、腕に抱いた幼児を眺めた。和ちゃんを目覚めさせたのではないかと恐れたのである。チェルニーの言葉は、産女が和ちゃんに一番聞かれたくない言葉である。そして、どんなに願っても満たされない願いだという焦りもある。
「あなたたちに、わたしの苦しみが分かるの?」
 意識したのか無意識に溢れたものか分からない。様々に入り交じる感情と記憶が産女から流れ出して仲間を包んだ。
 生まれつき病弱で、枯れ果てたように亡くなった幼子
 死産。生まれたはずの赤子が産声も上げないまま冷たくなって行く感触
 戦に巻き込まれて亡くなったわが子を葬る無念さ
 飢饉で食べるものもなく、ぼんやりと眺める我が子の死体。
 火災の火に包まれた子供が逃げ遅れて母の名を叫ぶ悲痛な叫び
 帰ってこない子供を捜し求めて、事故で水死体になった我が子を見つけたときの驚き
 貧しさに子供を養えず、口減らしに自ら子供に手をかける恐怖
子供と引き離されて母親の数など、多すぎて数えることも出来まい。マリア達が感じた無数の光景や感情など、産女の一部に過ぎないだろう。
 仲間は、先ほどマリアが発した言葉を理解した。
「子供と生き別れになった哀しみが凝縮した……、妖怪」
 古来、子供たちと引き離され生き別れになった女たちの哀しみが、凝縮して生まれたに違いない。なんという悲しい存在だろう。仲間は言葉を失って沈黙が続いた。
 マリアたちを睨み付ける産女は、抱きしめる腕に力が入って、和ちゃんがかるくうめいたのに気付いてはいない。身もだえする産女の腕の中で、和ちゃんは寝とぼけるように薄目を開けてこの世界を受け入れようとしつつある。
 産女は再び叫んだ。
「この子は、絶対に手放さない」
 沈黙が続く。
 ヨゼフはふと変化に気付いた。
 産女が怪訝な表情を浮かべて言葉を途切れさせたのである。ヘレンたちは、幼児がすすり泣く声で、産女の表情のわけを知った。産女の腕の中の和ちゃんが、目覚め、すすり泣き始めたのである。
 悔恨の感情が、産女から発せられて広がった。
「聞かれてしまった」
 自分が母親ではない事を知られてしまった、この子の愛情を失うに違いない。そういう産女の思いである。
 更に、和ちゃんは産女に衝撃的な言葉を発した。
「ありがとう、でも、ごめんなさい、ごめんなさい……」
 和ちゃんの口から泣きじゃくりながら発せられたのは、感謝と謝罪の言葉である。
(何を謝っているのだろう)
 ジェスールたちは首を傾げて、和ちゃんの意図を様々に思い描いた。
 産女はおそるおそる腕の中の子供に尋ねた。
「知っていたのね?」
 和ちゃんはしゃくり上げるだけで答えないが、和ちゃんから伝わってくる記憶に心当たりがある。和ちゃんの傍らで添い寝をしていたときの記憶である。彼女が過去の悪夢に苛まれて、和ちゃんに揺り動かされて目覚めたとき、和ちゃんは自分の意識に触れ、全てを知ってしまったに違いない。
 知っていながら、自分を母親として慕っていた。慕っている演技だったのか。そんな疑問が産女の頭を駆けめぐったが、そんな思いを断ち切るように言った。
「全ての哀しみの記憶を消してあげる。もう一度、お眠りなさい」
 産女の首筋に回した和ちゃんの腕が力を失ってだらりと垂れた。瞼は閉じて眠りについている。しかし、安らかな寝顔である。
 産女はジェスールらに向き直って言った。
「この子だけは、絶対に手放さない」
 和ちゃんを抱く産女の腕にその意志が現れている。和ちゃんを抱く産女の腕に均整が取れていて美しい。


10

「この子に免じて、あなた達は見逃してあげる」
 産女は一方の方向を指差した。
「帰りなさい。手鏡をこの世界に投げ入れれば、この世界の入り口は閉じて、アパートの封印は開放されるわ」
 ヘレンは産女を見上げながら断言した。
「でも、守るって約束したの。和ちゃんを残して帰るわけにはいかない」
 マリアが産女の前面に立ちふさがるように言った。
「やっと、分かった」
 この場の雰囲気に似つかわしくない言葉に、仲間は戸惑い、産女は怒りの言葉を発した。
「何が分かったって? あなたたちに私の苦しみの何が分かるというの?」
 マリアは続けた。
「やっと分かったの。和ちゃんが、私たちに『助けて』って言ったこと」
「なんですって?」
「あれは、自分を助けてくれって言ったんじゃない。産女さんの苦しみを助けてあげてって言ってたのよ」
「この子が?!」
 自分の母親ではないと知りつつ、寄り添っていた理由はそれか。産女の疑問が解けた。
「この世界に来たときに、私たちを襲ってきた子供たちも同じ。一生懸命に、あなたを守ろうとしたのよ」
 ヘレンとジェスールは顔を向きあわせて納得した。あの子供たちがマリアとヨゼフを避けて襲ってきたのは、産女に敵対する意識を持たないものを避けて、産女に害意を持つ者を押し返そうとしていたのである。
 産女は反論する言葉もなく感情を発散させた。
「黙れっ、黙れっ、だまれぇぇ……」
 その感情の噴流は全てをなぎ倒すように激しい。ジェスールらはその勢いに耐えきれずにしゃがんだり伏せったりした。ただ、マリアだけが、やや眉をひそめて口元を結ぶのみで立ちつくしている。
「マリアぁ」
 チェルニーは伏せて勢いを避けろと合図をしたのだが、マリアは怯む様子もなく立ちつくした。正面から受け続けている産女の感情の噴流はマリアの長い髪が後方になびく程の勢いである。
「マリアが」
 ヘレンがマリアの異変に気付いた。
 マリアの外見を辿るようにぼんやり輝く新たな気配があり、まるで衣服が激しい風に引きちぎられ、剥ぎ取られ、吹き飛ばされるように、マリアの表面の姿は失われ、内側の別の姿が現れた。
 産女は、事情を察した。和ちゃんの心がぼやけて読み切れず、和ちゃんの周囲に見られた数々の異変もこの女の仕業だったのか。エレンとジェスールはこの新たな姿に記憶がある。管理人室の仏壇の写真で見かけた和ちゃんの母親である。和ちゃんに寄り添うようにいて、今は、マリアの体を借りて現れたに違いない。そんな母親の姿と、マリアの姿が揺らめくように交互に重なり合っていた。
「あなたは?」と、産女は尋ねた。
 マリアからの返答は無く、まるで聞かずとも分かるはずだというように微笑むばかりである。
「和ちゃんの、母親ね」
 産女にそう指摘された和ちゃんの母は、産女に語りかけた。
「私はあなたの一部であり、その子の母親でもあります」
「だから、どうしたというの?」
「その子を、解放してください」
「嫌よ。すでに私のもの。私の大事な和ちゃん」
「その子は、貴女を傷つけることを望んでいません」
「えっ、この子が、私を傷つけるとでも?」
「いいえ。でも、あなたは自ら傷ついている」
 和ちゃんの母親は、湖に目を移して言った。
「子供たちはみな、自分のせいであなたが傷つくことを望んではいません」
(子供たちは、みな?)
 ヘレンたちは顔を見合わせた。自分たちを襲撃してきた子供たちのことか、と気付いたのである。
「私が傷つくですって、違う。私があの子たちを沈めて離さないのよ。」
(沈めている……)
 ヘレンたちは湖を眺めた。そう言われれば、この湖で言いようのない哀しみを感じた。産女は再び感情を発散した。子供を失い、あるいは子供を残して命が途絶え嘆き悲しむ無数の女たちの記憶である。
「私の哀しみは未だ癒えない。私の心の空白は、まだ満たされない。きっと永遠に」
 産女の感情の発散と共に、再び尽きる気配もなく子供と引き離されれた女たちの無数の記憶が流れ出して仲間の周囲に溢れた。チェルニーは、産女が和ちゃんを欲する動機を察して叫んだ。
「だから……、だから、子供たちをさらって、孤独が満たされれずに子供の魂をこの湖に沈め続けたのね。和ちゃんの魂も沈めてしまうつもりなの?」
 和ちゃんが、いかに無垢な心を持っていようと、これほど濃く、これほど深い闇を満たすことは出来まい。失望した産女は和ちゃんの魂をこの湖に沈めて封印し、次の無垢な魂を求めて彷徨うのである。この湖に象徴される、この世界には、沈められてきた無数の子供たちが囚われているに違いない。
「あなたも、子供たちの声を聞くといい」
 ヘレンはそう言いった。無数の子供たちの恨みの声を聞けと言うのである。産女が応じて自嘲的に微笑んだ。
「ふんっ、子供たちの声など、私の満たされぬ哀しみにかき消されて聞こえるものか」
「いいえ、すでに子供たちの声が」
 マリアに姿を借りた和ちゃんの母親が湖に腕を伸ばした。腕の先からさざ波が広がった。
(私もあなたの一部)
 産女にそう言った和ちゃんの母親の意図が知れた。この湖の封印は一片の産女、和ちゃんの母親にも解除可能なのである。産女は悲鳴を発するように言った。
「止めてぇー」
「子供たちの本当の哀しみの声を聞きなさい」
 産女にそう言い放った和ちゃんの母親は湖に向き直り、閉じていた腕を広げて湖に向かって呼びかけた。その視線の先は静まりかえった湖の底にあり、子供たちに癒されるように優しい。
「さあ、みんな、出ておいでなさい」
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ」
 和ちゃんの母の呼びかけに、子どもたちを湖の景色で象徴される心の鎖の鍵が解かれた。それを知った産女が悲痛な叫びを上げたのである。
 この時のヘレンとチェルニーの心情を考えるなら、子供たちの魂を解き放とうとする和ちゃんの母親への期待ではなく、産女に共感する憐憫の意識だったに違いない。和ちゃんの母の行為が正しいと思いつつ、産女の心を思いやれば、無数の子供と引き離される女の、目を覆いたくなるほど悲しげな結末が予想される。
 産女の叫びが長く尾を引いて途絶えた。
 一瞬、湖は静寂に包まれた。辺りは暗く、手探りでなければ、仲間の存在が知れない。この世界が産女の心の中だとすれば、産女の絶望的な心情を映し出す景色に違いない。
  完全な静寂になった世界で、仲間たちはこの世界に踏み込むときに気付かなかった脈動が、ずっと変わらずに彼女たちを包み込んでいたことに気付いた。
(まるで、お母さんの子宮の中にいるよう)
 脈動は温かく優しい感情を伴って肌から伝わるように染み渡ってくるのだが、やがて、その脈動が独立するように小さな鼓動がいくつも響いて伝わってきた。
 手探りで仲間の存在を探っていたヨゼフは、手探りの指先に感じる感触ではなく、薄ぼんやりとした輝きに、仲間の輪郭が浮かび上がってきたのに気付いた。
(ああっ)
 ヘレンたちはその小さな鼓動が湖から開放される子供たちの魂、子供たちの心臓の鼓動だと気付いたのである。
 湖が淡い輝きを放っている。輝きは増し、仲間は色を取り戻した。ヘレンの金髪も、チェルニーの黒髪も闇から切り離されて浮かび上がり、風にそよぐようにたなびいた。柔らかい風がある。湖の底からわき上がるらしい。そして、まるで輝く泡がゆらゆらと漂いながら冷たく淀んだ湖の底から浮かび上がってきた。大きなもの、小さなもの、一つ、二つ、三つ、やがて湖全体を数え切れないほどの輝く泡が覆った。産女が底知れぬ孤独を癒し続けた魂である。彼女は間もなくこの無数の魂を失う。仲間はその悲しい予感を抱いて立ちつくした。
 しかし、何やら様子がおかしい。
 泡はぷかりと宙に浮いたかと思うと、まるで、戸惑い、恥じらう子供たちのように、ふわふわと宙を漂い、産女を囲んだ。
(何かの音が?)
 産女はそう思ったが、すぐにそよ風にそよぐ葉の音は意味を持ち始めて、産女を包んだ。
「ありがとう」
「ありがとう」
「お母さん、ありがとう」
「心配させて、ごめんなさい」
「生まれてきて、ほんとうに、よかった」
 無数の声は、母親を気遣い、いたわる、子供たちの声である。自身の孤独を癒すために子供たちを集め、それでも満たされない孤独を癒すために、子供を眠らせ湖に沈め続けた。そんな産女に、子供たちは愛してくれたお礼、孤独を癒しきれなかった謝罪を述べているのである。ちらりと背後に目をやると、和ちゃんの母親が僅かに肯いていた。
(子供たちの本当の哀しみの声。それは、これか、)
 耳を塞いでしまった産女に、自らの気持ちを伝えきれなかった子供たちの哀しみが、今ここで解き放たれて、子供たちは自分たちの感謝のメッセージを母親に伝える喜びに満ちているのである。輝く泡は時に幼児の姿を取り、時に微笑む少女の表情に変じ、時に柔らかな幼児の指先だけが産女の頬を撫でた。
 ただ、自分の感謝の思いを伝えることが出来た、その喜びと、率直な感謝の念が伝わってくる。
 やがて、光の子どもたちは名残惜しそうに、しかし、避けられない別れを決心したようにくるくると渦巻き、上昇を始めた。
 ヘレンたちは意外に感じた。最初に出会った子供たちと対照的ではないか。最初に出会った子供たちは、はっきりと見える姿だった反面、実態もなく消えてしまって、存在感を残さなかった。それは実態を持たない意識だけの存在だったからに違いない。今、現れた子供たちは淡い光で覆われて明確な姿はないものの、ヘレンたちにまとわりつくときに幼児らしい柔らかさと暖かさが伝わり、生きている幼児という存在感がある。
(えっ)
 ヘレンは何かに気付いて息をのんだ。柔らかな光の粒に包まれていたが、その中に二粒、自分の意志を持ってヘレンにまとわりつくものがある。光の粒は大きさを変えたり、形や光の柔らかさを変えながら、ヘレンに意志を伝えた。その意志の中に顔立ちを思い浮かべることが出来る。ヘレンの尻を棒で打ち据えた後、睨み付けられて涙目になった少女の印象。その少女がぺこりと頭を下げて詫びていた。もう一方の光の粒は、ヘレンの脛を蹴り上げて逃げ去った男の子の印象。こちらは上目遣いにヘレンを窺うようだが、もじもじと戸惑う様子にお詫びの言葉を探す様子が伺える。
(許してあげるわ)
 ヘレンは苦笑いをして「クソガキ」という感情を取り消した。やがて、輝く泡は消えてしまったが、この世界は柔らかな薄桃色の光を取り戻している。癒された産女の心象である。産女は戸惑うように腕に抱いた和ちゃんを眺め、和ちゃんに頬ずりをして子供の暖かさを味わい、最後に決断を下した。
「でも、あなたに出会えたこと。本当に幸せだった」
 そして、産女は和ちゃんの母親に向き直り、無言のまま和ちゃんの体を差し出した。二人の母親の腕が柔らかく温かく交差して、和ちゃんの体は和ちゃんの母親の腕から胸へ抱きしめられた。
(このまま時が止まればいいのに)
 仲間を包むそんな戸惑いと満足感。光景が静止し、仲間たちがそう感じる暖かさを伝えた。しかし、和ちゃんを手放した母親の姿が淡く揺らめく。
 女の後ろ姿が溶けるように揺らめいたかと思うと、柔らかな光に変じ、その光は一羽の鳥の輪郭を取った。白鷺のようでもあり白鳥のようでもあり、様々な鳥のイメージが重なっていて特定の鳥の名は判別しがたい。ただ、その純白に輝く姿は、子供たちに対する愛情からのみ構成されるように濁りを感じさせない。産女が鳥の姿を取るというのはこのことか。
 鳥は音もなく翼を広げ羽ばたいた。そして哀しみや孤独を流し去って身軽になった体を音もなく宙に羽ばたかせた。
 ヘレンたちは空を見上げた。輝く産女はヘレンたちの頭上を、名残惜しく旋回している。
(雨?)
 ヘレンたちに何かが温かく降り注ぐ。
(いえ、涙よ、きっと)
 チェルニーたちはそう信じて疑わない。産女が溢れさせた喜びと感謝の涙が降り注いでいるのである。
 一声、かん高く鳴いたかと思うと、産女は羽音もさせずに静かに飛び去って、その姿を闇に溶けこませるように消した。しかし、その声は癒しきれない哀しみを含んでいるようにも感じられた。


11

「和ちゃん」
 そう声をかけて和ちゃんの無事を確認しようとしたヘレンは、和ちゃんの母親の口から流れ出した呟きを聞いた。
「マリアさん、今しばらく」
 マリアにもう少し、我が子の息吹を感じる間、体を貸していてくれと言うのである。和ちゃんの母親は、胸に抱いた我が子を慈しむように眺め、頬ずりをした。マリアの体を借りた和ちゃんの母親が、生き別れになった息子の生命を感じ取っているに違いなかった。
「和ちゃん、目を覚まして!」
 目をつむったままの和ちゃんに、ヘレンは目覚めよと呼びかけたのである。和ちゃんはぐっすりと眠り込んだように意識がない。母親のぬくもりの記憶のない和ちゃんにとって最後のチャンスを逃してはならないと考えたのである。そんなヘレンを涙を浮かべたチェルニーが制した。
「ヘレン、止めて」
「どうして、止めるの?」
 しかし、チェルニーの涙に、ヘレンも察した。
 もし、この場で和ちゃんが目覚めればどうなるだろう、一瞬の母親のぬくもりの記憶の代償に、和ちゃんは避けられない悲痛な別れを経験しなくてはならないのである。
 成長した我が子を抱くゆりかごのようなマリアの腕が小刻みに震えてもいる。直後の避けられない別れを嘆く感情がにじみ出すのである。この悲しさが彼女の中に一片の産女を形作る。
 マリアは和ちゃんの母親と体と心を共有して、腕の中の和ちゃんの生命観をその重みと柔らかさと暖かさとして同時に感じ取っている。二人は想い出も共有した。
 幼かった我が子が大きく重くなった驚き
 和ちゃんの妊娠を知ったときのこと、
 和ちゃんがお腹の中にいるときに語りかけたこと
 看護婦さんから産着にくるまれた我が子を差し出されて抱いたときの感覚
子供を失った悲しさより、和ちゃんという子を身ごもったことに対する感謝の念、この子が人々にはぐくまれつつ生きているという幸せな暖かさを強く感じている。その点が、産女と、和ちゃんの母を隔てているようだ。しかし、和ちゃんの母親が母親でありつづけたのは、その直後に成長した我が子を手放してヘレンに託したことである。
 やがて、マリアの体を借りた和ちゃんの母親は、腕に抱いた和ちゃんをヘレンに託すように預けて、仲間を向き直った。ヘレン、アダム、ヨゼフ、ジェスール、チェルニー、ゆっくりと彼らの顔を眺めて礼儀正しく一礼した。
「みなさん、ありがとう」
 母親として、息子を慈しんでくれる人々に礼を言ったのである。彼女は軽く目を閉じると、マリアの体は糸が切れた操り人形のように地に崩れ落ちた。その体からまばゆい光が飛び出して、先に姿を消した産女の後を追うように消えた。
 地に崩れたマリアは涙に濡れた目を開けた。和ちゃんの母親と体と心を共有していて全てを知っていた。
「女って、母親って……」
 誰でも哀しみや孤独を背負っていかねばならないのか。チェルニーとエレンは肯いた。貧困、飢え、争い、事件、事故、この世界では様々な理由で母と子が引き離される。今は癒され飛び去った産女に背負わされる業である。産女が鳥に姿を変えて飛び去るときに、子供達に癒される喜びの涙と共に、悲痛に漏らした叫びは、これからも避けきれない哀しみをことを思って発したに違いない。ただ、母を思う子供たちに気付いたことが唯一の救いに違いない。
「私はあなたの一部です」
 和ちゃんの母は産女にそう言ったが、マリアもヘレンもチェルニーも母性という心の奥底で産女の欠片を抱えているのかも知れない。
「アパートに引き上げよう」
 母性の余韻に浸っていた女性たちを叩き起こすようにヨゼフの声が響いた。ヨゼフがうかがう周囲の景色を見れば淡くぼやけている。ここが産女の精神世界の中だとすれば、産女が姿を消した今、消滅してしまう世界である。
「オレが抱いて行こう」
 ジェスールはマリアから眠ったままの和ちゃんを受け取って走り始めた。方向は意味がない。とりあえず急いでここから遠ざかったところに、この世界の出入り口があるはずだ。
この世界でずいぶん彷徨ったつもりだった。しかし、僅かに駆け戻ると、ぽっかりと宙にういた穴に、瓢箪荘の部屋が見えた。懐かしい景色を見つけたマリアが、ふと思いついたように言った。
「あらっ」
「どうしたの?」
「私、お仕事に行くのを忘れてたわ」
 マリアにつられるようにヨゼフも言った。
「そういえば、ボクも学校に行くのを」
「こんな時に……」
 チェルニーはこの非常事態を自覚しないマリアとヨゼフの脳天気ぶりにあきれるように空を仰いだ。その空に靄がかかるように景色が薄れ始めていた。
「そんな事を言ってる暇は無いようだぞ」
 ジェスールが指さす先に、出入り口の穴が揺らめいて見えた。この世界の構築主の産女が去った以上、この世界がどうなるかわからないのである。
 彼らは慌てて穴に飛び込んだ。部屋の隅の鏡台と鏡台と向かい合わせに椅子の背にくくりつけた手鏡。もといた部屋に間違いがない。エレンは脛のホルダーのナイフを抜いて手鏡を固定する紐を切り離して手鏡を手にした。
「みんな居るわね?」
 ヘレンは部屋の中を眺めて、欠けているメンバーが居ないことを確認した。この手鏡を目の前に明いた穴にほおりこみさえすれば、この穴は永遠に閉じて仲間はあの世界から切り離される。
 ヘレンとチェルニーは、和ちゃんに視線を注ぐマリアに気付いた。和ちゃんの母親がマリアに乗り移っていたとき、彼女たちは和ちゃんを目覚めさせなかった。その行為が本当に正しかったのかどうか、今でも迷うのである。
「いいわ、入り口を閉じて」
 マリアの言葉に誘われるようにヘレンは手鏡を空間の穴に放り込んだ。産女の言葉通りなら、これでこの出入り口は閉じ、この瓢箪荘を包む結界も解除されるはずだ。
(何も起きないのか?)
と、疑問に感じる一瞬の間をおいて、仲間は顔を見合わせ、今回の事件のきっかけになった和ちゃんに視線を移した。
 先ほど、厳しい別れの運命ではなく、マリアに乗り移った和ちゃんの母が和ちゃんを抱く姿が優しく美しく、和ちゃんを包み込む雰囲気がした。
仲間の目の前で、和ちゃんの閉じた目から、ついっと一滴の涙が溢れて頬を伝った。その口元には笑みが浮かんでいるようで満足そうな感情が伝わってくるかのようである。たとえ一時にせよ、成長した和ちゃんは母親の記憶の一部に満たされたに違いない。
 直後、彼らは皆くらくらと立ち上がれないほどの目眩を感じ周囲の景色が揺らめいて見えなくなるような感覚の後、気を失った。
事実、彼らの周囲で景色と雰囲気が一緒になって渦巻いた。


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