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 確かに、産女は館の最も奥の部屋で、ヘレンたちが立てる慇懃無礼な物音を聞いていた。こじんまりとした部屋の中央にふわりと浮かぶものがある。柔らかな光に包まれた繭の内側、そんな表現が合う空間である。調度品と呼べるものは、和ちゃんがすやすやと眠る繭の寝床だけである。彼女はその傍らで、何かに腰掛けるような姿でぷかりと宙に浮いていたまま、和ちゃんの寝顔を飽きることなく眺めていた。
 彼女の服は中国の漢服のようにもみえ、さらに古い中国の神話時代に登場する女性の衣類にも見える。彼女がこの世界で目覚めてから、幾万里の距離と幾千年の時を移り住んだろう。その彼女の暖かさだけは変わらぬように、衣服のゆったりした袖が和ちゃんを温かく包むみ、大きな袖口からのぞく柔らかな腕で和ちゃんの髪を撫でていた。
 彼女は自分でもどうしてあの手鏡を残してきたのか分からない。持ってくることも出来たはずだが、なぜか残した。ここへ和ちゃんを連れ戻って、和ちゃんを愛でるように眺め、癒されるように優しく撫で回している。
 彼女は眠ったままの和ちゃんに語りかけた。
「あなた……、だけは」
 聞こえてくる物音からは、彼女の和ちゃんを奪い取ろうとする意識があり、彼女は憎しみに近い恐怖を感じている。
 彼女は立ち上がって、和ちゃんを部屋中央の寝床に残して、ヘレンたちの元に向かった。
 ふんわりした優しい雰囲気の部屋、御簾を開けるとそこに障子の扉に囲まれた和室。御簾を閉じるたとたん、壁に変わって奥の和ちゃんが眠る部屋は見えなくなった。
(3人か)
 産女は陽炎のように揺らめく雰囲気の中に人数を読み取った。ただ、この無礼な連中を中心に濃い霧が生じているようで、この連中の姿はぼやけ、先の見通しがきかない。香りのように拡散してくる霧に不快な感情を感じられるが、すでにその霧は避けようもなく産女を包んでいた。産女は3人の背後にいる別の3人には気付かないで居る。
 伝わってくるものは、憐憫、同情?
 そんなものはまっぴらだった。ただ、あの子に心を癒されていたい。あの3人は、自分とあの子を引き裂く存在だと言うことは間違いない。絶対に、排除せねばならない。嫉妬や哀しみや不安、産女の表情は移り変わりつつ、邪魔者に対する冷たい憎しみに目を光らせて姿を消した。


「いったい、どこに?」
 ヘレンが呟く対象が、果たして、化け物のことか、和ちゃんのことか、館の奥のことなのか、彼女自身が分からなくなってしまっている。彼女たちが進む廊下の両側に四方を襖に囲まれた部屋があり、どの部屋の広さや調度や襖のデザインま同じである。果てもなく前方に続くかと思われた廊下を避けて、廊下の両側にあった部屋の一つに入り込んだあげく、部屋から部屋への果てしない迷路に入り込んでしまったのである。
(次の部屋こそ)
 襖を開けて次の部屋に入る都度、いつの間にやら背後で襖が閉じてしまっている。振り返って開ければ、誰に邪魔されるでもなく、音もなく開く。しかし、目を離すとの間にやら閉じている。蹴り飛ばして開けて通った襖は、彼女たちが通ったとたん、何事もなかったかのように閉じた位置でそこにある。一部屋づつ緊張感を込めて突き進む部屋の中で、方向すら見誤ってしまいそうになる。
「方向を見失っているのか」
 ジェスールがそう呟いて、磁石を見た。この世界に入ってから方角が意味をなさない。それは、この館の中も同じだった。目に見える館自体、この不可思議な空間と切り離せないのではないか。とすれば、襖を1枚づつ押し広げて進むこと自体意味がない。
 ヨゼフもそれを察しているのかも知れない。次の襖を開ける手を止めて漂う気配をうかがうように周囲をうかがった。
「どうしたの、先へ進むわよ」
 ヘレンの言葉にヨゼフが直感を述べた。
「この先は、奧じゃないよ」
 意味もなく回転する磁石の針を仲間に見せてジェスールが言った。
「この館が外の世界と同じなら、目に見える方向をアテにしてもしょうがない。」
「どういうこと?」
「ヘレン。何か感じないか?」
「感じる方向に進んでいこう」
 ヘレンは納得した。この場合、男は役に立たないらしい。信頼できるものは、女である彼女の直感だけである。部屋の四方が襖で囲まれた単調な四角い部屋が続いていた。
 ヘレンは前方の襖を開けて気配をうかがい、そして、襖を閉じた。確かに、気配の濃度に差がある。そして、今居る部屋の方が気配が異様に濃い。
 左の部屋の襖を開けて気配をうかがい、部屋に入らないまま部屋の中央に戻った。左の部屋で感じる気配も、この部屋ほどではない。
 そして、右の部屋。そっと襖を開けて、じっくりと味わうように雰囲気をかぎ取ったが、首を横に振った。
 そして、仕上げに元来た部屋の襖を開けて、雰囲気をかぎ取ると首を傾げて、振り返って首を傾げた。
「何故? 今、この部屋の雰囲気が一番濃いわ」
 ヘレンの感覚で辿ってきたものが、この空間で一番濃いと言うことは。仲間の背にぞっとする恐怖が走った。
 目には見えないが化け物はこの部屋にいるかも知れないということである。いよいよ、化け物との対面が迫ったことを察して、ジェスールはザックからペットボトルに僅かに残った水を取り出した。
(あれか、)
 産女はそう思った。彼女の気にくわない雰囲気を発し続けているのはあの水らしい。あの水を中心に彼女の視界を奪うように景色がぼやけており、確かに瓢箪荘で彼女の呪縛を解いたのはアレである。既に、ペットボトルの水が発する意識がこの場を囲んでいて、産女は部屋の外の様子が見えなくなっていることに気付いていない。別働隊のマリア達は産女に気取られずにいるのである。
「化け物がこの部屋にいるのか」
「卑怯者。姿を現しなさいっ」
 そんなヘレンの怒りに呼応するように、突然に、うっと眉をひそめたヨゼフの様子がおかしい。ヨゼフは彼を心配して様子を覗うジェスールに手を伸ばしたかと思うと、ジェスールが手にしたペットボトルを払い落とした。
 ペットボトルは床を転がって襖にぶつかって止まった。
「何を」
 ヘレンが非難を込めてそう呟きかけたときに、彼女たちと部屋の隅のペットボトルを遮る位置、ヨゼフの背景を揺らめかせる陽炎が生じていた。ヘレンたちが気配と呼んでいたものが凝縮するように姿を表しかけているのである。ヨゼフを操ってペットボトルをはじき飛ばしたのはこの陽炎らしい。その異変の異様さではなく、異変から流れ出すように押し寄せる孤独にもがき苦しむイメージに、3人は身をすくめた。
 揺らめく影は言った。
「私の心に侵入してきて、好き勝手なことを」
「心に?」
 ヘレンは化け物の言葉に引っかかるものがあった。疑問だらけのこの世界の真理を探る手がかりのようにも思われた。
「私のじゃまをする者は許さない」
 その言葉と共に揺らめく影は女の姿を取り、10メートル四方だった空間が、野球場ほどに拡大し、化け物の姿も仲間を見下ろし圧するほどである。膨らんだ物は姿だけではない、元の姿に凝縮された苦しみが膨張して流れ出した。空間などこの化け物の思うままに変化するのである。
 

「手前の部屋はいい。一番奥から行こう」
 そう言ったアダムが全力で駆けることができる、長く幅の広いまっすぐな廊下である。
(これほど広ければ、)
 チェルニーはそう思った。人間の世界で言えば、これだけの大きな館なら、館の主人以外に大勢の家来や召使いが居ても良いはずだ。しかし、人の気配は絶えていて、この世界に存在する者が、自分たちだけのような孤独感に苛まれる。
「いったい、いつになったら和ちゃんの居る部屋にたどり着けるの?」
 向こうの廊下を歩んでいるはずのヘレンと同じ事を、こちらの廊下でチェルニーは思っただけではなく口にした。ドタバタと格闘する物音やヘレンやヨゼフの叫びが小さく響いてきている。彼らは予定通り、あの化け物を引きつけているはずだ。しかし、彼女たちは両側を部屋に囲まれた果てのない廊下を走り続けるのみで、未だ目的地にたどり着けない。しかし、幸いなことに、直感を行動規範とするマリアが居た。
「気配を遡りましょう」
 アダムとチェルニーはこの世界に入ってからのことを思い出した。方向が定まらない。気配を辿ってここまで導かれた。あの化け物の気配を辿ってきたと言っても良い。同じ事がこの館の中でも言えるだろう。ヘレンたちが化け物を引きつけている今は、あの化け物の気配から遠ざかるように進めば、そこは元の入り口か、彼女たちが目指す場所である。
「気配が薄れるのは、入り口か、館の奧か、一か八かね」
 マリアは腕に下げた籐製のバスケットからポーチを取り出した。数本の輝く針と糸が見える、裁縫道具である。彼女は右の部屋の襖に穴を開け、ボビンに巻き付けた糸の端を結びつけた。
「なるほど」
 どちらに進んでも、糸を辿れば元の場所に戻ってこれると言うことである。マリアは部屋の中央で気配を伺い、意外なことに、元居た部屋に戻った。その後、回ったり、迂回したり、戻ったり、彼女たちが描き出す目に見える軌跡には意味はない。しかし、気配を遡って進む先では着実に哀しみの意識が薄れ、別の意識が高まっている。言葉では説明しがたい。幼子が産着に包まれてすやすや眠っている。そんな柔らかなイメージを伴う意識である。
(一歩づつ、和ちゃんに近づいている)
 そんな確信が女たちにあった。しかし、いつのまにやら、彼女たちは行き止まりにいた。正面と左右は清楚な白壁で、出入りできるのは、今、入ってきた襖の面だけ。
「行き止まりなの?」
 チェルニーがそう言った。いままで左右に迂回するルートなどいくらでもあった。しかし、この部屋は見た目は正真正銘の行き止まり。幼子の気配に、流れる様子が無く、部屋の中に充満しているようで、確かに館の一番奥の部屋だという感じがする。
「あとは……」
 マリアが正面の壁に手を触れた。正面に見えていたもの揺らめいたかと思うと、御簾に形を変えた。壁なのか御簾なのか考えることは意味がない世界である。ただ、その奧に幼児の姿がかいま見える。
「和ちゃん」
 3人の言葉が同時に響いて、3人は和ちゃんの寝床に駆け寄った。
「和ちゃん、無事かい」
 そう呼びかけて揺り起こそうとするアダムに、幼児は答える様子がない。まるで、今まで親鳥に抱かれていた雛のように、和ちゃんの体温は温かく大切に保護されれており、鳥の柔らかな羽毛に覆われていたように、触れるものは瑞々しく柔らかい幼児の素肌である。チェルニーが耳の下に当てた指先に、和ちゃんの鼓動が伝わってくる。呼吸は規則正しく、ぐっすりと眠り込んでいる幼児の姿である。
「大丈夫。生きてるわ」
 チェルニーは自信を持って断言した。
「和ちゃん」
 再び、和ちゃんを揺り動かして目覚めようとするアダムを、マリアの手が制した。
マリアは体温や柔らかさなどの生命感を感じ取るように、頬に和ちゃんの手を当てた。和ちゃんを保護すると言うより、子供によって癒される母親の姿に似ている。
「あの化け物の魔術か何かで、眠ったままなのかもしれない」
「産女よ」
 マリアは、化け物ではなく「産女」という名の存在だというのである。
「うぶめでも何でも良いわ。とりあえず、和ちゃんを連れて逃げましょう」
「僕が抱いて逃げよう」
 アダムが和ちゃんを抱き上げようと、腕を和ちゃんの体の下に差し入れた。意識を失っていてずしりと重い。指先から伝わる暖かさで、その重さが和ちゃんの生命感のようにも思われた。
「この笛を吹けばいいのね」
 チェルニーはジェスールから預かった笛を口にした。
「ちょっと早すぎる」
 アダムが注意する間もなく、チェルニーは逃げ出す合図の笛を吹いた。
 アダムの指摘通り、ちょっと早すぎるだろう。館の外に逃げ出してから吹くはずだった笛の音である。
 ピィーーーーーー
 笛の音が館に響き渡った。
「逃げるぞ。走れ」
 アダムは和ちゃんの柔らかな体を寝床から引き出した。一瞬、自分の手で胎児を堕胎するかのような罪悪感に苛まれた。罪悪感に耐えつつ、彼らは糸をたどって走り続けた。


  ジェスールはヨゼフとヘレンに目配せをした。ヘレンは察して肯いた。ヨゼフの視線はペットボトルに固定されていてチャンスがあれば飛びつくだろう。何やら突然に膨張した空間の中で、ヨゼフからペットボトルまでの距離が直線で20メートルばかり、彼の脚力ならペットボトルを手にするまで3秒と言うところか。ヘレンの見るところ、ヘレンの位置とペットボトルを結ぶ線上には化け物が居り、化け物を避けてターゲットに向かえば化け物の注意は彼女に向く。
「GO!」
 ヘレンは自分自身に号令をかけた。ヘレンは重心を低く抑え、化け物を中心に左側から円弧を描いて駆けた。この間、ヘレンの視線はペットボトルの水にあり、化け物はその視線を追ってヘレンの意図を察して、ヘレンを阻もうと腕を伸ばした。不安や憎しみや嫉妬の感情で、女の体は膨張し続けてヘレンの数倍の身長になり、その体にすら収まりきらない恐怖や憎しみや焦りの感情があふれ出して、ヘレンたちに伝わった。化け物は巨大な体、長い腕を伸ばした。むろん、ヘレンはそのリーチを察して、手の届かない範囲を駆け抜けている。
(えっ?)
 ヘレンをぎょっとさせたのは、その腕と指が人間の形を崩して伸びて、駆けるヘレンの前方を塞いだからである。ヘレンはその指に捉えられるのを避けて、受け身を取るように斜めに跳ねて床に転がった。
 化け物がヘレンの誘いに乗っている。その瞬間、ジェスールが床を蹴って突進した。ヘレンから目を移す間もなく、ジェスールのタックルは効を奏して化け物の両足を捉えて放さない。
(ちぃぃぃぃぃ)
 化け物の苛立ちが舌打ちと共に伝わってきて、ジェスールは巨大な力が自分を掴んで持ち上げようとしているに気付いた。ヘレンが背負ったクイーバーから矢を抜き取って、化け物めがけて放った。慣れた手つきで十数秒の内に七本の矢を射たが、いずれの矢も化け物に届く手前で動きを止めて、ぽとりと床に落ちた。タックルしたはずのジェスールの体は巨大な手で捕まれて、逆に動きを失った。ヘレンとジェスールの攻撃は効を奏していない。
 しかし、化け物がペットボトルに入った水を狙い、水を取り戻そうとするヘレンたちを妨害することで得られた確信がある。ペットボトルの中身が化け物にとって都合が悪いと言うことである。
 ヨゼフは化け物が二人に集中している隙を読んで、化け物の背後に転がっていたペットボトルに突進した。ヨゼフが図ったタイミングは絶妙で、化け物の背をかいくぐってペットボトルを握りしめ、高く掲げてヘレンとジェスールに成果を伝えた。
 化け物はその姿に気付いてヨゼフに鋭い視線を向けた。ヨゼフの全身は麻痺したように動かない。強い力で押さえられたというのではない、全身から力と気力が奪われた感じである。彼らはなすすべを失った。
 ヘレン、ジェスール、ヨゼフ。3人に絶望感が漂い始めた瞬間、別の部屋でチェルニーが吹いた笛の音が響き渡たり、その甲高い音色に化け物の悲鳴が重なった。
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ」
 化け物は雷に全身を貫かれたかのように体を反らした。振り返った化け物は、起きたことを察して悲しげな悲鳴を上げたのである。振り返った方向で起きていること、その方向に和ちゃんが居たのだろう。この化け物は別働隊が和ちゃんを救い出したのに気付いたのである。しかし、ジェスールらの計算にも狂いが生じている。化け物が振り向いたその方向から脱出の合図の笛が聞こえたのである。別働隊が脱出し、化け物の手を逃れてから聞くはずの合図である。化け物の視線の先から聞こえるというのは何かの手違いがあったに違いなく、化け物を視線の先に行かせるわけには行かない。
(あいつらが逃げ出すまで5分か、)
 自分たちが目一杯時間を稼いでもそれが限界だろう。この時、化け物の注意が逸れたのか、凍り付いていたヨゼフは、自分の体が幾分自由を取り戻しているのに気付いた。
「ヘレン」
 ヨゼフは名を呼んでペットボトルを投げた。ヘレンはヨゼフが投げてよこしたペットボトルを左手に受けた。彼女はペットボトルの蓋を開けて、水を口に含んだ。彼女は背負ったクイーバーに残った3本の矢を取り出し、その矢の先に口に含んだ水の一部を吹きかけ、残りをグリップを握りしめた拳と弓に吹き付けた。
 2本の矢は弓のグリップと共に握り、最初の矢をつがえて弦を力一杯引き絞った。
「お願い……」
 彼女がそう祈ったのは、水を吹き付けた弓と矢が、あの化け物に効き目を発して欲しいという思いである。最初の矢は見事に化け物の着物の左袖に命中して縫い止めるように柱に突き刺さった。
(しめた)
 ヘレンがそう思ったのは、最初の矢が縫い止めた袖を、化け物が引き抜くことができない様子だからである。足止めの効果はある。
 彼女は続け様に、残りの2本を射た。右袖に1本、裾に1本、見事に化け物を傷つけずに行動を封じて、化け物の体を柱と襖に縫いつけた。何故か、彼女は無意識に化け物を傷つけることを恐れて、体を避けて矢を射ていた。
「よくやった」
「だめだわ」
 ヘレンがそう言ったのは、子供を奪われて身悶えする化け物の動きが激しく、縫い止めた袖が破れかけていることに気付いたからである。あの袖口や裾が破れ落ちて、縫い止めた矢に効果が無くなってしまえば、あの化け物は再び彼女たちを襲い、その時にはヘレンたちには抗うすべがない。
「逃げよう」
「どっちへ?」
「あの化け物から離れればいい」
 ジェスールの言葉にヨゼフとヘレンは肯いた。この世界の摂理の一部を理解し始めている。どちらの方向にという情報は不要であるらしい、ターゲットに近づくか、遠ざかるかそのどちらかの選択肢しかない。
 ヘレンは走りながら歯を食いしばったが、流れ出る涙を抑えることができない。ヘレンの矢によって自由を奪われた化け物が、もがきつつ発する叫びのせいである。叫びと同時に伝わってくる感情は怒りや憎しみではない。哀しみや後悔や孤独、幾つもの感情が入り交じって入れ替わるが、一言で表現するなら、愛する我が子を失った母親の情念である。
 彼らが入り口を出たとたん、巨大な館はこじんまりとした和風の一軒家に戻った。ヘレンたちは、そこで先に脱出したマリアたちを見つけた。
「私たちは、なんと言うことを」
 胸をかきむしられる思いでチェルニーが言った。肺腑をえぐられるほどの悲痛な叫びが館の中から響いてくる。子供を奪われた母の叫びである。一人や二人ではない、数十人、数百人、その数百倍の哀しみや後悔が凝縮されている。その叫びを浴びていると、決して侵してはいけないことに手を染めた罪悪感に囚われる。
 ジェスールは和ちゃんを抱いて息を切らせているアダムから和ちゃんを受け取って走った。アダムとヨゼフは、しゃがみ込む女性たちを支えながら走った。目的地はない。とりあえずここから遠ざからねばならない。
 耳を刺す悲鳴ではなく、押し寄せる悲しみや孤独感が彼らに追いつき包みこみ、駆ける体や足にすがりついて行く手を留めようとしていた。

 和ちゃんを抱きながら駆けるジェスールの体力が尽きた場所が、休息の場だった。澄み切った湖の畔、マリアたち女性が異変を感じた場所である。アダムが息を整えながら言い、ヨゼフが意見を吐いた。
「和ちゃんは救出した。次はどうする?」
「まずは和ちゃんを安全な場所に。和ちゃんが目覚めれば何か聞き出せるかも知れない」
 ジェスールは太い腕の中の和ちゃんを眺めたが、目覚める様子はなく、傍らのマリアに尋ねた。
「他に、分かったことは?」
「産女だわ、あの人」
「うぶめ?」
「子供と生き別れになった哀しみが凝縮した、哀しい妖怪」
 何故、マリアがその妖怪の名を口にしたのか分からない。その名を断定する理由も分からないが、仲間には異論を唱える思考力も体力も残っていない。
「彼女を産女だとしよう。他に何か」
「彼女、ここが心の中だって言ってなかった?」
(私の心に侵入してきて好き勝手なことを)
 確かに彼女はそう言った。とすれば、ここは産女の心の中の心象世界か。とすれば、全ては産女の思いのままになる世界……。頼みの綱だった富士山の湧き水を切らした以上、彼らに勝ち目はあるまい。
 ここまで来て疲れきってしまっているが、鏡の入り口からこの湖までたどり着くまでの時間の長さを考慮すれば、まだ先が長い。逃げ切ることは難しいかもしないという絶望的な雰囲気が漂っていた。
 ヘレンは荒い呼吸をする仲間を励まして言った。
「大丈夫? 呼吸を整えたら直ぐに出発しましょう」
 ヘレンの視線は既に湖を背にして、これから歩む先にある。ヘレンの言葉にも関わらず答える者が無く、荒い息づかいが聞こえるのみである。
 沈黙が続いた。
 なすことなく苛立ったヘレンは振り返ったが、その表情が和らいだ。和ちゃんはチェルニーに見つけられたときと変わらない表情でいる。
「かして、」
 彼女は傍らに弓を置き、ジェスールに手を伸ばして和ちゃんを受け取ろうとした。ヘレンの声が、落ちつきを見せていて、矢を放った戦闘の荒々しさを消している。ジェスールから和ちゃんを受け取る指先が、しなやかに和ちゃんの肌に沈み込んだ。和ちゃんの生命感がずしりと重みを持って感じられ、和ちゃんの鼓動が伝わってヘレンの鼓動が共鳴するようにも感じられる。
(どうして?)
 子供はこんなに人を癒す事が出来るんだろう。それとも、自分の中の母性のせいか。頬を重ね合わせてみると柔らかく温かい。癒してあげるわけではなく、こちらが癒される。チェルニーやマリアも、傍らでエレンを見ながらそれを実感した。
 腕の中の和ちゃんを眺めていたヘレンは、突然に違和感を感じた。和ちゃんの表情の中に、別の子供の顔が重なったような気がしたのである。じっと眺めてみると、たしかに別の顔が浮かんで消えた。女の子の顔であったり、男の子の顔であったり、無邪気に笑っているのやら、つんとおすまししたのやら、無数の子供たちが和ちゃんと重なって入れ替わる。
 マリアには、ヘレンが和ちゃんを抱く腕に力を込めたように見えた。ヘレンの腕の筋肉が張り、和ちゃんの体に重みを感じさせる。更に、ヘレンが地を踏みしめるように、股やふくらはぎの筋肉に目に見えて緊張感が走った。事実、ヘレンは腕と足に力を込めている。突然に、和ちゃんがずしりと重くなった。幾つもの子供たちの生命感が加わって何人もの子供たちがヘレンに抱かれているようでもあり、更に、子供たちがヘレンの腕から肩や腰にすがりついてくるイメージが浮かぶ。
 ヘレンはその命の重さに耐えきれず、がくんと膝を屈して地面に右膝をつけたが、和ちゃんをしっかり抱いたまま手放すことはなかった。
「くっ」
 ヘレンの緊張感はピークに達して、食いしばった歯の間からうめく声が聞こえた。ようやく異常を察知した仲間たちがヘレンに駆け寄った。ただ、ヘレンには仲間の姿は眼中にない。ヘレンが上半身で覆い隠すように、必死で和ちゃんを抱きしめているのは、母犬が子犬を守る姿に似ている。
「誰かが、和ちゃんを」
 ヘレンは、彼女から和ちゃんを引き離そうしている者が居るというのである。必死で抗うのだが力が入りすぎれば、幼い和ちゃんの体を傷つけそうになる。トレーニングを積んでいるとはいえ、ヘレンも女性としての柔らかな体のラインを持っている。そんな彼女の爪の色が変わり、手の甲に腱が浮き上がる程の力に抗して、エレンが和ちゃんを抱く指が一本ずつ引きはがされ、右手が引きはがされ、和ちゃんに密着していた二の腕が引きはがされ、ヘレンは目に見えない力で、和ちゃんの体から引きはがされて、突き飛ばされるように尻餅をついて転がった。和ちゃん手足をたらりと垂らして宙にぷかりと浮いた。異様な光景である。
 この場を支配していた緊張感が融ける気配で、仲間たちは知らぬうちに、自分たちの心を圧する緊張感の中にいたことを知った。もちろん仲間の緊張ではない。和ちゃんを取り戻すために細心の注意を払っていた産女の緊張感である。緊張の解けた理由は目の前の光景で分かった。ぷかりと宙に浮かんだ和ちゃんの体は、地表数メートルの高さに上昇し、もはや仲間の手に届かない。和ちゃんの体の向こうに、ぼんやりと影が揺らめき、姿を見せた。右袖は引き裂かれ、左の袖は肩の辺りで破れて失われている。エレンの矢に縫いつけられて、必死で暴れて破れた着物の裾もぼろぼろで、両足が膝の辺りまで露出している。和ちゃんを抱く胸元は乱れて乳房が露出しているが、体裁を気遣う風はなく、愛するわが子を奪われた母が必死で子供のあとを追ってきた。そんな姿だった。その彼女は全ての不安や不幸から解放されたように、安堵感と愛情に満ちた表情で和ちゃんを抱きしめていた。
 ややあって、一通り和ちゃんを味わい尽くしたように、そして再び奪われることはないという安心感を込めてヘレンたちに向き直った。
 沈黙の後、チェルニーが断言した。
「和ちゃんを返して。あなたは、和ちゃんのお母さんじゃないわ」
「お黙り!」
 産女はそう叫んだ自分の声の大きさに、びくりと怯えて、腕に抱いた幼児を眺めた。和ちゃんを目覚めさせたのではないかと恐れたのである。チェルニーの言葉は、産女が和ちゃんに一番聞かれたくない言葉である。そして、どんなに願っても満たされない願いだという焦りもある。
「あなたたちに、わたしの苦しみが分かるの?」
 意識したのか無意識に溢れたものか分からない。様々に入り交じる感情と記憶が産女から流れ出して仲間を包んだ。
 生まれつき病弱で、枯れ果てたように亡くなった幼子
 死産。生まれたはずの赤子が産声も上げないまま冷たくなって行く感触
 戦に巻き込まれて亡くなったわが子を葬る無念さ
 飢饉で食べるものもなく、ぼんやりと眺める我が子の死体。
 火災の火に包まれた子供が逃げ遅れて母の名を叫ぶ悲痛な叫び
 帰ってこない子供を捜し求めて、事故で水死体になった我が子を見つけたときの驚き
 貧しさに子供を養えず、口減らしに自ら子供に手をかける恐怖
子供と引き離されて母親の数など、多すぎて数えることも出来まい。マリア達が感じた無数の光景や感情など、産女の一部に過ぎないだろう。
 仲間は、先ほどマリアが発した言葉を理解した。
「子供と生き別れになった哀しみが凝縮した……、妖怪」
 古来、子供たちと引き離され生き別れになった女たちの哀しみが、凝縮して生まれたに違いない。なんという悲しい存在だろう。仲間は言葉を失って沈黙が続いた。
 マリアたちを睨み付ける産女は、抱きしめる腕に力が入って、和ちゃんがかるくうめいたのに気付いてはいない。身もだえする産女の腕の中で、和ちゃんは寝とぼけるように薄目を開けてこの世界を受け入れようとしつつある。
 産女は再び叫んだ。
「この子は、絶対に手放さない」
 沈黙が続く。
 ヨゼフはふと変化に気付いた。
 産女が怪訝な表情を浮かべて言葉を途切れさせたのである。ヘレンたちは、幼児がすすり泣く声で、産女の表情のわけを知った。産女の腕の中の和ちゃんが、目覚め、すすり泣き始めたのである。
 悔恨の感情が、産女から発せられて広がった。
「聞かれてしまった」
 自分が母親ではない事を知られてしまった、この子の愛情を失うに違いない。そういう産女の思いである。
 更に、和ちゃんは産女に衝撃的な言葉を発した。
「ありがとう、でも、ごめんなさい、ごめんなさい……」
 和ちゃんの口から泣きじゃくりながら発せられたのは、感謝と謝罪の言葉である。
(何を謝っているのだろう)
 ジェスールたちは首を傾げて、和ちゃんの意図を様々に思い描いた。
 産女はおそるおそる腕の中の子供に尋ねた。
「知っていたのね?」
 和ちゃんはしゃくり上げるだけで答えないが、和ちゃんから伝わってくる記憶に心当たりがある。和ちゃんの傍らで添い寝をしていたときの記憶である。彼女が過去の悪夢に苛まれて、和ちゃんに揺り動かされて目覚めたとき、和ちゃんは自分の意識に触れ、全てを知ってしまったに違いない。
 知っていながら、自分を母親として慕っていた。慕っている演技だったのか。そんな疑問が産女の頭を駆けめぐったが、そんな思いを断ち切るように言った。
「全ての哀しみの記憶を消してあげる。もう一度、お眠りなさい」
 産女の首筋に回した和ちゃんの腕が力を失ってだらりと垂れた。瞼は閉じて眠りについている。しかし、安らかな寝顔である。
 産女はジェスールらに向き直って言った。
「この子だけは、絶対に手放さない」
 和ちゃんを抱く産女の腕にその意志が現れている。和ちゃんを抱く産女の腕に均整が取れていて美しい。



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