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 マリアたちがヘレンに追いついたとき、彼女は腕時計を確認していた。いや、時計はアテにならない世界だが、彼女の感覚では10分が経過している。振り返って、息を切らせながら追いついてくるマリアたちの体力のなさに、やや非難の視線を送り、仲間が息を整える間を利用して周囲を窺った。
 この家の周囲の草だけが綺麗に刈られて土の地面が露出しており、家の周囲は僅か20メートルばかりだろうか、しかし、小さいというイメージが浮かばない。親子が小さな生活を営むには充分だという満足感さえ伝わってくるようである。
 壁面から5メートルほどの距離を置いて腰の高さほどのクチナシの生け垣で周囲を囲まれている。しゃがみ込んだヘレンを酔わせるように甘い香りが鼻をくすぐった。
「これだったのね」
 ヘレンは目の前の白い花の甘く強い香りに、以前、女に感じた違和感のある甘い香りを思い出したのである。ヘレンは彼女を追ってきた仲間に手で合図をして姿勢を低くさせた。しゃがんで姿勢を低くしてみると、生け垣の荒い枝ぶりを通して一軒家が見える。
 広大な草原の中の一軒家という雰囲気だが、目に見えるものは、なんという異様で荒っぽい光景だろう。この先は不要だと言わんばかりに、一軒家の背後の風景がぼやけて居るのみで存在しない。ここがこの世界のもっとも奥深い場所に違いない。
「どうする?」
 アダムの問いにヘレンが即答した。
「突入よ。一気に蹴散らすわよ」
 周囲の仲間を窺って、チェルニーが仲間の意見を代弁し、ヘレンを諭すように言った。
「もう一度、冷静に、目的を整理しましょうよ」
「ここに来たのは、」
 そう言いかけるアダムを制して、ヘレンが言った。
「あの化け物をぶちのめす為よ」
 既に、ヘレンは旅の目的を見失っている。アダムは言い聞かせるように言った。
「まず、和ちゃんを無事に救出すること。それから、瓢箪荘にかけられた結界を解くこと。大事なのはこの二つだ」
「あの家、化け物の臭いがぷんぷんするわ。あと、たった10メートルほどの距離に和ちゃんが居るのよ」
 ヘレンは地を蹴った。生け垣を飛び越そうとしたのだが、手前の地面に尻餅をついて、汚れた腰を撫でた。チェルニーがヘレンの動きを指先で辿るように動かして見た。ヘレンが跳ね返された部分に感触がある。ノックをしてみたが、透明な壁は柔らかく拳を跳ね返して、音がしない。ジェスールはその光景を評した。
「生け垣に沿って目に見えない壁があるって事か」
「正面から来いって事ね。上等だわ」
 ヘレンは一軒家の玄関の正面にある門に向かった。門という表現は大げさかもしれない。館を取り囲む生け垣の一角には、いかにも日本家屋らしい華奢な扉がついていた。扉はヘレンの力を受け入れて、音もなく開いた。まるで、この家が彼女たちの訪問を誘い入れるかのようで、ぞくりと恐怖がわく。
 生け垣を抜けると、目の前に小さな館に似合った扉がある。アダムがそっと扉の外から館の中の雰囲気を窺って、首を横に振った。外観は小屋といっても小さな家屋で、中にいる者の気配を感じ取ることもできそうだが化け物どころか何の気配も感じられないのである。
「化け物はどこかに出かけいるんだろうか?」
 男たちが計画を練り始めた。慎重なアダムが提案し、ヨゼフが状況を述べた。
「ちょっと作戦を練ろう」
「見たところ、窓が無い。出入りできるのはここだけだ」
 ジェスールが今後の仲間の行動指針を提示した。
「そっと忍び込んで和ちゃんが居れば奪いかえす。同時に結界の秘密が探り出せればベストだね」
(ちっ)
 ヘレンが男たちの慎重さに舌打ちで不満を漏らして呟いた。
「こんな小さな家に秘密なんて」
 チェルニーが危険性を論じた。
「秘密を探すより先に、帰ってきた化け物に出会う可能性が高いわね」
 チェルニーの言葉に、ジェスールが応じた。
「化け物に出会えば、ペットボトルの中の聖水を使う」
 ヘレンを除く仲間はそろって肯いた。ターゲットはこの小さな館の奧にあり、じたばたとあがいたところで事態が好転する気配はない。あとは、行動に移るしか無かろう。
「静かに、静かに行動しよう」
 アダムがそう言い、男たちは肯いた。
「あのっ……」
 マリアが言いにくそうに扉を指差した。その指差す光景に、ヘレンを除く仲間は唖然とした。
「あの海兵隊女が」
 不用心さを非難するチェルニーの言葉の通り、ヘレンは、とっくに行動を起こして扉の前にいて、片足を上げている。その意図は理解できる。彼女は扉を蹴り飛ばして開けて、一気に突入し、弓とナイフで決着を付けるつもりである。この家屋の大きさから見れば、ドアを蹴破って飛び込めば、奧まで10メートル足らずではないか。
 ところが、ヘレンの姿は、蹴り飛ばしたはずの扉に、はじき飛ばされるように見えた。事実、蹴り飛ばした反動を受けたヘレンは、その衝撃を地面を転がって和らげた。
(ここにまで結界が)
 ヘレンは開かない扉にそう思ったが、地面に転がってしまったヘレンの傍らで、マリアが首を振ってみせた。マリアは扉をスライドさせて、これは誰が見ても引き戸だと教えた。蝶番を支点に開くドアではなく、引き戸なので前方に蹴飛ばしても開かないのである。マリアの手で館のドアするすると音もなくスライドし、彼らの前に開け放たれて、仲間を受け入れた。
 仲間は、その空間の大きさに唖然とした。
 引き戸は長身のヨゼフが頭をぶつけそうになるほどこじんまりした大きさである。しかし、そこをくぐって中に入ってみると、真新しい白塗りの壁が、幅20メートルばかり広がって、仲間の行く手を遮っている。その手前に静かな湖畔の景色が描かれた一双の屏風があり、正面の壁面から左右に目を転じると、壁の両端から奥に向かって廊下が伸びているという構造らしい。
 小屋の外から窺った時に化け物の気配がせず、不在だと考えた判断を修正せざるを得ない。これほど大きな空間なら奥にいても不思議ではない。しかし、耳をすませても、しんっと静まりかえって何の気配も感じない。
「何をしてるの?」
 チェルニーがマリアに声をかけた。マリアが屋内にはいるのに靴を脱ごうとしているのである。日本家屋では当然の礼儀だが、この場合はふさわしくない。
「あなた、帰りにここで悠長に靴を履いてから逃げるつもりなの?」
 ヘレンは土足の足を踏み出して、どんっと床を踏みならした。マリアはその礼儀を忘れた行為に眉をひそめたが、この場合はヘレンの方が正しい。
 無人の家屋なら、床には埃が積もり、天井はすすけて蜘蛛の巣の1つもあるだろう、白壁の色も黄ばんでいるに違いない。この屋内の清浄さは、確かに何かの存在を裏付けているようである。清らかで純粋なものの中に、土足で踏み込んでゆくという行為が、自分たちが行おうとしている行為の象徴のようで、罪悪感を秘めている。そんな罪悪感を振り払うようにチェルニーはヘレンといくつかの言葉を交わした。
「和ちゃんは、どこにいるのかしら」
「とっ捕まえた捕虜は、地下牢に閉じこめるって決まってるのよ」
「地下室を探せばいいの?」
「でも、古に地下に封じられた、魔王を復活させるための生け贄なら、奧の祭壇だわ」
「臓器売買なら、奧に手術室があるんじゃないかしら」
 彼女たちの想像力の豊かさに、男たちはため息をついた。最も現実的な表情をしていたのがマリアである。ジェスールはマリアに意見を求めた。
「マリアの意見は?」
 マリアにはあの女性がアパートで和ちゃんの横で添い寝をしていたイメージが浮かんだ。
「もし、私があの人なら、和ちゃんは一番奥の部屋で大切に保護しておくわ」
「オレも賛成だね」
「奥へ進もう」
「どちらの廊下を行くの?」
 チェルニーが指差す先は、右の廊下も、左の廊下も、平行にそろって館の奧に向かっている。どちらの廊下もその奥がぼやけて見えないが、どうやらこの館は左右対称という構造らしく、ヨゼフは自分の判断を述べた。
「どちらを進んでも違いはないね」
 とりあえず、仲間の位置に近い左の廊下を進もうとしたヨゼフを制してヘレンが言った。
「待って。左右二手に分かれましょう」
 首を傾げる仲間にヘレンは提案を続けた。
「私とジェスール、ヨゼフは右の廊下。派手に行くわよ。残りの3人は5分後、私たちが化け物を引きつけているあいだに、左の廊下から奥に突入して」
「その後は?」
「私たちが化け物をぶちのめすから……」
 ヘレンのその言葉をジェスールが制した。客観的に考えて、ぶちのめせるかどうかは判然としない。倒せない場合を考えて計画を練っておかねばならないだろう。ジェスールは襟をゆるめて、首にかけていたステンレスのチェーンを引っ張って、手に収まるぐらいの大きさの銀色の棒を取り出した。山歩きで万が一負傷して動けなくなったときに救出を求めるための笛である。よく響き、その音は地形に関わらず遠くまで届く。彼はその笛をチェルニーに渡して言った。
「目的は絞り込もう、まずは瓢箪荘の結界を解くより、和ちゃんの救出だ」
「そうね。人質を取られていては分が悪いわ」
「和ちゃんを救出したら、全力で逃げて館を脱出してから、このホイッスルを吹いてくれ。笛の音を合図に僕らも脱出する」
「それで行こう」
「時間を確認して、5分後よ。ここでゆっくりと300まで数を数えればいい」
「じゃあ、お先に」
 ヘレンたち3人は右の廊下に消え、マリアとチェルニー、アダムの3人が屏風の陰に取り残された。  
「うぶめ、産女」
 マリアは妖怪の名を頭にささやかれるかのように思い出した。アパートに残してきた書籍で、その妖怪の名に記憶がある。子供を生まないまま亡くなった妊婦が妖怪に変じたものという他、他人の子供を奪う妖鳥、産褥の血にまみれた姿で他人に子供を抱かせるとも言われる。しかし、産女という幹から様々に枝分かれをして葉を広げる情報や姿に、何か欠けているものがあるような気がしてならない。
 この世界に来る前にチェルニーが言ったこと。
「そう、動機よ。犯罪者には何か動機が必要だわ」
 この言葉が何かマリアの心に引っかかる。
「助けて……」
 和ちゃんの言葉が思い起こされて、マリアの心の中で産女のイメージにまとわりついた。アダムが考え込むマリアの肩をぽんっと叩いて、300数え終わったことを知らせた。時計は当てにならないが、ヘレンたちが右の通路を先行してから5分が経過しているはずである。事実、右の廊下の先からは、襖を勢いよく開ける音、障子を蹴破る音が派手に響いていて、館の奥にいるはずの化け物にまで届いているだろう。


 確かに、産女は館の最も奥の部屋で、ヘレンたちが立てる慇懃無礼な物音を聞いていた。こじんまりとした部屋の中央にふわりと浮かぶものがある。柔らかな光に包まれた繭の内側、そんな表現が合う空間である。調度品と呼べるものは、和ちゃんがすやすやと眠る繭の寝床だけである。彼女はその傍らで、何かに腰掛けるような姿でぷかりと宙に浮いていたまま、和ちゃんの寝顔を飽きることなく眺めていた。
 彼女の服は中国の漢服のようにもみえ、さらに古い中国の神話時代に登場する女性の衣類にも見える。彼女がこの世界で目覚めてから、幾万里の距離と幾千年の時を移り住んだろう。その彼女の暖かさだけは変わらぬように、衣服のゆったりした袖が和ちゃんを温かく包むみ、大きな袖口からのぞく柔らかな腕で和ちゃんの髪を撫でていた。
 彼女は自分でもどうしてあの手鏡を残してきたのか分からない。持ってくることも出来たはずだが、なぜか残した。ここへ和ちゃんを連れ戻って、和ちゃんを愛でるように眺め、癒されるように優しく撫で回している。
 彼女は眠ったままの和ちゃんに語りかけた。
「あなた……、だけは」
 聞こえてくる物音からは、彼女の和ちゃんを奪い取ろうとする意識があり、彼女は憎しみに近い恐怖を感じている。
 彼女は立ち上がって、和ちゃんを部屋中央の寝床に残して、ヘレンたちの元に向かった。
 ふんわりした優しい雰囲気の部屋、御簾を開けるとそこに障子の扉に囲まれた和室。御簾を閉じるたとたん、壁に変わって奥の和ちゃんが眠る部屋は見えなくなった。
(3人か)
 産女は陽炎のように揺らめく雰囲気の中に人数を読み取った。ただ、この無礼な連中を中心に濃い霧が生じているようで、この連中の姿はぼやけ、先の見通しがきかない。香りのように拡散してくる霧に不快な感情を感じられるが、すでにその霧は避けようもなく産女を包んでいた。産女は3人の背後にいる別の3人には気付かないで居る。
 伝わってくるものは、憐憫、同情?
 そんなものはまっぴらだった。ただ、あの子に心を癒されていたい。あの3人は、自分とあの子を引き裂く存在だと言うことは間違いない。絶対に、排除せねばならない。嫉妬や哀しみや不安、産女の表情は移り変わりつつ、邪魔者に対する冷たい憎しみに目を光らせて姿を消した。


「いったい、どこに?」
 ヘレンが呟く対象が、果たして、化け物のことか、和ちゃんのことか、館の奥のことなのか、彼女自身が分からなくなってしまっている。彼女たちが進む廊下の両側に四方を襖に囲まれた部屋があり、どの部屋の広さや調度や襖のデザインま同じである。果てもなく前方に続くかと思われた廊下を避けて、廊下の両側にあった部屋の一つに入り込んだあげく、部屋から部屋への果てしない迷路に入り込んでしまったのである。
(次の部屋こそ)
 襖を開けて次の部屋に入る都度、いつの間にやら背後で襖が閉じてしまっている。振り返って開ければ、誰に邪魔されるでもなく、音もなく開く。しかし、目を離すとの間にやら閉じている。蹴り飛ばして開けて通った襖は、彼女たちが通ったとたん、何事もなかったかのように閉じた位置でそこにある。一部屋づつ緊張感を込めて突き進む部屋の中で、方向すら見誤ってしまいそうになる。
「方向を見失っているのか」
 ジェスールがそう呟いて、磁石を見た。この世界に入ってから方角が意味をなさない。それは、この館の中も同じだった。目に見える館自体、この不可思議な空間と切り離せないのではないか。とすれば、襖を1枚づつ押し広げて進むこと自体意味がない。
 ヨゼフもそれを察しているのかも知れない。次の襖を開ける手を止めて漂う気配をうかがうように周囲をうかがった。
「どうしたの、先へ進むわよ」
 ヘレンの言葉にヨゼフが直感を述べた。
「この先は、奧じゃないよ」
 意味もなく回転する磁石の針を仲間に見せてジェスールが言った。
「この館が外の世界と同じなら、目に見える方向をアテにしてもしょうがない。」
「どういうこと?」
「ヘレン。何か感じないか?」
「感じる方向に進んでいこう」
 ヘレンは納得した。この場合、男は役に立たないらしい。信頼できるものは、女である彼女の直感だけである。部屋の四方が襖で囲まれた単調な四角い部屋が続いていた。
 ヘレンは前方の襖を開けて気配をうかがい、そして、襖を閉じた。確かに、気配の濃度に差がある。そして、今居る部屋の方が気配が異様に濃い。
 左の部屋の襖を開けて気配をうかがい、部屋に入らないまま部屋の中央に戻った。左の部屋で感じる気配も、この部屋ほどではない。
 そして、右の部屋。そっと襖を開けて、じっくりと味わうように雰囲気をかぎ取ったが、首を横に振った。
 そして、仕上げに元来た部屋の襖を開けて、雰囲気をかぎ取ると首を傾げて、振り返って首を傾げた。
「何故? 今、この部屋の雰囲気が一番濃いわ」
 ヘレンの感覚で辿ってきたものが、この空間で一番濃いと言うことは。仲間の背にぞっとする恐怖が走った。
 目には見えないが化け物はこの部屋にいるかも知れないということである。いよいよ、化け物との対面が迫ったことを察して、ジェスールはザックからペットボトルに僅かに残った水を取り出した。
(あれか、)
 産女はそう思った。彼女の気にくわない雰囲気を発し続けているのはあの水らしい。あの水を中心に彼女の視界を奪うように景色がぼやけており、確かに瓢箪荘で彼女の呪縛を解いたのはアレである。既に、ペットボトルの水が発する意識がこの場を囲んでいて、産女は部屋の外の様子が見えなくなっていることに気付いていない。別働隊のマリア達は産女に気取られずにいるのである。
「化け物がこの部屋にいるのか」
「卑怯者。姿を現しなさいっ」
 そんなヘレンの怒りに呼応するように、突然に、うっと眉をひそめたヨゼフの様子がおかしい。ヨゼフは彼を心配して様子を覗うジェスールに手を伸ばしたかと思うと、ジェスールが手にしたペットボトルを払い落とした。
 ペットボトルは床を転がって襖にぶつかって止まった。
「何を」
 ヘレンが非難を込めてそう呟きかけたときに、彼女たちと部屋の隅のペットボトルを遮る位置、ヨゼフの背景を揺らめかせる陽炎が生じていた。ヘレンたちが気配と呼んでいたものが凝縮するように姿を表しかけているのである。ヨゼフを操ってペットボトルをはじき飛ばしたのはこの陽炎らしい。その異変の異様さではなく、異変から流れ出すように押し寄せる孤独にもがき苦しむイメージに、3人は身をすくめた。
 揺らめく影は言った。
「私の心に侵入してきて、好き勝手なことを」
「心に?」
 ヘレンは化け物の言葉に引っかかるものがあった。疑問だらけのこの世界の真理を探る手がかりのようにも思われた。
「私のじゃまをする者は許さない」
 その言葉と共に揺らめく影は女の姿を取り、10メートル四方だった空間が、野球場ほどに拡大し、化け物の姿も仲間を見下ろし圧するほどである。膨らんだ物は姿だけではない、元の姿に凝縮された苦しみが膨張して流れ出した。空間などこの化け物の思うままに変化するのである。
 

「手前の部屋はいい。一番奥から行こう」
 そう言ったアダムが全力で駆けることができる、長く幅の広いまっすぐな廊下である。
(これほど広ければ、)
 チェルニーはそう思った。人間の世界で言えば、これだけの大きな館なら、館の主人以外に大勢の家来や召使いが居ても良いはずだ。しかし、人の気配は絶えていて、この世界に存在する者が、自分たちだけのような孤独感に苛まれる。
「いったい、いつになったら和ちゃんの居る部屋にたどり着けるの?」
 向こうの廊下を歩んでいるはずのヘレンと同じ事を、こちらの廊下でチェルニーは思っただけではなく口にした。ドタバタと格闘する物音やヘレンやヨゼフの叫びが小さく響いてきている。彼らは予定通り、あの化け物を引きつけているはずだ。しかし、彼女たちは両側を部屋に囲まれた果てのない廊下を走り続けるのみで、未だ目的地にたどり着けない。しかし、幸いなことに、直感を行動規範とするマリアが居た。
「気配を遡りましょう」
 アダムとチェルニーはこの世界に入ってからのことを思い出した。方向が定まらない。気配を辿ってここまで導かれた。あの化け物の気配を辿ってきたと言っても良い。同じ事がこの館の中でも言えるだろう。ヘレンたちが化け物を引きつけている今は、あの化け物の気配から遠ざかるように進めば、そこは元の入り口か、彼女たちが目指す場所である。
「気配が薄れるのは、入り口か、館の奧か、一か八かね」
 マリアは腕に下げた籐製のバスケットからポーチを取り出した。数本の輝く針と糸が見える、裁縫道具である。彼女は右の部屋の襖に穴を開け、ボビンに巻き付けた糸の端を結びつけた。
「なるほど」
 どちらに進んでも、糸を辿れば元の場所に戻ってこれると言うことである。マリアは部屋の中央で気配を伺い、意外なことに、元居た部屋に戻った。その後、回ったり、迂回したり、戻ったり、彼女たちが描き出す目に見える軌跡には意味はない。しかし、気配を遡って進む先では着実に哀しみの意識が薄れ、別の意識が高まっている。言葉では説明しがたい。幼子が産着に包まれてすやすや眠っている。そんな柔らかなイメージを伴う意識である。
(一歩づつ、和ちゃんに近づいている)
 そんな確信が女たちにあった。しかし、いつのまにやら、彼女たちは行き止まりにいた。正面と左右は清楚な白壁で、出入りできるのは、今、入ってきた襖の面だけ。
「行き止まりなの?」
 チェルニーがそう言った。いままで左右に迂回するルートなどいくらでもあった。しかし、この部屋は見た目は正真正銘の行き止まり。幼子の気配に、流れる様子が無く、部屋の中に充満しているようで、確かに館の一番奥の部屋だという感じがする。
「あとは……」
 マリアが正面の壁に手を触れた。正面に見えていたもの揺らめいたかと思うと、御簾に形を変えた。壁なのか御簾なのか考えることは意味がない世界である。ただ、その奧に幼児の姿がかいま見える。
「和ちゃん」
 3人の言葉が同時に響いて、3人は和ちゃんの寝床に駆け寄った。
「和ちゃん、無事かい」
 そう呼びかけて揺り起こそうとするアダムに、幼児は答える様子がない。まるで、今まで親鳥に抱かれていた雛のように、和ちゃんの体温は温かく大切に保護されれており、鳥の柔らかな羽毛に覆われていたように、触れるものは瑞々しく柔らかい幼児の素肌である。チェルニーが耳の下に当てた指先に、和ちゃんの鼓動が伝わってくる。呼吸は規則正しく、ぐっすりと眠り込んでいる幼児の姿である。
「大丈夫。生きてるわ」
 チェルニーは自信を持って断言した。
「和ちゃん」
 再び、和ちゃんを揺り動かして目覚めようとするアダムを、マリアの手が制した。
マリアは体温や柔らかさなどの生命感を感じ取るように、頬に和ちゃんの手を当てた。和ちゃんを保護すると言うより、子供によって癒される母親の姿に似ている。
「あの化け物の魔術か何かで、眠ったままなのかもしれない」
「産女よ」
 マリアは、化け物ではなく「産女」という名の存在だというのである。
「うぶめでも何でも良いわ。とりあえず、和ちゃんを連れて逃げましょう」
「僕が抱いて逃げよう」
 アダムが和ちゃんを抱き上げようと、腕を和ちゃんの体の下に差し入れた。意識を失っていてずしりと重い。指先から伝わる暖かさで、その重さが和ちゃんの生命感のようにも思われた。
「この笛を吹けばいいのね」
 チェルニーはジェスールから預かった笛を口にした。
「ちょっと早すぎる」
 アダムが注意する間もなく、チェルニーは逃げ出す合図の笛を吹いた。
 アダムの指摘通り、ちょっと早すぎるだろう。館の外に逃げ出してから吹くはずだった笛の音である。
 ピィーーーーーー
 笛の音が館に響き渡った。
「逃げるぞ。走れ」
 アダムは和ちゃんの柔らかな体を寝床から引き出した。一瞬、自分の手で胎児を堕胎するかのような罪悪感に苛まれた。罪悪感に耐えつつ、彼らは糸をたどって走り続けた。


  ジェスールはヨゼフとヘレンに目配せをした。ヘレンは察して肯いた。ヨゼフの視線はペットボトルに固定されていてチャンスがあれば飛びつくだろう。何やら突然に膨張した空間の中で、ヨゼフからペットボトルまでの距離が直線で20メートルばかり、彼の脚力ならペットボトルを手にするまで3秒と言うところか。ヘレンの見るところ、ヘレンの位置とペットボトルを結ぶ線上には化け物が居り、化け物を避けてターゲットに向かえば化け物の注意は彼女に向く。
「GO!」
 ヘレンは自分自身に号令をかけた。ヘレンは重心を低く抑え、化け物を中心に左側から円弧を描いて駆けた。この間、ヘレンの視線はペットボトルの水にあり、化け物はその視線を追ってヘレンの意図を察して、ヘレンを阻もうと腕を伸ばした。不安や憎しみや嫉妬の感情で、女の体は膨張し続けてヘレンの数倍の身長になり、その体にすら収まりきらない恐怖や憎しみや焦りの感情があふれ出して、ヘレンたちに伝わった。化け物は巨大な体、長い腕を伸ばした。むろん、ヘレンはそのリーチを察して、手の届かない範囲を駆け抜けている。
(えっ?)
 ヘレンをぎょっとさせたのは、その腕と指が人間の形を崩して伸びて、駆けるヘレンの前方を塞いだからである。ヘレンはその指に捉えられるのを避けて、受け身を取るように斜めに跳ねて床に転がった。
 化け物がヘレンの誘いに乗っている。その瞬間、ジェスールが床を蹴って突進した。ヘレンから目を移す間もなく、ジェスールのタックルは効を奏して化け物の両足を捉えて放さない。
(ちぃぃぃぃぃ)
 化け物の苛立ちが舌打ちと共に伝わってきて、ジェスールは巨大な力が自分を掴んで持ち上げようとしているに気付いた。ヘレンが背負ったクイーバーから矢を抜き取って、化け物めがけて放った。慣れた手つきで十数秒の内に七本の矢を射たが、いずれの矢も化け物に届く手前で動きを止めて、ぽとりと床に落ちた。タックルしたはずのジェスールの体は巨大な手で捕まれて、逆に動きを失った。ヘレンとジェスールの攻撃は効を奏していない。
 しかし、化け物がペットボトルに入った水を狙い、水を取り戻そうとするヘレンたちを妨害することで得られた確信がある。ペットボトルの中身が化け物にとって都合が悪いと言うことである。
 ヨゼフは化け物が二人に集中している隙を読んで、化け物の背後に転がっていたペットボトルに突進した。ヨゼフが図ったタイミングは絶妙で、化け物の背をかいくぐってペットボトルを握りしめ、高く掲げてヘレンとジェスールに成果を伝えた。
 化け物はその姿に気付いてヨゼフに鋭い視線を向けた。ヨゼフの全身は麻痺したように動かない。強い力で押さえられたというのではない、全身から力と気力が奪われた感じである。彼らはなすすべを失った。
 ヘレン、ジェスール、ヨゼフ。3人に絶望感が漂い始めた瞬間、別の部屋でチェルニーが吹いた笛の音が響き渡たり、その甲高い音色に化け物の悲鳴が重なった。
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ」
 化け物は雷に全身を貫かれたかのように体を反らした。振り返った化け物は、起きたことを察して悲しげな悲鳴を上げたのである。振り返った方向で起きていること、その方向に和ちゃんが居たのだろう。この化け物は別働隊が和ちゃんを救い出したのに気付いたのである。しかし、ジェスールらの計算にも狂いが生じている。化け物が振り向いたその方向から脱出の合図の笛が聞こえたのである。別働隊が脱出し、化け物の手を逃れてから聞くはずの合図である。化け物の視線の先から聞こえるというのは何かの手違いがあったに違いなく、化け物を視線の先に行かせるわけには行かない。
(あいつらが逃げ出すまで5分か、)
 自分たちが目一杯時間を稼いでもそれが限界だろう。この時、化け物の注意が逸れたのか、凍り付いていたヨゼフは、自分の体が幾分自由を取り戻しているのに気付いた。
「ヘレン」
 ヨゼフは名を呼んでペットボトルを投げた。ヘレンはヨゼフが投げてよこしたペットボトルを左手に受けた。彼女はペットボトルの蓋を開けて、水を口に含んだ。彼女は背負ったクイーバーに残った3本の矢を取り出し、その矢の先に口に含んだ水の一部を吹きかけ、残りをグリップを握りしめた拳と弓に吹き付けた。
 2本の矢は弓のグリップと共に握り、最初の矢をつがえて弦を力一杯引き絞った。
「お願い……」
 彼女がそう祈ったのは、水を吹き付けた弓と矢が、あの化け物に効き目を発して欲しいという思いである。最初の矢は見事に化け物の着物の左袖に命中して縫い止めるように柱に突き刺さった。
(しめた)
 ヘレンがそう思ったのは、最初の矢が縫い止めた袖を、化け物が引き抜くことができない様子だからである。足止めの効果はある。
 彼女は続け様に、残りの2本を射た。右袖に1本、裾に1本、見事に化け物を傷つけずに行動を封じて、化け物の体を柱と襖に縫いつけた。何故か、彼女は無意識に化け物を傷つけることを恐れて、体を避けて矢を射ていた。
「よくやった」
「だめだわ」
 ヘレンがそう言ったのは、子供を奪われて身悶えする化け物の動きが激しく、縫い止めた袖が破れかけていることに気付いたからである。あの袖口や裾が破れ落ちて、縫い止めた矢に効果が無くなってしまえば、あの化け物は再び彼女たちを襲い、その時にはヘレンたちには抗うすべがない。
「逃げよう」
「どっちへ?」
「あの化け物から離れればいい」
 ジェスールの言葉にヨゼフとヘレンは肯いた。この世界の摂理の一部を理解し始めている。どちらの方向にという情報は不要であるらしい、ターゲットに近づくか、遠ざかるかそのどちらかの選択肢しかない。
 ヘレンは走りながら歯を食いしばったが、流れ出る涙を抑えることができない。ヘレンの矢によって自由を奪われた化け物が、もがきつつ発する叫びのせいである。叫びと同時に伝わってくる感情は怒りや憎しみではない。哀しみや後悔や孤独、幾つもの感情が入り交じって入れ替わるが、一言で表現するなら、愛する我が子を失った母親の情念である。
 彼らが入り口を出たとたん、巨大な館はこじんまりとした和風の一軒家に戻った。ヘレンたちは、そこで先に脱出したマリアたちを見つけた。
「私たちは、なんと言うことを」
 胸をかきむしられる思いでチェルニーが言った。肺腑をえぐられるほどの悲痛な叫びが館の中から響いてくる。子供を奪われた母の叫びである。一人や二人ではない、数十人、数百人、その数百倍の哀しみや後悔が凝縮されている。その叫びを浴びていると、決して侵してはいけないことに手を染めた罪悪感に囚われる。
 ジェスールは和ちゃんを抱いて息を切らせているアダムから和ちゃんを受け取って走った。アダムとヨゼフは、しゃがみ込む女性たちを支えながら走った。目的地はない。とりあえずここから遠ざからねばならない。
 耳を刺す悲鳴ではなく、押し寄せる悲しみや孤独感が彼らに追いつき包みこみ、駆ける体や足にすがりついて行く手を留めようとしていた。


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