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「誰か、子供の声を聞かなかった?」
 チェルニーは仲間にそう尋ねたが、肯く者はない。やはり自分の空耳かと思いこんで、おにぎりを頬張った。しかし、あの子供の声がきっかけでここにとどまっているような気がし、何やら、子供たちが自分たちの行く手を遮っているような推察に致るのである。
 おにぎりをかじりかけたヘレンが不満げにマリアに尋ねた。
「何、コレ?」
「ヘレン向け特製おにぎり」
 おにぎりという日本のファーストフードはヘレンも知っているし、エネルギー補給の食品として便利だと評価してもいる。しかし、ヘレンが尋ねたのは、齧ったときに中から出てきたペーストである。
「中に入っているのは、何よ?」
 ヘレンが手渡されたおにぎりは、表面の塩の味わいは確かにおにぎりだが、かじってみるとねっとりと濃厚な甘いペーストが出てくるのである。それが塩味の付いたご飯と違和感がある。
「あらっ、アメリカ人なら、ピーナッツバターでしょ?」
 マリアは当然のように断言した。アメリカ人はピーナッツバターを好んで食すという偏見を持っているのである。マリアという女性は悪気はないのだろうが、どうも独自の信念があって、それを押しつける。思わず笑いが広がった仲間の中で、チェルニーが唇に人差し指を当てて静かにしろと指示をした。
「静かに、何か聞こえるわ」
 チェルニーが立ち上がって耳を澄ました。確かに、木立を駆け抜ける風の音に混じって何かのメロディが聞こえるのである。
「子供が歌ってるようだね」
 風の中から音を選別してみると確かに、子供の声がメロディを奏でているが、その歌詞とメロディは  聞き取りずらい。アダムが注意深く言った。
「子供の声がするなら、和ちゃんもいるかも知れない」
「慎重に進みましょう。私たちをおびき寄せるトラップかも知れない」
 ヘレンの言葉にチェルニーが応じた。
「注意してね」
 そんなチェルニーとヘレンの言葉に、応じるマリアの口の中には食べかけのおにぎりがあって、言葉を発することが出来ない。マリアは二人の意見に首を振って否定し、咀嚼したものを水筒の水でのどの奥に流し込んだ。
「行く必要ないわよ」
「どうして?」
「だって、向こうから近づいてきてるもの」
 耳をすませると、確かにマリアの言うとおりである、僅かながら聞こえるメロディが大きくなってきているようだ。
「ややこしい世界ね。音がどちらから聞こえてるのか分からない」
「素直に耳を傾ければいいの。どちらか分からないんじゃないの」
「えっ」
「どっちかじゃなくて、」
 全周に耳を傾けたマリアの言葉の深刻さに、ヘレンが叫ぶように言った。
「それじゃ、すでに敵の包囲攻撃を受ける危険があるってことよ」
「かーごめ かごめ」
 マリアが流れくる歌詞をメロディに乗せて呟いたので、仲間は驚いて立ち止まり彼女を注視した。
「どういう意味?」
 尋ねるチェルニーにマリアが答えた。
「どぉって、子どもたちの声は”囲んだぞ”って歌ってるのよ」
「アパートで携帯電話に聞こえた歌だね。がごめかごめの遊び歌か」
 アダムが情報をそう補足した。
 「ちょっと、どこに行くつもり?」
 ヘレンは声の方向に歩こうとしているマリアの首根っこを捕まえて引き戻した。
「だって、子供の声よ」
「油断させるためにトラップでよく使う手よ」
とヘレンは言い、アダムに説明の続きを求めた。
「続けて、今は何でもいいから情報が欲しいわ」
 状況は何やら変わり始めているようだ。僅かに風に乗ってきたメロディが、ややはっきりと聞こえるようになっているばかりではない。周囲を探って耳を澄ましてみれば、ヘレンたちの周囲、大人の背丈ほどの草の茂みのあちらこちらから、ぴっんと飛び跳ねるように子供たちの顔が見え隠れしている。見え隠れする子供たちの頭を辿ってったチェルニーが言った。
「確かに、私たち、子供たちに囲まれてるんじゃないかしら」
 全周から聞こえる歌声は、歌う子どもたちの姿が草木に隠れて見えないのか、幽霊のように実態を持たないものなのか判然とせず、不可思議な不気味さを伴う。
「かーごめ かごめ かごのなかの とりぃは いついつ でやぁる よあけのばんに」
 単調なメロディにのなかに、男の子や女の子、幼児から少年少女といっても良い年齢層、無数の子供たちの存在を聞き分けることができる。間をおいて、遊び歌の主が姿を見せた。 ヘレンたちの腹か胸の高さの背丈の草が密に生い茂る草原で、その草原に背丈が隠れてしまう子供たちである。時々、こちらを覗うように飛び跳ねて草の穂から見え隠れする顔の位置で確認すれば、数十人の子供たちの輪は縮まって、今はヘレンたちから半径20メートルほどの距離を置いて、彼女たちを囲んでいるらしい。
「みんな子供だ。脅かしちゃいけない」
 ジェスールは仲間を制して、子供たちに語りかけた。
「君たち、どこから来たの? お兄さんたちと、お話をしないか?」
 子供たちの歌声が一斉にやんだ。その静けさが不安感を煽る。
「何か相談をしているのかしら」
 その時に、かさっ、と、草をかき分ける音がし、一人の少年がチェルニーの目の前に姿を現した。歳は十歳ほど。深刻なほど思い詰めた瞳で、チェルニーを見上げていた。更に、物音がして、和ちゃんほどの年齢の女の子が姿を見せてヨゼフに向きあった。茂みをかき分ける音は続き、数十名ほどの子供たちが、仲間の元に姿を現した。
「やはり、トラップだわ」
 ヘレンが叫んだ。一人の子供が背に隠していた棒を取り出して、鋭く振り上げてアダムを襲った。子供たちは彼らを油断させて接近し、いきなり棒を持って彼らを攻撃して来たのである。こどもたちはどこからともなくわらわらと沸いて出てくる。しかし、非力な子供たちのこと、殴るというより、叩くという表現が似つかわしい。
「相手は子供よ、傷つけないようにね。ぎゃっ」
 ヘレンが苦痛で顔をしかめた表情を怒りに変えて、背後を振り返った。一人の女の子が竹の棒で彼女の尻を横に打ち据えたのである。非力な子供とはいえ、力一杯打たれれば痛い。ヘレンは痛みの腹立たしさに、有効な反撃の出来ない腹立たしさを加えて、少女を睨んだ。
(ひっ)
 少女は小さく悲鳴を上げ、驚いたように凍り付いた後、大きく開いた目に溢れそうに涙を浮かべた。そんな表情をされると、ヘレンがこの子を虐めていたような状況になる。ヘレンたちは、子供たちが振り回す棒を避け、奪った棒で子供たちを突いて遠ざけるように反撃するのだが、非力な子供たちにこんな仕打ちをして良いのかと罪悪感に襲われた。
 子供たちの目は真剣で、涙目になりながら攻撃を加えてくるのである。子供たちを傷つけることは出来ずに防戦一方で、避けきれない一撃を受けて悲鳴を上げ続けながら、撤退を決意したとき、マリアの声が響いた。
 子供たちを見つけて、持っていたおにぎりをわけて一緒に食べようとしたのに、攻撃に転じた子供たちのせいで、手にしたおにぎりが地面に転がり踏みつけられてしまったのである。
「こらぁーーーー」
 腹の底から怒りを噴出したマリアの声が響いた。子供たちはいっせいに静止してマリアの方を伺った。
「食べ物を粗末にする子は、母さん、お尻をぶつわよ」
 母親の怒りに触れたような声に、今まで攻撃を諦めなかった子供たちが静止したまま、すまないことをしたと反省する様子を見せた。マリアは悪戯が過ぎた子供を叱りつける目で、じろりと子供たちを眺め回した。子供たちは互いの顔を見合わせ、マリアの顔を窺って、逃げるように姿を消した。仲間はぽつんと取り残された。
 防御に息を切らせていたヘレンは、腑に落ちないながらも、マリアに礼を言った
「ありがと。よく分からないけど、あなたのおかげらしいわね」
 そう言いながら、物陰に一人の男の子を見つけた。年齢は十歳に満たないぐらい。反抗期の生意気盛りと言ったところか。急な状況変化に一人だけ逃げ遅れてしまったのである。
 ヘレンはふと、マリアを真似てみることにした。彼女は両膝に手を当てて姿勢を低くして男の子と視線の高さを合わせて言った。
「イタズラばかりしてると、お仕置きするわよ」
 母親になったつもりで言った言葉に反応して、男の子は握った拳を解いた。なるほど、こうすればこの子供たちは攻撃の意志を失うのである。ヘレンはこの状況に念を押すようにジェスールを振り返った。その瞬間、ヘレンは苦痛に表情を歪めて脛を押さえてかがみ込んだ。ヘレンの油断を察知して、男の子はヘレンの脛を蹴り上げて逃げたのである。
 走り去った物音を追って視線をやった先に、男の子は既に姿を消していた。再び仲間を振り返ると、理解できないという様子でぽかんと口を開けた表情を並べていた。その視線はエレンを飛び越えて、男の子が姿を消した先を見つめている。先ほどは子供たちの攻撃を避ける混乱のさなかで、逃げ去る子供たちの姿をはっきり見ていなかった。しかし、身の回りの混乱が収まって、男の子がヘレンのすねを蹴り上げる様子や背を向けて逃げ出す様子が見えたのだが、その様子が異様だった。藪をかき分けて姿が見えなくなったわけではない。男の子の姿が透明になり周囲の景色に溶け込むように姿を消したのである。確認するように周囲を見回せば、先ほどの数十人の子供たちが藪をかき分けて逃げ去った跡はなく、仲間を攻撃するために振り回した棒が茂みの草の葉や茎をなぎ払った形跡もない。ただ、6人ばかりの大人が、子供の攻撃を避けて暴れ回って踏みしだいた地面の跡、そして、子供たちに打たれた傷の痛みが残っているだけである。
「実態のない精神のようなものか」
 アダムは彼らを襲った子供たちをそう評した。
「それって、幽霊ということじゃない?」
「死んだ子供たちの魂が、天国へ行けず、どこかに縛り付けられてるの?」
 チェルニーとマリアの問いに、アダムは首を傾げてみせただけである。

「あのクソガキ!」
 ヘレンが蹴飛ばされた脛を押さえてそう言ったのを、温厚なジェスールが制した。子供たちを指し示す言葉として、クソガキとはちょっと表現が過ぎるだろう。
「じっとしていられないね。先へ進もう」
 なぜか無傷のヨゼフがそう提案した。
「クォ・バディス」
 ヨゼフの言葉にアダムはそう呟いた。ポーランド人作家の著書の題名でもあり、ヨハネによる福音書の引用でもある。
(どこへ行くつもりか)と、アダムは仲間に問うているのである。 
 方向を定める地形がないまま、彼らは方向を見失っている。ジェスールの磁石などはとおに役に立っていない。マリアが何かに気付いたように目をつむったまま、同じ位置でぐるりと回った。スカートの裾がふんわり膨らむ勢いである。そして、一方を確信を持って指差した。
「あちらよ」
「どうして分かる? 目標は何も見えないぞ」
「風」
 マリアはそう言いながら、今度は、口ごもった。表現が適切ではないような気がする。空気の流れではない。が、空気が流れるように一方から、寂しさ、悲しさ、苦しさ、嫉妬に似た腹立たしさ、そんな苦痛の感情が入り交じり、強さを様々に変えて流れて来て、彼女たちに方向を与えているのである。目をつむって周囲を感じ取りながらぐるりと回ったチェルニーは、マリアに同意した。
「本当」
「確かにそうね」
 ヘレンも自ら試してみて頷きながら、意味もなくくるくると回る3人の男たちの様子に首を傾げた。
「貴方たち、何やってんの?」
「何も感じないよ」
「鈍い人たちね」
 女性たちが自信満々で言うので、男たちも彼女たちが指し示す風上に向かうことに同意した。目標物が見えない、かといって地平線もまた見えないまま、遠くの景色は霧がかかったようにぼやけている。へレンが仲間を見えない目標に先導するように前方を歩いている。確かに女たちの導く方向に歩くと道に出会った。一本道で男にはどちらに進んでいい物かわからない。しかし、女たちは迷うことなく右側へと歩き始めた。
「足下が見えないから気をつけて」
 ヘレンが注意したとおりである。何キロ、何時間、彼女たちが歩き続けてこのままずっと続くかとも思われた道が、既に絶えてしまった。ヘレンたちは再び腰の高さほどの草が生い茂る草原に踏み込んでいて足下がおぼつかない。しかし、流れてくる悲しさの感情は強まり続けており、進む方向に間違いは無さそうである。
 ヘレンは首を傾げて尻に手を当てた。幼女に打たれた最初の一撃の痛みが残っていた。痛みとともに記憶に刻まれたあの幼女の表情に憎しみはなかった。一途な思いのみ伝わってくるのだが、その意図は計り知れずヘレンの心をかき乱した。
「ちっ、」
 考えごとをしながら歩いていたヘレンは、突然の舌打ちと共に、その姿が草の穂の波に沈んで消えた。背後にいた仲間には、ヘレンが危険を感じて伏せたようにも見える。皆、慌ててしゃがみ込み、しゃがんだままヘレンに歩み寄った。ヘレンが地面に倒れ込むように伏していて、草をかき分けて地面を指差して見せている。
「きゃっ」
 そんな悲鳴でチェルニーが倒れ込んだため、仲間はその指差す物の意図を察した。トラップである。二株の草の穂先が結ばれていて、地面に草の輪が出来ている。先にヘレンがつま先を引っかけて倒れたのと同じ草の輪が、ここ彼処に散見された。もちろん人工的な工作物である。
「あの子たちのイタズラね」
「この程度で良かったね。オレなら、敵が引っかかって倒れたところを狙って2つめのトラップを仕掛けておくね」
 そんな言葉で、ジェスールが倒れた仲間を励ました。そのジェスールに、マリアが枝の上を指差した。
「例えば、あれ?」
 マリアが慌てて身を避けるのが見えた。今しがたアダムが足に引っかけたロープを辿ると頭上の籠からトゲの付いた栗の実がいくつも転がり落ちてきたのである。彼らは悲鳴を上げて逃げたが、全てを避けることは出来ない。
「あのクソガキどもにも、この程度の知恵があったってことだな」
 普段は温厚なジェスールが、栗のイガでこめかみ辺りに血を流してそう言った。むろん軽傷だが、イタズラを仕掛けた子供たちと、あっさりひっかかった自分に腹を立てている。ヨゼフが気付いて言った。
「でも、あの子たちの心理を読んでみると良いよ。守りたいものに侵入されたくないからトラップを仕掛けてるんだね」
「どういうこと?」
「1つ、間違いなくこの先に何かがある。2つ、子供たちが大事な物を守りたければ、この先にもトラップを仕掛けている」
「トラップがあることが分かってさえ居れば、避けるのは簡単よ」
「足下に注意しろよ」
 チェルニーは足を止めた。両端の灌木に道が狭められており、その狭い道幅に掘ったのか泥水の水溜まりがある。四角く掘り抜いた穴は自然現象ではなく人工物だと分かる。そして四方が数十センチという可愛らしさは、子供が一生懸命に作ったのだろうと思わせるのである。
「この水溜まりはトラップのつもりね。私たちを泥だらけにしようっていうのかしらね」
 彼女は笑って水溜まりを飛び越えて、悲鳴を上げた。
「どうした?」
「落とし穴に落ちただけよ」
 チェルニーは転んで付いた泥を払いながら、努めて平静を装ってそう言った。水溜まりを飛び越えるということを想定した上で、着地点に落とし穴が掘ってあったのである。
「気をつけろって言ったろ」
 アダムはそう言ったが、次の瞬間にしなやかな木の枝に腰を打たれて顔をしかめた。見れば、木の枝を撓らせて固定し、足下のロープに引っかかった瞬間に枝が元の元の位置に戻るという単純なトラップだった。
 イタズラに引っかかり続ける仲間も問題だが、子供たちのしつこさはどうだろう。彼らの真剣さと必死さが伝わってくるようだった。
「この先に進んではいけないということかしら、」
 マリアがぽつりとそう言った。仲間が被ったトラップの数々は、いかにも子供が仕掛けたイタズラレベルのもので、その結果には怒鳴りたくなるものの、仲間の命には別状はない。このイタズラに、お尻を叩く程度のお仕置きはしてやるにしても、子供たちに本気で腹を立てるのは大人げない。
 しかし、草の輪のトラップの草は未だ生き生きとした緑だった。もし、この世界に仲間たちの世界の常識を当てはめれば、以前からそう言う具合に設置してあったトラップなら、とっくに草は枯れ果ててしまっているだろう。仲間たちが遭遇するとラップの数々は、あの子供たちが、彼らの行く手を阻もうとして、必死に設置しているようにも見える。その必死さが、何か不憫にも感じられるのである。
 ヘレンはふと気付いた。この世界に来てから、彼女たちは子供たちのトラップにひっかり続け、服は落とし穴の泥で汚れ、頭上から落ちてくる落下物に悲鳴を上げている。なのに、マリアとヨゼフ、あの二人ののほほんとした姿はどうだろう。マリアがトラップを避けているのは、彼女の悪運の強さにみえる。しかし、ヨゼフは理論立てて説明することは出来ないようだが、周囲の気配に注意深く、危険を避けているようだ。それは、野生の勘と呼んでも良い。
「前方偵察!」と、ヘレンはヨゼフに命じた。
 ヨゼフは笑った。ヘレンはようやく自分の特徴に気付いたらしい。ヘレンというのは主力部隊であって偵察には不向きに違いない。そのヨゼフも子供達について考えている。
 証拠を挙げろと言われれば根拠がない。しかし、子供たちが襲ってきたときに、マリアと自分だけが攻撃の対象にならなかったのは何故だろう。マリアと自分には共通点がある。あの化け物を敵と感じて行動する仲間の中で、女に害意を感じずにいるということだ。
「ちょっと待ってるね」
 ヨゼフはそう言い置いて軽々と身を翻して駆けだした。が、少し進んで振り返って地面を差し、
「そこ、落とし穴がある」
と、仲間に注意を促した。野生の勘は効を奏して、仲間は無事に前進した。
「おぉーーーい」
 ヨゼフが長い腕を振って手招きをして仲間を呼び寄せた。
 仲間の目前に湖が広がっている。
 背丈ほどの草が生い茂る視界の利かない草むらを抜けると、突然に出現したという景色である。湖面は凍りついたように澄み渡っており、時折、そよ風が作りだす細波が無ければ、空を映す鏡にみえる。ヨゼフはすでに水辺に屈みこんで手の平に一すくいの水をとり安全性を確認するように匂いを嗅ぎ、口に含んだ。よく澄んだ水で、僅かに地の香りがする。
 ジェスールも屈んで指先を浸し、更に、タオルを澄んだ水に浸してきつく絞り、首筋の汗をぬぐった。マリアは水筒の蓋を開けた。ヨゼフの様子から飲用できると見て、残り少なくなった水を補給しようとしたのである。マリアは湖の透明感を確認して、水筒を持った手を水面に漬けた。

 こぽり、こぽりっ、

 水筒の口は泡を吐き出して水を飲み込んでゆく。
 突然に、マリアはその指先に凍りつく痛みに似た恐怖を感じた。その恐ろし気な感覚が収まりきらず、彼女は手にした水筒を投げ上げるように放りだして、自らの胸を抑えてうずくまった。
「衛生兵(メディック)!」
 マリアの体に異変を感じ取ったヘレンがチェルニーを呼んだ。
「誰が、衛生兵よ」
 チェルニーは心の中で毒づいた。見たところ、マリアに緊急を要する外傷は無く、目を大きく見開いて無表情になっていて、精神的なショックを受けたようだが、回復して表情を取り戻しつつある。
 チェルニーは小刻みに震えるマリアを抱きしめていたが、マリアは安堵したように自ら起き上がった。チェルニーはタオルを持ってマリアの側を離れた。冷や汗をかいているマリアの額を、冷たくぬらしたタオルで拭いてやろうと思ったのである。
「ちょっと、彼女を支えていて」
 チェルニーは、まだふらついているマリアをアダムに預けた。タオルを湖の水につけてすすいだ瞬間、チェルニーもまた声にならない悲鳴を上げて、電気にでも撃たれたようにのけぞって倒れた。
「どうした、チェルニー」
 アダムの問いかけに、倒れ込んで声を発することが出来ないチェルニーの代わりに、涙を浮かべたマリアが答えた。
「水が、水が……」
 言葉がとぎれがちで意味をなしていないのは、発する単語を探して、戸惑っているからである。あの衝撃、あの心の痛みをどう表現すればよいのだろう。
「水の中に何か居る?」
 ヨゼフはそう推察して湖をのぞき込み、試しに水面をかき混ぜてみた。まったく異常が無く、二人が倒れた原因が分からない。ジェスールとアダムも湖をのぞき込んだが、澄んだ水に異常は見つからない。縁から中心部に向かって遠浅に深さを増すという湖のようで、湖面に映るアダムの顔に、滑らかに深くなって行く湖底の斜面が見えている。手前の光の届く湖底から中心部に目を移してゆくと、湖に吸い込まれるかと思うような目眩に囚われるが、それだけである。既に湖の水を口に含んだヨゼフ、水に指を浸して香りを嗅いで異常を探るジェスール、そしてアダム自身にも、マリアやチェルニーほど即効的な変化はない。ふと、アダムは考えた。
「これは仮説だが……」
 そう語り始めるアダムに、仲間の視線が集まった。
「男はこの湖の水に触れても異常は感じないんだ。しかし、女は……。いや、あくまでも仮説だけどね」
 異常を感じるマリアとチェルニー、全く異常を感じないジェスールとヨゼフとアダム、このグループの違いを考えれば明らかに、性別によって差が出るのではないかというのである。
「それが?」
と、ヘレンは仲間を見回して聞いた。
 仲間の視線が自分に集中しているのに気付いたのである。お前は女かと問うている視線である。
「あんたたちは、私が女だと証明するのに触ってみろと言ってるわけ? いいわ、触ってやろうじゃない」
 そう言いつつ、ヘレンは湖のほとりにしゃがんだ。そして、そっと指を伸ばしてさぐろうとした。マリアやチェルニーのように突然ではなく、何かあるかもしれないと心の準備は出来ている。
 しかし、水面に指を伸ばしかけたヘレンは、勘良く察して、振り向いて背後のマリアに言った。
「こらっ」
 マリアがヘレンの背後から背を押すポーズで固まっている。岸辺の水深は深くは無い。しかし、こんな体勢でマリアに背を押されたら、ヘレンは腕はひじの辺りまで、そして顔は水面にどっぷり浸けてしまうだろう。マリアは先に感じたものから、指先をほんの少し浸ける程度ではなく、この湖に秘められた感情を、どっぷりと十分に感じ取る必要があると思ったのである。
「誰か、この・危・険・な・女、抑えといてくれる?」
 チェルニーがマリアの腕をつかんだのを確認して、ヘレンは再び湖面に指を伸ばした。たしかに、チェルニーとマリアはこの湖に触れて異常を感じたようだが、すでに回復している。ショックは大きいのかもしれないが、回復は早い。彼女はそう冷静に読んでいる。中指の指先に水を感じたが変化が無い。
「うんっ?」
 変化を感じないのが不思議な感じがする。指先が触れる水面に静かに波紋が広がった。指先で何かを探るように動かすにつれて波紋が幾重にも広がったがヘレンに変化は無い。
この時、湖面に風が吹きぬけた。さわやかな涼風といってもいい。この湖の持つどんよりした重いイメージの対極にある風が、ヘレンの髪を撫でた。
「えっ?」
 ヘレンの指先を中心に広がっていた波紋が、ゆるりゆるりと縮まっているようにみえたのである。むろん自然現象としては見かけない光景である。
 その変化は急速に速度を増し、ヘレンが湖面から指を離すまえに、幾重もの波紋が彼女の指先に収縮した。
「お母さんっ!!」
 ヘレンは天を仰いで、言葉を吐き出すように叫んだ。彼女自身が叫んだわけではない。湖の底深くから伝わってきた感情が、彼女の口を借りて空に向けて噴出したのである。
 彼女は頭をしっかり抱えてうずくまった。呼吸を忘れるほどに胸が悲しみの感情で切なく彼女は両手で胸を押さえた。
「あっ、泣いてる?」
 ジェスールがそう口にした。男勝りなヘレンの涙が信じられなかったのである。
「うるさいっ」
 ヘレンは拳でジェスールの胸を叩いた。しかし、理由は良く分からない。頬を伝わる涙が恥ずかしくはなく、自然なことのように思われるのである。
「んっ?」
 突然、マリアは皆の視線を浴びているのに気づいて、ペットボトルの蓋を閉めた。泣いたせいかのどが渇いたのだが、先ほど自分の水筒は、湖から受けたショックで放り投げてしまって、水が地面にこぼれて残っていない。ジェスールに与えてもらったペットボトルを思い出して飲んでいたのである。
 誰かが飲みなさいと囁いたような気もする。
 ヘレンが声にならない叫びを上げて、マリアからペットボトルを奪い取った。
「どうするのよ、コレ」
 ヘレンがマリアの目の前で振ったペットボトルには、底に一口か二口分が残っているだけである。あの化け物に対抗すべき有効な手段が、たったそれだけしか残っていない。マリアはやや非難を込めた目でヘレンを見た。マリアも反論したくなる。最初にペットボトルの水に口をつけたのはヘレンである。口に含んだ水は吹き出したため、飲んでいないかもしれないが、その後でペットボトルを放りだして、その大半をこぼしてしまったのはヘレンのはずだ。非難を目つきで返されると、ヘレンも後ろめたい。ジェスールがペットボトルを奪い取って、背中のザックにしまい込んだ。
「預けたのは俺だ。あとはオレが預かる」
 マリアはふと何かを感じて、口元から喉へと指先を滑らせた、体内に流れ込んだ水は、喉から胃の腑、胃の腑からヘソの辺り、そこからまるで子宮に落ち着くような感覚で、彼女の体内を通った。お腹の中がほんのりと温かい感じがし、女性として生まれた幸福感が全身に広がった。
「アレじゃないか?」
 ヨゼフがやや背伸びをして目をこらす方向に、他の仲間の視線が集まった。その景色は水面を流れる霧にぼやけてしまっている。最初は、その建物が湖の中程に浮かんでいるように見えた。湖を薄く覆う霧の上に覗くのは、古い日本家屋の屋根である。遠目に見ても粗末な家屋ではない。しかし、霧が淡く薄れるように晴れてみると、壮麗壮大と表現するにも及ばない質素な白木造りの一軒家である。ただ、質素であっても、何者かの存在を暗示するものである。
「あれね」
 ヘレンが和ちゃんとあの女の存在場所だという意味を込めて言った。仲間は肯いた。ここまでの道程で人の気配を感じる建築物は他に無く、女が発したに違いない感情の流れに逆らってここまで辿ってきた。あそこに女と和ちゃんが居るという確信があった。
「湖の周囲を回って、あと、20分というところか」
 ジェスールがその距離を評した。不思議なことに、今までどの程度の距離を歩いたのか、仲間には全く実感がない。子供たちの妨害の数々を考えればずいぶん長い道程だったような気がし、ここであの一軒家を眺めれば、不思議な入り口からここまでほんの一瞬だったような気もするのである。しかし、現在の目標を捉えて距離を考えれば、ジェスールの判断通りだろう。しかし、ヘレンはその判断に大幅な修正を加えた。
「駆け足! 10分後にあの門から突入するわよ」
 言い終わる間もなく駆け始めたヘレンを見て、顔を見合わせた仲間は仕方がないと肯きつつ、ヘレンの後を追った。

 


 マリアたちがヘレンに追いついたとき、彼女は腕時計を確認していた。いや、時計はアテにならない世界だが、彼女の感覚では10分が経過している。振り返って、息を切らせながら追いついてくるマリアたちの体力のなさに、やや非難の視線を送り、仲間が息を整える間を利用して周囲を窺った。
 この家の周囲の草だけが綺麗に刈られて土の地面が露出しており、家の周囲は僅か20メートルばかりだろうか、しかし、小さいというイメージが浮かばない。親子が小さな生活を営むには充分だという満足感さえ伝わってくるようである。
 壁面から5メートルほどの距離を置いて腰の高さほどのクチナシの生け垣で周囲を囲まれている。しゃがみ込んだヘレンを酔わせるように甘い香りが鼻をくすぐった。
「これだったのね」
 ヘレンは目の前の白い花の甘く強い香りに、以前、女に感じた違和感のある甘い香りを思い出したのである。ヘレンは彼女を追ってきた仲間に手で合図をして姿勢を低くさせた。しゃがんで姿勢を低くしてみると、生け垣の荒い枝ぶりを通して一軒家が見える。
 広大な草原の中の一軒家という雰囲気だが、目に見えるものは、なんという異様で荒っぽい光景だろう。この先は不要だと言わんばかりに、一軒家の背後の風景がぼやけて居るのみで存在しない。ここがこの世界のもっとも奥深い場所に違いない。
「どうする?」
 アダムの問いにヘレンが即答した。
「突入よ。一気に蹴散らすわよ」
 周囲の仲間を窺って、チェルニーが仲間の意見を代弁し、ヘレンを諭すように言った。
「もう一度、冷静に、目的を整理しましょうよ」
「ここに来たのは、」
 そう言いかけるアダムを制して、ヘレンが言った。
「あの化け物をぶちのめす為よ」
 既に、ヘレンは旅の目的を見失っている。アダムは言い聞かせるように言った。
「まず、和ちゃんを無事に救出すること。それから、瓢箪荘にかけられた結界を解くこと。大事なのはこの二つだ」
「あの家、化け物の臭いがぷんぷんするわ。あと、たった10メートルほどの距離に和ちゃんが居るのよ」
 ヘレンは地を蹴った。生け垣を飛び越そうとしたのだが、手前の地面に尻餅をついて、汚れた腰を撫でた。チェルニーがヘレンの動きを指先で辿るように動かして見た。ヘレンが跳ね返された部分に感触がある。ノックをしてみたが、透明な壁は柔らかく拳を跳ね返して、音がしない。ジェスールはその光景を評した。
「生け垣に沿って目に見えない壁があるって事か」
「正面から来いって事ね。上等だわ」
 ヘレンは一軒家の玄関の正面にある門に向かった。門という表現は大げさかもしれない。館を取り囲む生け垣の一角には、いかにも日本家屋らしい華奢な扉がついていた。扉はヘレンの力を受け入れて、音もなく開いた。まるで、この家が彼女たちの訪問を誘い入れるかのようで、ぞくりと恐怖がわく。
 生け垣を抜けると、目の前に小さな館に似合った扉がある。アダムがそっと扉の外から館の中の雰囲気を窺って、首を横に振った。外観は小屋といっても小さな家屋で、中にいる者の気配を感じ取ることもできそうだが化け物どころか何の気配も感じられないのである。
「化け物はどこかに出かけいるんだろうか?」
 男たちが計画を練り始めた。慎重なアダムが提案し、ヨゼフが状況を述べた。
「ちょっと作戦を練ろう」
「見たところ、窓が無い。出入りできるのはここだけだ」
 ジェスールが今後の仲間の行動指針を提示した。
「そっと忍び込んで和ちゃんが居れば奪いかえす。同時に結界の秘密が探り出せればベストだね」
(ちっ)
 ヘレンが男たちの慎重さに舌打ちで不満を漏らして呟いた。
「こんな小さな家に秘密なんて」
 チェルニーが危険性を論じた。
「秘密を探すより先に、帰ってきた化け物に出会う可能性が高いわね」
 チェルニーの言葉に、ジェスールが応じた。
「化け物に出会えば、ペットボトルの中の聖水を使う」
 ヘレンを除く仲間はそろって肯いた。ターゲットはこの小さな館の奧にあり、じたばたとあがいたところで事態が好転する気配はない。あとは、行動に移るしか無かろう。
「静かに、静かに行動しよう」
 アダムがそう言い、男たちは肯いた。
「あのっ……」
 マリアが言いにくそうに扉を指差した。その指差す光景に、ヘレンを除く仲間は唖然とした。
「あの海兵隊女が」
 不用心さを非難するチェルニーの言葉の通り、ヘレンは、とっくに行動を起こして扉の前にいて、片足を上げている。その意図は理解できる。彼女は扉を蹴り飛ばして開けて、一気に突入し、弓とナイフで決着を付けるつもりである。この家屋の大きさから見れば、ドアを蹴破って飛び込めば、奧まで10メートル足らずではないか。
 ところが、ヘレンの姿は、蹴り飛ばしたはずの扉に、はじき飛ばされるように見えた。事実、蹴り飛ばした反動を受けたヘレンは、その衝撃を地面を転がって和らげた。
(ここにまで結界が)
 ヘレンは開かない扉にそう思ったが、地面に転がってしまったヘレンの傍らで、マリアが首を振ってみせた。マリアは扉をスライドさせて、これは誰が見ても引き戸だと教えた。蝶番を支点に開くドアではなく、引き戸なので前方に蹴飛ばしても開かないのである。マリアの手で館のドアするすると音もなくスライドし、彼らの前に開け放たれて、仲間を受け入れた。
 仲間は、その空間の大きさに唖然とした。
 引き戸は長身のヨゼフが頭をぶつけそうになるほどこじんまりした大きさである。しかし、そこをくぐって中に入ってみると、真新しい白塗りの壁が、幅20メートルばかり広がって、仲間の行く手を遮っている。その手前に静かな湖畔の景色が描かれた一双の屏風があり、正面の壁面から左右に目を転じると、壁の両端から奥に向かって廊下が伸びているという構造らしい。
 小屋の外から窺った時に化け物の気配がせず、不在だと考えた判断を修正せざるを得ない。これほど大きな空間なら奥にいても不思議ではない。しかし、耳をすませても、しんっと静まりかえって何の気配も感じない。
「何をしてるの?」
 チェルニーがマリアに声をかけた。マリアが屋内にはいるのに靴を脱ごうとしているのである。日本家屋では当然の礼儀だが、この場合はふさわしくない。
「あなた、帰りにここで悠長に靴を履いてから逃げるつもりなの?」
 ヘレンは土足の足を踏み出して、どんっと床を踏みならした。マリアはその礼儀を忘れた行為に眉をひそめたが、この場合はヘレンの方が正しい。
 無人の家屋なら、床には埃が積もり、天井はすすけて蜘蛛の巣の1つもあるだろう、白壁の色も黄ばんでいるに違いない。この屋内の清浄さは、確かに何かの存在を裏付けているようである。清らかで純粋なものの中に、土足で踏み込んでゆくという行為が、自分たちが行おうとしている行為の象徴のようで、罪悪感を秘めている。そんな罪悪感を振り払うようにチェルニーはヘレンといくつかの言葉を交わした。
「和ちゃんは、どこにいるのかしら」
「とっ捕まえた捕虜は、地下牢に閉じこめるって決まってるのよ」
「地下室を探せばいいの?」
「でも、古に地下に封じられた、魔王を復活させるための生け贄なら、奧の祭壇だわ」
「臓器売買なら、奧に手術室があるんじゃないかしら」
 彼女たちの想像力の豊かさに、男たちはため息をついた。最も現実的な表情をしていたのがマリアである。ジェスールはマリアに意見を求めた。
「マリアの意見は?」
 マリアにはあの女性がアパートで和ちゃんの横で添い寝をしていたイメージが浮かんだ。
「もし、私があの人なら、和ちゃんは一番奥の部屋で大切に保護しておくわ」
「オレも賛成だね」
「奥へ進もう」
「どちらの廊下を行くの?」
 チェルニーが指差す先は、右の廊下も、左の廊下も、平行にそろって館の奧に向かっている。どちらの廊下もその奥がぼやけて見えないが、どうやらこの館は左右対称という構造らしく、ヨゼフは自分の判断を述べた。
「どちらを進んでも違いはないね」
 とりあえず、仲間の位置に近い左の廊下を進もうとしたヨゼフを制してヘレンが言った。
「待って。左右二手に分かれましょう」
 首を傾げる仲間にヘレンは提案を続けた。
「私とジェスール、ヨゼフは右の廊下。派手に行くわよ。残りの3人は5分後、私たちが化け物を引きつけているあいだに、左の廊下から奥に突入して」
「その後は?」
「私たちが化け物をぶちのめすから……」
 ヘレンのその言葉をジェスールが制した。客観的に考えて、ぶちのめせるかどうかは判然としない。倒せない場合を考えて計画を練っておかねばならないだろう。ジェスールは襟をゆるめて、首にかけていたステンレスのチェーンを引っ張って、手に収まるぐらいの大きさの銀色の棒を取り出した。山歩きで万が一負傷して動けなくなったときに救出を求めるための笛である。よく響き、その音は地形に関わらず遠くまで届く。彼はその笛をチェルニーに渡して言った。
「目的は絞り込もう、まずは瓢箪荘の結界を解くより、和ちゃんの救出だ」
「そうね。人質を取られていては分が悪いわ」
「和ちゃんを救出したら、全力で逃げて館を脱出してから、このホイッスルを吹いてくれ。笛の音を合図に僕らも脱出する」
「それで行こう」
「時間を確認して、5分後よ。ここでゆっくりと300まで数を数えればいい」
「じゃあ、お先に」
 ヘレンたち3人は右の廊下に消え、マリアとチェルニー、アダムの3人が屏風の陰に取り残された。  
「うぶめ、産女」
 マリアは妖怪の名を頭にささやかれるかのように思い出した。アパートに残してきた書籍で、その妖怪の名に記憶がある。子供を生まないまま亡くなった妊婦が妖怪に変じたものという他、他人の子供を奪う妖鳥、産褥の血にまみれた姿で他人に子供を抱かせるとも言われる。しかし、産女という幹から様々に枝分かれをして葉を広げる情報や姿に、何か欠けているものがあるような気がしてならない。
 この世界に来る前にチェルニーが言ったこと。
「そう、動機よ。犯罪者には何か動機が必要だわ」
 この言葉が何かマリアの心に引っかかる。
「助けて……」
 和ちゃんの言葉が思い起こされて、マリアの心の中で産女のイメージにまとわりついた。アダムが考え込むマリアの肩をぽんっと叩いて、300数え終わったことを知らせた。時計は当てにならないが、ヘレンたちが右の通路を先行してから5分が経過しているはずである。事実、右の廊下の先からは、襖を勢いよく開ける音、障子を蹴破る音が派手に響いていて、館の奥にいるはずの化け物にまで届いているだろう。


 確かに、産女は館の最も奥の部屋で、ヘレンたちが立てる慇懃無礼な物音を聞いていた。こじんまりとした部屋の中央にふわりと浮かぶものがある。柔らかな光に包まれた繭の内側、そんな表現が合う空間である。調度品と呼べるものは、和ちゃんがすやすやと眠る繭の寝床だけである。彼女はその傍らで、何かに腰掛けるような姿でぷかりと宙に浮いていたまま、和ちゃんの寝顔を飽きることなく眺めていた。
 彼女の服は中国の漢服のようにもみえ、さらに古い中国の神話時代に登場する女性の衣類にも見える。彼女がこの世界で目覚めてから、幾万里の距離と幾千年の時を移り住んだろう。その彼女の暖かさだけは変わらぬように、衣服のゆったりした袖が和ちゃんを温かく包むみ、大きな袖口からのぞく柔らかな腕で和ちゃんの髪を撫でていた。
 彼女は自分でもどうしてあの手鏡を残してきたのか分からない。持ってくることも出来たはずだが、なぜか残した。ここへ和ちゃんを連れ戻って、和ちゃんを愛でるように眺め、癒されるように優しく撫で回している。
 彼女は眠ったままの和ちゃんに語りかけた。
「あなた……、だけは」
 聞こえてくる物音からは、彼女の和ちゃんを奪い取ろうとする意識があり、彼女は憎しみに近い恐怖を感じている。
 彼女は立ち上がって、和ちゃんを部屋中央の寝床に残して、ヘレンたちの元に向かった。
 ふんわりした優しい雰囲気の部屋、御簾を開けるとそこに障子の扉に囲まれた和室。御簾を閉じるたとたん、壁に変わって奥の和ちゃんが眠る部屋は見えなくなった。
(3人か)
 産女は陽炎のように揺らめく雰囲気の中に人数を読み取った。ただ、この無礼な連中を中心に濃い霧が生じているようで、この連中の姿はぼやけ、先の見通しがきかない。香りのように拡散してくる霧に不快な感情を感じられるが、すでにその霧は避けようもなく産女を包んでいた。産女は3人の背後にいる別の3人には気付かないで居る。
 伝わってくるものは、憐憫、同情?
 そんなものはまっぴらだった。ただ、あの子に心を癒されていたい。あの3人は、自分とあの子を引き裂く存在だと言うことは間違いない。絶対に、排除せねばならない。嫉妬や哀しみや不安、産女の表情は移り変わりつつ、邪魔者に対する冷たい憎しみに目を光らせて姿を消した。


「いったい、どこに?」
 ヘレンが呟く対象が、果たして、化け物のことか、和ちゃんのことか、館の奥のことなのか、彼女自身が分からなくなってしまっている。彼女たちが進む廊下の両側に四方を襖に囲まれた部屋があり、どの部屋の広さや調度や襖のデザインま同じである。果てもなく前方に続くかと思われた廊下を避けて、廊下の両側にあった部屋の一つに入り込んだあげく、部屋から部屋への果てしない迷路に入り込んでしまったのである。
(次の部屋こそ)
 襖を開けて次の部屋に入る都度、いつの間にやら背後で襖が閉じてしまっている。振り返って開ければ、誰に邪魔されるでもなく、音もなく開く。しかし、目を離すとの間にやら閉じている。蹴り飛ばして開けて通った襖は、彼女たちが通ったとたん、何事もなかったかのように閉じた位置でそこにある。一部屋づつ緊張感を込めて突き進む部屋の中で、方向すら見誤ってしまいそうになる。
「方向を見失っているのか」
 ジェスールがそう呟いて、磁石を見た。この世界に入ってから方角が意味をなさない。それは、この館の中も同じだった。目に見える館自体、この不可思議な空間と切り離せないのではないか。とすれば、襖を1枚づつ押し広げて進むこと自体意味がない。
 ヨゼフもそれを察しているのかも知れない。次の襖を開ける手を止めて漂う気配をうかがうように周囲をうかがった。
「どうしたの、先へ進むわよ」
 ヘレンの言葉にヨゼフが直感を述べた。
「この先は、奧じゃないよ」
 意味もなく回転する磁石の針を仲間に見せてジェスールが言った。
「この館が外の世界と同じなら、目に見える方向をアテにしてもしょうがない。」
「どういうこと?」
「ヘレン。何か感じないか?」
「感じる方向に進んでいこう」
 ヘレンは納得した。この場合、男は役に立たないらしい。信頼できるものは、女である彼女の直感だけである。部屋の四方が襖で囲まれた単調な四角い部屋が続いていた。
 ヘレンは前方の襖を開けて気配をうかがい、そして、襖を閉じた。確かに、気配の濃度に差がある。そして、今居る部屋の方が気配が異様に濃い。
 左の部屋の襖を開けて気配をうかがい、部屋に入らないまま部屋の中央に戻った。左の部屋で感じる気配も、この部屋ほどではない。
 そして、右の部屋。そっと襖を開けて、じっくりと味わうように雰囲気をかぎ取ったが、首を横に振った。
 そして、仕上げに元来た部屋の襖を開けて、雰囲気をかぎ取ると首を傾げて、振り返って首を傾げた。
「何故? 今、この部屋の雰囲気が一番濃いわ」
 ヘレンの感覚で辿ってきたものが、この空間で一番濃いと言うことは。仲間の背にぞっとする恐怖が走った。
 目には見えないが化け物はこの部屋にいるかも知れないということである。いよいよ、化け物との対面が迫ったことを察して、ジェスールはザックからペットボトルに僅かに残った水を取り出した。
(あれか、)
 産女はそう思った。彼女の気にくわない雰囲気を発し続けているのはあの水らしい。あの水を中心に彼女の視界を奪うように景色がぼやけており、確かに瓢箪荘で彼女の呪縛を解いたのはアレである。既に、ペットボトルの水が発する意識がこの場を囲んでいて、産女は部屋の外の様子が見えなくなっていることに気付いていない。別働隊のマリア達は産女に気取られずにいるのである。
「化け物がこの部屋にいるのか」
「卑怯者。姿を現しなさいっ」
 そんなヘレンの怒りに呼応するように、突然に、うっと眉をひそめたヨゼフの様子がおかしい。ヨゼフは彼を心配して様子を覗うジェスールに手を伸ばしたかと思うと、ジェスールが手にしたペットボトルを払い落とした。
 ペットボトルは床を転がって襖にぶつかって止まった。
「何を」
 ヘレンが非難を込めてそう呟きかけたときに、彼女たちと部屋の隅のペットボトルを遮る位置、ヨゼフの背景を揺らめかせる陽炎が生じていた。ヘレンたちが気配と呼んでいたものが凝縮するように姿を表しかけているのである。ヨゼフを操ってペットボトルをはじき飛ばしたのはこの陽炎らしい。その異変の異様さではなく、異変から流れ出すように押し寄せる孤独にもがき苦しむイメージに、3人は身をすくめた。
 揺らめく影は言った。
「私の心に侵入してきて、好き勝手なことを」
「心に?」
 ヘレンは化け物の言葉に引っかかるものがあった。疑問だらけのこの世界の真理を探る手がかりのようにも思われた。
「私のじゃまをする者は許さない」
 その言葉と共に揺らめく影は女の姿を取り、10メートル四方だった空間が、野球場ほどに拡大し、化け物の姿も仲間を見下ろし圧するほどである。膨らんだ物は姿だけではない、元の姿に凝縮された苦しみが膨張して流れ出した。空間などこの化け物の思うままに変化するのである。
 


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