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 次の展開への手がかりが無く、入居者たちは誰が導くでもなく混乱の始まりの場所に戻ってきた。
「もう一度整理してみよう。異変はここから始まったんだ」
 ジェスールの言葉をマリアが継いだ。
「貴方がそこに座ってトレッキングの道具の手入れをしていて、私とアダムが居たのよ」
 ヘレンが言葉を続けた。
「それから私が帰ってきて話に加わったわけね」
 そして、アダムが言葉を継いで言った
「続いて、チェルニーが帰ってきた」
 チェルニーが応じた。
「その前にあの女が和ちゃんを連れて階段にいたのよ。貴方たちの様子を覗うみたいにね」
「女が二階に現れて……」
 ジェスールは言葉を途切れさせて仲間の顔を見回して続けた。
「最初は君たちは、おの女が和ちゃんの母親だと信じていたね」
「分からないわ。和ちゃんのご両親が亡くなっている事は知っていたもの」
「私も……」
「ボクもだ」
 ジェスールが続く記憶を辿った。
「戦闘になって、」
 アダムは肩をすくめた。
「僕らの行為は何の効果も無かった」
 その通りだった。チェルニーが女の後頭部に与えた打撃も、ヨゼフの跳躍も、ジェスールの腕力も、ヘレンのハイキックの技も、女には全く影響を及ぼすことなく終わっている。
「そうだね。あの悪魔には十字架も効き目が無かった」
 アダムが言い、ヨゼフが応じた。
「十字架に影響されない。きっと、彼女、仏教徒じゃないんだろうか」
「何を?」
 チェルニーは呆れて続けた。
「妖怪にクリスチャンも仏教徒もムスリムもあるもんですか」
 ヘレンが断言した。
「その通り! 化け物は、化け物よ!」
 この後は口々に言葉が入り乱れて収拾が付かない。
「その前に、何故いきなり戦闘になった? 私たちは彼女と諍いのない生活をしてた」
「彼女に騙されながらね」
「あの水を吹きかけちゃった時から、女に騙されていたことを思い出したのよ」
「何? あの水?」
「富士山の麓の湧き水」
「何かの霊水ってわけ?」
「富士山って、女や子供を守る神さまなのよ」
「いや、”まゆつば”って言葉がある。人の唾液を眉に付けると妖怪のまやかしを見破ることが出来るという言い伝えなんだ。唾液には霊的な力があるのかもしない。ヘレン、君はあの水を口に含んだ後、唾液の混じった水を吹き出したんだろ」
「化け物に効き目があるなら、テッポウウオにでもなってやるわよ」
「あとは?」
「携帯電話から、大勢の子供の歌声」
 次の言葉に行き詰まった彼らは、記憶を辿って階段を下った。階段を下って直ぐにある管理人室を覗いたが、むろん誰の姿もなく、テーブル上に管理人が飲み残した茶の入った湯飲みが残されているが、既に指先に冷たさを感じるほど冷えている。
「これが、本当のお母さん?」
 アダムは仏壇の写真を取り上げて、傍らのジェスールに見せた。アダムはこの部屋にはいるのは初めてだが、部屋の隅に置かれた漆塗りの箱が、亡くなった人を弔う目的があるという事を知っていた。その仏壇にある若い男女の写真は和ちゃんの父母だろうと容易に想像が付く。
 ヘレンは写真を見て肯いた。しかし、写真の女性は、どうして、あの化け物を和ちゃんの母親と思いこんでいたのかと、考え込むほど雰囲気が違う。楽天的な性格が体からにじみ出すような笑顔は和ちゃんと似ている。傍らの男性に比べれば、小柄で女性らしい丸みを帯びた体つきだが、つっ突けば、彼女の心も体も弾み出すのではないかと思うほどの行動力を感じさせる。この部屋で得られる情報は他にはないらしい。仲間は化け物が和ちゃんと共に住んでいた隣の部屋に移動した。
 六畳の広さに、キッチンが付いた部屋で、大きさは仲間の住居と変わりがない。生活感を感じさせる物は部屋の隅の鏡台だけだ。
 居住者たちは置かれた状況を改善する情報に詰まってしまった。チェルニーが不安を紛らわせようとし、アダムが言葉を付け加えた。
「でも、ここは明かりは点くし、水道やガスも出るわよ」
「今のところ、食料や水には困らないということか」
 現状が改善される見込みは立たないが、少なくとも今のところは彼らの生存を脅かす兆候はないと言うことである。
 マリアは、ふと、開いた三面鏡に映る自分の姿に気付いて、事件が始まるまで、自分の部屋の鏡の前で髪を整えていたことを思い出した。ジェスールの気配に気付いて、無邪気に土産話でもねだろうとして、髪を最後まで整えずにいたのを思い出したのである。
 マリアは三面鏡の前に屈んで、正面に自分の顔を写し、転がっていた手鏡を後頭部の位置で角度を変えて、襟足を映そうと試みた。
 彼女が小さく驚きの声を上げたのはこのときである。
「あっ、あ・あ・あっ」
 彼女はすばやく辺りを見回した。仲間は皆、熱心に議論をしていて、彼女に耳を傾けてくれそうにない。しかし、再び鏡に向きあった彼女は首を傾げた。彼女の目の前の異変が消え失せている。彼女はチラリと胸に抱いた手鏡に視線をやった。
 そして、自分の推測を誰かに検証してもらう必要を感じて、手近に居たアダムに手招きをした。
「ちょっと……」
「どうしたんだい?」
「ここに立ってみてくれる?」
「ここかい?」
 マリアは鏡台の前を指さしてアダムに立ち位置を指定した。自分はアダムの背後に回って、鏡台に向かって手鏡をかざした。
「ほらっ」
「えっ?」
 アダムは息を呑んだ。目の前の光景が信じられないのである。まるで、鏡台にぽっかりと穴が生じたかのよう。その穴の向こうは、いきなり屋外になって、見たことの無い景色が広がっているのである。草原の草がそよぐ様子が見えている。
「えいっ」
「わっ」
 マリアの掛け声とアダムの悲鳴に似た声が続けさまに響いた。マリアが、とんっと、アダムの肩を突いて、新たな世界に放り込んだのである。
 六畳の部屋からアダムの姿が消えた。
 アダムの悲鳴で、仲間の視線が鏡台に集中した。最初に仲間が見たものは、得体の知れない穴からアダムが這い戻ってきた光景である。アダムは何か言いたいのだろうが、口をぱくぱくさせるのみで驚きか怒りの感情で声が出ない。いきなり、得たいの知れない場所にほおり込まれた。辺りをうかがう余裕もなく、部屋の光景が見える穴に戻ってきた。
「お前が、い・ち・ば・ん! 怖いわ」
 ようやく、アダムは息を整えながらマリアにそう言った。ドアのガラスを素手でぶち破ろうとするヘレンより、花瓶をぶつけようとするチェルニーより、笑顔で他人を得体の知れない世界に押し込むこの女が、一番危険だと言ったのである。
 マリアには悪気は無い。鏡の向こうに見える世界には、何やら懐かしさのようなものがあり、危険な香りは全く感じられないのである。
 じゃりっと足元に感触がある。向こうの世界に放り込まれたアダムが這い戻ってきたときに、素足につけたまま持ち込んだ土だった。畳に散らばった雑草の葉は、向こうの世界に放り込まれたアダムが思わずつかんで引き千切り、掴んだまま持ち帰ったものだ。
 目の前に広がる世界は映像だけではなく、実在感をもっている。
「ふうっ」
 突然に、マリアのため息とともに、異世界の扉が消え去った。彼女が手鏡を捧げ持つのに疲れた腕をおろしたのである。この女には緊張感が無い。
「なるほど、あの化け物はここから逃げたんだ」
 自ら手鏡を手にして、鏡台の鏡と合わせ鏡にしてみたヨゼフが言った。チェルニーが首を傾げた。
「どこに繋がってるのかしら」
 チェルニーに答えず、ジェスールが呟いた。
「残された手がかりは、向こうの世界だけか」
「かごめかごめ、閉じ込められている者はいつ出てくるのか?」
「行くわよ」
と、ヘレンが言った。今にも鏡の向こうに突入しそうな勢いである。
「もう少し準備が必要だよ」
「手がかりは向こうの世界だけよ。いつまでもここで暮らすつもり?」
「こんな格好で出かけるつもりかい。」
 ジェスールはヘレンにこの部屋の仲間を見るよう促した。戦闘意欲に欠けるマリア、靴べらを武器代わりに構えるチェルニー、何より彼女自身が何の武器も持ってはいない。
「じゃあ、三十分で準備を整えて、この鏡の前に集合。絶対にぶちのめしてやるんだから」
 ヘレンは仲間を散会させた。


 部屋に戻ったマリアは、塩を付けた手の平でご飯を握って、旅の食料を作った。マリアがお気に入りの日本のファーストフードといえた。
「ジェスールの分、チェルニーの分……」
 彼女はそう呟きながら、仲間の数に合わせて中くらいのおにぎりを六個作って弁当箱に詰め、ジェスールの体格や腹を空かせがちなヨゼフを思い出して予備のおにぎりも作った、さらにその隙間に香の物を押し込んだ。ピクニックにでも出かけるような気軽さで、そのお弁当を水筒と共に藤のバスケットにしまった。部屋の中を指差しながら見回して、記録のためのペンと手帳が必要だろうと判断した。続いて、長旅になったら綻びる衣服を繕う針や糸も必要だろうとも思った。手に収まるサイズのソーイングセットもバスケットに入れた。これで彼女の旅の準備は完璧である。
(どうして?)
 得体の知れない旅だが、不思議なことに、恐怖はわいてこない。あの女を思い出すときに、直感的に胸にわいてくるものは寂しさや悲しさ後悔など、恐ろしさとは別の感情である。
 時計を見ると、約束の時間まであと八分。彼女は机の上の書籍を手にした。ペルーに帰って童話作家をめざしたい、という彼女の夢の参考資料の一つである。妖怪と称される日本の不可思議な存在について、イラストと共に記載されている。何かの手がかりを求めて、マリアはページをパラパラとめくった。
 何故か、『「産女』というページで手が止まった。古くは中国の伝承で、『姑獲鳥』と、鳥を意味する文字を含んだ名称だったらしい。中国の伝承が日本に伝わり、日本の土着の伝承と結びついて、赤ちゃんを身ごもった、或いは赤ちゃんを出産した直後の女を意味する言葉が当てられて『産女』と称されるようになった。
 ただ、マリアがこのページで手を止めたのは、子供を大切に抱く女のイラストに気を引かれたのかもしない。ページをめくり続けると、他にも様々な妖怪のイラストが現れては消えた。
 もちろん、悪魔のような人を害する存在もある、しかし、人を驚かせて楽しむものや、悲しげなもの、コミカルなものなど、その多様性は世界の人々と同じで飽きさせない。マリアはこの本を仲間の参考に持って行くことにした。
 三面鏡の部屋に行くと、仲間は既に集まっているが、肝心のヘレンの姿がない。ヘレンを待ちつつ、マリアは先ほどの妖怪画集のページを仲間に広げて見せた。
「何か、子供をさらうような女の化け物が居るの?」
 チェルニーの問いに、ヨゼフは画集のページを繰ってみた。
(こんなにも多くの化け物が)
 画集を見た居住者たちの印象である。この国にはこれほど無数の化け物が人と共存しているのかと驚いている。
「ちょっと待って、何か聞こえる」
 アダムの声に、仲間はぎょっとして一斉に耳を澄ませた。
「なんだろう」
 アダムは音を判別した。
「刃物を研ぐ音じゃないか」
 マリアは刃物の音と聞いて、心当たりのあるページをめくった。
   鬼婆
 そのページのイラストは、犠牲者を切り刻んで料理すべく、包丁を研ぐ老婆の姿が描かれている。
 子どもを労働力や兵士としてさらう、臓器が目的で子どもをさらって殺してバラバラにする。先ほど仲間の想像にあった誘拐目的に、食用という目的が加わった。人を捉えて食べると言うのも妖怪にありがちな目的ではないか。イラストと、耳に聞こえる音が同調して、仲間の恐怖を極限まで煽った。
「ヘレンは?、ヘレンは奥の部屋に一人で居る。大丈夫か」
 アダムは一人で居たヘレンが、妖怪に襲われたのではないかと危惧したのである。
「いいか、そっと、足音を立てないで」
 五人の男女はジェスールを先頭にして、足を忍ばせて廊下を歩いた。ヘレンの部屋のドアが開いていて、やや薄暗い廊下に部屋の光が漏れて、光と共に固い金属を擦り合わせる音が断続的に響いてくる。その単調な物音は生命感が無く、不思議な自然現象のように仲間の心に響いて不安を煽った。
 ジェスールは仲間を振り返って肯くように、化け物が居たら皆で一斉に取り押さえるぞと黙って語りかけた。
「ヘレン! だいじょう……、ぎゃっ」
 大丈夫かと、ヘレンの安否を尋ねる前に、ジェスールは悲鳴を上げて身を避けた。身を避けたものの、何も飛んでくる危険物はない。驚きつつもほっと安堵するジェスールの様子に、ヨゼフが部屋の中をのぞき込んだ。ヘレンがこちらに向かってナイフを投げる体勢で居る。刃渡りが二十センチはある大型のコンバットナイフである。
「紛らわしいわね。入るなら先に声をかけてよ」
 突然の侵入者を妖怪と間違えかけたというのである。ヘレンは投げかけたコンバットナイフを鞘にしまい、留め金をかけた。右の脛の側面にもやや小さめのナイフのフォルダーを付けており、彼女は二丁のナイフを身につけている。更に、彼女の傍らには他に形の異なる三丁のコンバットナイフがシャープナーと並んでいた。先ほど聞こえていた物音は、アダムの推測通り刃物を研ぐ音であったようだ。
「よくまぁ、こんな、」
「どれでも好きなのを貸してあげるわ」
 ある意味、妖怪より危険な女だ。アーチェリーの弓が収納ケースから出して組み立てられており、十数本の矢が入ったクイーバーと言われる矢筒を腰から右の股に下げている。
「行くわよ」
 その目が怒りに燃えて逝っている。
「おいおい、ロビンフッドか?」
「あの妖怪に、四十五口径の弾丸をぶち込めないのは残念だけどね」
「だから、銃の代わりに弓で戦うつもりかい?」
「どんな状況でも逃げないのが海兵隊だわ」
「おれ、海兵隊じゃないし、」
 ヘレンはヨゼフにテーブルの上のナイフを指差して言った。
「じゃ、今からなりなさい」
 ヘレンはコンバットナイフをジェスールとヨゼフに渡した。
「戦う気概をもってれば、海兵隊員だわ」
 気を引き締めるように鉢巻きをするヘレンは、和ちゃんのすがるような目を思い出している。
「助けて」
 そう言って救いを求めた和ちゃんを、笑って見捨ててしまったのではないかという罪悪感である。今の彼女が怒りを感じているとするなら、和ちゃんを誘拐した女に半分、残りの半分は和ちゃんの助けを求めに応じきれなかった自分自身に向いている。
 あの場にいたマリアに、同意を求めて言った。
「私、あの時、約束したのよ。和ちゃんを守ってあげるって」
(助けて)
 その和ちゃんの言葉とすがりつくような表情はマリアもしっかり記憶していた。
 しかし、マリアは何故か首を傾げたくなるのである。
 仲間たちは再び鏡の部屋に戻った。椅子を見つけ、その背もたれに手鏡を固定して、鏡台の鏡と向かい合わせに置いた。再び、鏡の前に物静かな自然の景色が広がった。
「私はここに残るわ」
 チェルニーが意外なことを言い、その理由を続けた。
「ここを守る人間も必要でしょ?」
 論理的なことならともかく、チェルニーは妖怪だの幽霊など得体の知れない物は恐ろしい。そんな所に行くぐらいならゴキブリや蛇の群れに身を投じる方がましだと思うのである。それを前提に役割を考えれば、たしかに、この場を守るという選択肢がある。
 ヘレンがチェルニーを眺めて賞賛の声を上げた。
「へぇーーー」
「何よ」
「勇気があるなぁと思って」
 首を傾げるチェルニーに、ヘレンが語ってきかせた。
「いいこと? 大勢で居るからこそ、お互いを守れるし、化け物も手を出してこないの。それなのに、たった一人になったら……」
 ヘレンの言葉が途切れ、やや沈黙が続いた。チェルニーが想像を深める瞬間である。たしかに、化け物はあの入り口から逃げ去ったという証拠はなく、今も姿を消して、屋根裏にでも潜んで彼女たちの隙を窺っているかも知れないのである。
「あぁーら。なんて美味しそうなお尻」
 ヘレンはチェルニーの尻の肉を指先でつまんで、何者かが噛み付いたらこんな感じだと教えた。一人になったら、得体の知れないものが現れて、チェルニーを襲ってむさぼり喰うといっているのである。ヘレンは思わせぶりに天井を眺め回してからチェルニーに優しく語りかけた。
「私たちが帰るまで、ちゃんと無事でいてね」
「わ、私も行くわよ」
「了解!」
 ヘレンは周囲の仲間たちをぐるりと見回した。突入しようという彼女への反対はないものの、すでに戦闘態勢にある彼女に比べて、この兵士たちは気概は欠けているようだが、贅沢は言えまい。順番を決めるまでもなく、マリアが好奇心に駆られるように鏡の入り口をくぐり、ジェスールが整理しかけていた荷物を再びザックに詰め込んで背負った姿で後に続いた。仲間たちは次々と不可思議な世界に踏み込んで、最期にチェルニーが入り口をくぐった。
 

異境 1

 ヘレンは慎重に振り返って背後の安全を確認していた。鏡台の鏡と向きあうように椅子の背もたれに固定してある手鏡が見える。この出入り口が勝手に閉じることは無いだろう。
「風が」
 マリアはそう言ったが、感じるものは空気の流れとしての風ではない。さほど密ではない木立の中を、何やら寂しげな感情が吹き抜けてくるのだが、今のところ、マリア以外に気付く者がいない。木立とはいえ、ある程度の見晴らしも利き、その木立もすぐに抜けてしまった。目をこらして空と地の境目を辿っていくと、低い山並で周囲から隔離された盆地のように見える。珍しい景色ではない。彼らが住む大阪でも、見晴らしが利く場所で周囲を見回せば、海側を除く周囲に空と地を隔てる山の稜線が見え、その稜線から手前に人々の存在を象徴する田畑や家々が並ぶ。そんな景色は、小鳥のさえずりや風に弄ばれる葉が触れあう音を伴っている。
 この世界に入り込んだ彼女たちが抱く違和感は、そんな現実との違いである。人の気配を感じる人工物が無く、獣の気配や、小鳥のさえずりはもちろん、虫の声すら聞こえない。
 その孤独な風景に反して、この景色は彼女たちの感情に共鳴するものがあり、人々を優しく包み込む自然の原風景となっている。
 そして、彼女たちが目に見える光景の違和感と同時に、一種の心地よさを感じているのは、何かの脈動を全身で味わっているからである。耳に聞こえる音ではない。耳を澄ますように、精神を良く澄ませてみると、周期的に脈打つような音で、祭りや神楽舞の太鼓のようにも聞こえるが、それは彼女たちの鼓動と共鳴する。耳を澄ませ心を澄ませ、失いかけた細い記憶を辿れば、彼女たちが胎児の時に聞いた母親の鼓動に近い。
「さて、360度、どちらを見渡しても目標、見えないね」
 ヨゼフはしゃがみこんで視線を地面に近づけた。うっすらと苔が生えた地面の一部に土が露出している。そこに生き物が苔を踏みしだいた形跡から女の足跡を探ったのである
「やっぱり、」
と、ヘレンは独りごちた。この得体の知れない世界について、何か分かったことでもあるのかと期待を込めて、仲間は一斉にヘレンを注視した。
「ロビンフッドって矢の入ったクイーバーを背中にしょってるじゃない?」
「それが?」
「ネイテイブアメリカンも、日本の侍も、シューターは共通して矢を背負ってるの」
「だから、それがどうした?」
「アーチェリーは矢を腰から下げてるのに、どうしてロビンフッドは矢を背負うのかなって」
「それで?」
「腰から太ももに下げるのって競技では弓を操作するのに集中できるのよ。でも、ロビンフッドのように背負った方が実戦的」
 ヘレンが気付いたものはこの世界の情報ではないらしい。ヘレンはクイーバーに手を加えて背に背負った。
 ジェスールはザックの側面に吊した磁石で、慣れた手つきで方向を確認する仕草をした。そして、首を傾げてその磁石をこんこんと指ではじいた。使い慣れて信頼しきった磁石で、針は軽やかに動いているが、その示す先が定まらない。周囲を見回したが、針を乱すような地質ではなく、無論、磁石が意味を成さない極地点でもない。
 右手に背丈が際立って高い林が見え、彼らはその林を抜け、林を背にして歩いていたはずだ、ふと気づいてみると背にしていた林が右手前方に見えるのである。方位が意味を成さない世界である。
 方位が測れず、距離が測れず、時間も地形も当てにはならない。チェルニーは不安そうに尋ねた。
「ねぇ、帰り道は? まさか、帰り道が分からないなんて」
「心配は無さそうだ」
 ジェスールが振り返って指差すものは道と呼べるものではない。悲しげな感情が籠もる湿原の景色には、心を無造作突き刺し引き裂くように、彼らの足で苔が踏みしだかれて地面が露出した箇所が繋がっているかのよう。
 ほのぼのした雰囲気の草原では、密に生えた草の穂が、彼らに掻き分けられた痕が続き、踏みしだかれて地面が露出した部分辿ると筋が見える。
 荒々しい不安が乱れ流れる岩場には、心を乱されて彷徨って踏みしだいた石が細かく砕け、それらが流れる不安に風化して川の流れように見える箇所がある。
 振り返って眺めると、そう言う形跡が分岐もせずに、彼らが入ってきた入り口まで1本に繋がっているようである。
 突然に、先頭を行くマリアが立ち止まって、道を譲るように進路から身を避けて、ぽつりと言った。
「べとべとさん、べとべとさん、お先にお越し」
 ヘレンがその聞き慣れない言葉に首を傾げて尋ねた。
「なあに、その呪文は?」
「日本には、人の後をつけてくる妖怪がいるの。べとべとさんっていうのよ。出会ったときは、道を譲ってあげるの」
 何かの気配を察したというマリアの言葉に仲間は一斉にぎょっと身構えた。
「何か危険は?」
 ヘレンの問いにマリアはこともなげに答えた。
「何もしないわ。つけてくる気配や足音だけ」
 ヘレンは背後に何かの気配を感じたような気がして振り返ったが、もちろん何の姿もない。しかし、マリアに指摘されてみると、この世界に侵入したときの無機質な感覚に、何かの意図を感じさせる気配が風に乗ってやって来ていた。仲間の体にかき乱されながら淀むように周囲にまとわりつく悲しさや期待がまじった感覚があり、背にぞくりと恐怖を走らせた。
「きゃぁーーーーー」
 突然の悲鳴に似た大声に仲間は一斉に、声を発したチェルニーを注視した。
「どうした、チェルニー」
「どうもしないわ。ただ声を上げただけ」
 大声を上げたことで、チェルニーは恐怖を振り払ったらしく、けろりとしていた。
「迷惑な女ね」
 眉をひそめたヘレンを無視してチェルニーが尋ねた。
「いつまで、ここに居なきゃならないのよ」
 アダムが時計を確認すると、彼らがこの世界に入り込んだのは夕刻を迎える時間帯だったはずで、時計の針は午後3時前だが、陽が沈むことなく中天にあるかのように明るい。しかし、全天に渡って晴れ上がって、隠れるところのないはずの太陽は見えない。
 ジェスールはトレッキングをする者の習性として、自分の影で時間と方位を推し量って歩いているのだが、ジェスールの記憶では影の長さは変わらないのは、この世界で時間が経過していない証拠である。しかし、そもそも太陽が無く、全天の光に照らされているのに、どうして地面にくっきりと影が生じているのだろう。方向も時間にも意味が無い世界らしい。
「時間は無意味だ」
 ジェスールはそう言った。
「そぉ、いつまで居るのかと言えば、和ちゃんを取り戻して、アパートの結界を解く方法を知るまで」
 そうヘレンが言葉を続け、チェルニーが草を掻き分けて歩きながらぼやいた。
「そんなぁ」
 このとき、まるで耳元でささやくように、大勢の子供の声が響いた。
(かぁごめ、かごめ)
 仲間たちは一斉に体に異変を感じた。
「ああっ」
 チェルニーのそんな驚きの声も、全身から力が抜けきって口をついて出ない。チェルニーは地面にしゃがみ込んでしまっただけである。チェルニーの行動に、先ほどの人騒がせな悲鳴を重ね合わせた仲間たちは、非難の視線を送る間もなく、彼らもまた立っている力を失ってしゃがみ込んでいた。体調管理に自信のあるヘレンは、自分の身に起きたことが理解できないように足の筋肉を撫でている。
「これは?」
 初めての体験にそう呟くヘレンに、同じように膝を抱えてしゃがみ込んだマリアが力なく言った。
「餓鬼憑き。行き倒れになった旅人や、餓死者の怨霊に取り憑かれたのかも」
 以前、読んだ妖怪にまつわる書籍に、そんな妖怪が旅人に祟りをなすことがあると記載されていた。突然にしゃがみ込んでしまうほど、全身の力が抜けるという経験は初めてだが、何故かその名を思い出したのである。
 ジェスールはこの種の経験をトレッキングの中で経験していた。長期の山歩きで体力を失うと食欲も失せる。朝食を取らないまま山を彷徨していると、突然にこの種の現象に襲われることがある。ただ、数人に時を同じくして生じる現象ではない。
「怨霊ですって? 馬鹿を言わないでよ」
 チェルニーは餓鬼憑きをそう否定した。運動生理学か何かの書籍で、この種の反応性低血糖と呼ばれる症例を読んだことがある。
「何か食うものはないか」と、ジェスールは体験に基づいていった。
「何か食べればいいのよ」と、チェルニーは医学的見地を語った。
「とりあえず、食事にしましょう」
 マリアはバスケットを開けた。日本の民話では、餓鬼に取り憑かれた場合は、何かを食べればいいのである。マリアは仲間のためにおにぎりを作ってきている。それを分配した後、時間を感じさせないこと世界だが、自分たちが空腹を感じる程度の時間が経過していたことを実感した。
「ありがとう」
 ジェスールはそう言っておにぎりを受け取ったが、大きさが彼の体格と比べていかにも小さい。しかし、そんな苦情ではなく、マリアがおにぎりを取り出した藤のバスケットを見て思いついたことがある。彼はザックから水の入ったペットボトルを取り出した。ヘレンに飲まれて、こぼされて、残りは三分の一ばかりに減っている。ジェスールはペットボトルをマリアの手提げのバスケットに押し込んで言った。
「預かっておいてくれ」
 化け物との戦いが予想される。正面を切って戦うとすれば、自分とヘレンとヨゼフになるだろう。戦いの最中にペットボトルの水を使う余裕はあるまい。誰かに託して使わせるとしたら、のほほんとして恐れを知らないマリアに任せるべきだと結論づけたのである。
「いいわよ」
 マリアは荷物を受け入れて手提げのバスケットにしまい込んだ。ずっと感じ続けている気配や、突然の餓鬼憑きなど、何か意志のあるものが存在するようだが、感じる恐怖をのぞけば、彼女たちの身に危害は加えられていない。

「誰か、子供の声を聞かなかった?」
 チェルニーは仲間にそう尋ねたが、肯く者はない。やはり自分の空耳かと思いこんで、おにぎりを頬張った。しかし、あの子供の声がきっかけでここにとどまっているような気がし、何やら、子供たちが自分たちの行く手を遮っているような推察に致るのである。
 おにぎりをかじりかけたヘレンが不満げにマリアに尋ねた。
「何、コレ?」
「ヘレン向け特製おにぎり」
 おにぎりという日本のファーストフードはヘレンも知っているし、エネルギー補給の食品として便利だと評価してもいる。しかし、ヘレンが尋ねたのは、齧ったときに中から出てきたペーストである。
「中に入っているのは、何よ?」
 ヘレンが手渡されたおにぎりは、表面の塩の味わいは確かにおにぎりだが、かじってみるとねっとりと濃厚な甘いペーストが出てくるのである。それが塩味の付いたご飯と違和感がある。
「あらっ、アメリカ人なら、ピーナッツバターでしょ?」
 マリアは当然のように断言した。アメリカ人はピーナッツバターを好んで食すという偏見を持っているのである。マリアという女性は悪気はないのだろうが、どうも独自の信念があって、それを押しつける。思わず笑いが広がった仲間の中で、チェルニーが唇に人差し指を当てて静かにしろと指示をした。
「静かに、何か聞こえるわ」
 チェルニーが立ち上がって耳を澄ました。確かに、木立を駆け抜ける風の音に混じって何かのメロディが聞こえるのである。
「子供が歌ってるようだね」
 風の中から音を選別してみると確かに、子供の声がメロディを奏でているが、その歌詞とメロディは  聞き取りずらい。アダムが注意深く言った。
「子供の声がするなら、和ちゃんもいるかも知れない」
「慎重に進みましょう。私たちをおびき寄せるトラップかも知れない」
 ヘレンの言葉にチェルニーが応じた。
「注意してね」
 そんなチェルニーとヘレンの言葉に、応じるマリアの口の中には食べかけのおにぎりがあって、言葉を発することが出来ない。マリアは二人の意見に首を振って否定し、咀嚼したものを水筒の水でのどの奥に流し込んだ。
「行く必要ないわよ」
「どうして?」
「だって、向こうから近づいてきてるもの」
 耳をすませると、確かにマリアの言うとおりである、僅かながら聞こえるメロディが大きくなってきているようだ。
「ややこしい世界ね。音がどちらから聞こえてるのか分からない」
「素直に耳を傾ければいいの。どちらか分からないんじゃないの」
「えっ」
「どっちかじゃなくて、」
 全周に耳を傾けたマリアの言葉の深刻さに、ヘレンが叫ぶように言った。
「それじゃ、すでに敵の包囲攻撃を受ける危険があるってことよ」
「かーごめ かごめ」
 マリアが流れくる歌詞をメロディに乗せて呟いたので、仲間は驚いて立ち止まり彼女を注視した。
「どういう意味?」
 尋ねるチェルニーにマリアが答えた。
「どぉって、子どもたちの声は”囲んだぞ”って歌ってるのよ」
「アパートで携帯電話に聞こえた歌だね。がごめかごめの遊び歌か」
 アダムが情報をそう補足した。
 「ちょっと、どこに行くつもり?」
 ヘレンは声の方向に歩こうとしているマリアの首根っこを捕まえて引き戻した。
「だって、子供の声よ」
「油断させるためにトラップでよく使う手よ」
とヘレンは言い、アダムに説明の続きを求めた。
「続けて、今は何でもいいから情報が欲しいわ」
 状況は何やら変わり始めているようだ。僅かに風に乗ってきたメロディが、ややはっきりと聞こえるようになっているばかりではない。周囲を探って耳を澄ましてみれば、ヘレンたちの周囲、大人の背丈ほどの草の茂みのあちらこちらから、ぴっんと飛び跳ねるように子供たちの顔が見え隠れしている。見え隠れする子供たちの頭を辿ってったチェルニーが言った。
「確かに、私たち、子供たちに囲まれてるんじゃないかしら」
 全周から聞こえる歌声は、歌う子どもたちの姿が草木に隠れて見えないのか、幽霊のように実態を持たないものなのか判然とせず、不可思議な不気味さを伴う。
「かーごめ かごめ かごのなかの とりぃは いついつ でやぁる よあけのばんに」
 単調なメロディにのなかに、男の子や女の子、幼児から少年少女といっても良い年齢層、無数の子供たちの存在を聞き分けることができる。間をおいて、遊び歌の主が姿を見せた。 ヘレンたちの腹か胸の高さの背丈の草が密に生い茂る草原で、その草原に背丈が隠れてしまう子供たちである。時々、こちらを覗うように飛び跳ねて草の穂から見え隠れする顔の位置で確認すれば、数十人の子供たちの輪は縮まって、今はヘレンたちから半径20メートルほどの距離を置いて、彼女たちを囲んでいるらしい。
「みんな子供だ。脅かしちゃいけない」
 ジェスールは仲間を制して、子供たちに語りかけた。
「君たち、どこから来たの? お兄さんたちと、お話をしないか?」
 子供たちの歌声が一斉にやんだ。その静けさが不安感を煽る。
「何か相談をしているのかしら」
 その時に、かさっ、と、草をかき分ける音がし、一人の少年がチェルニーの目の前に姿を現した。歳は十歳ほど。深刻なほど思い詰めた瞳で、チェルニーを見上げていた。更に、物音がして、和ちゃんほどの年齢の女の子が姿を見せてヨゼフに向きあった。茂みをかき分ける音は続き、数十名ほどの子供たちが、仲間の元に姿を現した。
「やはり、トラップだわ」
 ヘレンが叫んだ。一人の子供が背に隠していた棒を取り出して、鋭く振り上げてアダムを襲った。子供たちは彼らを油断させて接近し、いきなり棒を持って彼らを攻撃して来たのである。こどもたちはどこからともなくわらわらと沸いて出てくる。しかし、非力な子供たちのこと、殴るというより、叩くという表現が似つかわしい。
「相手は子供よ、傷つけないようにね。ぎゃっ」
 ヘレンが苦痛で顔をしかめた表情を怒りに変えて、背後を振り返った。一人の女の子が竹の棒で彼女の尻を横に打ち据えたのである。非力な子供とはいえ、力一杯打たれれば痛い。ヘレンは痛みの腹立たしさに、有効な反撃の出来ない腹立たしさを加えて、少女を睨んだ。
(ひっ)
 少女は小さく悲鳴を上げ、驚いたように凍り付いた後、大きく開いた目に溢れそうに涙を浮かべた。そんな表情をされると、ヘレンがこの子を虐めていたような状況になる。ヘレンたちは、子供たちが振り回す棒を避け、奪った棒で子供たちを突いて遠ざけるように反撃するのだが、非力な子供たちにこんな仕打ちをして良いのかと罪悪感に襲われた。
 子供たちの目は真剣で、涙目になりながら攻撃を加えてくるのである。子供たちを傷つけることは出来ずに防戦一方で、避けきれない一撃を受けて悲鳴を上げ続けながら、撤退を決意したとき、マリアの声が響いた。
 子供たちを見つけて、持っていたおにぎりをわけて一緒に食べようとしたのに、攻撃に転じた子供たちのせいで、手にしたおにぎりが地面に転がり踏みつけられてしまったのである。
「こらぁーーーー」
 腹の底から怒りを噴出したマリアの声が響いた。子供たちはいっせいに静止してマリアの方を伺った。
「食べ物を粗末にする子は、母さん、お尻をぶつわよ」
 母親の怒りに触れたような声に、今まで攻撃を諦めなかった子供たちが静止したまま、すまないことをしたと反省する様子を見せた。マリアは悪戯が過ぎた子供を叱りつける目で、じろりと子供たちを眺め回した。子供たちは互いの顔を見合わせ、マリアの顔を窺って、逃げるように姿を消した。仲間はぽつんと取り残された。
 防御に息を切らせていたヘレンは、腑に落ちないながらも、マリアに礼を言った
「ありがと。よく分からないけど、あなたのおかげらしいわね」
 そう言いながら、物陰に一人の男の子を見つけた。年齢は十歳に満たないぐらい。反抗期の生意気盛りと言ったところか。急な状況変化に一人だけ逃げ遅れてしまったのである。
 ヘレンはふと、マリアを真似てみることにした。彼女は両膝に手を当てて姿勢を低くして男の子と視線の高さを合わせて言った。
「イタズラばかりしてると、お仕置きするわよ」
 母親になったつもりで言った言葉に反応して、男の子は握った拳を解いた。なるほど、こうすればこの子供たちは攻撃の意志を失うのである。ヘレンはこの状況に念を押すようにジェスールを振り返った。その瞬間、ヘレンは苦痛に表情を歪めて脛を押さえてかがみ込んだ。ヘレンの油断を察知して、男の子はヘレンの脛を蹴り上げて逃げたのである。
 走り去った物音を追って視線をやった先に、男の子は既に姿を消していた。再び仲間を振り返ると、理解できないという様子でぽかんと口を開けた表情を並べていた。その視線はエレンを飛び越えて、男の子が姿を消した先を見つめている。先ほどは子供たちの攻撃を避ける混乱のさなかで、逃げ去る子供たちの姿をはっきり見ていなかった。しかし、身の回りの混乱が収まって、男の子がヘレンのすねを蹴り上げる様子や背を向けて逃げ出す様子が見えたのだが、その様子が異様だった。藪をかき分けて姿が見えなくなったわけではない。男の子の姿が透明になり周囲の景色に溶け込むように姿を消したのである。確認するように周囲を見回せば、先ほどの数十人の子供たちが藪をかき分けて逃げ去った跡はなく、仲間を攻撃するために振り回した棒が茂みの草の葉や茎をなぎ払った形跡もない。ただ、6人ばかりの大人が、子供の攻撃を避けて暴れ回って踏みしだいた地面の跡、そして、子供たちに打たれた傷の痛みが残っているだけである。
「実態のない精神のようなものか」
 アダムは彼らを襲った子供たちをそう評した。
「それって、幽霊ということじゃない?」
「死んだ子供たちの魂が、天国へ行けず、どこかに縛り付けられてるの?」
 チェルニーとマリアの問いに、アダムは首を傾げてみせただけである。

「あのクソガキ!」
 ヘレンが蹴飛ばされた脛を押さえてそう言ったのを、温厚なジェスールが制した。子供たちを指し示す言葉として、クソガキとはちょっと表現が過ぎるだろう。
「じっとしていられないね。先へ進もう」
 なぜか無傷のヨゼフがそう提案した。
「クォ・バディス」
 ヨゼフの言葉にアダムはそう呟いた。ポーランド人作家の著書の題名でもあり、ヨハネによる福音書の引用でもある。
(どこへ行くつもりか)と、アダムは仲間に問うているのである。 
 方向を定める地形がないまま、彼らは方向を見失っている。ジェスールの磁石などはとおに役に立っていない。マリアが何かに気付いたように目をつむったまま、同じ位置でぐるりと回った。スカートの裾がふんわり膨らむ勢いである。そして、一方を確信を持って指差した。
「あちらよ」
「どうして分かる? 目標は何も見えないぞ」
「風」
 マリアはそう言いながら、今度は、口ごもった。表現が適切ではないような気がする。空気の流れではない。が、空気が流れるように一方から、寂しさ、悲しさ、苦しさ、嫉妬に似た腹立たしさ、そんな苦痛の感情が入り交じり、強さを様々に変えて流れて来て、彼女たちに方向を与えているのである。目をつむって周囲を感じ取りながらぐるりと回ったチェルニーは、マリアに同意した。
「本当」
「確かにそうね」
 ヘレンも自ら試してみて頷きながら、意味もなくくるくると回る3人の男たちの様子に首を傾げた。
「貴方たち、何やってんの?」
「何も感じないよ」
「鈍い人たちね」
 女性たちが自信満々で言うので、男たちも彼女たちが指し示す風上に向かうことに同意した。目標物が見えない、かといって地平線もまた見えないまま、遠くの景色は霧がかかったようにぼやけている。へレンが仲間を見えない目標に先導するように前方を歩いている。確かに女たちの導く方向に歩くと道に出会った。一本道で男にはどちらに進んでいい物かわからない。しかし、女たちは迷うことなく右側へと歩き始めた。
「足下が見えないから気をつけて」
 ヘレンが注意したとおりである。何キロ、何時間、彼女たちが歩き続けてこのままずっと続くかとも思われた道が、既に絶えてしまった。ヘレンたちは再び腰の高さほどの草が生い茂る草原に踏み込んでいて足下がおぼつかない。しかし、流れてくる悲しさの感情は強まり続けており、進む方向に間違いは無さそうである。
 ヘレンは首を傾げて尻に手を当てた。幼女に打たれた最初の一撃の痛みが残っていた。痛みとともに記憶に刻まれたあの幼女の表情に憎しみはなかった。一途な思いのみ伝わってくるのだが、その意図は計り知れずヘレンの心をかき乱した。
「ちっ、」
 考えごとをしながら歩いていたヘレンは、突然の舌打ちと共に、その姿が草の穂の波に沈んで消えた。背後にいた仲間には、ヘレンが危険を感じて伏せたようにも見える。皆、慌ててしゃがみ込み、しゃがんだままヘレンに歩み寄った。ヘレンが地面に倒れ込むように伏していて、草をかき分けて地面を指差して見せている。
「きゃっ」
 そんな悲鳴でチェルニーが倒れ込んだため、仲間はその指差す物の意図を察した。トラップである。二株の草の穂先が結ばれていて、地面に草の輪が出来ている。先にヘレンがつま先を引っかけて倒れたのと同じ草の輪が、ここ彼処に散見された。もちろん人工的な工作物である。
「あの子たちのイタズラね」
「この程度で良かったね。オレなら、敵が引っかかって倒れたところを狙って2つめのトラップを仕掛けておくね」
 そんな言葉で、ジェスールが倒れた仲間を励ました。そのジェスールに、マリアが枝の上を指差した。
「例えば、あれ?」
 マリアが慌てて身を避けるのが見えた。今しがたアダムが足に引っかけたロープを辿ると頭上の籠からトゲの付いた栗の実がいくつも転がり落ちてきたのである。彼らは悲鳴を上げて逃げたが、全てを避けることは出来ない。
「あのクソガキどもにも、この程度の知恵があったってことだな」
 普段は温厚なジェスールが、栗のイガでこめかみ辺りに血を流してそう言った。むろん軽傷だが、イタズラを仕掛けた子供たちと、あっさりひっかかった自分に腹を立てている。ヨゼフが気付いて言った。
「でも、あの子たちの心理を読んでみると良いよ。守りたいものに侵入されたくないからトラップを仕掛けてるんだね」
「どういうこと?」
「1つ、間違いなくこの先に何かがある。2つ、子供たちが大事な物を守りたければ、この先にもトラップを仕掛けている」
「トラップがあることが分かってさえ居れば、避けるのは簡単よ」
「足下に注意しろよ」
 チェルニーは足を止めた。両端の灌木に道が狭められており、その狭い道幅に掘ったのか泥水の水溜まりがある。四角く掘り抜いた穴は自然現象ではなく人工物だと分かる。そして四方が数十センチという可愛らしさは、子供が一生懸命に作ったのだろうと思わせるのである。
「この水溜まりはトラップのつもりね。私たちを泥だらけにしようっていうのかしらね」
 彼女は笑って水溜まりを飛び越えて、悲鳴を上げた。
「どうした?」
「落とし穴に落ちただけよ」
 チェルニーは転んで付いた泥を払いながら、努めて平静を装ってそう言った。水溜まりを飛び越えるということを想定した上で、着地点に落とし穴が掘ってあったのである。
「気をつけろって言ったろ」
 アダムはそう言ったが、次の瞬間にしなやかな木の枝に腰を打たれて顔をしかめた。見れば、木の枝を撓らせて固定し、足下のロープに引っかかった瞬間に枝が元の元の位置に戻るという単純なトラップだった。
 イタズラに引っかかり続ける仲間も問題だが、子供たちのしつこさはどうだろう。彼らの真剣さと必死さが伝わってくるようだった。
「この先に進んではいけないということかしら、」
 マリアがぽつりとそう言った。仲間が被ったトラップの数々は、いかにも子供が仕掛けたイタズラレベルのもので、その結果には怒鳴りたくなるものの、仲間の命には別状はない。このイタズラに、お尻を叩く程度のお仕置きはしてやるにしても、子供たちに本気で腹を立てるのは大人げない。
 しかし、草の輪のトラップの草は未だ生き生きとした緑だった。もし、この世界に仲間たちの世界の常識を当てはめれば、以前からそう言う具合に設置してあったトラップなら、とっくに草は枯れ果ててしまっているだろう。仲間たちが遭遇するとラップの数々は、あの子供たちが、彼らの行く手を阻もうとして、必死に設置しているようにも見える。その必死さが、何か不憫にも感じられるのである。
 ヘレンはふと気付いた。この世界に来てから、彼女たちは子供たちのトラップにひっかり続け、服は落とし穴の泥で汚れ、頭上から落ちてくる落下物に悲鳴を上げている。なのに、マリアとヨゼフ、あの二人ののほほんとした姿はどうだろう。マリアがトラップを避けているのは、彼女の悪運の強さにみえる。しかし、ヨゼフは理論立てて説明することは出来ないようだが、周囲の気配に注意深く、危険を避けているようだ。それは、野生の勘と呼んでも良い。
「前方偵察!」と、ヘレンはヨゼフに命じた。
 ヨゼフは笑った。ヘレンはようやく自分の特徴に気付いたらしい。ヘレンというのは主力部隊であって偵察には不向きに違いない。そのヨゼフも子供達について考えている。
 証拠を挙げろと言われれば根拠がない。しかし、子供たちが襲ってきたときに、マリアと自分だけが攻撃の対象にならなかったのは何故だろう。マリアと自分には共通点がある。あの化け物を敵と感じて行動する仲間の中で、女に害意を感じずにいるということだ。
「ちょっと待ってるね」
 ヨゼフはそう言い置いて軽々と身を翻して駆けだした。が、少し進んで振り返って地面を差し、
「そこ、落とし穴がある」
と、仲間に注意を促した。野生の勘は効を奏して、仲間は無事に前進した。
「おぉーーーい」
 ヨゼフが長い腕を振って手招きをして仲間を呼び寄せた。
 仲間の目前に湖が広がっている。
 背丈ほどの草が生い茂る視界の利かない草むらを抜けると、突然に出現したという景色である。湖面は凍りついたように澄み渡っており、時折、そよ風が作りだす細波が無ければ、空を映す鏡にみえる。ヨゼフはすでに水辺に屈みこんで手の平に一すくいの水をとり安全性を確認するように匂いを嗅ぎ、口に含んだ。よく澄んだ水で、僅かに地の香りがする。
 ジェスールも屈んで指先を浸し、更に、タオルを澄んだ水に浸してきつく絞り、首筋の汗をぬぐった。マリアは水筒の蓋を開けた。ヨゼフの様子から飲用できると見て、残り少なくなった水を補給しようとしたのである。マリアは湖の透明感を確認して、水筒を持った手を水面に漬けた。

 こぽり、こぽりっ、

 水筒の口は泡を吐き出して水を飲み込んでゆく。
 突然に、マリアはその指先に凍りつく痛みに似た恐怖を感じた。その恐ろし気な感覚が収まりきらず、彼女は手にした水筒を投げ上げるように放りだして、自らの胸を抑えてうずくまった。
「衛生兵(メディック)!」
 マリアの体に異変を感じ取ったヘレンがチェルニーを呼んだ。
「誰が、衛生兵よ」
 チェルニーは心の中で毒づいた。見たところ、マリアに緊急を要する外傷は無く、目を大きく見開いて無表情になっていて、精神的なショックを受けたようだが、回復して表情を取り戻しつつある。
 チェルニーは小刻みに震えるマリアを抱きしめていたが、マリアは安堵したように自ら起き上がった。チェルニーはタオルを持ってマリアの側を離れた。冷や汗をかいているマリアの額を、冷たくぬらしたタオルで拭いてやろうと思ったのである。
「ちょっと、彼女を支えていて」
 チェルニーは、まだふらついているマリアをアダムに預けた。タオルを湖の水につけてすすいだ瞬間、チェルニーもまた声にならない悲鳴を上げて、電気にでも撃たれたようにのけぞって倒れた。
「どうした、チェルニー」
 アダムの問いかけに、倒れ込んで声を発することが出来ないチェルニーの代わりに、涙を浮かべたマリアが答えた。
「水が、水が……」
 言葉がとぎれがちで意味をなしていないのは、発する単語を探して、戸惑っているからである。あの衝撃、あの心の痛みをどう表現すればよいのだろう。
「水の中に何か居る?」
 ヨゼフはそう推察して湖をのぞき込み、試しに水面をかき混ぜてみた。まったく異常が無く、二人が倒れた原因が分からない。ジェスールとアダムも湖をのぞき込んだが、澄んだ水に異常は見つからない。縁から中心部に向かって遠浅に深さを増すという湖のようで、湖面に映るアダムの顔に、滑らかに深くなって行く湖底の斜面が見えている。手前の光の届く湖底から中心部に目を移してゆくと、湖に吸い込まれるかと思うような目眩に囚われるが、それだけである。既に湖の水を口に含んだヨゼフ、水に指を浸して香りを嗅いで異常を探るジェスール、そしてアダム自身にも、マリアやチェルニーほど即効的な変化はない。ふと、アダムは考えた。
「これは仮説だが……」
 そう語り始めるアダムに、仲間の視線が集まった。
「男はこの湖の水に触れても異常は感じないんだ。しかし、女は……。いや、あくまでも仮説だけどね」
 異常を感じるマリアとチェルニー、全く異常を感じないジェスールとヨゼフとアダム、このグループの違いを考えれば明らかに、性別によって差が出るのではないかというのである。
「それが?」
と、ヘレンは仲間を見回して聞いた。
 仲間の視線が自分に集中しているのに気付いたのである。お前は女かと問うている視線である。
「あんたたちは、私が女だと証明するのに触ってみろと言ってるわけ? いいわ、触ってやろうじゃない」
 そう言いつつ、ヘレンは湖のほとりにしゃがんだ。そして、そっと指を伸ばしてさぐろうとした。マリアやチェルニーのように突然ではなく、何かあるかもしれないと心の準備は出来ている。
 しかし、水面に指を伸ばしかけたヘレンは、勘良く察して、振り向いて背後のマリアに言った。
「こらっ」
 マリアがヘレンの背後から背を押すポーズで固まっている。岸辺の水深は深くは無い。しかし、こんな体勢でマリアに背を押されたら、ヘレンは腕はひじの辺りまで、そして顔は水面にどっぷり浸けてしまうだろう。マリアは先に感じたものから、指先をほんの少し浸ける程度ではなく、この湖に秘められた感情を、どっぷりと十分に感じ取る必要があると思ったのである。
「誰か、この・危・険・な・女、抑えといてくれる?」
 チェルニーがマリアの腕をつかんだのを確認して、ヘレンは再び湖面に指を伸ばした。たしかに、チェルニーとマリアはこの湖に触れて異常を感じたようだが、すでに回復している。ショックは大きいのかもしれないが、回復は早い。彼女はそう冷静に読んでいる。中指の指先に水を感じたが変化が無い。
「うんっ?」
 変化を感じないのが不思議な感じがする。指先が触れる水面に静かに波紋が広がった。指先で何かを探るように動かすにつれて波紋が幾重にも広がったがヘレンに変化は無い。
この時、湖面に風が吹きぬけた。さわやかな涼風といってもいい。この湖の持つどんよりした重いイメージの対極にある風が、ヘレンの髪を撫でた。
「えっ?」
 ヘレンの指先を中心に広がっていた波紋が、ゆるりゆるりと縮まっているようにみえたのである。むろん自然現象としては見かけない光景である。
 その変化は急速に速度を増し、ヘレンが湖面から指を離すまえに、幾重もの波紋が彼女の指先に収縮した。
「お母さんっ!!」
 ヘレンは天を仰いで、言葉を吐き出すように叫んだ。彼女自身が叫んだわけではない。湖の底深くから伝わってきた感情が、彼女の口を借りて空に向けて噴出したのである。
 彼女は頭をしっかり抱えてうずくまった。呼吸を忘れるほどに胸が悲しみの感情で切なく彼女は両手で胸を押さえた。
「あっ、泣いてる?」
 ジェスールがそう口にした。男勝りなヘレンの涙が信じられなかったのである。
「うるさいっ」
 ヘレンは拳でジェスールの胸を叩いた。しかし、理由は良く分からない。頬を伝わる涙が恥ずかしくはなく、自然なことのように思われるのである。
「んっ?」
 突然、マリアは皆の視線を浴びているのに気づいて、ペットボトルの蓋を閉めた。泣いたせいかのどが渇いたのだが、先ほど自分の水筒は、湖から受けたショックで放り投げてしまって、水が地面にこぼれて残っていない。ジェスールに与えてもらったペットボトルを思い出して飲んでいたのである。
 誰かが飲みなさいと囁いたような気もする。
 ヘレンが声にならない叫びを上げて、マリアからペットボトルを奪い取った。
「どうするのよ、コレ」
 ヘレンがマリアの目の前で振ったペットボトルには、底に一口か二口分が残っているだけである。あの化け物に対抗すべき有効な手段が、たったそれだけしか残っていない。マリアはやや非難を込めた目でヘレンを見た。マリアも反論したくなる。最初にペットボトルの水に口をつけたのはヘレンである。口に含んだ水は吹き出したため、飲んでいないかもしれないが、その後でペットボトルを放りだして、その大半をこぼしてしまったのはヘレンのはずだ。非難を目つきで返されると、ヘレンも後ろめたい。ジェスールがペットボトルを奪い取って、背中のザックにしまい込んだ。
「預けたのは俺だ。あとはオレが預かる」
 マリアはふと何かを感じて、口元から喉へと指先を滑らせた、体内に流れ込んだ水は、喉から胃の腑、胃の腑からヘソの辺り、そこからまるで子宮に落ち着くような感覚で、彼女の体内を通った。お腹の中がほんのりと温かい感じがし、女性として生まれた幸福感が全身に広がった。
「アレじゃないか?」
 ヨゼフがやや背伸びをして目をこらす方向に、他の仲間の視線が集まった。その景色は水面を流れる霧にぼやけてしまっている。最初は、その建物が湖の中程に浮かんでいるように見えた。湖を薄く覆う霧の上に覗くのは、古い日本家屋の屋根である。遠目に見ても粗末な家屋ではない。しかし、霧が淡く薄れるように晴れてみると、壮麗壮大と表現するにも及ばない質素な白木造りの一軒家である。ただ、質素であっても、何者かの存在を暗示するものである。
「あれね」
 ヘレンが和ちゃんとあの女の存在場所だという意味を込めて言った。仲間は肯いた。ここまでの道程で人の気配を感じる建築物は他に無く、女が発したに違いない感情の流れに逆らってここまで辿ってきた。あそこに女と和ちゃんが居るという確信があった。
「湖の周囲を回って、あと、20分というところか」
 ジェスールがその距離を評した。不思議なことに、今までどの程度の距離を歩いたのか、仲間には全く実感がない。子供たちの妨害の数々を考えればずいぶん長い道程だったような気がし、ここであの一軒家を眺めれば、不思議な入り口からここまでほんの一瞬だったような気もするのである。しかし、現在の目標を捉えて距離を考えれば、ジェスールの判断通りだろう。しかし、ヘレンはその判断に大幅な修正を加えた。
「駆け足! 10分後にあの門から突入するわよ」
 言い終わる間もなく駆け始めたヘレンを見て、顔を見合わせた仲間は仕方がないと肯きつつ、ヘレンの後を追った。

 



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