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 ジェスールが先頭に立ち、階段を下りる途上で、目を回しているチェルニーを抱き起こした。彼らは周囲の気配を油断なく見回しながら、女の部屋の前に移動した。振り返ってマリアを眺めると、彼女は肯いていて、この部屋に間違いはない。このアパートの構造から判断すれば、このドアを除けば、窓以外に逃げ場はなく、窓ガラスを割った音もしていないから、女は和ちゃんを連れたままこの部屋の中にいるに違いない。
 ジェスールはドアを開けられる程度にドアから距離を置いて、目配せをしてヨゼフにドアを開けてくれと伝えた。ドアが開いた瞬間に部屋に飛び込むつもりである。ヘレンはジェスールに続いて部屋に突入する体制を整え、チェルニーは玄関にあった靴べらを武器の変わりに手にして振り上げた。
 ヘレンが黙って指を曲げていく意味を察して呼吸を合わせた。一本づつ指を曲げてゆき拳になって握りしめて前に突き出した瞬間に、一斉に突入するのである。
「GO!」
 拳を握った瞬間にヘレンが突入を命じた。ヨゼフがドアを開け、ジェスールに続いてヘレンが部屋に突入した。
 部屋は無人であった。部屋の中を見回せば唯一の出口は窓しかない。
「窓から逃げたのかしら」
「いや、和ちゃんを抱いて出るには小さすぎる、それに、ほらっ」
 アダムは窓の鍵を指差した。
「鍵がかかったままだ。ここから外に出たとしても、あとから鍵をかけることが出来ない」
 もちろん、窓ガラスを割った様子はなく、押し入れを開けても、布団が詰まっているだけで人影はない、布団が詰まっている押し入れの天井から逃れた気配はないが、念のためにアダムが天井板を外して天井裏をのぞき込み、首を振って誰の姿も見られないことを告げた。
「床?」
 ヨゼフが床下から逃げたかと推察したのだが、チェルニーが否定した。畳を剥がし、その下の床板を剥がすほどの余裕があるはずはなく、それに畳の上に手鏡が転がっている。もし畳を傾けたのなら、手鏡が畳の中央に転がっているはずがないと冷静に考えたのである。
 マリアは転がっていた手鏡を誰かが踏んづけて割って怪我をしないよう、部屋の片隅に移動させた。女がここに住んでいたと言うことを示すのは、マリアが手にした手鏡と、部屋の隅に置かれた三面鏡のみである。静まりかえった部屋の中は空虚で生活感がない、そんな景色を鏡が映し出していた。6畳の狭い空間に6人の人間が集まっていて、次の一手が見つからないまま、行き詰まって沈黙が続いた。
「ここには、手がかりは無さそうだね」
「別の場所もあたってみよう」
「急ぎましょう」

 一階には他に五つの部屋があり、管理人室を含めて誰の姿も見つからない。最初は集団になっていたヘレンたちも、あまりの違和感のなさに緊張を解いて、各自はバラバラになり、思いつくまま一階、二階を探索したが、手がかりは見つからず、何となく最初の手がかりを求めた女の部屋に戻り始めた。
 その時、玄関からアダムが異変を知らせる声を発した。
「ちょっと来てくれ」
 いち早く玄関に駆けつけたチェルニーは眉をひそめた。
「緊張感のない人ね」
「こんな時に遊ぶの良くない」と、ヨゼフもアダムを非難した。
 他の仲間も、このタイミングで笑えない冗談にため息をついた。このアパートは古いが、管理人がよく手入れしていて、ドアもきしむことなく軽く音もなく開く。アダムはそのドアの前で、必死でドアを押しながら、開けることが出来ないパントマイムを演じているのである。集まった仲間の前で、アダムが一人でおどけているようにしか見えない。
「君たちがやってみろ」
 自分の立場を理解させるには、それしかあるまい。アダムはドアから距離を置いて、ドアを指差した。
「いいわっ、ドアを開ければ良いんでしょ」
 チェルニーが肩をすくめて、タチの悪い冗談に付き合ってあげると宣言した。そのチェルニーがドアに触れたのだが様子がおかしい。きょとんとして、再び肩をすくめて、無言のままで順番を譲るように、背後にいた腕力には自信のありそうなジェスールにドアを指し示した。ジェスールはドアを押し、ドアを確認するように撫でてみてから首を傾げて順番をヨゼフに譲った。ヨゼフは大きな手の長い指先を広げて、ドアから、ドアを付けてある枠まで、丁寧になで回して見て、素直に事実を認めて言った。
「このドア、ドアじゃないね。開かないよ」
 ドアが開きにくいというのではなく、硬さが異様である。一枚岩をドアの形に彫り上げたかのように、ドアのノブや蝶番など、可動部が動く様子もなく、軋みもしないのである。
「どいて、」
 ヘレンは他の居住者をドアから遠ざけた。首元に巻いていたジャージの袖を解いて、右のこぶしを覆った。
「おい、おい、おいっ、」
 アダムはヘレンの意図を察した。ドアの窓ガラスを割るつもりである。ドアは開かなくても窓ガラスなら破れるかもしれない
「えっ?」
 しかし、窓ガラスはヘレンの拳を受け付けなかった。ふつうなら、割れずとも拳にその感触があるはずだ。固そうに見えたドアがぼやけて、ヘレンの拳はぼんやりとした薄暗い空間を貫いただけである。
「もぉっ」
 チェルニーが下駄箱脇の花瓶を振り上げた。男性たちはチェルニーの意図を察した。花瓶を投げつけて、窓を割るつもりだ。こういう場合、女性の方が大胆な行動をとるものかもしれなかった。
 チェルニーが両腕を振り上げて投げつけた花瓶は、ドアの窓ガラスを破ることも無く、花瓶自身が割れることも無く、命中した箇所にぶらりと浮いて、漂うような動きを見せた。やや時間を置いて、重さがあることを思い出したかのように、そのままぽとりと床に落ちて鋭い音を立てて破片を飛び散らせた。仲間は黙ったまま顔を見合わせた。
 花瓶がぷかりと浮いたありえない光景と、床で砕け散った現実的な光景が重なって得体の知れない恐怖感を生んだ。
「ほかの場所から外に出ましょうよ」
 マリアが現実的な提案をした。仲間はうなづいた。確かにこの得体の知れないドアを相手にしていても埒があくまい。一番近い窓は階段の脇にある。
「えっ?」
 窓に接近したアダムは窓の外を指さした。アダムが指差したのは、隣の子供が路地でボール遊びをする光景だが、投げ上げたボールが宙に浮いたままで、落ちてくる気配が無い。
「あれは?」
 ヨゼフは管理人の姿を見つけたのである。庭木に水をやっているのだが、飛び散る水しぶきが静止して、差し込む陽の光が作り出した虹と同様に音が無い。
「管理人さん」
「和ちゃんのおじいちゃん」
 ヨゼフとマリアが大声で呼びかけたのだが、声は管理人には届かず反応は無い。
 チェルニーは、玄関脇の固定電話から引きちぎられたケーブルの端をつかんでヘレンに見せた。ヘレンにも記憶がある。以前、あの女が引きちぎったケーブルである。その電話がまたいつの間にやら姿を取り戻して、元の位置にある。
(電話?)
 チェルニーはそう思いついて、アダムの胸のポケットに見えた携帯電話を引っ張り出した。二つ折りの携帯電話を開いて思いついた番号を押した。
「もしもし?」
 そうだ、電話なら外の世界に救援を求めることが出来るだろう。しかし、チェルニーは怪訝な表情でダイヤルボタンを押し直した。耳に当てた電話に耳を澄ませ首を傾げた。
「ひっ」
 チェルニーは小さく悲鳴を上げて電話を切り、更に、別のダイヤルボタンを押した。電話に耳を澄ませた彼女は、目を細めて恐怖に耐え、彼女の様子を覗っていたアダムに電話を返した。アダムは受け取った電話を注意深く耳に当てた。
「何か、子供の声だ。和ちゃんじゃない。もっと大勢」
 そこまで判断して、聞いてみろとジェスールの耳に当てた。
「もしもし、そちらは誰だ?」
 ジェスールは聞こえるものの異様さに目を細めて、電話の向こうに呼びかけたが、名乗る者はいない。電話回線によって繋がった得体の知れない世界で発せられる叫びが一方的に聞こえるのみである。それでも、ジェスールは注意深く耳を傾けて、メロディと歌詞を聴き取った。
「かぁごの なぁーかの とぉりぃはぁ、」
 ジェスールの口から漏れ出す情報を聞いたマリアが言った。
「かごめかごめ? 日本の子供の遊び歌よ」
「だめだ。これ以上は聞き取れないよ」
 ジェスールは隣にいたエレンに電話を回した。ヘレンが耳を傾けて首を傾げ、更に、電話を受け取ったヨゼフが、耳を傾けて意味が分からないという様子で首を振った。
「かごめ?」
「子供の遊び歌。マザーグースみたいなものよ」
 マリアはあっけらかんと言った。その表現をアダムが補った。確かにアメリカ人にも分かりやすい表現だが、微妙に違うのは言葉の意味が不確定で幾つもの解釈が成り立つということである。それをアダムが口にした。
「"かごめ"という言葉だけでも、籠、籠の編み目、妊婦から、ユダヤの紋章にまで、様々な解釈されたりしてる。」
 チェルニーが応じた。
「理屈はいいわ。子どもたちは何が言いたいの?」
 この時、ヨゼフは公園でマリアやアダムと子どもたちの遊び歌を聴いたことを思い出した。
「確か、取り囲んでいるという意味?」
「ここから逃がさないぞって脅してるわけ?」
 事実、彼女たちは閉じ込められて逃げ場がないのである。携帯電話を順に回して聞き取る仲間の耳に、確かに、かごめかごめの言葉が聞こえ、言葉を聞き取ろうと耳をすますほど、メロディが無機質に心に刻まれている。無邪気さのみで感情を伴わない歌声は恐怖感を掘り起こす。
「かごのなかの とりぃは いついつ でやぁる」
 ジェスールも手にした携帯電話を耳に当てて、その言葉をつぶやいた。アダムはジェスールが呟く言葉の意味を補足した。
「籠の中の鳥、閉じ込められた俺たちの比喩か」
 マリアが言葉を継いだ。
「『いついつ でやる』ってのは、『いつ出会えるの?』、『いつになったら出て行けるの?』、『いつ出て行くつもりなの?』、など、いろいろな解釈があるわ」
「理屈は良いから、子どもたちは何が言いたいの」
 チェルニーの言葉にヨゼフが言った。
「いつ会えるのかな? 会いたいって言ってるのかな」
「あなたたちは、この瓢箪荘から、いつ出て行くつもりかと尋ねてるんじゃ」
「どうして? 私たちを閉じ込めているのは、子どもたちじゃないの」
 ジェスールは携帯電話をそっと耳から離してチェルニーに返した。チェルニーは改めて電話を耳に当てた、子供たちが歌うメロディは続いていた。

 うしろの しょうめん だぁれ?

 言葉の意味は理解できる。子供たちのメロディは、お前の後ろに居る者は誰だと問うているのである。チェルニーは子どもたちが何か警告でも発しているのかと、思わず背筋にぞっと恐怖を感じて通信を切って振り返った。
 チェルニーの背後にはマリアが居て、ぽつりと尋ねた。
「何故、そんな歌が聞こえるの? 子供たちは何を言いたいのかしら?」
 仲間は途絶えたメロディを追うようにチェルニーの手の携帯電話を眺めた。誰もマリアの疑問を解けずにいる。
「じゃあ、あの女の動機は何だ? どうして和ちゃんを誘拐した? どうして和ちゃんの母親になりすましていた?」
 ジェスールはそんな言葉で問題解決の観点を変えてみようと提案した。
「そう、動機よ。犯罪者には何か動機が必要だわ」
 ヘレンがチェルニーにの言葉に同意して肯いた。チェルニーは少し考え込んで結論を出した。
「人身売買ね。子供が奴隷として、労働力として、高く売れるのよ」
 ヘレンが別の選択肢を発した。
「子供を集めて少年兵にするという話もあったわ」
 ヨゼフも意見を加えた。
「それなら、まだ良い。でも、臓器売買が目的だったら?」
 たしかに、この世界の片隅でそんな話があったようだ。チェルニーはヨゼフの意見を補った。
「和ちゃんをばらばらにして、内臓とか目の角膜とかを取り出して高く売ろうってわけ?」
 入居者たちは、ばらばらになった和ちゃんの想像を振り払うように首を振った。
 マリアは首をかしげた。愛情と呼べるかどうかは首を傾げざるを得ないが、少なくとも、あの女には和ちゃんを傷つける気配はなかった。
 しかし、子どもを労働力に、兵士として、臓器売買を、すべてこの地球のどこかに現実にある話で、否定のしようがない。妖怪の世界に比べて、人間の世界とはいかに恐ろしいものだろう、そんな思いをため息と共に吐き出したのである。


 次の展開への手がかりが無く、入居者たちは誰が導くでもなく混乱の始まりの場所に戻ってきた。
「もう一度整理してみよう。異変はここから始まったんだ」
 ジェスールの言葉をマリアが継いだ。
「貴方がそこに座ってトレッキングの道具の手入れをしていて、私とアダムが居たのよ」
 ヘレンが言葉を続けた。
「それから私が帰ってきて話に加わったわけね」
 そして、アダムが言葉を継いで言った
「続いて、チェルニーが帰ってきた」
 チェルニーが応じた。
「その前にあの女が和ちゃんを連れて階段にいたのよ。貴方たちの様子を覗うみたいにね」
「女が二階に現れて……」
 ジェスールは言葉を途切れさせて仲間の顔を見回して続けた。
「最初は君たちは、おの女が和ちゃんの母親だと信じていたね」
「分からないわ。和ちゃんのご両親が亡くなっている事は知っていたもの」
「私も……」
「ボクもだ」
 ジェスールが続く記憶を辿った。
「戦闘になって、」
 アダムは肩をすくめた。
「僕らの行為は何の効果も無かった」
 その通りだった。チェルニーが女の後頭部に与えた打撃も、ヨゼフの跳躍も、ジェスールの腕力も、ヘレンのハイキックの技も、女には全く影響を及ぼすことなく終わっている。
「そうだね。あの悪魔には十字架も効き目が無かった」
 アダムが言い、ヨゼフが応じた。
「十字架に影響されない。きっと、彼女、仏教徒じゃないんだろうか」
「何を?」
 チェルニーは呆れて続けた。
「妖怪にクリスチャンも仏教徒もムスリムもあるもんですか」
 ヘレンが断言した。
「その通り! 化け物は、化け物よ!」
 この後は口々に言葉が入り乱れて収拾が付かない。
「その前に、何故いきなり戦闘になった? 私たちは彼女と諍いのない生活をしてた」
「彼女に騙されながらね」
「あの水を吹きかけちゃった時から、女に騙されていたことを思い出したのよ」
「何? あの水?」
「富士山の麓の湧き水」
「何かの霊水ってわけ?」
「富士山って、女や子供を守る神さまなのよ」
「いや、”まゆつば”って言葉がある。人の唾液を眉に付けると妖怪のまやかしを見破ることが出来るという言い伝えなんだ。唾液には霊的な力があるのかもしない。ヘレン、君はあの水を口に含んだ後、唾液の混じった水を吹き出したんだろ」
「化け物に効き目があるなら、テッポウウオにでもなってやるわよ」
「あとは?」
「携帯電話から、大勢の子供の歌声」
 次の言葉に行き詰まった彼らは、記憶を辿って階段を下った。階段を下って直ぐにある管理人室を覗いたが、むろん誰の姿もなく、テーブル上に管理人が飲み残した茶の入った湯飲みが残されているが、既に指先に冷たさを感じるほど冷えている。
「これが、本当のお母さん?」
 アダムは仏壇の写真を取り上げて、傍らのジェスールに見せた。アダムはこの部屋にはいるのは初めてだが、部屋の隅に置かれた漆塗りの箱が、亡くなった人を弔う目的があるという事を知っていた。その仏壇にある若い男女の写真は和ちゃんの父母だろうと容易に想像が付く。
 ヘレンは写真を見て肯いた。しかし、写真の女性は、どうして、あの化け物を和ちゃんの母親と思いこんでいたのかと、考え込むほど雰囲気が違う。楽天的な性格が体からにじみ出すような笑顔は和ちゃんと似ている。傍らの男性に比べれば、小柄で女性らしい丸みを帯びた体つきだが、つっ突けば、彼女の心も体も弾み出すのではないかと思うほどの行動力を感じさせる。この部屋で得られる情報は他にはないらしい。仲間は化け物が和ちゃんと共に住んでいた隣の部屋に移動した。
 六畳の広さに、キッチンが付いた部屋で、大きさは仲間の住居と変わりがない。生活感を感じさせる物は部屋の隅の鏡台だけだ。
 居住者たちは置かれた状況を改善する情報に詰まってしまった。チェルニーが不安を紛らわせようとし、アダムが言葉を付け加えた。
「でも、ここは明かりは点くし、水道やガスも出るわよ」
「今のところ、食料や水には困らないということか」
 現状が改善される見込みは立たないが、少なくとも今のところは彼らの生存を脅かす兆候はないと言うことである。
 マリアは、ふと、開いた三面鏡に映る自分の姿に気付いて、事件が始まるまで、自分の部屋の鏡の前で髪を整えていたことを思い出した。ジェスールの気配に気付いて、無邪気に土産話でもねだろうとして、髪を最後まで整えずにいたのを思い出したのである。
 マリアは三面鏡の前に屈んで、正面に自分の顔を写し、転がっていた手鏡を後頭部の位置で角度を変えて、襟足を映そうと試みた。
 彼女が小さく驚きの声を上げたのはこのときである。
「あっ、あ・あ・あっ」
 彼女はすばやく辺りを見回した。仲間は皆、熱心に議論をしていて、彼女に耳を傾けてくれそうにない。しかし、再び鏡に向きあった彼女は首を傾げた。彼女の目の前の異変が消え失せている。彼女はチラリと胸に抱いた手鏡に視線をやった。
 そして、自分の推測を誰かに検証してもらう必要を感じて、手近に居たアダムに手招きをした。
「ちょっと……」
「どうしたんだい?」
「ここに立ってみてくれる?」
「ここかい?」
 マリアは鏡台の前を指さしてアダムに立ち位置を指定した。自分はアダムの背後に回って、鏡台に向かって手鏡をかざした。
「ほらっ」
「えっ?」
 アダムは息を呑んだ。目の前の光景が信じられないのである。まるで、鏡台にぽっかりと穴が生じたかのよう。その穴の向こうは、いきなり屋外になって、見たことの無い景色が広がっているのである。草原の草がそよぐ様子が見えている。
「えいっ」
「わっ」
 マリアの掛け声とアダムの悲鳴に似た声が続けさまに響いた。マリアが、とんっと、アダムの肩を突いて、新たな世界に放り込んだのである。
 六畳の部屋からアダムの姿が消えた。
 アダムの悲鳴で、仲間の視線が鏡台に集中した。最初に仲間が見たものは、得体の知れない穴からアダムが這い戻ってきた光景である。アダムは何か言いたいのだろうが、口をぱくぱくさせるのみで驚きか怒りの感情で声が出ない。いきなり、得たいの知れない場所にほおり込まれた。辺りをうかがう余裕もなく、部屋の光景が見える穴に戻ってきた。
「お前が、い・ち・ば・ん! 怖いわ」
 ようやく、アダムは息を整えながらマリアにそう言った。ドアのガラスを素手でぶち破ろうとするヘレンより、花瓶をぶつけようとするチェルニーより、笑顔で他人を得体の知れない世界に押し込むこの女が、一番危険だと言ったのである。
 マリアには悪気は無い。鏡の向こうに見える世界には、何やら懐かしさのようなものがあり、危険な香りは全く感じられないのである。
 じゃりっと足元に感触がある。向こうの世界に放り込まれたアダムが這い戻ってきたときに、素足につけたまま持ち込んだ土だった。畳に散らばった雑草の葉は、向こうの世界に放り込まれたアダムが思わずつかんで引き千切り、掴んだまま持ち帰ったものだ。
 目の前に広がる世界は映像だけではなく、実在感をもっている。
「ふうっ」
 突然に、マリアのため息とともに、異世界の扉が消え去った。彼女が手鏡を捧げ持つのに疲れた腕をおろしたのである。この女には緊張感が無い。
「なるほど、あの化け物はここから逃げたんだ」
 自ら手鏡を手にして、鏡台の鏡と合わせ鏡にしてみたヨゼフが言った。チェルニーが首を傾げた。
「どこに繋がってるのかしら」
 チェルニーに答えず、ジェスールが呟いた。
「残された手がかりは、向こうの世界だけか」
「かごめかごめ、閉じ込められている者はいつ出てくるのか?」
「行くわよ」
と、ヘレンが言った。今にも鏡の向こうに突入しそうな勢いである。
「もう少し準備が必要だよ」
「手がかりは向こうの世界だけよ。いつまでもここで暮らすつもり?」
「こんな格好で出かけるつもりかい。」
 ジェスールはヘレンにこの部屋の仲間を見るよう促した。戦闘意欲に欠けるマリア、靴べらを武器代わりに構えるチェルニー、何より彼女自身が何の武器も持ってはいない。
「じゃあ、三十分で準備を整えて、この鏡の前に集合。絶対にぶちのめしてやるんだから」
 ヘレンは仲間を散会させた。


 部屋に戻ったマリアは、塩を付けた手の平でご飯を握って、旅の食料を作った。マリアがお気に入りの日本のファーストフードといえた。
「ジェスールの分、チェルニーの分……」
 彼女はそう呟きながら、仲間の数に合わせて中くらいのおにぎりを六個作って弁当箱に詰め、ジェスールの体格や腹を空かせがちなヨゼフを思い出して予備のおにぎりも作った、さらにその隙間に香の物を押し込んだ。ピクニックにでも出かけるような気軽さで、そのお弁当を水筒と共に藤のバスケットにしまった。部屋の中を指差しながら見回して、記録のためのペンと手帳が必要だろうと判断した。続いて、長旅になったら綻びる衣服を繕う針や糸も必要だろうとも思った。手に収まるサイズのソーイングセットもバスケットに入れた。これで彼女の旅の準備は完璧である。
(どうして?)
 得体の知れない旅だが、不思議なことに、恐怖はわいてこない。あの女を思い出すときに、直感的に胸にわいてくるものは寂しさや悲しさ後悔など、恐ろしさとは別の感情である。
 時計を見ると、約束の時間まであと八分。彼女は机の上の書籍を手にした。ペルーに帰って童話作家をめざしたい、という彼女の夢の参考資料の一つである。妖怪と称される日本の不可思議な存在について、イラストと共に記載されている。何かの手がかりを求めて、マリアはページをパラパラとめくった。
 何故か、『「産女』というページで手が止まった。古くは中国の伝承で、『姑獲鳥』と、鳥を意味する文字を含んだ名称だったらしい。中国の伝承が日本に伝わり、日本の土着の伝承と結びついて、赤ちゃんを身ごもった、或いは赤ちゃんを出産した直後の女を意味する言葉が当てられて『産女』と称されるようになった。
 ただ、マリアがこのページで手を止めたのは、子供を大切に抱く女のイラストに気を引かれたのかもしない。ページをめくり続けると、他にも様々な妖怪のイラストが現れては消えた。
 もちろん、悪魔のような人を害する存在もある、しかし、人を驚かせて楽しむものや、悲しげなもの、コミカルなものなど、その多様性は世界の人々と同じで飽きさせない。マリアはこの本を仲間の参考に持って行くことにした。
 三面鏡の部屋に行くと、仲間は既に集まっているが、肝心のヘレンの姿がない。ヘレンを待ちつつ、マリアは先ほどの妖怪画集のページを仲間に広げて見せた。
「何か、子供をさらうような女の化け物が居るの?」
 チェルニーの問いに、ヨゼフは画集のページを繰ってみた。
(こんなにも多くの化け物が)
 画集を見た居住者たちの印象である。この国にはこれほど無数の化け物が人と共存しているのかと驚いている。
「ちょっと待って、何か聞こえる」
 アダムの声に、仲間はぎょっとして一斉に耳を澄ませた。
「なんだろう」
 アダムは音を判別した。
「刃物を研ぐ音じゃないか」
 マリアは刃物の音と聞いて、心当たりのあるページをめくった。
   鬼婆
 そのページのイラストは、犠牲者を切り刻んで料理すべく、包丁を研ぐ老婆の姿が描かれている。
 子どもを労働力や兵士としてさらう、臓器が目的で子どもをさらって殺してバラバラにする。先ほど仲間の想像にあった誘拐目的に、食用という目的が加わった。人を捉えて食べると言うのも妖怪にありがちな目的ではないか。イラストと、耳に聞こえる音が同調して、仲間の恐怖を極限まで煽った。
「ヘレンは?、ヘレンは奥の部屋に一人で居る。大丈夫か」
 アダムは一人で居たヘレンが、妖怪に襲われたのではないかと危惧したのである。
「いいか、そっと、足音を立てないで」
 五人の男女はジェスールを先頭にして、足を忍ばせて廊下を歩いた。ヘレンの部屋のドアが開いていて、やや薄暗い廊下に部屋の光が漏れて、光と共に固い金属を擦り合わせる音が断続的に響いてくる。その単調な物音は生命感が無く、不思議な自然現象のように仲間の心に響いて不安を煽った。
 ジェスールは仲間を振り返って肯くように、化け物が居たら皆で一斉に取り押さえるぞと黙って語りかけた。
「ヘレン! だいじょう……、ぎゃっ」
 大丈夫かと、ヘレンの安否を尋ねる前に、ジェスールは悲鳴を上げて身を避けた。身を避けたものの、何も飛んでくる危険物はない。驚きつつもほっと安堵するジェスールの様子に、ヨゼフが部屋の中をのぞき込んだ。ヘレンがこちらに向かってナイフを投げる体勢で居る。刃渡りが二十センチはある大型のコンバットナイフである。
「紛らわしいわね。入るなら先に声をかけてよ」
 突然の侵入者を妖怪と間違えかけたというのである。ヘレンは投げかけたコンバットナイフを鞘にしまい、留め金をかけた。右の脛の側面にもやや小さめのナイフのフォルダーを付けており、彼女は二丁のナイフを身につけている。更に、彼女の傍らには他に形の異なる三丁のコンバットナイフがシャープナーと並んでいた。先ほど聞こえていた物音は、アダムの推測通り刃物を研ぐ音であったようだ。
「よくまぁ、こんな、」
「どれでも好きなのを貸してあげるわ」
 ある意味、妖怪より危険な女だ。アーチェリーの弓が収納ケースから出して組み立てられており、十数本の矢が入ったクイーバーと言われる矢筒を腰から右の股に下げている。
「行くわよ」
 その目が怒りに燃えて逝っている。
「おいおい、ロビンフッドか?」
「あの妖怪に、四十五口径の弾丸をぶち込めないのは残念だけどね」
「だから、銃の代わりに弓で戦うつもりかい?」
「どんな状況でも逃げないのが海兵隊だわ」
「おれ、海兵隊じゃないし、」
 ヘレンはヨゼフにテーブルの上のナイフを指差して言った。
「じゃ、今からなりなさい」
 ヘレンはコンバットナイフをジェスールとヨゼフに渡した。
「戦う気概をもってれば、海兵隊員だわ」
 気を引き締めるように鉢巻きをするヘレンは、和ちゃんのすがるような目を思い出している。
「助けて」
 そう言って救いを求めた和ちゃんを、笑って見捨ててしまったのではないかという罪悪感である。今の彼女が怒りを感じているとするなら、和ちゃんを誘拐した女に半分、残りの半分は和ちゃんの助けを求めに応じきれなかった自分自身に向いている。
 あの場にいたマリアに、同意を求めて言った。
「私、あの時、約束したのよ。和ちゃんを守ってあげるって」
(助けて)
 その和ちゃんの言葉とすがりつくような表情はマリアもしっかり記憶していた。
 しかし、マリアは何故か首を傾げたくなるのである。
 仲間たちは再び鏡の部屋に戻った。椅子を見つけ、その背もたれに手鏡を固定して、鏡台の鏡と向かい合わせに置いた。再び、鏡の前に物静かな自然の景色が広がった。
「私はここに残るわ」
 チェルニーが意外なことを言い、その理由を続けた。
「ここを守る人間も必要でしょ?」
 論理的なことならともかく、チェルニーは妖怪だの幽霊など得体の知れない物は恐ろしい。そんな所に行くぐらいならゴキブリや蛇の群れに身を投じる方がましだと思うのである。それを前提に役割を考えれば、たしかに、この場を守るという選択肢がある。
 ヘレンがチェルニーを眺めて賞賛の声を上げた。
「へぇーーー」
「何よ」
「勇気があるなぁと思って」
 首を傾げるチェルニーに、ヘレンが語ってきかせた。
「いいこと? 大勢で居るからこそ、お互いを守れるし、化け物も手を出してこないの。それなのに、たった一人になったら……」
 ヘレンの言葉が途切れ、やや沈黙が続いた。チェルニーが想像を深める瞬間である。たしかに、化け物はあの入り口から逃げ去ったという証拠はなく、今も姿を消して、屋根裏にでも潜んで彼女たちの隙を窺っているかも知れないのである。
「あぁーら。なんて美味しそうなお尻」
 ヘレンはチェルニーの尻の肉を指先でつまんで、何者かが噛み付いたらこんな感じだと教えた。一人になったら、得体の知れないものが現れて、チェルニーを襲ってむさぼり喰うといっているのである。ヘレンは思わせぶりに天井を眺め回してからチェルニーに優しく語りかけた。
「私たちが帰るまで、ちゃんと無事でいてね」
「わ、私も行くわよ」
「了解!」
 ヘレンは周囲の仲間たちをぐるりと見回した。突入しようという彼女への反対はないものの、すでに戦闘態勢にある彼女に比べて、この兵士たちは気概は欠けているようだが、贅沢は言えまい。順番を決めるまでもなく、マリアが好奇心に駆られるように鏡の入り口をくぐり、ジェスールが整理しかけていた荷物を再びザックに詰め込んで背負った姿で後に続いた。仲間たちは次々と不可思議な世界に踏み込んで、最期にチェルニーが入り口をくぐった。
 

異境 1

 ヘレンは慎重に振り返って背後の安全を確認していた。鏡台の鏡と向きあうように椅子の背もたれに固定してある手鏡が見える。この出入り口が勝手に閉じることは無いだろう。
「風が」
 マリアはそう言ったが、感じるものは空気の流れとしての風ではない。さほど密ではない木立の中を、何やら寂しげな感情が吹き抜けてくるのだが、今のところ、マリア以外に気付く者がいない。木立とはいえ、ある程度の見晴らしも利き、その木立もすぐに抜けてしまった。目をこらして空と地の境目を辿っていくと、低い山並で周囲から隔離された盆地のように見える。珍しい景色ではない。彼らが住む大阪でも、見晴らしが利く場所で周囲を見回せば、海側を除く周囲に空と地を隔てる山の稜線が見え、その稜線から手前に人々の存在を象徴する田畑や家々が並ぶ。そんな景色は、小鳥のさえずりや風に弄ばれる葉が触れあう音を伴っている。
 この世界に入り込んだ彼女たちが抱く違和感は、そんな現実との違いである。人の気配を感じる人工物が無く、獣の気配や、小鳥のさえずりはもちろん、虫の声すら聞こえない。
 その孤独な風景に反して、この景色は彼女たちの感情に共鳴するものがあり、人々を優しく包み込む自然の原風景となっている。
 そして、彼女たちが目に見える光景の違和感と同時に、一種の心地よさを感じているのは、何かの脈動を全身で味わっているからである。耳に聞こえる音ではない。耳を澄ますように、精神を良く澄ませてみると、周期的に脈打つような音で、祭りや神楽舞の太鼓のようにも聞こえるが、それは彼女たちの鼓動と共鳴する。耳を澄ませ心を澄ませ、失いかけた細い記憶を辿れば、彼女たちが胎児の時に聞いた母親の鼓動に近い。
「さて、360度、どちらを見渡しても目標、見えないね」
 ヨゼフはしゃがみこんで視線を地面に近づけた。うっすらと苔が生えた地面の一部に土が露出している。そこに生き物が苔を踏みしだいた形跡から女の足跡を探ったのである
「やっぱり、」
と、ヘレンは独りごちた。この得体の知れない世界について、何か分かったことでもあるのかと期待を込めて、仲間は一斉にヘレンを注視した。
「ロビンフッドって矢の入ったクイーバーを背中にしょってるじゃない?」
「それが?」
「ネイテイブアメリカンも、日本の侍も、シューターは共通して矢を背負ってるの」
「だから、それがどうした?」
「アーチェリーは矢を腰から下げてるのに、どうしてロビンフッドは矢を背負うのかなって」
「それで?」
「腰から太ももに下げるのって競技では弓を操作するのに集中できるのよ。でも、ロビンフッドのように背負った方が実戦的」
 ヘレンが気付いたものはこの世界の情報ではないらしい。ヘレンはクイーバーに手を加えて背に背負った。
 ジェスールはザックの側面に吊した磁石で、慣れた手つきで方向を確認する仕草をした。そして、首を傾げてその磁石をこんこんと指ではじいた。使い慣れて信頼しきった磁石で、針は軽やかに動いているが、その示す先が定まらない。周囲を見回したが、針を乱すような地質ではなく、無論、磁石が意味を成さない極地点でもない。
 右手に背丈が際立って高い林が見え、彼らはその林を抜け、林を背にして歩いていたはずだ、ふと気づいてみると背にしていた林が右手前方に見えるのである。方位が意味を成さない世界である。
 方位が測れず、距離が測れず、時間も地形も当てにはならない。チェルニーは不安そうに尋ねた。
「ねぇ、帰り道は? まさか、帰り道が分からないなんて」
「心配は無さそうだ」
 ジェスールが振り返って指差すものは道と呼べるものではない。悲しげな感情が籠もる湿原の景色には、心を無造作突き刺し引き裂くように、彼らの足で苔が踏みしだかれて地面が露出した箇所が繋がっているかのよう。
 ほのぼのした雰囲気の草原では、密に生えた草の穂が、彼らに掻き分けられた痕が続き、踏みしだかれて地面が露出した部分辿ると筋が見える。
 荒々しい不安が乱れ流れる岩場には、心を乱されて彷徨って踏みしだいた石が細かく砕け、それらが流れる不安に風化して川の流れように見える箇所がある。
 振り返って眺めると、そう言う形跡が分岐もせずに、彼らが入ってきた入り口まで1本に繋がっているようである。
 突然に、先頭を行くマリアが立ち止まって、道を譲るように進路から身を避けて、ぽつりと言った。
「べとべとさん、べとべとさん、お先にお越し」
 ヘレンがその聞き慣れない言葉に首を傾げて尋ねた。
「なあに、その呪文は?」
「日本には、人の後をつけてくる妖怪がいるの。べとべとさんっていうのよ。出会ったときは、道を譲ってあげるの」
 何かの気配を察したというマリアの言葉に仲間は一斉にぎょっと身構えた。
「何か危険は?」
 ヘレンの問いにマリアはこともなげに答えた。
「何もしないわ。つけてくる気配や足音だけ」
 ヘレンは背後に何かの気配を感じたような気がして振り返ったが、もちろん何の姿もない。しかし、マリアに指摘されてみると、この世界に侵入したときの無機質な感覚に、何かの意図を感じさせる気配が風に乗ってやって来ていた。仲間の体にかき乱されながら淀むように周囲にまとわりつく悲しさや期待がまじった感覚があり、背にぞくりと恐怖を走らせた。
「きゃぁーーーーー」
 突然の悲鳴に似た大声に仲間は一斉に、声を発したチェルニーを注視した。
「どうした、チェルニー」
「どうもしないわ。ただ声を上げただけ」
 大声を上げたことで、チェルニーは恐怖を振り払ったらしく、けろりとしていた。
「迷惑な女ね」
 眉をひそめたヘレンを無視してチェルニーが尋ねた。
「いつまで、ここに居なきゃならないのよ」
 アダムが時計を確認すると、彼らがこの世界に入り込んだのは夕刻を迎える時間帯だったはずで、時計の針は午後3時前だが、陽が沈むことなく中天にあるかのように明るい。しかし、全天に渡って晴れ上がって、隠れるところのないはずの太陽は見えない。
 ジェスールはトレッキングをする者の習性として、自分の影で時間と方位を推し量って歩いているのだが、ジェスールの記憶では影の長さは変わらないのは、この世界で時間が経過していない証拠である。しかし、そもそも太陽が無く、全天の光に照らされているのに、どうして地面にくっきりと影が生じているのだろう。方向も時間にも意味が無い世界らしい。
「時間は無意味だ」
 ジェスールはそう言った。
「そぉ、いつまで居るのかと言えば、和ちゃんを取り戻して、アパートの結界を解く方法を知るまで」
 そうヘレンが言葉を続け、チェルニーが草を掻き分けて歩きながらぼやいた。
「そんなぁ」
 このとき、まるで耳元でささやくように、大勢の子供の声が響いた。
(かぁごめ、かごめ)
 仲間たちは一斉に体に異変を感じた。
「ああっ」
 チェルニーのそんな驚きの声も、全身から力が抜けきって口をついて出ない。チェルニーは地面にしゃがみ込んでしまっただけである。チェルニーの行動に、先ほどの人騒がせな悲鳴を重ね合わせた仲間たちは、非難の視線を送る間もなく、彼らもまた立っている力を失ってしゃがみ込んでいた。体調管理に自信のあるヘレンは、自分の身に起きたことが理解できないように足の筋肉を撫でている。
「これは?」
 初めての体験にそう呟くヘレンに、同じように膝を抱えてしゃがみ込んだマリアが力なく言った。
「餓鬼憑き。行き倒れになった旅人や、餓死者の怨霊に取り憑かれたのかも」
 以前、読んだ妖怪にまつわる書籍に、そんな妖怪が旅人に祟りをなすことがあると記載されていた。突然にしゃがみ込んでしまうほど、全身の力が抜けるという経験は初めてだが、何故かその名を思い出したのである。
 ジェスールはこの種の経験をトレッキングの中で経験していた。長期の山歩きで体力を失うと食欲も失せる。朝食を取らないまま山を彷徨していると、突然にこの種の現象に襲われることがある。ただ、数人に時を同じくして生じる現象ではない。
「怨霊ですって? 馬鹿を言わないでよ」
 チェルニーは餓鬼憑きをそう否定した。運動生理学か何かの書籍で、この種の反応性低血糖と呼ばれる症例を読んだことがある。
「何か食うものはないか」と、ジェスールは体験に基づいていった。
「何か食べればいいのよ」と、チェルニーは医学的見地を語った。
「とりあえず、食事にしましょう」
 マリアはバスケットを開けた。日本の民話では、餓鬼に取り憑かれた場合は、何かを食べればいいのである。マリアは仲間のためにおにぎりを作ってきている。それを分配した後、時間を感じさせないこと世界だが、自分たちが空腹を感じる程度の時間が経過していたことを実感した。
「ありがとう」
 ジェスールはそう言っておにぎりを受け取ったが、大きさが彼の体格と比べていかにも小さい。しかし、そんな苦情ではなく、マリアがおにぎりを取り出した藤のバスケットを見て思いついたことがある。彼はザックから水の入ったペットボトルを取り出した。ヘレンに飲まれて、こぼされて、残りは三分の一ばかりに減っている。ジェスールはペットボトルをマリアの手提げのバスケットに押し込んで言った。
「預かっておいてくれ」
 化け物との戦いが予想される。正面を切って戦うとすれば、自分とヘレンとヨゼフになるだろう。戦いの最中にペットボトルの水を使う余裕はあるまい。誰かに託して使わせるとしたら、のほほんとして恐れを知らないマリアに任せるべきだと結論づけたのである。
「いいわよ」
 マリアは荷物を受け入れて手提げのバスケットにしまい込んだ。ずっと感じ続けている気配や、突然の餓鬼憑きなど、何か意志のあるものが存在するようだが、感じる恐怖をのぞけば、彼女たちの身に危害は加えられていない。

「誰か、子供の声を聞かなかった?」
 チェルニーは仲間にそう尋ねたが、肯く者はない。やはり自分の空耳かと思いこんで、おにぎりを頬張った。しかし、あの子供の声がきっかけでここにとどまっているような気がし、何やら、子供たちが自分たちの行く手を遮っているような推察に致るのである。
 おにぎりをかじりかけたヘレンが不満げにマリアに尋ねた。
「何、コレ?」
「ヘレン向け特製おにぎり」
 おにぎりという日本のファーストフードはヘレンも知っているし、エネルギー補給の食品として便利だと評価してもいる。しかし、ヘレンが尋ねたのは、齧ったときに中から出てきたペーストである。
「中に入っているのは、何よ?」
 ヘレンが手渡されたおにぎりは、表面の塩の味わいは確かにおにぎりだが、かじってみるとねっとりと濃厚な甘いペーストが出てくるのである。それが塩味の付いたご飯と違和感がある。
「あらっ、アメリカ人なら、ピーナッツバターでしょ?」
 マリアは当然のように断言した。アメリカ人はピーナッツバターを好んで食すという偏見を持っているのである。マリアという女性は悪気はないのだろうが、どうも独自の信念があって、それを押しつける。思わず笑いが広がった仲間の中で、チェルニーが唇に人差し指を当てて静かにしろと指示をした。
「静かに、何か聞こえるわ」
 チェルニーが立ち上がって耳を澄ました。確かに、木立を駆け抜ける風の音に混じって何かのメロディが聞こえるのである。
「子供が歌ってるようだね」
 風の中から音を選別してみると確かに、子供の声がメロディを奏でているが、その歌詞とメロディは  聞き取りずらい。アダムが注意深く言った。
「子供の声がするなら、和ちゃんもいるかも知れない」
「慎重に進みましょう。私たちをおびき寄せるトラップかも知れない」
 ヘレンの言葉にチェルニーが応じた。
「注意してね」
 そんなチェルニーとヘレンの言葉に、応じるマリアの口の中には食べかけのおにぎりがあって、言葉を発することが出来ない。マリアは二人の意見に首を振って否定し、咀嚼したものを水筒の水でのどの奥に流し込んだ。
「行く必要ないわよ」
「どうして?」
「だって、向こうから近づいてきてるもの」
 耳をすませると、確かにマリアの言うとおりである、僅かながら聞こえるメロディが大きくなってきているようだ。
「ややこしい世界ね。音がどちらから聞こえてるのか分からない」
「素直に耳を傾ければいいの。どちらか分からないんじゃないの」
「えっ」
「どっちかじゃなくて、」
 全周に耳を傾けたマリアの言葉の深刻さに、ヘレンが叫ぶように言った。
「それじゃ、すでに敵の包囲攻撃を受ける危険があるってことよ」
「かーごめ かごめ」
 マリアが流れくる歌詞をメロディに乗せて呟いたので、仲間は驚いて立ち止まり彼女を注視した。
「どういう意味?」
 尋ねるチェルニーにマリアが答えた。
「どぉって、子どもたちの声は”囲んだぞ”って歌ってるのよ」
「アパートで携帯電話に聞こえた歌だね。がごめかごめの遊び歌か」
 アダムが情報をそう補足した。
 「ちょっと、どこに行くつもり?」
 ヘレンは声の方向に歩こうとしているマリアの首根っこを捕まえて引き戻した。
「だって、子供の声よ」
「油断させるためにトラップでよく使う手よ」
とヘレンは言い、アダムに説明の続きを求めた。
「続けて、今は何でもいいから情報が欲しいわ」
 状況は何やら変わり始めているようだ。僅かに風に乗ってきたメロディが、ややはっきりと聞こえるようになっているばかりではない。周囲を探って耳を澄ましてみれば、ヘレンたちの周囲、大人の背丈ほどの草の茂みのあちらこちらから、ぴっんと飛び跳ねるように子供たちの顔が見え隠れしている。見え隠れする子供たちの頭を辿ってったチェルニーが言った。
「確かに、私たち、子供たちに囲まれてるんじゃないかしら」
 全周から聞こえる歌声は、歌う子どもたちの姿が草木に隠れて見えないのか、幽霊のように実態を持たないものなのか判然とせず、不可思議な不気味さを伴う。
「かーごめ かごめ かごのなかの とりぃは いついつ でやぁる よあけのばんに」
 単調なメロディにのなかに、男の子や女の子、幼児から少年少女といっても良い年齢層、無数の子供たちの存在を聞き分けることができる。間をおいて、遊び歌の主が姿を見せた。 ヘレンたちの腹か胸の高さの背丈の草が密に生い茂る草原で、その草原に背丈が隠れてしまう子供たちである。時々、こちらを覗うように飛び跳ねて草の穂から見え隠れする顔の位置で確認すれば、数十人の子供たちの輪は縮まって、今はヘレンたちから半径20メートルほどの距離を置いて、彼女たちを囲んでいるらしい。
「みんな子供だ。脅かしちゃいけない」
 ジェスールは仲間を制して、子供たちに語りかけた。
「君たち、どこから来たの? お兄さんたちと、お話をしないか?」
 子供たちの歌声が一斉にやんだ。その静けさが不安感を煽る。
「何か相談をしているのかしら」
 その時に、かさっ、と、草をかき分ける音がし、一人の少年がチェルニーの目の前に姿を現した。歳は十歳ほど。深刻なほど思い詰めた瞳で、チェルニーを見上げていた。更に、物音がして、和ちゃんほどの年齢の女の子が姿を見せてヨゼフに向きあった。茂みをかき分ける音は続き、数十名ほどの子供たちが、仲間の元に姿を現した。
「やはり、トラップだわ」
 ヘレンが叫んだ。一人の子供が背に隠していた棒を取り出して、鋭く振り上げてアダムを襲った。子供たちは彼らを油断させて接近し、いきなり棒を持って彼らを攻撃して来たのである。こどもたちはどこからともなくわらわらと沸いて出てくる。しかし、非力な子供たちのこと、殴るというより、叩くという表現が似つかわしい。
「相手は子供よ、傷つけないようにね。ぎゃっ」
 ヘレンが苦痛で顔をしかめた表情を怒りに変えて、背後を振り返った。一人の女の子が竹の棒で彼女の尻を横に打ち据えたのである。非力な子供とはいえ、力一杯打たれれば痛い。ヘレンは痛みの腹立たしさに、有効な反撃の出来ない腹立たしさを加えて、少女を睨んだ。
(ひっ)
 少女は小さく悲鳴を上げ、驚いたように凍り付いた後、大きく開いた目に溢れそうに涙を浮かべた。そんな表情をされると、ヘレンがこの子を虐めていたような状況になる。ヘレンたちは、子供たちが振り回す棒を避け、奪った棒で子供たちを突いて遠ざけるように反撃するのだが、非力な子供たちにこんな仕打ちをして良いのかと罪悪感に襲われた。
 子供たちの目は真剣で、涙目になりながら攻撃を加えてくるのである。子供たちを傷つけることは出来ずに防戦一方で、避けきれない一撃を受けて悲鳴を上げ続けながら、撤退を決意したとき、マリアの声が響いた。
 子供たちを見つけて、持っていたおにぎりをわけて一緒に食べようとしたのに、攻撃に転じた子供たちのせいで、手にしたおにぎりが地面に転がり踏みつけられてしまったのである。
「こらぁーーーー」
 腹の底から怒りを噴出したマリアの声が響いた。子供たちはいっせいに静止してマリアの方を伺った。
「食べ物を粗末にする子は、母さん、お尻をぶつわよ」
 母親の怒りに触れたような声に、今まで攻撃を諦めなかった子供たちが静止したまま、すまないことをしたと反省する様子を見せた。マリアは悪戯が過ぎた子供を叱りつける目で、じろりと子供たちを眺め回した。子供たちは互いの顔を見合わせ、マリアの顔を窺って、逃げるように姿を消した。仲間はぽつんと取り残された。
 防御に息を切らせていたヘレンは、腑に落ちないながらも、マリアに礼を言った
「ありがと。よく分からないけど、あなたのおかげらしいわね」
 そう言いながら、物陰に一人の男の子を見つけた。年齢は十歳に満たないぐらい。反抗期の生意気盛りと言ったところか。急な状況変化に一人だけ逃げ遅れてしまったのである。
 ヘレンはふと、マリアを真似てみることにした。彼女は両膝に手を当てて姿勢を低くして男の子と視線の高さを合わせて言った。
「イタズラばかりしてると、お仕置きするわよ」
 母親になったつもりで言った言葉に反応して、男の子は握った拳を解いた。なるほど、こうすればこの子供たちは攻撃の意志を失うのである。ヘレンはこの状況に念を押すようにジェスールを振り返った。その瞬間、ヘレンは苦痛に表情を歪めて脛を押さえてかがみ込んだ。ヘレンの油断を察知して、男の子はヘレンの脛を蹴り上げて逃げたのである。
 走り去った物音を追って視線をやった先に、男の子は既に姿を消していた。再び仲間を振り返ると、理解できないという様子でぽかんと口を開けた表情を並べていた。その視線はエレンを飛び越えて、男の子が姿を消した先を見つめている。先ほどは子供たちの攻撃を避ける混乱のさなかで、逃げ去る子供たちの姿をはっきり見ていなかった。しかし、身の回りの混乱が収まって、男の子がヘレンのすねを蹴り上げる様子や背を向けて逃げ出す様子が見えたのだが、その様子が異様だった。藪をかき分けて姿が見えなくなったわけではない。男の子の姿が透明になり周囲の景色に溶け込むように姿を消したのである。確認するように周囲を見回せば、先ほどの数十人の子供たちが藪をかき分けて逃げ去った跡はなく、仲間を攻撃するために振り回した棒が茂みの草の葉や茎をなぎ払った形跡もない。ただ、6人ばかりの大人が、子供の攻撃を避けて暴れ回って踏みしだいた地面の跡、そして、子供たちに打たれた傷の痛みが残っているだけである。
「実態のない精神のようなものか」
 アダムは彼らを襲った子供たちをそう評した。
「それって、幽霊ということじゃない?」
「死んだ子供たちの魂が、天国へ行けず、どこかに縛り付けられてるの?」
 チェルニーとマリアの問いに、アダムは首を傾げてみせただけである。


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