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露呈 1

 和ちゃんはふと目を覚ました。目を覚ましてみると母親の顔が鼻がくっつくほど間近にある。瓢箪荘の裏庭に張り出したテラスのベンチである。
 先日、お母さんに絵本を読んであげると宣言しながら、その約束を果たせずにいた。今日、約束を果たしていたのだが、秋の風の心地よい涼しさと、髪に感じる母親の温かい手の平の感触に甘えるように、眠気がさしてしまったのである。
 マリアに借りた絵本がページを開いたまま膝の上にあり、和ちゃんはようやく事情を思い出した。母親もまた子供が傍らにいる幸福感に酔うようにぐっすり眠り込んでいる。和ちゃんは次のページをめくりたい衝動を抑えて、母親が起きるまで待つことにした。
 母親の髪に触れてみると、ついっと涙が一滴頬を伝ったので、和ちゃんはそのくすぐったさに指で眼をこすった。くすぐったさの原因が自分の涙だと気づいたのだが、どうして涙が出たものか分からず和ちゃんは小首をひねった。
 傍らに母親がいるという安心感の心地よさ。
 その母親が自分だけのものだという心地よさ。
 和ちゃんは経験したことのない幸福感に酔っているのである。
 突然、母親は表情を変えた。それが不快そうに眉をひそめるというようなものではなく、まるで手足でも切り落とされたかのような大きな苦痛の表情である。そして、食いしばった歯の隙間から悲痛なうめき声が伝わった。
 ひどい悪夢を見ているに違いなかった。和ちゃんは母親を悪夢から目覚めさせようと母親の両肩に手を当てて揺すった。
 その刹那、十の数の百倍、更にその数千倍もの子どもたちの映像が和ちゃんの頭にひらめいた。数え切れない子供たちの姿や顔が一人一人の現実的な特徴と感情をもって頭の中に蘇る。貧しさや飢え、幼児が、母親が引き起こしてしまった事故、犯罪や戦乱、一人一人異なる理由で母親と離ればなれになる子供たちである。
 女が目を覚ましたとき、和ちゃんは精神的なショックで放心状態にあった。女は和ちゃんの様子に気付いて慌てて頬を撫でた。目に意識を取り戻した和ちゃんは黙って首を傾げた。
「お母ちゃん?」
「なあに?」
「お母ちゃんは、ボクのお母ちゃんやな?」
 和ちゃんは念を押すように言った
 女は少し考え、そして、ただ衝動的に和ちゃんを抱きしめた。和ちゃんは母親を失うのを恐れるように小さな手で母親の衣服をつかんで離さない。そんな出来事もまた、時間に埋もれてゆく。
 普段から笑顔の孫の元気がない。庭先で植木に水やりをするお祖父ちゃんは、玄関に姿を見せた孫の異変に気付いて声をかけた。
「どこか、しんどいんか?」
「ううん」
 おじいちゃんの声に口ごもった後、首を横に振る仕草をする。無邪気であるというよりも、余計な心配をかけまいとする心遣いをする。そういう大人びたところは普段と変わりがない。和ちゃんはいつもの愛犬へ食事をやるために玄関に向かった。その背が淋しそうに小さく丸い。
 和ちゃんの姿を見つけて、モジャは食事より遊びの期待を込めて尾を振った。最近、以前のように遊んでもらっていないのである。しかし、モジャは尾を振るのを止めて、和ちゃんにまとわりついて、心配そうに主人の顔を見上げた。
 そんなモジャが、垂らしていた尾をびくりと動かして緊張感を見せた。主人の小さな影に、別の影が重なっている。くんくんと鼻を鳴らして嗅ぎ回ったが、感じ取る香りには存在感はなく、引っ掻く前足にも感覚が無く、目に映る影と影が主人を包む雰囲気にのみ存在感がある。感じ取れるものは敵意でも害意でもなく、かといって、人が和ちゃんに向ける好意や愛情とも違う。モジャは戸惑いを見せた。吠えることもせず唸りもせず、立ち去る和ちゃんと影を見送った。


 明くる朝のことである。和ちゃんは玄関の端にそっと立って、出てくる人々を待ちながら考え込んでいた。
 玄関の外では、いつになく早起きのマリアが、ヘレンに非難を込めて言った。
「どうしたの?」
 何やら、ヘレンがモジャの首輪の鎖を強引に引いて、モジャを虐めているように見えたのである。
「この分からず屋を、散歩に連れて行ってやろうと思ってるんだけど」
「散歩?」
 マリアとの会話でヘレンに油断が出来た。モジャは隙をうかがって、再び犬小屋に逃げ込んだ。この女、悪気はないと思うのだが、愛し方を間違えている。
「こらっ、根性無し。出てらっしゃい」
「あらっ」
 マリアは玄関に和ちゃんの姿を見つけた。今朝は傍らに母親の姿が無い。それが違和感に感じられるほど、最近の和ちゃんの傍らには、寄り添うように母親の姿がある。
 ただ、今日の和ちゃんは、ややうつむいて何かを考える様子で元気がない。
「ぶえのす・でいあす、マリアさん。ぐっもーにん、ヘレンさん」
「ブェノス・ディアス。和ちゃん、何かあったの?」
「グッモーニン。和ちゃん、困ったことがあるなら言ってご覧なさい。」
「あのね」と、和ちゃんは口ごもった。
「なあに?」
 和ちゃんは周囲をうかがって、ヘレンとマリアの他に誰も居ないことを確認して、口ごもるように言った。
「助けて……」
 和ちゃんの目に涙が浮かんでいた。意外な言葉に、マリアは優しく微笑んで問い直した。
「助けて?」
 マリアはヘレンと顔を見合わせた。和ちゃんという子は、周囲の人々に愛おしまれていて愛情が欠けているわけではなく、家族は金銭的に裕福というわけではないが金に困っている様子はない。ただ、父親が居ないと言うことで精神的に不安定なのかも知れない。寂しげで愛情を求めるような切ない表情を放置してはおけない。
 マリアは愛情を補うように和ちゃんを優しく抱きしめて言った。
「大丈夫よ、何も怖がることはない。みんな、和ちゃんを見守っているもの」
 和ちゃんを抱きしめながら、マリアの母親が幼いマリアに接してくれたときの姿を思い起こしている。
「勇気を出しなさい。一人じゃないから」
 ヘレンは、彼女の母の口調を真似て、母親が幼い頃の彼女にしてくれたように、和ちゃんの額にキスをした。そして、日本の約束の風習として、和ちゃんと小指を絡ませて約束をした。
「何かあっても、必ず守ってあげる」
(ふぅっ)
 ヨゼフはアダムと顔を見合わせて羨ましげに肯いた。二人そろって朝食の買い出しに行って戻ってきたら、玄関脇でこの光景である。若い女性に優しく抱きしめてもらったり、キスしてもらったり、子供の羨ましい特権である。
 なんと、羨ましい特権だろう。
 キスをされても不安が解消されない和ちゃんの気配に、ヘレンは男たちの手助けを求めて背後に視線をやった。二人の男は子供を演じるようにしゃがみ込んで、視線を子供の高さにしてヘレンとマリアを見上げている。アダムは目の大きな愛くるしい少年を演じるように、笑みを浮かべて目をうるうるさせた。なるほど、キスでも求めているつもりか。
 ヨゼフは無邪気な子供が母親の愛撫を求めるように、腕を広げて目を輝かせた。こちらは柔らかな抱擁を求めているわけだった。そんな二人の露骨な魂胆を、ヘレンが評し、マリアが応じた。
「どぅしようもない、オトコたちね」
「そ・お・ね」
 二人は思わせぶりに、ヨゼフとアダムに接近した。
「良い子たちね。目をつむって……」
 マリアが優しく語りかけ、オトコたちは何かを期待して目を閉じた。
 マリアの両手がアダムの頬を撫でるように包んで、アダムの顔の向きを導くように変えた。この角度で言えば、斜め上からマリアのキスが降ってくる。
「ちゅぅ……」
 マリアのキスの擬音とともに、アダムは唇に冷たく湿った感触を感じた。そっと目を開けると唇に和ちゃんの愛犬モジャの鼻面があり、モジャはアダム以上に迷惑そうな目をした。その背後でマリアはモジャを優しく抱いて頭を撫でた。
 ヨゼフは背後にヘレンの気配を感じて緊張した。肩の辺りに感じた柔らかな弾力は彼女の胸の感触かもしれない、耳たぶに彼女の吐息を感じ、彼女の右腕が一気にヨゼフをかき抱くように首筋に回されたかと思うと、頸動脈の血流が止まるように頭が鬱血する感触を感じ、首の骨が折られるのかと思う力強さで、ヘレンの左手がヨゼフの後頭部を圧して右腕に押しつけた。ヨゼフはヘレンに力強く抱き留められ、的確に気管まで締め上げられて呼吸が出来ず声を上げることも出来ない。なにより、あと僅かにヘレンが腕に力を加えれば、ヨゼフの首はへし折れるだろう。ヨゼフは慌てて地面を叩いてギブアップの意志を表した。
 和ちゃんは何故か少し勘が良くなり、お母さんに触れていなくても、考えていることがわかることがある。この時、女が物陰に潜むでもなく、自然体で立ちつくして入居者たちの様子を観ていた。その感覚を和ちゃんは女と共有していたのである。
(あの連中のせいでは無さそう)
 ここのところ和ちゃんの心が読めない。心を探る行為が相手の不快感を伴うことを知っていて、出来るだけあの子の心を探ることは避けている。しかし、子供の心が分からないと言うことが物寂しくもあり、罪悪感を伴いつつ心を探る。しかし、ここの所、和ちゃんの心がぼやけて見えないのである。この子は素直で意図して女に心を閉じる様子はない。
(あの子に誰かの力が作用しているよう)
 そう推察しているのだが、少なくともあの連中では無さそうである。
 オトコたちを相手にしていて、和ちゃんの相談に乗るのがおろそかになった。和ちゃんが今にも泣き出しそうな寂しげな様子で居る姿にマリアとエレンが気付いた。
「ごめんなさい」
 ヘレンは和ちゃんを独りぼっちにしたことを詫びて、和ちゃんの頭を撫でながら、和ちゃんの視線の先に、和ちゃんのお母の姿を見つけた。いつからそこに居たのだろう、全く気配を感じさせずに、気づけばそこに居たのである。
「うんっ。もぉ、ええねん」
 和ちゃんはヘレンとマリアにそう言い残して、母親の元に駆け寄った。不安な様子は未だ消えては居いない。
(和ちゃんは何か不安そうだが、和ちゃんのことは、お母さんにに任せておけばいいだろう)
 居住者たちは和ちゃんのお母さんと朝の挨拶を交わしてそう思った。しかし、和ちゃんと女の後ろ姿に、何かの違和感と寂しさと恐怖が漂うような気がし、親子の関係に危うさを感じるのはどうしてだろう。四人は同じ思いを抱いて顔を見合わせたが心の思いを口にすることはなかった。
 

 当然であり不思議なことに、和ちゃんは自分の絵本を管理人室に保管していた。何事もなく過ぎたある日の夕刻。和ちゃんは、管理人室からお母さんと住む隣の部屋へと絵本を運んでいた。そんな和ちゃんが、この日もヨゼフと並んで帰宅したアダムを見つけて笑顔で挨拶をした。
「おかえりなさい」
「ただいま」
 ヨゼフは明るく応じたが、アダムは黙ったままだ。靴を履き替えようとして、ふと気付くと、下駄箱にマリアの靴を見つけたのである。今日は、早めに帰宅して、既に部屋でくつろいでいるようだ。そして、都合良く和ちゃんがいた。アダムに閃く考えがある。
「和ちゃん、トランプでもしようか?」
 最近、何故か、和ちゃんは求めて母親に寄り添っている事が多い。しかし、遊びの誘いなら応じるだろう。たしかに、和ちゃんは即座に遊びの誘いに応じた。
「うんっ」
「じゃあ、トランプを取ってくるから、いつもの場所で」
 そして、ヨゼフに目配せをして、お前は来なくても良いと伝え、自分の部屋に姿を消した。ヨゼフは彼の意図を察して、絵本を運び終わった和ちゃんの手を引いて二階に上がると、彼自身は部屋に姿を消した。
 和ちゃんは椅子に座って床に届かないつま先をぶらぶらさせてアダムを待った。階段を上がってきたアダムが、和ちゃんの期待に応えるように、一枚のカードをケースから出して手のひらの中で消して見せた。アダムが唯一できる手品である。
「いつものゲームで良いかな?」
 和ちゃんは肯いた。和ちゃんとゲームをするときには決まって神経衰弱になる。この幼児に理解できる単純なルールだからである。アダムは消したカードをもう一度指先に出現させ、ケースの中のカードと一緒にシャッフルし、おもむろにカードを裏返しにテーブルに並べつつ言った。
「あれっ? 二人だけでゲームをするのは寂しいかな?」
 和ちゃんはアダムの誘いに少し考え込んだ。アダムはヨゼフを選択肢から除けと誘導した。
「ヨゼフ君は、ちょっと忙しそうだったな」
 とすると、エレンとチェルニーはまだ帰宅しておらず、遊びに誘う相手は一人に絞られる。
「うんっ、ボク、マリアさんを誘ってくるわ」
 和ちゃんは椅子を降り、アダムの思惑通りに走った。へレン・ウィリアムズのような戦闘的な海兵隊女ではなく、チェルニー・アタユックのように理詰めの眼鏡女でもなく、マリア・パルマという女性は、朗らかで包容力があるという点で、アダムの理想の女性像に近いのである。マリアが誰にでも向ける親切や優しさが、とりわけ自分に対して顕著なような気がして、マリアもまた自分に好意を抱いてくれているのではないかと密かに期待してもいる。和ちゃんはちゃんと役割を果たして、マリアの手を引いてきた。
「ゲームをするの?」
「うん、和ちゃんと一緒にどぉ?」
「いいわね」
 アダムはマリアを自分の隣の席に導くように隣の椅子の背を引いた。和ちゃんにはこの場だけに通用する特別なルールがある。カードをめくり直しても良いのである。子供に与えたハンディキャップと言っても良い。和ちゃんは自分の番になって、じっとテーブルのカードを睨んだ。アダムはマリアに言った。
「どう、先日の民俗学の本は?」
「ありがとう、面白かったわ」
 マリアが精霊や伝説に興味があることを知って、図書館から借りてきたのである。ここで、アダムは意を決してマリアを誘った。
「君の都合さえ良ければ、次の休みにでも、一緒に葛の葉神社にでも行ってみないか? 葛の葉狐の伝承の場を回ってみたいんだ」
「ごめんなさい。ちょっと買い物があるの」
「じゃあ、交野や寝屋川は? 古い伝承の史跡があるんだ」
 カードが取れずに退屈した和ちゃんは、あくびを一つして二人を眺めた。和ちゃんなどそっちのけで会話に没頭しているようで、ひとり取り残されているような気になる。二人の会話の内容は詳しくて分からないが、二人の会話に関連しそうな歌を知っていた。
「かーごめ かごめ かごのなかの とーりーは いついつでぇやぁる」
「あら、和ちゃん、カゴメの歌を知ってるのね。」
 和ちゃんはマリアに褒められたこと、二人の注目が自分に戻ったことが得意で嬉しく、歌を続けた。
「よあけのばんに つると かめがすぅべった」
 マリアとアダムもメロディを口ずさんだ。この幼児が歌詞の意味を理解しているかどうか疑わしいが、こうやって声を合わせて歌ってみると、学問的な歌詞の意味などどうでも良い気がし、手を繋いで歌うことに意味がありそうだ。そんな三人の歌声に新たな声が加わった。
「うしろの しょうめん だぁれ?」
 アダムは階段の中程にいた和ちゃんの母親を見つけた。メロディに唱和したのは彼女である。こちらを窺うようにそこに居る。カードが当てられない、和ちゃんの手助けをしてもらうのにちょうどよい。
「お母さんも和ちゃんを助けてやってもらえませんか」
「お母ちゃん」
 和ちゃんは母親に助けを求め、母親は頼りにされることが嬉しそうにやって来た。
「そぉ、同じ数字を当てれればいいのね」
 母親は迷いもせずに一枚を表にした。
「お母ちゃん凄い」
 和ちゃんにほめられた母親の表情が、嬉しそうに輝いた。和ちゃんの楽しそうな表情と母親の嬉しそうな表情が微笑ましく、アダムとマリアはこの選択の偶然を喜んだ。
「当てたら、続けてめくれるんやで」
 その和ちゃんの誘いで、母親は次のカードをめくり、同じ数字を選び出すように二枚目のカードをめくった。その後、ゲームが終わるのに十秒を要したに過ぎない。母親がめくったカードに外れているものが無かった。テーブル上のカードは全て表になっていて、もちろん、人間業ではない。アダムやマリアが彼女に疑いを抱かせる原因になりかねず、愚かな行動に違いない。しかし、アダムとマリアは、女が息子の尊敬と驚きに心から嬉しそうに微笑む表情を観ると、人間の業ではないという感覚を捨てて、母と子を微笑ましく見守っていたくなる。マリアとアダムは、テーブルの上で全てが表になったカードを前に、お母さんの手を引いて階段を下りる和ちゃんの姿を見送った。
(このままゲームを続けると、アダムとマリアに気付かれてしまう)
 和ちゃんは母親をかばうようにそう考えている。奇妙な事件だが、人々はこの二人の行動を、流れてゆく日常の中に忘れ去った。

 


 その日の夜がふけて、女と和ちゃんが暮らす部屋では、薄暗い豆電球の明かりに、寝息を立てる仲の良い母と子の光景が照らし出されていた。
 和ちゃんの右に寄り添う女の右腕は、彼女の胸を越えてその手は和ちゃんに達していて、指先からこぼれ落ちそうに団扇の柄がある。子供が安らかに眠るまで、涼しく優しい風を送り続けていたことがうかがわれるのである。その力が抜けきった指先は、この母と子の関係が続くことを確信する安堵感が漂うよう。
 突然、その指先が痙攣するように力が籠もった。
(くくっ)
 僅かに開いた女の口から悲鳴とも苦痛とも判別のつかないうめき声が小さく漏れ、女はかっと眼を見開いた。その眼に生気がない。何処か暗闇の底に吸い込まれそうな深さと冷たさを感じさせた。
(ひぃっ)
 小さな悲鳴と共に、女の目に生気が戻った。その視点は定まらないまま宙を舞い、やがて我に返って、半身を起こし、傍らで眠る和ちゃんに視点を合わせた。
 この子が変わらず自分の傍らにいたという安堵感。
 自分の悪夢でこの子の眠りを妨げたのではないかという不安感。
 そんな恐ろしげな感覚が、和ちゃんの寝顔で癒されたように、女はため息をついた。女は布団からはみ出しかけた和ちゃんの足を布団の中に戻してやり、愛おしそうに和ちゃんの頬を撫で、思い出したように団扇を手にして、僅かに汗ばんだ和ちゃんの額に涼しい風を送って、部屋に籠もった残暑の名残を振り払った。
 柔和な母親の表情に切ない苦悶の感情が浮かんだ。安らかな子供の寝顔は、一方で女の幾つもの悪夢を呼び起こす。女はよろよろと立ち上がって部屋を離れた。高熱にうなされるようにふらつく足で階段を上がり、廊下の奥のドアを開けた。
 涼しい風を感じることが出来る物干し場である。晴天が続いていて、空の雲が吹き払われるように無く、吸い込まれるような深い闇に、いくつもの命のきらめきを想像させる星の光があって、女を包んでいた。女は身に籠もった熱を冷ますように風に身を任せた。事実、風に吹かれると、一瞬だが悪夢が振り払われる心地よさがある。しかし、この呪われた身が、一人、心地よさを感じていることに罪悪感を感じて、女に悲痛な目つきをさせる。
 幾つもの星の光が女に語りかけるように瞬く都度、女の悪夢が蘇り、幼い声が耳を衝き、過去の記憶をかき乱す。しかし、女の心はこの夜空のように、底のない深さを感じさせるほど空虚で感情を拒否してもいる。
 感情を失って立ちつくす女の指先に、遠慮がちに戸惑う温かく柔らかい感触がある。女が目をやると、いつの間に目を覚ましたのだろう、和ちゃんが傍らにいて女を見上げていた。目を覚まして、傍らに母親がいないことに気付いて寂しさから母親を求めて彷徨ってここを見つけたのかと思ったのだが、そうではない。彼女を支えるために、ここにいた。和ちゃんの手は、淋しげな女を支えるようにしっかりと温かく力強い。この子の心は、ぼんやりと霧がかかったようで、読み取ることは出来ないが、この温かな愛情は受け入れることが出来る。
 心を読み取ることは出来ないが、心を交わすことが出来る、そういう母と子の原点に立ち戻った気分。女は優しく和ちゃんを抱いて思った。
(やはり、この子を選んで間違いではなかった)と。
 どちらかが、進むべき目的地に導いているのだが、和ちゃんと女の姿は、互いを見失わないように、先になり、時には、後になって、どちらが導いているのか分からない。夜は更けているが、和ちゃんはぱちりと大きく目を開けていて、女の指先を握る手に力がこもっていた。二人は部屋に戻り、女は和ちゃんにまだ温みが残る寝床を指差した。
 女は和ちゃんの中に母親の姿を見失うのを恐れる気配を察した。彼女は三面鏡の前に座って髪を梳いてみせ、この部屋を離れるつもりはないと微笑みかけた。掛け布団から頭だけを出して女を伺う和ちゃんは、女の微笑みに応じつつ、ふと首を傾げて布団を出て、女の背後に歩み寄った。女は鏡を背に振り向いたまま、歩み寄る和ちゃんに腕を伸ばした。
 壁際に三面鏡があり、その前に女が位置する、その女が上半身を捻って背後に向けて腕を伸ばす先に和ちゃんがいるという位置関係である。
 その状況と矛盾する異様な光景が広がった。
 座った女の頭の高さ、そして、和ちゃんの背丈よりやや大きな三面鏡に、本来は女の姿に遮られて映るはずがない和ちゃんの全身が、女の体を素通りして映り込んでいるのである。三面鏡は女の存在を忘れたかのように、鏡に映る世界に女は居なかった。女は和ちゃんが首を傾げる様子に事態を察したらしい。慌てて和ちゃんを引き寄せて抱きしめて視界を奪った。
「あらあら、この子はまだ寝とぼけているのね。お布団に戻ってぐっすりお休みなさい」
 和ちゃんは、母親の胸と腕の隙間から手鏡を見つけて手を伸ばした。子どもらしい好奇心で、こちらの鏡には姿が映るかどうかを確認したかったに違いない。女は慌てて三面鏡の左右の鏡を閉じた。女は和ちゃんから手鏡を奪い、和ちゃんと頬をくっつけて、鏡に映し出して言った。
「どうしたの、鏡に何か映ってる?」
 女の目には、和ちゃんのみしか映し出されていない手鏡だが、和ちゃんの心には別の映像を投影した。
「ほらっ、お母さんと、可愛い和ちゃんが映ってるわ」
 もちろん、女が和ちゃんに送り込んだイメージである。女は自分が映らない手鏡を伏せて、愛おしそうに和ちゃんの髪を撫でた。
 

 ジェスールの足運びは足を引きずるようで、さすがにこの一ヶ月間の長旅の疲れが伺えるのだが、その後ろ姿には旅の終着点が近づいた落ち着きと嬉しさも滲み出している。ここは既に彼の故郷に近い。
 服装は着古して体になじんでいるが汚れがなく、この青年が衣類の洗濯に余念が無い様子が伺える。しかし、交差点の横断歩道で信号待ちをする人々の中にはくんっと鼻を鳴らして違和感を感じ、ジェスールを伺う様子を示す人々がいる。汗が衣類ばかりではなくザックや寝袋まで染み付いており、ぬぐいきれない汗臭さを放っているのである。本人はそんな自分に気づいており、人ごみの中で周囲に多少の気恥ずかしさと申し訳なさをもっている。長期のトレッキングをこなした人物の自然な姿である。ジェスールは胸のペンダントを握って心の中で人々に詫びた。
 祈りと共にペンダントを握ったが、ペンダントは彼の信仰の対象ではない。Tシャツの内側で握られたものは緊急用のホイッスルである。山歩きの途中の事故で身動きが取れなくなった時などに、自分の所在を知らせるために使う。神を信じてはいるが頼るものは人間。そういう信念の象徴でもあるようだった。
 しかし、面白い。アパートに戻る足取りが軽いのである。日本という異国で、仮の宿のはずだ。しかし、瓢箪荘というアパートに戻ることが、故郷に帰宅するかのような心地よさを持っている。
 日本の好々爺とはこういう人物かと思わせる管理人が居り、その人物を頂点にしているためか、安アパートに住む居住者たちがまるで家族のような親近感を抱くことがある。
 では、和ちゃんは?
 和ちゃんは、弟と呼ぶには歳が離れて幼すぎ、息子というには、自分はまだ子供を持つには、若すぎると考えた。
 玄関先のモジャがあくびを止めて、風に乗ってくる音の方向を探った。懐かしい音を聞きつけたのである。足音の間隔に乱れが無い。地面を踏みつけると言うより、地面に吸い付くように下ろした足で力強く地を圧する、変化に富む地形を歩き慣れた者の足音である。
 やがて、モジャの耳は、足音と連動する規則正しい呼吸音を捉え始めた。モジャは犬小屋の傍らに寝そべったまま、期待と歓迎を込めて尾を振った。モジャが尾で小屋の壁を叩く音が耳に届いて、ジェスールはアパートの玄関のむく犬の毛の柔らかさを思い出した。 管理人さんと和ちゃんには、富士の麓で汲んできたわき水がペットボトルに詰めてザックに入っている。が、このモジャへの土産を忘れてしまった事を後悔している。
 温和しい犬で、あまり吠えると言うことをしないが、この時のモジャは、久しぶりの人物の帰宅を飼い主に知らせるために吠えた。
「ああっ、帰ったんか」
 お祖父ちゃんは、玄関脇の水道からホースを伸ばして、アパートを囲む植木に水をやりながら、一ヶ月ぶりに見る住人にちらりと目をやってそう言い、植木に目を戻して続けた。
「まず、部屋で荷物を下ろして、寛いだらええわ」
 ジェスールの立場から見れば、旅の土産話はあるだろうが、まず長旅の疲れをとりたいに違いない。お祖父ちゃんはそう言う無口な配慮をする人物である。
「じゃあ、土産話はまた後で……、和ちゃんは?」
「今、母親と一緒に買い物に行ってるわ。直ぐに帰ってくると思うで」
 ジェスールはふと思いついた人物の所在を聞き、お祖父ちゃんは答えたが、モジャが吠える声に母親という言葉がかき消されて届かない。ジェスールは笑顔でモジャに気付き、笑顔で皮肉な言葉で挨拶をした。
「お前、相変わらず、雑種のまんまやなぁ」
 モジャは仲の良い友達の皮肉に、悪戯で返すように、ジェスールのズボンの裾や衣服を咬み、引っ張り捻った。
 ジェスールは玄関に腰を下ろして、トレッキングシューズの靴紐を解いた。体格の良い彼の体重を支えるがっしりした作りで、くるぶしの辺りまで覆う高さがある。下駄箱に入らないために、靴を下駄箱の脇にそろえて置いた。靴に付着する汚れが旅の物語を語っている。ただ、旅の記憶を辿りながら、靴の手入れをした後は、しばらくは、靴もザックも封印して現実の仕事に戻らなくてはならない。ひんやりした床が火照った足底に気持ちが良い。しかし、和ちゃんの青く小さなスリッパの横に、見知らぬ女性の存在を予感させる赤いスリッパには気付かなかった。ジェスールは重い足取りで階段を登って、久しぶりの自分の部屋のドアを開けた。古い畳の香りが漂った。



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