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「お祖父ちゃん、ジェスールさんから」
 和ちゃんが郵便受けからカードを片手にして駆けてきた。旅行に出ているジェスールから葉書が届いたと、知らせに来たのである。傍らのお母さんは、ふんっと鼻を鳴らした。この葉書から、彼女にとってまるで悪臭のような不快な雰囲気が漂っている。
 ジェスールの名は彼女も知っている。郵便受けにその名があり、和ちゃんが「いろいろな所へ行って、あちこちで寝るねんやて」と称した男である。この葉書によってその実態がしれた。この葉書の男はテントや寝袋を背負ったトレッキングをしているのである。
「ふぅん」
 お祖父ちゃんは読み終えた葉書を和ちゃんに手渡して、読み始めの位置を指で示した。几帳面な小さな文字が、ある部分から、文字も大きく、かな文字ばかりに変わっている。ようやくかな文字の一部だけ読めるようになった和ちゃんに宛てた部分である。
『かずちゃん、げんきにしていますか。ぼくは いま あいちけんの “ほうらいさん”という やまに きています。あと すうじつすると ふじさんをみることができると おもいます』
 読めない文字を傍らのおじいちゃんに辿るように読んでもらって、和ちゃんはおじいちゃんに続いて、たどたどしく手紙を読み上げた。愛知県といわれてもどちらの方角なのか、鳳来山といわれても、和ちゃんにはその高さや形のイメージがわかない。しかし、自分に宛てられたメッセージを一生懸命に楽しんでいるのだろう。ジェスールはそういう心遣いをする男である。母親はそんな楽しそうな和ちゃんを愛でた。
 お祖父ちゃんは葉書の消印を確認した。消印はおそらく鳳来山の麓のポストを管理する郵便局のものだろう。日付は二日前である。今頃は前方に富士の峰を見ながら歩いているころかもしれない。おじいちゃんはその姿を思い浮かべた。
 おじいちゃんはカレンダーに目を移した。ジェスールの旅は順調に推移しているようで、帰ってくるのはあと数日、十月の終わりになるだろう。
 和ちゃんは、ちゃんと文字を読むことが出来たことを自慢するように、母親の顔を見上げた。母親のお褒めの言葉を期待してもいる。和ちゃんはおじいちゃんから受け取った葉書を今度は母親に手渡そうとして、ふと首をかしげた。おじいちゃんと自分にはメッセージを送ってくるジェスールがお母さんの存在を忘れたかのように一言も無いのである。
 

 その同じ時、ジェスールは、日本という地域の面白さを味わっていた。面積から言えば母国のトルコの半分にも満たない。しかし、国土面積に大多数を占める山岳や森林地帯が住宅地のすぐそばまで迫っているという地形が、更に複雑に入り交じって、人や自然が溶け合っていておもしろいのである。
 彼は生まれる前に父を失い、女手一つで彼を育てた母も成人前に失っていた。彼は道すがら母の記憶を辿っていた。今、彼が下って歩いているのは、「ししんざん」という音感の名の山で、親を思う山という意味の漢字を当てて「思親山」と呼ばれる。なにやら、山の名の由来を調べれば、人と自然の関わりについて面白い伝承でもあるのかも知れない。
 平日の早朝で、行き交うハイカーの姿も途絶えて、時折、麓から飼い犬の鳴き声が聞こえ、麓の集落の存在を教えた。人の姿が見えないこの場所で、人の存在を味わうのである。何やら一歩ごとに過去の想い出が蘇るようでもある。
 幼い頃から様々な不幸を重ねる中で、現実から逃避するように、遠く離れた東洋の端の国に理想郷を思うようになった。しかし、成人して訪れた日本も、様々な負の感情を抱えているという点で母国と変わりがない。この時の日本という国は、ジェスールを失望させただけに過ぎない。
 アパートの部屋でふさぎ込む彼を、開いたドアから不思議そうに眺める幼児が居た。ジェスールは日本では普段見かけない異国の顔立ちが珍しいのだろうと考えた。ジェスールは屈託のない無邪気な目に惹かれて手招きをした。近づいてきた幼児はジェスールに腕を差し伸べ口髭に指を伸ばして来たので、ジェスールは幼児の興味の対象を知った。
(なるほど、)
 この国で口髭を伸ばしている人が珍しく、幼児は自分と異なる人間に興味を引かれたのではなく、口髭に興味を引かれたのである。ジェスールは自分の勘違いを笑い飛ばした。
「笑い声って、みんな一緒や」
と、幼児が言った言葉をジェスールは思い出した。様々な人が居て様々にすれ違う。時代を問わず場所を問わず人が生きていて、様々な思いを抱えているが、人が人として生き続けてきた根底にある感情で、全ての人は共通の根を持っている。そんな事を和ちゃんは難しい言葉を使わず教えてくれたような気がするのである。
 佐野峠。見晴らしの良い峠を経て、人の気配のみがする小さく静かな集落を過ぎて歩を進めると、起伏に富んだ地形が、今朝まで見えていた霊峰富士を隠してしまっている。ただ、彼が登り始めたのは、富士山の裾野の西側の幔幕というべき山で、この長者が岳の頂上にたどり着けば、幕は大きく開かれて、富士山が一望の下に見えるはずだ。今夜は、頂上で富士山を眺めながら一泊する。空はよく晴れており、山の秋の寒さをしのぎさえすれば気持ちの良い一夜になるだろう。初秋の日差しは落ちるのが早い。頂上にたどり着いたのは日が暮れてからである。霊峰は闇に閉ざされて見ず、その楽しみは明くる日に回した。彼は慣れた手つきで、迷うことなく手探りでテントを張った。
 明くる朝、目の前にはジェスールを満足させる景色が広がっていた。寝袋の暖かさを振り切ってテントの外に出て、朝日に照らされた富士を眺めた。ジェスールの背後から朝日が差して富士と裾野の樹海を照らす、そんな雄大な光景を背景に朝食を取った。
 朝食のスープの温かさが腹を満たしているうちに荷造りを終え、歩き始めた。秋の日差しは心地よく、下りだと言うことも手伝って足が進む。
 やがて、踏みしめる足に下り坂の過重を感じなくはなり、標高千三百メートルの長者が岳の頂上から下ってきたというイメージがする。そして歩いている道路は水平に続いているのだが、未だ、この辺りは大地に大きく根を張った富士の裾野の一部であるらしい。地図で標高を見ればこの辺り一帯は標高八百メートルの高原である。肌に伝わる冷気が新鮮で心地よい。
 ジェスールはコースに隣接するキャンプ場に立ち寄った。未だ陽が高く宿泊には早い。しかし、飲料水を補給しておきたいと考えたのである。ポリ容器に今夜の調理用に三リッターばかりの湧き水を入れてザックにしまい込んだ。富士の麓の湧き水だと考えると何か微笑みたくなる清浄感があり、今夜の食事の味にも影響しそうに感じられる。
 ジェスールはふと考えて、ペットボトルを取り出した。中身の飲料は飲み尽くしており、予備の水筒にしようと持っていた物である。わき水でペットボトルをよく洗い、こぽりこぽり、音をさせて清浄な水をボトルに詰めた。別段、信仰上の理由はない。この清浄な湧き水なら、美味しいお茶が入れられるだろうと思ったのである。瓢箪荘の管理人は、煎餅や饅頭よりこういうおみやげを喜ぶ人物だ。ジェスールはボトルに固く栓をし、ビニール袋で包んでザックの下に押し込んだ。
 今日も、日差しは柔らかで、五湖台と呼ばれる富士の裾野の丘に登れば、雲一つ無い空を背景に富士山がそびえ、その周囲に広がる樹海が眼前に広がっている。この丘がこの日の宿泊場所である。ジェスールは夕日に照らされた富士を日本人らしい山だと考えている。この山は、山という起伏を示す地形であるばかりではなく、日本人の信仰の対象だと言うことが理解できる。麓で豊かにわき出す清浄な水を味わえば、水の神だということを思いだし、広大な樹海を周囲に抱えてどっしりと広がる裾野を見れば、母性すら感じさせ、安産や子育てを司る神だというのも理解できるような気がする。彼は富士という山の名ではなく女神の名を思い出した。
(『このはなさくや姫』と言ったか……)
 このまま、ゆっくりと自然に溶け込みながら歩いて、明日は富士山の裾野の山中湖を経由して県境を越え、相模湖から東京の高尾山へと道を辿る。高尾山を下れば今回の旅の終着点である。
 二日後には、彼自身の不幸な過去を洗い流すように旅を終える。
 
 

露呈 1

 和ちゃんはふと目を覚ました。目を覚ましてみると母親の顔が鼻がくっつくほど間近にある。瓢箪荘の裏庭に張り出したテラスのベンチである。
 先日、お母さんに絵本を読んであげると宣言しながら、その約束を果たせずにいた。今日、約束を果たしていたのだが、秋の風の心地よい涼しさと、髪に感じる母親の温かい手の平の感触に甘えるように、眠気がさしてしまったのである。
 マリアに借りた絵本がページを開いたまま膝の上にあり、和ちゃんはようやく事情を思い出した。母親もまた子供が傍らにいる幸福感に酔うようにぐっすり眠り込んでいる。和ちゃんは次のページをめくりたい衝動を抑えて、母親が起きるまで待つことにした。
 母親の髪に触れてみると、ついっと涙が一滴頬を伝ったので、和ちゃんはそのくすぐったさに指で眼をこすった。くすぐったさの原因が自分の涙だと気づいたのだが、どうして涙が出たものか分からず和ちゃんは小首をひねった。
 傍らに母親がいるという安心感の心地よさ。
 その母親が自分だけのものだという心地よさ。
 和ちゃんは経験したことのない幸福感に酔っているのである。
 突然、母親は表情を変えた。それが不快そうに眉をひそめるというようなものではなく、まるで手足でも切り落とされたかのような大きな苦痛の表情である。そして、食いしばった歯の隙間から悲痛なうめき声が伝わった。
 ひどい悪夢を見ているに違いなかった。和ちゃんは母親を悪夢から目覚めさせようと母親の両肩に手を当てて揺すった。
 その刹那、十の数の百倍、更にその数千倍もの子どもたちの映像が和ちゃんの頭にひらめいた。数え切れない子供たちの姿や顔が一人一人の現実的な特徴と感情をもって頭の中に蘇る。貧しさや飢え、幼児が、母親が引き起こしてしまった事故、犯罪や戦乱、一人一人異なる理由で母親と離ればなれになる子供たちである。
 女が目を覚ましたとき、和ちゃんは精神的なショックで放心状態にあった。女は和ちゃんの様子に気付いて慌てて頬を撫でた。目に意識を取り戻した和ちゃんは黙って首を傾げた。
「お母ちゃん?」
「なあに?」
「お母ちゃんは、ボクのお母ちゃんやな?」
 和ちゃんは念を押すように言った
 女は少し考え、そして、ただ衝動的に和ちゃんを抱きしめた。和ちゃんは母親を失うのを恐れるように小さな手で母親の衣服をつかんで離さない。そんな出来事もまた、時間に埋もれてゆく。
 普段から笑顔の孫の元気がない。庭先で植木に水やりをするお祖父ちゃんは、玄関に姿を見せた孫の異変に気付いて声をかけた。
「どこか、しんどいんか?」
「ううん」
 おじいちゃんの声に口ごもった後、首を横に振る仕草をする。無邪気であるというよりも、余計な心配をかけまいとする心遣いをする。そういう大人びたところは普段と変わりがない。和ちゃんはいつもの愛犬へ食事をやるために玄関に向かった。その背が淋しそうに小さく丸い。
 和ちゃんの姿を見つけて、モジャは食事より遊びの期待を込めて尾を振った。最近、以前のように遊んでもらっていないのである。しかし、モジャは尾を振るのを止めて、和ちゃんにまとわりついて、心配そうに主人の顔を見上げた。
 そんなモジャが、垂らしていた尾をびくりと動かして緊張感を見せた。主人の小さな影に、別の影が重なっている。くんくんと鼻を鳴らして嗅ぎ回ったが、感じ取る香りには存在感はなく、引っ掻く前足にも感覚が無く、目に映る影と影が主人を包む雰囲気にのみ存在感がある。感じ取れるものは敵意でも害意でもなく、かといって、人が和ちゃんに向ける好意や愛情とも違う。モジャは戸惑いを見せた。吠えることもせず唸りもせず、立ち去る和ちゃんと影を見送った。


 明くる朝のことである。和ちゃんは玄関の端にそっと立って、出てくる人々を待ちながら考え込んでいた。
 玄関の外では、いつになく早起きのマリアが、ヘレンに非難を込めて言った。
「どうしたの?」
 何やら、ヘレンがモジャの首輪の鎖を強引に引いて、モジャを虐めているように見えたのである。
「この分からず屋を、散歩に連れて行ってやろうと思ってるんだけど」
「散歩?」
 マリアとの会話でヘレンに油断が出来た。モジャは隙をうかがって、再び犬小屋に逃げ込んだ。この女、悪気はないと思うのだが、愛し方を間違えている。
「こらっ、根性無し。出てらっしゃい」
「あらっ」
 マリアは玄関に和ちゃんの姿を見つけた。今朝は傍らに母親の姿が無い。それが違和感に感じられるほど、最近の和ちゃんの傍らには、寄り添うように母親の姿がある。
 ただ、今日の和ちゃんは、ややうつむいて何かを考える様子で元気がない。
「ぶえのす・でいあす、マリアさん。ぐっもーにん、ヘレンさん」
「ブェノス・ディアス。和ちゃん、何かあったの?」
「グッモーニン。和ちゃん、困ったことがあるなら言ってご覧なさい。」
「あのね」と、和ちゃんは口ごもった。
「なあに?」
 和ちゃんは周囲をうかがって、ヘレンとマリアの他に誰も居ないことを確認して、口ごもるように言った。
「助けて……」
 和ちゃんの目に涙が浮かんでいた。意外な言葉に、マリアは優しく微笑んで問い直した。
「助けて?」
 マリアはヘレンと顔を見合わせた。和ちゃんという子は、周囲の人々に愛おしまれていて愛情が欠けているわけではなく、家族は金銭的に裕福というわけではないが金に困っている様子はない。ただ、父親が居ないと言うことで精神的に不安定なのかも知れない。寂しげで愛情を求めるような切ない表情を放置してはおけない。
 マリアは愛情を補うように和ちゃんを優しく抱きしめて言った。
「大丈夫よ、何も怖がることはない。みんな、和ちゃんを見守っているもの」
 和ちゃんを抱きしめながら、マリアの母親が幼いマリアに接してくれたときの姿を思い起こしている。
「勇気を出しなさい。一人じゃないから」
 ヘレンは、彼女の母の口調を真似て、母親が幼い頃の彼女にしてくれたように、和ちゃんの額にキスをした。そして、日本の約束の風習として、和ちゃんと小指を絡ませて約束をした。
「何かあっても、必ず守ってあげる」
(ふぅっ)
 ヨゼフはアダムと顔を見合わせて羨ましげに肯いた。二人そろって朝食の買い出しに行って戻ってきたら、玄関脇でこの光景である。若い女性に優しく抱きしめてもらったり、キスしてもらったり、子供の羨ましい特権である。
 なんと、羨ましい特権だろう。
 キスをされても不安が解消されない和ちゃんの気配に、ヘレンは男たちの手助けを求めて背後に視線をやった。二人の男は子供を演じるようにしゃがみ込んで、視線を子供の高さにしてヘレンとマリアを見上げている。アダムは目の大きな愛くるしい少年を演じるように、笑みを浮かべて目をうるうるさせた。なるほど、キスでも求めているつもりか。
 ヨゼフは無邪気な子供が母親の愛撫を求めるように、腕を広げて目を輝かせた。こちらは柔らかな抱擁を求めているわけだった。そんな二人の露骨な魂胆を、ヘレンが評し、マリアが応じた。
「どぅしようもない、オトコたちね」
「そ・お・ね」
 二人は思わせぶりに、ヨゼフとアダムに接近した。
「良い子たちね。目をつむって……」
 マリアが優しく語りかけ、オトコたちは何かを期待して目を閉じた。
 マリアの両手がアダムの頬を撫でるように包んで、アダムの顔の向きを導くように変えた。この角度で言えば、斜め上からマリアのキスが降ってくる。
「ちゅぅ……」
 マリアのキスの擬音とともに、アダムは唇に冷たく湿った感触を感じた。そっと目を開けると唇に和ちゃんの愛犬モジャの鼻面があり、モジャはアダム以上に迷惑そうな目をした。その背後でマリアはモジャを優しく抱いて頭を撫でた。
 ヨゼフは背後にヘレンの気配を感じて緊張した。肩の辺りに感じた柔らかな弾力は彼女の胸の感触かもしれない、耳たぶに彼女の吐息を感じ、彼女の右腕が一気にヨゼフをかき抱くように首筋に回されたかと思うと、頸動脈の血流が止まるように頭が鬱血する感触を感じ、首の骨が折られるのかと思う力強さで、ヘレンの左手がヨゼフの後頭部を圧して右腕に押しつけた。ヨゼフはヘレンに力強く抱き留められ、的確に気管まで締め上げられて呼吸が出来ず声を上げることも出来ない。なにより、あと僅かにヘレンが腕に力を加えれば、ヨゼフの首はへし折れるだろう。ヨゼフは慌てて地面を叩いてギブアップの意志を表した。
 和ちゃんは何故か少し勘が良くなり、お母さんに触れていなくても、考えていることがわかることがある。この時、女が物陰に潜むでもなく、自然体で立ちつくして入居者たちの様子を観ていた。その感覚を和ちゃんは女と共有していたのである。
(あの連中のせいでは無さそう)
 ここのところ和ちゃんの心が読めない。心を探る行為が相手の不快感を伴うことを知っていて、出来るだけあの子の心を探ることは避けている。しかし、子供の心が分からないと言うことが物寂しくもあり、罪悪感を伴いつつ心を探る。しかし、ここの所、和ちゃんの心がぼやけて見えないのである。この子は素直で意図して女に心を閉じる様子はない。
(あの子に誰かの力が作用しているよう)
 そう推察しているのだが、少なくともあの連中では無さそうである。
 オトコたちを相手にしていて、和ちゃんの相談に乗るのがおろそかになった。和ちゃんが今にも泣き出しそうな寂しげな様子で居る姿にマリアとエレンが気付いた。
「ごめんなさい」
 ヘレンは和ちゃんを独りぼっちにしたことを詫びて、和ちゃんの頭を撫でながら、和ちゃんの視線の先に、和ちゃんのお母の姿を見つけた。いつからそこに居たのだろう、全く気配を感じさせずに、気づけばそこに居たのである。
「うんっ。もぉ、ええねん」
 和ちゃんはヘレンとマリアにそう言い残して、母親の元に駆け寄った。不安な様子は未だ消えては居いない。
(和ちゃんは何か不安そうだが、和ちゃんのことは、お母さんにに任せておけばいいだろう)
 居住者たちは和ちゃんのお母さんと朝の挨拶を交わしてそう思った。しかし、和ちゃんと女の後ろ姿に、何かの違和感と寂しさと恐怖が漂うような気がし、親子の関係に危うさを感じるのはどうしてだろう。四人は同じ思いを抱いて顔を見合わせたが心の思いを口にすることはなかった。
 

 当然であり不思議なことに、和ちゃんは自分の絵本を管理人室に保管していた。何事もなく過ぎたある日の夕刻。和ちゃんは、管理人室からお母さんと住む隣の部屋へと絵本を運んでいた。そんな和ちゃんが、この日もヨゼフと並んで帰宅したアダムを見つけて笑顔で挨拶をした。
「おかえりなさい」
「ただいま」
 ヨゼフは明るく応じたが、アダムは黙ったままだ。靴を履き替えようとして、ふと気付くと、下駄箱にマリアの靴を見つけたのである。今日は、早めに帰宅して、既に部屋でくつろいでいるようだ。そして、都合良く和ちゃんがいた。アダムに閃く考えがある。
「和ちゃん、トランプでもしようか?」
 最近、何故か、和ちゃんは求めて母親に寄り添っている事が多い。しかし、遊びの誘いなら応じるだろう。たしかに、和ちゃんは即座に遊びの誘いに応じた。
「うんっ」
「じゃあ、トランプを取ってくるから、いつもの場所で」
 そして、ヨゼフに目配せをして、お前は来なくても良いと伝え、自分の部屋に姿を消した。ヨゼフは彼の意図を察して、絵本を運び終わった和ちゃんの手を引いて二階に上がると、彼自身は部屋に姿を消した。
 和ちゃんは椅子に座って床に届かないつま先をぶらぶらさせてアダムを待った。階段を上がってきたアダムが、和ちゃんの期待に応えるように、一枚のカードをケースから出して手のひらの中で消して見せた。アダムが唯一できる手品である。
「いつものゲームで良いかな?」
 和ちゃんは肯いた。和ちゃんとゲームをするときには決まって神経衰弱になる。この幼児に理解できる単純なルールだからである。アダムは消したカードをもう一度指先に出現させ、ケースの中のカードと一緒にシャッフルし、おもむろにカードを裏返しにテーブルに並べつつ言った。
「あれっ? 二人だけでゲームをするのは寂しいかな?」
 和ちゃんはアダムの誘いに少し考え込んだ。アダムはヨゼフを選択肢から除けと誘導した。
「ヨゼフ君は、ちょっと忙しそうだったな」
 とすると、エレンとチェルニーはまだ帰宅しておらず、遊びに誘う相手は一人に絞られる。
「うんっ、ボク、マリアさんを誘ってくるわ」
 和ちゃんは椅子を降り、アダムの思惑通りに走った。へレン・ウィリアムズのような戦闘的な海兵隊女ではなく、チェルニー・アタユックのように理詰めの眼鏡女でもなく、マリア・パルマという女性は、朗らかで包容力があるという点で、アダムの理想の女性像に近いのである。マリアが誰にでも向ける親切や優しさが、とりわけ自分に対して顕著なような気がして、マリアもまた自分に好意を抱いてくれているのではないかと密かに期待してもいる。和ちゃんはちゃんと役割を果たして、マリアの手を引いてきた。
「ゲームをするの?」
「うん、和ちゃんと一緒にどぉ?」
「いいわね」
 アダムはマリアを自分の隣の席に導くように隣の椅子の背を引いた。和ちゃんにはこの場だけに通用する特別なルールがある。カードをめくり直しても良いのである。子供に与えたハンディキャップと言っても良い。和ちゃんは自分の番になって、じっとテーブルのカードを睨んだ。アダムはマリアに言った。
「どう、先日の民俗学の本は?」
「ありがとう、面白かったわ」
 マリアが精霊や伝説に興味があることを知って、図書館から借りてきたのである。ここで、アダムは意を決してマリアを誘った。
「君の都合さえ良ければ、次の休みにでも、一緒に葛の葉神社にでも行ってみないか? 葛の葉狐の伝承の場を回ってみたいんだ」
「ごめんなさい。ちょっと買い物があるの」
「じゃあ、交野や寝屋川は? 古い伝承の史跡があるんだ」
 カードが取れずに退屈した和ちゃんは、あくびを一つして二人を眺めた。和ちゃんなどそっちのけで会話に没頭しているようで、ひとり取り残されているような気になる。二人の会話の内容は詳しくて分からないが、二人の会話に関連しそうな歌を知っていた。
「かーごめ かごめ かごのなかの とーりーは いついつでぇやぁる」
「あら、和ちゃん、カゴメの歌を知ってるのね。」
 和ちゃんはマリアに褒められたこと、二人の注目が自分に戻ったことが得意で嬉しく、歌を続けた。
「よあけのばんに つると かめがすぅべった」
 マリアとアダムもメロディを口ずさんだ。この幼児が歌詞の意味を理解しているかどうか疑わしいが、こうやって声を合わせて歌ってみると、学問的な歌詞の意味などどうでも良い気がし、手を繋いで歌うことに意味がありそうだ。そんな三人の歌声に新たな声が加わった。
「うしろの しょうめん だぁれ?」
 アダムは階段の中程にいた和ちゃんの母親を見つけた。メロディに唱和したのは彼女である。こちらを窺うようにそこに居る。カードが当てられない、和ちゃんの手助けをしてもらうのにちょうどよい。
「お母さんも和ちゃんを助けてやってもらえませんか」
「お母ちゃん」
 和ちゃんは母親に助けを求め、母親は頼りにされることが嬉しそうにやって来た。
「そぉ、同じ数字を当てれればいいのね」
 母親は迷いもせずに一枚を表にした。
「お母ちゃん凄い」
 和ちゃんにほめられた母親の表情が、嬉しそうに輝いた。和ちゃんの楽しそうな表情と母親の嬉しそうな表情が微笑ましく、アダムとマリアはこの選択の偶然を喜んだ。
「当てたら、続けてめくれるんやで」
 その和ちゃんの誘いで、母親は次のカードをめくり、同じ数字を選び出すように二枚目のカードをめくった。その後、ゲームが終わるのに十秒を要したに過ぎない。母親がめくったカードに外れているものが無かった。テーブル上のカードは全て表になっていて、もちろん、人間業ではない。アダムやマリアが彼女に疑いを抱かせる原因になりかねず、愚かな行動に違いない。しかし、アダムとマリアは、女が息子の尊敬と驚きに心から嬉しそうに微笑む表情を観ると、人間の業ではないという感覚を捨てて、母と子を微笑ましく見守っていたくなる。マリアとアダムは、テーブルの上で全てが表になったカードを前に、お母さんの手を引いて階段を下りる和ちゃんの姿を見送った。
(このままゲームを続けると、アダムとマリアに気付かれてしまう)
 和ちゃんは母親をかばうようにそう考えている。奇妙な事件だが、人々はこの二人の行動を、流れてゆく日常の中に忘れ去った。

 



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