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 空を駆け抜ける風は、夏の暑さ失って心地よい。窓を大きく開け放つと、梢を揺らした風が部屋に入ってきてじっとりと汗ばんだ重い空気がかき混ぜられて中庭に淀んだ空気を洗い流すようである。
 マリアは、窓辺から顔を突き出して微笑んだ。柔和な良い笑顔である。彼女にそんな笑顔を浮かべさせたのは、中庭の木陰の椅子に和ちゃんを見つけたことである。目を瞑っていてわずかに開いた口元から寝息が漏れているのだろう。遊びつかれたのか、昼寝をしているのである。
 その傍らに添い寝をするように寄り添う母親が居り、団扇で残暑の直射日光が子どもの顔を射るのを防いだり、涼しい風を子供に送っている。仲の良い微笑ましい光景に微笑んだのである。じっと見入りたくなる。
 母子で絵本を読んでいるうちに和ちゃんが眠ってしまったか、絵本を読みながら眠ってしまった和ちゃんをお母さんが見つけて寄り添っているという光景だろうか。
(本当の親子みたいね)
 マリアはそう思った自分の可笑しさ気付いた。本当の親子みたいとは、本当の親子だと言うことを否定するようではないか。心の底に目の前の光景を否定する意識が残っているのかもしれない。
 ここで、マリアは噴出したくなる思いで、口を押さえて笑い声を思いとどまった。誰かの悪戯を見つけたときのわくわくする面白さ。母親は新たな思いつきに、団扇を動かすことも忘れ、まじまじと和ちゃんを見つめていたかと思うと、そっと華奢な人差し指の先で和ちゃんの頬をつついた。距離を置いて眺めているマリアにまで暖かい幼児の弾力性が伝わってくるようだ。母親はその感触が気に入ったようで、指先を和ちゃんの頬につけたまま、撫で回したりぐりぐりと突っついたりした。その刺激かどうか、和ちゃんの寝息が乱れた。母親ははっと我に帰ったように指先を引っ込めて和ちゃんの様子を伺った。何やら自分の行為が息子を傷つけてしまったのではないかとの恐れさえ感じさせる素早さと表情の変化である。むろん、突かれていた和ちゃんは傷ついてるはずは無く、幸せそうに寝入っていて目覚める様子は無い。
 その和ちゃんにほっとした母親は、再び和ちゃんを撫で回し始めた。和ちゃんに示す愛情が、べとべとして粘り気があり、どろりと糸を引くようにしつこい。マリアには本来の母親の持つからりと明るい無垢な愛情からかけ離れているようにも感じられた。
 マリアは、じっと覗き見をするように見つめていることに、多少の罪悪感を覚え、母親に声をかけようとした刹那、古くなって立て付けの悪い窓が軋んだ。母親はその2階の物音を聞きつけて窓を見上げた。心の隙を突くように一匹の野良猫が庭を駆け抜けた。マリアは一瞬、中庭に侵入してきた野良猫に気を奪われ、背筋に冷たいものを感じて眉をひそめたが、それは猫のせいではなく、猫を目で追う前に、母親と一瞬視線が合ったのが原因に違いない。
 ネコが中庭を飛び出した後、マリアは再び母子に視線を戻したのだが、中庭には気持ちよく横たわる和ちゃんの姿だけで、数秒前に和ちゃんの傍らに居たはずの母親の姿が無い。ほぼ一瞬の間に、母親は掻き消えたように姿を消しているのである。
 一陣の風が中庭を吹き渡って、和ちゃんの前髪と木々の葉を揺らした。
「どこに?」
 そう首を傾げて呟くマリアのすぐ背後で、女の声がした。
「マ・リ・ア・さん」
 振り向くと、女がマリアの感情を読み取るようなにマリアの目をのぞき込んでいる。
「そぉ、見ていたのね」
 女がそう呟いた。
 マリアは開けた窓から外を眺めた。見上げる空は透き通って青く、空をすり抜ける風はやや肌寒く感じられる。窓辺から見える瓢箪荘の庭先は無人で寂しさを感じさせる。マリアは部屋の空気を入れ換えると窓を閉じて屋外から伝わる冷たい雰囲気を遮断した。窓を開けた後、和ちゃんを見かけた記憶が切り取ったように消えていた。
 

「お祖父ちゃん、ジェスールさんから」
 和ちゃんが郵便受けからカードを片手にして駆けてきた。旅行に出ているジェスールから葉書が届いたと、知らせに来たのである。傍らのお母さんは、ふんっと鼻を鳴らした。この葉書から、彼女にとってまるで悪臭のような不快な雰囲気が漂っている。
 ジェスールの名は彼女も知っている。郵便受けにその名があり、和ちゃんが「いろいろな所へ行って、あちこちで寝るねんやて」と称した男である。この葉書によってその実態がしれた。この葉書の男はテントや寝袋を背負ったトレッキングをしているのである。
「ふぅん」
 お祖父ちゃんは読み終えた葉書を和ちゃんに手渡して、読み始めの位置を指で示した。几帳面な小さな文字が、ある部分から、文字も大きく、かな文字ばかりに変わっている。ようやくかな文字の一部だけ読めるようになった和ちゃんに宛てた部分である。
『かずちゃん、げんきにしていますか。ぼくは いま あいちけんの “ほうらいさん”という やまに きています。あと すうじつすると ふじさんをみることができると おもいます』
 読めない文字を傍らのおじいちゃんに辿るように読んでもらって、和ちゃんはおじいちゃんに続いて、たどたどしく手紙を読み上げた。愛知県といわれてもどちらの方角なのか、鳳来山といわれても、和ちゃんにはその高さや形のイメージがわかない。しかし、自分に宛てられたメッセージを一生懸命に楽しんでいるのだろう。ジェスールはそういう心遣いをする男である。母親はそんな楽しそうな和ちゃんを愛でた。
 お祖父ちゃんは葉書の消印を確認した。消印はおそらく鳳来山の麓のポストを管理する郵便局のものだろう。日付は二日前である。今頃は前方に富士の峰を見ながら歩いているころかもしれない。おじいちゃんはその姿を思い浮かべた。
 おじいちゃんはカレンダーに目を移した。ジェスールの旅は順調に推移しているようで、帰ってくるのはあと数日、十月の終わりになるだろう。
 和ちゃんは、ちゃんと文字を読むことが出来たことを自慢するように、母親の顔を見上げた。母親のお褒めの言葉を期待してもいる。和ちゃんはおじいちゃんから受け取った葉書を今度は母親に手渡そうとして、ふと首をかしげた。おじいちゃんと自分にはメッセージを送ってくるジェスールがお母さんの存在を忘れたかのように一言も無いのである。
 

 その同じ時、ジェスールは、日本という地域の面白さを味わっていた。面積から言えば母国のトルコの半分にも満たない。しかし、国土面積に大多数を占める山岳や森林地帯が住宅地のすぐそばまで迫っているという地形が、更に複雑に入り交じって、人や自然が溶け合っていておもしろいのである。
 彼は生まれる前に父を失い、女手一つで彼を育てた母も成人前に失っていた。彼は道すがら母の記憶を辿っていた。今、彼が下って歩いているのは、「ししんざん」という音感の名の山で、親を思う山という意味の漢字を当てて「思親山」と呼ばれる。なにやら、山の名の由来を調べれば、人と自然の関わりについて面白い伝承でもあるのかも知れない。
 平日の早朝で、行き交うハイカーの姿も途絶えて、時折、麓から飼い犬の鳴き声が聞こえ、麓の集落の存在を教えた。人の姿が見えないこの場所で、人の存在を味わうのである。何やら一歩ごとに過去の想い出が蘇るようでもある。
 幼い頃から様々な不幸を重ねる中で、現実から逃避するように、遠く離れた東洋の端の国に理想郷を思うようになった。しかし、成人して訪れた日本も、様々な負の感情を抱えているという点で母国と変わりがない。この時の日本という国は、ジェスールを失望させただけに過ぎない。
 アパートの部屋でふさぎ込む彼を、開いたドアから不思議そうに眺める幼児が居た。ジェスールは日本では普段見かけない異国の顔立ちが珍しいのだろうと考えた。ジェスールは屈託のない無邪気な目に惹かれて手招きをした。近づいてきた幼児はジェスールに腕を差し伸べ口髭に指を伸ばして来たので、ジェスールは幼児の興味の対象を知った。
(なるほど、)
 この国で口髭を伸ばしている人が珍しく、幼児は自分と異なる人間に興味を引かれたのではなく、口髭に興味を引かれたのである。ジェスールは自分の勘違いを笑い飛ばした。
「笑い声って、みんな一緒や」
と、幼児が言った言葉をジェスールは思い出した。様々な人が居て様々にすれ違う。時代を問わず場所を問わず人が生きていて、様々な思いを抱えているが、人が人として生き続けてきた根底にある感情で、全ての人は共通の根を持っている。そんな事を和ちゃんは難しい言葉を使わず教えてくれたような気がするのである。
 佐野峠。見晴らしの良い峠を経て、人の気配のみがする小さく静かな集落を過ぎて歩を進めると、起伏に富んだ地形が、今朝まで見えていた霊峰富士を隠してしまっている。ただ、彼が登り始めたのは、富士山の裾野の西側の幔幕というべき山で、この長者が岳の頂上にたどり着けば、幕は大きく開かれて、富士山が一望の下に見えるはずだ。今夜は、頂上で富士山を眺めながら一泊する。空はよく晴れており、山の秋の寒さをしのぎさえすれば気持ちの良い一夜になるだろう。初秋の日差しは落ちるのが早い。頂上にたどり着いたのは日が暮れてからである。霊峰は闇に閉ざされて見ず、その楽しみは明くる日に回した。彼は慣れた手つきで、迷うことなく手探りでテントを張った。
 明くる朝、目の前にはジェスールを満足させる景色が広がっていた。寝袋の暖かさを振り切ってテントの外に出て、朝日に照らされた富士を眺めた。ジェスールの背後から朝日が差して富士と裾野の樹海を照らす、そんな雄大な光景を背景に朝食を取った。
 朝食のスープの温かさが腹を満たしているうちに荷造りを終え、歩き始めた。秋の日差しは心地よく、下りだと言うことも手伝って足が進む。
 やがて、踏みしめる足に下り坂の過重を感じなくはなり、標高千三百メートルの長者が岳の頂上から下ってきたというイメージがする。そして歩いている道路は水平に続いているのだが、未だ、この辺りは大地に大きく根を張った富士の裾野の一部であるらしい。地図で標高を見ればこの辺り一帯は標高八百メートルの高原である。肌に伝わる冷気が新鮮で心地よい。
 ジェスールはコースに隣接するキャンプ場に立ち寄った。未だ陽が高く宿泊には早い。しかし、飲料水を補給しておきたいと考えたのである。ポリ容器に今夜の調理用に三リッターばかりの湧き水を入れてザックにしまい込んだ。富士の麓の湧き水だと考えると何か微笑みたくなる清浄感があり、今夜の食事の味にも影響しそうに感じられる。
 ジェスールはふと考えて、ペットボトルを取り出した。中身の飲料は飲み尽くしており、予備の水筒にしようと持っていた物である。わき水でペットボトルをよく洗い、こぽりこぽり、音をさせて清浄な水をボトルに詰めた。別段、信仰上の理由はない。この清浄な湧き水なら、美味しいお茶が入れられるだろうと思ったのである。瓢箪荘の管理人は、煎餅や饅頭よりこういうおみやげを喜ぶ人物だ。ジェスールはボトルに固く栓をし、ビニール袋で包んでザックの下に押し込んだ。
 今日も、日差しは柔らかで、五湖台と呼ばれる富士の裾野の丘に登れば、雲一つ無い空を背景に富士山がそびえ、その周囲に広がる樹海が眼前に広がっている。この丘がこの日の宿泊場所である。ジェスールは夕日に照らされた富士を日本人らしい山だと考えている。この山は、山という起伏を示す地形であるばかりではなく、日本人の信仰の対象だと言うことが理解できる。麓で豊かにわき出す清浄な水を味わえば、水の神だということを思いだし、広大な樹海を周囲に抱えてどっしりと広がる裾野を見れば、母性すら感じさせ、安産や子育てを司る神だというのも理解できるような気がする。彼は富士という山の名ではなく女神の名を思い出した。
(『このはなさくや姫』と言ったか……)
 このまま、ゆっくりと自然に溶け込みながら歩いて、明日は富士山の裾野の山中湖を経由して県境を越え、相模湖から東京の高尾山へと道を辿る。高尾山を下れば今回の旅の終着点である。
 二日後には、彼自身の不幸な過去を洗い流すように旅を終える。
 
 

露呈 1

 和ちゃんはふと目を覚ました。目を覚ましてみると母親の顔が鼻がくっつくほど間近にある。瓢箪荘の裏庭に張り出したテラスのベンチである。
 先日、お母さんに絵本を読んであげると宣言しながら、その約束を果たせずにいた。今日、約束を果たしていたのだが、秋の風の心地よい涼しさと、髪に感じる母親の温かい手の平の感触に甘えるように、眠気がさしてしまったのである。
 マリアに借りた絵本がページを開いたまま膝の上にあり、和ちゃんはようやく事情を思い出した。母親もまた子供が傍らにいる幸福感に酔うようにぐっすり眠り込んでいる。和ちゃんは次のページをめくりたい衝動を抑えて、母親が起きるまで待つことにした。
 母親の髪に触れてみると、ついっと涙が一滴頬を伝ったので、和ちゃんはそのくすぐったさに指で眼をこすった。くすぐったさの原因が自分の涙だと気づいたのだが、どうして涙が出たものか分からず和ちゃんは小首をひねった。
 傍らに母親がいるという安心感の心地よさ。
 その母親が自分だけのものだという心地よさ。
 和ちゃんは経験したことのない幸福感に酔っているのである。
 突然、母親は表情を変えた。それが不快そうに眉をひそめるというようなものではなく、まるで手足でも切り落とされたかのような大きな苦痛の表情である。そして、食いしばった歯の隙間から悲痛なうめき声が伝わった。
 ひどい悪夢を見ているに違いなかった。和ちゃんは母親を悪夢から目覚めさせようと母親の両肩に手を当てて揺すった。
 その刹那、十の数の百倍、更にその数千倍もの子どもたちの映像が和ちゃんの頭にひらめいた。数え切れない子供たちの姿や顔が一人一人の現実的な特徴と感情をもって頭の中に蘇る。貧しさや飢え、幼児が、母親が引き起こしてしまった事故、犯罪や戦乱、一人一人異なる理由で母親と離ればなれになる子供たちである。
 女が目を覚ましたとき、和ちゃんは精神的なショックで放心状態にあった。女は和ちゃんの様子に気付いて慌てて頬を撫でた。目に意識を取り戻した和ちゃんは黙って首を傾げた。
「お母ちゃん?」
「なあに?」
「お母ちゃんは、ボクのお母ちゃんやな?」
 和ちゃんは念を押すように言った
 女は少し考え、そして、ただ衝動的に和ちゃんを抱きしめた。和ちゃんは母親を失うのを恐れるように小さな手で母親の衣服をつかんで離さない。そんな出来事もまた、時間に埋もれてゆく。
 普段から笑顔の孫の元気がない。庭先で植木に水やりをするお祖父ちゃんは、玄関に姿を見せた孫の異変に気付いて声をかけた。
「どこか、しんどいんか?」
「ううん」
 おじいちゃんの声に口ごもった後、首を横に振る仕草をする。無邪気であるというよりも、余計な心配をかけまいとする心遣いをする。そういう大人びたところは普段と変わりがない。和ちゃんはいつもの愛犬へ食事をやるために玄関に向かった。その背が淋しそうに小さく丸い。
 和ちゃんの姿を見つけて、モジャは食事より遊びの期待を込めて尾を振った。最近、以前のように遊んでもらっていないのである。しかし、モジャは尾を振るのを止めて、和ちゃんにまとわりついて、心配そうに主人の顔を見上げた。
 そんなモジャが、垂らしていた尾をびくりと動かして緊張感を見せた。主人の小さな影に、別の影が重なっている。くんくんと鼻を鳴らして嗅ぎ回ったが、感じ取る香りには存在感はなく、引っ掻く前足にも感覚が無く、目に映る影と影が主人を包む雰囲気にのみ存在感がある。感じ取れるものは敵意でも害意でもなく、かといって、人が和ちゃんに向ける好意や愛情とも違う。モジャは戸惑いを見せた。吠えることもせず唸りもせず、立ち去る和ちゃんと影を見送った。


 明くる朝のことである。和ちゃんは玄関の端にそっと立って、出てくる人々を待ちながら考え込んでいた。
 玄関の外では、いつになく早起きのマリアが、ヘレンに非難を込めて言った。
「どうしたの?」
 何やら、ヘレンがモジャの首輪の鎖を強引に引いて、モジャを虐めているように見えたのである。
「この分からず屋を、散歩に連れて行ってやろうと思ってるんだけど」
「散歩?」
 マリアとの会話でヘレンに油断が出来た。モジャは隙をうかがって、再び犬小屋に逃げ込んだ。この女、悪気はないと思うのだが、愛し方を間違えている。
「こらっ、根性無し。出てらっしゃい」
「あらっ」
 マリアは玄関に和ちゃんの姿を見つけた。今朝は傍らに母親の姿が無い。それが違和感に感じられるほど、最近の和ちゃんの傍らには、寄り添うように母親の姿がある。
 ただ、今日の和ちゃんは、ややうつむいて何かを考える様子で元気がない。
「ぶえのす・でいあす、マリアさん。ぐっもーにん、ヘレンさん」
「ブェノス・ディアス。和ちゃん、何かあったの?」
「グッモーニン。和ちゃん、困ったことがあるなら言ってご覧なさい。」
「あのね」と、和ちゃんは口ごもった。
「なあに?」
 和ちゃんは周囲をうかがって、ヘレンとマリアの他に誰も居ないことを確認して、口ごもるように言った。
「助けて……」
 和ちゃんの目に涙が浮かんでいた。意外な言葉に、マリアは優しく微笑んで問い直した。
「助けて?」
 マリアはヘレンと顔を見合わせた。和ちゃんという子は、周囲の人々に愛おしまれていて愛情が欠けているわけではなく、家族は金銭的に裕福というわけではないが金に困っている様子はない。ただ、父親が居ないと言うことで精神的に不安定なのかも知れない。寂しげで愛情を求めるような切ない表情を放置してはおけない。
 マリアは愛情を補うように和ちゃんを優しく抱きしめて言った。
「大丈夫よ、何も怖がることはない。みんな、和ちゃんを見守っているもの」
 和ちゃんを抱きしめながら、マリアの母親が幼いマリアに接してくれたときの姿を思い起こしている。
「勇気を出しなさい。一人じゃないから」
 ヘレンは、彼女の母の口調を真似て、母親が幼い頃の彼女にしてくれたように、和ちゃんの額にキスをした。そして、日本の約束の風習として、和ちゃんと小指を絡ませて約束をした。
「何かあっても、必ず守ってあげる」
(ふぅっ)
 ヨゼフはアダムと顔を見合わせて羨ましげに肯いた。二人そろって朝食の買い出しに行って戻ってきたら、玄関脇でこの光景である。若い女性に優しく抱きしめてもらったり、キスしてもらったり、子供の羨ましい特権である。
 なんと、羨ましい特権だろう。
 キスをされても不安が解消されない和ちゃんの気配に、ヘレンは男たちの手助けを求めて背後に視線をやった。二人の男は子供を演じるようにしゃがみ込んで、視線を子供の高さにしてヘレンとマリアを見上げている。アダムは目の大きな愛くるしい少年を演じるように、笑みを浮かべて目をうるうるさせた。なるほど、キスでも求めているつもりか。
 ヨゼフは無邪気な子供が母親の愛撫を求めるように、腕を広げて目を輝かせた。こちらは柔らかな抱擁を求めているわけだった。そんな二人の露骨な魂胆を、ヘレンが評し、マリアが応じた。
「どぅしようもない、オトコたちね」
「そ・お・ね」
 二人は思わせぶりに、ヨゼフとアダムに接近した。
「良い子たちね。目をつむって……」
 マリアが優しく語りかけ、オトコたちは何かを期待して目を閉じた。
 マリアの両手がアダムの頬を撫でるように包んで、アダムの顔の向きを導くように変えた。この角度で言えば、斜め上からマリアのキスが降ってくる。
「ちゅぅ……」
 マリアのキスの擬音とともに、アダムは唇に冷たく湿った感触を感じた。そっと目を開けると唇に和ちゃんの愛犬モジャの鼻面があり、モジャはアダム以上に迷惑そうな目をした。その背後でマリアはモジャを優しく抱いて頭を撫でた。
 ヨゼフは背後にヘレンの気配を感じて緊張した。肩の辺りに感じた柔らかな弾力は彼女の胸の感触かもしれない、耳たぶに彼女の吐息を感じ、彼女の右腕が一気にヨゼフをかき抱くように首筋に回されたかと思うと、頸動脈の血流が止まるように頭が鬱血する感触を感じ、首の骨が折られるのかと思う力強さで、ヘレンの左手がヨゼフの後頭部を圧して右腕に押しつけた。ヨゼフはヘレンに力強く抱き留められ、的確に気管まで締め上げられて呼吸が出来ず声を上げることも出来ない。なにより、あと僅かにヘレンが腕に力を加えれば、ヨゼフの首はへし折れるだろう。ヨゼフは慌てて地面を叩いてギブアップの意志を表した。
 和ちゃんは何故か少し勘が良くなり、お母さんに触れていなくても、考えていることがわかることがある。この時、女が物陰に潜むでもなく、自然体で立ちつくして入居者たちの様子を観ていた。その感覚を和ちゃんは女と共有していたのである。
(あの連中のせいでは無さそう)
 ここのところ和ちゃんの心が読めない。心を探る行為が相手の不快感を伴うことを知っていて、出来るだけあの子の心を探ることは避けている。しかし、子供の心が分からないと言うことが物寂しくもあり、罪悪感を伴いつつ心を探る。しかし、ここの所、和ちゃんの心がぼやけて見えないのである。この子は素直で意図して女に心を閉じる様子はない。
(あの子に誰かの力が作用しているよう)
 そう推察しているのだが、少なくともあの連中では無さそうである。
 オトコたちを相手にしていて、和ちゃんの相談に乗るのがおろそかになった。和ちゃんが今にも泣き出しそうな寂しげな様子で居る姿にマリアとエレンが気付いた。
「ごめんなさい」
 ヘレンは和ちゃんを独りぼっちにしたことを詫びて、和ちゃんの頭を撫でながら、和ちゃんの視線の先に、和ちゃんのお母の姿を見つけた。いつからそこに居たのだろう、全く気配を感じさせずに、気づけばそこに居たのである。
「うんっ。もぉ、ええねん」
 和ちゃんはヘレンとマリアにそう言い残して、母親の元に駆け寄った。不安な様子は未だ消えては居いない。
(和ちゃんは何か不安そうだが、和ちゃんのことは、お母さんにに任せておけばいいだろう)
 居住者たちは和ちゃんのお母さんと朝の挨拶を交わしてそう思った。しかし、和ちゃんと女の後ろ姿に、何かの違和感と寂しさと恐怖が漂うような気がし、親子の関係に危うさを感じるのはどうしてだろう。四人は同じ思いを抱いて顔を見合わせたが心の思いを口にすることはなかった。
 


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