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 見慣れた日常の光景である。集会場と呼ぶには大げさすぎる。二階への階段を上がりきった6畳ほどの板の間に、見慣れた仲間が集まっており、遊び相手を求めてやってきた和ちゃんが加わって、椅子に座って足をぶらぶらさせてて居住者たちの話を聞いていた。何をすると言う目的もなく気分転換に時間を潰す。そんないつもの時間である。
 最近、居住者たちの話題に上ることが多くなった母の話題が転じて、故郷の話となり、更に転じて、留学した理由に移った。出身国や年齢は違うが、互いに共通の話題だろう。 話の口火を切ったアダムが日本に興味を持ったのは、彼の母国とさほど大きさの変わらない東洋の国の成り立ちである。
「この国に来るまでは、なんて幸せな国土と歴史を持った人たちだろうって思ってたんだけどね」
「そうでもなかった?」と、ヘレンが尋ねた。
「そうだね。自然が豊かだと言うことは、転じて言えば自然災害が多いということさ」
「台風や地震や津波?」
「そして、1つの民族のように見えても、まとまっていたわけじゃなくて、日本各地で大きな戦をいくつも経験してるね」
「支配者の欲望は何処でも変わりがないと言うことかな」
「あっ、私も1つ知ってる。この南にある大阪城なんだけどね、昔、若い王子様とお姫様が居たのよ」
「それで?」
「そこに、陰謀に長けた大魔王が何十万もの手下を率いて攻め寄せてきたの。その時に日本全国から英雄豪傑が集まって、王子とお姫様を助けて魔王相手に戦うの……。わくわくするようなファンタージだわ」 
 ヘレンの言葉には、ヘレンが好みそうな要素が混じって、大阪の陣の歴史が脚色されている。事実、ヘレンは金髪の髪を靡かせ、東軍の前衛を蹴散らし、数万の兵で厚く守られた徳川家康の陣に突入する真田幸村に自らの姿を重ねて想像している。歴史には素人のチェルニーがヘレンの想像力を笑った。
「いったい、いつの何処の国の話よ。」
 アダムは和ちゃんの頭を撫でて、歴史的事実とファンタシーは切り離すよう促して続けた。
「農耕民族だから性格が温厚だと言われるけれど、どうなんだろう」
 アダムの疑問にチェルニーが答えた。
「さっきの自然災害が多いと言うことと、関係するのね」
「そう、自然や天候に運命を左右されて、洪水で家を失ったり、冷害による飢饉で飢えたり、その運命を受け入れて粘り強く生きてきた人たちなんだ」
 アダムは、傍らで話を聞いていた和ちゃんの頭を撫でた。まだ分からないかも知れないが、日本人が様々な困難を切り開いて生きてきたと言うことを、この子は誇りにして良いと考えている。
「日本で飢饉か、信じられないね」
 ヨゼフは現代でも世界各地で餓死者が出ているのは知っている、しかし、現代の日本を見れば、民衆の餓死という経験を経ているとは信じられない。
「飢饉……。てんぽ……。あの時はね」
 呟くように語る声に仲間は振り返った、いつから居たのか、彼らの話をどこから聞いていたのか分からない、いつの間にやら和ちゃんの母親が彼らの傍らにいた。
「てんぽ?」
 初めて聞く単語が、トゲを持ってアダムの心に引っかかった。和ちゃんの母親はアダムに答えようともせず、うなされるように続けた。
「乳をやりたくても、私の体は、からからに乾燥したみたいで、乳なんか出ないの」
 語られる内容が具体的で、仲間は息をのむ事しかできない。話は続いた。
「赤ちゃんの声が小さくなるの……。でも、あの子が乳を求めて必死で泣き続けるのに、その声は段々かすれて、何も聞こえない……」
 人が入れ替わったように、別の情景を語り始めた。
「赤ちゃんが生まれたの。でも、食べさせるものなんてありはしない。飢えて死なせるより、ひと思いに水に浸した紙を生まれた赤子の顔に乗せるの。あの子の声がだんだん小さくなって」
 不安そうにうめく母親を観て、和ちゃんは話の話題と母親の不安が関わりがあることに気付いたらしい。母親の手の指先を強く握って引いた。
「お母ちゃん。部屋に帰えろ。」
 和ちゃんは母親の手を引いて、階段から自分の部屋へと導いた。階段を下りながらも母親の声がうなされるように聞こえ続けた。
「死んだあの子の体は、枯れ木のよう」
 取り残された仲間の思いを代表してチェルニーが言葉を発した。
「てんぽ……。何を言おうとしたのかしら。子供を餓死させてしまったお母さんの言葉みたい」
 あり得ない話で、仲間は首を傾げざるを得ないが、突如として深刻に転じた雰囲気に、談笑を続ける意識はなくなった。彼らは無言のまま背を向けあって、一人二人とその場を離れ、部屋に戻ることになった。
 マリアは一人、気になるキーワードをつぶやいていた。
「てんぽ」
 マリアはアダムの部屋に足を向けた。調べ物をするときに便利な部屋である。
 部屋に戻ったアダムは、テーブルの上に開いたままになっていた日本文化に関する書籍を片付けつつ、パソコンのスイッチを入れた。部屋の中にしんっと冷たい雰囲気が立ちこめていて、窓の外のすっかり更けた夜の景色が、肌寒さをもたらしているように感じられ、アダムはカーテンを閉じた。
 何やら要領を得ないが、頭の中にもやもやとまとまらない意識があり、何やら新たなアイデアが浮かんできそうな気がして、考えをまとめておきたいと思ったのである。しかし、ディスプレイを睨んでも新たなアイデアは浮かばない。
 突然、マリアがドアをノックして顔をのぞかせたのはこの時である。
「ねぇ、ちょっと気になるんだけど」
 アダムの手招きも待たずに、マリアはアダムのパソコンの傍らに寄ってきた。
「なんだい?」
「さっき、和ちゃんのお母さんが言った言葉、『てんぽ』って何かしら」
(その通りだ)
 アダムにも閃く考えがある。何やら迷いつつアイデアを探ろうとして、パソコンのスイッチを入れたが、『てんぽ』を調べるつもりだったのではないかと気付いたのである。アダムは笑った、単純なことを忘れていた自分と、マリアの素早さについてである。マリアはキーボードの向きを変えて、手早く『てんぽ』と入力してアダムに同意を求めた。
「『てんぽ』で良かったのね?」 
 アダムは肯いたが、もちろん、眺めていても意味はない。アダムは漢字に変換して文字に意味を持たせてみたが、店舗、填補、と変換され、いずれの言葉も飢餓とは関係がない。
「てんぽ、てんぽ、」
 マリアはそうリズムをつけて繰り返すうちに、音感が似た天保山という言葉が浮かんだ。大阪湾に接する山の名で、標高が5メートルにも満たない冗談のような山である。山に似つかわしくない光景から言えば、天保山と名付けられた公園とその隣接する地域と考えても良い。二人はそこが水族館やフェリー乗り場がある場所だと言うことぐらいは知っていた。
『天保山』で検索を進めると、人工的に土を盛り上げた地形で、その名は築かれた時代の元号に由来すると記載されている。
「元号なの?」
 そんなマリアの言葉にアダムは元号としての『天保』の情報を検索して表示させた。西暦1830年代から始まる時期で、開国へと舵を切る以前のサムライの時代だと知れた。
「ショパン、ミツキェーヴィチ、シェンキェヴィチ」
 アダムが呟いたのは、同じ時期の彼の母国の人々の名である。社会的背景で言えば、ポーランドが諸外国によって踏みにじられ、社会的混乱や民族的な不安のルツボだった時期である。同時期にこの日本という国は、江戸時代という成熟した閉鎖国家が西欧社会と触れあって、社会的な混乱を迎えていたらしい。
 『天保の改革』という言葉があり、外国船の来航、一揆や物価高騰などの社会的不安を抱えていた時期だとわかった。国内外の情勢や一揆など、いずれにしても飢餓とは結びつかない。アダムはため息をついて手を首の後ろで組んで背もたれにもたれかかった。
 この時にマリアがディスプレイの下に表示された検索ワードの1つに気付いて指差した。天保に関わるキーワード候補の中に『天保 飢饉』とある。
 アダムがクリックしてみると、どうして今までヒットしなかったのかと首を傾げるほど、『天保の飢饉』という言葉がディスプレイを埋め尽くした。
 度重なる自然災害で、日本各地で数十万規模の餓死者がでたと記録にある。アダムはその情報の1つ1つに没頭した。この国の隅々に行政の手が行き渡っており、しかも、当時の日本は諸外国と比べても識字率が高い。行政が記した公式記録のみならず、聖職者や民間の人々が記録した書籍に至るまで、詳細で膨大な記録が残っているようだ。
 飢えて土地を離れて流浪する人々、
 行き倒れたまま無縁仏として葬られる数多くの人々、
 食べさせることが出来ないままに子供を捨てる親、
 多数の記録のいずれもが悲惨な状況を彷彿させる。
 歴史の出来事の悲惨さから逃れるように、アダムとマリアは顔を見合わせてため息をついた。アダムは記録を見直した。おそらく、当時の人々は悲壮な思いで、目の前の光景を語り継ごうと記録したに違いない。しかし、今のアダムは文字から読み取れる情報を頭の中で処理をして悲惨な光景をイメージしているにすぎない。もちろん、アダムは餓死者に接した経験など無く、そのイメージには限界がある。
 マリアも同じ事を考えたらしくポツリと言った。
「凄い想像力ね」
 もちろん、和ちゃんの母親のことを指している。
『あの子は一生懸命に泣いているのに声が聞こえない……』
『水に浸した紙を、生まれた赤子の顔に乗せるの……』
『死んだあの子の体は、枯れ木のよう』
 まるで、この飢餓を自分で体験したかのように語り、そして、体験した者でなければ想像が付かないことを語っていたのではないか。
 背後の窓枠がカタリと音を立て、誰かが窓の外から二人を窺う気配があり、背筋にゾクリと悪寒がして、二人はそっと振り返った。もちろん部屋の窓には人の姿はなく、夜風がガラスを揺すっただけらしい。窓ガラスが見えている。先ほど、カーテンを閉じたはずだが、アダムはそれを思い出すことはなかった。ただ、もやもやとした不安がよぎり、アダムは心の不安を抑えるように母親からもらった十字架のペンダントを握った。
「かーごめ かごめ かごのなかのとりは」
 マリアが唐突にそんな歌詞を口にした。亡くなった子供たちのことを考えているうちに何かの波動に同調するように口ずさんでいたのである。大勢の子供がどこか得体の知れない闇の中からマリアとアダムに誘いかけているような気がする。
 しかし、そんな恐怖も日常の記憶に埋もれ、何事もなかったように夜が更けて、瓢箪荘の人々は何事もなかったように次の日を迎えた。
 

「チェルニーさん」
 和ちゃんがやや弾ませた息を整えて、彼女の部屋のドアをノックした。チェルニー宛に何かの荷物が届いた、ということを知らせに来たのである。
 チェルニーは笑った。和ちゃんが郵便配達を気取って、アパートの入り口に到着した荷物を居住者の部屋まで運んでくれることがある。今回の彼が手ぶらなのは、配達人としての和ちゃんには扱いきれなかった荷物なのである。運ぶには重すぎたのか、大きすぎたのか、壊れそうなものだったのか、そんな疑問の回答を和ちゃんは体現している。
 和ちゃんが無意識のうちに大きく腕を広げている。到着した荷物が抱えきれなかった。その状況がこの幼児のポーズからうかがい知れて面白かったのである。
 和ちゃんはチェルニーの手を引いて、玄関脇に置かれた箱まで導いて役割を終えた。案内のお礼を兼ねて和ちゃんの頭を撫でて、箱の送り状に目をやると、懐かしい記憶のある母親本人の字体で、送り主の名が見てとれる。箱は確かに和ちゃんが抱えるには大きすぎるが、重さはさほどでもなく揺すっても物音がしない。チェルニーは箱の中身に首を傾げながら部屋に持ち帰った。
 10分後、和ちゃんはいつものようにお母さんの夕食作りを手伝っていた。流しに向き合っていたお母さんは、ふと気配に気づいたように顔を上げた。何事かと、和ちゃんがお母さんの手を握ると、彼女の視界が和ちゃんにも流れ込んできた。彼女は部屋にいながら、玄関にいるような視点で、階段を下りてきたチェルニーを眺めていたのである。その眺めとともに誰かがチェルニーの心を読むように、彼女の心の中が、お母さんを通じて和ちゃんにも伝わってきた。
 チェルニーは階段の登り口にある固定電話の受話器を取り上げた、季節はずれのセーターを身に着けたことを後悔している。まだ、冬までにはずいぶん間がある時期である。不快感は無いが、母親の娘を思う愚かさにため息もつきたくなる。こんなセーターなど、冬という季節の無いタイでは年中不要なものだ。母親がこんな衣類を入手した苦労がしのばれるのだが、ちょっと考えてみれば、この種の防寒着は冬を迎える前の日本なら普通に入手できるし、日本への留学経験のある母親は良く知っているはずだ。
(母親ってなんて、馬鹿なんだろう)
 チェルニーは愛情を込めてそう思った。電話が繋がって、受話器の声にチェルニーは受話器を取った人物を悟った。
「お母さん、荷物を受け取ったわ。ありがとう」
「日本の寒さもこたえるだろうから早めにと思ってね」
 南国育ちの者にとって、日本の寒さがこたえる。チェルニーの母はそういう経験をしている。彼女が日本に留学していたのはチェルニーと同じ年頃の時期だから、二十年以上も前の話である。しかし、その二十年の間に、留学時代の懐かしさ以上に、日本の冬の寒さが記憶の中で増幅されているらしい。
「慎一とも上手くやってるかい」
「ええ、優しい人ね」
「慎一は子供の頃から几帳面で気だてが良かったからね」
 チェルニーの母は、管理人のことを慎一と名前で呼んで、自分の弟のように語る。事実、そう言う親しみを感じているのである。今の管理人の武藤慎一は、チェルニーの母親がこの瓢箪荘で寝起きをしていた頃に、先の管理人の息子として、中学生か高校生の年頃だったはずだ。チェルニーの母親にはそういうイメージが残っているのだろう。
「和ちゃんも元気にしてるかい」
「ええ、いつもお母さんと仲良く一緒にいるわ。微笑ましくって、私も早く子供が欲しくなるくらい」
 一瞬、母親が受話器の向こうで迷うように口ごもり、チェルニーは理由を尋ねた。
「どうしたの?」
「何を言ってるの。和ちゃんの両親は、慎一の奥さんや、ご両親と一緒に事故で亡くなってるはずじゃない。もう四、五年も前の話だよ」
「えっ?」
 チェルニーは意外な気分にとらわれて受話器を耳から放して考えた。
(交通事故……、和ちゃんのお母さんは亡くなっているの?)
 そういわれると、そんな気もするのである。和ちゃんが一人ぼっちで寂しそうにしていた。そんな光景が思い起こされるような気がする。
 そして、チェルニー自身、この安アパートに入居したのは、物心着く前の和ちゃんが祖父の慎一と一緒に、このアパートにやってきた頃だ。
「もう、変なことを言う子だねぇ。事故の話はお前から聞いたんだよ。大丈夫かい?」
 そう言われれば、母親の求めに応じて、事故の状況を電話で知らせた覚えがある。
 同じ時、台所では女は和ちゃんが手を握って、心の一端を共有しているのに気づいた。チェルニーと母親が話すタイ語の音の響きにあわせるように、その意味が和ちゃんの心に響いていた。女は慌てて和ちゃんの手を引き離し、和ちゃんの前にしゃがみ込んで笑顔を浮かべた。和ちゃんは体に自分の心を取り戻して、お母さんの頼みを聞いた。
「和ちゃん」
「なあに?」
「お母さんにお庭で絵本を読んでくれる約束だったわね。先に行って待っててくれるかしら」
「うんっ」
 和ちゃんは、お母さんの提案が気に入った。マリアから借りていたお気に入りの絵本を抱えて、部屋を出て、玄関に背を向けて廊下を駆けた。裏口から出ればテラスがあり、庭を眺める丸テーブルと椅子が置いてある。奥の部屋から出てきたヘレンとぶつかりそうになり、和ちゃんは振り返って急いでいる理由を、絵本を掲げて言った。
「お母ちゃんに、絵本を読んだげるねんで」
 和ちゃんのうれしそうな笑顔をみると、ヘレンはかける言葉もなく、ただ笑いながら、顔の横で和ちゃんに向けた手の平を振り下ろして見せて、行動を再開せよとのシグナルを送った。和ちゃんは握った拳の親指を立てて、了解のサインを返し、裏口に掛け始めた。
(最近の和ちゃんはいい笑顔をしているわ)
 ヘレンは和ちゃんの後ろ姿を眺めてそう思った。
「えっ、ええ。ごめんね。もう切るわよ」
 チェルニーは混乱した思考を整理できないまま、受話器を置いて電話を切った。チェルニーが悩む様子に、ジョギングに出かける準備をして玄関に姿を現したヘレンが声をかけた。
「どうしたの? 眼鏡女さん」
「うん。和ちゃんのお母さんは、もう亡くなっているんだって……」
 むろん、ヘレンは管理人室の隣の部屋を指差して、タチの悪い冗談を笑い飛ばした。
「まさか? じゃあ、あの部屋にいるのは誰だって言うのよ」
 チェルニーは記憶を整理するように呟いた。
「私はチェルニー・アタユック。貴女はヘレン・ウィリアムズ。和ちゃんは武藤和久で、管理人さんは武藤慎一。じゃあ、お母さんの名前は?」
 小さな古いアパートで、数年来居住している居住者と管理人である。出自は様々でも、大きな家族のように、互いの名前や姓や人柄は心得ている。しかし、あの女性の何について記憶がない。
 武藤という姓は、和ちゃんと同じ姓のはずだと推測できても名は思い起こせない、和ちゃんのお母さんという呼称だけで、あの女性個人を呼ぶ名が見つからないのである。何やら、記憶の奥底にどんよりと沈みこんだものが粘り着くようにかき混ぜられて、どろりとした記憶の断片が呼び起こされる。
 ヘレンも首をかしげた。
(たしかに)
 二人は顔を見合わせた。
「じゃあ、あれは誰なの?」
   ビンッ
 コードが張り詰める音がし、更にその振動が壁に伝わって響いた。振り返った二人の目に入ったのは、件の女の背である。黙ってうつむいたままだが、引きちぎられた電話機のコードの一端を手にしており、そのコードの端が激しく揺れている。今しがた、彼女がコードを引き千切ったことが伺える。
(ど、どうして?)
 そんな意味も無いことをするのかという疑問とともに、この女が和ちゃんの母親ではないという得体の知れない恐怖が浮かんだ。
 振り返った女の顔は凍りついたようで目に光が無く、人間らしい感情を読み取ることが出来ない。女は生気の無い瞳をチェルニーたちに向け、チェルニーらはその目に感情を吸い込まれ、マネキンのように動きを失った。ややあって、二人は意識を取り戻したのだが、自分たち以外に女が居たと言うことは忘れてしまっている。
 壁際の電話台であったものの上には、花が生けられた花瓶があり、ついさっきまでは、ここに電話機が存在したという痕跡をとどめては居ない。ただ、二人を酔わせるようにクチナシの甘く強い香りが漂っていた。チェルニーはその香りの強さに気を惹かれて花に手を伸ばした。分厚い花びらから柔らかく冷たい感触が伝わった。
「私は何をするつもりだったのかしら」
 首を傾げるチェルニーをヘレンが笑った。
「ぼけるには未だ早いんじゃない」
 そう応じたものの、ヘレン自身自分がここに突っ立っていた理由が分からないで居る。窓ガラスの外を十月の冷たくなりかけた風が撫でて行った。ヘレンは窓からチェルニーが指先で撫でた花に視線を移したが、この季節に咲いているはずのない花だということには気付いていない。
 そんな二人の様子を眺めながら、お母さんは和ちゃんが待つテラスに向かった。


 空を駆け抜ける風は、夏の暑さ失って心地よい。窓を大きく開け放つと、梢を揺らした風が部屋に入ってきてじっとりと汗ばんだ重い空気がかき混ぜられて中庭に淀んだ空気を洗い流すようである。
 マリアは、窓辺から顔を突き出して微笑んだ。柔和な良い笑顔である。彼女にそんな笑顔を浮かべさせたのは、中庭の木陰の椅子に和ちゃんを見つけたことである。目を瞑っていてわずかに開いた口元から寝息が漏れているのだろう。遊びつかれたのか、昼寝をしているのである。
 その傍らに添い寝をするように寄り添う母親が居り、団扇で残暑の直射日光が子どもの顔を射るのを防いだり、涼しい風を子供に送っている。仲の良い微笑ましい光景に微笑んだのである。じっと見入りたくなる。
 母子で絵本を読んでいるうちに和ちゃんが眠ってしまったか、絵本を読みながら眠ってしまった和ちゃんをお母さんが見つけて寄り添っているという光景だろうか。
(本当の親子みたいね)
 マリアはそう思った自分の可笑しさ気付いた。本当の親子みたいとは、本当の親子だと言うことを否定するようではないか。心の底に目の前の光景を否定する意識が残っているのかもしれない。
 ここで、マリアは噴出したくなる思いで、口を押さえて笑い声を思いとどまった。誰かの悪戯を見つけたときのわくわくする面白さ。母親は新たな思いつきに、団扇を動かすことも忘れ、まじまじと和ちゃんを見つめていたかと思うと、そっと華奢な人差し指の先で和ちゃんの頬をつついた。距離を置いて眺めているマリアにまで暖かい幼児の弾力性が伝わってくるようだ。母親はその感触が気に入ったようで、指先を和ちゃんの頬につけたまま、撫で回したりぐりぐりと突っついたりした。その刺激かどうか、和ちゃんの寝息が乱れた。母親ははっと我に帰ったように指先を引っ込めて和ちゃんの様子を伺った。何やら自分の行為が息子を傷つけてしまったのではないかとの恐れさえ感じさせる素早さと表情の変化である。むろん、突かれていた和ちゃんは傷ついてるはずは無く、幸せそうに寝入っていて目覚める様子は無い。
 その和ちゃんにほっとした母親は、再び和ちゃんを撫で回し始めた。和ちゃんに示す愛情が、べとべとして粘り気があり、どろりと糸を引くようにしつこい。マリアには本来の母親の持つからりと明るい無垢な愛情からかけ離れているようにも感じられた。
 マリアは、じっと覗き見をするように見つめていることに、多少の罪悪感を覚え、母親に声をかけようとした刹那、古くなって立て付けの悪い窓が軋んだ。母親はその2階の物音を聞きつけて窓を見上げた。心の隙を突くように一匹の野良猫が庭を駆け抜けた。マリアは一瞬、中庭に侵入してきた野良猫に気を奪われ、背筋に冷たいものを感じて眉をひそめたが、それは猫のせいではなく、猫を目で追う前に、母親と一瞬視線が合ったのが原因に違いない。
 ネコが中庭を飛び出した後、マリアは再び母子に視線を戻したのだが、中庭には気持ちよく横たわる和ちゃんの姿だけで、数秒前に和ちゃんの傍らに居たはずの母親の姿が無い。ほぼ一瞬の間に、母親は掻き消えたように姿を消しているのである。
 一陣の風が中庭を吹き渡って、和ちゃんの前髪と木々の葉を揺らした。
「どこに?」
 そう首を傾げて呟くマリアのすぐ背後で、女の声がした。
「マ・リ・ア・さん」
 振り向くと、女がマリアの感情を読み取るようなにマリアの目をのぞき込んでいる。
「そぉ、見ていたのね」
 女がそう呟いた。
 マリアは開けた窓から外を眺めた。見上げる空は透き通って青く、空をすり抜ける風はやや肌寒く感じられる。窓辺から見える瓢箪荘の庭先は無人で寂しさを感じさせる。マリアは部屋の空気を入れ換えると窓を閉じて屋外から伝わる冷たい雰囲気を遮断した。窓を開けた後、和ちゃんを見かけた記憶が切り取ったように消えていた。
 

「お祖父ちゃん、ジェスールさんから」
 和ちゃんが郵便受けからカードを片手にして駆けてきた。旅行に出ているジェスールから葉書が届いたと、知らせに来たのである。傍らのお母さんは、ふんっと鼻を鳴らした。この葉書から、彼女にとってまるで悪臭のような不快な雰囲気が漂っている。
 ジェスールの名は彼女も知っている。郵便受けにその名があり、和ちゃんが「いろいろな所へ行って、あちこちで寝るねんやて」と称した男である。この葉書によってその実態がしれた。この葉書の男はテントや寝袋を背負ったトレッキングをしているのである。
「ふぅん」
 お祖父ちゃんは読み終えた葉書を和ちゃんに手渡して、読み始めの位置を指で示した。几帳面な小さな文字が、ある部分から、文字も大きく、かな文字ばかりに変わっている。ようやくかな文字の一部だけ読めるようになった和ちゃんに宛てた部分である。
『かずちゃん、げんきにしていますか。ぼくは いま あいちけんの “ほうらいさん”という やまに きています。あと すうじつすると ふじさんをみることができると おもいます』
 読めない文字を傍らのおじいちゃんに辿るように読んでもらって、和ちゃんはおじいちゃんに続いて、たどたどしく手紙を読み上げた。愛知県といわれてもどちらの方角なのか、鳳来山といわれても、和ちゃんにはその高さや形のイメージがわかない。しかし、自分に宛てられたメッセージを一生懸命に楽しんでいるのだろう。ジェスールはそういう心遣いをする男である。母親はそんな楽しそうな和ちゃんを愛でた。
 お祖父ちゃんは葉書の消印を確認した。消印はおそらく鳳来山の麓のポストを管理する郵便局のものだろう。日付は二日前である。今頃は前方に富士の峰を見ながら歩いているころかもしれない。おじいちゃんはその姿を思い浮かべた。
 おじいちゃんはカレンダーに目を移した。ジェスールの旅は順調に推移しているようで、帰ってくるのはあと数日、十月の終わりになるだろう。
 和ちゃんは、ちゃんと文字を読むことが出来たことを自慢するように、母親の顔を見上げた。母親のお褒めの言葉を期待してもいる。和ちゃんはおじいちゃんから受け取った葉書を今度は母親に手渡そうとして、ふと首をかしげた。おじいちゃんと自分にはメッセージを送ってくるジェスールがお母さんの存在を忘れたかのように一言も無いのである。
 

 その同じ時、ジェスールは、日本という地域の面白さを味わっていた。面積から言えば母国のトルコの半分にも満たない。しかし、国土面積に大多数を占める山岳や森林地帯が住宅地のすぐそばまで迫っているという地形が、更に複雑に入り交じって、人や自然が溶け合っていておもしろいのである。
 彼は生まれる前に父を失い、女手一つで彼を育てた母も成人前に失っていた。彼は道すがら母の記憶を辿っていた。今、彼が下って歩いているのは、「ししんざん」という音感の名の山で、親を思う山という意味の漢字を当てて「思親山」と呼ばれる。なにやら、山の名の由来を調べれば、人と自然の関わりについて面白い伝承でもあるのかも知れない。
 平日の早朝で、行き交うハイカーの姿も途絶えて、時折、麓から飼い犬の鳴き声が聞こえ、麓の集落の存在を教えた。人の姿が見えないこの場所で、人の存在を味わうのである。何やら一歩ごとに過去の想い出が蘇るようでもある。
 幼い頃から様々な不幸を重ねる中で、現実から逃避するように、遠く離れた東洋の端の国に理想郷を思うようになった。しかし、成人して訪れた日本も、様々な負の感情を抱えているという点で母国と変わりがない。この時の日本という国は、ジェスールを失望させただけに過ぎない。
 アパートの部屋でふさぎ込む彼を、開いたドアから不思議そうに眺める幼児が居た。ジェスールは日本では普段見かけない異国の顔立ちが珍しいのだろうと考えた。ジェスールは屈託のない無邪気な目に惹かれて手招きをした。近づいてきた幼児はジェスールに腕を差し伸べ口髭に指を伸ばして来たので、ジェスールは幼児の興味の対象を知った。
(なるほど、)
 この国で口髭を伸ばしている人が珍しく、幼児は自分と異なる人間に興味を引かれたのではなく、口髭に興味を引かれたのである。ジェスールは自分の勘違いを笑い飛ばした。
「笑い声って、みんな一緒や」
と、幼児が言った言葉をジェスールは思い出した。様々な人が居て様々にすれ違う。時代を問わず場所を問わず人が生きていて、様々な思いを抱えているが、人が人として生き続けてきた根底にある感情で、全ての人は共通の根を持っている。そんな事を和ちゃんは難しい言葉を使わず教えてくれたような気がするのである。
 佐野峠。見晴らしの良い峠を経て、人の気配のみがする小さく静かな集落を過ぎて歩を進めると、起伏に富んだ地形が、今朝まで見えていた霊峰富士を隠してしまっている。ただ、彼が登り始めたのは、富士山の裾野の西側の幔幕というべき山で、この長者が岳の頂上にたどり着けば、幕は大きく開かれて、富士山が一望の下に見えるはずだ。今夜は、頂上で富士山を眺めながら一泊する。空はよく晴れており、山の秋の寒さをしのぎさえすれば気持ちの良い一夜になるだろう。初秋の日差しは落ちるのが早い。頂上にたどり着いたのは日が暮れてからである。霊峰は闇に閉ざされて見ず、その楽しみは明くる日に回した。彼は慣れた手つきで、迷うことなく手探りでテントを張った。
 明くる朝、目の前にはジェスールを満足させる景色が広がっていた。寝袋の暖かさを振り切ってテントの外に出て、朝日に照らされた富士を眺めた。ジェスールの背後から朝日が差して富士と裾野の樹海を照らす、そんな雄大な光景を背景に朝食を取った。
 朝食のスープの温かさが腹を満たしているうちに荷造りを終え、歩き始めた。秋の日差しは心地よく、下りだと言うことも手伝って足が進む。
 やがて、踏みしめる足に下り坂の過重を感じなくはなり、標高千三百メートルの長者が岳の頂上から下ってきたというイメージがする。そして歩いている道路は水平に続いているのだが、未だ、この辺りは大地に大きく根を張った富士の裾野の一部であるらしい。地図で標高を見ればこの辺り一帯は標高八百メートルの高原である。肌に伝わる冷気が新鮮で心地よい。
 ジェスールはコースに隣接するキャンプ場に立ち寄った。未だ陽が高く宿泊には早い。しかし、飲料水を補給しておきたいと考えたのである。ポリ容器に今夜の調理用に三リッターばかりの湧き水を入れてザックにしまい込んだ。富士の麓の湧き水だと考えると何か微笑みたくなる清浄感があり、今夜の食事の味にも影響しそうに感じられる。
 ジェスールはふと考えて、ペットボトルを取り出した。中身の飲料は飲み尽くしており、予備の水筒にしようと持っていた物である。わき水でペットボトルをよく洗い、こぽりこぽり、音をさせて清浄な水をボトルに詰めた。別段、信仰上の理由はない。この清浄な湧き水なら、美味しいお茶が入れられるだろうと思ったのである。瓢箪荘の管理人は、煎餅や饅頭よりこういうおみやげを喜ぶ人物だ。ジェスールはボトルに固く栓をし、ビニール袋で包んでザックの下に押し込んだ。
 今日も、日差しは柔らかで、五湖台と呼ばれる富士の裾野の丘に登れば、雲一つ無い空を背景に富士山がそびえ、その周囲に広がる樹海が眼前に広がっている。この丘がこの日の宿泊場所である。ジェスールは夕日に照らされた富士を日本人らしい山だと考えている。この山は、山という起伏を示す地形であるばかりではなく、日本人の信仰の対象だと言うことが理解できる。麓で豊かにわき出す清浄な水を味わえば、水の神だということを思いだし、広大な樹海を周囲に抱えてどっしりと広がる裾野を見れば、母性すら感じさせ、安産や子育てを司る神だというのも理解できるような気がする。彼は富士という山の名ではなく女神の名を思い出した。
(『このはなさくや姫』と言ったか……)
 このまま、ゆっくりと自然に溶け込みながら歩いて、明日は富士山の裾野の山中湖を経由して県境を越え、相模湖から東京の高尾山へと道を辿る。高尾山を下れば今回の旅の終着点である。
 二日後には、彼自身の不幸な過去を洗い流すように旅を終える。
 
 


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