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  自転車のハンドルを押して歩いていたマリアは、曲がり角で不意に前方に現れた二人を見つけて(しめた)と笑顔を浮かべた。
 アダムが図書館で調べ物を終えたのと、ヨゼフが受ける授業の終了時刻が、たまたま重なったため、二人は大学の門で顔を合わせた。どちらが言うともなく並んで帰宅する途中なのである。マリアは二人の後ろ姿を追い、二人の会話を聞いていた。これから二人に持ちかけるお願いを聞き入れてもらう条件を考えねばならない。
「母国の母に、初めて電話をしたときに」
 ヨゼフが語り始めたのは、彼らがくぐった鉄道の高架を、電車が通過したことがきっかけだが、母親という共通点で和ちゃんのお母さんに影響されてもいる。
 ヨゼフが語るのは、初めてやってきた日本で、最も印象的だった出来事を、故郷のは母に電話で語って聞かせた時のことである。田舎育ちの母親は、電車が7つも8つも繋がっているというヨゼフの話に首を傾げたばかりではない。列車が出発して右の方向に見えなくなる前に、左手の方向から、次の電車がホームに入ってくるという息子の目撃談を信じずに、朗らかに笑い飛ばしたのだという。
「もし、お前の話が本当なら、線路の右端から左端まで電車で埋まって動けなくなっちまうよ」
 ヨゼフの母親はそう言ったらしい。アダムは笑った。悪気はない。おおらかな田舎の母親が想像できて微笑ましいのである。たしかに、ヨゼフの表現を聞いていれば、線路の端から端まで、密に詰まった列車を連想せざるを得ない。人口が住宅地域に集中し、その多数の人口を毎朝、職場にばらまくために、列車は信じられない密度で運用される。その都市部の急激な人口変化を感じなければ、状況を理解することは難しいに違いない。
 あれこれ考えながら歩くうちに、二人に前方を歩いていた母子が目に入った。幼稚園から瓢箪荘に帰る和ちゃんと母親である。挨拶をするには距離がありすぎて、遠目に眺めただけだが、雑踏の人々に紛れて、しっかり手を繋いで関係を崩さない、仲の良い母子の姿である。
「いいもんだね」
 アダムが和ちゃんと母親の仲の良い光景を表し、ヨゼフが肯いた。二人の背後にいるマリアもそう思っていた。心の底に埋もれてしまったが、和ちゃんの寂しげな態度や表情が思い起こされることがあり、その姿と対比して満足げな和ちゃんの姿は(よかったな)と、祝福したくなる光景なのだろう。そして、和ちゃんを見守る二人の姿は、子供のように純真に見えた。
 マリアはお願いの代償を思いついた。母親が子供に飲ませるみたいに、スープを分けてやればいい。マリアは背後から自転車のベルを鳴らして、自分の存在を二人に伝えた。
「ちょっと、」
 マリアは、そうにっこり笑いかけて、左右のハンドルに下げていた大きな袋を掲げて見せた。アダムとヨゼフはマリアの意図を察して顔を見合わせた。安売りだったらしい。マリアの自転車の前籠には、スーパーで買ってきたらしい食料が入っている他、ジャガイモとトウモロコシが山ほど入った袋をハンドルに下げていたのである。これでは重くてハンドルを取られて走りにくいに違いない。
「形が不揃いでしょ? だから、後ろの荷台にも載せにくかったの」
 マリアはそう理由付けをし、アダムはジャガイモ、ヨゼフはとうもろこしの入ったビニール袋を1つづ渡した。アパートまで運べと命じられていることを察した二人は素直に指示に従った。マリアは礼に代えて言った。
「ありがと。スープが出来たら分けてあげるわ」
 そんなやりとりをしているうちに、和ちゃんと母親は三人の視界から姿を消していた。真っ直ぐで視界の聞く道である。三人が一様に眉をひそめたのは、母親が和ちゃんを何処か異様な世界に連れ去ったかのような印象を受けたためである。しかし、三人は頭に浮かんだ悪夢を首を振って払った。
 マリアは自転車を手で押して、召使いを従えるように三人の先頭を歩いた。
「ちょっと」
 突然に、マリアが何かに気付いたように立ち止まって背後の二人に声をかけた。彼女は耳を澄ませて伝わるメロディに耳を傾けた。
  かーごめ、かごめ
  かぁごのなぁかの
  とぉりぃはぁーー
  いつ、いつ、でぇやあるぅ
「これは?」
 尋ねたアダム自身が知っている。彼が興味を持っている日本の子どもたちの遊び歌である。公園の中で顔を手で覆って視界を遮ってしゃがむ子どもを中心に、六人ばかりの子どもが手を繋いで輪をつくって、回りながら歌っているのである。マリアもこういう光景を見るのは初めてらしい。日本の子どもというと、近代的なゲーム機やカードゲームなど流行の遊びのイメージがあり、こんな都会の一角で目にする光景だとは思えなかったのである。
「へぇっ。数百年も前の遊びが、現代にまで伝わってるんだね」
「幼稚園や保育園で、先生が教えるのかしら」
「年長の子どもから、幼い子どもへ、遊びを通じて伝えられてるとしたら面白いね」
 アダムとマリアの会話に、素直に首を傾げてヨゼフが割り込んだ。
「何を歌ってる?」
 マリアは振り返ってアダムと顔を見合わせた。そう質問を投げかけられると、一言では答えにくい。アダムは子どもたちの輪を指差した。
「いろいろな説があってね。かごめっていうのは、外側の輪の子どもたちのように、囲むという意味、中央の子どものように屈めという意味、そう解釈してゆくと、子どもたちの遊び歌や、シャーマニズムと結びついて不可思議なものを呼び寄せる儀式に広がってゆくね。それから、」
 マリアが言葉を引き継いだ。
「妊婦と解釈する説もあるわね。その場合は、お腹の赤ちゃんは、いつ生まれるのかと尋ねる意味もあるの」
「いろいろな意味に解釈できるから、遊郭の遊女を表すとか、飢饉の時に子どもを殺害するとか、果ては、日本とユダヤの関係を象徴するとか、」
 ヨゼフは遊びの輪を見ながら呟くように言った。
「でも、楽しそうに遊んでるから、難しい理屈は振り回さないでいいね」
「ヨゼフ。いいことを言うわね」
 マリアのそんな結論に、アダムも肩をすくめて同意した。難しい理屈を離れてみると、古い遊びに興じる子どもたちは無邪気で愛らしく、子どもたちの存在そのものに価値があるかのような気になる。三人は再び歩き始めたが、アダムはやや小首を傾げた。子どもたちの景色に、和ちゃんと母親が手を繋ぐ後ろ姿が重なって、更に、呼び起こされて重なる記憶がある。子どもの姿、仲の良い母と子の姿を眺めていると、自分が故郷の母親と距離を置いてしまっていることが後ろめたい罪悪感をもって思い起こされるのである。

 マリアは開いたままのドアをノックして、パソコンに向き合っていたアダムに自分の存在を教えた。気さくなマリアは、アダムが頷いて許可を与える前に部屋に入ってきた。
「調べ物をしたかったから、パソコンを借りたいと思ったんだけど、今使ってるの?」
「かまわないよ。ぼんやりとディスプレイを眺めていただけだから」
 アダムはパソコンのディスプレイを通じて母親と向きあっていた。返事を書かないままで放置しているメールが2通ある。差出人の名は彼の妹である。しかし、その名に彼の母親の名が重なるように見えるようである。
 帰宅途上の会話の中、アダムの眼に母国の家族が浮かんでいた。母国には両親と妹が一人いる。母親は裕福な家の出で、父親は貧しいが努力して地位と妻を手に入れた。しかし、仕事で失敗をして貧しいと言うほどではないが金と名声を失った。妻はそんな夫を叱咤し、ややもすると息子のアダムの前で夫を馬鹿にして「こんな人間にはなるな」と言ったりする。母親はしっかり者で家計を支えているが頑固で融通が利かない面があり、自分の信念を夫や子供に強制するところがある。アダムの妹は素直でやや気が弱く諦めるような雰囲気で母親に従って生きている。アダムは母親に感謝しつつも、反感を感じつつ生きてきた。
 メールの文面は兄を気遣う妹のものだが、母に従順な妹が勝手にメールを出すことは考えられず、母親の意向を汲んだ妹が母親に成り代わってメールをよこしたと考えて良い。もちろん、電話という通信手段がある。しかし、肉声という感情がこもったやりとりは、不快な想い出を伴って口げんかに発展する不安を感じさせるのである。
 日本にやってきて、母親の呪縛から逃れたような開放感を感じていた。一方、年老いた父や母を故郷に放置しているという罪悪感も感じていて、彼をメールに向かわせたのである。
 思い悩みながら母親へのメールを綴り、迷い果てて行き詰まった心を整理するために、とりあえず、綴った言葉を印刷しおわったところである。
 印刷が終わった紙をマリアが取り上げ、アダムに手渡そうとしながらその文面が目に触れた。
「お母さん、今、僕は、この東洋の外れで、母と子の関係について、考えています。時代や、地域や、民族や、宗教や、思想信条、そんなものに左右されない普遍的な愛情。もしも、僕が……」
「こらっ、勝手に読むな……」
 アダムは言葉を途切れさせた。声に出して読まれたのが気恥ずかしくなり、両手の指先を髪に挿し入れるように頭を覆ってため息をついた。
「お母さん宛のメールが、どうして日本語なの?」
 マリアは自然な疑問を口にした。ポーランド人の家族に日本語のメールを送っても、内容を理解することはできないだろう。
「手紙の原稿みたいなものさ」
 心が乱れていて、アダムはそんな答えをするしかない。アダムは胸にかけた小さな十字架を握ったが、マリアは彼が信仰にはあまり熱心ではないことを知っていた。
 マリアは作家志望らしく彼女の想像を交えて察した。あの十字架は、東洋の果てに行く息子に、熱心なカトリックの母親がお守り代わりに与えたものに違いない。ただ、母と子の間には何やら確執があって直接言葉は交わしにくい。アダムが十字架を握りながら母親の愛情について思い起こすと、その事例は数知れず、感謝の言葉を紡ぐすべがないのだろう。ただ、それを言葉で綴って伝えるのも気恥ずかしく、日本語でその内容を認めてみた。そして、いつかそのメールをポーランドに翻訳して送信したいと考えているのではないか。マリアはそんな想像を一言に集約して尋ねた。
「お母さんを愛しているのね?」
「誰でもそうだろ」
 アダムは紙を二つ折りにして文字を隠し、読みかけの本に挟んで閉じた。メールはアダムのパソコンから送信されずにしまい込まれた。アダムがそのメールを送信することがあるかどうか、マリアが想像をふくらませようとしたときに、彼女は唐突に小さな叫びを上げて我に返った。
「きゃっ。ジャガイモが」
 マリアは小さな叫びを上げて部屋を飛び出した。自室で茹でていたジャガイモが焦げる臭いを感じ取ったのである。
 

母と子 1

 異変が日常に入り込んでカードの裏表のように切り替わる、そんなある日のことである。
「和ちゃん。おじいちゃんのお手伝いしてる?」
 和ちゃんは帰宅したヨゼフにそんな声をかけられた。
「うんっ」
 和ちゃんはそう返事をしたのみである。ホースを伸ばして生け垣に水をやっている。一生懸命におじいちゃんの真似をしているのだが、身長の割にホースが長く扱い慣れずに、水の行く先が本人の意志と合致していない。
(ひょっとしたら)と、ヨゼフは空を眺めたが、和ちゃんはそんなヨゼフをみている余裕はなかった。和ちゃんは気づいていないが、ヨゼフ見上げる空は、まだ青く晴れて、白い雲も浮かんでいる。しかし、どこからともなく雷の音が聞こえていて、雷雲が夕立を連れてやってくるかも知れないのである。ただ、目の前の和ちゃんの一生懸命な様子をみていると、水やりを夕立に任せろとは言えない。
「ちょっと、左手を腰のとこに」
 ヨゼフは和ちゃんの背後から手をかけて、和ちゃんの姿勢を正してくれた。和ちゃんはヨゼフに言われるまま、ホースを握った左手を腰の辺りに据えさせて、右手はホースの先を持たせて目標に向けさせた。
「うんっ。ヨゼフさん、ありがと」
 和ちゃんはアドバイスに満足したように、水の行く先を制御した。
「あれっ?」
 門をくぐったヨゼフは、生け垣の後ろに意外なものを見つけたように立ち止まった。そんなヨゼフに気づいた和ちゃんも、少ししゃがんで、幹の間から意外なものを見つけた。
「あっ」
 普通なら、ヨゼフは疑問の言葉より先に和ちゃんに注意したに違いない。この時、ヨゼフを立ち止まらせたのは、和ちゃんの母親の姿である。生け垣の陰に、和ちゃんの母親の姿がある。木陰から子供を見守っていたという位置で、それだけなら微笑ましい関係を窺わせる。しかし、和ちゃんは、自分の背丈ほどの生け垣の向こう側に母親が居ることに気付いていなかった。水をばら撒いていて母親をびしょ濡れにしてしまっていたのである。しかし、母親の様子がおかしい。普通なら、息子に注意を与えたり、自ら水しぶきを避けるに違いない。しかし、和ちゃんの母親の視線は優しいが、和ちゃんのみしか眼中になく、髪から水滴を滴らせながら、水に濡れることがいっこうに気にならない様子なのである。
 ヨゼフは慌てて注意を与えた。
「和ちゃん」
 ヨゼフの注意より先に、和ちゃんは幹の間に見える光景から、自分のしでかした過ちに気付いてホースを放りだしていた。
「お母ちゃん。ごめん」
 母親は、髪はもちろん、水が肩口から腕を伝って指先から滴るほどずぶ濡れなのだが、気にする様子がない。ただ、ほほえみ続けながら、和ちゃんを眺めているのみで、姿は静止して人形のよう。
 和ちゃんは慌ててアパートに飛び込んでいった。母親は視線だけ和ちゃんを追い、目の前から和ちゃんの姿が消えると、表情を寂しげに変えたが、和ちゃんの次の行動を予測するように、期待感を込めたまま玄関を見つめ続けた。
「お母ちゃん。これ、使い」
 和ちゃんが大小様々なタオルを抱えて戻ってきた。抱えきれなかったタオルが、和ちゃんの腕からこぼれたり、ドアに引っかかって、ヨゼフは慌てて和ちゃんが手放してしまったタオルをかき集めた。
 母親は和ちゃんの前にしゃがみ込んで、和ちゃんの行為に身を任せた。子供に優しく接してもらうことが嬉しくてたまらないという表情をにじませて、他の物は何も見えず恍惚状態にある。子供から受ける愛情を全身で吸い取るかのようである。
 ヨゼフは、彼女の異様さに戸惑っていたが、母親は衣服までびしょ濡れになっており、和ちゃんが力を込めて拭く程度では追いつくまい。髪は乱れてしまったものの和ちゃんが一生懸命に水気を拭った。あとは着替える方が良いだろう。ヨゼフは和ちゃんが使ったびしょ濡れのタオルを抱えて言った。
「和ちゃん、お母さんに乾いたものに着替えてもらった方が良いね」
 和ちゃんはヨゼフの意図を察して肯いた。お母さんの手を引いて部屋に戻ろうとする和ちゃんの不安をかき立てるように、夕立の雷鳴が近くで響き、雨の最初のひとしずくが、和ちゃんの頬をぬらした。
 手を引かれてやってきた部屋の入り口で、母親は状況を考えるように言った。
「体が濡れているというのね」
「うんっ、そんなん、着替えんと風邪引くわ」
 和ちゃんは同意を求めるように傍らのヨゼフを振り仰ぎ、ヨゼフは同意して母親に肯いた。母親は少し考える間をおいて言った。
「そぉ、ちょっと待っていなさい。」
 母親は部屋に入ると、扉を閉じて和ちゃんとヨゼフの視界から消えた。乾いた服に着替えるつもりか。ドアを挟んで互いの意図を測りながら十数秒が過ぎ、再び母親が姿を現した。和ちゃんに顔を向ける時に、乾いた髪の先が音もなくふんわり肩にかかった。ヨゼフの腕からタオルがこぼれた。
 先ほどの水分を吸っていたタオルは重みを持って床で音を立てた。
 母親の衣服のデザインは先と変わらないが、ちゃんと乾燥して居るようで、袖口やスカートの襞にはアイロンをかけた直後のように折り目が付いていた。たった十数秒で、衣服を乾かしたのか、それとも、新たな衣服に着替えたのか。その光景の不思議さに和ちゃんとヨゼフは顔を見合わせた。
 そんな二人をぎょっとさせるように雷鳴が響いて、大粒の雨が激しく軒先を叩く音が響き始めた。夕立がやって来たのである。
 母親は手品の種明かしをするわけでもなく、床に落ちた濡れタオルと和ちゃんを見比べて、何かを企むように優しく微笑んだ。ヨゼフと和ちゃん、二人が見合わせた顔を正面に向けると母親の姿がない。
「和ちゃん、和ちゃん」
 子供を呼ぶ母親の声がする。声の方向を振り向くと、玄関の扉の向こうに母親の姿がある。夕立の強い雨粒が、母親の髪や姿を打ち、雨は髪を伝って流れて衣服から滴り落ちているが、母親はそんなことなど気にする様子はない。その微笑みには感情というものが感じ取れない。
「和ちゃん、どうしたの?」
 母親は和ちゃんに手招きをして続けた。
「もう一度、お母ちゃんを拭いてくれないの?」
 和ちゃんは慌ててタオルを拾い上げて走った。ヨゼフはそんな母子に割り込むことができず立ちつくした。息子に優しく愛情をかけてもらうために、雨の中に立ちつくすという母親の愚かさが理解できない。
 ほんの10日前まで、和ちゃんはぼんやり考え込んで、理解できない行動を取っていた。今は、和ちゃんを取り巻く人々が同じ迷いの中にいるのだが自覚はない。ただ、時間を重ねるにつれ、状況は様々だが、首を傾げたくなる出来事が瓢箪荘の居住者たちを包んでいくのである。


 見慣れた日常の光景である。集会場と呼ぶには大げさすぎる。二階への階段を上がりきった6畳ほどの板の間に、見慣れた仲間が集まっており、遊び相手を求めてやってきた和ちゃんが加わって、椅子に座って足をぶらぶらさせてて居住者たちの話を聞いていた。何をすると言う目的もなく気分転換に時間を潰す。そんないつもの時間である。
 最近、居住者たちの話題に上ることが多くなった母の話題が転じて、故郷の話となり、更に転じて、留学した理由に移った。出身国や年齢は違うが、互いに共通の話題だろう。 話の口火を切ったアダムが日本に興味を持ったのは、彼の母国とさほど大きさの変わらない東洋の国の成り立ちである。
「この国に来るまでは、なんて幸せな国土と歴史を持った人たちだろうって思ってたんだけどね」
「そうでもなかった?」と、ヘレンが尋ねた。
「そうだね。自然が豊かだと言うことは、転じて言えば自然災害が多いということさ」
「台風や地震や津波?」
「そして、1つの民族のように見えても、まとまっていたわけじゃなくて、日本各地で大きな戦をいくつも経験してるね」
「支配者の欲望は何処でも変わりがないと言うことかな」
「あっ、私も1つ知ってる。この南にある大阪城なんだけどね、昔、若い王子様とお姫様が居たのよ」
「それで?」
「そこに、陰謀に長けた大魔王が何十万もの手下を率いて攻め寄せてきたの。その時に日本全国から英雄豪傑が集まって、王子とお姫様を助けて魔王相手に戦うの……。わくわくするようなファンタージだわ」 
 ヘレンの言葉には、ヘレンが好みそうな要素が混じって、大阪の陣の歴史が脚色されている。事実、ヘレンは金髪の髪を靡かせ、東軍の前衛を蹴散らし、数万の兵で厚く守られた徳川家康の陣に突入する真田幸村に自らの姿を重ねて想像している。歴史には素人のチェルニーがヘレンの想像力を笑った。
「いったい、いつの何処の国の話よ。」
 アダムは和ちゃんの頭を撫でて、歴史的事実とファンタシーは切り離すよう促して続けた。
「農耕民族だから性格が温厚だと言われるけれど、どうなんだろう」
 アダムの疑問にチェルニーが答えた。
「さっきの自然災害が多いと言うことと、関係するのね」
「そう、自然や天候に運命を左右されて、洪水で家を失ったり、冷害による飢饉で飢えたり、その運命を受け入れて粘り強く生きてきた人たちなんだ」
 アダムは、傍らで話を聞いていた和ちゃんの頭を撫でた。まだ分からないかも知れないが、日本人が様々な困難を切り開いて生きてきたと言うことを、この子は誇りにして良いと考えている。
「日本で飢饉か、信じられないね」
 ヨゼフは現代でも世界各地で餓死者が出ているのは知っている、しかし、現代の日本を見れば、民衆の餓死という経験を経ているとは信じられない。
「飢饉……。てんぽ……。あの時はね」
 呟くように語る声に仲間は振り返った、いつから居たのか、彼らの話をどこから聞いていたのか分からない、いつの間にやら和ちゃんの母親が彼らの傍らにいた。
「てんぽ?」
 初めて聞く単語が、トゲを持ってアダムの心に引っかかった。和ちゃんの母親はアダムに答えようともせず、うなされるように続けた。
「乳をやりたくても、私の体は、からからに乾燥したみたいで、乳なんか出ないの」
 語られる内容が具体的で、仲間は息をのむ事しかできない。話は続いた。
「赤ちゃんの声が小さくなるの……。でも、あの子が乳を求めて必死で泣き続けるのに、その声は段々かすれて、何も聞こえない……」
 人が入れ替わったように、別の情景を語り始めた。
「赤ちゃんが生まれたの。でも、食べさせるものなんてありはしない。飢えて死なせるより、ひと思いに水に浸した紙を生まれた赤子の顔に乗せるの。あの子の声がだんだん小さくなって」
 不安そうにうめく母親を観て、和ちゃんは話の話題と母親の不安が関わりがあることに気付いたらしい。母親の手の指先を強く握って引いた。
「お母ちゃん。部屋に帰えろ。」
 和ちゃんは母親の手を引いて、階段から自分の部屋へと導いた。階段を下りながらも母親の声がうなされるように聞こえ続けた。
「死んだあの子の体は、枯れ木のよう」
 取り残された仲間の思いを代表してチェルニーが言葉を発した。
「てんぽ……。何を言おうとしたのかしら。子供を餓死させてしまったお母さんの言葉みたい」
 あり得ない話で、仲間は首を傾げざるを得ないが、突如として深刻に転じた雰囲気に、談笑を続ける意識はなくなった。彼らは無言のまま背を向けあって、一人二人とその場を離れ、部屋に戻ることになった。
 マリアは一人、気になるキーワードをつぶやいていた。
「てんぽ」
 マリアはアダムの部屋に足を向けた。調べ物をするときに便利な部屋である。
 部屋に戻ったアダムは、テーブルの上に開いたままになっていた日本文化に関する書籍を片付けつつ、パソコンのスイッチを入れた。部屋の中にしんっと冷たい雰囲気が立ちこめていて、窓の外のすっかり更けた夜の景色が、肌寒さをもたらしているように感じられ、アダムはカーテンを閉じた。
 何やら要領を得ないが、頭の中にもやもやとまとまらない意識があり、何やら新たなアイデアが浮かんできそうな気がして、考えをまとめておきたいと思ったのである。しかし、ディスプレイを睨んでも新たなアイデアは浮かばない。
 突然、マリアがドアをノックして顔をのぞかせたのはこの時である。
「ねぇ、ちょっと気になるんだけど」
 アダムの手招きも待たずに、マリアはアダムのパソコンの傍らに寄ってきた。
「なんだい?」
「さっき、和ちゃんのお母さんが言った言葉、『てんぽ』って何かしら」
(その通りだ)
 アダムにも閃く考えがある。何やら迷いつつアイデアを探ろうとして、パソコンのスイッチを入れたが、『てんぽ』を調べるつもりだったのではないかと気付いたのである。アダムは笑った、単純なことを忘れていた自分と、マリアの素早さについてである。マリアはキーボードの向きを変えて、手早く『てんぽ』と入力してアダムに同意を求めた。
「『てんぽ』で良かったのね?」 
 アダムは肯いたが、もちろん、眺めていても意味はない。アダムは漢字に変換して文字に意味を持たせてみたが、店舗、填補、と変換され、いずれの言葉も飢餓とは関係がない。
「てんぽ、てんぽ、」
 マリアはそうリズムをつけて繰り返すうちに、音感が似た天保山という言葉が浮かんだ。大阪湾に接する山の名で、標高が5メートルにも満たない冗談のような山である。山に似つかわしくない光景から言えば、天保山と名付けられた公園とその隣接する地域と考えても良い。二人はそこが水族館やフェリー乗り場がある場所だと言うことぐらいは知っていた。
『天保山』で検索を進めると、人工的に土を盛り上げた地形で、その名は築かれた時代の元号に由来すると記載されている。
「元号なの?」
 そんなマリアの言葉にアダムは元号としての『天保』の情報を検索して表示させた。西暦1830年代から始まる時期で、開国へと舵を切る以前のサムライの時代だと知れた。
「ショパン、ミツキェーヴィチ、シェンキェヴィチ」
 アダムが呟いたのは、同じ時期の彼の母国の人々の名である。社会的背景で言えば、ポーランドが諸外国によって踏みにじられ、社会的混乱や民族的な不安のルツボだった時期である。同時期にこの日本という国は、江戸時代という成熟した閉鎖国家が西欧社会と触れあって、社会的な混乱を迎えていたらしい。
 『天保の改革』という言葉があり、外国船の来航、一揆や物価高騰などの社会的不安を抱えていた時期だとわかった。国内外の情勢や一揆など、いずれにしても飢餓とは結びつかない。アダムはため息をついて手を首の後ろで組んで背もたれにもたれかかった。
 この時にマリアがディスプレイの下に表示された検索ワードの1つに気付いて指差した。天保に関わるキーワード候補の中に『天保 飢饉』とある。
 アダムがクリックしてみると、どうして今までヒットしなかったのかと首を傾げるほど、『天保の飢饉』という言葉がディスプレイを埋め尽くした。
 度重なる自然災害で、日本各地で数十万規模の餓死者がでたと記録にある。アダムはその情報の1つ1つに没頭した。この国の隅々に行政の手が行き渡っており、しかも、当時の日本は諸外国と比べても識字率が高い。行政が記した公式記録のみならず、聖職者や民間の人々が記録した書籍に至るまで、詳細で膨大な記録が残っているようだ。
 飢えて土地を離れて流浪する人々、
 行き倒れたまま無縁仏として葬られる数多くの人々、
 食べさせることが出来ないままに子供を捨てる親、
 多数の記録のいずれもが悲惨な状況を彷彿させる。
 歴史の出来事の悲惨さから逃れるように、アダムとマリアは顔を見合わせてため息をついた。アダムは記録を見直した。おそらく、当時の人々は悲壮な思いで、目の前の光景を語り継ごうと記録したに違いない。しかし、今のアダムは文字から読み取れる情報を頭の中で処理をして悲惨な光景をイメージしているにすぎない。もちろん、アダムは餓死者に接した経験など無く、そのイメージには限界がある。
 マリアも同じ事を考えたらしくポツリと言った。
「凄い想像力ね」
 もちろん、和ちゃんの母親のことを指している。
『あの子は一生懸命に泣いているのに声が聞こえない……』
『水に浸した紙を、生まれた赤子の顔に乗せるの……』
『死んだあの子の体は、枯れ木のよう』
 まるで、この飢餓を自分で体験したかのように語り、そして、体験した者でなければ想像が付かないことを語っていたのではないか。
 背後の窓枠がカタリと音を立て、誰かが窓の外から二人を窺う気配があり、背筋にゾクリと悪寒がして、二人はそっと振り返った。もちろん部屋の窓には人の姿はなく、夜風がガラスを揺すっただけらしい。窓ガラスが見えている。先ほど、カーテンを閉じたはずだが、アダムはそれを思い出すことはなかった。ただ、もやもやとした不安がよぎり、アダムは心の不安を抑えるように母親からもらった十字架のペンダントを握った。
「かーごめ かごめ かごのなかのとりは」
 マリアが唐突にそんな歌詞を口にした。亡くなった子供たちのことを考えているうちに何かの波動に同調するように口ずさんでいたのである。大勢の子供がどこか得体の知れない闇の中からマリアとアダムに誘いかけているような気がする。
 しかし、そんな恐怖も日常の記憶に埋もれ、何事もなかったように夜が更けて、瓢箪荘の人々は何事もなかったように次の日を迎えた。
 

「チェルニーさん」
 和ちゃんがやや弾ませた息を整えて、彼女の部屋のドアをノックした。チェルニー宛に何かの荷物が届いた、ということを知らせに来たのである。
 チェルニーは笑った。和ちゃんが郵便配達を気取って、アパートの入り口に到着した荷物を居住者の部屋まで運んでくれることがある。今回の彼が手ぶらなのは、配達人としての和ちゃんには扱いきれなかった荷物なのである。運ぶには重すぎたのか、大きすぎたのか、壊れそうなものだったのか、そんな疑問の回答を和ちゃんは体現している。
 和ちゃんが無意識のうちに大きく腕を広げている。到着した荷物が抱えきれなかった。その状況がこの幼児のポーズからうかがい知れて面白かったのである。
 和ちゃんはチェルニーの手を引いて、玄関脇に置かれた箱まで導いて役割を終えた。案内のお礼を兼ねて和ちゃんの頭を撫でて、箱の送り状に目をやると、懐かしい記憶のある母親本人の字体で、送り主の名が見てとれる。箱は確かに和ちゃんが抱えるには大きすぎるが、重さはさほどでもなく揺すっても物音がしない。チェルニーは箱の中身に首を傾げながら部屋に持ち帰った。
 10分後、和ちゃんはいつものようにお母さんの夕食作りを手伝っていた。流しに向き合っていたお母さんは、ふと気配に気づいたように顔を上げた。何事かと、和ちゃんがお母さんの手を握ると、彼女の視界が和ちゃんにも流れ込んできた。彼女は部屋にいながら、玄関にいるような視点で、階段を下りてきたチェルニーを眺めていたのである。その眺めとともに誰かがチェルニーの心を読むように、彼女の心の中が、お母さんを通じて和ちゃんにも伝わってきた。
 チェルニーは階段の登り口にある固定電話の受話器を取り上げた、季節はずれのセーターを身に着けたことを後悔している。まだ、冬までにはずいぶん間がある時期である。不快感は無いが、母親の娘を思う愚かさにため息もつきたくなる。こんなセーターなど、冬という季節の無いタイでは年中不要なものだ。母親がこんな衣類を入手した苦労がしのばれるのだが、ちょっと考えてみれば、この種の防寒着は冬を迎える前の日本なら普通に入手できるし、日本への留学経験のある母親は良く知っているはずだ。
(母親ってなんて、馬鹿なんだろう)
 チェルニーは愛情を込めてそう思った。電話が繋がって、受話器の声にチェルニーは受話器を取った人物を悟った。
「お母さん、荷物を受け取ったわ。ありがとう」
「日本の寒さもこたえるだろうから早めにと思ってね」
 南国育ちの者にとって、日本の寒さがこたえる。チェルニーの母はそういう経験をしている。彼女が日本に留学していたのはチェルニーと同じ年頃の時期だから、二十年以上も前の話である。しかし、その二十年の間に、留学時代の懐かしさ以上に、日本の冬の寒さが記憶の中で増幅されているらしい。
「慎一とも上手くやってるかい」
「ええ、優しい人ね」
「慎一は子供の頃から几帳面で気だてが良かったからね」
 チェルニーの母は、管理人のことを慎一と名前で呼んで、自分の弟のように語る。事実、そう言う親しみを感じているのである。今の管理人の武藤慎一は、チェルニーの母親がこの瓢箪荘で寝起きをしていた頃に、先の管理人の息子として、中学生か高校生の年頃だったはずだ。チェルニーの母親にはそういうイメージが残っているのだろう。
「和ちゃんも元気にしてるかい」
「ええ、いつもお母さんと仲良く一緒にいるわ。微笑ましくって、私も早く子供が欲しくなるくらい」
 一瞬、母親が受話器の向こうで迷うように口ごもり、チェルニーは理由を尋ねた。
「どうしたの?」
「何を言ってるの。和ちゃんの両親は、慎一の奥さんや、ご両親と一緒に事故で亡くなってるはずじゃない。もう四、五年も前の話だよ」
「えっ?」
 チェルニーは意外な気分にとらわれて受話器を耳から放して考えた。
(交通事故……、和ちゃんのお母さんは亡くなっているの?)
 そういわれると、そんな気もするのである。和ちゃんが一人ぼっちで寂しそうにしていた。そんな光景が思い起こされるような気がする。
 そして、チェルニー自身、この安アパートに入居したのは、物心着く前の和ちゃんが祖父の慎一と一緒に、このアパートにやってきた頃だ。
「もう、変なことを言う子だねぇ。事故の話はお前から聞いたんだよ。大丈夫かい?」
 そう言われれば、母親の求めに応じて、事故の状況を電話で知らせた覚えがある。
 同じ時、台所では女は和ちゃんが手を握って、心の一端を共有しているのに気づいた。チェルニーと母親が話すタイ語の音の響きにあわせるように、その意味が和ちゃんの心に響いていた。女は慌てて和ちゃんの手を引き離し、和ちゃんの前にしゃがみ込んで笑顔を浮かべた。和ちゃんは体に自分の心を取り戻して、お母さんの頼みを聞いた。
「和ちゃん」
「なあに?」
「お母さんにお庭で絵本を読んでくれる約束だったわね。先に行って待っててくれるかしら」
「うんっ」
 和ちゃんは、お母さんの提案が気に入った。マリアから借りていたお気に入りの絵本を抱えて、部屋を出て、玄関に背を向けて廊下を駆けた。裏口から出ればテラスがあり、庭を眺める丸テーブルと椅子が置いてある。奥の部屋から出てきたヘレンとぶつかりそうになり、和ちゃんは振り返って急いでいる理由を、絵本を掲げて言った。
「お母ちゃんに、絵本を読んだげるねんで」
 和ちゃんのうれしそうな笑顔をみると、ヘレンはかける言葉もなく、ただ笑いながら、顔の横で和ちゃんに向けた手の平を振り下ろして見せて、行動を再開せよとのシグナルを送った。和ちゃんは握った拳の親指を立てて、了解のサインを返し、裏口に掛け始めた。
(最近の和ちゃんはいい笑顔をしているわ)
 ヘレンは和ちゃんの後ろ姿を眺めてそう思った。
「えっ、ええ。ごめんね。もう切るわよ」
 チェルニーは混乱した思考を整理できないまま、受話器を置いて電話を切った。チェルニーが悩む様子に、ジョギングに出かける準備をして玄関に姿を現したヘレンが声をかけた。
「どうしたの? 眼鏡女さん」
「うん。和ちゃんのお母さんは、もう亡くなっているんだって……」
 むろん、ヘレンは管理人室の隣の部屋を指差して、タチの悪い冗談を笑い飛ばした。
「まさか? じゃあ、あの部屋にいるのは誰だって言うのよ」
 チェルニーは記憶を整理するように呟いた。
「私はチェルニー・アタユック。貴女はヘレン・ウィリアムズ。和ちゃんは武藤和久で、管理人さんは武藤慎一。じゃあ、お母さんの名前は?」
 小さな古いアパートで、数年来居住している居住者と管理人である。出自は様々でも、大きな家族のように、互いの名前や姓や人柄は心得ている。しかし、あの女性の何について記憶がない。
 武藤という姓は、和ちゃんと同じ姓のはずだと推測できても名は思い起こせない、和ちゃんのお母さんという呼称だけで、あの女性個人を呼ぶ名が見つからないのである。何やら、記憶の奥底にどんよりと沈みこんだものが粘り着くようにかき混ぜられて、どろりとした記憶の断片が呼び起こされる。
 ヘレンも首をかしげた。
(たしかに)
 二人は顔を見合わせた。
「じゃあ、あれは誰なの?」
   ビンッ
 コードが張り詰める音がし、更にその振動が壁に伝わって響いた。振り返った二人の目に入ったのは、件の女の背である。黙ってうつむいたままだが、引きちぎられた電話機のコードの一端を手にしており、そのコードの端が激しく揺れている。今しがた、彼女がコードを引き千切ったことが伺える。
(ど、どうして?)
 そんな意味も無いことをするのかという疑問とともに、この女が和ちゃんの母親ではないという得体の知れない恐怖が浮かんだ。
 振り返った女の顔は凍りついたようで目に光が無く、人間らしい感情を読み取ることが出来ない。女は生気の無い瞳をチェルニーたちに向け、チェルニーらはその目に感情を吸い込まれ、マネキンのように動きを失った。ややあって、二人は意識を取り戻したのだが、自分たち以外に女が居たと言うことは忘れてしまっている。
 壁際の電話台であったものの上には、花が生けられた花瓶があり、ついさっきまでは、ここに電話機が存在したという痕跡をとどめては居ない。ただ、二人を酔わせるようにクチナシの甘く強い香りが漂っていた。チェルニーはその香りの強さに気を惹かれて花に手を伸ばした。分厚い花びらから柔らかく冷たい感触が伝わった。
「私は何をするつもりだったのかしら」
 首を傾げるチェルニーをヘレンが笑った。
「ぼけるには未だ早いんじゃない」
 そう応じたものの、ヘレン自身自分がここに突っ立っていた理由が分からないで居る。窓ガラスの外を十月の冷たくなりかけた風が撫でて行った。ヘレンは窓からチェルニーが指先で撫でた花に視線を移したが、この季節に咲いているはずのない花だということには気付いていない。
 そんな二人の様子を眺めながら、お母さんは和ちゃんが待つテラスに向かった。



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