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侵入 1

 日常にさしたる変化がないというのは、合理的な近代化がもたらした悪習の一つかもしれない。そんな平凡な日、変化のない時間が過ぎている。
 和ちゃんは、傾いた太陽を横目でちらりと眺めた。昼間の輝きを失って、その明瞭な輪郭から発する、オレンジ色の光で空を染めていた。日が傾きかけて、すべてのものに陰が長くなりかけている。和ちゃんはその意味を知っている。ただ、それは全ての子どもに公平ではない。
「健二ちゃん、帰るわよ」と、呼びかける声が公園に響いた。
 スーパーの買い物帰りに公園に立ち寄った母親が、息子に呼びかける声である。笑顔で振り返った子が健二ちゃんだと推測できる。男の子は素直に遊びの輪を離れ母親の元に駆け寄った。
「今晩はなに?」
 夕食のメニューの話題である。
「よぉしっ、健二の好きなカレーにしよぉか」
「カレー、カレー」
 好物の名前を聞いて嬉しそうに飛び跳ねる子を、和ちゃんはぼんやりと焦点の合わない視線を向けた。和ちゃんの目に映るものは、飛び跳ねる子供の姿ではない、想像をかき立てられて、男の子がテーブルで母親によそってもらった温かい夕食を、母と並んで食べる光景である。
「あらっ、もうこんな時間?」
 幼児を抱いておしゃべりに興じていた母親たちが時間を取り戻した瞬間である。
 母親に手を引かれる子、
 母親の周りを駆け回りながら笑顔で空腹を訴える子、
 母親の自転車に駆け寄って、早く帰ろうとせがむ子。
 和ちゃんはそんな光景を無表情で眺めていた。自分の心を表現する言葉が無い。悲しいのかと問われたら首を傾げるしかない。寂しいのかと問われたら首を横に振るしか無い。嫉妬という言葉は知らず、妬ましいわけでもない。全ての感情が一切抜け気ってしまって、ただの人形に成り果てたような感覚である。和ちゃんはつまらなそうに、皆に背を向けて、ブランコに座った。影が長く伸びて、公園を囲む街路樹の根元に届いた。ブランコの鎖がきいきいときしむ音がした。独りぼっちの心に刺さるように響く音である。
 地面に伸びる自らの影は長く、秋の日暮れの柔らかな日差しを表すように影の縁がぼんやり儚い。眼を転じると、薄桃色の空に、柿色の輪郭がはっきり確認できる夕日が浮かんで見えた。季節の変わり目と共に、陽が落ちるのが早くなったと言うことを、この幼児はなんとなく自覚していた。
(あそこの屋根まで、お日様が落ちてきたら)
 和ちゃんは帰宅の刻限をそう決めた。精神的に大人びた子供で、周囲の大人に気遣う所がある。暗くなる前に家に帰らないと、おじいちゃんが心配するだろうと考えたのである。
 和ちゃんは、驚いたようにきょろきょろと周囲を窺った。
 歩道を通る自転車が、前方を歩く歩行者に発したベルの音に、閉じこもっていた心の殻の一部を突き破られたのである。車道を行き交う車のエンジン音、店頭で客を呼び込む売り子の声、学校帰りの女子学生たちの笑い声を交えた会話、人の存在を象徴する無数の音が溢れていて、公園の周囲は変わらず賑やかだが、帰宅を急ぐ人々の足は公園の周囲を巡って、この空間に踏み込む人が居ない。
 和ちゃんは3つ並んだブランコの右端に腰掛けた。ブランコの向きがちょうど良い。正面に公園の南に接する道路が位置し、帰宅するマリアをいち早く見つけることが出来るのである。そして、和ちゃんの心に忍び込む誰かも、和ちゃんがここで母親を待っていることを知っていた。
 既に、夕日の縁が刻限の屋根のラインに接していた。マリアがいつもの道を通って帰るとすれば、とっくに見つけているはずの時間である。帰宅が遅れているのか、別の道を通って帰ったのか、疑問が不安を伴ってふくれあがった。母親を見失った迷子の心理に近い。
 帰宅しようとする決心がつかないまま、和ちゃんは足下から伸びる影に目を移した。生命観のないブランコと重なる自分の影。その影に覆い被さるように重なる影がある。和ちゃんはマリアの帰宅を期待するように、人の気配に神経をとぎすませていたはずだった。それは人の影だが、和ちゃんはつい今しがたまで、その人物の存在に気付かなかった。
「か、ず、ちゃ、ん」
 背後から自分を呼ぶ女の声に、和ちゃんは垂れていた頭を僅かに上げた。今、この公園に、和ちゃんの名を呼ぶ女性が居るはずがないことは、子供心にもよく知っている。
 では、この親しげな声は? 和ちゃんの妄想ではない証拠に声が続いた。
「か・ず・ちゃ・ん、か・ず・ちゃ・ん」
 振り返った和ちゃんの目の前に、見たことも無い女がいる。冷たく傾きかけた夕日が逆光になっていて顔立ちは判然としない。和ちゃんは首をかしげた。
 しかし、和ちゃんは知らない女の人という意識を振り払った、べっとり粘る妙な暖かさを伴った懐かしさがある。
「かずちゃん」
 女は、今度はもっとはっきりと、和ちゃんの名を口にした。
「あっ、お母ちゃん?」
 和ちゃんは疑問形で発した言葉を、すぐに確信のこもった言葉に変えて、女が差し伸べた手の指を大切そうに握った。
「お母ちゃん、ボクのお母ちゃんやな」
 和ちゃんはどうして自分がそんなことを言っているのか分からない。続いて溢れだしてきた涙の意味も分からず、目の前に膝をかがめた女性の胸に顔を埋めた。
 心の底に溜め込んだ寂しさを吐き出し、泣きじゃくりながらも、安堵感の中の涙は心地がよい。和ちゃんはその安堵感に引きづり込まれるように、生まれて初めて存在感を込めて、その言葉を吐き出した。
「お母ちゃん、お母ちゃん」
 和ちゃんの言葉に応える女の言葉は、未だに和ちゃんを探るようで、感情が籠もっていない。
「あらっ、どうしたの?」
 女は自分の胸に顔を埋めていた和ちゃんをやや離して、和ちゃんの髪をかき上げるように頭をなでた。和ちゃんはしゃくりをあげながら、ようやく整理した涙の理由を説明した。
「今まで、お母ちゃんが、おれへんような気がしててん」
 女は和ちゃんを撫で回すように抱いた。両腕や胸元など和ちゃんと接する部分すべてを使って和ちゃんを味わいつくすかのようである。戸惑いを隠しきれなかった和ちゃんは突然に力をこめて女を抱きしめた。幼い両腕に意外に力がこもっていることに驚いた。
 和ちゃんは繰り返し、女は答えた。
「あのね、ぼく、お母ちゃんが、おれへんような気がしててん」
「いいえ、ずっと居るわよ。昔からずっと」
「お母ちゃん」
「さあ、お家に帰りましょうか」
「うんっ」
 笑顔を取り戻した和ちゃんは、遠慮がちに女に寄り添って並んで歩いた。手を繋ぐにも遠慮がある。まだ、どちらも母と子の繋がりには慣れてはいないのである。陽は更に傾いていて、二人の陰が地面の凹凸に沿って伸びているのだが、一方の女の陰は淡く揺らめくように儚い。
 

「んっ?」
 マリアは自転車のペダルを漕ぐ足を止めて、ブレーキを握って地に足をつけた。週に三回、工場の作業を終えて帰宅し、軽い夕食をした後、コンビニで夜間のアルバイトをするのである。いつもより工場からの帰宅が早く、公園で彼女を待つ和ちゃんとすれ違いになっていた。
 向こうから帰ってくる幼児の姿は和ちゃんに違いないが、和ちゃんと手をつないでいる女には見覚えが無い。二人をじっと観察したくなるのは、女が周囲を慎重に伺う様で、不審な様子があること、どうやらマリアに気づいた女が、気づかぬ振りをしつつ、鋭い視線でマリアの正体を見極めようとする様子を見せることである。
 そうしている間にも距離が縮まり、言葉を交わす距離になった。
「こんばんわ、和ちゃん」
 マリアは和ちゃんに声をかけたものの、傍らの女にどんな挨拶をして良いものか迷った。
「こんばんわ、マリアさん。お母ちゃんと公園に行っててん」
 和ちゃんが女を見上げてそういった
「お母ちゃん?」
 マリアは女の姿を見回した。和ちゃんの母親は既に亡くなっているはずではないか。ところが目の前の女を和ちゃんは母親だという。和ちゃんは何か新しい遊びでもしているのだろうか。
 背すじがぞくりとする小さく鋭い恐怖がわく。
(ひっ)と、マリアは眉をひそめ小さな悲鳴を上げた。
 何か胸を締め付けられるような、心の中を無造作にかき混ぜられるような不快感を感じたのである。
 女はマリアの心の中から拾い上げた言葉を口にした。
「マリアさん」
 見ず知らずの女がマリアに投げかけたのは、知るはずも無いマリアの名である。
「マリアさん、出かけるところだったんじゃないの?」
「あっ、そう。私、アルバイトに行くところだったんです」
「お気をつけてね」
 マリアは二人と手を振って別れたが、どうして自分が首を傾げているのか分からないでいる。振り返ってみると、まるで、マリアが振り返ることを予測したかのように、女もまた腕で和ちゃんをあやしながら振り返って、きらりと光る目でマリアを眺めて口元をにやりとさせた。その視線に応じるかのようにマリアは思った。
(そぉ、和ちゃんのお母さんなんだ)
 そう考えると、女は母親としての存在感があり、まるで数十年も、その数十倍、数百倍、数千倍もの広大な時間と空間を経て、母親を続けているような重い雰囲気を漂わせている。
 マリアが交差点の角で信号待ちをしながら遠ざかる二人連れを確認するように眺めた。二人の姿ではなく、自分が何故あの二人の姿に疑問を感じているのかが分からない。
 和ちゃんが導くように手を引く先に三叉路があり、駅から大学へと伸びる道路と合流して学生らしい若者の姿が多くなる。
 女は知らない道に迷う不安はなかった。和ちゃんが彼女の周りをはしゃぎながらくるくる回りつつ、時折、手を引いて女を間違うはずもなく導くのである。そんな姿を傍らで見れば仲の良い母と子に見える。事実、戸惑いがちに手を伸ばす和ちゃんの指先を捉えて放さず柔らかく握りしめる女の手のしなやかさと柔らかさは、母親だけが持つ暖かさに違いない。女自身は、和ちゃんの後を追うと言うこと以外にはも目的を持たないように、黙って和ちゃんの傍らを離れず歩いていた。しかし、その視線は臆病なほど注意深く、周囲を探っている。
「あっ」
 和ちゃんが声を上げるより先に、和ちゃんの感情を読み取っていた女が、商店街の書店から出てきた長身の黒人に気付いた。ヨゼフである。ヨゼフも和ちゃんに気付いて手を振ったが、和ちゃんが寄り添う初対面の女に首を傾げた。和ちゃんの表情から事情を読み取ろうとしたのだが、和ちゃんの表情が最近になく明るく曇りがない。ヨゼフにとってその事実だけで充分だった。そうしている間にも接近し会話ができる距離になった。女は会釈し、軽くお辞儀をして言った。ヨゼフを見る視線がきらりと光らせて挨拶をした。
「こんばんわ。ヨゼフさん」
 見ず知らずの女を相手に、どう返事をして良いかとまどうヨゼフに、和ちゃんが言った。
「お母ちゃんと公園で会うてん。一緒に帰るとこやねん」
(なるほど、和ちゃんの明るい表情はそう言うことか)
 ヨゼフは状況を理解して納得した。
「こんばんわ。お母さん、和ちゃん。ボクも帰るところ」
 ヨゼフは一緒に帰ろうと和久の空いていた左手を繋いだ。手を繋いだ瞬間、甘く懐かしい感情が、女から和ちゃんを通じて流れ込むような感覚がし、ヨゼフには国のこと、とりわけ母親との想い出が蘇った。
(なんて単純な男)
 女はそう思った。幼児がそのまま大人になったかのように心が無垢で、女が与えた僅かな影響で、ヨゼフは心を開いて女の存在を受け入れた。
 更に、歩を進めた女は、古いアパートの生け垣を剪定している初老の男を見つけた。和ちゃんのおじいちゃんである。祖父のお祖父ちゃんが植木ばさみを手に伸びてきた枝を剪定している。手入れが行き届いた植木が、この男の几帳面さを表していた。
 女は和ちゃんと視線を合わせた。和ちゃんは乗り物にでも酔った様な頭の中がくらくらする不快感に顔をしかめた。
「そぉっ、アレは、あなたのおじいちゃんね」
 女は和ちゃんの記憶を探り当ててそう言った。
 そうしている間にも、二人はおじいちゃんに接近している。突然に、犬の声が響いた。女は犬の行動を予期していたように瓢箪荘の門前で吠えるムク犬にチラリと目をやった。
「モジャ!」
 和ちゃんが叱る声に、犬は吠えるのは慎んだが、それでも耳を後ろに倒し、尾も静止させ、遠慮がちに牙を見せていて警戒感を隠してはいない。
「モジャ、どうしたん?」
 和ちゃんはモジャの傍らにしゃがんで、愛犬を落ち着かせようと抱きしめた。主人の生命感を感じ取って、モジャはやや警戒を解いたが、その息づかいは荒く緊張感を残している。
「さぁ」
 女は和ちゃんをモジャから引き離すように手を引いた。モジャの吠える声に、庭木の剪定の手を休めたおじいちゃんは、孫と手を繋いだ女から笑顔で声をかけられた。
「ただいま、お義父さん」
「ああっ、アンタか」
 おじいちゃんは惚けたようにそう言って続けた。
「私は後片付けがあるから」
 この時間、おじいちゃんは自分と和ちゃんのための食事の準備を始める。ところが、庭木の剪定の後片付けをするということが、自分の習慣のように刷り込まれたようである。
「じゃあ、私は夕食の準備をしますわ」
「いつもすまんな。頼むわ」
「和ちゃん、手伝ってくれるわね」
 女はそう言って、和ちゃんの手を引いた。
「うんっ」                                                              
「じゃあ、今日は何を作って欲しい?」
 優しい微笑みに和ちゃんは戸惑った。何をと問われても、首を傾げるしかない。母親の手料理を食べたことはないという記憶を失っている。
「じゃあ、お母ちゃんに任せて」
「うんっ」
 和ちゃんはそう頷きながらも、繋いだ手から、お母さんの心が伝わってくるのに気づいた。この瞬間にも、女は油断無く周囲を窺って、アパートの奧から出てくる男の気配を感じ取っていたのである。読み取る気配の中に「とうりゃんせ」を初め、子供の手まり歌やらが遊び歌のメロディが混じっている。外国人らしき精神に日本の子供がまとわりつくようで、この人物の性格を特定しがたい。
 女に首を傾げさせたのはアダムだった。最近、日本の子供たちの遊びの伝播に興味が向いている。学究肌の性格で、興味が湧くともうそれ以外は視野に入らない、そういう男である。いまも調べ物の合間に空腹感じて、昼食を摂っていないのを思い出したのである。これから、近所で昼食を兼ねた夕食を取ろうと出かけるところだった。アダムは玄関の扉のガラス窓越しに、彼を窺う女に気付いた。女がにこりと笑った瞬間に、アダムの心は疑いを忘れて、女の存在のみで満たされた。様々に好奇心を働かせる男が、新鮮な心の躍動を失って、この女が誰かを考えることを忘れてしまっている。
「こんばんわ。アダムさん」
 女は扉を開けてアダムが出てくるのを待ちながら言った。
「これから、ボク、お母ちゃんの料理の手伝いをするねん」
 和ちゃんのその言葉で、アダムは心の中を整理して女の位置を作り出して受け入れた。
「こんばんわ。和ちゃんのお母さん」
 交わした挨拶はそれだけだが、アダムの心の中には女の存在がしっかり刻まれた。なぜか、へレンのことが思い起こされた。
「あんた、気をつけなさい。女に騙されやすいタチだから」
 へレンは悪気のない言葉でアダムをそう評したことがある。生真面目なアダムの性格を明るく笑い飛ばしたのである。しかし、目の前の和ちゃんの母親には、何やら惹かれる物がある。恋愛でもなく、あこがれの女優に対する憧れでもない、もっと別の感情だ。彼女は整った顔立ちだが、取り立てて美人というわけでもなく、むしろ目の表情に見せた鋭さと怯えなど、魅力にはマイナスに作用する。アダムは自分が惹かれる物に首を傾げざるを得ない。蘇ったものは故郷の母親の姿に結実した。しかし、母親との不幸な関係の想い出があり、その不快感がアダムを現実に引き戻してその場を立ち去らせた。
 

 台所に立っているのは、料理を作り慣れている女のようで、ニンジンの皮をむき、刻むリズムに迷いがなかった。和ちゃんは、その手つきを珍しいものでもみるように眺めていた。女は和ちゃんから敬意の視線を浴びるのがうれしくてたまらぬという様子で、時折、笑顔を和ちゃんに向けていた。その笑顔から感情が抜け去った。手は正確に動いてニンジンを刻み続けている。異様な光景に、和ちゃんは女の腰にしがみついた、そのとたん、女の心が和ちゃんにも流れ込んできた。女はこの台所にいながら、いま帰宅したばかりのヘレンを眺めていたのである。和ちゃんも女の目を通してヘレンを眺めていた。
(えっ?)
 勘のいいヘレンは、帰宅してドアを開けたとたん、そう呟くほどの違和感を感じる様子が見えたのである。その正体がわからないらしい。不思議そうな表情を管理人室に向けた。
 和ちゃんにも記憶がある。心に見えている映像と重ねて、管理人室で和ちゃんの体が聞いている包丁の音である。
 このアパートの管理人は和ちゃん以外の肉親を失って、自ら食事を作る。素人ながら庭木の剪定を自分でこなすなど手先の器用な人物ではある。しかし、四年を経過しても慣れない家事は、こんな日常的な物音に現れる。今、管理人室から響く包丁のリズミカルな物音は、別人の存在を予感させるのである。ヘレンは和ちゃんに挨拶をするという目的に摩り替えたらしい、奥の自室へ移動しつつ開いていたドアから管理人室をのぞきこんだ。
「おっす、和ちゃん。今、帰ったよ」
 ヘレンが顔を管理人室を覗いた瞬間、今まで玄関で眺めていたヘレンの後ろ姿が、台所から眺めるヘレンの姿に切り替わって、和ちゃんは自分の心を取り戻したのに気づいた。
 ヘレンの読み通りであったらしい。ヘレンからみれば普段は見慣れない女が台所にいて、和ちゃんがその女にまとわり付くように寄り添っていた。和ちゃんはヘレンの存在に気づいて振り返り、うれしそうに手を振った。
 女は包丁を動かす手を止めた。
 包丁の刃先が光を受けて鋭く光った。
 ヘレンは背筋にぞくりとするような不安感を感じ取った。殺気というわけではない、得体の知れないものに接する不安感である。
 女は、指先に付いた山芋の皮を、蛇口から勢い良く噴出す水で洗い、細い指先できゅっと音をさせて、栓をひねって水を止めた。その間、ヘレンの存在には気づいているはずだが、背を見せたまま無言である。
 一瞬の不安の中、ふと、ヘレンは過去の記憶が入り乱れてよみがえってくる感覚に襲われた。過去の自らの姿である。
 スポーツジムのインストラクターとして働く姿。英会話教師として働く姿、言い寄る男にパンチを見舞って解雇される姿、少女の頃に帰国したアメリカ時代のこと、彼女が育った沖縄の米軍基地、その基地の中で母に抱かれた幼い思い出、
 彼女の二十二歳の生涯の中で知り合った様々な人との関わりが入れ替わり浮かんで、知り合った人々が彼女の名を呼ぶ。
 ヘレン、
 ヘレン、
 ヘレン……、
 女は薄笑いを浮かべて振り返り、ヘレンの記憶から探し当てた名を呼んだ。
「ヘレンさん、お帰りなさい。お仕事はどぉ?」
 まるで、昔からの知己のような口調である。
「ええ、まあまあです」
 そう答えながら、見ず知らずの女を相手に、知己のような物言いを返している自分自身に対する疑念が、心の奥底に沈んでゆくのを感じたのだが、やがて、その感覚も薄れてこの女を受け入れて、管理人室を離れた。
 ヘレンが去った後、女は何事もかなったかのようにキッチンに向き直って、和ちゃんが洗った里芋の皮を、布巾で丁寧な擦り取っている。手間はかかるが、皮に近い美味しさを味わうことが出来る。 そういう細かな配慮と手間をかけることに慣れた女らしい。和ちゃんは、里芋を洗い終わった事を、傍らの女の顔を見上げて伝えた。女は和ちゃんの仕事に満足するように微笑んで、大根に視線をやった。和ちゃんは女の意図を察して、小さな手で太い大根を掴んでを洗い始めた。お祖父ちゃんはそんな二人を背後から眺めていた。仲の良い母と子の姿である。
 大根を洗い終わった。和ちゃんがそれを伝えようと、女の腕に手を添えたとき、女の心が和ちゃんにも流れてきた。
(これで、和久に父親が生きていれば)
 女は、お祖父ちゃんが亡くなった息子を懐かしく思い出しつつ、仏壇の息子の写真に目をやったのに気づいたのである。女はぎくりとして里芋を洗う手を止めた。そっと振り返ると、おじいちゃんが仏壇の写真に目をとめて首を傾げている。若い男女が寄り添う写真である。息子の脇で微笑みながら写っている女性を、思い出せそうで思い出せず首を傾げているのである。
 女は自分の迂闊さに気づいた。この家族に入り込むためには、まだまだ気をつけることがある。
(もっと注意しなければ)
「和ちゃん」
 女はお祖父ちゃんにも聞こえる声で和ちゃんに呼びかけた。その声に、お祖父ちゃんの視線が女に移動した。お祖父ちゃんの視線が写真からそれたことを確認して女は続けた。
「和ちゃんが、良い子でお手伝いしてくれているところ、お父さんも見てくれているわ」
 女が視線を写真に視線を送ったので、お祖父ちゃんと和ちゃんもつられた。くらくらと目が回るような感覚の後、お祖父ちゃんと和ちゃんの目に映る写真は、和ちゃんの父親の姿のみで、母親の姿が消えていた。女に送り込まれた通りの映像を見ているのである。ただ、時折、女とふれる和ちゃんは、流れてくる女の心に断片的にふれていた。
 炊飯器のチャイムが鳴った。蓋を開ければ、熱々のご飯が炊きあがっているはずだ。女はキッチンの中を見回して捜し物が見つからず、おじいちゃんの記憶を探って小さく舌打ちをした。
(全く、男っていうのは……)
 おばあちゃんが生きていた時期には、このキッチンにお櫃と言うものがあった。炊きあがったご飯を釜から移してふっくらと蒸らして保温しておく木製の器具である。お祖父ちゃんは他の現代の日本人家族と同様に、そんな余計な手間を省いていて、お櫃はこのキッチンから姿を消している。女は不満ながら、この家族の生活形式に妥協した。女は下茹でをした里芋をザルにあけて和ちゃんの前で洗って見せて、里芋の表面のぬめりを取るように指示をした。
 だし汁、これも、女のやむを得ない妥協の結果である。だし汁を取るべきほどの量の鰹節も炒り子も無く、代わりに、紙パックに入った濃厚な鰹節のだしがあった。女は紙パックの中の液体を、右手の小指の先につけて舐めてみて味を確認すると、鍋に入れて水を加えて頃合いに薄めて、鍋を火にかけた。女は和ちゃんの視線を楽しむように、和ちゃんが洗い上げた大根と人参をざく切りにした。鍋のだしが軽く沸騰したのを確認して、下ゆでしておいた里芋と、切ったばかりの大根と人参を鍋に入れて砂糖と塩で味を調えた。その調味料を加える分量と手つきに迷いが無く、女がこんな素朴な料理を作り慣れている様子が伺えた。鍋に落としぶたをし、火加減を弱めた。
 炊飯器の中ではご飯が柔らかく蒸れている頃合いだ。女はしゃもじを手にして表面を軽く水で湿らせて、炊飯器の蓋を開け、一番に仏壇に供える小さな茶碗にご飯を盛り、和ちゃんに手渡した。和ちゃんは自分の役割を理解して、ご飯を仏壇に供え、リンを鳴らしてから仏壇の手を合わせた。一度はお祖父ちゃんの父母だという夫婦の写真に、もう一度は左のおばあちゃんの写真に、そして最後に右側の父親の写真に。
 女は油断無く和ちゃんとおじいちゃんの様子を覗った。先ほどのイメージはこの二人に浸透していて状況を疑う様子はなかった。女は、くつくつと野菜が煮上がっていく物音に注意を戻した。鍋ぶたを取り、少量の醤油を加えた。鍋を軽くかき混ぜると、くんっと鼻をくすぐる野菜の甘みが、香りになって広がった。和ちゃんはそんな女を傍らで眺めていた。違和感ではないが、見慣れているはずの光景に、好奇心がわくのである。女は出汁を少しすくい取って、小皿に移して口で息を送って冷まして、和ちゃんに味見をさせた。にんまりと微笑んだ和ちゃんが満足する様子に、自らも満足して鍋の火を止めた。
 煮物を皿に盛りつけて、見つからなかった柚子の代わりに、少量のスダチの皮を潰して細く刻んで、香りと色で煮物を飾った。鍋の中に煮物の一部を残しているのは、後で使用する理由がある。香の物を切って小皿に盛り、冷蔵庫を漁って佃煮を見つけてテーブルに置いた。温めた味噌汁を入れるのに漆器の椀の数が足りず、女はおじいちゃんの分を瀬戸物の椀で代用した。茶碗にご飯をよそって、和ちゃんに手渡してテーブルに運ばせた。テーブルの上に準備が整うと、家族の食事を想像させる光景になった。
「さあ、お義父さん、ご飯にしましょう」
 おじいちゃんに声をかけつつ、和ちゃんの手を導いて、和ちゃんを彼女の横に座らせた。
 和ちゃんにやや戸惑いがある。いつもはおじいちゃんを正面に見て挨拶をする。それを思い出せないままで、和ちゃんは手を合わせて言った。
「いただきます」
 女を頭数に加えるかどうかは別にして、微笑ましい家族の食事風景が始まった。和ちゃんは煮物の味付けが気に入ったようで、いつもは嫌いな人参にも箸を運んでいる。日本の女性が作る昔ながらの味付けの料理に違いない、しかし、おじいちゃんが作る男の料理ではない。和ちゃんは料理に箸を運びつつも、今まで食べたことのない手料理だと言うことには気づいていない。
 普段、和ちゃんとおじいちゃんは食事をしながら、軽いおしゃべりをする。大抵は、和ちゃんが話し手で、幼稚園であったこと、川で見つけた変てこな船の話、公園で見つけた蝉の抜け殻の話など、幼い話し手の話題は尽きない。今日の話し手は、戸惑うようで口が重い。おじいちゃんが笑ってくれる話題は心得ていても、傍らにいて自分に微笑みかけている人物の興味を引きそうな話題が分からないのである。
 しかし、女は無口な和ちゃんに終始機嫌良く、食事よりも和ちゃんの笑顔に満腹したかのように食事を終えた。女は洗い物の前に片付けておく仕事があった。食事の途中で玄関から、居住者が帰宅する物音がしていた。帰宅時間から見てチェルニーという生真面目な女に違いない。このアパートの中で和ちゃんと気さくに言葉を交わす人物で、女が最も注意を払うべき危険人物である。すでにおじいちゃんと和ちゃんの記憶を探ってチェルニーのそんな人となりは掴んでいた。
 母親にも留学経験があり、しかも、この瓢箪荘に居たという。留学中にこのアパートの雰囲気に惹かれた繋がりで娘のチェルニー・アタユックもまたここにいる。母子とも在留期間が長いために日本の食べ物の味を好んでいる。
 女は余分に作って鍋に残している煮物を、新たに皿に盛り、ラップで包んで和ちゃんに微笑みかけた。その笑顔に邪気がない。
「和ちゃん、チェルニーさんのトコ、持って行ってあげようか」
「うんっ」
「お義父さん、洗い物は後でしますから、食器は流しに置いといてくださいね」
 その言葉の存在感は、女がお祖父ちゃんの一人息子の嫁になりきっている。お祖父ちゃんもまた、娘に接するように言った。
「いや、わしが洗うとくから、チェルニーさんのとこ、行っといで」
「ありがとうございます」
 女は煮物の皿を片手に、階段へ足を運んだ。和ちゃんは女に寄り添うように付き従った。お祖父ちゃんは、皿を洗う水道の栓を捻りながら首を傾げた。昨日も、その前の日も、皿洗いは嫁の仕事ではなく、自分と孫と並んで二組の食器を洗っていたような気がするのである。


 病院の研修を終えて帰宅したチェルニーは、仕事で張り詰めた精神をほっと開放しつつ、普段着に着替えたところだ。彼女は一瞬首を傾げた。ドアからノックの音が響いたのである。管理人を始め、他の居住者がこの時間に彼女の部屋を訪れることはめったになく、この時間に訪れる者が居るとすれば、遊び相手を求めてやってくる和ちゃんだが、和ちゃんのノックにしては響く音の位置が高い。
「どうぞ。鍵はかかってませんから」
 訪問者にドアを開ける許可を与えながら、たまたま、ドアのそばにいたために、チェルニー自身が気さくにドアを開けた。
 目の前に、見ず知らずの女が居る。日本人らしい顔立ちという以外に、顔にも姿には記憶すべき特徴がない、まるで、様々な女の雰囲気をまぜこぜにしたようで、その特徴は捕らえどころがないのである。ただ、なにやら身に纏う特殊な雰囲気がチェルニーに突き刺さるように伝わった。
「何か?」
 見ず知らずの女に用件を尋ねようとしたチェルニーは、女の傍らの和ちゃんに気づいて、笑顔を浮かべて警戒を解いた。もともと人なつっこい子供だが、とりわけこの女に安心して身を寄せる雰囲気があり、和ちゃんの素振りからこの女を信用しても良い。女は和ちゃんを利用してチェルニーの心に足がかりを築いた訳だった。
「あのね、お母ちゃんが、これ、夕ごはんにどうぞって」
 和ちゃんが黙ったまま微笑む女の代わりに里芋の煮物を差し出した。
「お母ちゃん?」
 チェルニーはそう疑問を呟いて、改めて女の目を見た。和ちゃんの母が既に亡くなっているというのはよく知っている。
(義母?)
 チェルニーは心の中でそう思ったが、和ちゃんの義母となるべき女性を迎える和ちゃんの父親も、既に亡くなっているはずだ。和ちゃんがお母ちゃんと呼ぶ理由が理解できない。 女は和ちゃんに煮物の皿をチェルニーに渡すように促した。次の瞬間、和ちゃんが手を滑らせたのか、和ちゃんの腕に手を添えていた女の手がそうさせたのか分からない。和ちゃんが手渡そうとした皿が、つるりと滑って落ちかけた。チェルニーは慌ててその皿を支えて受け取ったのだが、その瞬間に、全神経を皿に集中したことで心に隙が出来た。女の目はそれを見逃さず、きらりと鋭く輝いた。
「あらっ、大丈夫? いつもの事なのに、今日は慌てて手が滑っちゃった」
「いえっ、こちらこそ、いつも、美味しい料理をありがとうございます」
「じゃあ、もう遅いから失礼するわ」
「じゃあ、おやすみなさい、和ちゃんもね」
 女とチェルニーが交わした会話はそれだけである。女はその会話の間に和ちゃんの母というイメージを織り込んでチェルニーに植え付けた。和ちゃんに手を振ってから扉を閉じた時には、扉を開けた瞬間には見ず知らずの女だったという記憶が消えていた。

 女は和ちゃんの手を引いて階段を下り、注意深く玄関脇の郵便受けを眺めた。古い木製の郵便受けに入居者の名前のプレートが付いている。女にとって入居者の一覧表のようなものだった。女は視線でその名を辿って、日常的な挨拶という形で洗脳を終えたことを確認した。唯一、「じぇすーる めふめっと」と記載されたプレートに、やや不快な感情を覚えて顔をしかめた。
「和ちゃん、ジェスールさんは?」
「うーん。どこかへ行ってるねん」
「どこへ?」
「知らん。いろいろな所へ行って、あちこちで寝るねんやて」
「いろいろな所で寝る人なのね」
 この子の言葉は何やら理解しがたい。
「ときどき、写真付きの手紙、くれはるねんで」
「手紙?」
「手紙が来たら、お母ちゃんにも見せたげるわ」
(そぉ。ジェスールがこの子に手紙を出すと言うことは、しばらく、帰ってくることはないと言うこと)
 女はジェスールについてそう結論づけた。
「そお、これで全員ね」
 こうして、女はこのアパートで和ちゃんの母親になりきった。


 和ちゃんのお祖父ちゃんは、孫と暮らし始めてから、孫に合わせた生活スケジュールを持っている。和ちゃんが眠そうに目をこすってあくびをする時間帯が、祖父と孫の就寝時間になる。
 この時、この日最後の混乱が起きた。お祖父ちゃんはいつもの習慣に従って和ちゃんがパジャマに着替えている間に畳に布団を並べたのだが、戸惑いが生じたのである。祖父の大きな布団と、孫の小さな布団、いつも通り並べると、和ちゃんの母親の布団を敷くにはスペースが足りない。押し入れの中には、あたかも女のためのように大人用の布団が一組あり、敷くべき布団の枚数と、それを敷くスペースが一致しない。
「あらっ、お義父さん。お布団を干した時に間違えて、私たちのお布団までこの部屋に?」
 いつもは部屋の中央に一人で寝ているだろうと言う暗示である。女は手際よく、小さな布団と来客用の布団を管理人室の隣の空き部屋に運び、お祖父ちゃんの布団を部屋の中央にずらした。その動きがごく当たり前のことのようで、疑問を感じさせない。布団を運び終えると和ちゃんの手を引いて管理人室の入り口で膝を折っておじいちゃんに向いて挨拶をした。
「お義父さん、お休みなさい」
 女はいつもの習慣であるかのように和ちゃんに促した。
「かずちゃんも、おじいちゃんにいつものご挨拶は?」
「おやすみなさい」
 和ちゃんは戸惑いつつそう言った。何やら心の中にわだかまっている物があるのだが、この状況がいつもと違うという疑問になって浮上することがない。女は扉にそっと手を添えて管理人室の扉を閉めた。
 管理人室の隣は長らく入居者がなかったために閑散としてはいたが、これだけが女の所有物であるかのように、部屋の隅に三面鏡と手鏡があった。それ以外は何もない畳の上に、女は管理人室から移した布団を部屋の中央に敷いた。
 女は笑顔でパジャマ姿の和ちゃんに布団にはいるように促し、自分もその傍らに潜り込んだ。和ちゃんが目を大きく開けたまま首をかしげたのをみて、女は優しく聞いた。
「どうしたの? どこか体の具合が悪いの」
「ううん」
「眠くならないの?」
 お母さんだと信じる女の質問に、和ちゃんは首を振って、布団からはい出した。
「ぼく、おしっこ」
「待ってるから、すぐ帰ってらっしゃい。眠くなるまでお歌を歌ってあげる」
 お母さんは優しくそう言ったが、合成音声のように感情が欠けた声だった。ただ、その愛情に濁りはないように思われた。
 
 管理人室に取り残されていたおじいちゃんはこの夜、この部屋がいきなり広くなったかのような孤独感を感じている。やや間をおいて扉が開き、戸惑うような和ちゃんが姿を現した。和ちゃんはぽつりと尋ねた。
「お母さんって、パジャマ、着ぃへんの?」
 隣の部屋で布団に潜り込んだ母親は、先ほど着ていた衣服のままである。母親というものは、自分や祖父とは違って寝間着に着替えるという事をしないものだろうか。それが、やや不思議で、しかし、本人に聞きづらく。和ちゃんは祖父にそう尋ねに来たのである。
「どうやったかな」
 亡くなった妻を思い出してみると、パジャマは着ていなかったような気がするのである。
「パジャマは着てへんかったみたいやな」
 何か違うような気がするのだが、その違いを明確に出来ないまま受け入れている。
「かずちゃん、かずちゃん」
 隣から和ちゃんを呼ぶ女の声が響いた。
「さあ、ぐっすり眠っておいで」
 おじいちゃんはそう言って孫を女の所に送り出した。
 蛍光灯の明かりを消し、豆電球だけの光を浴びて横になっていると、この部屋はいつもより大きく、いつもより孤独に感じられる。
 


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