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 一人で砂場で遊ぶ和ちゃんには、自転車で町を巡回している警官の姿が見えていたが、気づかないふりをした。警官にとって、この町のパトロールは自転車が似つかわしい。住民たちの呼吸が伝わるように、町の状況が肌から染み渡って、彼らの姿から国家権力臭さを抜いて『町のお巡りさん』という親しみのある雰囲気を生み出すようだ。
 彼らはいつものパトロールコースを、道路一筋分それて、新たな道筋を見回ったのである。後ろを走る年配の警官が、ふと自転車を止めた。その急なブレーキの音に同行の若い警官が気づいて振り返って、やはりブレーキハンドルを握った。和ちゃんは密かに警官に視線をやって、自転車を降りた年配の警官が、自分を指差しているのに気づいたが、態度には出さなかった。
 日中なら、微笑ましい光景かもしれないが、日が傾いたこの時間に、一人ぼっちで遊ぶ幼児の姿は、やや異様な状況を感じさせた。和ちゃん自身も、ほかの友達と少し違う行動をとっているという自覚があった。
 警官は同僚に目で合図をして、幼児の様子を確認しようと指示をした。帽子を脱いで髪に風を入れたのはパトロールの緊張感を抜いて幼児に接するためかも知れない。警官が自分を驚かさないようにしているという優しい配慮を感じ取りながらも、和ちゃんは彼らに背を向けていた。
 ただ、和ちゃんは警官が自分を細かく観察している事には気づいていなかった。衣服には幼児が遊びの途中で付けた泥以外の汚れはなく、清潔に洗濯した衣服を身につけているようだ。衣服から露出している腕や太ももに目に見える外傷はない。砂場で砂を盛り上げる仕草は自然な動きで、服に隠された体にも傷は無さそうだ。
 お巡りさんが自分の姿に育児放棄や虐待の兆候を探していることを知ったら、和ちゃんはきょとんとしたに違いない。
 和ちゃんは、自分の影に重なった警官の影で、大人の存在に気付いたふりをして振り返った。警官の制服にも、ものおじする気配は無い。警官はこの子が人懐っこく疑うことを知らない子だと考えた。
 若い警官は和ちゃんに声をかけた。
「ボク、一人だけか?」
 傍らの年配の警官が若い警官の質問を補った。
「お母ちゃんは、どないしたんや?」
 和ちゃんは返答に困ったように呟いた。
「ボク、お母ちゃんおれへんねん」
「なんでや?」
「死んでしもてん」
 警官は事情を察したように顔を見合わせた。悪いことを聞いてしまったと後悔する表情である。
「そうか……。じゃあ、お父ちゃんはどないしたんや」
「お父ちゃんもおれへん。死んでしもてん」
 和ちゃんは思った。
(またや……)
 父母が居ない。そういうことを知ったとき、大人は皆こんな顔をする。まるで、和ちゃんが特別な存在であるかのような視線を送ってよこす。
(哀れな存在)
 大人はみんなそういう雰囲気を漂わせるのである。
 和ちゃんにとって見れば、物心付いたときからの状況で、慣れっこになってしまっていて、両親が不在だと言うことが、孤独の原因になることが理解できない。警官は和ちゃんを励ますように言った。
「ボク、お家は何処や? お巡りさんが、家まで送ったろか」
 和ちゃんがお巡りさんに背を向け続けていたのは、この質問を避けたかったからである。大人の中で過ごしている分、和ちゃんは大人が言葉に込めた意図に勘が良い。この警官は自分に帰りなさいと言っているのである。
「家は、あっち。瓢箪荘」
「瓢箪荘?」
「ぼく、もうちょっと、ここにおるねん」
「なんでや? 家まで送ったるで」
 和ちゃんは口ごもった。ここにもうしばらく居続ける必要があるのだが、その理由は他の大人には説明しにくい。目の前の大人を納得させる言葉が見つからず、和ちゃんはうつむいて考え込んだ。和ちゃんの迷いに、あの意識が入り込んだのはこの時である。自分が生気を失った表情をしているという自覚はあり、遙か遠くから響くようにお巡りさんの声が聞こえていた。
「ぼく、どうしたんや?」
 そんなお巡りさんの声に、返事をする気力もなく、じっと黙りこくっていた。和ちゃんは、ふと、気づいた。こんな感覚に陥るとき、誰かの心が入り込んでくると感じていたのだが、違った。ほかの誰かと心が混じり合う感覚である。事実、和ちゃんは自分の体で眺め聞いているのと同時に、ほかの誰かの目や耳でも見聞きしていた。二つの映像と、映像の角度に合わせた音源から聞こえる声が、心に同時に響く。今の和ちゃんは自分以外のもう一人になって見聞きしていた。おそらくは女であろう、その誰かが読む警官の心まで伝わってきた。
 和ちゃんは突然に深い眠りに付いたように、自分の意志を失い、全身の力が抜けきっている。なんとか重心を保って立っていた人形が倒れ込むように、若い警官の手を離れ、尻餅をつくような格好で砂場に腰を下ろした。二人の警官は顔を見合わせた。経験に差はあれ、二人ともこの幼児の年齢をとっくに経た息子や娘がいて、子育ての経験を持っている。しかし、この目の前の幼児のような行動には接した経験はない。幼児は安らかに眠っているようで表情には陰りがない。幼児は眠っている演技をしているわけでも、二人の警官を何かの遊びに誘っているわけでもないのである。和ちゃん自身の心は他の誰かと重なって、和ちゃんに声をかける警官を眺めていた。
「どうしたんや」
 突然、幼児は閉じていた瞼を開けて警官を驚かせた。その目に瞳が無く、まるで底のない穴のように黒々として生命感が無かった。ただ、油断無く目の前の警官を注視しているという意識は伝わってきて、警官はその表情から目を逸らすことが出来ず二つの穴に落ち込んでいきそうな恐怖に襲われた。酷く冷たく淋しい感情が流れ出して場を包み込み、それと共に幼児の背後に顔や姿は特定しがたいが明瞭に女だと分かる気配が重なって警官の背筋に恐怖に近い孤独感を走らせた。僅かに残された夕日が幼児の目を射て、その鋭い反射が幼児に重なる女の視線のようでもある。
 いまは、その女が警官を冷たく見つめ、警官は凍り付いたように身動きせずにいる。
 この時、新たな自転車のブレーキの音が響いて、凍り付いた景色に変化をもたらした。自転車の主が幼児に呼びかける声が響いた。
「和ちゃん」
 その声に刺激されるように、こわばっていた感情と体が熔けた。和ちゃんと混じっていた心の持ち主は、和ちゃんがここにいる疑問が解けて納得して去ったという感じである。
(この子は、ここで母を待っているのか)
 和ちゃんには、そんな声が聞こえたような気がした。
「あっ、マリアさん」
 和ちゃんは何事もなくけろりとして、新たにやってきた自転車の主に答えた。警官がふと気付いてみると、幼児を包んでいた冷たい女の雰囲気はからりと晴れて、どこにでも居そうな無邪気な幼児に過ぎない。年配の警官は薄くなった頭髪を指先でかき混ぜながら、自転車を押してやって来た女性に尋ねた。
「君は?」
「私、瓢箪荘に住んでます。この子のお姉さんです」
 和ちゃんが眺めると、警官は少し首をかしげていた。疑問がある。幼児は明らかに日本人の子どもの顔立ちだが、姉と名乗るこの女の顔立ちはアジア人の特徴を漂わせつつも彫が深い。姉だというが真の姉弟ではあるまい。しかし、警官は二人とも疑いを解いてマリアの笑顔に釣られて笑った。彼女はそういう笑顔をする。
(そういえば)
 警官たちは、この公園の南側に外国人たちが住む安アパートがあり、管理人を務める男が孫の幼児とともに住んでいると聞いたことがある。女の言葉と幼児の言葉の符丁は『瓢箪荘』という言葉で一致する。
 口に出しにくい和ちゃんの本心を解き明かせば、マリアが仕事を終えて帰宅する時間帯で、彼女が寄り道をしなければこの公園を通りかかるはずだった。和ちゃんは母親の帰りを待つように、マリアの自転車を待っていたのである。
 警官の見るところ、人懐っこい子どもらしいが、この女性に寄り添う時の雰囲気には、母親に甘えるような気配があり、幼児が発する雰囲気を通じて、この女性を信用してもいいだろう。警官は幼児をマリアに託すことにした。
「ばいばい、」
 和ちゃんは明るく手を振って去ってゆく警官たちを見送った。二人の警官も軽く手を振って挨拶に代えてペダルに込める足に力を込めた。ただ納得しがたいように首をかしげたのは、幼児から伝わった恐怖に似た女の気配である。ただその気配も記憶になっていまは存在しない。
「ちゃぁんと、つかまってるのよ」
 和ちゃんは、マリアの自転車の後ろの荷台に乗せてもらって、マリアの腰に腕を回して抱きついた。マリアの背に頬をつけてマリアの体温を感じた。くんっと嗅いだのは、マリアの長い髪に、甘いバニラの香がしたからである。菓子工場で働くマリアの姿が浮かんだ。
 マリアの背に顔を埋めながら、和ちゃんはちょっと考え込むことがある。さっきの「姉」という表現である。マリアは自転車の前カゴに絵本があるのを示して言った。
「ほらっ、新しいのを買ったの」
 和ちゃんにはマリアに本を読んでもらう楽しみができた。しかし、この時は少し考え込んで、マリアに不思議そうに尋ねた。
「お母さんがおれへんのって、可哀想なことなん?」
 マリアは少し黙りこくった。どう説明してやればいいだろう。
「そうね。一人ぼっちじゃないわ。和ちゃんのお母さんもいつもどこかで和ちゃんのこと、見守ってるから」
「ふぅーん」
「お母さんって、子どもをみてるもんやのん?」
 そんな会話を交わすうちに自転車はアパートに到着した。マリアはアパート裏の自転車置き場から和ちゃんの手を引いて入り口に導きながら言った。
「私ね、面白いなって思うの」
「なぁに?」
「この瓢箪荘の人って、みんな家族みたいでしょ?」
「うん」
 そんなアパートを作ったのは和ちゃんの曽祖父と曾祖母の人柄である。その雰囲気を祖父のお祖父ちゃんが引き継いでいる。
 初秋の日は暮れかけていて、間もなく家族がそろう時間帯になる。事実、エレンがアーチェリーの弓が入ったバッグを肩にかけて帰宅してきたところである。
 マリアは続けた。
「家族が大勢いるって、良いよね。」
「アダムさんとか、ヨゼフさんは、お兄ちゃんみたい……」
「ねっ? 楽しいよね」
 マリアは和ちゃんの言葉に同意しながら、帰ってきたヘレンを見つけて続けた。
「じゃあ、ヘレンさんは?」
「親戚のオバちゃん!」
 ヘレンはその言葉をしっかり捉えた。
(おばちゃん? まだ22になったばかりの若い美女に何を言うの)
 彼女は和ちゃんに念を押した。
「いいか? おねぇさんよ、お姉さん! 分かった?」
「うんっ」
 ヘレンは納得したように和ちゃんの頭を撫でて一階の奧の部屋へ向かった。
 マリアはやや間をおいて続けた。
「じゃあ、お母さんは誰かな?」
 本人を目の前にして返事がしにくい。和ちゃんは照れながら、頭を抱えて迷う素振りをして返事に代えた。
 しかし、冷静な一面で考えてもいる。
(そやけど、時々、どこかで、知らん女の人が、ボクのこと呼ぶねん)


 いつもと同じ陽が刺し始めた朝、和ちゃんは布団の中で大きなあくびを一つして、ぱちりと目を開けた。甘える事が出来る母親が居ないせいか、幼児に似つかわしくなく自主性は豊かで目覚めは良い。しかし、その大人びた性格の割に、体は未だ幼く柔らかで、ぬくぬくして居心地の良い布団を離れられずにいる。和ちゃんは布団を離れるきっかけを探すように、きょろきょろ視線を動かした。
(えっ?)
 感じたものは、恐怖でも親しみでもなく、無感動な疑問である。和ちゃんの視線が一カ所に定まって動かない。ただの天井の板の木目である。しかし、和ちゃんの目には、その木目が、湖面に漂う水草や複雑に舞う風に乱されて生じる波紋のように、ゆらゆら揺らめいて見えるのである。波紋は不安定に揺らめきつつ、意志を持っているかのように女の表情を形作っていく。
(ちぇるにー……、さん?)
 判然としない表情に、優しさを感じ取った和ちゃんはそう思ったが、その雰囲気は移り変わる。
(へれん……さん?)
 現れた表情の母性に、強靱さを読み取るなら、ヘレンの名が該当するかもしないが、その伝わってくる感情はさらに移り変わり、泣き出したいほどの孤独を感じたかと思うと、突然に安堵感に転じ、女の声がした。
(かずちゃん……、かずちゃん……)
「だぁれ?」
 和ちゃんが女の声に応じた直後、玄関脇から愛犬モジャの声が響いて、和ちゃんのぼんやりと定まらない視線を現実に引き戻した。いつになく唸り声を交えた声である。もともと温和しく、のほほんとした性格のうえ、歳を経て感情の起伏が少ない犬で、ほとんど吠えることがない。そんな犬が飼い主に何かの異変を感じて警告を発したに違いない。それを証明するように、天井に形作られた表情が、不満気に、悲しげに、薄れて消えた。
 和ちゃんは自分が背負った責任を果たすために、起き上がって布団を抜け出した。早朝から大声で吠える愛犬に静かにするように命じて、朝ご飯を与え、飲み水も換えてやらなくてはならないのである。隣の布団でおじいちゃんが目覚める気配がしたので、和ちゃんはおじいちゃんに目を移した。
「おはよう。もう起きてたんか」
「うんっ。おじいちゃん、おはよう」
 和ちゃんは歯切れの悪い挨拶をして、天井に視線を戻した。既に女の気配は消えて、淡い木目のどこにも女の顔を映し出している箇所はない。和ちゃんはお祖父ちゃんに今の出来事を説明するのは諦めた。すでに何回も同様なことがあり、その都度、笑って取り合ってもらえない経験をしているのである。証拠がなければ、また、笑ってすまされてしまうだろう。
 多少、不満気にうつむいて起き上がった和ちゃんだが、突然に、何やら胸が切なく拳を胸に当てて押さえた。胸が締め付けられるように切ない。しかし、その切なさの中心に揺るぎのない暖かな芯があることが悟られて不快ではない。そんな状態も一時で、すぐにけろりと無邪気な幼児に戻った。
 和ちゃんは慣れた手順で、しかし、幼い指先のせいで、やや戸惑いながらもボタンを外してパジャマを脱ぎ、ズボンを脱いで丁寧に畳んだ。慣れた手つきで普段着に着替える。それから、自分の小さな布団を畳んで、両手を使って押し入れの前まで引きずっていった。押し入れに仕舞うのは、おじいちゃんの手を借りなくてはならない。
 まず、管理人室の窓を開けて身を乗り出すと、玄関脇の犬小屋が目にはいる。モジャはすでに番犬としての役割は終えたらしく、吠えるのを止めていた。目聡く見つけた和ちゃんの姿に、食事を求めて尾を振った。モジャの朝食は玄関の脇に保管してあり、飲み水に入れる水道の蛇口は犬小屋の傍らにある。玄関に向かうまでの自分の行動を、何のためと、問われれば首を傾げていたかもしない。
 愛犬に食事をさせてやるため、
 そして、今朝の和ちゃんには、今ひとつ晴らしたい疑問があった。
 玄関を出て、一通り愛犬の頭や腹を撫でてやってから、水の容器と食事の容器を傍らの蛇口で洗った。容器に水を入れながら、周囲を見回した。玄関にチェルニーの靴が見あたらず、昨夜は夜勤だったに違いない。とすると、彼女はこの時間に帰ってくるはずだ。
 しかし、和ちゃんは先に英語で挨拶をすることになった。
「ぐっもーにん、ヘレンさん」
「グッモーニン。今日も元気やね、和ちゃん」
 ヘレンは少し首を傾げてしゃがみ込んで、和ちゃんと視線を合わせた。今日の和ちゃんに、いつもと違う雰囲気があることに気づいたのである。言いたいことがあるのに、言い淀んでいる感じ。
「ほらっ、言いたいことがあるなら、言ってご覧なさい」
 そんなヘレンの言葉に、和ちゃんは口ごもった。言いたいことがあるわけではない。目覚めの時に天井に見えた女のイメージをヘレンと重ね合わせたのだが、違う。別人だという確証を持った。
「私、思うんだけど。日本人は思ってることをはっきり言うべきだわ。『ヘレンさん、今日も綺麗だね』とかね。言葉を交わすと人と人は仲良くなれるでしょ」
「うんっ、ヘレンさん、今日もきれい」
「和ちゃんも、いつも良い子ね」
 ヘレンは和ちゃんの頭をぽんと撫でて、朝のジョギングに走り去った。
 チェルニーは瓢箪荘を目前にして、玄関先で自分を眺める和ちゃんに気付いた。好奇心が豊かで、細かいことに気づく子だが、今日の和ちゃんはいっそう何かを観察する様子があり、その観察の対象が目の前のチェルニー自身であるらしい。
「サワッディーカー、和ちゃん」
「さわっでぃくらっぷ」
 挨拶をする和ちゃんの笑顔には濁りが無く、いつもと変わりがない。チェルニーは和ちゃんが自分を見つめていた理由が分からない。
「どうかしたの?」
「チェルニーさん、今日もきれい」
 そう言われると悪い気はしない。チェルニーは少し首を傾げたまま、笑顔でドアをくぐって姿を消した。
 天井に見えた女は、ヘレンではなくチェルニーでもなかった。そして、女のイメージは、鋭さを感じるほど一途に和ちゃんを求めている雰囲気があり、ふんわりと包み込む雰囲気のマリアとは全く違っている。和ちゃんは首を傾げつつも、相談する相手に恵まれず、一人でいつものスケジュールをこなして、出かける準備を整えた。衣服を少し乱しているのはいつもと同じ。
「かぁーずちゃん。お出かけの時間ですよぉ」
 いつもと同じ時間に、真澄ちゃんがお母さんの手を引くようにやって来てそう叫んだ。お母さんは真澄ちゃんと同じ大きな目をくるくる動かして、和ちゃんの姿を眺めた。和ちゃんの首筋をお母さんの指先が優しく撫でて襟足の乱れを正した。ぷんっと体温を持って漂う香りがある。化粧水の香りかも知れない。ただ、その温かな香りはエレンやチェルニーやマリアからは感じられない母親の雰囲気を持っているように思われた。
 和ちゃんは戸惑いながら、真澄ちゃんのお母さんの腕に甘えるように頬を押しつけた。
 一瞬、和ちゃんはこくりと息をのんだ。
 ゆっくり開けた目に、お母さんの腕の下から真澄ちゃんの顔が見えている。和ちゃんと距離を置く冷たい怒りに満ちた目で、和ちゃんを凝視しているのである。
(それは、私のお母さんよ)
 和ちゃんに優しく接する自分の母親、その母に甘えてみた和ちゃんの意図を鋭く察して、嫉妬を感じたに違いない。そう言われてみると、反論の余地もなく、和ちゃんはうつむいて真澄ちゃんのお母さんと距離を置いた。
 周囲から突き放されて独りぼっち。
 いつもは仲良く手を繋ごうと手を差し伸べてくる真澄ちゃんが、今日は和ちゃんを拒絶してそっぽを向いていた。
 

 先の警官との事件以来、和ちゃんの中で不思議な出来事は拡大した。不思議な声が聞こえたり、誰かが心に入ってきたりする経験を経たが、今は心に入ってくる誰かの目と耳で様々な出来事を感じ取ることがある。今、その誰かは幼稚園の中庭にいて、幼稚園全体を眺めている。ただ、耳は人々のすぐそばにあるようで、会話の一つ一つを注意深く反応する。
 はしゃぎ回る子供たちから少し距離を置いて、一人ぽつんと宙を眺めている和ちゃんがいる。この時には、和ちゃんの心の中の誰かは、幼稚園の全景から、園長先生と保母のヨシエ先生をズームでとらえるように凝視して、二人の姿と会話を捉えていた。
「和ちゃん、何か心配ごとでもあるのかしらね」
  園長は和ちゃんという名前を知っていた。素直で明るいというイメージを持っていただけに、運動場の端に一人で立ちつくす和ちゃんの姿に、淡い恐怖を伴う違和感を感じたのである。職員室の窓辺から運動場の園児を眺める園長の問いに、ヨシエ先生が答えた。
「ええ、最近、元気がないんです」
「そうなの」
 そんな人々の姿と会話を、和ちゃんは自分の体から抜け出して観察するように眺めていた。事実、園長先生の背から運動場の片隅に視点を移してみると、運動場の片隅にたたずむ自分の姿が見えているのである。
 気がつくと、自分の傍らに笑顔の園長先生がいた。和ちゃんは心が自分の体に戻ったことを知った。両肩に園長先生の温かな手があって、肩を揺すられて我に返ったという感覚だった。和ちゃんは中庭の干し物を指差した。
「せんせ……。ぼく、時々、女の人の声が聞こえるねん」
 和ちゃんのたどたどしい言葉を丁寧につづれば、干し物のバスタオルが、そよ風になびく皺の中に女の表情が見え、呼びかける声を聞いたということになる。むろん、園長先生には何も見えず聞こえず、和ちゃんが指差す物と言葉の意味が一致しない。園長先生はそんな矛盾を指摘することを避けて、和ちゃんを次の遊びに誘った。
「ほらっ、もうすぐお遊戯の時間よ。先生と手を繋いで行こう」
 園長先生の手は歳を取って皺くちゃだが、和ちゃんの手を包み込むほど大きくて柔らかい。優しくそっと繋いでいるのだが、幼児の手をつかんで離さない安心感を感じさせる。
 しかし、和ちゃんを孤独と見る人々は、和ちゃんが感じる孤独の原因が、大人が和ちゃんの言葉に耳を傾けていないことだとは気付いていない。
「ご両親が居ない寂しさを、ああやって紛らわしているのかしら」
 職員室に戻った園長先生はヨシエ先生にそう言った。
「一度、ご家族と相談しておいた方がいいかしらね」
 園長先生の行動は早かった、おじいちゃんと相談しておこうと判断したのである。この配慮が行き届いている辺り、和ちゃんは周囲の人々から手厚く保護されていて愛情に飢えているわけではない。しかし、和ちゃんが孤独だと考えるなら、そうかもしれず、大人たちは和ちゃんの心を読み違えていた。
(幼稚園でもそうだったのか)
 昼過ぎ、お祖父ちゃんは和ちゃんの手を引いて帰りつつ、園長先生の話を思い出してそうつぶやいていた。園長先生に指摘されるまでもなく、たしかに、この子は最近落ち着きがない。
 いま通り過ぎている商店街に、この子の興味を引きそうなものはいくらでもありそうだが、和ちゃんの視線は泳ぐように定まらず、かと言って興味の対象を求めてきょろきょろしているわけではない。祖父と孫に変わったことがあるわけではなく、孫の変化に心当たりがなかった。素直な子で問い詰めれば原因が分かりそうなものだが、孫の言葉は要領を得ず、おそらくこの子自身説明しきれない戸惑いがあるに違いない。
 和ちゃんは、ちょっと足を止めた。
 視線の先に洋服店のウインドゥに女性のマネキンがあり、その傍らに女の子のマネキンが配置されている。二体のマネキンは仲の良い母と子を連想させるようにそろって冬物の衣類を身につけて仲良く手を繋いでいた。和ちゃんが目をとめたのは、その母親のマネキンの目がきらりと輝いて、娘と繋いでいた手をふりほどいたかと思うと、和ちゃんに手を伸ばして手招きをしたからである。優しくまねくように和ちゃんの名を呼んだ。
(かずちゃん、かずちゃん)
「和久! 和久!」
 女の声がおじいちゃんのお祖父ちゃんの声に置き換わって、和ちゃんは目を覚ますように我に返った。和ちゃんは首を傾げた。いつの間にやら、マネキンの母親は、元通り、傍らの少女のマネキンと手を繋いでぴたりと静止していて、動き出す様子はない。お祖父ちゃんはそんな和ちゃんの姿に、先生が言った和ちゃんの情緒不安定を確認した。
 和ちゃんはぽつりと言った。
「お父ちゃんも、お母ちゃんも死んだのに、何でボクだけだけ生きてるのん?」
 残酷な話だが、事故の記憶の断片でも残っていれば、父母が亡くなったということが理解できるのかもしれない。しかし、和ちゃんには父母を失い自分だけが母の胸で生き残った事故の記憶がない。ほかの子供たちには父母という存在があり、自分にはそれが無い。和ちゃんは、それほど深刻ではなく、ふとした疑問を口にしただけだ。
 以前、同じ質問に答えることが出来なかったチェルニーは、そんな和ちゃんを優しく抱いて返事に代えた。和ちゃんはそんな経験を積んで、母親の優しさを思い浮かべるときには描く母のイメージはチェルニーの姿になり、母親の強さを思い浮かべるときにはヘレンの姿になり、包容力を求めるときにはマリアの姿になる。そして、こういう気分に陥ったとき、和ちゃんは、誰か女性居住者の存在感を求める。


 アパートに帰った和ちゃんは、遊び相手を求めてマリアの部屋にいた。
「今度は、和ちゃんが読んで聞かせてね」
「うんっ」
 マリアは、昨日買ってきた絵本を、物語の展開に沿って挿絵を指差しつつ読んでやっていたのだが、夕食の準備の時間になった。彼女は和ちゃんに本を与えて、自分はキッチンに立ったのである。彼女は冷蔵庫の中に残った野菜を確認して、今日は、ジャガイモをクリームで煮て、昨日、使い残したトウモロコシの粒を加えようと考えた。
 昨夜炊いたご飯はおにぎりにしてラップでくるんである。この日本のファーストフードは彼女のお気に入りの食べ物の1つなのである。
「こいしくば たずねきてみよ いずみなる しのだのもりの うらみくずのは」
 料理を考えるマリアは、背後に和ちゃんの声を聞いて笑った。幼い和ちゃんが、難解な文をすらすらと淀みなく口にしたこと、和ちゃんが手にしているのは先ほど渡した絵本ではなく、日本の民俗学に関わる専門書で、和ちゃんが口にする物語とは関係がないことである。もちろん、和ちゃんの年齢では漢字まじりの文章を読むことはできないだろう。
 和ちゃんは机に重ねてあった書籍の一冊を手にして、以前、マリアが和ちゃんに語って聞かせた物語の一節を、リズム感まで真似て繰り返しているのである。和ちゃんがその言葉の意味を正確に理解しているかどうかは疑わしい。今、和ちゃんが語ったのは、「葛の葉狐」、「信田妻」など、幾つもの異なる題名を持つ有名な伝承の一節である。
 物語の流れを荒っぽく追えば、旅人に命を救われた白狐が、人の姿に身を変えて旅人の妻となり、子を宿して、幸せな夫婦生活を送っていたが、ふとしたことで、自分の正体を知られてしまい、故郷の信田の森に帰って行くというもので、和ちゃんが口にしたのは、白狐が夫と子供に書き残した別れの歌である。自らの正体を知られ、愛する夫の安名や子供と別れることになった女の悲痛な叫びが、胸に刺さるようにリアルに聞こえて、マリアの記憶にも残る物語でもある。
 この国では、動物や妖怪が人に姿を変えて、人と共存する。他の国のように恐ろしげなものではなく、何か儚い。そして、こういう伝説の多くは悲しい結末を持っている。
 和ちゃんのお気に入りの物語であるらしく、何回もマリアにこの話をねだっていた。和ちゃんは手にした物語を、心の中に浮かぶまま読み続けた。
「保名とこどもは 森の中に行きました。木の陰に二人をみているキツネがいました。キツネは泣いていました」
 思い出しきれない細部は和ちゃんの想像で補われて、和ちゃんの口から紡がれ出していた。ここで、和ちゃんが言い淀んだのは、得体の知れない漢字が多くて、想像力が追いつかなかったせいである。
「保名はどうしたのかしら」
 マリアは、そんな言葉で和ちゃんの想像力を刺激した。和ちゃんは考えて物語の一端を引き出した。
「やすなは、キツネに、人間になって下さい、と、言いました」
「それから?」
「キツネは、人間の、女の人に、なりました」
 マリアは人参の皮をむき、キャベツを刻みながら笑った。和ちゃんの言葉が不規則に途切れた。和ちゃんが物語に飽きてきたのか、あくびをしたのが分かったのである。それでも、和ちゃんは律儀に物語を綴った。
「女の人は ほんとうは やすなと こどもと いっしょに暮らしたかったです」
「次は?」
「女の人は やすなと こどもと 森で一緒に暮らそうって言いました」
 マリアはこの子の自由な想像力が羨ましいと思った。物語の結末は、キツネは形見の品を子供に残して森に消える。それが、和ちゃんの想像力を伴って、いつの間にやら変質して別の話になっている。
「女の人が かずちゃんって ぼくのこと 呼びました。天井とか、毛布とか、水とか、女の人の顔が見えました。さびしそうでした。お店の人形が動いて ぼくを 抱こうとしました」
 鍋にクリームと牛乳を加えながら、マリアは少し首を傾げた。和ちゃんが語る物語のリアルさ。幼児が頭の中で空想したにしては妙に生々しいではないか。
 いつしか、マリアの背後で、和ちゃんの声が途絶えた。マリアはぞくりと恐怖の混じった不安を感じて振り返った。
 しかし、マリアは一転して微笑んだ。マリアは和ちゃんを子犬のようと感じたことがある。むろん、愛らしいという意味である。遊び疲れた子犬がつい先ほど遊んでいたポーズのまま寝息を立てているように、和ちゃんの気配が薄れたと思ったら、絵本を抱えた姿勢のままで寝息を立てている。不自然な姿勢でうたた寝をさせて置くわけにも行かず、鍋でジャガイモを煮込む合間に、和ちゃんを揺り動かした。
「和ちゃん、和ちゃん、起きなさい」
 和ちゃんは指で軽く目を擦って目覚めたこの世界が現実かどうか窺うように周囲を見回した。この時、現実を象徴するようにノックとおじいちゃんの声が響いた。
「かずひさ」
 食事ができたので、孫を呼びに来たのである。和ちゃんはマリアの手からおじいちゃんに引き渡されながら誰に尋ねるともなく疑問を口にした。
「ボクのお母ちゃん、ボクを迎えに来ること、あるの?」
 まったく感情の籠もらない表情と声音は、死者が和ちゃんを連れに来るような状況を連想させる。マリアとおじいちゃんは、ぎょっとして顔を見合わせた。
 お祖父ちゃんが孫を連れて去り、一人で部屋に取り残されたマリアの目に、和ちゃんが広げていたページが映った。子供や夫、愛する者と別れなくてはならない葛の葉が悲痛な思いで歌を書き綴る挿絵があった。何やら語りかけてくるように惹きつけられる絵である。マリアは和ちゃんが語った言葉をぼんやり繰り返して呟いた。
「恋しくば たずね来てみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」
 マリアははっと我に返った。葛の葉の後ろ姿に、涙を流す悲痛な表情が明瞭なイメージとして伝わってきて心を射たのである。
 しかし、同時に、焦げ臭い。マリアは悲鳴を上げた。
「きゃっ、クリームが、」
 鍋で煮ていたクリームが焦げて、煙を上げている。和ちゃんの周囲では、そんな日が続いていた。
 

侵入 1

 日常にさしたる変化がないというのは、合理的な近代化がもたらした悪習の一つかもしれない。そんな平凡な日、変化のない時間が過ぎている。
 和ちゃんは、傾いた太陽を横目でちらりと眺めた。昼間の輝きを失って、その明瞭な輪郭から発する、オレンジ色の光で空を染めていた。日が傾きかけて、すべてのものに陰が長くなりかけている。和ちゃんはその意味を知っている。ただ、それは全ての子どもに公平ではない。
「健二ちゃん、帰るわよ」と、呼びかける声が公園に響いた。
 スーパーの買い物帰りに公園に立ち寄った母親が、息子に呼びかける声である。笑顔で振り返った子が健二ちゃんだと推測できる。男の子は素直に遊びの輪を離れ母親の元に駆け寄った。
「今晩はなに?」
 夕食のメニューの話題である。
「よぉしっ、健二の好きなカレーにしよぉか」
「カレー、カレー」
 好物の名前を聞いて嬉しそうに飛び跳ねる子を、和ちゃんはぼんやりと焦点の合わない視線を向けた。和ちゃんの目に映るものは、飛び跳ねる子供の姿ではない、想像をかき立てられて、男の子がテーブルで母親によそってもらった温かい夕食を、母と並んで食べる光景である。
「あらっ、もうこんな時間?」
 幼児を抱いておしゃべりに興じていた母親たちが時間を取り戻した瞬間である。
 母親に手を引かれる子、
 母親の周りを駆け回りながら笑顔で空腹を訴える子、
 母親の自転車に駆け寄って、早く帰ろうとせがむ子。
 和ちゃんはそんな光景を無表情で眺めていた。自分の心を表現する言葉が無い。悲しいのかと問われたら首を傾げるしかない。寂しいのかと問われたら首を横に振るしか無い。嫉妬という言葉は知らず、妬ましいわけでもない。全ての感情が一切抜け気ってしまって、ただの人形に成り果てたような感覚である。和ちゃんはつまらなそうに、皆に背を向けて、ブランコに座った。影が長く伸びて、公園を囲む街路樹の根元に届いた。ブランコの鎖がきいきいときしむ音がした。独りぼっちの心に刺さるように響く音である。
 地面に伸びる自らの影は長く、秋の日暮れの柔らかな日差しを表すように影の縁がぼんやり儚い。眼を転じると、薄桃色の空に、柿色の輪郭がはっきり確認できる夕日が浮かんで見えた。季節の変わり目と共に、陽が落ちるのが早くなったと言うことを、この幼児はなんとなく自覚していた。
(あそこの屋根まで、お日様が落ちてきたら)
 和ちゃんは帰宅の刻限をそう決めた。精神的に大人びた子供で、周囲の大人に気遣う所がある。暗くなる前に家に帰らないと、おじいちゃんが心配するだろうと考えたのである。
 和ちゃんは、驚いたようにきょろきょろと周囲を窺った。
 歩道を通る自転車が、前方を歩く歩行者に発したベルの音に、閉じこもっていた心の殻の一部を突き破られたのである。車道を行き交う車のエンジン音、店頭で客を呼び込む売り子の声、学校帰りの女子学生たちの笑い声を交えた会話、人の存在を象徴する無数の音が溢れていて、公園の周囲は変わらず賑やかだが、帰宅を急ぐ人々の足は公園の周囲を巡って、この空間に踏み込む人が居ない。
 和ちゃんは3つ並んだブランコの右端に腰掛けた。ブランコの向きがちょうど良い。正面に公園の南に接する道路が位置し、帰宅するマリアをいち早く見つけることが出来るのである。そして、和ちゃんの心に忍び込む誰かも、和ちゃんがここで母親を待っていることを知っていた。
 既に、夕日の縁が刻限の屋根のラインに接していた。マリアがいつもの道を通って帰るとすれば、とっくに見つけているはずの時間である。帰宅が遅れているのか、別の道を通って帰ったのか、疑問が不安を伴ってふくれあがった。母親を見失った迷子の心理に近い。
 帰宅しようとする決心がつかないまま、和ちゃんは足下から伸びる影に目を移した。生命観のないブランコと重なる自分の影。その影に覆い被さるように重なる影がある。和ちゃんはマリアの帰宅を期待するように、人の気配に神経をとぎすませていたはずだった。それは人の影だが、和ちゃんはつい今しがたまで、その人物の存在に気付かなかった。
「か、ず、ちゃ、ん」
 背後から自分を呼ぶ女の声に、和ちゃんは垂れていた頭を僅かに上げた。今、この公園に、和ちゃんの名を呼ぶ女性が居るはずがないことは、子供心にもよく知っている。
 では、この親しげな声は? 和ちゃんの妄想ではない証拠に声が続いた。
「か・ず・ちゃ・ん、か・ず・ちゃ・ん」
 振り返った和ちゃんの目の前に、見たことも無い女がいる。冷たく傾きかけた夕日が逆光になっていて顔立ちは判然としない。和ちゃんは首をかしげた。
 しかし、和ちゃんは知らない女の人という意識を振り払った、べっとり粘る妙な暖かさを伴った懐かしさがある。
「かずちゃん」
 女は、今度はもっとはっきりと、和ちゃんの名を口にした。
「あっ、お母ちゃん?」
 和ちゃんは疑問形で発した言葉を、すぐに確信のこもった言葉に変えて、女が差し伸べた手の指を大切そうに握った。
「お母ちゃん、ボクのお母ちゃんやな」
 和ちゃんはどうして自分がそんなことを言っているのか分からない。続いて溢れだしてきた涙の意味も分からず、目の前に膝をかがめた女性の胸に顔を埋めた。
 心の底に溜め込んだ寂しさを吐き出し、泣きじゃくりながらも、安堵感の中の涙は心地がよい。和ちゃんはその安堵感に引きづり込まれるように、生まれて初めて存在感を込めて、その言葉を吐き出した。
「お母ちゃん、お母ちゃん」
 和ちゃんの言葉に応える女の言葉は、未だに和ちゃんを探るようで、感情が籠もっていない。
「あらっ、どうしたの?」
 女は自分の胸に顔を埋めていた和ちゃんをやや離して、和ちゃんの髪をかき上げるように頭をなでた。和ちゃんはしゃくりをあげながら、ようやく整理した涙の理由を説明した。
「今まで、お母ちゃんが、おれへんような気がしててん」
 女は和ちゃんを撫で回すように抱いた。両腕や胸元など和ちゃんと接する部分すべてを使って和ちゃんを味わいつくすかのようである。戸惑いを隠しきれなかった和ちゃんは突然に力をこめて女を抱きしめた。幼い両腕に意外に力がこもっていることに驚いた。
 和ちゃんは繰り返し、女は答えた。
「あのね、ぼく、お母ちゃんが、おれへんような気がしててん」
「いいえ、ずっと居るわよ。昔からずっと」
「お母ちゃん」
「さあ、お家に帰りましょうか」
「うんっ」
 笑顔を取り戻した和ちゃんは、遠慮がちに女に寄り添って並んで歩いた。手を繋ぐにも遠慮がある。まだ、どちらも母と子の繋がりには慣れてはいないのである。陽は更に傾いていて、二人の陰が地面の凹凸に沿って伸びているのだが、一方の女の陰は淡く揺らめくように儚い。
 


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