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終章

終章 1

 和ちゃんはすやすやと眠っていた子犬の目覚めのように、無邪気に大きな口を開けてあくびをした。ちょっと背を丸めた格好で畳の上で寝っ転がっていて、傍らにアダムから借りた子どもの遊び歌の本がある。和ちゃんはしばらくその本を眺めていて、自分がこの本に飽きて眠り込んだと決めた。挿絵や写真に気を引かれて借りたが、内容はさすがに難しすぎたようで、和ちゃんは本に興味を失ってしまっていた。本を抱きしめて立ち上がったのは、本をアダムら返しに行くつもりだからである。
 和ちゃんが階段の所にさしかかると、チェルニーの姿が見えた。
「えっ? 変なこと言わないでよ」
 チェルニーは受話器を持ってそう言った。受話器の向こうで母親が変なことを言う。冗談で言っているのかと考えたのだがどうやら本気らしい。和ちゃんの母親が本当に生きているのかと尋ねてきたのである。チェルニーがこのアパートに来たときから和ちゃんは母親を失っている。何を馬鹿なことを言うのだろう。そして、彼女の母は娘がそんなことを言ったかのように言う。彼女の母親は今年で55になったばかりで、まだボケるには早すぎるはずだ。
 チェルニーは傍らを通りかかったヘレンに首を傾げて見せた。
「母親って、心配性ね」
 ヘレンはそう言うことには興味がない。彼女がベッドで目が覚めると、脛と腰にコンバットナイフを身につけた戦闘状態で、弓は組み立てた状態で彼女と添い寝をしているように転がっていた。本来は腰から右の股に下げるべきクイーバーは何やら細工が施してあって、背中に背負えるようになっている。
「ロビンフッドじゃあるまいし」
 ただ、矢はどこかに紛失してしまったようで、その矢を探してアパートの中を彷徨っているのである。記憶を無くすほど泥酔することがある。ただ、昨夜の記憶を辿ってみても、酒を飲んだかどうか思い起こせない。失った矢の代償に、温かな記憶の残滓がわだかまっているような気がして不満ではない。
 アパートのドアを開けて帰ってきた者がある。ヘレンは帰宅したヨゼフに尋ねた。
「まさか、あんたが狩りに使ったんじゃないでしょうね?」
 この日本で古い部族の習慣に目覚めて、ヘレンの矢で狩りをしたのかと問うている。むろん冗談だが、その意図が分からずヨゼフは首を傾げた。ここの所、ヨゼフの母親に対する不満は、母親が息子の話を信じないことである。しかし、ふと思いついた。鉄道マニアの彼が、駅のホームで自身を撮影したデジタルカメラの画像があり、彼の姿の背後に駅の時刻表が写り込んでいる。この時刻表の運行スケジュールを見れば疑り深い母親も、息子が語る「列車が発車して左の方向に見えなくなる前に、もう右の方から次の列車が走ってくる。」という状況を納得するだろう。そう思い、画像データーをアダムに頼んで印刷してもらったのである。ヨゼフはその印刷した画像を郵便で送るという配慮をした。画像を受け取った母親は息子の言葉に納得すると共に、息子の姿を見て安堵するに違いない。長らく顔を合わせることが出来ない母親を安堵させることが出来る。そのことが多少の親孝行をしたようで心地よい。
 大人たちは和ちゃんには無関心で、自分たちの会話に没頭している。和ちゃんもまた、彼らを眺めたのみで階段を登った。
 和ちゃんがアダムの部屋を前にして立ち止まったのは、半ば開いたドアから、ぼそぼそと呟くようなアダムの声が聞こえたせいである。誰か来客でもあったのかと首を傾げる和ちゃんに途切れながら聞こえた。
(お母さん、今、僕は、この東洋の外れで、母と子の関係について、考えています。時代や、地域や、民族や、宗教や、思想信条、そんなものに左右されない普遍的な愛情。もしも、僕が……)
 以前、アダムが妹を通じて母に宛てたメールの原稿である。アダムは頭に浮かぶそんな言葉をディスプレイ上の文字で辿りながらやや戸惑ったが、その後、迷いもなくマウスを操作して全文を指定して削除した。アダムは小さなノックに気付いて振り返り、和ちゃんの存在に気付いた。和ちゃんが笑顔で抱える本で、和ちゃんの用件を察した。
 アダムは手招きで和ちゃんを迎え入れ、二人でディスプレイを見つめた。アダムはメールのメッセージ欄に新たなメッセージを入力し直した。むろん、彼の母国語で和ちゃんは読むことが出来ない。和ちゃんのためにアダムは日本語に直して読み上げた。
「ぼくは日本でそちらと変わらず快適に過ごしてます。ただ、夏の暑さはちょっとこたえるけどね。何故か、この国で故郷のこと、家族のこと、両親のことを思い出します。お母さんとお父さんに伝えて。あなたの息子は変わらずあなた方を愛していると」
 和ちゃんの笑顔を見ていると、綴るべき文章はこれだけで良いように思われた。むろんメールには産女のことには触れられて居らず、アダムの記憶から産女は綺麗に失われている。しかし、自分が世界の東の果てで何か母性というものに触れた気がし、その本質が文面を変えさせた。複雑な言葉は要るまい。愛していると言うことだけ伝われば充分だと考えるのである。
 和ちゃんはアダムの所で用件を終えて部屋を出た。廊下でぼやいている人物が居る。
「しまった。どこかで」
 たしか、ペットボトルに富士山の湧き水を汲んだはずだが見あたらない。せっかくの土産をどこかに置き忘れてきたのかも知れない。思いもかけず旅の疲れが出たのか、ジェスールは先ほどまで部屋でぐっすり眠り込んでいて、目覚めたばかりである。広げてしまった荷物をさっさと片付けねばならない。廊下の西の窓辺から入ってくる陽の光が赤みを増している。
「まぁいいか」
 傍らを通りかかった和ちゃんを見て、何故かそう納得した。富士の湧き水の代償に得たものがあるような気がする。この満足感は価値のあるもののような気がするのだが、その正体は知れない。
 和ちゃんは壁掛けの時計で公園に行く時間を察知して、階段を下って玄関をくぐった。

  陽は西のビルディングの屋上にかかっていて、ブランコ、滑り台、鉄棒、この公園にある物の全ての影が長い。周りの子供たちは母親に連れられて一人また一人と帰宅して、公園からせわしく動く影が途絶え、聞こえる物も遠くに聞こえる電車や車の喧噪だけである。幼児が一人取り残されてブランコで揺れていた。
 和ちゃんだけがぽつんとブランコで揺れていた。
 既に秋の気配が満ちていて日暮れが早い。和ちゃんは公園の外に待ちきれぬものを求めるように見つめて、一つの決心をした。じっくりと周囲を窺いつつ、いつもと反対側の出入り口から公園を出た。注意深く周囲を窺いながらも不安そうに足を進め、やがて行く手を阻まれるように足を止めた。和ちゃんの前に視界が広がった。川岸に公園を抱えた大川の流れである。ここまで一人で遠出をしたのは初めてだった。ゆったり波立って流れる河面に係留された川船や、長いオールを突きだしたカヌーが目を引いた。
 その流れを目で辿ってみると、和ちゃんの幼い目には、流れが途絶えることなく、流れに乗れば何処までも旅が出来そうに思える。もちろん、夢見る行く先は今はこの世にいない母親の居場所である。和ちゃんの視線や心はこの世界を離れるように静止した。
「和ちゃん」
 優しく呼びかける声がして、和ちゃんの背後に伸びる女の腕がある。和ちゃんの心をこの世界に留めた暖かさがした。和ちゃんは振り返って笑顔を浮かべた。期待通りであり、ちょっと期待を裏切られたような寂しさも滲んでいた。マリアは振り返った和ちゃんを確認して悟った。いつもより帰りが遅くなった自分をここまで迎えに来たのだろう。
 マリアは遅くなったことを説明するように和ちゃんに語りかけた。
「ちょっと不思議。気がついたら、会社で仕事が終わったところだったの」
 マリアは和ちゃんの笑顔でそんな言い訳が必要ないことを知った。ちょっと大人びた笑顔。この子はいつもより行動半径を広げ、いつもよりちょっと冒険をし、新しい世界を知ったらしい。ちょっと自信が付いた表情が微笑ましい。マリアがふと気付いたのは、そんな姿に癒される自分に気付いたことである。
(私も、いつかママになるのかしら)
 彼女は期待を込めてそう思いつつ、自転車の荷台を和ちゃんの傍らに進めて言った。
「乗って。しっかり掴まってなさい。手を放さないで、」
 マリアはペダルに駆けた足に力を込め、和ちゃんはマリアの腰に回した腕に力を込めて抱きついた。その姿は仲の良い親子に見える。
 和ちゃんがふと背後の夕日を振り返った、何かおぼろげな記憶が思い起こされて、和ちゃんの目にうっすらと涙が滲んでいた。その口元の笑みは和ちゃんの涙の理由が寂しさではなくて、しっかりとした芯のある暖かさを感じているからである。

                                   了