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異境

異境 1

 ヘレンは慎重に振り返って背後の安全を確認していた。鏡台の鏡と向きあうように椅子の背もたれに固定してある手鏡が見える。この出入り口が勝手に閉じることは無いだろう。
「風が」
 マリアはそう言ったが、感じるものは空気の流れとしての風ではない。さほど密ではない木立の中を、何やら寂しげな感情が吹き抜けてくるのだが、今のところ、マリア以外に気付く者がいない。木立とはいえ、ある程度の見晴らしも利き、その木立もすぐに抜けてしまった。目をこらして空と地の境目を辿っていくと、低い山並で周囲から隔離された盆地のように見える。珍しい景色ではない。彼らが住む大阪でも、見晴らしが利く場所で周囲を見回せば、海側を除く周囲に空と地を隔てる山の稜線が見え、その稜線から手前に人々の存在を象徴する田畑や家々が並ぶ。そんな景色は、小鳥のさえずりや風に弄ばれる葉が触れあう音を伴っている。
 この世界に入り込んだ彼女たちが抱く違和感は、そんな現実との違いである。人の気配を感じる人工物が無く、獣の気配や、小鳥のさえずりはもちろん、虫の声すら聞こえない。
 その孤独な風景に反して、この景色は彼女たちの感情に共鳴するものがあり、人々を優しく包み込む自然の原風景となっている。
 そして、彼女たちが目に見える光景の違和感と同時に、一種の心地よさを感じているのは、何かの脈動を全身で味わっているからである。耳に聞こえる音ではない。耳を澄ますように、精神を良く澄ませてみると、周期的に脈打つような音で、祭りや神楽舞の太鼓のようにも聞こえるが、それは彼女たちの鼓動と共鳴する。耳を澄ませ心を澄ませ、失いかけた細い記憶を辿れば、彼女たちが胎児の時に聞いた母親の鼓動に近い。
「さて、360度、どちらを見渡しても目標、見えないね」
 ヨゼフはしゃがみこんで視線を地面に近づけた。うっすらと苔が生えた地面の一部に土が露出している。そこに生き物が苔を踏みしだいた形跡から女の足跡を探ったのである
「やっぱり、」
と、ヘレンは独りごちた。この得体の知れない世界について、何か分かったことでもあるのかと期待を込めて、仲間は一斉にヘレンを注視した。
「ロビンフッドって矢の入ったクイーバーを背中にしょってるじゃない?」
「それが?」
「ネイテイブアメリカンも、日本の侍も、シューターは共通して矢を背負ってるの」
「だから、それがどうした?」
「アーチェリーは矢を腰から下げてるのに、どうしてロビンフッドは矢を背負うのかなって」
「それで?」
「腰から太ももに下げるのって競技では弓を操作するのに集中できるのよ。でも、ロビンフッドのように背負った方が実戦的」
 ヘレンが気付いたものはこの世界の情報ではないらしい。ヘレンはクイーバーに手を加えて背に背負った。
 ジェスールはザックの側面に吊した磁石で、慣れた手つきで方向を確認する仕草をした。そして、首を傾げてその磁石をこんこんと指ではじいた。使い慣れて信頼しきった磁石で、針は軽やかに動いているが、その示す先が定まらない。周囲を見回したが、針を乱すような地質ではなく、無論、磁石が意味を成さない極地点でもない。
 右手に背丈が際立って高い林が見え、彼らはその林を抜け、林を背にして歩いていたはずだ、ふと気づいてみると背にしていた林が右手前方に見えるのである。方位が意味を成さない世界である。
 方位が測れず、距離が測れず、時間も地形も当てにはならない。チェルニーは不安そうに尋ねた。
「ねぇ、帰り道は? まさか、帰り道が分からないなんて」
「心配は無さそうだ」
 ジェスールが振り返って指差すものは道と呼べるものではない。悲しげな感情が籠もる湿原の景色には、心を無造作突き刺し引き裂くように、彼らの足で苔が踏みしだかれて地面が露出した箇所が繋がっているかのよう。
 ほのぼのした雰囲気の草原では、密に生えた草の穂が、彼らに掻き分けられた痕が続き、踏みしだかれて地面が露出した部分辿ると筋が見える。
 荒々しい不安が乱れ流れる岩場には、心を乱されて彷徨って踏みしだいた石が細かく砕け、それらが流れる不安に風化して川の流れように見える箇所がある。
 振り返って眺めると、そう言う形跡が分岐もせずに、彼らが入ってきた入り口まで1本に繋がっているようである。
 突然に、先頭を行くマリアが立ち止まって、道を譲るように進路から身を避けて、ぽつりと言った。
「べとべとさん、べとべとさん、お先にお越し」
 ヘレンがその聞き慣れない言葉に首を傾げて尋ねた。
「なあに、その呪文は?」
「日本には、人の後をつけてくる妖怪がいるの。べとべとさんっていうのよ。出会ったときは、道を譲ってあげるの」
 何かの気配を察したというマリアの言葉に仲間は一斉にぎょっと身構えた。
「何か危険は?」
 ヘレンの問いにマリアはこともなげに答えた。
「何もしないわ。つけてくる気配や足音だけ」
 ヘレンは背後に何かの気配を感じたような気がして振り返ったが、もちろん何の姿もない。しかし、マリアに指摘されてみると、この世界に侵入したときの無機質な感覚に、何かの意図を感じさせる気配が風に乗ってやって来ていた。仲間の体にかき乱されながら淀むように周囲にまとわりつく悲しさや期待がまじった感覚があり、背にぞくりと恐怖を走らせた。
「きゃぁーーーーー」
 突然の悲鳴に似た大声に仲間は一斉に、声を発したチェルニーを注視した。
「どうした、チェルニー」
「どうもしないわ。ただ声を上げただけ」
 大声を上げたことで、チェルニーは恐怖を振り払ったらしく、けろりとしていた。
「迷惑な女ね」
 眉をひそめたヘレンを無視してチェルニーが尋ねた。
「いつまで、ここに居なきゃならないのよ」
 アダムが時計を確認すると、彼らがこの世界に入り込んだのは夕刻を迎える時間帯だったはずで、時計の針は午後3時前だが、陽が沈むことなく中天にあるかのように明るい。しかし、全天に渡って晴れ上がって、隠れるところのないはずの太陽は見えない。
 ジェスールはトレッキングをする者の習性として、自分の影で時間と方位を推し量って歩いているのだが、ジェスールの記憶では影の長さは変わらないのは、この世界で時間が経過していない証拠である。しかし、そもそも太陽が無く、全天の光に照らされているのに、どうして地面にくっきりと影が生じているのだろう。方向も時間にも意味が無い世界らしい。
「時間は無意味だ」
 ジェスールはそう言った。
「そぉ、いつまで居るのかと言えば、和ちゃんを取り戻して、アパートの結界を解く方法を知るまで」
 そうヘレンが言葉を続け、チェルニーが草を掻き分けて歩きながらぼやいた。
「そんなぁ」
 このとき、まるで耳元でささやくように、大勢の子供の声が響いた。
(かぁごめ、かごめ)
 仲間たちは一斉に体に異変を感じた。
「ああっ」
 チェルニーのそんな驚きの声も、全身から力が抜けきって口をついて出ない。チェルニーは地面にしゃがみ込んでしまっただけである。チェルニーの行動に、先ほどの人騒がせな悲鳴を重ね合わせた仲間たちは、非難の視線を送る間もなく、彼らもまた立っている力を失ってしゃがみ込んでいた。体調管理に自信のあるヘレンは、自分の身に起きたことが理解できないように足の筋肉を撫でている。
「これは?」
 初めての体験にそう呟くヘレンに、同じように膝を抱えてしゃがみ込んだマリアが力なく言った。
「餓鬼憑き。行き倒れになった旅人や、餓死者の怨霊に取り憑かれたのかも」
 以前、読んだ妖怪にまつわる書籍に、そんな妖怪が旅人に祟りをなすことがあると記載されていた。突然にしゃがみ込んでしまうほど、全身の力が抜けるという経験は初めてだが、何故かその名を思い出したのである。
 ジェスールはこの種の経験をトレッキングの中で経験していた。長期の山歩きで体力を失うと食欲も失せる。朝食を取らないまま山を彷徨していると、突然にこの種の現象に襲われることがある。ただ、数人に時を同じくして生じる現象ではない。
「怨霊ですって? 馬鹿を言わないでよ」
 チェルニーは餓鬼憑きをそう否定した。運動生理学か何かの書籍で、この種の反応性低血糖と呼ばれる症例を読んだことがある。
「何か食うものはないか」と、ジェスールは体験に基づいていった。
「何か食べればいいのよ」と、チェルニーは医学的見地を語った。
「とりあえず、食事にしましょう」
 マリアはバスケットを開けた。日本の民話では、餓鬼に取り憑かれた場合は、何かを食べればいいのである。マリアは仲間のためにおにぎりを作ってきている。それを分配した後、時間を感じさせないこと世界だが、自分たちが空腹を感じる程度の時間が経過していたことを実感した。
「ありがとう」
 ジェスールはそう言っておにぎりを受け取ったが、大きさが彼の体格と比べていかにも小さい。しかし、そんな苦情ではなく、マリアがおにぎりを取り出した藤のバスケットを見て思いついたことがある。彼はザックから水の入ったペットボトルを取り出した。ヘレンに飲まれて、こぼされて、残りは三分の一ばかりに減っている。ジェスールはペットボトルをマリアの手提げのバスケットに押し込んで言った。
「預かっておいてくれ」
 化け物との戦いが予想される。正面を切って戦うとすれば、自分とヘレンとヨゼフになるだろう。戦いの最中にペットボトルの水を使う余裕はあるまい。誰かに託して使わせるとしたら、のほほんとして恐れを知らないマリアに任せるべきだと結論づけたのである。
「いいわよ」
 マリアは荷物を受け入れて手提げのバスケットにしまい込んだ。ずっと感じ続けている気配や、突然の餓鬼憑きなど、何か意志のあるものが存在するようだが、感じる恐怖をのぞけば、彼女たちの身に危害は加えられていない。

「誰か、子供の声を聞かなかった?」
 チェルニーは仲間にそう尋ねたが、肯く者はない。やはり自分の空耳かと思いこんで、おにぎりを頬張った。しかし、あの子供の声がきっかけでここにとどまっているような気がし、何やら、子供たちが自分たちの行く手を遮っているような推察に致るのである。
 おにぎりをかじりかけたヘレンが不満げにマリアに尋ねた。
「何、コレ?」
「ヘレン向け特製おにぎり」
 おにぎりという日本のファーストフードはヘレンも知っているし、エネルギー補給の食品として便利だと評価してもいる。しかし、ヘレンが尋ねたのは、齧ったときに中から出てきたペーストである。
「中に入っているのは、何よ?」
 ヘレンが手渡されたおにぎりは、表面の塩の味わいは確かにおにぎりだが、かじってみるとねっとりと濃厚な甘いペーストが出てくるのである。それが塩味の付いたご飯と違和感がある。
「あらっ、アメリカ人なら、ピーナッツバターでしょ?」
 マリアは当然のように断言した。アメリカ人はピーナッツバターを好んで食すという偏見を持っているのである。マリアという女性は悪気はないのだろうが、どうも独自の信念があって、それを押しつける。思わず笑いが広がった仲間の中で、チェルニーが唇に人差し指を当てて静かにしろと指示をした。
「静かに、何か聞こえるわ」
 チェルニーが立ち上がって耳を澄ました。確かに、木立を駆け抜ける風の音に混じって何かのメロディが聞こえるのである。
「子供が歌ってるようだね」
 風の中から音を選別してみると確かに、子供の声がメロディを奏でているが、その歌詞とメロディは  聞き取りずらい。アダムが注意深く言った。
「子供の声がするなら、和ちゃんもいるかも知れない」
「慎重に進みましょう。私たちをおびき寄せるトラップかも知れない」
 ヘレンの言葉にチェルニーが応じた。
「注意してね」
 そんなチェルニーとヘレンの言葉に、応じるマリアの口の中には食べかけのおにぎりがあって、言葉を発することが出来ない。マリアは二人の意見に首を振って否定し、咀嚼したものを水筒の水でのどの奥に流し込んだ。
「行く必要ないわよ」
「どうして?」
「だって、向こうから近づいてきてるもの」
 耳をすませると、確かにマリアの言うとおりである、僅かながら聞こえるメロディが大きくなってきているようだ。
「ややこしい世界ね。音がどちらから聞こえてるのか分からない」
「素直に耳を傾ければいいの。どちらか分からないんじゃないの」
「えっ」
「どっちかじゃなくて、」
 全周に耳を傾けたマリアの言葉の深刻さに、ヘレンが叫ぶように言った。
「それじゃ、すでに敵の包囲攻撃を受ける危険があるってことよ」
「かーごめ かごめ」
 マリアが流れくる歌詞をメロディに乗せて呟いたので、仲間は驚いて立ち止まり彼女を注視した。
「どういう意味?」
 尋ねるチェルニーにマリアが答えた。
「どぉって、子どもたちの声は”囲んだぞ”って歌ってるのよ」
「アパートで携帯電話に聞こえた歌だね。がごめかごめの遊び歌か」
 アダムが情報をそう補足した。
 「ちょっと、どこに行くつもり?」
 ヘレンは声の方向に歩こうとしているマリアの首根っこを捕まえて引き戻した。
「だって、子供の声よ」
「油断させるためにトラップでよく使う手よ」
とヘレンは言い、アダムに説明の続きを求めた。
「続けて、今は何でもいいから情報が欲しいわ」
 状況は何やら変わり始めているようだ。僅かに風に乗ってきたメロディが、ややはっきりと聞こえるようになっているばかりではない。周囲を探って耳を澄ましてみれば、ヘレンたちの周囲、大人の背丈ほどの草の茂みのあちらこちらから、ぴっんと飛び跳ねるように子供たちの顔が見え隠れしている。見え隠れする子供たちの頭を辿ってったチェルニーが言った。
「確かに、私たち、子供たちに囲まれてるんじゃないかしら」
 全周から聞こえる歌声は、歌う子どもたちの姿が草木に隠れて見えないのか、幽霊のように実態を持たないものなのか判然とせず、不可思議な不気味さを伴う。
「かーごめ かごめ かごのなかの とりぃは いついつ でやぁる よあけのばんに」
 単調なメロディにのなかに、男の子や女の子、幼児から少年少女といっても良い年齢層、無数の子供たちの存在を聞き分けることができる。間をおいて、遊び歌の主が姿を見せた。 ヘレンたちの腹か胸の高さの背丈の草が密に生い茂る草原で、その草原に背丈が隠れてしまう子供たちである。時々、こちらを覗うように飛び跳ねて草の穂から見え隠れする顔の位置で確認すれば、数十人の子供たちの輪は縮まって、今はヘレンたちから半径20メートルほどの距離を置いて、彼女たちを囲んでいるらしい。
「みんな子供だ。脅かしちゃいけない」
 ジェスールは仲間を制して、子供たちに語りかけた。
「君たち、どこから来たの? お兄さんたちと、お話をしないか?」
 子供たちの歌声が一斉にやんだ。その静けさが不安感を煽る。
「何か相談をしているのかしら」
 その時に、かさっ、と、草をかき分ける音がし、一人の少年がチェルニーの目の前に姿を現した。歳は十歳ほど。深刻なほど思い詰めた瞳で、チェルニーを見上げていた。更に、物音がして、和ちゃんほどの年齢の女の子が姿を見せてヨゼフに向きあった。茂みをかき分ける音は続き、数十名ほどの子供たちが、仲間の元に姿を現した。
「やはり、トラップだわ」
 ヘレンが叫んだ。一人の子供が背に隠していた棒を取り出して、鋭く振り上げてアダムを襲った。子供たちは彼らを油断させて接近し、いきなり棒を持って彼らを攻撃して来たのである。こどもたちはどこからともなくわらわらと沸いて出てくる。しかし、非力な子供たちのこと、殴るというより、叩くという表現が似つかわしい。
「相手は子供よ、傷つけないようにね。ぎゃっ」
 ヘレンが苦痛で顔をしかめた表情を怒りに変えて、背後を振り返った。一人の女の子が竹の棒で彼女の尻を横に打ち据えたのである。非力な子供とはいえ、力一杯打たれれば痛い。ヘレンは痛みの腹立たしさに、有効な反撃の出来ない腹立たしさを加えて、少女を睨んだ。
(ひっ)
 少女は小さく悲鳴を上げ、驚いたように凍り付いた後、大きく開いた目に溢れそうに涙を浮かべた。そんな表情をされると、ヘレンがこの子を虐めていたような状況になる。ヘレンたちは、子供たちが振り回す棒を避け、奪った棒で子供たちを突いて遠ざけるように反撃するのだが、非力な子供たちにこんな仕打ちをして良いのかと罪悪感に襲われた。
 子供たちの目は真剣で、涙目になりながら攻撃を加えてくるのである。子供たちを傷つけることは出来ずに防戦一方で、避けきれない一撃を受けて悲鳴を上げ続けながら、撤退を決意したとき、マリアの声が響いた。
 子供たちを見つけて、持っていたおにぎりをわけて一緒に食べようとしたのに、攻撃に転じた子供たちのせいで、手にしたおにぎりが地面に転がり踏みつけられてしまったのである。
「こらぁーーーー」
 腹の底から怒りを噴出したマリアの声が響いた。子供たちはいっせいに静止してマリアの方を伺った。
「食べ物を粗末にする子は、母さん、お尻をぶつわよ」
 母親の怒りに触れたような声に、今まで攻撃を諦めなかった子供たちが静止したまま、すまないことをしたと反省する様子を見せた。マリアは悪戯が過ぎた子供を叱りつける目で、じろりと子供たちを眺め回した。子供たちは互いの顔を見合わせ、マリアの顔を窺って、逃げるように姿を消した。仲間はぽつんと取り残された。
 防御に息を切らせていたヘレンは、腑に落ちないながらも、マリアに礼を言った
「ありがと。よく分からないけど、あなたのおかげらしいわね」
 そう言いながら、物陰に一人の男の子を見つけた。年齢は十歳に満たないぐらい。反抗期の生意気盛りと言ったところか。急な状況変化に一人だけ逃げ遅れてしまったのである。
 ヘレンはふと、マリアを真似てみることにした。彼女は両膝に手を当てて姿勢を低くして男の子と視線の高さを合わせて言った。
「イタズラばかりしてると、お仕置きするわよ」
 母親になったつもりで言った言葉に反応して、男の子は握った拳を解いた。なるほど、こうすればこの子供たちは攻撃の意志を失うのである。ヘレンはこの状況に念を押すようにジェスールを振り返った。その瞬間、ヘレンは苦痛に表情を歪めて脛を押さえてかがみ込んだ。ヘレンの油断を察知して、男の子はヘレンの脛を蹴り上げて逃げたのである。
 走り去った物音を追って視線をやった先に、男の子は既に姿を消していた。再び仲間を振り返ると、理解できないという様子でぽかんと口を開けた表情を並べていた。その視線はエレンを飛び越えて、男の子が姿を消した先を見つめている。先ほどは子供たちの攻撃を避ける混乱のさなかで、逃げ去る子供たちの姿をはっきり見ていなかった。しかし、身の回りの混乱が収まって、男の子がヘレンのすねを蹴り上げる様子や背を向けて逃げ出す様子が見えたのだが、その様子が異様だった。藪をかき分けて姿が見えなくなったわけではない。男の子の姿が透明になり周囲の景色に溶け込むように姿を消したのである。確認するように周囲を見回せば、先ほどの数十人の子供たちが藪をかき分けて逃げ去った跡はなく、仲間を攻撃するために振り回した棒が茂みの草の葉や茎をなぎ払った形跡もない。ただ、6人ばかりの大人が、子供の攻撃を避けて暴れ回って踏みしだいた地面の跡、そして、子供たちに打たれた傷の痛みが残っているだけである。
「実態のない精神のようなものか」
 アダムは彼らを襲った子供たちをそう評した。
「それって、幽霊ということじゃない?」
「死んだ子供たちの魂が、天国へ行けず、どこかに縛り付けられてるの?」
 チェルニーとマリアの問いに、アダムは首を傾げてみせただけである。

「あのクソガキ!」
 ヘレンが蹴飛ばされた脛を押さえてそう言ったのを、温厚なジェスールが制した。子供たちを指し示す言葉として、クソガキとはちょっと表現が過ぎるだろう。
「じっとしていられないね。先へ進もう」
 なぜか無傷のヨゼフがそう提案した。
「クォ・バディス」
 ヨゼフの言葉にアダムはそう呟いた。ポーランド人作家の著書の題名でもあり、ヨハネによる福音書の引用でもある。
(どこへ行くつもりか)と、アダムは仲間に問うているのである。 
 方向を定める地形がないまま、彼らは方向を見失っている。ジェスールの磁石などはとおに役に立っていない。マリアが何かに気付いたように目をつむったまま、同じ位置でぐるりと回った。スカートの裾がふんわり膨らむ勢いである。そして、一方を確信を持って指差した。
「あちらよ」
「どうして分かる? 目標は何も見えないぞ」
「風」
 マリアはそう言いながら、今度は、口ごもった。表現が適切ではないような気がする。空気の流れではない。が、空気が流れるように一方から、寂しさ、悲しさ、苦しさ、嫉妬に似た腹立たしさ、そんな苦痛の感情が入り交じり、強さを様々に変えて流れて来て、彼女たちに方向を与えているのである。目をつむって周囲を感じ取りながらぐるりと回ったチェルニーは、マリアに同意した。
「本当」
「確かにそうね」
 ヘレンも自ら試してみて頷きながら、意味もなくくるくると回る3人の男たちの様子に首を傾げた。
「貴方たち、何やってんの?」
「何も感じないよ」
「鈍い人たちね」
 女性たちが自信満々で言うので、男たちも彼女たちが指し示す風上に向かうことに同意した。目標物が見えない、かといって地平線もまた見えないまま、遠くの景色は霧がかかったようにぼやけている。へレンが仲間を見えない目標に先導するように前方を歩いている。確かに女たちの導く方向に歩くと道に出会った。一本道で男にはどちらに進んでいい物かわからない。しかし、女たちは迷うことなく右側へと歩き始めた。
「足下が見えないから気をつけて」
 ヘレンが注意したとおりである。何キロ、何時間、彼女たちが歩き続けてこのままずっと続くかとも思われた道が、既に絶えてしまった。ヘレンたちは再び腰の高さほどの草が生い茂る草原に踏み込んでいて足下がおぼつかない。しかし、流れてくる悲しさの感情は強まり続けており、進む方向に間違いは無さそうである。
 ヘレンは首を傾げて尻に手を当てた。幼女に打たれた最初の一撃の痛みが残っていた。痛みとともに記憶に刻まれたあの幼女の表情に憎しみはなかった。一途な思いのみ伝わってくるのだが、その意図は計り知れずヘレンの心をかき乱した。
「ちっ、」
 考えごとをしながら歩いていたヘレンは、突然の舌打ちと共に、その姿が草の穂の波に沈んで消えた。背後にいた仲間には、ヘレンが危険を感じて伏せたようにも見える。皆、慌ててしゃがみ込み、しゃがんだままヘレンに歩み寄った。ヘレンが地面に倒れ込むように伏していて、草をかき分けて地面を指差して見せている。
「きゃっ」
 そんな悲鳴でチェルニーが倒れ込んだため、仲間はその指差す物の意図を察した。トラップである。二株の草の穂先が結ばれていて、地面に草の輪が出来ている。先にヘレンがつま先を引っかけて倒れたのと同じ草の輪が、ここ彼処に散見された。もちろん人工的な工作物である。
「あの子たちのイタズラね」
「この程度で良かったね。オレなら、敵が引っかかって倒れたところを狙って2つめのトラップを仕掛けておくね」
 そんな言葉で、ジェスールが倒れた仲間を励ました。そのジェスールに、マリアが枝の上を指差した。
「例えば、あれ?」
 マリアが慌てて身を避けるのが見えた。今しがたアダムが足に引っかけたロープを辿ると頭上の籠からトゲの付いた栗の実がいくつも転がり落ちてきたのである。彼らは悲鳴を上げて逃げたが、全てを避けることは出来ない。
「あのクソガキどもにも、この程度の知恵があったってことだな」
 普段は温厚なジェスールが、栗のイガでこめかみ辺りに血を流してそう言った。むろん軽傷だが、イタズラを仕掛けた子供たちと、あっさりひっかかった自分に腹を立てている。ヨゼフが気付いて言った。
「でも、あの子たちの心理を読んでみると良いよ。守りたいものに侵入されたくないからトラップを仕掛けてるんだね」
「どういうこと?」
「1つ、間違いなくこの先に何かがある。2つ、子供たちが大事な物を守りたければ、この先にもトラップを仕掛けている」
「トラップがあることが分かってさえ居れば、避けるのは簡単よ」
「足下に注意しろよ」
 チェルニーは足を止めた。両端の灌木に道が狭められており、その狭い道幅に掘ったのか泥水の水溜まりがある。四角く掘り抜いた穴は自然現象ではなく人工物だと分かる。そして四方が数十センチという可愛らしさは、子供が一生懸命に作ったのだろうと思わせるのである。
「この水溜まりはトラップのつもりね。私たちを泥だらけにしようっていうのかしらね」
 彼女は笑って水溜まりを飛び越えて、悲鳴を上げた。
「どうした?」
「落とし穴に落ちただけよ」
 チェルニーは転んで付いた泥を払いながら、努めて平静を装ってそう言った。水溜まりを飛び越えるということを想定した上で、着地点に落とし穴が掘ってあったのである。
「気をつけろって言ったろ」
 アダムはそう言ったが、次の瞬間にしなやかな木の枝に腰を打たれて顔をしかめた。見れば、木の枝を撓らせて固定し、足下のロープに引っかかった瞬間に枝が元の元の位置に戻るという単純なトラップだった。
 イタズラに引っかかり続ける仲間も問題だが、子供たちのしつこさはどうだろう。彼らの真剣さと必死さが伝わってくるようだった。
「この先に進んではいけないということかしら、」
 マリアがぽつりとそう言った。仲間が被ったトラップの数々は、いかにも子供が仕掛けたイタズラレベルのもので、その結果には怒鳴りたくなるものの、仲間の命には別状はない。このイタズラに、お尻を叩く程度のお仕置きはしてやるにしても、子供たちに本気で腹を立てるのは大人げない。
 しかし、草の輪のトラップの草は未だ生き生きとした緑だった。もし、この世界に仲間たちの世界の常識を当てはめれば、以前からそう言う具合に設置してあったトラップなら、とっくに草は枯れ果ててしまっているだろう。仲間たちが遭遇するとラップの数々は、あの子供たちが、彼らの行く手を阻もうとして、必死に設置しているようにも見える。その必死さが、何か不憫にも感じられるのである。
 ヘレンはふと気付いた。この世界に来てから、彼女たちは子供たちのトラップにひっかり続け、服は落とし穴の泥で汚れ、頭上から落ちてくる落下物に悲鳴を上げている。なのに、マリアとヨゼフ、あの二人ののほほんとした姿はどうだろう。マリアがトラップを避けているのは、彼女の悪運の強さにみえる。しかし、ヨゼフは理論立てて説明することは出来ないようだが、周囲の気配に注意深く、危険を避けているようだ。それは、野生の勘と呼んでも良い。
「前方偵察!」と、ヘレンはヨゼフに命じた。
 ヨゼフは笑った。ヘレンはようやく自分の特徴に気付いたらしい。ヘレンというのは主力部隊であって偵察には不向きに違いない。そのヨゼフも子供達について考えている。
 証拠を挙げろと言われれば根拠がない。しかし、子供たちが襲ってきたときに、マリアと自分だけが攻撃の対象にならなかったのは何故だろう。マリアと自分には共通点がある。あの化け物を敵と感じて行動する仲間の中で、女に害意を感じずにいるということだ。
「ちょっと待ってるね」
 ヨゼフはそう言い置いて軽々と身を翻して駆けだした。が、少し進んで振り返って地面を差し、
「そこ、落とし穴がある」
と、仲間に注意を促した。野生の勘は効を奏して、仲間は無事に前進した。
「おぉーーーい」
 ヨゼフが長い腕を振って手招きをして仲間を呼び寄せた。
 仲間の目前に湖が広がっている。
 背丈ほどの草が生い茂る視界の利かない草むらを抜けると、突然に出現したという景色である。湖面は凍りついたように澄み渡っており、時折、そよ風が作りだす細波が無ければ、空を映す鏡にみえる。ヨゼフはすでに水辺に屈みこんで手の平に一すくいの水をとり安全性を確認するように匂いを嗅ぎ、口に含んだ。よく澄んだ水で、僅かに地の香りがする。
 ジェスールも屈んで指先を浸し、更に、タオルを澄んだ水に浸してきつく絞り、首筋の汗をぬぐった。マリアは水筒の蓋を開けた。ヨゼフの様子から飲用できると見て、残り少なくなった水を補給しようとしたのである。マリアは湖の透明感を確認して、水筒を持った手を水面に漬けた。

 こぽり、こぽりっ、

 水筒の口は泡を吐き出して水を飲み込んでゆく。
 突然に、マリアはその指先に凍りつく痛みに似た恐怖を感じた。その恐ろし気な感覚が収まりきらず、彼女は手にした水筒を投げ上げるように放りだして、自らの胸を抑えてうずくまった。
「衛生兵(メディック)!」
 マリアの体に異変を感じ取ったヘレンがチェルニーを呼んだ。
「誰が、衛生兵よ」
 チェルニーは心の中で毒づいた。見たところ、マリアに緊急を要する外傷は無く、目を大きく見開いて無表情になっていて、精神的なショックを受けたようだが、回復して表情を取り戻しつつある。
 チェルニーは小刻みに震えるマリアを抱きしめていたが、マリアは安堵したように自ら起き上がった。チェルニーはタオルを持ってマリアの側を離れた。冷や汗をかいているマリアの額を、冷たくぬらしたタオルで拭いてやろうと思ったのである。
「ちょっと、彼女を支えていて」
 チェルニーは、まだふらついているマリアをアダムに預けた。タオルを湖の水につけてすすいだ瞬間、チェルニーもまた声にならない悲鳴を上げて、電気にでも撃たれたようにのけぞって倒れた。
「どうした、チェルニー」
 アダムの問いかけに、倒れ込んで声を発することが出来ないチェルニーの代わりに、涙を浮かべたマリアが答えた。
「水が、水が……」
 言葉がとぎれがちで意味をなしていないのは、発する単語を探して、戸惑っているからである。あの衝撃、あの心の痛みをどう表現すればよいのだろう。
「水の中に何か居る?」
 ヨゼフはそう推察して湖をのぞき込み、試しに水面をかき混ぜてみた。まったく異常が無く、二人が倒れた原因が分からない。ジェスールとアダムも湖をのぞき込んだが、澄んだ水に異常は見つからない。縁から中心部に向かって遠浅に深さを増すという湖のようで、湖面に映るアダムの顔に、滑らかに深くなって行く湖底の斜面が見えている。手前の光の届く湖底から中心部に目を移してゆくと、湖に吸い込まれるかと思うような目眩に囚われるが、それだけである。既に湖の水を口に含んだヨゼフ、水に指を浸して香りを嗅いで異常を探るジェスール、そしてアダム自身にも、マリアやチェルニーほど即効的な変化はない。ふと、アダムは考えた。
「これは仮説だが……」
 そう語り始めるアダムに、仲間の視線が集まった。
「男はこの湖の水に触れても異常は感じないんだ。しかし、女は……。いや、あくまでも仮説だけどね」
 異常を感じるマリアとチェルニー、全く異常を感じないジェスールとヨゼフとアダム、このグループの違いを考えれば明らかに、性別によって差が出るのではないかというのである。
「それが?」
と、ヘレンは仲間を見回して聞いた。
 仲間の視線が自分に集中しているのに気付いたのである。お前は女かと問うている視線である。
「あんたたちは、私が女だと証明するのに触ってみろと言ってるわけ? いいわ、触ってやろうじゃない」
 そう言いつつ、ヘレンは湖のほとりにしゃがんだ。そして、そっと指を伸ばしてさぐろうとした。マリアやチェルニーのように突然ではなく、何かあるかもしれないと心の準備は出来ている。
 しかし、水面に指を伸ばしかけたヘレンは、勘良く察して、振り向いて背後のマリアに言った。
「こらっ」
 マリアがヘレンの背後から背を押すポーズで固まっている。岸辺の水深は深くは無い。しかし、こんな体勢でマリアに背を押されたら、ヘレンは腕はひじの辺りまで、そして顔は水面にどっぷり浸けてしまうだろう。マリアは先に感じたものから、指先をほんの少し浸ける程度ではなく、この湖に秘められた感情を、どっぷりと十分に感じ取る必要があると思ったのである。
「誰か、この・危・険・な・女、抑えといてくれる?」
 チェルニーがマリアの腕をつかんだのを確認して、ヘレンは再び湖面に指を伸ばした。たしかに、チェルニーとマリアはこの湖に触れて異常を感じたようだが、すでに回復している。ショックは大きいのかもしれないが、回復は早い。彼女はそう冷静に読んでいる。中指の指先に水を感じたが変化が無い。
「うんっ?」
 変化を感じないのが不思議な感じがする。指先が触れる水面に静かに波紋が広がった。指先で何かを探るように動かすにつれて波紋が幾重にも広がったがヘレンに変化は無い。
この時、湖面に風が吹きぬけた。さわやかな涼風といってもいい。この湖の持つどんよりした重いイメージの対極にある風が、ヘレンの髪を撫でた。
「えっ?」
 ヘレンの指先を中心に広がっていた波紋が、ゆるりゆるりと縮まっているようにみえたのである。むろん自然現象としては見かけない光景である。
 その変化は急速に速度を増し、ヘレンが湖面から指を離すまえに、幾重もの波紋が彼女の指先に収縮した。
「お母さんっ!!」
 ヘレンは天を仰いで、言葉を吐き出すように叫んだ。彼女自身が叫んだわけではない。湖の底深くから伝わってきた感情が、彼女の口を借りて空に向けて噴出したのである。
 彼女は頭をしっかり抱えてうずくまった。呼吸を忘れるほどに胸が悲しみの感情で切なく彼女は両手で胸を押さえた。
「あっ、泣いてる?」
 ジェスールがそう口にした。男勝りなヘレンの涙が信じられなかったのである。
「うるさいっ」
 ヘレンは拳でジェスールの胸を叩いた。しかし、理由は良く分からない。頬を伝わる涙が恥ずかしくはなく、自然なことのように思われるのである。
「んっ?」
 突然、マリアは皆の視線を浴びているのに気づいて、ペットボトルの蓋を閉めた。泣いたせいかのどが渇いたのだが、先ほど自分の水筒は、湖から受けたショックで放り投げてしまって、水が地面にこぼれて残っていない。ジェスールに与えてもらったペットボトルを思い出して飲んでいたのである。
 誰かが飲みなさいと囁いたような気もする。
 ヘレンが声にならない叫びを上げて、マリアからペットボトルを奪い取った。
「どうするのよ、コレ」
 ヘレンがマリアの目の前で振ったペットボトルには、底に一口か二口分が残っているだけである。あの化け物に対抗すべき有効な手段が、たったそれだけしか残っていない。マリアはやや非難を込めた目でヘレンを見た。マリアも反論したくなる。最初にペットボトルの水に口をつけたのはヘレンである。口に含んだ水は吹き出したため、飲んでいないかもしれないが、その後でペットボトルを放りだして、その大半をこぼしてしまったのはヘレンのはずだ。非難を目つきで返されると、ヘレンも後ろめたい。ジェスールがペットボトルを奪い取って、背中のザックにしまい込んだ。
「預けたのは俺だ。あとはオレが預かる」
 マリアはふと何かを感じて、口元から喉へと指先を滑らせた、体内に流れ込んだ水は、喉から胃の腑、胃の腑からヘソの辺り、そこからまるで子宮に落ち着くような感覚で、彼女の体内を通った。お腹の中がほんのりと温かい感じがし、女性として生まれた幸福感が全身に広がった。
「アレじゃないか?」
 ヨゼフがやや背伸びをして目をこらす方向に、他の仲間の視線が集まった。その景色は水面を流れる霧にぼやけてしまっている。最初は、その建物が湖の中程に浮かんでいるように見えた。湖を薄く覆う霧の上に覗くのは、古い日本家屋の屋根である。遠目に見ても粗末な家屋ではない。しかし、霧が淡く薄れるように晴れてみると、壮麗壮大と表現するにも及ばない質素な白木造りの一軒家である。ただ、質素であっても、何者かの存在を暗示するものである。
「あれね」
 ヘレンが和ちゃんとあの女の存在場所だという意味を込めて言った。仲間は肯いた。ここまでの道程で人の気配を感じる建築物は他に無く、女が発したに違いない感情の流れに逆らってここまで辿ってきた。あそこに女と和ちゃんが居るという確信があった。
「湖の周囲を回って、あと、20分というところか」
 ジェスールがその距離を評した。不思議なことに、今までどの程度の距離を歩いたのか、仲間には全く実感がない。子供たちの妨害の数々を考えればずいぶん長い道程だったような気がし、ここであの一軒家を眺めれば、不思議な入り口からここまでほんの一瞬だったような気もするのである。しかし、現在の目標を捉えて距離を考えれば、ジェスールの判断通りだろう。しかし、ヘレンはその判断に大幅な修正を加えた。
「駆け足! 10分後にあの門から突入するわよ」
 言い終わる間もなく駆け始めたヘレンを見て、顔を見合わせた仲間は仕方がないと肯きつつ、ヘレンの後を追った。

 


 マリアたちがヘレンに追いついたとき、彼女は腕時計を確認していた。いや、時計はアテにならない世界だが、彼女の感覚では10分が経過している。振り返って、息を切らせながら追いついてくるマリアたちの体力のなさに、やや非難の視線を送り、仲間が息を整える間を利用して周囲を窺った。
 この家の周囲の草だけが綺麗に刈られて土の地面が露出しており、家の周囲は僅か20メートルばかりだろうか、しかし、小さいというイメージが浮かばない。親子が小さな生活を営むには充分だという満足感さえ伝わってくるようである。
 壁面から5メートルほどの距離を置いて腰の高さほどのクチナシの生け垣で周囲を囲まれている。しゃがみ込んだヘレンを酔わせるように甘い香りが鼻をくすぐった。
「これだったのね」
 ヘレンは目の前の白い花の甘く強い香りに、以前、女に感じた違和感のある甘い香りを思い出したのである。ヘレンは彼女を追ってきた仲間に手で合図をして姿勢を低くさせた。しゃがんで姿勢を低くしてみると、生け垣の荒い枝ぶりを通して一軒家が見える。
 広大な草原の中の一軒家という雰囲気だが、目に見えるものは、なんという異様で荒っぽい光景だろう。この先は不要だと言わんばかりに、一軒家の背後の風景がぼやけて居るのみで存在しない。ここがこの世界のもっとも奥深い場所に違いない。
「どうする?」
 アダムの問いにヘレンが即答した。
「突入よ。一気に蹴散らすわよ」
 周囲の仲間を窺って、チェルニーが仲間の意見を代弁し、ヘレンを諭すように言った。
「もう一度、冷静に、目的を整理しましょうよ」
「ここに来たのは、」
 そう言いかけるアダムを制して、ヘレンが言った。
「あの化け物をぶちのめす為よ」
 既に、ヘレンは旅の目的を見失っている。アダムは言い聞かせるように言った。
「まず、和ちゃんを無事に救出すること。それから、瓢箪荘にかけられた結界を解くこと。大事なのはこの二つだ」
「あの家、化け物の臭いがぷんぷんするわ。あと、たった10メートルほどの距離に和ちゃんが居るのよ」
 ヘレンは地を蹴った。生け垣を飛び越そうとしたのだが、手前の地面に尻餅をついて、汚れた腰を撫でた。チェルニーがヘレンの動きを指先で辿るように動かして見た。ヘレンが跳ね返された部分に感触がある。ノックをしてみたが、透明な壁は柔らかく拳を跳ね返して、音がしない。ジェスールはその光景を評した。
「生け垣に沿って目に見えない壁があるって事か」
「正面から来いって事ね。上等だわ」
 ヘレンは一軒家の玄関の正面にある門に向かった。門という表現は大げさかもしれない。館を取り囲む生け垣の一角には、いかにも日本家屋らしい華奢な扉がついていた。扉はヘレンの力を受け入れて、音もなく開いた。まるで、この家が彼女たちの訪問を誘い入れるかのようで、ぞくりと恐怖がわく。
 生け垣を抜けると、目の前に小さな館に似合った扉がある。アダムがそっと扉の外から館の中の雰囲気を窺って、首を横に振った。外観は小屋といっても小さな家屋で、中にいる者の気配を感じ取ることもできそうだが化け物どころか何の気配も感じられないのである。
「化け物はどこかに出かけいるんだろうか?」
 男たちが計画を練り始めた。慎重なアダムが提案し、ヨゼフが状況を述べた。
「ちょっと作戦を練ろう」
「見たところ、窓が無い。出入りできるのはここだけだ」
 ジェスールが今後の仲間の行動指針を提示した。
「そっと忍び込んで和ちゃんが居れば奪いかえす。同時に結界の秘密が探り出せればベストだね」
(ちっ)
 ヘレンが男たちの慎重さに舌打ちで不満を漏らして呟いた。
「こんな小さな家に秘密なんて」
 チェルニーが危険性を論じた。
「秘密を探すより先に、帰ってきた化け物に出会う可能性が高いわね」
 チェルニーの言葉に、ジェスールが応じた。
「化け物に出会えば、ペットボトルの中の聖水を使う」
 ヘレンを除く仲間はそろって肯いた。ターゲットはこの小さな館の奧にあり、じたばたとあがいたところで事態が好転する気配はない。あとは、行動に移るしか無かろう。
「静かに、静かに行動しよう」
 アダムがそう言い、男たちは肯いた。
「あのっ……」
 マリアが言いにくそうに扉を指差した。その指差す光景に、ヘレンを除く仲間は唖然とした。
「あの海兵隊女が」
 不用心さを非難するチェルニーの言葉の通り、ヘレンは、とっくに行動を起こして扉の前にいて、片足を上げている。その意図は理解できる。彼女は扉を蹴り飛ばして開けて、一気に突入し、弓とナイフで決着を付けるつもりである。この家屋の大きさから見れば、ドアを蹴破って飛び込めば、奧まで10メートル足らずではないか。
 ところが、ヘレンの姿は、蹴り飛ばしたはずの扉に、はじき飛ばされるように見えた。事実、蹴り飛ばした反動を受けたヘレンは、その衝撃を地面を転がって和らげた。
(ここにまで結界が)
 ヘレンは開かない扉にそう思ったが、地面に転がってしまったヘレンの傍らで、マリアが首を振ってみせた。マリアは扉をスライドさせて、これは誰が見ても引き戸だと教えた。蝶番を支点に開くドアではなく、引き戸なので前方に蹴飛ばしても開かないのである。マリアの手で館のドアするすると音もなくスライドし、彼らの前に開け放たれて、仲間を受け入れた。
 仲間は、その空間の大きさに唖然とした。
 引き戸は長身のヨゼフが頭をぶつけそうになるほどこじんまりした大きさである。しかし、そこをくぐって中に入ってみると、真新しい白塗りの壁が、幅20メートルばかり広がって、仲間の行く手を遮っている。その手前に静かな湖畔の景色が描かれた一双の屏風があり、正面の壁面から左右に目を転じると、壁の両端から奥に向かって廊下が伸びているという構造らしい。
 小屋の外から窺った時に化け物の気配がせず、不在だと考えた判断を修正せざるを得ない。これほど大きな空間なら奥にいても不思議ではない。しかし、耳をすませても、しんっと静まりかえって何の気配も感じない。
「何をしてるの?」
 チェルニーがマリアに声をかけた。マリアが屋内にはいるのに靴を脱ごうとしているのである。日本家屋では当然の礼儀だが、この場合はふさわしくない。
「あなた、帰りにここで悠長に靴を履いてから逃げるつもりなの?」
 ヘレンは土足の足を踏み出して、どんっと床を踏みならした。マリアはその礼儀を忘れた行為に眉をひそめたが、この場合はヘレンの方が正しい。
 無人の家屋なら、床には埃が積もり、天井はすすけて蜘蛛の巣の1つもあるだろう、白壁の色も黄ばんでいるに違いない。この屋内の清浄さは、確かに何かの存在を裏付けているようである。清らかで純粋なものの中に、土足で踏み込んでゆくという行為が、自分たちが行おうとしている行為の象徴のようで、罪悪感を秘めている。そんな罪悪感を振り払うようにチェルニーはヘレンといくつかの言葉を交わした。
「和ちゃんは、どこにいるのかしら」
「とっ捕まえた捕虜は、地下牢に閉じこめるって決まってるのよ」
「地下室を探せばいいの?」
「でも、古に地下に封じられた、魔王を復活させるための生け贄なら、奧の祭壇だわ」
「臓器売買なら、奧に手術室があるんじゃないかしら」
 彼女たちの想像力の豊かさに、男たちはため息をついた。最も現実的な表情をしていたのがマリアである。ジェスールはマリアに意見を求めた。
「マリアの意見は?」
 マリアにはあの女性がアパートで和ちゃんの横で添い寝をしていたイメージが浮かんだ。
「もし、私があの人なら、和ちゃんは一番奥の部屋で大切に保護しておくわ」
「オレも賛成だね」
「奥へ進もう」
「どちらの廊下を行くの?」
 チェルニーが指差す先は、右の廊下も、左の廊下も、平行にそろって館の奧に向かっている。どちらの廊下もその奥がぼやけて見えないが、どうやらこの館は左右対称という構造らしく、ヨゼフは自分の判断を述べた。
「どちらを進んでも違いはないね」
 とりあえず、仲間の位置に近い左の廊下を進もうとしたヨゼフを制してヘレンが言った。
「待って。左右二手に分かれましょう」
 首を傾げる仲間にヘレンは提案を続けた。
「私とジェスール、ヨゼフは右の廊下。派手に行くわよ。残りの3人は5分後、私たちが化け物を引きつけているあいだに、左の廊下から奥に突入して」
「その後は?」
「私たちが化け物をぶちのめすから……」
 ヘレンのその言葉をジェスールが制した。客観的に考えて、ぶちのめせるかどうかは判然としない。倒せない場合を考えて計画を練っておかねばならないだろう。ジェスールは襟をゆるめて、首にかけていたステンレスのチェーンを引っ張って、手に収まるぐらいの大きさの銀色の棒を取り出した。山歩きで万が一負傷して動けなくなったときに救出を求めるための笛である。よく響き、その音は地形に関わらず遠くまで届く。彼はその笛をチェルニーに渡して言った。
「目的は絞り込もう、まずは瓢箪荘の結界を解くより、和ちゃんの救出だ」
「そうね。人質を取られていては分が悪いわ」
「和ちゃんを救出したら、全力で逃げて館を脱出してから、このホイッスルを吹いてくれ。笛の音を合図に僕らも脱出する」
「それで行こう」
「時間を確認して、5分後よ。ここでゆっくりと300まで数を数えればいい」
「じゃあ、お先に」
 ヘレンたち3人は右の廊下に消え、マリアとチェルニー、アダムの3人が屏風の陰に取り残された。  
「うぶめ、産女」
 マリアは妖怪の名を頭にささやかれるかのように思い出した。アパートに残してきた書籍で、その妖怪の名に記憶がある。子供を生まないまま亡くなった妊婦が妖怪に変じたものという他、他人の子供を奪う妖鳥、産褥の血にまみれた姿で他人に子供を抱かせるとも言われる。しかし、産女という幹から様々に枝分かれをして葉を広げる情報や姿に、何か欠けているものがあるような気がしてならない。
 この世界に来る前にチェルニーが言ったこと。
「そう、動機よ。犯罪者には何か動機が必要だわ」
 この言葉が何かマリアの心に引っかかる。
「助けて……」
 和ちゃんの言葉が思い起こされて、マリアの心の中で産女のイメージにまとわりついた。アダムが考え込むマリアの肩をぽんっと叩いて、300数え終わったことを知らせた。時計は当てにならないが、ヘレンたちが右の通路を先行してから5分が経過しているはずである。事実、右の廊下の先からは、襖を勢いよく開ける音、障子を蹴破る音が派手に響いていて、館の奥にいるはずの化け物にまで届いているだろう。


 確かに、産女は館の最も奥の部屋で、ヘレンたちが立てる慇懃無礼な物音を聞いていた。こじんまりとした部屋の中央にふわりと浮かぶものがある。柔らかな光に包まれた繭の内側、そんな表現が合う空間である。調度品と呼べるものは、和ちゃんがすやすやと眠る繭の寝床だけである。彼女はその傍らで、何かに腰掛けるような姿でぷかりと宙に浮いていたまま、和ちゃんの寝顔を飽きることなく眺めていた。
 彼女の服は中国の漢服のようにもみえ、さらに古い中国の神話時代に登場する女性の衣類にも見える。彼女がこの世界で目覚めてから、幾万里の距離と幾千年の時を移り住んだろう。その彼女の暖かさだけは変わらぬように、衣服のゆったりした袖が和ちゃんを温かく包むみ、大きな袖口からのぞく柔らかな腕で和ちゃんの髪を撫でていた。
 彼女は自分でもどうしてあの手鏡を残してきたのか分からない。持ってくることも出来たはずだが、なぜか残した。ここへ和ちゃんを連れ戻って、和ちゃんを愛でるように眺め、癒されるように優しく撫で回している。
 彼女は眠ったままの和ちゃんに語りかけた。
「あなた……、だけは」
 聞こえてくる物音からは、彼女の和ちゃんを奪い取ろうとする意識があり、彼女は憎しみに近い恐怖を感じている。
 彼女は立ち上がって、和ちゃんを部屋中央の寝床に残して、ヘレンたちの元に向かった。
 ふんわりした優しい雰囲気の部屋、御簾を開けるとそこに障子の扉に囲まれた和室。御簾を閉じるたとたん、壁に変わって奥の和ちゃんが眠る部屋は見えなくなった。
(3人か)
 産女は陽炎のように揺らめく雰囲気の中に人数を読み取った。ただ、この無礼な連中を中心に濃い霧が生じているようで、この連中の姿はぼやけ、先の見通しがきかない。香りのように拡散してくる霧に不快な感情を感じられるが、すでにその霧は避けようもなく産女を包んでいた。産女は3人の背後にいる別の3人には気付かないで居る。
 伝わってくるものは、憐憫、同情?
 そんなものはまっぴらだった。ただ、あの子に心を癒されていたい。あの3人は、自分とあの子を引き裂く存在だと言うことは間違いない。絶対に、排除せねばならない。嫉妬や哀しみや不安、産女の表情は移り変わりつつ、邪魔者に対する冷たい憎しみに目を光らせて姿を消した。


「いったい、どこに?」
 ヘレンが呟く対象が、果たして、化け物のことか、和ちゃんのことか、館の奥のことなのか、彼女自身が分からなくなってしまっている。彼女たちが進む廊下の両側に四方を襖に囲まれた部屋があり、どの部屋の広さや調度や襖のデザインま同じである。果てもなく前方に続くかと思われた廊下を避けて、廊下の両側にあった部屋の一つに入り込んだあげく、部屋から部屋への果てしない迷路に入り込んでしまったのである。
(次の部屋こそ)
 襖を開けて次の部屋に入る都度、いつの間にやら背後で襖が閉じてしまっている。振り返って開ければ、誰に邪魔されるでもなく、音もなく開く。しかし、目を離すとの間にやら閉じている。蹴り飛ばして開けて通った襖は、彼女たちが通ったとたん、何事もなかったかのように閉じた位置でそこにある。一部屋づつ緊張感を込めて突き進む部屋の中で、方向すら見誤ってしまいそうになる。
「方向を見失っているのか」
 ジェスールがそう呟いて、磁石を見た。この世界に入ってから方角が意味をなさない。それは、この館の中も同じだった。目に見える館自体、この不可思議な空間と切り離せないのではないか。とすれば、襖を1枚づつ押し広げて進むこと自体意味がない。
 ヨゼフもそれを察しているのかも知れない。次の襖を開ける手を止めて漂う気配をうかがうように周囲をうかがった。
「どうしたの、先へ進むわよ」
 ヘレンの言葉にヨゼフが直感を述べた。
「この先は、奧じゃないよ」
 意味もなく回転する磁石の針を仲間に見せてジェスールが言った。
「この館が外の世界と同じなら、目に見える方向をアテにしてもしょうがない。」
「どういうこと?」
「ヘレン。何か感じないか?」
「感じる方向に進んでいこう」
 ヘレンは納得した。この場合、男は役に立たないらしい。信頼できるものは、女である彼女の直感だけである。部屋の四方が襖で囲まれた単調な四角い部屋が続いていた。
 ヘレンは前方の襖を開けて気配をうかがい、そして、襖を閉じた。確かに、気配の濃度に差がある。そして、今居る部屋の方が気配が異様に濃い。
 左の部屋の襖を開けて気配をうかがい、部屋に入らないまま部屋の中央に戻った。左の部屋で感じる気配も、この部屋ほどではない。
 そして、右の部屋。そっと襖を開けて、じっくりと味わうように雰囲気をかぎ取ったが、首を横に振った。
 そして、仕上げに元来た部屋の襖を開けて、雰囲気をかぎ取ると首を傾げて、振り返って首を傾げた。
「何故? 今、この部屋の雰囲気が一番濃いわ」
 ヘレンの感覚で辿ってきたものが、この空間で一番濃いと言うことは。仲間の背にぞっとする恐怖が走った。
 目には見えないが化け物はこの部屋にいるかも知れないということである。いよいよ、化け物との対面が迫ったことを察して、ジェスールはザックからペットボトルに僅かに残った水を取り出した。
(あれか、)
 産女はそう思った。彼女の気にくわない雰囲気を発し続けているのはあの水らしい。あの水を中心に彼女の視界を奪うように景色がぼやけており、確かに瓢箪荘で彼女の呪縛を解いたのはアレである。既に、ペットボトルの水が発する意識がこの場を囲んでいて、産女は部屋の外の様子が見えなくなっていることに気付いていない。別働隊のマリア達は産女に気取られずにいるのである。
「化け物がこの部屋にいるのか」
「卑怯者。姿を現しなさいっ」
 そんなヘレンの怒りに呼応するように、突然に、うっと眉をひそめたヨゼフの様子がおかしい。ヨゼフは彼を心配して様子を覗うジェスールに手を伸ばしたかと思うと、ジェスールが手にしたペットボトルを払い落とした。
 ペットボトルは床を転がって襖にぶつかって止まった。
「何を」
 ヘレンが非難を込めてそう呟きかけたときに、彼女たちと部屋の隅のペットボトルを遮る位置、ヨゼフの背景を揺らめかせる陽炎が生じていた。ヘレンたちが気配と呼んでいたものが凝縮するように姿を表しかけているのである。ヨゼフを操ってペットボトルをはじき飛ばしたのはこの陽炎らしい。その異変の異様さではなく、異変から流れ出すように押し寄せる孤独にもがき苦しむイメージに、3人は身をすくめた。
 揺らめく影は言った。
「私の心に侵入してきて、好き勝手なことを」
「心に?」
 ヘレンは化け物の言葉に引っかかるものがあった。疑問だらけのこの世界の真理を探る手がかりのようにも思われた。
「私のじゃまをする者は許さない」
 その言葉と共に揺らめく影は女の姿を取り、10メートル四方だった空間が、野球場ほどに拡大し、化け物の姿も仲間を見下ろし圧するほどである。膨らんだ物は姿だけではない、元の姿に凝縮された苦しみが膨張して流れ出した。空間などこの化け物の思うままに変化するのである。
 

「手前の部屋はいい。一番奥から行こう」
 そう言ったアダムが全力で駆けることができる、長く幅の広いまっすぐな廊下である。
(これほど広ければ、)
 チェルニーはそう思った。人間の世界で言えば、これだけの大きな館なら、館の主人以外に大勢の家来や召使いが居ても良いはずだ。しかし、人の気配は絶えていて、この世界に存在する者が、自分たちだけのような孤独感に苛まれる。
「いったい、いつになったら和ちゃんの居る部屋にたどり着けるの?」
 向こうの廊下を歩んでいるはずのヘレンと同じ事を、こちらの廊下でチェルニーは思っただけではなく口にした。ドタバタと格闘する物音やヘレンやヨゼフの叫びが小さく響いてきている。彼らは予定通り、あの化け物を引きつけているはずだ。しかし、彼女たちは両側を部屋に囲まれた果てのない廊下を走り続けるのみで、未だ目的地にたどり着けない。しかし、幸いなことに、直感を行動規範とするマリアが居た。
「気配を遡りましょう」
 アダムとチェルニーはこの世界に入ってからのことを思い出した。方向が定まらない。気配を辿ってここまで導かれた。あの化け物の気配を辿ってきたと言っても良い。同じ事がこの館の中でも言えるだろう。ヘレンたちが化け物を引きつけている今は、あの化け物の気配から遠ざかるように進めば、そこは元の入り口か、彼女たちが目指す場所である。
「気配が薄れるのは、入り口か、館の奧か、一か八かね」
 マリアは腕に下げた籐製のバスケットからポーチを取り出した。数本の輝く針と糸が見える、裁縫道具である。彼女は右の部屋の襖に穴を開け、ボビンに巻き付けた糸の端を結びつけた。
「なるほど」
 どちらに進んでも、糸を辿れば元の場所に戻ってこれると言うことである。マリアは部屋の中央で気配を伺い、意外なことに、元居た部屋に戻った。その後、回ったり、迂回したり、戻ったり、彼女たちが描き出す目に見える軌跡には意味はない。しかし、気配を遡って進む先では着実に哀しみの意識が薄れ、別の意識が高まっている。言葉では説明しがたい。幼子が産着に包まれてすやすや眠っている。そんな柔らかなイメージを伴う意識である。
(一歩づつ、和ちゃんに近づいている)
 そんな確信が女たちにあった。しかし、いつのまにやら、彼女たちは行き止まりにいた。正面と左右は清楚な白壁で、出入りできるのは、今、入ってきた襖の面だけ。
「行き止まりなの?」
 チェルニーがそう言った。いままで左右に迂回するルートなどいくらでもあった。しかし、この部屋は見た目は正真正銘の行き止まり。幼子の気配に、流れる様子が無く、部屋の中に充満しているようで、確かに館の一番奥の部屋だという感じがする。
「あとは……」
 マリアが正面の壁に手を触れた。正面に見えていたもの揺らめいたかと思うと、御簾に形を変えた。壁なのか御簾なのか考えることは意味がない世界である。ただ、その奧に幼児の姿がかいま見える。
「和ちゃん」
 3人の言葉が同時に響いて、3人は和ちゃんの寝床に駆け寄った。
「和ちゃん、無事かい」
 そう呼びかけて揺り起こそうとするアダムに、幼児は答える様子がない。まるで、今まで親鳥に抱かれていた雛のように、和ちゃんの体温は温かく大切に保護されれており、鳥の柔らかな羽毛に覆われていたように、触れるものは瑞々しく柔らかい幼児の素肌である。チェルニーが耳の下に当てた指先に、和ちゃんの鼓動が伝わってくる。呼吸は規則正しく、ぐっすりと眠り込んでいる幼児の姿である。
「大丈夫。生きてるわ」
 チェルニーは自信を持って断言した。
「和ちゃん」
 再び、和ちゃんを揺り動かして目覚めようとするアダムを、マリアの手が制した。
マリアは体温や柔らかさなどの生命感を感じ取るように、頬に和ちゃんの手を当てた。和ちゃんを保護すると言うより、子供によって癒される母親の姿に似ている。
「あの化け物の魔術か何かで、眠ったままなのかもしれない」
「産女よ」
 マリアは、化け物ではなく「産女」という名の存在だというのである。
「うぶめでも何でも良いわ。とりあえず、和ちゃんを連れて逃げましょう」
「僕が抱いて逃げよう」
 アダムが和ちゃんを抱き上げようと、腕を和ちゃんの体の下に差し入れた。意識を失っていてずしりと重い。指先から伝わる暖かさで、その重さが和ちゃんの生命感のようにも思われた。
「この笛を吹けばいいのね」
 チェルニーはジェスールから預かった笛を口にした。
「ちょっと早すぎる」
 アダムが注意する間もなく、チェルニーは逃げ出す合図の笛を吹いた。
 アダムの指摘通り、ちょっと早すぎるだろう。館の外に逃げ出してから吹くはずだった笛の音である。
 ピィーーーーーー
 笛の音が館に響き渡った。
「逃げるぞ。走れ」
 アダムは和ちゃんの柔らかな体を寝床から引き出した。一瞬、自分の手で胎児を堕胎するかのような罪悪感に苛まれた。罪悪感に耐えつつ、彼らは糸をたどって走り続けた。


  ジェスールはヨゼフとヘレンに目配せをした。ヘレンは察して肯いた。ヨゼフの視線はペットボトルに固定されていてチャンスがあれば飛びつくだろう。何やら突然に膨張した空間の中で、ヨゼフからペットボトルまでの距離が直線で20メートルばかり、彼の脚力ならペットボトルを手にするまで3秒と言うところか。ヘレンの見るところ、ヘレンの位置とペットボトルを結ぶ線上には化け物が居り、化け物を避けてターゲットに向かえば化け物の注意は彼女に向く。
「GO!」
 ヘレンは自分自身に号令をかけた。ヘレンは重心を低く抑え、化け物を中心に左側から円弧を描いて駆けた。この間、ヘレンの視線はペットボトルの水にあり、化け物はその視線を追ってヘレンの意図を察して、ヘレンを阻もうと腕を伸ばした。不安や憎しみや嫉妬の感情で、女の体は膨張し続けてヘレンの数倍の身長になり、その体にすら収まりきらない恐怖や憎しみや焦りの感情があふれ出して、ヘレンたちに伝わった。化け物は巨大な体、長い腕を伸ばした。むろん、ヘレンはそのリーチを察して、手の届かない範囲を駆け抜けている。
(えっ?)
 ヘレンをぎょっとさせたのは、その腕と指が人間の形を崩して伸びて、駆けるヘレンの前方を塞いだからである。ヘレンはその指に捉えられるのを避けて、受け身を取るように斜めに跳ねて床に転がった。
 化け物がヘレンの誘いに乗っている。その瞬間、ジェスールが床を蹴って突進した。ヘレンから目を移す間もなく、ジェスールのタックルは効を奏して化け物の両足を捉えて放さない。
(ちぃぃぃぃぃ)
 化け物の苛立ちが舌打ちと共に伝わってきて、ジェスールは巨大な力が自分を掴んで持ち上げようとしているに気付いた。ヘレンが背負ったクイーバーから矢を抜き取って、化け物めがけて放った。慣れた手つきで十数秒の内に七本の矢を射たが、いずれの矢も化け物に届く手前で動きを止めて、ぽとりと床に落ちた。タックルしたはずのジェスールの体は巨大な手で捕まれて、逆に動きを失った。ヘレンとジェスールの攻撃は効を奏していない。
 しかし、化け物がペットボトルに入った水を狙い、水を取り戻そうとするヘレンたちを妨害することで得られた確信がある。ペットボトルの中身が化け物にとって都合が悪いと言うことである。
 ヨゼフは化け物が二人に集中している隙を読んで、化け物の背後に転がっていたペットボトルに突進した。ヨゼフが図ったタイミングは絶妙で、化け物の背をかいくぐってペットボトルを握りしめ、高く掲げてヘレンとジェスールに成果を伝えた。
 化け物はその姿に気付いてヨゼフに鋭い視線を向けた。ヨゼフの全身は麻痺したように動かない。強い力で押さえられたというのではない、全身から力と気力が奪われた感じである。彼らはなすすべを失った。
 ヘレン、ジェスール、ヨゼフ。3人に絶望感が漂い始めた瞬間、別の部屋でチェルニーが吹いた笛の音が響き渡たり、その甲高い音色に化け物の悲鳴が重なった。
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ」
 化け物は雷に全身を貫かれたかのように体を反らした。振り返った化け物は、起きたことを察して悲しげな悲鳴を上げたのである。振り返った方向で起きていること、その方向に和ちゃんが居たのだろう。この化け物は別働隊が和ちゃんを救い出したのに気付いたのである。しかし、ジェスールらの計算にも狂いが生じている。化け物が振り向いたその方向から脱出の合図の笛が聞こえたのである。別働隊が脱出し、化け物の手を逃れてから聞くはずの合図である。化け物の視線の先から聞こえるというのは何かの手違いがあったに違いなく、化け物を視線の先に行かせるわけには行かない。
(あいつらが逃げ出すまで5分か、)
 自分たちが目一杯時間を稼いでもそれが限界だろう。この時、化け物の注意が逸れたのか、凍り付いていたヨゼフは、自分の体が幾分自由を取り戻しているのに気付いた。
「ヘレン」
 ヨゼフは名を呼んでペットボトルを投げた。ヘレンはヨゼフが投げてよこしたペットボトルを左手に受けた。彼女はペットボトルの蓋を開けて、水を口に含んだ。彼女は背負ったクイーバーに残った3本の矢を取り出し、その矢の先に口に含んだ水の一部を吹きかけ、残りをグリップを握りしめた拳と弓に吹き付けた。
 2本の矢は弓のグリップと共に握り、最初の矢をつがえて弦を力一杯引き絞った。
「お願い……」
 彼女がそう祈ったのは、水を吹き付けた弓と矢が、あの化け物に効き目を発して欲しいという思いである。最初の矢は見事に化け物の着物の左袖に命中して縫い止めるように柱に突き刺さった。
(しめた)
 ヘレンがそう思ったのは、最初の矢が縫い止めた袖を、化け物が引き抜くことができない様子だからである。足止めの効果はある。
 彼女は続け様に、残りの2本を射た。右袖に1本、裾に1本、見事に化け物を傷つけずに行動を封じて、化け物の体を柱と襖に縫いつけた。何故か、彼女は無意識に化け物を傷つけることを恐れて、体を避けて矢を射ていた。
「よくやった」
「だめだわ」
 ヘレンがそう言ったのは、子供を奪われて身悶えする化け物の動きが激しく、縫い止めた袖が破れかけていることに気付いたからである。あの袖口や裾が破れ落ちて、縫い止めた矢に効果が無くなってしまえば、あの化け物は再び彼女たちを襲い、その時にはヘレンたちには抗うすべがない。
「逃げよう」
「どっちへ?」
「あの化け物から離れればいい」
 ジェスールの言葉にヨゼフとヘレンは肯いた。この世界の摂理の一部を理解し始めている。どちらの方向にという情報は不要であるらしい、ターゲットに近づくか、遠ざかるかそのどちらかの選択肢しかない。
 ヘレンは走りながら歯を食いしばったが、流れ出る涙を抑えることができない。ヘレンの矢によって自由を奪われた化け物が、もがきつつ発する叫びのせいである。叫びと同時に伝わってくる感情は怒りや憎しみではない。哀しみや後悔や孤独、幾つもの感情が入り交じって入れ替わるが、一言で表現するなら、愛する我が子を失った母親の情念である。
 彼らが入り口を出たとたん、巨大な館はこじんまりとした和風の一軒家に戻った。ヘレンたちは、そこで先に脱出したマリアたちを見つけた。
「私たちは、なんと言うことを」
 胸をかきむしられる思いでチェルニーが言った。肺腑をえぐられるほどの悲痛な叫びが館の中から響いてくる。子供を奪われた母の叫びである。一人や二人ではない、数十人、数百人、その数百倍の哀しみや後悔が凝縮されている。その叫びを浴びていると、決して侵してはいけないことに手を染めた罪悪感に囚われる。
 ジェスールは和ちゃんを抱いて息を切らせているアダムから和ちゃんを受け取って走った。アダムとヨゼフは、しゃがみ込む女性たちを支えながら走った。目的地はない。とりあえずここから遠ざからねばならない。
 耳を刺す悲鳴ではなく、押し寄せる悲しみや孤独感が彼らに追いつき包みこみ、駆ける体や足にすがりついて行く手を留めようとしていた。

 和ちゃんを抱きながら駆けるジェスールの体力が尽きた場所が、休息の場だった。澄み切った湖の畔、マリアたち女性が異変を感じた場所である。アダムが息を整えながら言い、ヨゼフが意見を吐いた。
「和ちゃんは救出した。次はどうする?」
「まずは和ちゃんを安全な場所に。和ちゃんが目覚めれば何か聞き出せるかも知れない」
 ジェスールは太い腕の中の和ちゃんを眺めたが、目覚める様子はなく、傍らのマリアに尋ねた。
「他に、分かったことは?」
「産女だわ、あの人」
「うぶめ?」
「子供と生き別れになった哀しみが凝縮した、哀しい妖怪」
 何故、マリアがその妖怪の名を口にしたのか分からない。その名を断定する理由も分からないが、仲間には異論を唱える思考力も体力も残っていない。
「彼女を産女だとしよう。他に何か」
「彼女、ここが心の中だって言ってなかった?」
(私の心に侵入してきて好き勝手なことを)
 確かに彼女はそう言った。とすれば、ここは産女の心の中の心象世界か。とすれば、全ては産女の思いのままになる世界……。頼みの綱だった富士山の湧き水を切らした以上、彼らに勝ち目はあるまい。
 ここまで来て疲れきってしまっているが、鏡の入り口からこの湖までたどり着くまでの時間の長さを考慮すれば、まだ先が長い。逃げ切ることは難しいかもしないという絶望的な雰囲気が漂っていた。
 ヘレンは荒い呼吸をする仲間を励まして言った。
「大丈夫? 呼吸を整えたら直ぐに出発しましょう」
 ヘレンの視線は既に湖を背にして、これから歩む先にある。ヘレンの言葉にも関わらず答える者が無く、荒い息づかいが聞こえるのみである。
 沈黙が続いた。
 なすことなく苛立ったヘレンは振り返ったが、その表情が和らいだ。和ちゃんはチェルニーに見つけられたときと変わらない表情でいる。
「かして、」
 彼女は傍らに弓を置き、ジェスールに手を伸ばして和ちゃんを受け取ろうとした。ヘレンの声が、落ちつきを見せていて、矢を放った戦闘の荒々しさを消している。ジェスールから和ちゃんを受け取る指先が、しなやかに和ちゃんの肌に沈み込んだ。和ちゃんの生命感がずしりと重みを持って感じられ、和ちゃんの鼓動が伝わってヘレンの鼓動が共鳴するようにも感じられる。
(どうして?)
 子供はこんなに人を癒す事が出来るんだろう。それとも、自分の中の母性のせいか。頬を重ね合わせてみると柔らかく温かい。癒してあげるわけではなく、こちらが癒される。チェルニーやマリアも、傍らでエレンを見ながらそれを実感した。
 腕の中の和ちゃんを眺めていたヘレンは、突然に違和感を感じた。和ちゃんの表情の中に、別の子供の顔が重なったような気がしたのである。じっと眺めてみると、たしかに別の顔が浮かんで消えた。女の子の顔であったり、男の子の顔であったり、無邪気に笑っているのやら、つんとおすまししたのやら、無数の子供たちが和ちゃんと重なって入れ替わる。
 マリアには、ヘレンが和ちゃんを抱く腕に力を込めたように見えた。ヘレンの腕の筋肉が張り、和ちゃんの体に重みを感じさせる。更に、ヘレンが地を踏みしめるように、股やふくらはぎの筋肉に目に見えて緊張感が走った。事実、ヘレンは腕と足に力を込めている。突然に、和ちゃんがずしりと重くなった。幾つもの子供たちの生命感が加わって何人もの子供たちがヘレンに抱かれているようでもあり、更に、子供たちがヘレンの腕から肩や腰にすがりついてくるイメージが浮かぶ。
 ヘレンはその命の重さに耐えきれず、がくんと膝を屈して地面に右膝をつけたが、和ちゃんをしっかり抱いたまま手放すことはなかった。
「くっ」
 ヘレンの緊張感はピークに達して、食いしばった歯の間からうめく声が聞こえた。ようやく異常を察知した仲間たちがヘレンに駆け寄った。ただ、ヘレンには仲間の姿は眼中にない。ヘレンが上半身で覆い隠すように、必死で和ちゃんを抱きしめているのは、母犬が子犬を守る姿に似ている。
「誰かが、和ちゃんを」
 ヘレンは、彼女から和ちゃんを引き離そうしている者が居るというのである。必死で抗うのだが力が入りすぎれば、幼い和ちゃんの体を傷つけそうになる。トレーニングを積んでいるとはいえ、ヘレンも女性としての柔らかな体のラインを持っている。そんな彼女の爪の色が変わり、手の甲に腱が浮き上がる程の力に抗して、エレンが和ちゃんを抱く指が一本ずつ引きはがされ、右手が引きはがされ、和ちゃんに密着していた二の腕が引きはがされ、ヘレンは目に見えない力で、和ちゃんの体から引きはがされて、突き飛ばされるように尻餅をついて転がった。和ちゃん手足をたらりと垂らして宙にぷかりと浮いた。異様な光景である。
 この場を支配していた緊張感が融ける気配で、仲間たちは知らぬうちに、自分たちの心を圧する緊張感の中にいたことを知った。もちろん仲間の緊張ではない。和ちゃんを取り戻すために細心の注意を払っていた産女の緊張感である。緊張の解けた理由は目の前の光景で分かった。ぷかりと宙に浮かんだ和ちゃんの体は、地表数メートルの高さに上昇し、もはや仲間の手に届かない。和ちゃんの体の向こうに、ぼんやりと影が揺らめき、姿を見せた。右袖は引き裂かれ、左の袖は肩の辺りで破れて失われている。エレンの矢に縫いつけられて、必死で暴れて破れた着物の裾もぼろぼろで、両足が膝の辺りまで露出している。和ちゃんを抱く胸元は乱れて乳房が露出しているが、体裁を気遣う風はなく、愛するわが子を奪われた母が必死で子供のあとを追ってきた。そんな姿だった。その彼女は全ての不安や不幸から解放されたように、安堵感と愛情に満ちた表情で和ちゃんを抱きしめていた。
 ややあって、一通り和ちゃんを味わい尽くしたように、そして再び奪われることはないという安心感を込めてヘレンたちに向き直った。
 沈黙の後、チェルニーが断言した。
「和ちゃんを返して。あなたは、和ちゃんのお母さんじゃないわ」
「お黙り!」
 産女はそう叫んだ自分の声の大きさに、びくりと怯えて、腕に抱いた幼児を眺めた。和ちゃんを目覚めさせたのではないかと恐れたのである。チェルニーの言葉は、産女が和ちゃんに一番聞かれたくない言葉である。そして、どんなに願っても満たされない願いだという焦りもある。
「あなたたちに、わたしの苦しみが分かるの?」
 意識したのか無意識に溢れたものか分からない。様々に入り交じる感情と記憶が産女から流れ出して仲間を包んだ。
 生まれつき病弱で、枯れ果てたように亡くなった幼子
 死産。生まれたはずの赤子が産声も上げないまま冷たくなって行く感触
 戦に巻き込まれて亡くなったわが子を葬る無念さ
 飢饉で食べるものもなく、ぼんやりと眺める我が子の死体。
 火災の火に包まれた子供が逃げ遅れて母の名を叫ぶ悲痛な叫び
 帰ってこない子供を捜し求めて、事故で水死体になった我が子を見つけたときの驚き
 貧しさに子供を養えず、口減らしに自ら子供に手をかける恐怖
子供と引き離されて母親の数など、多すぎて数えることも出来まい。マリア達が感じた無数の光景や感情など、産女の一部に過ぎないだろう。
 仲間は、先ほどマリアが発した言葉を理解した。
「子供と生き別れになった哀しみが凝縮した……、妖怪」
 古来、子供たちと引き離され生き別れになった女たちの哀しみが、凝縮して生まれたに違いない。なんという悲しい存在だろう。仲間は言葉を失って沈黙が続いた。
 マリアたちを睨み付ける産女は、抱きしめる腕に力が入って、和ちゃんがかるくうめいたのに気付いてはいない。身もだえする産女の腕の中で、和ちゃんは寝とぼけるように薄目を開けてこの世界を受け入れようとしつつある。
 産女は再び叫んだ。
「この子は、絶対に手放さない」
 沈黙が続く。
 ヨゼフはふと変化に気付いた。
 産女が怪訝な表情を浮かべて言葉を途切れさせたのである。ヘレンたちは、幼児がすすり泣く声で、産女の表情のわけを知った。産女の腕の中の和ちゃんが、目覚め、すすり泣き始めたのである。
 悔恨の感情が、産女から発せられて広がった。
「聞かれてしまった」
 自分が母親ではない事を知られてしまった、この子の愛情を失うに違いない。そういう産女の思いである。
 更に、和ちゃんは産女に衝撃的な言葉を発した。
「ありがとう、でも、ごめんなさい、ごめんなさい……」
 和ちゃんの口から泣きじゃくりながら発せられたのは、感謝と謝罪の言葉である。
(何を謝っているのだろう)
 ジェスールたちは首を傾げて、和ちゃんの意図を様々に思い描いた。
 産女はおそるおそる腕の中の子供に尋ねた。
「知っていたのね?」
 和ちゃんはしゃくり上げるだけで答えないが、和ちゃんから伝わってくる記憶に心当たりがある。和ちゃんの傍らで添い寝をしていたときの記憶である。彼女が過去の悪夢に苛まれて、和ちゃんに揺り動かされて目覚めたとき、和ちゃんは自分の意識に触れ、全てを知ってしまったに違いない。
 知っていながら、自分を母親として慕っていた。慕っている演技だったのか。そんな疑問が産女の頭を駆けめぐったが、そんな思いを断ち切るように言った。
「全ての哀しみの記憶を消してあげる。もう一度、お眠りなさい」
 産女の首筋に回した和ちゃんの腕が力を失ってだらりと垂れた。瞼は閉じて眠りについている。しかし、安らかな寝顔である。
 産女はジェスールらに向き直って言った。
「この子だけは、絶対に手放さない」
 和ちゃんを抱く産女の腕にその意志が現れている。和ちゃんを抱く産女の腕に均整が取れていて美しい。


10

「この子に免じて、あなた達は見逃してあげる」
 産女は一方の方向を指差した。
「帰りなさい。手鏡をこの世界に投げ入れれば、この世界の入り口は閉じて、アパートの封印は開放されるわ」
 ヘレンは産女を見上げながら断言した。
「でも、守るって約束したの。和ちゃんを残して帰るわけにはいかない」
 マリアが産女の前面に立ちふさがるように言った。
「やっと、分かった」
 この場の雰囲気に似つかわしくない言葉に、仲間は戸惑い、産女は怒りの言葉を発した。
「何が分かったって? あなたたちに私の苦しみの何が分かるというの?」
 マリアは続けた。
「やっと分かったの。和ちゃんが、私たちに『助けて』って言ったこと」
「なんですって?」
「あれは、自分を助けてくれって言ったんじゃない。産女さんの苦しみを助けてあげてって言ってたのよ」
「この子が?!」
 自分の母親ではないと知りつつ、寄り添っていた理由はそれか。産女の疑問が解けた。
「この世界に来たときに、私たちを襲ってきた子供たちも同じ。一生懸命に、あなたを守ろうとしたのよ」
 ヘレンとジェスールは顔を向きあわせて納得した。あの子供たちがマリアとヨゼフを避けて襲ってきたのは、産女に敵対する意識を持たないものを避けて、産女に害意を持つ者を押し返そうとしていたのである。
 産女は反論する言葉もなく感情を発散させた。
「黙れっ、黙れっ、だまれぇぇ……」
 その感情の噴流は全てをなぎ倒すように激しい。ジェスールらはその勢いに耐えきれずにしゃがんだり伏せったりした。ただ、マリアだけが、やや眉をひそめて口元を結ぶのみで立ちつくしている。
「マリアぁ」
 チェルニーは伏せて勢いを避けろと合図をしたのだが、マリアは怯む様子もなく立ちつくした。正面から受け続けている産女の感情の噴流はマリアの長い髪が後方になびく程の勢いである。
「マリアが」
 ヘレンがマリアの異変に気付いた。
 マリアの外見を辿るようにぼんやり輝く新たな気配があり、まるで衣服が激しい風に引きちぎられ、剥ぎ取られ、吹き飛ばされるように、マリアの表面の姿は失われ、内側の別の姿が現れた。
 産女は、事情を察した。和ちゃんの心がぼやけて読み切れず、和ちゃんの周囲に見られた数々の異変もこの女の仕業だったのか。エレンとジェスールはこの新たな姿に記憶がある。管理人室の仏壇の写真で見かけた和ちゃんの母親である。和ちゃんに寄り添うようにいて、今は、マリアの体を借りて現れたに違いない。そんな母親の姿と、マリアの姿が揺らめくように交互に重なり合っていた。
「あなたは?」と、産女は尋ねた。
 マリアからの返答は無く、まるで聞かずとも分かるはずだというように微笑むばかりである。
「和ちゃんの、母親ね」
 産女にそう指摘された和ちゃんの母は、産女に語りかけた。
「私はあなたの一部であり、その子の母親でもあります」
「だから、どうしたというの?」
「その子を、解放してください」
「嫌よ。すでに私のもの。私の大事な和ちゃん」
「その子は、貴女を傷つけることを望んでいません」
「えっ、この子が、私を傷つけるとでも?」
「いいえ。でも、あなたは自ら傷ついている」
 和ちゃんの母親は、湖に目を移して言った。
「子供たちはみな、自分のせいであなたが傷つくことを望んではいません」
(子供たちは、みな?)
 ヘレンたちは顔を見合わせた。自分たちを襲撃してきた子供たちのことか、と気付いたのである。
「私が傷つくですって、違う。私があの子たちを沈めて離さないのよ。」
(沈めている……)
 ヘレンたちは湖を眺めた。そう言われれば、この湖で言いようのない哀しみを感じた。産女は再び感情を発散した。子供を失い、あるいは子供を残して命が途絶え嘆き悲しむ無数の女たちの記憶である。
「私の哀しみは未だ癒えない。私の心の空白は、まだ満たされない。きっと永遠に」
 産女の感情の発散と共に、再び尽きる気配もなく子供と引き離されれた女たちの無数の記憶が流れ出して仲間の周囲に溢れた。チェルニーは、産女が和ちゃんを欲する動機を察して叫んだ。
「だから……、だから、子供たちをさらって、孤独が満たされれずに子供の魂をこの湖に沈め続けたのね。和ちゃんの魂も沈めてしまうつもりなの?」
 和ちゃんが、いかに無垢な心を持っていようと、これほど濃く、これほど深い闇を満たすことは出来まい。失望した産女は和ちゃんの魂をこの湖に沈めて封印し、次の無垢な魂を求めて彷徨うのである。この湖に象徴される、この世界には、沈められてきた無数の子供たちが囚われているに違いない。
「あなたも、子供たちの声を聞くといい」
 ヘレンはそう言いった。無数の子供たちの恨みの声を聞けと言うのである。産女が応じて自嘲的に微笑んだ。
「ふんっ、子供たちの声など、私の満たされぬ哀しみにかき消されて聞こえるものか」
「いいえ、すでに子供たちの声が」
 マリアに姿を借りた和ちゃんの母親が湖に腕を伸ばした。腕の先からさざ波が広がった。
(私もあなたの一部)
 産女にそう言った和ちゃんの母親の意図が知れた。この湖の封印は一片の産女、和ちゃんの母親にも解除可能なのである。産女は悲鳴を発するように言った。
「止めてぇー」
「子供たちの本当の哀しみの声を聞きなさい」
 産女にそう言い放った和ちゃんの母親は湖に向き直り、閉じていた腕を広げて湖に向かって呼びかけた。その視線の先は静まりかえった湖の底にあり、子供たちに癒されるように優しい。
「さあ、みんな、出ておいでなさい」
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ」
 和ちゃんの母の呼びかけに、子どもたちを湖の景色で象徴される心の鎖の鍵が解かれた。それを知った産女が悲痛な叫びを上げたのである。
 この時のヘレンとチェルニーの心情を考えるなら、子供たちの魂を解き放とうとする和ちゃんの母親への期待ではなく、産女に共感する憐憫の意識だったに違いない。和ちゃんの母の行為が正しいと思いつつ、産女の心を思いやれば、無数の子供と引き離される女の、目を覆いたくなるほど悲しげな結末が予想される。
 産女の叫びが長く尾を引いて途絶えた。
 一瞬、湖は静寂に包まれた。辺りは暗く、手探りでなければ、仲間の存在が知れない。この世界が産女の心の中だとすれば、産女の絶望的な心情を映し出す景色に違いない。
  完全な静寂になった世界で、仲間たちはこの世界に踏み込むときに気付かなかった脈動が、ずっと変わらずに彼女たちを包み込んでいたことに気付いた。
(まるで、お母さんの子宮の中にいるよう)
 脈動は温かく優しい感情を伴って肌から伝わるように染み渡ってくるのだが、やがて、その脈動が独立するように小さな鼓動がいくつも響いて伝わってきた。
 手探りで仲間の存在を探っていたヨゼフは、手探りの指先に感じる感触ではなく、薄ぼんやりとした輝きに、仲間の輪郭が浮かび上がってきたのに気付いた。
(ああっ)
 ヘレンたちはその小さな鼓動が湖から開放される子供たちの魂、子供たちの心臓の鼓動だと気付いたのである。
 湖が淡い輝きを放っている。輝きは増し、仲間は色を取り戻した。ヘレンの金髪も、チェルニーの黒髪も闇から切り離されて浮かび上がり、風にそよぐようにたなびいた。柔らかい風がある。湖の底からわき上がるらしい。そして、まるで輝く泡がゆらゆらと漂いながら冷たく淀んだ湖の底から浮かび上がってきた。大きなもの、小さなもの、一つ、二つ、三つ、やがて湖全体を数え切れないほどの輝く泡が覆った。産女が底知れぬ孤独を癒し続けた魂である。彼女は間もなくこの無数の魂を失う。仲間はその悲しい予感を抱いて立ちつくした。
 しかし、何やら様子がおかしい。
 泡はぷかりと宙に浮いたかと思うと、まるで、戸惑い、恥じらう子供たちのように、ふわふわと宙を漂い、産女を囲んだ。
(何かの音が?)
 産女はそう思ったが、すぐにそよ風にそよぐ葉の音は意味を持ち始めて、産女を包んだ。
「ありがとう」
「ありがとう」
「お母さん、ありがとう」
「心配させて、ごめんなさい」
「生まれてきて、ほんとうに、よかった」
 無数の声は、母親を気遣い、いたわる、子供たちの声である。自身の孤独を癒すために子供たちを集め、それでも満たされない孤独を癒すために、子供を眠らせ湖に沈め続けた。そんな産女に、子供たちは愛してくれたお礼、孤独を癒しきれなかった謝罪を述べているのである。ちらりと背後に目をやると、和ちゃんの母親が僅かに肯いていた。
(子供たちの本当の哀しみの声。それは、これか、)
 耳を塞いでしまった産女に、自らの気持ちを伝えきれなかった子供たちの哀しみが、今ここで解き放たれて、子供たちは自分たちの感謝のメッセージを母親に伝える喜びに満ちているのである。輝く泡は時に幼児の姿を取り、時に微笑む少女の表情に変じ、時に柔らかな幼児の指先だけが産女の頬を撫でた。
 ただ、自分の感謝の思いを伝えることが出来た、その喜びと、率直な感謝の念が伝わってくる。
 やがて、光の子どもたちは名残惜しそうに、しかし、避けられない別れを決心したようにくるくると渦巻き、上昇を始めた。
 ヘレンたちは意外に感じた。最初に出会った子供たちと対照的ではないか。最初に出会った子供たちは、はっきりと見える姿だった反面、実態もなく消えてしまって、存在感を残さなかった。それは実態を持たない意識だけの存在だったからに違いない。今、現れた子供たちは淡い光で覆われて明確な姿はないものの、ヘレンたちにまとわりつくときに幼児らしい柔らかさと暖かさが伝わり、生きている幼児という存在感がある。
(えっ)
 ヘレンは何かに気付いて息をのんだ。柔らかな光の粒に包まれていたが、その中に二粒、自分の意志を持ってヘレンにまとわりつくものがある。光の粒は大きさを変えたり、形や光の柔らかさを変えながら、ヘレンに意志を伝えた。その意志の中に顔立ちを思い浮かべることが出来る。ヘレンの尻を棒で打ち据えた後、睨み付けられて涙目になった少女の印象。その少女がぺこりと頭を下げて詫びていた。もう一方の光の粒は、ヘレンの脛を蹴り上げて逃げ去った男の子の印象。こちらは上目遣いにヘレンを窺うようだが、もじもじと戸惑う様子にお詫びの言葉を探す様子が伺える。
(許してあげるわ)
 ヘレンは苦笑いをして「クソガキ」という感情を取り消した。やがて、輝く泡は消えてしまったが、この世界は柔らかな薄桃色の光を取り戻している。癒された産女の心象である。産女は戸惑うように腕に抱いた和ちゃんを眺め、和ちゃんに頬ずりをして子供の暖かさを味わい、最後に決断を下した。
「でも、あなたに出会えたこと。本当に幸せだった」
 そして、産女は和ちゃんの母親に向き直り、無言のまま和ちゃんの体を差し出した。二人の母親の腕が柔らかく温かく交差して、和ちゃんの体は和ちゃんの母親の腕から胸へ抱きしめられた。
(このまま時が止まればいいのに)
 仲間を包むそんな戸惑いと満足感。光景が静止し、仲間たちがそう感じる暖かさを伝えた。しかし、和ちゃんを手放した母親の姿が淡く揺らめく。
 女の後ろ姿が溶けるように揺らめいたかと思うと、柔らかな光に変じ、その光は一羽の鳥の輪郭を取った。白鷺のようでもあり白鳥のようでもあり、様々な鳥のイメージが重なっていて特定の鳥の名は判別しがたい。ただ、その純白に輝く姿は、子供たちに対する愛情からのみ構成されるように濁りを感じさせない。産女が鳥の姿を取るというのはこのことか。
 鳥は音もなく翼を広げ羽ばたいた。そして哀しみや孤独を流し去って身軽になった体を音もなく宙に羽ばたかせた。
 ヘレンたちは空を見上げた。輝く産女はヘレンたちの頭上を、名残惜しく旋回している。
(雨?)
 ヘレンたちに何かが温かく降り注ぐ。
(いえ、涙よ、きっと)
 チェルニーたちはそう信じて疑わない。産女が溢れさせた喜びと感謝の涙が降り注いでいるのである。
 一声、かん高く鳴いたかと思うと、産女は羽音もさせずに静かに飛び去って、その姿を闇に溶けこませるように消した。しかし、その声は癒しきれない哀しみを含んでいるようにも感じられた。


11

「和ちゃん」
 そう声をかけて和ちゃんの無事を確認しようとしたヘレンは、和ちゃんの母親の口から流れ出した呟きを聞いた。
「マリアさん、今しばらく」
 マリアにもう少し、我が子の息吹を感じる間、体を貸していてくれと言うのである。和ちゃんの母親は、胸に抱いた我が子を慈しむように眺め、頬ずりをした。マリアの体を借りた和ちゃんの母親が、生き別れになった息子の生命を感じ取っているに違いなかった。
「和ちゃん、目を覚まして!」
 目をつむったままの和ちゃんに、ヘレンは目覚めよと呼びかけたのである。和ちゃんはぐっすりと眠り込んだように意識がない。母親のぬくもりの記憶のない和ちゃんにとって最後のチャンスを逃してはならないと考えたのである。そんなヘレンを涙を浮かべたチェルニーが制した。
「ヘレン、止めて」
「どうして、止めるの?」
 しかし、チェルニーの涙に、ヘレンも察した。
 もし、この場で和ちゃんが目覚めればどうなるだろう、一瞬の母親のぬくもりの記憶の代償に、和ちゃんは避けられない悲痛な別れを経験しなくてはならないのである。
 成長した我が子を抱くゆりかごのようなマリアの腕が小刻みに震えてもいる。直後の避けられない別れを嘆く感情がにじみ出すのである。この悲しさが彼女の中に一片の産女を形作る。
 マリアは和ちゃんの母親と体と心を共有して、腕の中の和ちゃんの生命観をその重みと柔らかさと暖かさとして同時に感じ取っている。二人は想い出も共有した。
 幼かった我が子が大きく重くなった驚き
 和ちゃんの妊娠を知ったときのこと、
 和ちゃんがお腹の中にいるときに語りかけたこと
 看護婦さんから産着にくるまれた我が子を差し出されて抱いたときの感覚
子供を失った悲しさより、和ちゃんという子を身ごもったことに対する感謝の念、この子が人々にはぐくまれつつ生きているという幸せな暖かさを強く感じている。その点が、産女と、和ちゃんの母を隔てているようだ。しかし、和ちゃんの母親が母親でありつづけたのは、その直後に成長した我が子を手放してヘレンに託したことである。
 やがて、マリアの体を借りた和ちゃんの母親は、腕に抱いた和ちゃんをヘレンに託すように預けて、仲間を向き直った。ヘレン、アダム、ヨゼフ、ジェスール、チェルニー、ゆっくりと彼らの顔を眺めて礼儀正しく一礼した。
「みなさん、ありがとう」
 母親として、息子を慈しんでくれる人々に礼を言ったのである。彼女は軽く目を閉じると、マリアの体は糸が切れた操り人形のように地に崩れ落ちた。その体からまばゆい光が飛び出して、先に姿を消した産女の後を追うように消えた。
 地に崩れたマリアは涙に濡れた目を開けた。和ちゃんの母親と体と心を共有していて全てを知っていた。
「女って、母親って……」
 誰でも哀しみや孤独を背負っていかねばならないのか。チェルニーとエレンは肯いた。貧困、飢え、争い、事件、事故、この世界では様々な理由で母と子が引き離される。今は癒され飛び去った産女に背負わされる業である。産女が鳥に姿を変えて飛び去るときに、子供達に癒される喜びの涙と共に、悲痛に漏らした叫びは、これからも避けきれない哀しみをことを思って発したに違いない。ただ、母を思う子供たちに気付いたことが唯一の救いに違いない。
「私はあなたの一部です」
 和ちゃんの母は産女にそう言ったが、マリアもヘレンもチェルニーも母性という心の奥底で産女の欠片を抱えているのかも知れない。
「アパートに引き上げよう」
 母性の余韻に浸っていた女性たちを叩き起こすようにヨゼフの声が響いた。ヨゼフがうかがう周囲の景色を見れば淡くぼやけている。ここが産女の精神世界の中だとすれば、産女が姿を消した今、消滅してしまう世界である。
「オレが抱いて行こう」
 ジェスールはマリアから眠ったままの和ちゃんを受け取って走り始めた。方向は意味がない。とりあえず急いでここから遠ざかったところに、この世界の出入り口があるはずだ。
この世界でずいぶん彷徨ったつもりだった。しかし、僅かに駆け戻ると、ぽっかりと宙にういた穴に、瓢箪荘の部屋が見えた。懐かしい景色を見つけたマリアが、ふと思いついたように言った。
「あらっ」
「どうしたの?」
「私、お仕事に行くのを忘れてたわ」
 マリアにつられるようにヨゼフも言った。
「そういえば、ボクも学校に行くのを」
「こんな時に……」
 チェルニーはこの非常事態を自覚しないマリアとヨゼフの脳天気ぶりにあきれるように空を仰いだ。その空に靄がかかるように景色が薄れ始めていた。
「そんな事を言ってる暇は無いようだぞ」
 ジェスールが指さす先に、出入り口の穴が揺らめいて見えた。この世界の構築主の産女が去った以上、この世界がどうなるかわからないのである。
 彼らは慌てて穴に飛び込んだ。部屋の隅の鏡台と鏡台と向かい合わせに椅子の背にくくりつけた手鏡。もといた部屋に間違いがない。エレンは脛のホルダーのナイフを抜いて手鏡を固定する紐を切り離して手鏡を手にした。
「みんな居るわね?」
 ヘレンは部屋の中を眺めて、欠けているメンバーが居ないことを確認した。この手鏡を目の前に明いた穴にほおりこみさえすれば、この穴は永遠に閉じて仲間はあの世界から切り離される。
 ヘレンとチェルニーは、和ちゃんに視線を注ぐマリアに気付いた。和ちゃんの母親がマリアに乗り移っていたとき、彼女たちは和ちゃんを目覚めさせなかった。その行為が本当に正しかったのかどうか、今でも迷うのである。
「いいわ、入り口を閉じて」
 マリアの言葉に誘われるようにヘレンは手鏡を空間の穴に放り込んだ。産女の言葉通りなら、これでこの出入り口は閉じ、この瓢箪荘を包む結界も解除されるはずだ。
(何も起きないのか?)
と、疑問に感じる一瞬の間をおいて、仲間は顔を見合わせ、今回の事件のきっかけになった和ちゃんに視線を移した。
 先ほど、厳しい別れの運命ではなく、マリアに乗り移った和ちゃんの母が和ちゃんを抱く姿が優しく美しく、和ちゃんを包み込む雰囲気がした。
仲間の目の前で、和ちゃんの閉じた目から、ついっと一滴の涙が溢れて頬を伝った。その口元には笑みが浮かんでいるようで満足そうな感情が伝わってくるかのようである。たとえ一時にせよ、成長した和ちゃんは母親の記憶の一部に満たされたに違いない。
 直後、彼らは皆くらくらと立ち上がれないほどの目眩を感じ周囲の景色が揺らめいて見えなくなるような感覚の後、気を失った。
事実、彼らの周囲で景色と雰囲気が一緒になって渦巻いた。