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侵入

侵入 1

 日常にさしたる変化がないというのは、合理的な近代化がもたらした悪習の一つかもしれない。そんな平凡な日、変化のない時間が過ぎている。
 和ちゃんは、傾いた太陽を横目でちらりと眺めた。昼間の輝きを失って、その明瞭な輪郭から発する、オレンジ色の光で空を染めていた。日が傾きかけて、すべてのものに陰が長くなりかけている。和ちゃんはその意味を知っている。ただ、それは全ての子どもに公平ではない。
「健二ちゃん、帰るわよ」と、呼びかける声が公園に響いた。
 スーパーの買い物帰りに公園に立ち寄った母親が、息子に呼びかける声である。笑顔で振り返った子が健二ちゃんだと推測できる。男の子は素直に遊びの輪を離れ母親の元に駆け寄った。
「今晩はなに?」
 夕食のメニューの話題である。
「よぉしっ、健二の好きなカレーにしよぉか」
「カレー、カレー」
 好物の名前を聞いて嬉しそうに飛び跳ねる子を、和ちゃんはぼんやりと焦点の合わない視線を向けた。和ちゃんの目に映るものは、飛び跳ねる子供の姿ではない、想像をかき立てられて、男の子がテーブルで母親によそってもらった温かい夕食を、母と並んで食べる光景である。
「あらっ、もうこんな時間?」
 幼児を抱いておしゃべりに興じていた母親たちが時間を取り戻した瞬間である。
 母親に手を引かれる子、
 母親の周りを駆け回りながら笑顔で空腹を訴える子、
 母親の自転車に駆け寄って、早く帰ろうとせがむ子。
 和ちゃんはそんな光景を無表情で眺めていた。自分の心を表現する言葉が無い。悲しいのかと問われたら首を傾げるしかない。寂しいのかと問われたら首を横に振るしか無い。嫉妬という言葉は知らず、妬ましいわけでもない。全ての感情が一切抜け気ってしまって、ただの人形に成り果てたような感覚である。和ちゃんはつまらなそうに、皆に背を向けて、ブランコに座った。影が長く伸びて、公園を囲む街路樹の根元に届いた。ブランコの鎖がきいきいときしむ音がした。独りぼっちの心に刺さるように響く音である。
 地面に伸びる自らの影は長く、秋の日暮れの柔らかな日差しを表すように影の縁がぼんやり儚い。眼を転じると、薄桃色の空に、柿色の輪郭がはっきり確認できる夕日が浮かんで見えた。季節の変わり目と共に、陽が落ちるのが早くなったと言うことを、この幼児はなんとなく自覚していた。
(あそこの屋根まで、お日様が落ちてきたら)
 和ちゃんは帰宅の刻限をそう決めた。精神的に大人びた子供で、周囲の大人に気遣う所がある。暗くなる前に家に帰らないと、おじいちゃんが心配するだろうと考えたのである。
 和ちゃんは、驚いたようにきょろきょろと周囲を窺った。
 歩道を通る自転車が、前方を歩く歩行者に発したベルの音に、閉じこもっていた心の殻の一部を突き破られたのである。車道を行き交う車のエンジン音、店頭で客を呼び込む売り子の声、学校帰りの女子学生たちの笑い声を交えた会話、人の存在を象徴する無数の音が溢れていて、公園の周囲は変わらず賑やかだが、帰宅を急ぐ人々の足は公園の周囲を巡って、この空間に踏み込む人が居ない。
 和ちゃんは3つ並んだブランコの右端に腰掛けた。ブランコの向きがちょうど良い。正面に公園の南に接する道路が位置し、帰宅するマリアをいち早く見つけることが出来るのである。そして、和ちゃんの心に忍び込む誰かも、和ちゃんがここで母親を待っていることを知っていた。
 既に、夕日の縁が刻限の屋根のラインに接していた。マリアがいつもの道を通って帰るとすれば、とっくに見つけているはずの時間である。帰宅が遅れているのか、別の道を通って帰ったのか、疑問が不安を伴ってふくれあがった。母親を見失った迷子の心理に近い。
 帰宅しようとする決心がつかないまま、和ちゃんは足下から伸びる影に目を移した。生命観のないブランコと重なる自分の影。その影に覆い被さるように重なる影がある。和ちゃんはマリアの帰宅を期待するように、人の気配に神経をとぎすませていたはずだった。それは人の影だが、和ちゃんはつい今しがたまで、その人物の存在に気付かなかった。
「か、ず、ちゃ、ん」
 背後から自分を呼ぶ女の声に、和ちゃんは垂れていた頭を僅かに上げた。今、この公園に、和ちゃんの名を呼ぶ女性が居るはずがないことは、子供心にもよく知っている。
 では、この親しげな声は? 和ちゃんの妄想ではない証拠に声が続いた。
「か・ず・ちゃ・ん、か・ず・ちゃ・ん」
 振り返った和ちゃんの目の前に、見たことも無い女がいる。冷たく傾きかけた夕日が逆光になっていて顔立ちは判然としない。和ちゃんは首をかしげた。
 しかし、和ちゃんは知らない女の人という意識を振り払った、べっとり粘る妙な暖かさを伴った懐かしさがある。
「かずちゃん」
 女は、今度はもっとはっきりと、和ちゃんの名を口にした。
「あっ、お母ちゃん?」
 和ちゃんは疑問形で発した言葉を、すぐに確信のこもった言葉に変えて、女が差し伸べた手の指を大切そうに握った。
「お母ちゃん、ボクのお母ちゃんやな」
 和ちゃんはどうして自分がそんなことを言っているのか分からない。続いて溢れだしてきた涙の意味も分からず、目の前に膝をかがめた女性の胸に顔を埋めた。
 心の底に溜め込んだ寂しさを吐き出し、泣きじゃくりながらも、安堵感の中の涙は心地がよい。和ちゃんはその安堵感に引きづり込まれるように、生まれて初めて存在感を込めて、その言葉を吐き出した。
「お母ちゃん、お母ちゃん」
 和ちゃんの言葉に応える女の言葉は、未だに和ちゃんを探るようで、感情が籠もっていない。
「あらっ、どうしたの?」
 女は自分の胸に顔を埋めていた和ちゃんをやや離して、和ちゃんの髪をかき上げるように頭をなでた。和ちゃんはしゃくりをあげながら、ようやく整理した涙の理由を説明した。
「今まで、お母ちゃんが、おれへんような気がしててん」
 女は和ちゃんを撫で回すように抱いた。両腕や胸元など和ちゃんと接する部分すべてを使って和ちゃんを味わいつくすかのようである。戸惑いを隠しきれなかった和ちゃんは突然に力をこめて女を抱きしめた。幼い両腕に意外に力がこもっていることに驚いた。
 和ちゃんは繰り返し、女は答えた。
「あのね、ぼく、お母ちゃんが、おれへんような気がしててん」
「いいえ、ずっと居るわよ。昔からずっと」
「お母ちゃん」
「さあ、お家に帰りましょうか」
「うんっ」
 笑顔を取り戻した和ちゃんは、遠慮がちに女に寄り添って並んで歩いた。手を繋ぐにも遠慮がある。まだ、どちらも母と子の繋がりには慣れてはいないのである。陽は更に傾いていて、二人の陰が地面の凹凸に沿って伸びているのだが、一方の女の陰は淡く揺らめくように儚い。
 

「んっ?」
 マリアは自転車のペダルを漕ぐ足を止めて、ブレーキを握って地に足をつけた。週に三回、工場の作業を終えて帰宅し、軽い夕食をした後、コンビニで夜間のアルバイトをするのである。いつもより工場からの帰宅が早く、公園で彼女を待つ和ちゃんとすれ違いになっていた。
 向こうから帰ってくる幼児の姿は和ちゃんに違いないが、和ちゃんと手をつないでいる女には見覚えが無い。二人をじっと観察したくなるのは、女が周囲を慎重に伺う様で、不審な様子があること、どうやらマリアに気づいた女が、気づかぬ振りをしつつ、鋭い視線でマリアの正体を見極めようとする様子を見せることである。
 そうしている間にも距離が縮まり、言葉を交わす距離になった。
「こんばんわ、和ちゃん」
 マリアは和ちゃんに声をかけたものの、傍らの女にどんな挨拶をして良いものか迷った。
「こんばんわ、マリアさん。お母ちゃんと公園に行っててん」
 和ちゃんが女を見上げてそういった
「お母ちゃん?」
 マリアは女の姿を見回した。和ちゃんの母親は既に亡くなっているはずではないか。ところが目の前の女を和ちゃんは母親だという。和ちゃんは何か新しい遊びでもしているのだろうか。
 背すじがぞくりとする小さく鋭い恐怖がわく。
(ひっ)と、マリアは眉をひそめ小さな悲鳴を上げた。
 何か胸を締め付けられるような、心の中を無造作にかき混ぜられるような不快感を感じたのである。
 女はマリアの心の中から拾い上げた言葉を口にした。
「マリアさん」
 見ず知らずの女がマリアに投げかけたのは、知るはずも無いマリアの名である。
「マリアさん、出かけるところだったんじゃないの?」
「あっ、そう。私、アルバイトに行くところだったんです」
「お気をつけてね」
 マリアは二人と手を振って別れたが、どうして自分が首を傾げているのか分からないでいる。振り返ってみると、まるで、マリアが振り返ることを予測したかのように、女もまた腕で和ちゃんをあやしながら振り返って、きらりと光る目でマリアを眺めて口元をにやりとさせた。その視線に応じるかのようにマリアは思った。
(そぉ、和ちゃんのお母さんなんだ)
 そう考えると、女は母親としての存在感があり、まるで数十年も、その数十倍、数百倍、数千倍もの広大な時間と空間を経て、母親を続けているような重い雰囲気を漂わせている。
 マリアが交差点の角で信号待ちをしながら遠ざかる二人連れを確認するように眺めた。二人の姿ではなく、自分が何故あの二人の姿に疑問を感じているのかが分からない。
 和ちゃんが導くように手を引く先に三叉路があり、駅から大学へと伸びる道路と合流して学生らしい若者の姿が多くなる。
 女は知らない道に迷う不安はなかった。和ちゃんが彼女の周りをはしゃぎながらくるくる回りつつ、時折、手を引いて女を間違うはずもなく導くのである。そんな姿を傍らで見れば仲の良い母と子に見える。事実、戸惑いがちに手を伸ばす和ちゃんの指先を捉えて放さず柔らかく握りしめる女の手のしなやかさと柔らかさは、母親だけが持つ暖かさに違いない。女自身は、和ちゃんの後を追うと言うこと以外にはも目的を持たないように、黙って和ちゃんの傍らを離れず歩いていた。しかし、その視線は臆病なほど注意深く、周囲を探っている。
「あっ」
 和ちゃんが声を上げるより先に、和ちゃんの感情を読み取っていた女が、商店街の書店から出てきた長身の黒人に気付いた。ヨゼフである。ヨゼフも和ちゃんに気付いて手を振ったが、和ちゃんが寄り添う初対面の女に首を傾げた。和ちゃんの表情から事情を読み取ろうとしたのだが、和ちゃんの表情が最近になく明るく曇りがない。ヨゼフにとってその事実だけで充分だった。そうしている間にも接近し会話ができる距離になった。女は会釈し、軽くお辞儀をして言った。ヨゼフを見る視線がきらりと光らせて挨拶をした。
「こんばんわ。ヨゼフさん」
 見ず知らずの女を相手に、どう返事をして良いかとまどうヨゼフに、和ちゃんが言った。
「お母ちゃんと公園で会うてん。一緒に帰るとこやねん」
(なるほど、和ちゃんの明るい表情はそう言うことか)
 ヨゼフは状況を理解して納得した。
「こんばんわ。お母さん、和ちゃん。ボクも帰るところ」
 ヨゼフは一緒に帰ろうと和久の空いていた左手を繋いだ。手を繋いだ瞬間、甘く懐かしい感情が、女から和ちゃんを通じて流れ込むような感覚がし、ヨゼフには国のこと、とりわけ母親との想い出が蘇った。
(なんて単純な男)
 女はそう思った。幼児がそのまま大人になったかのように心が無垢で、女が与えた僅かな影響で、ヨゼフは心を開いて女の存在を受け入れた。
 更に、歩を進めた女は、古いアパートの生け垣を剪定している初老の男を見つけた。和ちゃんのおじいちゃんである。祖父のお祖父ちゃんが植木ばさみを手に伸びてきた枝を剪定している。手入れが行き届いた植木が、この男の几帳面さを表していた。
 女は和ちゃんと視線を合わせた。和ちゃんは乗り物にでも酔った様な頭の中がくらくらする不快感に顔をしかめた。
「そぉっ、アレは、あなたのおじいちゃんね」
 女は和ちゃんの記憶を探り当ててそう言った。
 そうしている間にも、二人はおじいちゃんに接近している。突然に、犬の声が響いた。女は犬の行動を予期していたように瓢箪荘の門前で吠えるムク犬にチラリと目をやった。
「モジャ!」
 和ちゃんが叱る声に、犬は吠えるのは慎んだが、それでも耳を後ろに倒し、尾も静止させ、遠慮がちに牙を見せていて警戒感を隠してはいない。
「モジャ、どうしたん?」
 和ちゃんはモジャの傍らにしゃがんで、愛犬を落ち着かせようと抱きしめた。主人の生命感を感じ取って、モジャはやや警戒を解いたが、その息づかいは荒く緊張感を残している。
「さぁ」
 女は和ちゃんをモジャから引き離すように手を引いた。モジャの吠える声に、庭木の剪定の手を休めたおじいちゃんは、孫と手を繋いだ女から笑顔で声をかけられた。
「ただいま、お義父さん」
「ああっ、アンタか」
 おじいちゃんは惚けたようにそう言って続けた。
「私は後片付けがあるから」
 この時間、おじいちゃんは自分と和ちゃんのための食事の準備を始める。ところが、庭木の剪定の後片付けをするということが、自分の習慣のように刷り込まれたようである。
「じゃあ、私は夕食の準備をしますわ」
「いつもすまんな。頼むわ」
「和ちゃん、手伝ってくれるわね」
 女はそう言って、和ちゃんの手を引いた。
「うんっ」                                                              
「じゃあ、今日は何を作って欲しい?」
 優しい微笑みに和ちゃんは戸惑った。何をと問われても、首を傾げるしかない。母親の手料理を食べたことはないという記憶を失っている。
「じゃあ、お母ちゃんに任せて」
「うんっ」
 和ちゃんはそう頷きながらも、繋いだ手から、お母さんの心が伝わってくるのに気づいた。この瞬間にも、女は油断無く周囲を窺って、アパートの奧から出てくる男の気配を感じ取っていたのである。読み取る気配の中に「とうりゃんせ」を初め、子供の手まり歌やらが遊び歌のメロディが混じっている。外国人らしき精神に日本の子供がまとわりつくようで、この人物の性格を特定しがたい。
 女に首を傾げさせたのはアダムだった。最近、日本の子供たちの遊びの伝播に興味が向いている。学究肌の性格で、興味が湧くともうそれ以外は視野に入らない、そういう男である。いまも調べ物の合間に空腹感じて、昼食を摂っていないのを思い出したのである。これから、近所で昼食を兼ねた夕食を取ろうと出かけるところだった。アダムは玄関の扉のガラス窓越しに、彼を窺う女に気付いた。女がにこりと笑った瞬間に、アダムの心は疑いを忘れて、女の存在のみで満たされた。様々に好奇心を働かせる男が、新鮮な心の躍動を失って、この女が誰かを考えることを忘れてしまっている。
「こんばんわ。アダムさん」
 女は扉を開けてアダムが出てくるのを待ちながら言った。
「これから、ボク、お母ちゃんの料理の手伝いをするねん」
 和ちゃんのその言葉で、アダムは心の中を整理して女の位置を作り出して受け入れた。
「こんばんわ。和ちゃんのお母さん」
 交わした挨拶はそれだけだが、アダムの心の中には女の存在がしっかり刻まれた。なぜか、へレンのことが思い起こされた。
「あんた、気をつけなさい。女に騙されやすいタチだから」
 へレンは悪気のない言葉でアダムをそう評したことがある。生真面目なアダムの性格を明るく笑い飛ばしたのである。しかし、目の前の和ちゃんの母親には、何やら惹かれる物がある。恋愛でもなく、あこがれの女優に対する憧れでもない、もっと別の感情だ。彼女は整った顔立ちだが、取り立てて美人というわけでもなく、むしろ目の表情に見せた鋭さと怯えなど、魅力にはマイナスに作用する。アダムは自分が惹かれる物に首を傾げざるを得ない。蘇ったものは故郷の母親の姿に結実した。しかし、母親との不幸な関係の想い出があり、その不快感がアダムを現実に引き戻してその場を立ち去らせた。
 

 台所に立っているのは、料理を作り慣れている女のようで、ニンジンの皮をむき、刻むリズムに迷いがなかった。和ちゃんは、その手つきを珍しいものでもみるように眺めていた。女は和ちゃんから敬意の視線を浴びるのがうれしくてたまらぬという様子で、時折、笑顔を和ちゃんに向けていた。その笑顔から感情が抜け去った。手は正確に動いてニンジンを刻み続けている。異様な光景に、和ちゃんは女の腰にしがみついた、そのとたん、女の心が和ちゃんにも流れ込んできた。女はこの台所にいながら、いま帰宅したばかりのヘレンを眺めていたのである。和ちゃんも女の目を通してヘレンを眺めていた。
(えっ?)
 勘のいいヘレンは、帰宅してドアを開けたとたん、そう呟くほどの違和感を感じる様子が見えたのである。その正体がわからないらしい。不思議そうな表情を管理人室に向けた。
 和ちゃんにも記憶がある。心に見えている映像と重ねて、管理人室で和ちゃんの体が聞いている包丁の音である。
 このアパートの管理人は和ちゃん以外の肉親を失って、自ら食事を作る。素人ながら庭木の剪定を自分でこなすなど手先の器用な人物ではある。しかし、四年を経過しても慣れない家事は、こんな日常的な物音に現れる。今、管理人室から響く包丁のリズミカルな物音は、別人の存在を予感させるのである。ヘレンは和ちゃんに挨拶をするという目的に摩り替えたらしい、奥の自室へ移動しつつ開いていたドアから管理人室をのぞきこんだ。
「おっす、和ちゃん。今、帰ったよ」
 ヘレンが顔を管理人室を覗いた瞬間、今まで玄関で眺めていたヘレンの後ろ姿が、台所から眺めるヘレンの姿に切り替わって、和ちゃんは自分の心を取り戻したのに気づいた。
 ヘレンの読み通りであったらしい。ヘレンからみれば普段は見慣れない女が台所にいて、和ちゃんがその女にまとわり付くように寄り添っていた。和ちゃんはヘレンの存在に気づいて振り返り、うれしそうに手を振った。
 女は包丁を動かす手を止めた。
 包丁の刃先が光を受けて鋭く光った。
 ヘレンは背筋にぞくりとするような不安感を感じ取った。殺気というわけではない、得体の知れないものに接する不安感である。
 女は、指先に付いた山芋の皮を、蛇口から勢い良く噴出す水で洗い、細い指先できゅっと音をさせて、栓をひねって水を止めた。その間、ヘレンの存在には気づいているはずだが、背を見せたまま無言である。
 一瞬の不安の中、ふと、ヘレンは過去の記憶が入り乱れてよみがえってくる感覚に襲われた。過去の自らの姿である。
 スポーツジムのインストラクターとして働く姿。英会話教師として働く姿、言い寄る男にパンチを見舞って解雇される姿、少女の頃に帰国したアメリカ時代のこと、彼女が育った沖縄の米軍基地、その基地の中で母に抱かれた幼い思い出、
 彼女の二十二歳の生涯の中で知り合った様々な人との関わりが入れ替わり浮かんで、知り合った人々が彼女の名を呼ぶ。
 ヘレン、
 ヘレン、
 ヘレン……、
 女は薄笑いを浮かべて振り返り、ヘレンの記憶から探し当てた名を呼んだ。
「ヘレンさん、お帰りなさい。お仕事はどぉ?」
 まるで、昔からの知己のような口調である。
「ええ、まあまあです」
 そう答えながら、見ず知らずの女を相手に、知己のような物言いを返している自分自身に対する疑念が、心の奥底に沈んでゆくのを感じたのだが、やがて、その感覚も薄れてこの女を受け入れて、管理人室を離れた。
 ヘレンが去った後、女は何事もかなったかのようにキッチンに向き直って、和ちゃんが洗った里芋の皮を、布巾で丁寧な擦り取っている。手間はかかるが、皮に近い美味しさを味わうことが出来る。 そういう細かな配慮と手間をかけることに慣れた女らしい。和ちゃんは、里芋を洗い終わった事を、傍らの女の顔を見上げて伝えた。女は和ちゃんの仕事に満足するように微笑んで、大根に視線をやった。和ちゃんは女の意図を察して、小さな手で太い大根を掴んでを洗い始めた。お祖父ちゃんはそんな二人を背後から眺めていた。仲の良い母と子の姿である。
 大根を洗い終わった。和ちゃんがそれを伝えようと、女の腕に手を添えたとき、女の心が和ちゃんにも流れてきた。
(これで、和久に父親が生きていれば)
 女は、お祖父ちゃんが亡くなった息子を懐かしく思い出しつつ、仏壇の息子の写真に目をやったのに気づいたのである。女はぎくりとして里芋を洗う手を止めた。そっと振り返ると、おじいちゃんが仏壇の写真に目をとめて首を傾げている。若い男女が寄り添う写真である。息子の脇で微笑みながら写っている女性を、思い出せそうで思い出せず首を傾げているのである。
 女は自分の迂闊さに気づいた。この家族に入り込むためには、まだまだ気をつけることがある。
(もっと注意しなければ)
「和ちゃん」
 女はお祖父ちゃんにも聞こえる声で和ちゃんに呼びかけた。その声に、お祖父ちゃんの視線が女に移動した。お祖父ちゃんの視線が写真からそれたことを確認して女は続けた。
「和ちゃんが、良い子でお手伝いしてくれているところ、お父さんも見てくれているわ」
 女が視線を写真に視線を送ったので、お祖父ちゃんと和ちゃんもつられた。くらくらと目が回るような感覚の後、お祖父ちゃんと和ちゃんの目に映る写真は、和ちゃんの父親の姿のみで、母親の姿が消えていた。女に送り込まれた通りの映像を見ているのである。ただ、時折、女とふれる和ちゃんは、流れてくる女の心に断片的にふれていた。
 炊飯器のチャイムが鳴った。蓋を開ければ、熱々のご飯が炊きあがっているはずだ。女はキッチンの中を見回して捜し物が見つからず、おじいちゃんの記憶を探って小さく舌打ちをした。
(全く、男っていうのは……)
 おばあちゃんが生きていた時期には、このキッチンにお櫃と言うものがあった。炊きあがったご飯を釜から移してふっくらと蒸らして保温しておく木製の器具である。お祖父ちゃんは他の現代の日本人家族と同様に、そんな余計な手間を省いていて、お櫃はこのキッチンから姿を消している。女は不満ながら、この家族の生活形式に妥協した。女は下茹でをした里芋をザルにあけて和ちゃんの前で洗って見せて、里芋の表面のぬめりを取るように指示をした。
 だし汁、これも、女のやむを得ない妥協の結果である。だし汁を取るべきほどの量の鰹節も炒り子も無く、代わりに、紙パックに入った濃厚な鰹節のだしがあった。女は紙パックの中の液体を、右手の小指の先につけて舐めてみて味を確認すると、鍋に入れて水を加えて頃合いに薄めて、鍋を火にかけた。女は和ちゃんの視線を楽しむように、和ちゃんが洗い上げた大根と人参をざく切りにした。鍋のだしが軽く沸騰したのを確認して、下ゆでしておいた里芋と、切ったばかりの大根と人参を鍋に入れて砂糖と塩で味を調えた。その調味料を加える分量と手つきに迷いが無く、女がこんな素朴な料理を作り慣れている様子が伺えた。鍋に落としぶたをし、火加減を弱めた。
 炊飯器の中ではご飯が柔らかく蒸れている頃合いだ。女はしゃもじを手にして表面を軽く水で湿らせて、炊飯器の蓋を開け、一番に仏壇に供える小さな茶碗にご飯を盛り、和ちゃんに手渡した。和ちゃんは自分の役割を理解して、ご飯を仏壇に供え、リンを鳴らしてから仏壇の手を合わせた。一度はお祖父ちゃんの父母だという夫婦の写真に、もう一度は左のおばあちゃんの写真に、そして最後に右側の父親の写真に。
 女は油断無く和ちゃんとおじいちゃんの様子を覗った。先ほどのイメージはこの二人に浸透していて状況を疑う様子はなかった。女は、くつくつと野菜が煮上がっていく物音に注意を戻した。鍋ぶたを取り、少量の醤油を加えた。鍋を軽くかき混ぜると、くんっと鼻をくすぐる野菜の甘みが、香りになって広がった。和ちゃんはそんな女を傍らで眺めていた。違和感ではないが、見慣れているはずの光景に、好奇心がわくのである。女は出汁を少しすくい取って、小皿に移して口で息を送って冷まして、和ちゃんに味見をさせた。にんまりと微笑んだ和ちゃんが満足する様子に、自らも満足して鍋の火を止めた。
 煮物を皿に盛りつけて、見つからなかった柚子の代わりに、少量のスダチの皮を潰して細く刻んで、香りと色で煮物を飾った。鍋の中に煮物の一部を残しているのは、後で使用する理由がある。香の物を切って小皿に盛り、冷蔵庫を漁って佃煮を見つけてテーブルに置いた。温めた味噌汁を入れるのに漆器の椀の数が足りず、女はおじいちゃんの分を瀬戸物の椀で代用した。茶碗にご飯をよそって、和ちゃんに手渡してテーブルに運ばせた。テーブルの上に準備が整うと、家族の食事を想像させる光景になった。
「さあ、お義父さん、ご飯にしましょう」
 おじいちゃんに声をかけつつ、和ちゃんの手を導いて、和ちゃんを彼女の横に座らせた。
 和ちゃんにやや戸惑いがある。いつもはおじいちゃんを正面に見て挨拶をする。それを思い出せないままで、和ちゃんは手を合わせて言った。
「いただきます」
 女を頭数に加えるかどうかは別にして、微笑ましい家族の食事風景が始まった。和ちゃんは煮物の味付けが気に入ったようで、いつもは嫌いな人参にも箸を運んでいる。日本の女性が作る昔ながらの味付けの料理に違いない、しかし、おじいちゃんが作る男の料理ではない。和ちゃんは料理に箸を運びつつも、今まで食べたことのない手料理だと言うことには気づいていない。
 普段、和ちゃんとおじいちゃんは食事をしながら、軽いおしゃべりをする。大抵は、和ちゃんが話し手で、幼稚園であったこと、川で見つけた変てこな船の話、公園で見つけた蝉の抜け殻の話など、幼い話し手の話題は尽きない。今日の話し手は、戸惑うようで口が重い。おじいちゃんが笑ってくれる話題は心得ていても、傍らにいて自分に微笑みかけている人物の興味を引きそうな話題が分からないのである。
 しかし、女は無口な和ちゃんに終始機嫌良く、食事よりも和ちゃんの笑顔に満腹したかのように食事を終えた。女は洗い物の前に片付けておく仕事があった。食事の途中で玄関から、居住者が帰宅する物音がしていた。帰宅時間から見てチェルニーという生真面目な女に違いない。このアパートの中で和ちゃんと気さくに言葉を交わす人物で、女が最も注意を払うべき危険人物である。すでにおじいちゃんと和ちゃんの記憶を探ってチェルニーのそんな人となりは掴んでいた。
 母親にも留学経験があり、しかも、この瓢箪荘に居たという。留学中にこのアパートの雰囲気に惹かれた繋がりで娘のチェルニー・アタユックもまたここにいる。母子とも在留期間が長いために日本の食べ物の味を好んでいる。
 女は余分に作って鍋に残している煮物を、新たに皿に盛り、ラップで包んで和ちゃんに微笑みかけた。その笑顔に邪気がない。
「和ちゃん、チェルニーさんのトコ、持って行ってあげようか」
「うんっ」
「お義父さん、洗い物は後でしますから、食器は流しに置いといてくださいね」
 その言葉の存在感は、女がお祖父ちゃんの一人息子の嫁になりきっている。お祖父ちゃんもまた、娘に接するように言った。
「いや、わしが洗うとくから、チェルニーさんのとこ、行っといで」
「ありがとうございます」
 女は煮物の皿を片手に、階段へ足を運んだ。和ちゃんは女に寄り添うように付き従った。お祖父ちゃんは、皿を洗う水道の栓を捻りながら首を傾げた。昨日も、その前の日も、皿洗いは嫁の仕事ではなく、自分と孫と並んで二組の食器を洗っていたような気がするのである。


 病院の研修を終えて帰宅したチェルニーは、仕事で張り詰めた精神をほっと開放しつつ、普段着に着替えたところだ。彼女は一瞬首を傾げた。ドアからノックの音が響いたのである。管理人を始め、他の居住者がこの時間に彼女の部屋を訪れることはめったになく、この時間に訪れる者が居るとすれば、遊び相手を求めてやってくる和ちゃんだが、和ちゃんのノックにしては響く音の位置が高い。
「どうぞ。鍵はかかってませんから」
 訪問者にドアを開ける許可を与えながら、たまたま、ドアのそばにいたために、チェルニー自身が気さくにドアを開けた。
 目の前に、見ず知らずの女が居る。日本人らしい顔立ちという以外に、顔にも姿には記憶すべき特徴がない、まるで、様々な女の雰囲気をまぜこぜにしたようで、その特徴は捕らえどころがないのである。ただ、なにやら身に纏う特殊な雰囲気がチェルニーに突き刺さるように伝わった。
「何か?」
 見ず知らずの女に用件を尋ねようとしたチェルニーは、女の傍らの和ちゃんに気づいて、笑顔を浮かべて警戒を解いた。もともと人なつっこい子供だが、とりわけこの女に安心して身を寄せる雰囲気があり、和ちゃんの素振りからこの女を信用しても良い。女は和ちゃんを利用してチェルニーの心に足がかりを築いた訳だった。
「あのね、お母ちゃんが、これ、夕ごはんにどうぞって」
 和ちゃんが黙ったまま微笑む女の代わりに里芋の煮物を差し出した。
「お母ちゃん?」
 チェルニーはそう疑問を呟いて、改めて女の目を見た。和ちゃんの母が既に亡くなっているというのはよく知っている。
(義母?)
 チェルニーは心の中でそう思ったが、和ちゃんの義母となるべき女性を迎える和ちゃんの父親も、既に亡くなっているはずだ。和ちゃんがお母ちゃんと呼ぶ理由が理解できない。 女は和ちゃんに煮物の皿をチェルニーに渡すように促した。次の瞬間、和ちゃんが手を滑らせたのか、和ちゃんの腕に手を添えていた女の手がそうさせたのか分からない。和ちゃんが手渡そうとした皿が、つるりと滑って落ちかけた。チェルニーは慌ててその皿を支えて受け取ったのだが、その瞬間に、全神経を皿に集中したことで心に隙が出来た。女の目はそれを見逃さず、きらりと鋭く輝いた。
「あらっ、大丈夫? いつもの事なのに、今日は慌てて手が滑っちゃった」
「いえっ、こちらこそ、いつも、美味しい料理をありがとうございます」
「じゃあ、もう遅いから失礼するわ」
「じゃあ、おやすみなさい、和ちゃんもね」
 女とチェルニーが交わした会話はそれだけである。女はその会話の間に和ちゃんの母というイメージを織り込んでチェルニーに植え付けた。和ちゃんに手を振ってから扉を閉じた時には、扉を開けた瞬間には見ず知らずの女だったという記憶が消えていた。

 女は和ちゃんの手を引いて階段を下り、注意深く玄関脇の郵便受けを眺めた。古い木製の郵便受けに入居者の名前のプレートが付いている。女にとって入居者の一覧表のようなものだった。女は視線でその名を辿って、日常的な挨拶という形で洗脳を終えたことを確認した。唯一、「じぇすーる めふめっと」と記載されたプレートに、やや不快な感情を覚えて顔をしかめた。
「和ちゃん、ジェスールさんは?」
「うーん。どこかへ行ってるねん」
「どこへ?」
「知らん。いろいろな所へ行って、あちこちで寝るねんやて」
「いろいろな所で寝る人なのね」
 この子の言葉は何やら理解しがたい。
「ときどき、写真付きの手紙、くれはるねんで」
「手紙?」
「手紙が来たら、お母ちゃんにも見せたげるわ」
(そぉ。ジェスールがこの子に手紙を出すと言うことは、しばらく、帰ってくることはないと言うこと)
 女はジェスールについてそう結論づけた。
「そお、これで全員ね」
 こうして、女はこのアパートで和ちゃんの母親になりきった。


 和ちゃんのお祖父ちゃんは、孫と暮らし始めてから、孫に合わせた生活スケジュールを持っている。和ちゃんが眠そうに目をこすってあくびをする時間帯が、祖父と孫の就寝時間になる。
 この時、この日最後の混乱が起きた。お祖父ちゃんはいつもの習慣に従って和ちゃんがパジャマに着替えている間に畳に布団を並べたのだが、戸惑いが生じたのである。祖父の大きな布団と、孫の小さな布団、いつも通り並べると、和ちゃんの母親の布団を敷くにはスペースが足りない。押し入れの中には、あたかも女のためのように大人用の布団が一組あり、敷くべき布団の枚数と、それを敷くスペースが一致しない。
「あらっ、お義父さん。お布団を干した時に間違えて、私たちのお布団までこの部屋に?」
 いつもは部屋の中央に一人で寝ているだろうと言う暗示である。女は手際よく、小さな布団と来客用の布団を管理人室の隣の空き部屋に運び、お祖父ちゃんの布団を部屋の中央にずらした。その動きがごく当たり前のことのようで、疑問を感じさせない。布団を運び終えると和ちゃんの手を引いて管理人室の入り口で膝を折っておじいちゃんに向いて挨拶をした。
「お義父さん、お休みなさい」
 女はいつもの習慣であるかのように和ちゃんに促した。
「かずちゃんも、おじいちゃんにいつものご挨拶は?」
「おやすみなさい」
 和ちゃんは戸惑いつつそう言った。何やら心の中にわだかまっている物があるのだが、この状況がいつもと違うという疑問になって浮上することがない。女は扉にそっと手を添えて管理人室の扉を閉めた。
 管理人室の隣は長らく入居者がなかったために閑散としてはいたが、これだけが女の所有物であるかのように、部屋の隅に三面鏡と手鏡があった。それ以外は何もない畳の上に、女は管理人室から移した布団を部屋の中央に敷いた。
 女は笑顔でパジャマ姿の和ちゃんに布団にはいるように促し、自分もその傍らに潜り込んだ。和ちゃんが目を大きく開けたまま首をかしげたのをみて、女は優しく聞いた。
「どうしたの? どこか体の具合が悪いの」
「ううん」
「眠くならないの?」
 お母さんだと信じる女の質問に、和ちゃんは首を振って、布団からはい出した。
「ぼく、おしっこ」
「待ってるから、すぐ帰ってらっしゃい。眠くなるまでお歌を歌ってあげる」
 お母さんは優しくそう言ったが、合成音声のように感情が欠けた声だった。ただ、その愛情に濁りはないように思われた。
 
 管理人室に取り残されていたおじいちゃんはこの夜、この部屋がいきなり広くなったかのような孤独感を感じている。やや間をおいて扉が開き、戸惑うような和ちゃんが姿を現した。和ちゃんはぽつりと尋ねた。
「お母さんって、パジャマ、着ぃへんの?」
 隣の部屋で布団に潜り込んだ母親は、先ほど着ていた衣服のままである。母親というものは、自分や祖父とは違って寝間着に着替えるという事をしないものだろうか。それが、やや不思議で、しかし、本人に聞きづらく。和ちゃんは祖父にそう尋ねに来たのである。
「どうやったかな」
 亡くなった妻を思い出してみると、パジャマは着ていなかったような気がするのである。
「パジャマは着てへんかったみたいやな」
 何か違うような気がするのだが、その違いを明確に出来ないまま受け入れている。
「かずちゃん、かずちゃん」
 隣から和ちゃんを呼ぶ女の声が響いた。
「さあ、ぐっすり眠っておいで」
 おじいちゃんはそう言って孫を女の所に送り出した。
 蛍光灯の明かりを消し、豆電球だけの光を浴びて横になっていると、この部屋はいつもより大きく、いつもより孤独に感じられる。
 

  あくる日の早朝、和ちゃんは包丁がリズミカルに音を立ててまな板を叩く音で目を覚ました。台所に立っている女がお母さんだということを思い出した。
「あらっ、ごめんなさい。目を覚まさせてしまったわね?」
 お母さんはそう詫びたが、もともと目覚めは良く、早起きも苦にしない子である。布団から抜け出して珍しい光景であるかのように朝食作りを眺めた。お母さんはふと思いついて和ちゃんを振り返った。
「そうね。二人でお祖父ちゃんも起こしに行きましょうか」
「うん」
 隣の部屋では、お祖父ちゃんはすでに起きて、何かを思い出すように布団をたたみ、押し入れにしまい込んだが、その後、妙に手持ちぶさたな感覚に襲われていた。いつもはこの時間にすることがあったはずだという疑問である。毎朝、自分の孫のために朝食作りをしていたという習慣の断片が、記憶をゆるゆるかき乱す。
 そこに和ちゃんを伴った女が現れた。
「おはようございます。お義父さん」
 女の挨拶を受けて、お祖父ちゃんは見知らぬ女という意識を完全に吹き払った。
「ああ、お早う」
「もし手が空いたら、いつものように、ご飯ができるまで植木の手入れでもいかが?」
 女はおじいちゃんに、朝食作り以外の朝の仕事の記憶を植え付けた。和ちゃんは挨拶しつつお母さんの表情に一片の不快さを読み取った。玄関先でモジャが盛んに唸り吠え始めたのである。お母さんは和ちゃんにも仕事を与えた。
「和ちゃんは、あのワンちゃんにご飯をあげて、静かにさせてらっしゃい」
 早朝7時。和ちゃんはいつもと同じく、愛犬に朝食を与え、アパートの住人たちと朝の挨拶を交わした。住人たちからみて、いつもと違うのは、和ちゃんの傍らでお祖父ちゃんが庭木の剪定をしているということである。
 不思議な女は、慣れた手つきで朝食の準備を終えた。鮭の切り身に、ほうれん草のおひたし、小皿に海苔と香の物、ご飯茶碗には炊きたてのご飯が柔らかく湯気を放って、椀には大根の味噌汁が香りを立てている。その光景の自然さに、管理人室に戻ってきた祖父と孫は首を傾げた。心がこもっていたとはいえ、昨日までのお祖父ちゃんが準備した朝食に比べると、わくわくする期待感がある。
 和ちゃんとお祖父ちゃんは食事をしながらも、いつもと違う疑問を感じて箸を止めることがある。ふっくらしたご飯の炊きあがり、味噌汁の出汁の風味、昨日と同じ食事でありながら、微妙な点で違っていて美味しい。美味しそうに食事をする和ちゃんを、女は幸せそうに、しかし何処か不安気に眺めていた。
  食事が終わると、和ちゃんはいつもの身についた習慣で服を着替えようとして頭を押さえて顔をしかめた。頭を捕まれて振り回されたような目が回る不快感に襲われたのである。しかし、不快感は何事もなく収まって、どうして自分が目眩を感じていたのかも分からず、首を傾げて着替え始めた。
「かずちゃーん」
 いつもとは違う時間の流れの中に、いつもと同じ真澄ちゃんの声が、玄関から響いてきた。真澄ちゃんと、真澄ちゃんのお母さんは、管理人室から現れた人物の姿に、ぶしつけでないよう配慮しつつも、首を傾げた。和ちゃんの傍らで、昨日までのお祖父ちゃんの位置を占めている女に見覚えがない。アパートは新しい入居者を迎えたのだろうかと思ったのである。女は日常的な口調で、この二人と初めての挨拶を交わした。
「おはようございます。いつもお誘いありがとうございます」
「おはようございます」
 二人は和ちゃんがこの女性を紹介してくれるのを期待したのだが、和ちゃんは日常の時の流れに染まっていて、二人が自分の母親を知っているだろうと、疑いを挟んでいない。
「真澄ちゃん、今日もいい笑顔ね」
 和ちゃんのお母さんが、親しげに真澄ちゃんの頭を撫でた時には、真澄ちゃんも、真澄ちゃんの母親も見ず知らずの女だったという事を忘れていた。
 二組の母子は、元気に連れだって幼稚園に向かった。ただ、時折、真澄ちゃんのお母さんが指先でこめかみを押さえているのは目眩を感じるからである。
(ヨシエ先生)
 そう呟いた女は、真澄ちゃんのお母さんから幼稚園の情報を読み取った。
 

 幼稚園で朝の挨拶の時間を過ぎ、お弁当の時間が過ぎ、お遊戯やお歌の時間が過ぎ、間もなく園児達は帰る時間を迎える。女は帰宅する気配を全く見せず、和ちゃんに寄り添うように、油断無く和ちゃんが見える範囲にいる。
 もちろん、園児の父母が子供からつかず離れず、教室どころか、職員室から園長室まで勝手気ままにうろつくのは、過去に例がない。しかし、何故か、先生も園児も、そして和ちゃん本人も、その光景を自然に受け入れた。
 先生や職員には、昨日までの和ちゃんに落ち着きがなかったという記憶はあるのだが、もとの無邪気な性格を取り戻しているという嬉しさにかき消されるように、変化の原因を考えること無く居る。
 いつしか、時間はいつも通りすぎて、母親たちが子供を迎えに来る時間を迎えた。大人と子供が入り交じった賑やかさが演出された。こうしてみると、先生たちは子供と同じ視線で園児に接し、園児も先生を敬愛する仲間にしていることが分かる。子供たちは母親が現れる時間から、大人たちと接する世界に戻ることになるのである。
 和ちゃんは、お母さんに手を引かれて歩いていた。自分自身の感情は失って、手を引かれるまま歩いていると、幼稚園の建屋の端にある物置のドアが開いているのが見えた。ドアの奥の闇の先に別の世界が広がっている気配がした。お母さんが和ちゃんを連れて行こうとする世界だとわかった。お母さんの手は温かく、和ちゃんはその闇に恐怖感は無かった。
 その視界が突然に切り替わった。幼稚園の屋根の高さから眺める視界だが、そこにいる人々との距離感は無く、誰かに興味がわけば、カメラがズームするように映像が接近し、いつの間にやらその人物の傍らで眺めているという具合である。
 この時はヨシエ先生とその同僚を眺めてその会話を聞いていた。ヨシエ先生はふと気付いたように周囲を見回していた。
「和ちゃんは?」
 そう不思議そうにつぶやいたのは、ここのところ情緒不安定で気にかけていて、今日は安堵感を誘った園児、和ちゃんの姿が見あたらないのである。呟きだけではなく、その 心を読むようにヨシエ先生の考えが、お母さんと心の一部を共有する和ちゃんにも伝わってくる。人なつっこい割に一人でいることも苦にしない子どもで、いつもは他の園児がはしゃぐ時間に、温和しくおじいちゃんの姿を待っている。そんな和ちゃんのイメージである。
 ヨシエ先生は傍らの同僚に尋ねた。
「和ちゃんを見かけなかった?」
「そうね、今日は1日、お母さんに連れられて園内をお散歩していたようだけど」
「そう言えば、そうね」
 同僚は和ちゃんの今の場所は分からないという。何やら、女性独特の勘とでもいうものが、ヨシエ先生の不安を掘り起こして煽った。不安が高まってみると、和ちゃんが園内で一人で遊んでいて怪我をしたり、高いところに登って降りられず、助けを求めているかのような不安な想像が次々と湧いて出た。
「ちょっと探してみるわ」
「気を回しすぎじゃない?」
「でも、」
 そう言い残して職員室を離れた彼女を、和ちゃんの視界はカメラを持って追いかけるようにとらえていた。ヨシエ先生の心に渦巻き始めた不安が伝わってくる。新たに嫌な想像が浮かんだのである。
「まさか、」
 裏に貯水槽がある。先日貯水槽を定期清掃したばかりだった。好奇心旺盛な園児の興味を惹きそうな場所である。
(もし、園児が入れないように設けた柵の入り口が開いていたら、或いは、閉じてあるはずの貯水口が開けたままなら、)
 ヨシエ先生の脳裏に貯水槽の上にある小さな入り口から中に落下して溺れる園児の姿が浮かんだ。しかし、無人の物置の傍らを駆けて、たどりついた貯水槽と貯水槽を囲む柵の中には和ちゃんの姿はなく、ヨシエ先生は胸をなで下ろした。しかし、その事実が次の不安をあおり立てる。ヨシエ先生は記憶を辿った。建物の中は、教室の遊具の影にも、トイレの個室の1つ1つにも、職員室の机と机の間にも、何処にも和ちゃんの姿はない、更に、表の運動場の遊具、裏の貯水槽にも姿が無い。
(それじゃあ、和ちゃんは何処に?)
 もう一度、園内を見回ってみようと決心した先生は、和ちゃんの後ろ姿を見つけてほっと安堵のため息をついた。全身から緊張感が抜けるほどの安堵感に、先ほど探して姿がなかった場所に、和ちゃんが突然に現れた、という不自然さに気付かずにいる。そして、不安に駆られた自らのばかばかしさに笑い出したい。その先生が、ぎょっと目の前の光景を凝視した。
 和ちゃんの手を引いて導く母親の前に、開け放たれた物置の中は真っ暗で、吸い込まれそうになるほどの恐怖感を伴って、無限の奥行きを感じさせる。そんな闇の奧に、母親が子どもを連れ去ろうとしているかのような錯覚がしたのである。
(和ちゃん)
 そんな呼びかけを先に察したように、和ちゃんの手を引くお母さんは背を見せたまま、頭部だけをぐるりと回転させて、ヨシエ先生に表情を見せた。
 悲しさや孤独や憎しみが複雑に入り交じった感情がヨシエ先生を包んだが、女の表情には何の生気もなく、目が黒々と光って居るのみである。その違和感に悲鳴を上げようとした瞬間、ヨシエ先生は両の手でこめかみを押さえて目を閉じた。くらくらと目眩のような不快感に襲われたのである。
 ヨシエ先生が再び目を開けたのと、女が何事もなく和ちゃんの手を引いて、先生の傍らを通り過ぎて幼稚園の門に向かったのは、ほぼ同時だった。手を繋ぐ母と子、その後姿に違和感はない。自分の意識と視界を取り戻した和ちゃんが振り返ると、現実に引き戻されて物置を不思議そうに眺めるヨシエ先生がいた。薄暗いものの奧の窓から光が入っていて、古い遊具が収納されている様子が見える。見慣れた物置に過ぎない。
 

  自転車のハンドルを押して歩いていたマリアは、曲がり角で不意に前方に現れた二人を見つけて(しめた)と笑顔を浮かべた。
 アダムが図書館で調べ物を終えたのと、ヨゼフが受ける授業の終了時刻が、たまたま重なったため、二人は大学の門で顔を合わせた。どちらが言うともなく並んで帰宅する途中なのである。マリアは二人の後ろ姿を追い、二人の会話を聞いていた。これから二人に持ちかけるお願いを聞き入れてもらう条件を考えねばならない。
「母国の母に、初めて電話をしたときに」
 ヨゼフが語り始めたのは、彼らがくぐった鉄道の高架を、電車が通過したことがきっかけだが、母親という共通点で和ちゃんのお母さんに影響されてもいる。
 ヨゼフが語るのは、初めてやってきた日本で、最も印象的だった出来事を、故郷のは母に電話で語って聞かせた時のことである。田舎育ちの母親は、電車が7つも8つも繋がっているというヨゼフの話に首を傾げたばかりではない。列車が出発して右の方向に見えなくなる前に、左手の方向から、次の電車がホームに入ってくるという息子の目撃談を信じずに、朗らかに笑い飛ばしたのだという。
「もし、お前の話が本当なら、線路の右端から左端まで電車で埋まって動けなくなっちまうよ」
 ヨゼフの母親はそう言ったらしい。アダムは笑った。悪気はない。おおらかな田舎の母親が想像できて微笑ましいのである。たしかに、ヨゼフの表現を聞いていれば、線路の端から端まで、密に詰まった列車を連想せざるを得ない。人口が住宅地域に集中し、その多数の人口を毎朝、職場にばらまくために、列車は信じられない密度で運用される。その都市部の急激な人口変化を感じなければ、状況を理解することは難しいに違いない。
 あれこれ考えながら歩くうちに、二人に前方を歩いていた母子が目に入った。幼稚園から瓢箪荘に帰る和ちゃんと母親である。挨拶をするには距離がありすぎて、遠目に眺めただけだが、雑踏の人々に紛れて、しっかり手を繋いで関係を崩さない、仲の良い母子の姿である。
「いいもんだね」
 アダムが和ちゃんと母親の仲の良い光景を表し、ヨゼフが肯いた。二人の背後にいるマリアもそう思っていた。心の底に埋もれてしまったが、和ちゃんの寂しげな態度や表情が思い起こされることがあり、その姿と対比して満足げな和ちゃんの姿は(よかったな)と、祝福したくなる光景なのだろう。そして、和ちゃんを見守る二人の姿は、子供のように純真に見えた。
 マリアはお願いの代償を思いついた。母親が子供に飲ませるみたいに、スープを分けてやればいい。マリアは背後から自転車のベルを鳴らして、自分の存在を二人に伝えた。
「ちょっと、」
 マリアは、そうにっこり笑いかけて、左右のハンドルに下げていた大きな袋を掲げて見せた。アダムとヨゼフはマリアの意図を察して顔を見合わせた。安売りだったらしい。マリアの自転車の前籠には、スーパーで買ってきたらしい食料が入っている他、ジャガイモとトウモロコシが山ほど入った袋をハンドルに下げていたのである。これでは重くてハンドルを取られて走りにくいに違いない。
「形が不揃いでしょ? だから、後ろの荷台にも載せにくかったの」
 マリアはそう理由付けをし、アダムはジャガイモ、ヨゼフはとうもろこしの入ったビニール袋を1つづ渡した。アパートまで運べと命じられていることを察した二人は素直に指示に従った。マリアは礼に代えて言った。
「ありがと。スープが出来たら分けてあげるわ」
 そんなやりとりをしているうちに、和ちゃんと母親は三人の視界から姿を消していた。真っ直ぐで視界の聞く道である。三人が一様に眉をひそめたのは、母親が和ちゃんを何処か異様な世界に連れ去ったかのような印象を受けたためである。しかし、三人は頭に浮かんだ悪夢を首を振って払った。
 マリアは自転車を手で押して、召使いを従えるように三人の先頭を歩いた。
「ちょっと」
 突然に、マリアが何かに気付いたように立ち止まって背後の二人に声をかけた。彼女は耳を澄ませて伝わるメロディに耳を傾けた。
  かーごめ、かごめ
  かぁごのなぁかの
  とぉりぃはぁーー
  いつ、いつ、でぇやあるぅ
「これは?」
 尋ねたアダム自身が知っている。彼が興味を持っている日本の子どもたちの遊び歌である。公園の中で顔を手で覆って視界を遮ってしゃがむ子どもを中心に、六人ばかりの子どもが手を繋いで輪をつくって、回りながら歌っているのである。マリアもこういう光景を見るのは初めてらしい。日本の子どもというと、近代的なゲーム機やカードゲームなど流行の遊びのイメージがあり、こんな都会の一角で目にする光景だとは思えなかったのである。
「へぇっ。数百年も前の遊びが、現代にまで伝わってるんだね」
「幼稚園や保育園で、先生が教えるのかしら」
「年長の子どもから、幼い子どもへ、遊びを通じて伝えられてるとしたら面白いね」
 アダムとマリアの会話に、素直に首を傾げてヨゼフが割り込んだ。
「何を歌ってる?」
 マリアは振り返ってアダムと顔を見合わせた。そう質問を投げかけられると、一言では答えにくい。アダムは子どもたちの輪を指差した。
「いろいろな説があってね。かごめっていうのは、外側の輪の子どもたちのように、囲むという意味、中央の子どものように屈めという意味、そう解釈してゆくと、子どもたちの遊び歌や、シャーマニズムと結びついて不可思議なものを呼び寄せる儀式に広がってゆくね。それから、」
 マリアが言葉を引き継いだ。
「妊婦と解釈する説もあるわね。その場合は、お腹の赤ちゃんは、いつ生まれるのかと尋ねる意味もあるの」
「いろいろな意味に解釈できるから、遊郭の遊女を表すとか、飢饉の時に子どもを殺害するとか、果ては、日本とユダヤの関係を象徴するとか、」
 ヨゼフは遊びの輪を見ながら呟くように言った。
「でも、楽しそうに遊んでるから、難しい理屈は振り回さないでいいね」
「ヨゼフ。いいことを言うわね」
 マリアのそんな結論に、アダムも肩をすくめて同意した。難しい理屈を離れてみると、古い遊びに興じる子どもたちは無邪気で愛らしく、子どもたちの存在そのものに価値があるかのような気になる。三人は再び歩き始めたが、アダムはやや小首を傾げた。子どもたちの景色に、和ちゃんと母親が手を繋ぐ後ろ姿が重なって、更に、呼び起こされて重なる記憶がある。子どもの姿、仲の良い母と子の姿を眺めていると、自分が故郷の母親と距離を置いてしまっていることが後ろめたい罪悪感をもって思い起こされるのである。

 マリアは開いたままのドアをノックして、パソコンに向き合っていたアダムに自分の存在を教えた。気さくなマリアは、アダムが頷いて許可を与える前に部屋に入ってきた。
「調べ物をしたかったから、パソコンを借りたいと思ったんだけど、今使ってるの?」
「かまわないよ。ぼんやりとディスプレイを眺めていただけだから」
 アダムはパソコンのディスプレイを通じて母親と向きあっていた。返事を書かないままで放置しているメールが2通ある。差出人の名は彼の妹である。しかし、その名に彼の母親の名が重なるように見えるようである。
 帰宅途上の会話の中、アダムの眼に母国の家族が浮かんでいた。母国には両親と妹が一人いる。母親は裕福な家の出で、父親は貧しいが努力して地位と妻を手に入れた。しかし、仕事で失敗をして貧しいと言うほどではないが金と名声を失った。妻はそんな夫を叱咤し、ややもすると息子のアダムの前で夫を馬鹿にして「こんな人間にはなるな」と言ったりする。母親はしっかり者で家計を支えているが頑固で融通が利かない面があり、自分の信念を夫や子供に強制するところがある。アダムの妹は素直でやや気が弱く諦めるような雰囲気で母親に従って生きている。アダムは母親に感謝しつつも、反感を感じつつ生きてきた。
 メールの文面は兄を気遣う妹のものだが、母に従順な妹が勝手にメールを出すことは考えられず、母親の意向を汲んだ妹が母親に成り代わってメールをよこしたと考えて良い。もちろん、電話という通信手段がある。しかし、肉声という感情がこもったやりとりは、不快な想い出を伴って口げんかに発展する不安を感じさせるのである。
 日本にやってきて、母親の呪縛から逃れたような開放感を感じていた。一方、年老いた父や母を故郷に放置しているという罪悪感も感じていて、彼をメールに向かわせたのである。
 思い悩みながら母親へのメールを綴り、迷い果てて行き詰まった心を整理するために、とりあえず、綴った言葉を印刷しおわったところである。
 印刷が終わった紙をマリアが取り上げ、アダムに手渡そうとしながらその文面が目に触れた。
「お母さん、今、僕は、この東洋の外れで、母と子の関係について、考えています。時代や、地域や、民族や、宗教や、思想信条、そんなものに左右されない普遍的な愛情。もしも、僕が……」
「こらっ、勝手に読むな……」
 アダムは言葉を途切れさせた。声に出して読まれたのが気恥ずかしくなり、両手の指先を髪に挿し入れるように頭を覆ってため息をついた。
「お母さん宛のメールが、どうして日本語なの?」
 マリアは自然な疑問を口にした。ポーランド人の家族に日本語のメールを送っても、内容を理解することはできないだろう。
「手紙の原稿みたいなものさ」
 心が乱れていて、アダムはそんな答えをするしかない。アダムは胸にかけた小さな十字架を握ったが、マリアは彼が信仰にはあまり熱心ではないことを知っていた。
 マリアは作家志望らしく彼女の想像を交えて察した。あの十字架は、東洋の果てに行く息子に、熱心なカトリックの母親がお守り代わりに与えたものに違いない。ただ、母と子の間には何やら確執があって直接言葉は交わしにくい。アダムが十字架を握りながら母親の愛情について思い起こすと、その事例は数知れず、感謝の言葉を紡ぐすべがないのだろう。ただ、それを言葉で綴って伝えるのも気恥ずかしく、日本語でその内容を認めてみた。そして、いつかそのメールをポーランドに翻訳して送信したいと考えているのではないか。マリアはそんな想像を一言に集約して尋ねた。
「お母さんを愛しているのね?」
「誰でもそうだろ」
 アダムは紙を二つ折りにして文字を隠し、読みかけの本に挟んで閉じた。メールはアダムのパソコンから送信されずにしまい込まれた。アダムがそのメールを送信することがあるかどうか、マリアが想像をふくらませようとしたときに、彼女は唐突に小さな叫びを上げて我に返った。
「きゃっ。ジャガイモが」
 マリアは小さな叫びを上げて部屋を飛び出した。自室で茹でていたジャガイモが焦げる臭いを感じ取ったのである。