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瓢箪荘のひとびと

プロローグ


 今、目の前を流れる淀川に注ぎ込む源流を数えれば、京都から流れ下る桂川に鴨川、更に宇治川から瀬田川へと遡り、琵琶湖へ注ぐ水系を合わせれば、数十を超える大小の流れをあげなくてはならない。名もない流れが混じり合い、人や町の雰囲気に染まりつつ、大阪平野を南北に分断し、西へと流れ下り海に注ぐ。時に気象に応じて激しく、時に景色に解け合って緩やかで、時にはゆるりと淀みもする。
 この水に「どこから来たのか」と問うのは意味が無く、「何処へ行くのか」と問うても答えはない。その様子に人々を重ね合わせ、人ではないものの存在まで重ねるのは大げさと言えるだろうか。
 この淀川の流れに沿って眺めていくと、大阪湾を目前にして南に分岐する流れがある。今は大川と呼ばれる旧淀川の流れである。この流れに沿って南に眼を向けると大阪城が遠望できる。古い大阪の象徴だが、今は再開発が進んで高層ビルが建ち並び新たなビジネスの中心に育ちつつある。そして、この流れの西側は、「キタ」と俗称される関西の巨大ビジネス街である。
  一方で東側に目を転じると、幾分時間がゆったりと流れていると言っても良い。その割に、雑多な感じがあって落ち着きがないのは、道路が複雑に入り組んで、人と町が入り交じっているせいかもしれない。様々な土地の出身者が居を構え、この土地は大阪という土地が持つ貪欲さと好奇心で、様々に異なる人々や文化を飲み込んで融合しているのである。
 しかし、早朝のほの暗い景色に人の姿は絶えており、川をまたぐ鉄橋をJRの始発電車が通過する音のみ響いていた。流れが穏やかになり、流れの勢いではなく、河面を吹き渡る微風がさざ波を起こすことがある。突然、そんな河面にポツリと小さな波紋が広がった。波紋は中央が窪んだいびつな楕円を形作って消えた。そんな小さな波紋が、ゆっくりとした足取りを想像させるように、点々と進みつつ、広がっては消えて、川の流れに逆らうように川縁にたどり着いた。
 ぴしゃりっと、飛沫を散らすほどの音が、人気が絶えている歩道に響いた。昨日の夕方まで降っていた雨が乾き始めた石畳に、水でくっきり刻印された形は、女らしい華奢な素足の足跡である。足跡は確かな何かがいるという証左に違いないのだが、足跡以外に目に見える存在感はなく、むしろ傍らにいれば虚無に吸い込まれそうな恐怖を感じるに違いない。足跡は一定の間隔を開けて続いたが、目的地を求めて迷うように、心の底の戸惑いを隠せないように乱れ、やがて、消えた。
 突然、川縁に一陣の風が吹き渡り、舞上げられた落ち葉と埃は、まだ光を放つ街灯に照らされながらそこに在るものを避けて通って、外形を表した。髪の長い女の後ろ姿である。
 孤独だけが存在感であるかのような女の姿は、そんな町のありきたりな一角を歩んだ。道は両脇を住宅に挟まれて、東西に三十メートルばかり伸び、その突き当たりに古い二階建ての安アパートがある。建物は丁寧に補修され、建物を囲む垣根は綺麗に刈り込んで手入れが行き届いているのだが、いかんせん、遠目に見ると周りの家々と比較せざるを得ず、土地に根を張った古木のような古めかしさを感じずにいられない。築四十年と言ったところか。
 玄関の古い木の看板は、古びて黒ずみ、木目の凹凸が浮き出しているが、木目の流れに浮かぶように毛筆で書かれたらしい『瓢箪荘』の文字を読み取ることが出来る。看板の下に貼られた『空き部屋あります』という真新しい張り紙が、新たな入居者を誘っていた。
 今、東から差し込んだ日差しが、玄関の観音開きのドアの窓ガラスを射て、住人たちに朝をもたらしたところである。まだ、雀のさえずりが賑やかに感じられる早朝である。入り口の傍らに、家人の手作りらしい犬小屋があり、番犬と呼ぶにはやや歳を経たムク犬がおり、朝の雰囲気を味わうのほほんとした雰囲気が犬を包んでいた。
 が、犬は敏感に気配を察して、閉じかけたまぶたをぴくりと動かして、喉の奥から低いうなり声を絞り出した。その警告の声には、老武士が主人を守ろうとするかのような質朴な忠誠心が感じられた。接近する柔らかな足音と女の気配は、朝日の中に融けて薄れて消えた。
 

 よく磨き上げられた扉のガラス窓の内側に、一人の幼児が顔を見せた。こんな早朝から、すでにぱっちりと目を開けて、表情豊かで陰りがない。幼児は母親のお腹の袋から鼻面を出したカンガルーの子のように注意深く、しかし、好奇心に満ちた目で外を窺った。昨日の早朝に降り始めた雨は夕刻には綺麗に上がって地面は乾いていた。ただ、木々の葉に残った滴が朝日に輝いて、夜の星が残した一滴に見えた。そんな変化を確認していたのかも知れない。
 とうとう、幼児は決心したようにドアを開けて半身を現して、左右の家並みの稜線で切り取られた、細くくっきり青い空を見上げて微笑んだ。今日の幸せを予感したのかもしれない。しばらく好奇心に溢れた眼を忙しく動かして、空の青さを受け入れていたが、子供らしい気まぐれを感じさせるように、アパートの奥に引き込んで姿を消した。
 アパートの玄関先では、先ほどのムク犬が危機感から解放されてのんびりあくびをした。垂れた耳をぴくりと動かしたのは、単調な生活の中に、町の雑多な音が混じりながら、遠くから届いた電車の音を捉えたからである。
 やがて、扉の窓ガラスの向こうに、先ほどの幼児の上半身が見えた。扉のガラスの外ではムク犬が盛んに尾振った。食事の香りが漂い、この愛犬に朝食時間を予告しているのである。しかし、幼児はドアの向こうで困り果ててしまったようだ。窓ガラス越しに見える幼児の仕草から察するに、愛犬の食事が入った容器を両腕で抱えて居るのだが、その荷物が邪魔で、ドアを押し開けることが出来ないのである。額を押し当ててドアを開けようとしたのだが、抱えた容器が傾いて中身が零れそうになる。

 そんな時、そのドアが音もなく開いて、幼児の頭の上から声が降ってきた。
「ジャンボ。和ちゃん」
 黒人青年が白い歯の笑顔でドアに手をかけた姿勢で居る。和ちゃんと呼ばれた幼児が容器を抱えるのと同じポーズで、彼も紙袋を抱えているのだが、腕が長い。大きめの紙袋を右手一本で抱えなおして、空いた左の腕を伸ばして、和ちゃんのためにドアを開けてやったのである。長身の青年で、玄関のドアをくぐるのに少し身を屈めている。
「じゃんぼ。ヨゼフさん」
 和ちゃんと呼ばれた幼児は、空を見上げる角度のままで、黒人青年の顔を見上げて、青年の母国語で朝の挨拶を返した。
 和ちゃんはこのヨゼフの笑顔が大好きだった。青年はその白い歯が歯茎までこぼれる口を大きく開けて見せて、あーんと言った。和ちゃんもあーんと口を開いた。ヨゼフは紙袋の中からドーナッツを2つ選んで取り出し、和ちゃんに1つをくわえさせ、自分も1つをほうばった。和ちゃんが端を咥えるドーナツが、ヨゼフの大きな口には一口で納まった。
 この時間、駅前のパン屋では、今朝焼き上がったばかりのパンが、甘くふくよかな香りをたてて店頭で並ぶ。同時に昨夜のパンが十把一絡げに袋詰めされて、一袋300円の値段で安売りの棚に移されるのである。和ちゃんは、毎朝、この黒人青年が、300円を硬貨で3枚握りしめて、安売りのパンを1日分の食料として買い出しに行くのを知っていた。生活費が食費より先に本代に消えていた。しかし、青年の屈託のない笑顔に暗さがない。しかも、青年は部屋代を滞納したことはないという、家主にとって好ましい律儀さを持っていた。青年は幼児の表情を確認するように窺った。もともと、人なつっこく明るい子供だが、最近、心配事があるように表情を曇らせていることがある。この幼児の今朝の表情には陰りがなく、青年をほっとさせた。和ちゃんはドーナツをくわえたまま頭をぺこんと下げてお礼に変えた。
「ジャンボ。モジャ」
 ヨゼフは和ちゃんの愛犬にも忘れず挨拶をした。和ちゃんはヨゼフにモジャの名を教えたときのことを覚えている。モジャという名を聞いたヨゼフは、彼の母国のスワヒリ語かと尋ねた。しかし、日本語ではこの犬の毛並みを"もじゃもじゃ"と表現するのである。ヨゼフはこの老犬の名が、その毛並みに由来することを知った。さかんに尾を振るモジャの頭を撫でただけで、ヨゼフは廊下の向こうに消えていった。
 和ちゃんの愛犬モジャは、期待感を込めて振っていた尾を静止させ、露骨に不満を表した。ヨゼフが抱える袋から美味しそうなチーズの香りがしたのだが、今日のヨゼフはモジャに分け前を与えてくれるのを忘れていた。モジャは飼い主が持って来てくれたいつもの朝食だけで我慢することにして、和ちゃんが目の前に置いてくれた食事の容器に鼻面をつっこんだ。

 和ちゃんは玄関先の水道の栓を捻って、慣れた手つきで水の容器を洗い、容器に新らしい水を満たして、愛犬の朝食と並べて置いた。歳を経ている割に食欲が衰えない元気な犬で、すでに朝食を食べ終えかけて、食器をぺろりとなめ回していた。和ちゃんはドアが開く気配に気付いて振り返って挨拶をした。ドアが開くいつもの正確な時間で、出てきた人物を察していた。
「ぐっもーにん。ヘレンさん」
「グッモーニン。今日も元気やね、和ちゃん」
  流暢な日本語である。最近は大阪訛りまで自然で、会話だけを聞いていれば、彼女の青い眼や金髪は想像しにくい。彼女はモジャが食事を終えているのに気付いて、少し腰を落として、膝に手を置いた姿勢でモジャにも挨拶をした。
「グッモーニン、モジャ。散歩に行こうか?」
 誘いの言葉より先に、モジャの首輪から延びる鎖に手が伸びている。モジャは慌てて尾を下げて小屋に引っ込んでしまった。モジャは苦い想い出で、彼女の毎朝の散歩コースを記憶している。大川沿いに遙か向こうの大阪城まで走る。更に、城の外堀を一周して戻る。距離にすれば十数キロはあるに違いない。彼女はその距離をほとんど休み無く、一時間ばかりで走りきるのである。モジャはそんな苦しい散歩はまっぴらだった。和ちゃんと挨拶を交わす間にも、準備運動のつもりかシャトーボクシングのようなステップを踏んでいる。攻撃的な雰囲気が、幼児にも理解できるらしく、和ちゃんは明るく言った。
「あまり、元気すぎたら、オトコが寄ってけえへんで」
 ヘレンは返答に戸惑った。幼稚園児のものいいとして、おませ過ぎる言い回しである。和ちゃん一人の知恵ではあるまい。
「誰から、そんな言い方を習ったの?」
 和ちゃんは指を目の前で丸めてみせ、ヘレンにヒントを与えた。
「ああっ、あの眼鏡女ね」
 ヘレンは和ちゃんに植え付けられた偏見を振り払うため、和ちゃんの傍らにしゃがみ込み、彼女の男性に対する志の高さを示すように空を振り仰いだ。和ちゃんは理解した。ヘレンが天を指さすように掲げた左の拳はアーチェリーの弓を持っている。そして肘を後方に下げた右手の指先には引き絞った弦と矢を支えている。
「覚えておきなさい。寄ってくるのを待つんじゃないの。狩猟と同じ。いい男のハートはこちらから射止めるものよ」
 ヘレンの放った矢は見事に、理想を男の心を射止めたらしい。彼女は満足げに立ち上がって和ちゃんの頭を撫でた。和ちゃんは屈託無く歯を見せて笑った。ヘレンはこの子の笑顔が気に入っていた。物心つくまえに両親を失っているのに、この明るい笑顔はどうだろう。あと十年ばかり歳を経て一人前の男に育ったら、きっと勇敢な男になるだろう。
「男は?」
と、ヘレンが問うた。
「海兵隊!」
と、和ちゃんはヘレンに教えてもらった模範解答をした。ヘレンにとってこの素直さが可愛いところだった。彼女は言葉を続け、和ちゃんが応じた。
「臆病者は?」
「陸軍へ行け!」
「よしっ……」
 ヘレンは和ちゃんの模範解答を確認して、和ちゃんとハイタッチしたあと、一人で駆け去っていった。戻るのは、和ちゃんが幼稚園に行く頃である。ヘレンと和ちゃんのやりとりは、ガラス戸越しにアパートの内側まで響くほど大きい。
 和ちゃんは、ずり落ち駆けた眼鏡を直し、ショルダーバッグを右肩にかけながらドアを開けた女性に気づいた。和ちゃんは彼女の出現に、早朝勤務だということを知った。病院勤めで出勤が不規則になることを知っている。
 女は眉をひそめて呟いていた。
「男は……、海兵隊? 臆病者は……、陸軍へ行け? まったく、あの女は無垢な幼児に、なんて偏った教育をしてるの? 」
 和ちゃんは少し考えて、この時間の挨拶を思い出した。
「さわっでぃくらっぷ。チェルニーさん」
 和ちゃんはチェルニーの母国語で挨拶をした。ちゃんと手を合わせて拝む仕草も忘れていない。
「サワッディーカー」
 チェルニーも彼女の母国語で答え、そこから先は言葉を日本語に切り替えた。
「よく晴れてるわね」
「うんっ」
 頷いた和ちゃんは、このチェルニーの笑顔に母親のイメージを抱くことがある。チェルニーがこのアパートに住み始めたのは、和ちゃんがここに来る一年ほど前だったらしい。当時、和ちゃんは写真でしか知らない曾祖父母が、このアパートの管理人をしていたという。和ちゃんのお祖父ちゃんが幼い頃から育ったのもこのアパートである。
 チェルニーの母親も、同じ頃に留学生としてこのアパートに住んでいたという。家賃の安さと管理人夫婦の面倒見の良さが口コミで広がって、以前から、外国人の学生や長期滞在者のたまり場になっていた。チェルニーの母親が帰国した後も、その娘のチェルニーが成長した後、母の薦めでこのアパートに居住すると言うほど、長い歴史を築いていた。
 ここで成長したお祖父ちゃんは、管理人の両親から独立して家庭を持ち、一人息子を得た。瓢簞荘が年輪を刻むように時を重ねるうち、和ちゃんのお祖父ちゃんの息子も妻を娶り、和ちゃんが生まれたのである。
 若夫婦は、父親夫婦と瓢簞荘の管理人をしていた曾宇祖父母を温泉旅行に誘った。たまたま、幼い和ちゃんが体調を崩したことと、お祖父ちゃんが風邪気味だったことで、お祖父ちゃんがアパートに残って和ちゃんの世話をする事になった。ただ、悲劇がこの一族を襲った。飲酒運転の大型トラックとの正面衝突で搭乗者全員が亡くなるという悲惨な事故である。
 それ以来、お祖父ちゃんは勤めを辞めてこのアパートを引き継ぎ、孫の和ちゃんの世話をしながら生活している。
 そう言うことを、和ちゃんは寡黙なおじいちゃんではなく、入居者たちから聞いた断片的な情報をまとめて知っていたが、全てを理解しているとは言い難い。ただ、お祖父ちゃんの寡黙な後ろ姿に、幼い和ちゃんも寂しさを感じ取ることがある。
「今日も頑張ろうね」
 チェルニーは和ちゃんを包む悲しい過去を振り払うように明るく言った。
「うんっ」
 明るく返事をした和ちゃんは、次の人物がドアから出てきたのを見つけて微笑んだ。
「じゃん、じんっ……?」
 和ちゃんは悩んでしまった。挨拶を思い出せないで居るらしい。
「ジェン・ドーブリィ。和ちゃん」
「じぇん どぉぶりい。アダムさん」
 和ちゃんはこうやって、居住者に教えてもらった挨拶を交わしているのである。チェルニーも若者に挨拶をした。
「おはようございます。アダムさん」
「おはようございます。アタユックさん」
 居住者たちの共通語は日本語であるらしい。アダムは礼儀正しくチェルニーを姓で呼んで続けた。
「でも、私、アダムでない。マリノフスキーいいます。綴りは、M、A、L、」
 彼が自分の姓の綴りまで説明しようとしたので、チェルニーはそれは不要だと手を振った。アダムはアダムと言う名ではなく、マリノフスキーという姓で呼んでくれと言っているのである。アダムという名は舌足らずな和ちゃんにのみ許している愛称のようなものらしい。
 チェルニーは、試しにこの真面目な男の背後に女性の名を呼びかけてみた。
「マリア……」
 アダムは背後にその名の女性の存在を想像して、慌てて身なりを正した。チェルニーは彼が慌てる様子が面白く、ぺろっと舌を出して告白した。
「嘘よ」                            
 8号室のマリアの名に敏感に反応する様子は、アダムがマリアに特別な思いを抱いていることを思わせるのだが、当事者同士が気付いているかどうか疑わしい。ひょっとしたら、この真面目な男は、今、自分がからかわれたことさえ分からないかもしない。チェルニーは笑いながらこの場を立ち去った。
 和ちゃんが眺めていると、生真面目な男は背後に誰も居ないことを確認して、状況が分からないという風に首を傾げた。そして、ここにいる目的が、毎朝欠かさずに行う散歩だったことだけを思い出した。体調管理と日本文化研究の気分転換を兼ねている。アダムは意味もなく和ちゃんの頭を撫でて足早に歩き去った。


 和ちゃんがモジャに朝食を与え終え、早起きの住人たちと朝の挨拶を交わし終わる時間になると、管理人室からぷんと鼻をくすぐるように、昆布のだし汁の香が漂ってくる。ただ、和ちゃんには朝食の前に、まだ確認しておくことがある。和ちゃんは黙って階段の上を見上げた。耳を澄まして様子を伺った。先ほど、目覚まし時計のベルの音が響いていたはずだ、あの目覚まし時計の音は8号室のマリアのものだ。

 和ちゃんは大人びたため息をつくような素振りを見せ、だふだぶのスリッパの足音を賑やかに響かせて二階へ駆け上がった。二階、奥から三つ目の部屋のドアをノックして耳をすませた。
「マリアさん」
 耳を澄ますし続けるが返事は無い。和ちゃんは強くノックを繰り返して声を張り上げた。
「マリアさん」
 和ちゃんの呼びかけに応じる気配がない。これは揺り動かして起してやる必要があるだろう。和ちゃんはため息をつくように、そっとドアを開けた。和ちゃんの想像に反して、マリアは布団で上半身を起して目覚めていた。ただ、その目はまだ寝とぼけていて、目の前に現れた和ちゃんが、どうしてここにいるのか理解できないようだ。
 しかし、喉の奥まで見えるほどの大きなあくびをして、マリアは事態を悟って表情を一変させた。和ちゃんは念を押すように言った。
「マリアさん、もう、7時半回ったで……」
「きゃっ」
 マリアは悲鳴を上げた。彼女は役に立たなかった目覚まし時計を探し、部屋の隅に放り投げるように転がっていた目覚まし時計で、和ちゃんの言う時間を確認した。
 会社の始業時間が八時半。
 アパートから勤め先まで自転車で十二分ほど。彼女に残されている時間は四十分弱である。和ちゃんはこの状況に意外な質問をした。
「まくらがえし?」
 枕返し。古くからこの国に伝わる妖怪の名である。頭の下にあったはずの枕が、朝、目覚めたときに足下に移動している。大抵は人の寝相の悪さによって生じている現象を、この国の人々は妖怪の仕業と称して枕返しと呼ぶのである。過去に、マリアは自分が置かれた状況に遭遇して、部屋の隅に転がった目覚まし時計を指して言ったことがある。
「これは、きっと、枕返しの仕業だわ」
 ただ、妖怪が目覚まし時計を移動させるという伝承はなく、マリアの朝寝坊をごまかす創作に違いない。
「ちこくしたら あかんで」

 五歳の幼児としては、やや大人びた口調で諭した。この辺りは居住者たちの影響がある。
マリアがあわてて着替え始めたので、和ちゃんは任務を果たしてドアを閉めた。
「和ちゃん」と、マリアの声が和ちゃんを呼び止めた。
 和ちゃんが振り返ると、マリアがドアを開けて、和ちゃんの額にキスをして言った。
「ありがと」と、目覚まし時計になった和ちゃんに礼を言い、続けて言った。
「幼稚園から帰ったら、あの絵本を見ていてもいいわよ」
 彼女が指差す机の上に、二冊の絵本がある。どうやら、彼女の寝坊の原因は、あの絵本の物語や絵柄に見入っていて、夜更かしをしたことらしい。
 ここの所、マリアの興味は妖怪、日本の精霊にある。読書の幅は小泉八雲の怪談話から柳田国男の民俗学的な文献、水木しげるのエッセイやイラストまで多岐に渡っている。静かな夜に一人で読むには恐ろし気な書籍もある。ただ、この種の本が彼女の想像力を楽しく刺激する。
(なんて、愉快な精霊が多い国……)
 彼女は曾祖母の母国について、和ちゃんにそう語っていた。和ちゃんの想像は既にマリアが書く本にある。
「うんっ、早よ、マリアさんの本、読みたいわ」
 マリアが童話作家を志している。日本で金を貯めて帰国後の学費にする。様々な国の子どもたちに希望を与えるような童話が書きたい。彼女は和ちゃんにそんな彼女の夢を語って聞かせたのである。

 役割を終えた和ちゃんは階段を下り、まだ手を洗っていないことに気付いて、軒先の蛇口で手を洗った。そして、いつも手を洗ってから気づく。手を拭くタオルは玄関先にはないのである。和ちゃんは指先から水滴が滴る指先をぶらんとさせていたが、誰も居ないことを確認してズボンにくっつけた。手の甲の水滴がズボンの布地に吸い込まれて手は乾いた。後は、やや大胆になり、手のひらや指先をズボンや上着に触れて乾かした。
 玄関の郵便受けの一つに、「じぇすーる・めふめっと」とかな文字で名前が記載されている。和ちゃんはその文字を指でなぞって、今は旅行で不在の住人のひげ面を思い出した。

 管理人室に戻ると、先ほどまでの昆布だしの香りに、味噌の香が加わっていた。
「どうも、アレの味は出されへんな」と、お祖父ちゃんが笑うことがある。
 お祖父ちゃんが言うアレとは、和ちゃんのお婆ちゃんのことだ。おばあちゃんの味噌汁を再現したいと思いつつ、まだその域には及ばないと笑うのである。和ちゃんには良く分からない。おばあちゃんの味噌汁の味も、お母さんの味噌汁の味も知らず、お祖父ちゃんが無骨な手と妻の味の記憶を頼りに作った味噌汁だけだ。
「ちゃんと、手ぇ洗ろたか?」
「うんっ」
 言葉に偽りは無いはずだ。和ちゃんはちゃんと手を洗った。ただ、ズボンで手ぬぐったことは伏せているだけだ。
「仏前に供えといで」
 お祖父ちゃんが炊き上がったご飯をよそって、和ちゃんに渡した。
「うんっ」
 和ちゃんはお茶碗に盛ったご飯を仏壇に供え、リンを一度鳴らしてから、幼い手を合わせた。和ちゃんの目の前に、曾祖父母だという老夫婦、お婆ちゃんだという初老の女性の写真が入った写真立てがある。その横に、まだ若い二人の男女の写真が入った額縁が飾られていた。和ちゃんは薄目を開けて若い夫婦の写真を仰ぎ見た。父母だと教えられたが、肌に感じる体温としての実感はない。
 しかし、和ちゃんにも母親の記憶がある。ただ、その記憶は虚構で、母親の写真の面影をもとに、マリアやチェルニーやヘレンのしぐさや口癖をもとに作り上げたものだ。だから、和ちゃんの母は彼女たちのように話し、行動する。
 毎日、ご飯をお供えして手を合わせているが、写真のお母さんは、和ちゃんに何も語ってはくれない。和ちゃんが肉親の死を受け入れられないというわけではない。写真の人物たちが空虚で、この世に自分の肉親として存在したということが実感として感じられないのである。
「お母さんって、なんやろ?」
 和ちゃんがそんな質問をしたことがある。母を持った子どもなら、「どんな人?」と問いかけたに違いない。しかし、生きていた人という実感がわかず、写真で目にするものはただの画像でしかない。
「そうやな」
 思い出してみると一言では言いにくい。のほほんとして男性にリードを許しているように見えつつ、芯はしっかりしていて自分の信念を曲げることが無い。分かりやすく、例えて言えば、お祖父ちゃんが具体的な名を上げようとしたときに、件の女性が管理人室の入り口に居た。
 マリアは和ちゃんに起こしてもらった礼を言ってから出かけようとしたのだが、管理人室から彼女の空きっ腹を刺激する香が漂ってくる。朝食を作る暇が無かったので、早めに出かけてコンビニで菓子パンでも買って行こうと考えていた。そんなマリアの心情を察するようにお祖父ちゃんが声をかけた。
「マリアさんも食べていけへんか?」
「えっ、いいんですか」
 マリアは腕時計で時間を確認して、迷わなかった。出かけるまでにあと二十二分。味噌汁一椀とご飯を一膳を食べるには十分な時間だ。この瞬間、マリアは気さくに招きに応じて部屋に一歩踏み込んでいる。マリアの性格と同時に、ぶっきらぼうながら、気さくな管理人の包容力にあるらしい。

「ごちそうさまでした」
「時間がないんやろから、茶碗はそのまま置いとき、こっちで洗ろとくから」
「ありがとうございます」
 マリアはお祖父ちゃんの言葉に甘えて、和ちゃんに朝食のお礼を約束した。
「今度、また、和ちゃんのお弁当を作ってあげるね」
「うん」
 お祖父ちゃんは手先が器用な人間だが、お弁当については男女の差が現れるらしい。お弁当の蓋を取ったときの可愛らしさや彩りの面で、お祖父ちゃんよりマリアの作ったお弁当の方が、幼児の目から見ても美味しそうに見えるのである。
「じゃあ、すみません」
 和ちゃんは、マリアが素直に頭を下げて礼をして管理人室から姿を消すのを手を振って見送った。


 洗い物のお礼を言ったマリアの出勤を見送ると、今度は和ちゃんの番になる。
「早よ、着替えときや」
「うんっ」
 お祖父ちゃんと孫はいつもと変わらない言葉を交わした。お祖父ちゃんが朝食の食器を洗い、孫のお弁当を鞄に入れている間に、和ちゃんは着ていた衣類を一人で脱いで、幼稚園の制服に着替えたばかりではなく、未熟ながら、慣れた手つきで脱いだ衣類をたたんだ。
 洗い物を終えたお祖父ちゃんは和ちゃんを眺め、掛け違えたボタンを直したがそれだけだ。男親の視点から見て、もはや孫の姿に問題は発見できない。
 ばふっ、
 そんな音がするかと思う勢いで、お祖父ちゃんは孫の頭に黄色い帽子を乗せて、孫を幼稚園に送り出す準備を整えた。
「さぁ、準備完了や」
「うんっ」
 その祖父の声とともに、和ちゃんは帽子の縁をやや強く引き、襟に差し込んだ指で襟元を広げ、男親にはわからない程度に服装を乱した。和ちゃんの幼い知恵である。
 ちらりと時計に目をやると、針は八時四十五分をを指していて、まもなく真澄ちゃんが母親に連れられてやってくる時間だった。
「かぁーずちゃん」
 真澄ちゃんが和ちゃんに呼びかける元気な声が響いてくると、真澄ちゃんのお母さんに手を引かれて幼稚園に出かける時間である。和ちゃんはカバンを肩にかけて、お祖父ちゃんの手を引いて期待に膨れた胸を押さえて玄関に向かった。
「うーん」
 真澄ちゃんのお母さんは、和ちゃんの前にかがんで、目の高さを和ちゃんと合わせて眺め回した。その視線が心地よく、和ちゃんは照れくさそうに微笑んだ。真澄ちゃんの母親は、和ちゃんの企み通り、和ちゃんが乱した帽子の傾きを直し、帽子からはみ出して乱れた髪を整え、襟元を正した。和ちゃんは幼くても、目の前の女性が自分の母親ではないことはわかってはいる。しかし、和ちゃんの髪を整える優しさは母親のものに違いないのである。和ちゃんは真澄ちゃんのお母さんの優しさに身を任せた。
「あっ、」
 和ちゃんは顔をしかめた直後、深い眠りにでも陥るように現実の意識を失った。多少の間をおいて意識を取り戻した和ちゃんは、心配そうに自分を取り巻く人たちの様子で、現実から乖離していた十数秒の時間の長さを自覚した。
 真澄ちゃんのお母さんの視点で見れば、和ちゃんの不快感の原因が自分かといぶかって手を引っ込めたのだが、そうではないらしい。和ちゃんの視点はぼんやりとさせたまま、その先を中に泳がせて定まらないのである。
 和ちゃんは、自分でもつまらぬ事をしたかのようにうつむいた。
「どうしたの?」
 真澄ちゃんのお母さんの問いかけにも、和ちゃん本人が戸惑うばかりで答えることが出来ずにいる。和ちゃん自身が回答を求めるようにお祖父ちゃんを眺めた。
「また、何か聞こえたんか?」
 お祖父ちゃんの問いかけに、和ちゃんは黙ったままうなづいた。
「うんっ」
 しかし、聞こえたものは、言葉ではなく感情である。自分にだけ甘えるはずの愛玩動物が、他の誰かに可愛がられて身を任せている。そんな苛立ちを感じ取ったのである。真澄ちゃんのお母さんが、和ちゃんの乱れた髪を撫でつけようとした。
「あっ、」
 和ちゃんが再び小さく声を上げたので、お母さんは手を止めて、目の前の幼児を眺めた。
 目の光を失い、
 表情の変化を失い、
 まるで人形のよう。
 瞬きもせず心を失った和ちゃんの姿に、針のように小さいく鋭い恐怖が、真澄ちゃんの母の脳幹から背筋を走った。
「和ちゃん、どうしたの?」
 ぽん、ぽん。首筋を軽くたたかれた和ちゃんは、再び意識を取り戻して瞬きをした。
「ううん」
 目の前にある心配そうな真澄ちゃんのお母さんの表情に気づいて、大あわてで首を横に振って大丈夫だと伝えた。付け加えるように小さくため息をついたのは、幼い言葉で自分の状況を伝えることができないからである。時々、誰かの視線のような感情が和ちゃんの心に湧くことがある。和ちゃんを見守るような生暖かい感情であったり、胸を突く鋭い苛立ちであったり、腹の底からわき上がる嫉妬の憎しみだったり、時に恐怖に似た感情さえ湧く。その感情は一定ではなく、気まぐれにめまぐるしく移り変わって心を乱すのである。
 和ちゃんはその感情を伝えることができないまま、口をとがらせて黙り込んだ。幾分かでも何かの異変を察したのは真澄ちゃんだったろう。彼女は和ちゃんを元気づけるように手を繋ぎ、大きく腕を振って歩き始めた。和ちゃんは真澄ちゃんの元気を受け取って、笑顔を浮かべて並んで歩いた。
 和ちゃんがふと振り返ると、真澄ちゃんのお母さんが、おじいちゃんに会釈して、問題は無さそうだと告げた。お祖父ちゃんは会釈を返し、孫を幼稚園に送り届けてもらうお礼に代えた。
 背を向けて玄関から管理人室に消えるお祖父ちゃんの背は、少し首を傾げている。

 お祖父ちゃんは管理人室の片隅の仏壇に目をやった。このアパートの管理人をしていた両親と、和ちゃんの親である息子夫婦と、お祖父ちゃん自身の妻の5人を一度に交通事故で失って4年になる。残された孫を大切に育てているつもりだが、所詮、男親の代理では何かが欠けているかも知れないと思うのである。
 和ちゃんが未熟な手つきでたたんだ衣服を、襟や袖口を整えながらたたみ直しつつ、自分の男としての無骨な指先を眺めて、母親というものを考えた。和ちゃんの母親は、のほほんと笑顔を切らしたことのない女性だった。時に、辛辣な皮肉でさえ、本人はそうと気づかないまま笑顔の中で吐き出した。言葉で愛を口にすることはなかった女性だが、赤子に優しく乳を含ませる腕から指先には、男親には真似できないたおやかな母性が表れていた。お祖父ちゃんは仏壇に向かって手を合わせた。
(いつまでも、見守ってやってな。)
 自らに不足している部分があることは気づいている。それを補って欲しいと祈ったのである。最近、和ちゃんが自分を誘う女の存在を口にすることがある。孫は無意識のうちに亡くなった母の姿を求めているのかも知れないと思うのである。

 


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