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忙しい人のための作品紹介

 〜うつ病患者自身が書き下ろした初の本格小説〜

 青春期の自殺未遂。精神科に通い、心理療法を受けながら、主人公アマミヤユキトは立ち直ってゆく。やがて彼はインテリアコーディネーターの資格を持つ、一流ハウスメーカーの営業マンとなる。彼の職場は8600万円のお城の様な豪華な展示場。オフィスは都心の一等地。高速道路を見下ろすビルの最上階。
 そんな誰もがうらやむ、一部上場企業で働き始めた、彼を待ち受けていたのは……
 他社との激しい受注競争、社内のパワーハラスメント、客からの無理難題、吹き荒れるリストラの嵐。
 彼はうつ病を発症する。
エリートサラリーマンからの転落。会社を辞め、引きこもり生活を始める。収入はゼロ。車を売った。新聞も携帯もやめた。そして受け取ったのは精神障害者手帳だった。出口の見えないうつ病との闘い。それはたったひとりでアポロ13に乗り込む事だった。
だが、地球で待っているはずのNASAには誰もいなかった。それがうつ病の現実だった。
 たったひとりで、一体どうやって地球に帰ってくるのか? あわや孤独死か、という目に遭いながら、それでも彼はうつ病からの帰還を目指す。
 もやはこれはフィクションではない。明日、自分の身に降り掛かるかもしれない無縁社会の闇。そこに光は見えるのか? 自己の再生、それでも人が生きて行く意味を根底から問う。それでも生きる人に捧げる、人生の応援歌。

第一部 スターレス

 星は一つも見えなかった。
 漆黒の夜空は、六月のたっぷりとした湿気をふくんでいた。海岸近くの国道二号線。そこから更に海沿いに枝分かれした道は、通称「浜国」と呼ばれている。この道路の北側にはラブホテルの灯りが並んでみえる。
 僕は国道脇の歩道に立って、夜の海を見つめていた。時折、背後を車のライトが通り過ぎて行く。
 コンクリートの防波堤には、砂浜へ降りて行ける階段がある。デイパックを肩に担いで、僕は階段を下りて行った。風のない夜だった。静かな波打ち際は、砂浜を撫でる様に規則的に波が寄せては返している。
 僕はコンクリート製の階段に腰を下ろした。デイパックのジッパーを開けて、持って来たものを一つ一つ傍らに並べていく。
 大型カッターナイフ。
 アイシングに使うスポーツ用冷却スプレー
 ミネラルウォーターのペットボトル。
 薬局の名前が印刷された白い紙袋。
 僕はまず、薬局でもらった薬を袋から取り出した。
 プレート状にラミネート包装された錠剤をプチプチと押して、左の手のひらに錠剤を載せてゆく。二十個ばかりの白い錠剤が小さな山を作った。それを落さない様に気を付けながら、口にゆっくり近づける。そして僕は一気に口の中へ放り込んだ。口の粘膜にいくつかの錠剤がへばりつく。
 僕はちょっと顔をしかめながら、ミネラルウォーターのボトルを持つ。キャップをひねって、すぼめたままの口につける。
 ごくり、とひと口、ミネラルウォーターを飲んだ。カルキ臭い水道水と違い、鉱物成分を含んだうまい水だと思った。胃の中に薬を全て流し込んでしまうと、もうひと口水を飲んでボトルを脇に置いた。
 次に冷却用スプレーを右手に持った。キャップを開けてみる。スプレーのノズルの頭は、押しやすい様に窪みがついている。僕はスプレー缶を持ち、首の右側めがけてノズルの先端を押した。
 シューッと言う音と共に、あごの脇から首筋にかけて、ジンとした冷たさが心地よく中へ染み込んで行く。首の右側の感覚が無くなる程、丹念にスプレーをかけた。
 ーこれでいいかなー
 頃合いを見計らって、僕はスプレー缶を置いた。右手で、スプレーを吹きかけたあたりを突ついてみる。感覚は鈍っているようだ。
 ーまぁ、これなら痛くはないだろうー
 僕はひと安心して大型カッターナイフを手に取った。
 ベニヤ板なども切る事の出来るカッターナイフだった。黄色いプラスティックのボディに、握りやすそうな黒いラバーグリップがついている。刃を本体から引き出すために、黒い大型のダイヤルを左回りに緩めた。
 ーギリリ、ギリリー
 左手で黄色い本体を持ち、右手でダイヤル部分を持って、刃を出来るだけ長く前へスライドさせた。その後、ダイヤルを時計回りに回した。
 ーギリリ、ギリリ、ギリー
しっかりと刃は固定された。準備完了だ。長く突き出た一・二ミリ厚の炭素鋼の刃を、感覚のなくなった右の首にあててみた。特に刃が当っているとかいう感覚もない。
 ひと呼吸置いた後、僕はそのまま、えいっ、と首を切ってみた。 
 その後で「あっ、しまったなぁ。」と思った。  
 頸動脈というのが、首のどの辺りにあるのか調べていなかったのだ。多分このあたりだろうと思って、もう一度首を切ってみた。
 ーおかしいなー
 もっと激しく血が噴き出すと予想していたのだ。冷却スプレーのせいで、あまり痛みは感じない。僕は左手で、右の首の辺りを撫でてみた。右手にはカッターナイフを持ったままだった。
 左手にはヌルッとした感覚があった。確かに切れてはいた。だがヌルヌルした血がわずかに流れるだけで、これでは出血量が足りなかった。
 ーちぇっ、失敗したなぁー
 そう思いながら夜の海を眺めた。相変わらず静かに波が寄せては返している。左に目をやると、緩やかにカーブした海辺の浜国沿いに、街の灯がいくつも見えた。
「綺麗な夜景だな。」と思ったすぐその後、急激に体がふらついて来た。ようやく二十錠ばかりの睡眠薬が効いて来たのだ。意識がすーっと後頭部から空へ抜けて行く。それは一種、不思議な快感でもあった。まるで映画の一シーンの様に、その後、僕の意識は暗闇に包まれた。

 目が覚めたとき、僕はベッドの上に横たわっていた。
 ーここはどこだろうー
 薄目を開けてみる。なんだか、モヤがかかってよく見えないが、他にもいくつかのベッドが並んでいて、全て白いシーツがかけられている。どうやらここは病院らしい。
 窓からは鈍い光が水平に差し込んでいた。どうも朝方のようだ。ベッドから左手を見ると、見慣れた兄の顔があった。
「どないや、目が覚めたか?」
 優しい声だった。僕はウンと頷き、腕を掛け布団から出そうとした。その折に、左腕に点滴の針が差し込まれている事に気がついた。気分は落ち着いていたが、体は鉛の様に重い。兄のそばには、父が丸い椅子に座り、うつむいていた。六月だというのに、布団を被っている僕にも分かる程、病室はひんやりとしていた。
「オヤジ、寒いことないか?」
 僕ゆっくりと力なく話しかけた。父は神経質そうに顔をしかめながら、左右に小さく首を振った。
「いや、大丈夫や。」
 それだけ言ってしまうと、また目を閉じて下を向き、だらんと両手を前に垂らして手を組んだ。
 僕の意識は徐々にはっきりしてきた。
 どうやってここに運ばれて来たのだろう? 
 その記憶は全くなかった。誰かに発見されて、恐らく救急車で運ばれて来たのだろう。僕の救助に関わった人達への感謝の気持ちや、親兄弟への済まない、という気持ちは全く起こらなかった。むしろ、面倒な事になったなぁ、としか思わなかった。そんな事をぼんやり考えていると、ふと体に、ある違和感がある事に気がついた。両足の間に、何か固い棒状のものがあるのだ。僕は右手で自分の股間をそろりと触ってみた。僕は病院から貸し出されたと思われる、前開きの青い病院着を着ていた。パンツは履いていない。股間に差し入れた僕の手には、ふさふさとした自分の毛深い陰毛の感触が、直接伝わって来た。そのまま自分の男性性器に触った。コリッとした固いものに手が触れた。
 ー何だ、これはー
 僕は自分のペニスの先を、そろりと触ってみた。そこには細長いガラスと思われる管が、尿道に差し込まれていた。ガラス管はペニス全てを貫き、僕の膀胱の入り口まで達している事が、触った感触で分かった。
 ペニスに差し込まれたガラス管の反対側には、ゴムチューブが長々と伸びており、掛け布団の左側から下へ伸びている。僕は顔を傾けてその行き先を見た。ゴムチューブの先は、ベッドの下に置かれた溲瓶の丸い口に突っ込まれていた。プラスチック製の半透明な溲瓶には、薄い褐色の液体が半分以上もたっぷりと溜まっていた。
 ーカッコ悪い生き返り方だー
 パンツは脱がされ、おチンチンには管を突っ込まれ、小便垂れ流しの状態で、僕はこの世に舞い戻って来たのだった。そこへ四十代と思われる女性看護士がやって来た。
「アマミヤさん、目覚めたのね。」とさらりとつぶやき、僕の左手首に指を添えた。その指は女性特有の柔らかさを感じさせた。ただその看護士は、僕の好きなタイプの顔立ちではなく、特にセクシーさも感じなかった。脈を測るという医療行為ではあるものの、女性の肌が触れると言う事が、僕に安心感と、少しばかりの快感を与えた。
 女性看護士が僕の手首に指を触れている間、僕は母親の肌に似た感覚を思い出していた。兄や、姉とも歳が離れているせいもあり、僕は両親から子供の頃、特にかわいがられて育った。特に母は僕を好きな様に甘えさせてくれた。アマミヤ家の末っ子である僕は、母親べったりの甘えん坊だった。その母は僕が小学校四年生のとき胃がんで亡くなった。
 母の葬儀の際、僕は葬列の先頭で、黒い帯を掛けた遺影を持たされた。
「アンタが持つんやで。」と叔母が涙声で僕に遺影を持たせたのだ。遺影を抱いた十才の少年は、周囲の同情を引きつけるのに十分な効果を発揮した。
「あの子がかわいそうやわ。」と回りの人々は口々に言い、ハンカチで目元を抑えた。
 僕は葬儀の間、オトナたちが書いたシナリオ通りに、悲劇の主人公を演じるだけでよかったのだ。僕は下を向き。涙を一粒二粒流してみせた。
 本当の悲しみが訪れたのは、もっと後になってからの事だった。母親が亡くなって数年の後に、僕は母親の声を忘れてしまったのだ。母は歌を唄う様な趣味もなかったし、人前にも積極的に出る人ではなかった。だから母の声を録音した記録物は、何一つなかったのだ。
 僕の中で、もう二度と母親の声が聞こえる事はない。そう思うと僕は悲しくなり、一晩中泣き明かした。
 その喪失感を埋め合わせる様に、僕は姉に甘える様になった。それは姉が割烹料理店に嫁いだ今でも続いていた。時々、ささいな悩み事や困った事があると、僕は姉の嫁いだ店へ顔を出した。
 脈を測り終えた看護士の指が、僕の手首からはなれた。僕はゆっくり小さな声で看護士に話しかけた。
「すいませんが…このガラスの管、外してもらえませんか。」
 僕は力のない薄ら笑いを浮かべた。全く、こんな事態を引き起こしておいて、まだ体裁を取り繕う男なのだ、僕という人間は。なんて情けないダメな奴なんだろう、そう思った。看護士はピシャリと言った。
「まだそのままにしておいてください。」
 彼女はベッド下の溲瓶を新しいものに交換し、同室の他の患者の脈を取り始める。
 白い買い物袋を下げて、病室に姉が入って来た。
「お兄ちゃん、なんでこんな事になったんよ。」
 いきなり兄を問いつめた。
「俺に言われても分かれへんわ。もうユキトとは別に住んでるんやから。」
 と兄は不機嫌そうに言った。今までは父の家に兄夫婦と、僕も一緒に住んでいたが、今では大阪のアパートで、一人暮らしを始めていたのだ。
「お兄ちゃん、また会社変わったんやろ?」と姉が小声で聞く。
「今日、その初日やがな。」
「ああーっ」
 姉は兄を問いつめた事を、少し後悔したようだった。
「大変やね。初日やのに。」
「まあ、しょうがないわ。社長には、よう話しといたから。弟さん大事にしてやれ、そう言うてくれたわ。ええ人や、今度の社長は。」
「そうやっていつも簡単に信じ込むんやから。前の会社でも、今度の会社はええぞ、言うてたやないの。」
 兄は確かにお人好しな面があった。何より転職第一日目に弟が起こしたアクシデントに遭遇し、僕への怒りもあるはずなのに、それを押し殺して、僕の付き添いをしてくれていたのだ。だが、その兄の慈愛に満ちた心を受け止める余裕は、今の僕にはなかった。要するに「余計なお世話」なのだ。
「ユキト。」と姉はベッドのそばに座って声をかけた。
「どないしたの? 何があったの?」
 優しい声だった。僕は静かに答えた。
「もう、どうでもよかったんや。」
 姉は何も言わなかった。ただ、ふたつの目に涙を浮かべた。そうして僕の左手を、自分の両手で握った。姉はその上に顔を埋めて嗚咽した。
「洋一よ。」と父が少し苛立って兄に声をかけた。父は、女が泣くという状況に、自分が居合わせるというのが、我慢ならない様子だった。
「向こうの住所は聞いとるんか?」と父は兄に尋ねた。
「ああ、聞いとるよ。」
「もう手みやげは買うたんか?」
「いやまだや。朝早いし。店まだ開いてへんやろ。」
 父は神経質そうにチッと舌を鳴らした。
「ワシ、今から買うてくるわ。日本茶の詰め合わせでええやろ。ちょっと張り込んどくわ。五千円ぐらいのモンでかまへんやろ。」
「ああ、ええんとちゃうか。」
 父はそそくさと病室から出て行った。
 兄はゆっくりと椅子に座った。姉は少し落ち着いたようだ。
「兄弟三人揃うのは正月ぶりやなぁ。」と兄がのんびりした口調で言う。
「ホンマやね。」
 姉が涙を拭きながら答えた。
「まあ、それでもお父ちゃん、元気そうでよかったわ。今、ご飯どないしてるん? おかゆ?」
「うん、おかゆでないと食べへんわ。好き嫌い多いから多恵子が困っとるわ。まぁ、去年胃潰瘍で入院して、あれだけ元気やったらオンの字やな。このまま元気でいてくれんとな。これで介護でもせなアカンようになったら、多恵子が大変や。」
 兄は自分の妻にずいぶんと気を遣っていた。ただそれは、自分が所有している女性を、自分以外のために使われたくないというニュアンスを含んでいた。また、気難しい父への対応を一手に引き受けている、自分の妻への負い目も感じているのだろう。
 僕がまだ小学生だった頃のお盆の夜、眠れない父は、近くの寺から流れてくる盆踊りの音がうるさい、静かにさせる様に言ってこい、と母や兄に命じた事がある。わがままで、自分勝手、自分では何もしない。ひとたびこの人が機嫌を損ねると、何を言いだすか分からないところがあった。そんな父の身の回りの世話を、義姉はさほど愚痴もこぼさずに淡々とおこなっている。その忍耐強さと、ある種の鈍さを持った義姉に、僕はすこしばかりの軽蔑と、尊敬の念を同時に持っている。
 そんな義姉に父の世話をさせる事は、本来兄にとっては不本意な事なのだろう。それでも父親の世話をする事は、一家の長が自分であるという自負の、ささやかな証明でもあった。兄が生きて行く上で、唯一こだわりを持っているらしい部分でもあった。
「これユキトに着せてやって。サイズ合うと思うから。」と姉は白い買い物袋を指した。うん、と兄は受け取りながら、
「冴子、『よし幸』の方はうまい事行ってるんか?」と姉の割烹料理店の経営状態を案じた。
「お兄ちゃんに心配される事あらへんわ。今に私がもっと大きい店にしてみせたる。そのうちハワイ進出するでぇ。」
「相変わらずやな。まぁ、お前の話は半分に聞いとくわ。」と兄は笑った。
 尿道からガラス管を外し、午後、僕達は病院を出た。その後からは事後処理が待っていた。僕を海岸で発見してくれた方への、挨拶とお礼だ。父と兄、僕の三人で、車で先方へ向かった。
「えらい息子がアホな事をしでかしまして。」と父が愛想笑いを浮かべ、五千円で買った日本茶の詰め合わせを先方に渡した。僕を発見してくれたのは、二十歳になるかならぬかの男性だった。お茶のセットと、その若い男性とは、妙に不釣り合いに見えた。
 帰り道は渋滞がなかった事もあり、車はスムースに進んだ。車の中では父は珍しく上機嫌だった。
「どないやった。あれ見栄え良かったやろ。」と、兄にギフトセットの目利きの成果を自慢したり、ラジオから流れてくる人気コメンテーターの話に、兄と共に笑ったりしていた。二人が僕の心の中に不必要に入り込んでこない事が、逆にとてもありがたかった。感受性の鈍い人達の中で暮らして行くことが、今の自分にとって、何より心の傷口を癒すのに都合が良いと思えた。こうして、僕の二回目の自殺未遂は失敗に終わった。
 後日、姉は僕を有名大学病院の精神科へ連れて行った。外来病棟の三階、産婦人科の隣に精神科はあった。姉と共に長椅子に座って順番をを待つ。どの人が精神科の患者なのか外観からは全く分からない。二、三人の男女が待合室で静かに待っている。僕の名前が呼ばれたので、診察室に入った。僕は少しぎょっとした。そこには三人の白衣を着た男たちがいたのだ。
 疲れた様な表情のドクターは、僕の方を見ずにパソコンばかりいじっている。その後ろに二人のインターンが前のめりになり、真剣な表情でノートを広げている。二人は患者である僕の、どんな些細な挙動も見逃さないぞ、とでも言う様に僕をじっと見つめていた。「…さて、どうされました…。」
 相変わらずドクターはパソコン画面を見ている。
「ダメだ、こりゃ。」
 僕はすぐにそう思った。まともに話を聞く様な人間ではないなと判断した。こんな人にくどくど、こちらの心情を説明しても、自分が惨めになるだけだ。
「あのう、睡眠薬をがぶ飲みしまして、自殺未遂したんです。」
 するとドクターは「睡眠薬ねぇ。」とさも可笑しそうに苦笑した。その笑いは完全に僕を馬鹿にした様に見えた。パソコンをいじっていたドクターは、何度か同じキーを叩いた。ちょっと首を傾げる。突然、奥の事務室に向かって人を呼んだ。 
「ちょっと、○○サーン、これどうやって直すのー?」
 一連の精神科医の行動は、僕の神経をひどく傷つけた。僕はもう二度と医者など行くものか、とさえ思った。大学病院はサッサと辞めにした。姉はその後も僕を心配し、なだめながら違う医者の所へ連れて行った。一度は脳波の検査という奴をやった。頭に電極を付けて脳に異常がないかを調べるのだ。
「だいたい、神経症の場合、あんまり異常は出ないんですよ。」と検査技師はにこやかに話していた。結果のグラフを見た医師は、
「綺麗な脳波ですねぇ。」
 と感心した様に言った。ただ、どの医師も自殺未遂二回という言葉を聞くと態度が変わった。自分の所でトラブルを抱えたくないのだろう。ある医師が言うには
「あなたの症状に一番適した先生を紹介します。そこへ行くのが一番良いでしょう。くれぐれも、変な宗教だけは入ったりしてはダメですよ。」と紹介状を書いてくれた。
 僕はその紹介状を持って、県下一の精神科の権威、と呼ばれている教授の下を訪ねた。そこはある大企業が経営する病院だった。その中にあるのは精神科ではなく心療内科だった。精神医学会の重鎮でもある老教授は、そこの顧問をしていた。
 診察日、ゆったりとした足取りで廊下を歩く白衣の老人がいた。心療内科の診察室へ入る、その老人を見つけた患者たちは、皆立って一礼をするのだった。患者もほとんどが老人で、若者は僕一人だけだった。僕を診察したその老教授は、僕の今までの行動や悩みを聞き、ただひと言だけ言った。
「あなたの様な症状はクスリで治すんです。」
 そう言うと、朝、昼、晩、必ず飲む様にと言って薬を処方した。その薬を言われた通り毎食後、二錠ずつ飲んでみた。すると、今までイライラしていた気分や、思考そのものをグルグル動かすモーターの回転速度が、明らかにゆっくりになって行くのが分かった。今まで、これもしなければ、あれもしなければと考え、それでいて何も出来ない自分にイライラばかりしていたが、この薬を飲むと、
「まぁ、それでもいいか……。」という気分になってくるのだった。
 それでも頭の中はまだ、もやもやと混乱していて、一体、自分が何について悩んでいるのか、それ自体よく分からず悩んでいる、という状態だった。これを解きほぐす事は、薬では無理だと自分で思った。ぐちゃぐちゃに絡まった心の糸、それを丹念に一本一本解きほぐす様な作業、それが必要だと思った。かつての高校や大学の友人たちに、自分が今、心療内科に通院している事は話していなかった。また、父と兄は相談の対象外と思われた。唯一姉だけが、若干僕に対して理解しようと努めてくれている様に思えた。僕は何かこのまま、薬を飲み続けるだけでは、もの足りないものを感じていた。試しに電話帳をめくって見ると、心理カウンセリングと言う欄があった。
 どもり、赤面症治します、というものや、催眠療法などと言う、なんだかいかがわしさを感じるものが多い。そのなかで、日本心理臨床学会会員と謳っているカウンセリング室があった。これならば多少は信用出来そうだと、電話で予約を取り、訪ねてみることにした。
 一階がラーメン屋になっている、小さな雑居ビルの二階、そこがカウンセリング室だった。二階へ上る途中に、中学生らしい男の子と母親が、深刻そうな顔をして立ちすくんでいた。カウンセラーは五十がらみの、胆の座った感じのする、姉御肌のおばさんだった。
僕は今までの事をなるべく順序立てて話をした。大学を卒業して、出版社でライターとして活動していたこと。うまく文章が書けず、やけっぱちになったこと。告白も出来ずにいた女性への想い。
 僕が、ぽつり、ぽつり、としか話をしないのを全く気にせず、カウンセラーは実にうまい合の手を入れた。そのせいで、ずいぶんと話がしやすかった。日本心理臨床学会会員でユング派の流れを汲む、このカウンセラーは、箱庭を作ってみてくれ、と僕に言った。
 部屋の脇には、学校の教室で使う机ぐらいの大きさの木の箱があった。ほぼ正方形に近く、天板はついていない、トレー状のものである。箱の深さは浅い。十センチあるかないかである。箱には半分程度の高さまで砂が入れられている。
 部屋の壁には背の高い、大きな棚がふたつあった。十段程に区切られている。その棚には、びっしりと人形などのミニチュアが置いてある。小さな子供が砂遊びに使うような、おもちゃだ。人形に始まり、キャラクター、おもちゃの家、各種の乗り物、鉄道、車、飛行機などなど。教会もある。プラスチックで出来た木や森、他にもビー玉やクリスマスの飾り付けに使うような、キラキラしたモール、ツリーのてっぺんに飾る星なんかもある。
 僕はその箱の前に立って、右手で砂をちょっと撫でてみた。砂は割とさらりとしていた。砂を両手でのけてみると、箱の底が見えた。青く塗られた底板が現れる。ここを川や池に見立てる訳である。僕はただ、砂をさらさらといじり、小さな池を作り、家をひとつ、人形をひとつ、それに木を一つ置いてみた。他に何を置くか、長く考えた。別に何を作ろうという意欲も沸かない。ただ、何か作らなければとは思ったけれど、何も思いつかない。
「もう出来た? これでいい?」とカウンセラーは聞いた。はいと答える。
「う〜ん、ちょっと淋しいかな。」とカウンセラーは言って、写真に収めた。 
「この箱庭がね、随分、治療効果があるのよ。」と話した。
 心理カウンセリングは二週間に一度だった。最初の二ヶ月程は、箱庭を作る意欲もあまり沸かなかった。三ヶ月過ぎたあたりから、不思議な事に僕は、その砂遊びにしか見えない行為が、徐々に自分にとってなにか大切な時間の様に思えてきた。
 僕は時には高く険しい崖っぷちを作る事もあったし、まるで抽象絵画の様に矢印ばかり並べた時もあった。カウンセラーは毎回写真を撮り、記録に残していった。
 やがて僕は二週間に一回の箱庭作りが待ち遠しくなってしまった。そんな自分の心境に驚いた。だが、他に生きている価値をどこにも見いだせない自分は、また次に箱庭を作るために二週間の間だけ、生きようとおもった。無味乾燥に思える今の生活で、唯一自分が何かをなし得たこと。そして自分がまぎれもなく生きていた事を証明するもの、それが箱庭だった。
 僕は静かな気持ちでただひたすら箱庭と向きあった。四季の移ろいを箱庭で表現する事もあった。カウンセラーとの二人三脚で丹念に心の糸を解きほぐす作業がその後何年も続いたのだ。
 神経症がやや回復し、いくつかのアルバイトもやってみた。多少は社会生活というものに順応し、友人のツテで、名古屋にある鉄鋼関連の会社に就職した頃には、すでに僕は三十代に踏み込んでいた。


第二部 家を売る 1 新しい職場

 僕はそのビルの最上階、窓際に立って高速道路を下に見下ろしていた。ここからは大都会のオフィスビル群が一望できた。
 今日から僕はこの瀟洒なオフィスの住人なのだ。
「ざまぁみろ。」
 ふと、そうつぶやいた。
 今や一部上場企業の社員となったのだ。  
 高層オフィスビルが建ち並んでいる名古屋市の中心地。その一角にK火災保険ビルはある。十二階建てビルの最上階ワンフロアすべて。そこが大日本建材住宅事業本部の名古屋支店である。大日本建材は老舗の建材メーカーである。従業員数はグループ会社を含め三〇〇〇名を超える。その本社直轄の住宅事業本部名古屋支店勤務のご身分となったのだ。
 つい一ヶ月前までは、頭にはヘルメットをかぶり、服は油のしみ込んだ作業着、足には車に踏まれても大丈夫な、クソ重い安全靴を履いていた。両手にはめた軍手には、いつも真っ黒に汚れたグリースがこびりついていた。僕は鉄鋼関連の設備補修を専門にやっている会社の営業マンとして、客先である製鋼所の中をゴキブリのように這いずり回っていた。いつかはこんなところ、抜け出してやろうと思っていた。友人が資格試験に挑戦するのをきっかけに、僕も以前から興味のあったインテリアコーディネーターの資格をとった。そこで思い切って住宅業界に飛び込んだのだった。
 今や、僕はかつての薄汚れた作業着姿の営業マンではない。ダブルのダークスーツに身を包み、エンジのネクタイを締めている。クリーニングしたばかりのストライプシャツは襟の部分に糊が効きすぎて固いぐらいだ。
 出来すぎている。そう思えた。
「ガチャッ」
 僕の回想を遮るように、後ろでドアの音がした。振り返ると、石橋要総務部長が、分厚い黒ぶちのメガネを、ずり落ちないように直しながら、会議室から出てきた。
「アマミヤ君待たせたね。」
 そう言うと石橋部長は、僕に商談室へ行くように促した。
 商談室はオフィスの外にある。ここはパーティションで区切られた応接スペースが三ヵ所ある。出入りの工務店や、エクステリア担当の外構業者、外部委託の設計士などが、ここで打ち合わせや商談を行うのである。
 彼らは外部の人達だ。そのため磨りガラスのドアの中にあるオフィスには、一歩たりとも入れなかった。このオフィスに自由に出入り出来るのは、あくまで社員の特権なのだ。
初めて面接に来た時は、ぜったいにあの磨りガラスの向こうの世界に入ってやると、固く心に誓っていた。それが今、実現しているのだ。僕はその喜びをかみしめながら総務部長の話を聞いていた。
 まずは契約社員として一年間働いてもらうこと、その間に四棟の受注をすること、それが正社員になるための条件だった。給与面では申し分なかった。前職の給与以上を出すという事だった。更に受注した棟数に応じて、ボーナスに報奨金が上乗せされる。
「僕はこの業界初めてなので、なにぶんご指導よろしくお願いします。」
 僕はぺこりと頭を下げた。
「中途入社の場合ね、教育はOJTでやりますのでね。アマミヤ君は名東展示場配属となります。店長の風見君に付いて仕事を覚えてくださいね。さあて。」
 そう言って石橋部長は立ち上がった。またずり落ちそうなメガネを直す。
「それじゃ、さっそくですが、名東展示場に行ってもらいましょうか。風見君には僕の方から連絡しておくから。」
 大日本建材住宅事業本部名古屋支店は、名古屋市のなかにある三カ所の住宅展示場に、モデルハウスを出展していた。
 そのうちのひとつに、今、僕の配属先が決まったのだ。
 オフィスを出て一階に下りた。四車線道路を横断して、高速道路下の有料駐車場に向かう。そこに止めてあったマイカーに乗った。この会社では、住宅営業マンはマイカー持ち込みとなっていた。それも4ドアセダンと会社から決められていた。時には客を後部座席に乗せて、建築現場の見学会や、イベントの送り迎えに使う事もあるということだった。
 もっとも、ガソリン代や、この都会の一等地の駐車場代も、幾ら使っても会社が払ってくれる。結構なご身分になったものだ。
 鼻歌まじりに僕はエンジンをスタートさせ、愛車を名東展示場に向かって走らせた。

 僕が向かっている住宅展示場は、名古屋市の東側、愛知郡にある。東名高速名古屋インターチェンジを降りると、東西に伸びる幹線道路が通っている。それを東へ向け五分も走ると、左手に展示会場が見えてくる。
「TBC名古屋東ハウジングセンター」と書かれたゲートの下をくぐると、広大な駐車場がある。おそらく百台は楽に置けるだろう。僕はクルマをモデルハウスに近い、駐車スペースに止めた。外に出て、空を見上げた。抜けるように青く高い秋の空だった。飛行機雲がその空を区切るように、東から西へ伸びている。
 ハウジングセンターの入り口近くには、大きなログハウス風の管理事務所があった。その前に、この展示会場の案内板が建っている。この会場には十九のハウスメーカーが二十一棟のモデルハウスを出展している。僕はその案内板のなかから「ダイニッケンホーム」を探した。なんのことはない、管理事務所のすぐ向かいの北側である。僕はこれから自分の職場となる、モデルハウスに向かって歩いていった。すぐに立ち止まってそのモデルハウスを見上げた。
「なんだこれは?」
 僕はしばらくあっけにとられて、ただそのモデルハウスを呆然と見つめた。
 目の前に現れたのは、まるで中世ヨーロッパのお城のようだった。一体誰がこんな贅沢な家に住むんだ? とおもった。着飾った貴婦人が、執事に見送られて玄関から出てくる様な邸宅だった。見る人を寄せ付けない様な格調の高さを感じさせる。茶褐色のタイルがふんだんに使われ、建物全てを覆い尽くしていた。ひとつひとつのタイルは、石を割った様な複雑な形をしており、なおかつ微妙な色むらが、深く上品な陰影を作っていた。モデルハウスは、一階部分の面積がそのまま立ち上がった総三階建てである。屋根は、寄せ棟を三つ組み合わせた堂々たる姿をしていた。三階部分は、急勾配の屋根を利用した小屋裏部屋となっている。その屋根からは、洋館風のドーマーウィンドウが、威圧的に二つ突き出ている。何より目立つのは、モデルハウス正面右側に筒状のドームが大きく手前に張り出していることだ。円筒状のドームは二階まで続いていて、天井部分は二階のバルコニーとなっていた。ドームの一階部分は縦長の掃き出し窓が、半円形の外周に沿って六面ついている。オーガンジーのカーテン越しに中の様子が見える。アンティーク調の丸テーブルと椅子が二脚、ドームの床中央に置かれている。どちらの脚の部分も優雅に湾曲していた。資格試験の時に覚えた、カブリオールレッグという呼び名を思い出した。おそらくインテリアもこの外観にあわせて、シックなイギリスの邸宅風にしつらえてあるのだろうと思った。
 本当にこれから自分が、このモデルハウスで仕事をしていいのだろうかと思った。何か出来すぎていて、夢でも見ているかのようだ。他のメーカーのモデルハウスなど、これに比べたら、ただのマッチ箱を組み合わせたもにしか見えなかった。僕は恐る恐る正面玄関に近づいた。玄関の両開きドアは閉まっていた。多分、平日だからだろう。玄関ドアは重厚な無垢材で出来ており、贅をこらしたレリーフが施されている。黄金色をした真鍮製の把手を手前に引き寄せる。ドアの重みがずしりと手に伝わってきた。ごくりと唾を飲み込んで思い切って中に入ってみた。玄関ホールの床は大理石で出来ていた。見上げると二階まで吹き抜けになっている。何ともだだっ広い空間だ。この玄関ホールだけでもマンションのリビングの広さぐらいはありそうだった。二階の天井から下がっている照明は、青銅色のお皿の周りに、何本もろうそくを立てた様な形をしている。今、灯りはついていない。
「失礼しまーす。」
 僕はがらーんとした空間に向かって呼びかけた。やがて一階の奥の方から、誰かがパタパタとスリッパの音をさせながら、玄関の方に近づいてくるのが分かった。
「いらっしゃいませ。」
 そう言って現れたのは、小柄で丸顔の五十代とおぼしき女性だった。
「あのう、今日からお世話になります、アマミヤ ユキトと申します。よろしくお願いします。」
「ああ、あなたがアマミヤさんね。石橋部長から聞いてます。今、二階に店長いますから、どうぞ。」
「あの、お名前は?」
「私? 不動公子といいます。よろしくね。」そう言って、人懐っこい、丸い笑顔で微笑んだ。無邪気な子犬を思わせる笑顔が、僕をリラックスさせた。
「すごいモデルハウスですねぇ。」
 不動さんは、階段下の扉の中から、フローリングを掃除するモップを取り出しながら、
「初めての人はびっくりするわよね。こんなの建てられる訳ないんだけどね。あなた、ここのお値段聞きました?」
「いいえ。ちなみにおいくらなんですか?」
「八千六百万円よ」
「はぁ……。」
「材料費だけでね。」
 僕は気が遠くなりそうだった。二DK、家賃五万六千円のアパートに住むものにとっては、どう考えたって場違いなところへ来た感じがした。不動さんはモップを持ったまま、先に階段を上っていく。床から腰壁の無垢材らしきパネル、そして階段にいたるまで、落ち着いたダークな色調で統一されている。しかし、窓から差し込んでくる光が白い壁紙に反射し、モデルハウスの中はとても明るく感じた。二階に上がると、階段の周りが全てひとつのホールのようになっていた。ここも窓からの光で溢れている。そのホールを不動さんはとことこ、北東側の角部屋に向かった。ドアにはスタッフルームと言うプレートが張られている。不動さんはノックもしないで、いきなりドアノブをガチャリとひねり、ドアを開けた。
「店長、アマミヤさん来られましたよ。」
 僕を振り返って、まるっこい手でひらひら手招きした。僕はその部屋に入り、ぺこりとお辞儀した。
「今日からお世話になります。アマミヤ ユキトです。よろしくお願い致します。」
 北側の一番奥まった席で、タバコをさかんにふかしていた男性が、灰皿でタバコの火をもみ消した。紺のスーツに、無地の紺のネクタイを締めていた。体全体は、太ってはいないが、どことなく締まりのない感じだった。メガネをかけ髪はぺたりと七三に分けている。典型的な銀行員に見えた。男性は座ったまま、上体を僕の方に向けた。そして目だけを上げて、僕をドロリとみつめた。死んだサバの様に、メガネの奥の目には表情がなかった。
「店長の風見ですヮ。まぁ、立っとらんで、そこ座って。」
 店長はどうでもよさそうに、人差し指をブラブラさせて隣の席を指差した。僕はおもむろにカバンを膝の上に置き、かしこまって座った。店長の右側の席には、巨漢の男性が、さっきから書類に何か書き込んでいる。
「店長、カタログが残り少なくなってますよ。」
 不動さんが棚を整理しながら声をかけた。
「ああ、もう、足らんかぁー。不動さん、支店へ頼んどいて。」
 風見店長は、もう一本ショートホープに火をつけて大きく吸い込んだ。フゥーッと大きく煙を吐き出す。次の瞬間には、その間を惜しむように、再び大きく煙を吸い込む。その動作を二回繰り返した。目は相変わらずサバの目で、表情はない。目の前の紙ファイルで綴じた書類の束を、バタンと畳みながら、店長は僕に初めて質問した。
「前はどこにおったんや?」
「ハァ、鉄鋼関連のメンテナンスの会社です。」
「ん? 」
「トーヨーメンテナンス工業株式会社、略してトーメンと言う会社に五年間おりました。」
 店長は相変わらず表情のないドロンとしたサバの様な目をこちらに向けている。
「君、ハウスメーカーの経験はないのか?」
「はい、ここが初めてですね。」
 店長は急いでタバコの煙を吸い込むみ、フゥーッと素早く吐き出した。すぐに灰皿でもみ消す。少しイライラした様子だった。そばにあった、使い込まれた黒い革のカバンを取り上げた。目の前にあったファイルを詰め込んだ。カバンにはすでに他のファイルも入っていて、パンパンにふくれあがっていた。店長の表情には、少し怒りの表情さえ浮かんでいた。
「なんやぁー、君、経験ないのかぁー。」
 そう言って風見店長は、カバンを右手に持って立ち上がった。左手で分厚いカタログを、僕の前に放り投げるようにして差し出した。大日本建材の建築材料を載せた総合カタログだった。
「それでも見て、勉強しとけや。」
 それだけ言うと、急いで部屋から出て行ってしまった。不動さんは風見店長が出て行った後、キッチンの換気扇のヒモをひっぱった。
「まぁ、いつも、あんな感じだからね。」
と、僕を慰めるように言った。
 店長の右側の席に座っていた男性は、書類を書き終えたようだった。改めてその体を見ると、巨漢としか言いようがなかった。店長と僕とのやり取りには、全く関心がなさそうだった。僕の方には目もくれないで、机の上の受話器を取り上げる。太く短い指で、プッシュホンのボタンをちょん、ちょん、と突ついていく。その仕草は何か、おとぎ話の住人が、間違って現実世界に現れたように見えた。頭には髪の毛が一本もない。見事にツルツルだ。受話器を握ったまま、おとぎ話の住人は、地響きがする様な、とてつもないダミ声で話し始めた。一言一言、区切るようにゆっくり喋った。
「もしもしぃー? 軽部でございマス。奥サマ、お元気ぃー? 四ツ葉ハウスなんか、行っちゃダメよー。」
 この人は自分の体を、ドラのようにして響かせている感じだった。声は部屋中に響いているのだが、決して不快ではなく、むしろユーモラスであり、上質なエンターテイメントを見ているようだった。客と少し話をして、軽部さんは電話を切った。
「小腹が空いたなぁ、不動さん、何かある?」
「クッキーならまだありますよ。」
 不動さんはお盆の上にカップを三つ並べて、紅茶のティーバッグを入れ、湯を注ぎ始める。僕は改めて軽部さんに挨拶した。軽部さんは、クッキーを口に入れ、不動さんから渡された紅茶を一口飲む。カップをゆっくりと机の上において、僕の方を初めて見た。
「オメェさん、何しにきたんだ。前の業界におればいいのによぉ。」
 そう言って僕の目をじっと見つめた。それはおとぎ話の住人の目ではなかった。明らかに勝負の世界を生き抜いてきた、と思われる厳しい目だった。僕はその目をじっと見つめ返した。これから僕は、この世界で生きていこうとしているのだ。やがて軽部さんは、紅茶をゆっくり飲み終えると立ち上がった。
「風見君なんかアテにしたって、ラチあかんぞ。」とだけ言い残して部屋を出て行った。
 ダイニッケンホーム名東展示場モデルハウスには、僕の他に三人の営業マンがいた。その内一人は、僕より一週間先に入社した新人営業だった。それに風見店長と嘱託社員の軽部さん、アシスタントの不動さんの七人でモデルハウスは運営されていた。モデルハウスの偉容に驚いたのも束の間、すぐに週末を迎える事になった。
 土曜日の朝には、同僚の営業マンたちと展示場外の植栽にホースで水をかける。それが終わると、延べ床面積百坪のモデルハウス内を掃除する。朝は、店長も軽部さんもいなかった。両開きの玄関ドアを大きく開け、来場者への手みやげ用花の苗を、玄関脇に置いて準備完了だ。いったん二階のスタッフルームに引き揚げる。先輩営業マン達はリラックスした様子だった。野呂さんはイチローのバットスウィングの真似をしている。同じく先輩の中地さんは、細身の体をダブルのスーツに包んで椅子に座り、コーヒーを飲んでいる。
 その二人と対照的に、僕ともう一人の新人、徳光君の表情は緊張で硬かった。長身の徳光君は椅子に座って、繰り返しアンケートを眺めていた。彼の実家は工務店を営んでいるとの事だった。
「それって、先週取ったアンケートですか?」と僕は尋ねた。
 住宅展示場に客が入ると、まずアンケートに記入してもらう事になっていた。住所と氏名に電話番号、建築予定はいつ頃か?、予算は?何人家族か?などと言った質問項目がある。僕の当面の目標は、まずこのアンケートをたくさん集める事だった。
「ハイ、三枚取れました。」と、徳光君は微笑んだ。黒ブチのメガネをかけて頬骨の出た長い顔は、どこか東北の農家の長男を思わせた。柔道でもやっていそうな、骨太ながっしりした体つきだ。それに比べてあまりにも声が優しく繊細だった。
「土日はお客様、結構来ますよ。アマミヤさんも、がんばってくださいね。」
「ありがとうございます。お互いがんばりましょう。」
 僕はそう言って彼と握手した。
 風見店長は、カタログを見ておけと言ったきりで、僕に何かを指導しようと言うそぶりすら見せなかった。金曜日の夕方、店長は僕に向かって言った。
「アンケート取れや。」
 指示らしいものはそれ一言だった。いきなり接客である。何をどうしていいのか、さっぱり分からなかった。 
 スタッフルームには一台の白黒テレビが設置されていた。そこには玄関から入ってくる客の様子を、モニター出来るようになっていた。玄関口にはセンサーがあり、人が通るとチャイムも鳴る。
 午前十時を少し過ぎた頃、その日最初のチャイムが鳴った。
 ーピンポーンー
 モニターに客の姿が映った。まだ若い夫婦が、ベビーカーに載せた子供を、抱きかかえようとしているのが映っていた。
「行ってきます。」
 意を決したように徳光君が立ち上がった。接客する順番は決まっていた。朝、モデルハウスに出勤した順である。徳光君は今日一番乗りだった。僕も早めに着いたつもりだったが二番目だった。
 やがて二回目のチャイムが鳴った。モニターを見ると中年の夫婦二人連れだった。僕はネクタイに手をやり、きつく締め直した。
「じゃ、行ってきます。」
 宣言するかのように野呂さんに言った。野呂さんも大きな声で
「ハイ、いってらっしゃい。」と僕を送り出してくれた。一階のリビングに降りていくと、和室の方からボソボソと、徳光君と客の会話が聞こえた。リビングの方に向かうと、すでに中年夫婦の奥さんが、キョロキョロと室内を見廻している。ダンナの方は、奥さんと離れて、リビング内の暖炉を覗き込んでいた。僕は近くの奥さんの方に声をかけた。
「いらっしゃいませ、ごゆっくりご覧ください。」
「アラ、まぁ、ステキな家具よねぇ。これ、お高いんでしょ?」
 置いてある家具の値段なんか全く分からなかった。とにかくアンケートに記入してもらう事だ。
「はい、まぁ、それなりですね。アンケートは、ご記入頂けましたでしょうか?」
「ああ、主人が書きますから。」
 そう言って奥さんの方は、さっさとキッチンに向かってしまう。僕はダンナの方を見た。暖炉のそばに飾ってある、アンティークの蓄音機を興味深そうに眺めていた。
「ご主人、恐れ入りますが、アンケートのご記入、よろしくお願いします。」
「この蓄音機いいねぇー、どこで買えるのかねぇ。」とニヤニヤ笑っている。奥さんの方は、どうやらL型キッチンの方にいるらしい。ダンナの方は僕のアンケートを受け取ると、暖炉のそばで立ったまま住所と名前をボールペンで書き込んだ。アンケートの質問内容に、ちょっと首をかしげる様に考えていたが
「まぁ、今日は見に来ただけだから。」と質問事項には一切記入しなかった。
「ありがとうございます。」
 僕はアンケート用紙とボールペンを回収する。結局、この中年夫婦は常に別行動を取り、ダンナの方は何を話しかけても、へらへら笑っているだけだった。まともに会話らしい会話がないまま、二人は粗品の苗木を受け取って、モデルハウスを出て行った。スタッフルームに戻ると風見店長が座って煙草を吹かしていた。
「どうや?アンケート取れたか?」
「はい、取れました。」
「うむ、今晩行ってこいや。」
 それだけ言うとまた、タバコをスパスパ吹かした。アンケートに書かれた住所は名古屋市名東区となっていた。僕は棚から名東区の住宅地図を取り出して広げた。住宅地図には一軒一軒の家の番地と、家主の名前がびっしり記入されている。団地の場合には、巻末に載っている一覧表を見れば、何号棟の何号室には誰が住んでいるのかも分かった。注意深く地図を見ていくと、アンケートに記入された番地と名前が見つかった。一軒家だった。
「名東区ですか。いい客じゃないですか。」と、中地さんが住宅地図を覗き込んだ。
「夜の訪問って、何を持っていけばいいですかね?」と、僕は中地さんに聞いた。中地さんは丁寧に教えてくれた。一言メッセージカードがあるので、ご来場のお礼を書いて、専用封筒に入れて持っていくこと。準備しておくカタログの種類、設計プラン依頼用紙、施行実例の写真集などを持っていった方がよいとの事だった。その間も風見店長は、全く僕に関心を示そうとはしなかった。この人は、自分が部下を抱えているという意識もない様子だった。もちろん、指導をしていこうという姿勢は全く見られない。
 野呂さんが僕に声をかけた。
「アマミヤさん、週報用紙、貰ってます?」
「いえ、まだ貰ってないですけど。」
「店長ダメですよぉ、ちゃんと教えてあげないと。」
 風見店長は、また、例のドロンとした目を野呂さんの方に少しだけ向けた。
「ああ、そうやな。」
 それだけ言うと、また、書類の束に向き直り、せっせと何か書き込んでいる。野呂さんは棚から週報用紙を取り出して、僕に一枚くれた。それは碁盤の目の様なA四版の用紙だった。左端の枠には、上から接客数、アンケート数、着座面談数、などという各項目がずらりと並んでいた。左下の方には設計プラン提出、見積もり提出、クロージング、申し込み、そして最後に「契約」と書かれてある。横軸の一番上の欄は曜日が書かれていて、右端にはそれぞれの項目の、一週間の合計数を記入する欄があった。この表で、営業マンが一週間、どのような営業活動をしたのかが、一目で分かるのである。今の僕の状況ならば、接客1、アンケート1、着座面談0である。この日の僕は三回接客する機会があったが、結局アンケートが取れたのは最初の客だけだった。
 夜になった。この日、軽部さんは、結局姿を現さなかった。中地さんは、早々と夕方には客先へ向かった。野呂さんは、午後七時頃に出かけていった。
「アマミヤ君、行かんのか?」風見店長は、僕をちらりと見ていった。僕は多少緊張していた。今朝の中年夫婦の家に、初めての夜間訪問をするのである。今まで営業経験というものはあるが、それは会社相手だった。前任者から引き継いだ部署を、挨拶回りして顔さえ出しておけばリピートオーダーがあり、売り上げは上がっていった。だが、住宅営業の相手は個人である。家は人生最大の買い物である。一般の人にとって、一生のうち家を建てるチャンスは、一回あるかないかだろう。
それを初対面の営業と客が商談するのだ。断られたらそれで終わりだ、と思った。何を言って話をつなげたらいいのだろう? 今、どんな家に住んでいて、どんな表情で僕と対面するのだろう? モデルハウスの中での接客と違い、明らかに敵地に乗り込むという感覚だった。
 まずい事に自分が方向音痴であった事も不安だった。住宅地図のコピーは持っていても、暗い夜に狙った客の家に、ピンポイントでたどり着くのさえ困難な事だと思った。風見店長は立ち上がって自分も出かけようとしていた。
「まぁ、行ってこいや。」
 何をどういう風に話してこいとも言わなかった。
「じゃ、今から行ってきます。」と、徳光君の方を見た。彼も僕同様、明らかに緊張していた。口を一文字に結び、顔をこわばらせている。彼も今日、一枚アンケートを取っていた。
「徳光君も行けよ。」と風見店長は出入り口に向かいながら声をかけた。
「ハイ。」とだけ返事をして徳光君も立ち上がった。僕はカバンを持ってモデルハウスの外に出た。駐車場に向かいながら空を見上げた。静かに晴れた満天の星空だった。これからが仕事の本番だ、と気合いを入れ直してクルマに乗り込んだ。
 名東区は名古屋市でも、千種区と並んで比較的富裕層が多いとされる地域だ。僕は住宅地図を頼りにして、客先付近まではたどり着いた。夜という事もあり、一軒一軒の表札を確認していくのは、意外にも手間取る作業だった。そして、今日来た中年夫婦の家の表札をようやく見つけた。門柱にはインターホンのスイッチがあった。門扉の向こうは登り階段になっている。両側は低い植栽が植えられている。階段の奥はL字型に曲がっていて、門扉から直接、客の家は見えなかった。 僕は二度、三度前を行ったり来たりした。相手は赤の他人の家である。夜、いきなりチャイムを押して訪問することに、ものすごい抵抗感があった。何とも嫌な気分なのだが、これが仕事なのだから仕方がない。ふぅーっと深呼吸をして、インターホンの前に立った。左手にはアタッシュケースを下げている。門柱から直接本宅が見えないというのが、余計に不安になった。とりあえずインターホンを押すまでの事だ。エイッと気合いを入れてスイッチを押す。
 ヴィィ〜〜〜
 インターホンからは、夜中に不釣り合いな程、大きな音がした。何の返事もなかった。しばらく待って、もう一度スイッチを押した。
 ヴィィ〜〜〜
 ブザーの後にブツッと言う音がして、その後インターホンから声がした。
「はい、どちらさまですか?」
「あの、ダイニッケンホームのアマミヤと申します。あの、本日はご来場ありがとうございました。」
「ああ、展示場の人ね。」
 どうやら奥さんらしい。僕はとにかく門扉を突破して、家の玄関にたどり着かねばと思った。
「夜分にすいません。今日のご来場のお礼にと思いまして、ご挨拶に参ったのですが…。」
「あー、ただ、見に行っただけだしねー。」
「あっ、あの、お建て替えのご予定とかは?」
「ああ。ありませんよ。今度リフォームするから。壁紙とかカーテンとか見たくて行っただけだから、ごめんなさいね。それじゃあ。」
ブツッという音と共に、インターホンからの声は途切れた。
 リフォームかぁ、壁紙かぁ、と僕は力が抜けてしまった。なんだか、緊張したのが損したみたいで、バカ馬鹿しくなった。僕はカタログなどの入ったアタッシュケースを下げて、夜の道を自分の車の方へ歩いて行った。ドアを開けて、助手席にアタッシュケースを放り出した。ドアのポケットに入れておいた週報を取り出した。左端の中頃の欄に「夜訪」と言う欄がある。そこへボールペンで1と書き込んだ。これが今日、僕の営業活動の成果なのだ。
 入社して最初の土日を経験した、その二日後の火曜日。翌日の水曜は休みということもあり、営業部で新人営業の歓迎会を開いてくれた。夕刻から三つの展示場のスタッフが、いったん名古屋矢場町にある支店に集合し、そこから名古屋の中心地、栄の方向へ歩いて向かった。営業マンたちの車は、近所の二十四時間営業の駐車場に留めた。
 三つの展示場の営業マンは、合計で十二人である。そこへ営業部長と各店長三人、神宮展示場と植田展示場の女性アシスタントが二人参加した。主婦である不動さんは不参加だった。また、軽部さんも持病の糖尿病があり、酒はダメという事で不参加だった。
 秋の夕暮れはすぐに日が沈む。午後六時にもなると、すでに矢場町付近のオフィス街は、夜の街の顔になっていた。名古屋栄から矢場町にかけて、南北に大きく貫いている久屋大通を、栄交差点方面に歩いて行く。風見店長は遅れてくるとの事だった。
 僕は名東展示場の営業マンぐらいしか面識がない。それに比べて野呂さんや中地さんは、他の展示場の連中と旧知の仲と言った感じで、冗談ばかり言いあっている。
 皆二十代から三十に踏み込んだばかりの連中である。酒を飲む前から皆、異常なハイテンションではしゃいでいる。いじられ役の新卒営業マンは、野呂さんにヘッドロックをかけられているし、鬼ごっこの様な事をしている営業マンもいる。皆、スーツを着込んだ大人のビジネスマンなのだが。
 神宮と植田の展示場女性アシスタントはどちらもルックスがよかった。彼女ら二人と一緒に宴会が出来るというので盛り上がっているのかな、と僕は思った。一緒に歩いている徳光君も、時折、視線を彼女たちに向けているのが分かった。
「徳光さん、どっちがタイプですか?」と僕は小さな声で尋ねた。
「いやぁ、僕はどちらとは…。」
 徳光君は、彼女たちを見ていたのがバレたのが恥ずかしかったのか、口ごもって顔を赤らめた。
 植田展示場のアシスタント、泉水さんは映画やテレビに出演している人気女優によく似た美人だ。目鼻立ちがスッキリとしていて、すらりと伸びた脚も細く、プロポーションも抜群だ。どこから見ても申し分ない美人である。営業マンたちは、ふざけあいながらも、それとなく彼女の近くにまとわりついているのが僕には分かった。神宮展示場の女性アシスタント、佐藤さんも充分魅力的だった。身長は低いが、顔立ちが幼く、かわいらしい女性である。彼女にセーラー服を着せれば、間違いなく女子高生で通るだろう。今日の歓迎会の最大の関心は、僕たち新人の事なんかではなく、彼女たちの近くの席をいかに確保するかである事は明らかだった。
 今日の宴会の幹事は、神宮展示場の福本治朗店長だった。皆は、松坂屋デパートの角を西へ曲がる。夕刻という事もあって、歩道は帰宅を急ぐサラリーマンが多い。車道は路上駐車をしている車の間を縫うようにして、車が行き交っている。牛丼店や、コンビニ、消費者金融の看板などが立ち並ぶ雑居ビルの隣に、集合場所である居酒屋があった。客呼び込みの赤いのぼりが二本立っている。軒先は瓦で葺かれていて、玄関引き戸は縦格子で作られ、昔の旅籠の雰囲気を出していた。入り口には「本日のご予約」と書かれた二つの木の黒い札がかかっており、そのひとつに「ダイニッケンホーム様」と白い文字で書かれている。
「てめぇ、バカヤロー」
 植田展示場の営業マンが笑いながらその札を殴る真似をした。
「ホームじゃねえよ。天下の大日本建材だぞ、コノヤロー。」
「このバッジが目に入らんか!!」
「ヘヘッー。」と、別の営業マンがおどけてひれ伏す真似をした。皆、スリーピースのスーツや、ダブルのスーツ姿であり、その襟元には大日本建材の社員の証である、DKマークをかたどった、社員バッジが輝いていた。もちろん僕もつけている。初めて、この社員バッジをもらった時には、これにも驚いたものだった。社員バッジが入ったケースの裏には、銀座に本店を構える有名宝石店の名前が刻まれていたのだ。金メッキが施されたそのバッジは、僕にとって宝石のように輝かしく見えた。
 店員に案内されて座敷に上がった。それぞれ好きなところに座ろうとする。長い木の座卓の末席の方に、女性アシスタントが座ろうとすると、神宮展示場の福本店長が言った。
「せっかくの歓迎会だから、新人さんの両となりに座ってあげてよ。」
 僕と徳光君は新人席という事で、上座の近くに座らされた。
「部長もどうぞ。」
そう言って福本店長は営業部長に上座を勧めた。
「ウム、ありがとう。」
 犬丸猛営業部長は、どかりと胡座をかいた。やや中年太りと思われる体である。その右隣に福本店長が座った。左隣は風見店長の席が空けてある。植田展示場の在間幸広店長は、次の席に座った。作務衣のような制服を着た店員が、両手にビール瓶を捧げて運んでくる。皆、ビールをテーブルの上にまんべんなく並べて行く。こういう場を仕切るのがうまい営業マン数人が、ビールの栓を抜いて皆のグラスに注いでいった。全員にビールが行き渡った頃、おもむろに部長がグラスを手に立ち上がった。今までざわついていた営業マンが急に静かになった。営業部長は眼光鋭く皆を一通り見回した。
「皆さん、お疲れさま。今日は忙しいところ、新人歓迎会に集まってもらってありがとう。」
 営業部長が乾杯の音頭をとり、皆で型通りの乾杯をした。拍手の後、福本店長が軽い口調で「それじゃ、新人さんから挨拶していってね。」と言われたので、徳光君、僕の順番で挨拶した。意気込みを述べると言っても、右も左も分からない業界に飛び込んだのだ。ただ、がんばります、としか言えなかった。 
 犬丸営業部長は、僕たち新人営業マンにはそれほど関心がなさそうだった。犬丸部長がタバコを口にくわえると、そばにいた福本店長がライターで火をつけた。
 営業部長の髪は耳がかぶさるまで伸ばしていて、モミアゲも豊かである。髪全体にゆるくパーマをあてて、手入れにも気を配っている感じだった。袖口にはクリスタルのカフスが光っており、左手にはロレックスの金時計が重厚な輝きを放っている。いかにもやり手の青年実業家と言った風貌だ。
 宴会が始まると、泉水さんと佐藤さんが慣れた感じで、まず営業部長から順にビールを注ぎ始めた。
「おう、彩花ちゃん、うれしいねぇ。美人に注いでもらった酒はうまいねぇ。」
 泉水さんから注がれたビールを部長は一気に飲み干した。空いたグラスには、すぐ佐藤さんがビールを継ぎ足した。そこへ風見店長が、パンパンに膨らんだカバンを提げて現れた。
「部長、遅れて申し訳ございません。」
 頭は丁寧に部長に向かって下げているのだが、メガネの奥の目は、あいかわらずドロンとしたサバの目で表情がない。
「カバンぐらい車に置いてくればいいだろう。」と部長は自らビールの瓶を持って、風見店長のグラスに注ごうとする。ビール瓶の先をちょっとしゃくり上げた。
「ほらっ。」
「あっ、恐れ入ります。」
 風見店長は、あわててグラスを両手で捧げ持ち、ビールを受けた。
 「このすぐ近くのショールームで、今まで客と打ち合わせやったんですヮ。」その言葉にはちょっとした自慢のニュアンスが込められているように感じた。
「ヨシオカさんだったね。確か土地なし客だったよな。」
「ハイ、それを土地紹介して、本契約に持ち込むのはさすがに大変やったですわ。」
 そう言って風見店長は、うまそうにビールを飲み干した。
「次も頼むぜ。もう行けるだろ、あの客。」
「はい、部長のクロージングお見事でした。おかげさまで今日のお昼に、お申し込み頂きました。」
 風見店長はカバンから「建築申込書」と書かれた二つ折りの上質紙を取り出した。
「うひょー、申し込み、また取ったの。」
 と福本店長が、覗き込んだ。
 植田展示場の在間店長は、下を向いてテーブルにひじをつき、グラスのビールを一口飲んだ。ほとんどバーコードと言っていい頭髪の頭を、軽く左右に振ってつぶやくように言った。
「いいねぇ、名東は。ウチの展示場じゃなぁ。」
 パンフレットにも載っているのだが、植田展示場のモデルハウスは、どう見たって建て売り住宅に、在間店長の毛を生やした様な外観だった。これでは来場者の数も少ないだろうと、住宅営業初心者の僕でも分かる。風見店長は、タバコに火をつけ、ポンプのように規則正しく煙を吸ったり吐いたりしている。
「風見君、家では禁煙なんだって?」と犬丸部長がおもしろそうに訊いた。
「ハァ、そうなんですヮ。」
 風見店長は真剣な顔で、引き続きポンプのように煙草を吹かしている。
「かわいそうにねぇ。」
 部長はニヤニヤしながら、うまそうにタバコの煙を天井に向けて吐き出した。 
「アマミヤ君、この前取った名簿の客、ちゃんと行ってるか?」と、風見店長がサバの目を僕に向けて言った。
「あっ、はい、今日も行きましたが、」と僕は手羽先のむしった肉を、急いで飲み込みながら答えた。 
「やはり、リフォームの予定で、壁紙を見に来ただけとの事でした。」
「そうか。」
 風見店長はタバコの火を灰皿でもみ消しながら、
「そんなもん、客じゃねえヮ。」と吐き捨てるように言った。それを聞いていた犬丸部長が口を挟んだ。
「オイオイ、営業の神様である風見君がそんな事言っちゃいかんな。アマミヤ君、徳光君もよく聞けよ。」
 犬丸部長は、特に風見店長の言葉に怒る様な素振りは見せず、僕と徳光君のほうに顔を向けた。
「アマミヤ君、一枚のアンケートの値段は幾らだ?」いきなりそう聞かれても、
「はぁ、まだよくわかりません。」としか答えられない。犬丸部長は得意そうにうなずいて語り始めた。
「アマミヤ君、徳光君、君たちが取ったアンケートは一枚五万円だ。」
 僕と徳光君は一気に緊張した。風見店長は上体をまっすぐにして部長の話を聞いている。神宮店の福本店長は、部長の話などおかまいなしに、うまそうに「どて煮」を口に運んでいる。犬丸部長は続けた。
「君たちの人件費、モデルハウスの減価償却費、展示場出展料、光熱費、更には支店の賃貸料、維持費、通信費。おまけに君たちが使っている駐車場代。これら一年間の固定費をだ、一年間でとれるアンケートの数で割ってみろよ。それが、一枚五万円になるんだよ。捨てる客なんて一人もいないんだぞ。」
 そう言うとビールをゆっくり口に運んだ。
「おっしゃる通りです!!」
 それまで、正座してじっと拝聴していた風見店長が、勢い込んで合の手を入れた。
「いやぁ、さすが部長ですわ。おっしゃるとおりです。ええか、アマミヤ君、徳光君、捨ててもええ客なんか、一人もおらんのやぞ! 一枚五万円なんやぞ!その通りですわ、部長!!」と、風見店長は大げさにうなづいた。そして、それまで灰皿に置いていた、吸いかけのショートホープを口にくわえ、大きく煙を吸い込んだ。ついさっき自分が言った、「客ではない発言」を、自ら全否定しても全く気にしていないようだった。風見店長のわざとらしい、へつらいぶりに、僕は何か珍しい動物を見ている様な錯覚を覚えた。他の営業マン達は、グラスを空けるピッチも早く、皆赤い顔をして、すでに出来上がっている感じだった。
「グラス空いてるじゃないですかぁー。」
と僕にビールを注いでくれたのは神宮展示場のアシスタント、佐藤さんだった。
「ありがとう、確か、佐藤さんでしたよね。」
「ハイ、佐藤奈々子です。」
「うらやましいなぁ、神宮も植田も、こんなきれいなアシスタントがいて。」
「あぁーっ、不動さんに言ってやろー。」
 佐藤さんはニコニコ笑っていた。
「奈々ちゃーん、オレにも注いでくれよ。」とグラスを差し出したのは神宮の福本店長だった。
「後で、メイドコスプレ見せてねー。」
「高いですよ。」
 佐藤奈々子は、セクハラまがいの福本店長の言葉を軽くいなしながら、慣れた手つきでビールを注いだ。徳光君は植田店の泉水彩花からビールを注がれて、必要以上に顔を赤くしている。相好を崩す、という言葉がこれほど似合う男もいないだろう。
「いいなぁー、彩ちゃん、スタイル良いし、あこがれなんですよ。私、背が低いし。」と佐藤さんは僕に話しかけてきた。
「いやぁ、佐藤さんも充分かわいいじゃないですか。モテるでしょ?」
「そんな事ないですよ。アマミヤさんこそ、 コーディネーターの資格持ってるなんてすごいじゃないですかぁー。」と佐藤さんは僕の二の腕を両手で軽く触れた。
「いやぁ、別にすごくはないよ。」
 内心うれしかった。僕はちょっと頬を赤くしてビールを飲み干した。佐藤さんがまた、グラスにビールを注いでくれる。
 やがて、宴もたけなわとなった。若手営業マンはビール瓶を持って、次々に先輩社員や部長、店長に注いで廻る。僕も酒を注ぎに行こうと立ち上がると、なぜか隣の佐藤さんが、僕の脇腹あたりを軽くつねった。彼女は恐らく酔っているのだろうと思った。う〜ん、とすねる様な口調で、更に僕のシャツの脇腹の辺りをつねっている。ちょっと酒癖が悪い娘なのかもしれない。彼女をなだめるようにして僕は席を立った。ビール瓶を持って部長のそばに廻った。犬丸部長はリラックスした様子で壁に背を持たせかけ、グラスを持った手だけを、僕の方に突き出した。僕はビールを注ぎながら思い切って聞いてみた。
「部長、どうやったら、売れる営業マンになれますか?」
「うん?」と部長は赤くなった目だけをちょっと僕の方に向けて、その後すぐどうでも良さそうに視線を中空に向けた。
「まずは売れてる営業マンの真似をしてみる事だな。」犬丸部長は続けた。
 「風見君はあの通りの人間だけどね。良いワザ持っているんだ。毎月一棟の受注をしている。いいかアマミヤ君、この世界ではな、一ヶ月に一棟、必ず売ってくる営業マンは、神様と呼ばれるんだぜ。」
 そのかわり、と部長は僕の目をちらりと見てすぐ視線をそらした。
「何ヶ月も売れない営業ってのはなぁ。」と言葉を区切り、ビールを一口含んだ。目は中空を睨んでいた。
「害虫だ。要らんのだ。」冷めた目で、そうつぶやくように言った。


2 これが仕事

 この会社に入って一番驚いたのは、住宅営業マン用の新人教育マニュアルが存在しない事だった。一部上場企業なら、それぐらい用意しそうなものだが。
「だって、ホームだもんね。」
 不動さんがスタッフルームでお茶を飲みながらそう言った。
「ホームって?」と僕はティーカップを置いて聞いてみた。
「つい2年前まではダイニッケンホームって言う別会社だったのよ。営業不振で、社長が親会社の大日本建材に泣きついて入れてもらったの。」
 だから、大日本建材本社と、ダイニッケンホームでは、何から何までやり方が違うのだと不動さんは言った。最初、総務部長から、
「教育はOJTです。」
と言われた本当の意味がようやく分かってきた。要するに新人教育のノウハウも持っていないので、ほったらかしにするという事であり、それが「ホーム」のやり方だということだった。もう、自分で自分を教育していくしかないな、とため息まじりにお茶を一口飲んだ。
 僕は住宅に関する知識をどん欲に吸収していった。「失敗しない家作り」だとか、「初めての家作り」などと言うタイトルの本を、自腹を切って五、六册買い、片っ端から読み始めた。
 どの本も家のプランニングや、各種建築工法、建築法規の基礎知識、資金計画等が説明されている。
 都市銀行や労働金庫にも出向いて、住宅ローンの資料を貰って来た。住宅営業としての基礎知識を一から勉強するだけで、あっという間に二ヶ月が過ぎていった。

 十一月下旬の日曜日、僕はダイニングで客と話をしている軽部さんを見かけた。ちょうど僕は接客が終わっていた。僕の客は十分もせぬうちに逃げるように帰ったところだった。
 ー軽部さんのトークを盗んでやろうー
 僕はダイニングの隣の、リビングルームにさりげなく近づいた。テーブルの上のパンフレットを整理する振りをしながら、聞き耳を立てた。リビングに飾られた大きなクリスマスツリーの電飾がチカチカしている。何気なく客の方を見た。
 五十がらみの夫婦と、年頃の美しい娘さんだった。
 軽部さんがツルツルの頭、巨体、ダミ声で喋っている。すでに三人の客はダイニングテーブルにくつろいだ感じで座っていた。軽部さんは向かい合って座り、施行実例の写真集を、まるっこい指でめくっている。
 写真を指差しながら軽部さんがひと言喋ると、娘さんが愉快そうにコロコロと笑った。とても品のよいお嬢さんが、はしゃいでいるようにも感じた。
 軽部さんは自分の体の特徴全て、そのキャラクターの要素を総動員して、客を笑顔にさせているのが分かった。
 それは軽部さんのあの巨体、ツルツルの頭、鳴り響くダミ声でないと成立しないアクロバットであり、それはひとつの磨き抜かれた芸を見ているようで、こちらまで心地よかった。
 軽部さんの接客は長くかかりそうだった。僕は途中でスタッフルームへ戻った。不動さんが四組の茶器を用意していた。

「不動さん、それ僕が持って行きます。」
「あら、そう。ありがとう。いい勉強になるでしょ、軽部さん見てると。」
 不動さんは、僕が軽部さんをスパイしているのを知っていたのだ。
「早く、一棟売れるといいわね。」
 不動さんは、にこりとして僕に茶器の載ったお盆を手渡した。お茶をこぼさないように慎重に階段を一歩一歩降りて行く。その間にもダイニングから軽部さんのダミ声が聞こえてくる。
「ご主人、奥サマ、いい?それにお嬢さんもよく覚えといてね。こんなモデルハウス見てもねぇ、何の参考にもならんからね。」
などと言っている。
「お茶をお持ち致しました。どうぞごゆっくりしていってください。」
 僕はそう言って紅茶の入った茶器を、まずご主人の方へ、そっと差し出した。父親は髪をキレイに七三に分け、黒ブチメガネをかけた、いかにも堅実そうな男性だった。
 ヒゲも綺麗に剃り、ベージュのVネックセーターにピンクのシャツ姿だった。
 ちらりと娘を見ると、軽部さんの方を見て無邪気に微笑んでいる。清楚な白いブラウス、やや茶色い長い髪は、緩やかにウェーブしている。

 「お嬢さん、こんなおじちゃんと、家、一緒に見に行くかね? おじちゃん、スケベだよ、大丈夫?」
 軽部さんは丸っこい指で自分の鼻先を指しながら言った。お嬢さんの方は、ティーカップを両手で軽く持ちながら微笑んだ。

「ふふふ、じゃ、軽部さんとデートね。」
「おっ、うれしいねぇ。わっはっハッハッ。」
 地響きのする様なダミ声が天然木フローリングの床に反射した。結局、軽部さんの接客は二時間以上に及んだ。次のアポも取り、現場見学をした後、ショールームを見に行くという約束を取り付けた。
 すでに夕刻になっており、ちょうど来場客も途切れていたので、軽部さんと不動さん、そして僕もそろって、玄関先でその客を見送った。軽部さんは玄関からモデルハウスの外に出て、客の背中に向かって声をかけた。
「もう、他は見なくていいよぉー。」あたりのモデルハウスにも聞こえる様な大声だった。 
「お嬢ちゃん! 浮気しちゃダメよー。おじちゃん、泣いちゃうからねー。」
 駐車場へ向かっていた両親と娘は、笑顔で軽部さんに手を振っていた。そして父親はベンツのEクラスのドアを開けた。車に客が乗り込むのを見届けた後、軽部さんは玄関からリビングに戻ってきた。
「聞いとったのか?」とつぶやくように言った。今までの笑顔と別人のように、クールな表情だった。
「まぁ、座れや。アマミヤ君。」
 僕と軽部さんは、リビングのたっぷりとした革張りソファーに腰掛けた。不動さんはダイニングで客の茶器を片付けている。
「どうかね、感想は?」と軽部さんは静かに僕に聞いた。
「なんで、あんな事出来るんですか?初めての客に。教えてください。」僕は素直に頭を下げた。
「アマミヤ君、営業の仕事って何だね?」
「たぶんー、仕事を取ってくること。そして、お金を回収する事、ですかね?」
「うん、普通の営業はそれでいい。だが、住宅営業は、」と軽部さんはひと呼吸おいて、僕の方に体を向けた。軽部さんは丸っこい左の手を下に、右の手をその上にかぶせて僕に見せた。
「ええか、アマミヤ君、お客さんはな、モデルハウスに入ってきた時、こんな風に貝になっとる訳だ。」
 そう言って今度は、二枚貝のようにかぶせていた手のひらを広げてみせた。
「これを、パカァーっと開かせてあげるのが、住宅営業のシ・ゴ・ト。」
 そう言って、僕の顔に丸っこい人差し指を向けた。僕は放心したようにその指を見つめた。


 翌週の土曜日には、風見店長の接客を見てみる事にした。「彼もいい技もってるんだ。」という犬丸部長の言葉を思い出した。
「店長、接客を見学させてもらっていいですか?」一応、僕は店長の了解を取っておこうと思った。風見店長はちょうどこれから接客に向かおうと、スタッフルームを出て行くところだった。
「ああ、ええよ。よう見とけや。」と僕を振り返って言った。店長に続いて僕も一階へ降りて行った。客は若い夫婦だった。店長は客の前に進み出ると、丁寧にお辞儀した。
「いらっしゃいませ。いつ頃お建てになりますか?」
 いきなり核心を突いた。
「いやぁ〜、ちょっと見に来ただけなんで…。」と若い夫の方が、右手で頭をかきながら答えた。風見店長には何の表情もない。
「敷地はお持ちですか?」
「いや、まだまだ、これからです…。」
「ご予算はおいくらですか?」
 風見店長は客に尋問する様に続ける
「いやぁ〜ご予算って言ってもねぇ〜。」と口ごもっている客に対し、風見店長はもう一度お辞儀した。
「どうぞ、ごゆっくりご覧ください。」言い終わらないうちに、機械的に廻れ右をして、客から離れた。階段をすたすた上ってゆく。僕はあっけにとられて、店長の後を追ってスタッフルームへ戻った。
「店長、あのう。」
「客じゃねぇわ。あんなもん。」それだけ言うと、自分の席にどかりと座り、分厚いファイルを開けて、書類に何か書き込み始めた。
「こんな接客有りか?」と僕はあっけにとられた。
 わずか一分足らずで、店長は客を見極め、切って捨てたのだった。無駄で、余分な労働を一切排除すると言う、これが風見店長独自の営業スタイルなのか、と僕は言葉もなかった。風見店長は、そんな僕の方を見向きもせずに、ショートホープの煙をポンプの様に規則正しく吹かし続けた。


 相変わらず僕は、客から断られ続けていた。入社して三ヶ月、そろそろ結果を求められる時期だった。自分が持っているアンケートは三十枚程度になっていた。それらの客に昼間アポなしで訪問した。この訪問は社内用語で「突訪」と呼ばれていた。だが、しょせんアポなし訪問をやっているうちは、客に相手にもされなかった。いつも玄関先で追い返されてしまう。疲労感だけが残り、収穫は何もなかった。
 その日も訪問が終わり、夜の八時半を過ぎた頃、僕は展示会場の駐車場に戻ってきた。「TBC名古屋東ハウジングセンター」はクリスマスのムードに染まっていた。
 全てのモデルハウスはイルミネーションで飾られ、ダイヤモンドを散りばめた様にキラキラ輝いている。
 ダイニッケンモデルハウスの勝手口からハウス内に入る。すでに室内の照明は、階段付近以外は消されて真っ暗だった。
 そこだけが明るい階段を、疲れた足取りで一段一段登る。パンフレット等を入れたアタッシュケースがやけに重い。スタッフルームのドアをガチャリと開ける。

「ただ今戻りました。」
「えらい、早いなぁ。」と言って僕をじろりと見たのは風見店長だった。立ったまま換気扇のそばでタバコを吸っている。
「ワシ、今から行ってくるゎ。客と打ち合わせや。」と、得意そうに鼻から煙を出す。
「えっ、クリスマスイブですよ。店長、ご家族はどうされてるんです?」
「ほんなもん、気にしとって、この仕事出来んゎ。夜の十二時超えても客の所におるのが一人前の営業や。」
 確かに、アポのひとつも取れずに、夜の九時前にすごすご帰ってくる僕など、この業界では洟垂れ小僧もいいところだ。
「アマミヤ君、正月はどうするんや?元旦は出るんやろな。」
 年末の休みから、せめて元旦までは神戸の実家にいたかった。僕の気持ちを見透かした様に風見店長は言った。
「徳光君は出る言うとるのに、なんで出んのや?」
 徳光君は僕と違い、すでに客から設計プランの依頼を一件受けていた。風見店長は僕の顔に、気持ち悪いぐらい顔を近づけてきた。
むっとタバコの臭いがした。僕の耳元でささやいた。
「徳光君はやっとるぞ。どうするんや?」
 ニヤリと笑いながら、もう一度耳元でささやいた。タバコ臭い。
「どうするんや?」
「はい、元旦出ます。」僕は唇を噛み締めた。プラン依頼一つ取れない自分が、ふがいなかった。店長は僕の返事を聞いた後、膨らんだ黒革カバンを持ち上げた。スタッフルームから出て行く時に振り返って言った。
「正月は、ええ客くるぞ。」

 年末の十二月二十九日から大晦日まで、僕は神戸の実家で過ごした。兄と兄嫁、それに父と僕の四人で大晦日の夕刻、年越しそばを食べた。
「えっ、元旦からもう仕事しとるんか?」父親はそばをすすりながら、あきれた様に言った。
「まぁ、これが住宅営業言うもんや。しょうがないわ。」と僕は笑って言った。そばを食べ終えると、すぐに名古屋へ帰る用意をした。兄と兄嫁は僕に菓子や果物、家で作った餅を持たせてくれた。
「お前、これ好きやろ。ぎょうさん、持って帰れ。」そう言って兄は、青のり入りの切り餅をビニール袋にたくさん詰めて持たせてくれた。
「車混んどるやろ、気ぃ、つけてな。」
「うん。休み休み行くから大丈夫や。」
「仕事、無理すんなよ。ええな。」
「うん。」
 僕は大晦日の深夜、渋滞の高速道路を抜けて、名古屋へ戻った。

3 客を穫る

 元旦の朝は新年にふさわしく、穏やかに晴れていた。今年こそ、と僕は意気込んでいた。スーツも新調していた。黒い生地に銀の細いストライプの入ったダブルだ。ネクタイはこれも気に入って買った、煉瓦色と赤の格子模様を着用した。白い息を吐きながら、駐車場からモデルハウスに向け歩いた。
「明けましておめでとうございます」声をかけてきたのは徳光君だった。
「今年もよろしくお願いします」
 僕は笑顔で答えた。すでにどのモデルハウスも、玄関にしめ縄、門松を飾り、新しい年の客を迎え入れる準備が出来ていた。もちろん僕も徳光君も、昨年末の休み前に、粗品等の詰め合わせが入った福袋を大量に準備した。モデルハウスの中の押し入れ、ウォークインクローゼット、和室の縁側には、ぎっしり福袋が列をなしていた。
 新しい年を迎えた住宅展示場には、朝早くから多くの客が押し掛けた。クリスマスを過ぎた直後に、ハウジングセンターが事前に新聞広告を掲載していた。
「元旦から営業します。テレビで大人気、戦隊ゴレンジャーショー、もちつき大会、甘酒大サービス、各モデルハウスにて、福袋もあるよ!」という文字が踊っている。客のほとんどは、イベントや、このタダでもらえる福袋目当てだ。各モデルハウスをハシゴして廻り、両手に抱えきれないぐらいの福袋を持って、よたよた歩いているおじいちゃん、おばあちゃんたち。モデルハウス間の通路はまるで繁華街か、神社の縁日の様な賑わいだ。ダイニッケンのモデルハウスにも、常に客が出たり入ったりする。今日の出勤は、僕と徳光君、野呂さんの独身者三人だけである。
「いらっしゃいませー、アンケートご記入くださーい!」
「すいませーん! 福袋は勝手に持って行かないでください!」
 アンケートも書かずに、玄関先に並べてある福袋を、泥棒の様に持って行こうとする年寄り夫婦。その他にも子供連れ、初詣帰りの手をつないだカップル等が多い。営業マン三人は、スタッフルームに戻る事も出来ない忙しさで客に対応した。慌ただしく来場し、サッサと帰って行く客が多い中、僕は一組の客に出会った。母親と息子と思われる二人組である。
 二人は他の客と違い、ただ、玄関先で立ちすくんでいた。息子らしい青年は、まだ学生の様な雰囲気である。端正な顔立ち。髪はそれほど長くない。男性ファッション紙に出てくる様な、典型的な美男子と言えた。真面目な顔つきで、ゆっくりとモデルハウスの中を観察している。傍らの母親は、新年というのにこれから葬式に向かう様な、陰鬱で何とも頼りない様子だった。二人とも他の客と違い、福袋を一つも持っていなかった。僕は声をかけてみた。
「いらっしゃいませ。どうぞお上がりください」
 二人は大理石の玄関で靴を脱ぎ、イヴ・サンローランのスリッパをゆっくり履いた。母親の方は老けて見えた。更には、心配そうに何かおびえている様にも見える。そんな母親を、青年がそれとなく気遣っている雰囲気を感じ取った。アンケート用紙に記入をお願いすると、青年は真剣な眼差しで、一つ一つの項目を記入していった。アンケートの氏名欄には「青井涼介」と書かれていた。住所は豊田市。建築予算二〇〇〇万円未満、敷地は有り、そして建築予定は一年以内だ。いわゆる典型的なホット客である。
「ご案内させていただきます。わたくし、アマミヤでございます」と僕は名刺を両手で青年に渡した。青年は「あっ、どうも」と言って、僕の名刺を両手で受けとった。
「青井様、本日はご来場ありがとうございます。もう他のモデルハウスも、ずいぶんご覧になったんですか?」
「いえ、ここが今日、初めてですね」
「それは、ありがとうございます。もう、ご計画はだいぶお進みなんですか?」
「う〜ん、何から手をつけていいのか……」
 青井涼介は、ちょっと困った様な顔をしていた。僕は記入されたアンケートを大切に両手に持って、二人をリビングの方へ招き入れた。
 このモデルハウスは木造である事。ツーバイフォー工法と呼ばれる、地震に強いパネル式の工法である事等を丁寧に説明した。二人は僕の説明を、真剣な面持ちで聞いていた。その間にも、他の客達は忙しそうにモデルハウスの中を動き回る。落ち着かないので、僕は二人をダイニングルームへ誘導した。
「実際に建てて頂いた方の写真を見た方が、参考になりますよ」僕はそう言って、ダイニングテーブルに置いてある、写真集を広げてみせた。母親は心配そうな顔で写真集を覗き込んだ。青年も写真集に自ら手をかけ、ページをめくった。
「今だ!」と思った。緊張で喉がちょっと渇いた。
「立ち話もなんですから、どうぞ座ってご覧になってください」
 青年は母親に座る様に促した。母親のために椅子を引いてやっている。そして、自分も並んでダイニングテーブルに着座した。やった、と心の中で僕はガッツポーズした。初めて、客を座らせる事に成功したのだ。さあ、これからだ。僕も二人に向き合う形で席に着いた。
「ご覧になって頂いております、この写真の家は、名古屋市の守山区に建っていますよ」と二人が見入っている写真を指差して、僕は説明した。
「予算は出来るだけ抑えたいんですよ」と青井涼介は言った。
「ご予算は二〇〇〇万円以内ですね。もちろん、建築可能ですよ。写真集の、こちらの建物のお客様は、約一千八百万円でお建てになりました」と、別の写真を指し示し、安心させた。そこへ、
「どうぞ、ごゆっくり」と、先輩の野呂さんがお茶を運んできてくれた。慌ただしい接客が続く中、他の客を放っておいてでも、僕の初めての着座面談をサポートしてくれたのだ。野呂さんのさりげない気配りに感謝した。青井親子は、熱い緑茶をそろってすすった。母親がほっとした様な表情を見せた。ひと息ついた後で「住むのは二人なんです」と青井涼介が言った。僕はペンとメモを取り出して話をじっくり聞いた。
 青井涼介は、今年中に結婚することが決まっている。相手は大学時代に知り合った熊本の女性である。遠方からはるばる嫁いでくる新妻のためにも、本宅とは別に新居を建てて迎えてやりたいのだ、と言った。青井家は代々農家である。土地はいくらでもあるので、好きな所に新宅を建ててもよい、と母親は言った。本宅には現在、農業を営む父親と母親、息子、そして寝たきりの祖父の四人で住んでいるとの事だった。息子の涼介は、昨年製薬会社に就職したばかりの新人営業マンである。
「お互いたいへんですね」と僕は涼介に向かって微笑んだ。
「じゃ、もう研修は終わられたのですか?」と僕は尋ねた。
「そうです。今現場に配属になってます。いやぁー、研修にしろ現場にしろ、社会人は大変ですわ。上から怒られてばっかりですもん。ホント、学生の頃が懐かしいです」と涼介は首をすくめた。同じ営業マンとして、涼介の方も僕にシンパシーを感じている様に思えた。
「でもご立派ですよ。私なんか、まだ独り者だし。では、お嫁さんのためにも、いいお家を一緒につくっていきましょう」と僕は勝手に、青井家のパートナーである事をアピールした。そして無理のない資金計画案を作りたいと提案した。
「せっかくご新居を建てても、ローンの返済に苦しむようだと、本末転倒だと思うんですよ」うん、うん、と二度涼介はうなづいた。お金の事になると、母親は再び心配そうな顔になった。
「頭金はどれぐらい要るんやろうかねぇ?」と不安そうな母親に僕は、
「総建築費の二十%が一つの目安になります。ですので二千万円の二十%、約四百万円程度ご用意頂ければいいですね」
 そう言いながら、僕は内心ヒヤヒヤしていた。しかし、僕の言葉に母親は安堵した様に「うん」と頷いたのだ。ラッキーだった。僕の方がひとまずホッとした。
「まずは大掴みに、家にかかる費用を見てみましょうか」僕はそう言ってテーブルの上の融資資料集を手元に引き寄せた。建築に関する費用のページを開く。そこで一つの円グラフを見せた。
「こちらが総建築費の内訳です。建物本体にかかる費用は全体の七割から八割。残りが付帯工事及び諸費用となります」
「付帯工事、諸費用……」つぶやく様に涼介が言った
「はい、その内訳ですが、付帯工事は屋外給排水、電気、ガス工事、必要に応じて浄化槽設置工事ですね。その他の工事として外構工事、カーテン、照明、エアコン工事などがあります。あと、諸費用として建築確認費用、融資関係の費用、そして登記費用と税金等です」
 言っている僕の頭の方がクラクラするぐらいだ。それでも目の前の二人は、僕の話に十分食いついてきている。さあ、もっと深く食らいつけ、と僕は切り出した。
「では、青井様の年収で、どれだけの融資が受けられるのか、ちょっと計算してみましょうか?」
「はい、お願いします」と涼介は少し前のめりになって答えた。さあ、食いついてきたぞ、と思った。いよいよ、初対面の客から年収を聞き出すのだ。僕は自分に落ち着け、と言い聞かせてから切り出した。
「ちなみに、月収は、おいくらぐらいですか?」僕はベテラン営業マンのふりをして、ゆったりと答えを待った。
「まだ、一年目なので、手取り十七万円程なんですけど」と涼介は答える。
「ローンのお申し込みは、税引き前の総支給額で計算出来るんですよ。ボーナスも、もちろん含んで頂いて結構ですよ」と僕はにこやかに答える。内心、僕はちょっと説明を失敗したなと焦った。
「ああ、よかった。じゃ、総支給二十二万円です。ボーナスは前期が五万、先月の後期が二十五万円でした」
 僕はアンケート用紙の余白に、給与とボーナスの額をメモした。落ち着いて行け、と心に言い聞かせる。
「なお、金融機関の審査を受ける際に、年収というのは、昨年の一月から十二月までの、ボーナスを含めた収入を指すんです」さっき僕が言いそびれた事を言ったとたん、えっ、という様に涼介が緊張する様子が分かった。そう、年度での収入見込みでは、銀行は金を貸してはくれないのだ。僕は冷静に内ポケットから電卓を取り出す。ローン関連の資料のページを、あえてゆっくりとめくった。焦るな、落ち着け、計算間違いをするな、と自分に言い聞かせた。
「では、ご返済期間は最長の三十五年でよろしいですか?」と確認した。
「あっと、それから、これはあくまでも、目安としての試算です。実際には金融機関に融資の事前審査を受けて頂く必要がございます。勤続年数なども考慮されますので、まぁ、参考としてお考えください」と付け足した。僕は勤続年数の事も言い忘れていたのだ。内心ヒヤヒヤものだ。
「では、三十五年でお願いします」と固い顔で涼介が言った。
「わかりました。ところで、他に車のローン等は今、組んでいらっしゃいますか?」
「いえ、ローンはないですね」
「アンタ、就職祝いでクルマ買うてもろたでしょう。事故だけは、したらイカンよ」と母親が独り言の様に口をはさんだ。
「いいって、その話は……」と涼介はちょっと迷惑そうな顔をしている。
「ローンがないのは何よりですね。お車の運転は安全第一ですよね」と僕は母親に同調した。母親はウンと頷きながら、茶を一口すすった。
「では、今最も一般的に利用されております、住宅金融支援機構のフラット35というプランで計算してみましょう」僕は微笑んでゆっくりと資料集の最新金利、そして、金利毎の借り入れ百万円あたりの返済額の資料を探す。びっしりと数字だらけの一覧表が出てくる。これだ。僕は電卓のボタンを一つ一つ慎重に押していった。まずは年収を計算する。青井涼介の昨年の年収は二十二万円×四月からの給料九ヶ月分、それにボーナスを加える。合計は二百二十八万円だ。収入が少ない。フラット35の場合、年収四百万円未満なら、返済負担率は三十%以下だ。審査もあるし、目一杯借りられる保証はどこにもない。しかし、あくまで試算だと割り切って二百二十八万円の三十%で計算してみた。
 六十八万四千円と出た。これが、青井涼介が一年間に返済出来る限度一杯である。そして十二ヶ月で割ると、一ヶ月あたり五万七千円の返済額だ。今、知りたいのは幾ら借りられるかなので、特にボーナス返済は考えない。さあ、ここからだ。今、金利は三十五年固定金利の場合、二・六%だ。返済年数三十五年の、借り入れ百万円あたりの毎月返済額を、一覧表から探す。三千六百二十九円だ。五万七千円をこれで割ればいいんだ。電卓のボタンを押した。15・70という数字が出た。これに百万円を掛ければ出来上がりだ。一千五百七十万六千八百六円。借り入れは一万円単位なのだが、あえて一円の位まで出した方がそれっぽいのだ。
「これが今予想される、青井様の借り入れ可能額でございます」
 ほおーっという風に、涼介と母親はため息をついた。
「この金額に、頭金を仮に四百万円加えた場合、一千九百七十万六千八百六円が青井様のご新居の総建築費となります」
 僕はホッとして答えた。何度もスタッフルームやクルマの中で、計算を練習した成果が実った瞬間だった。
 ここまでなんとか説明出来た事で、僕の方もやや余裕ができていた。どんどん客を誘導してゆこうと思った。
「当社はご承知の通り完全自由設計です」そう言って僕は、資料集の中から一枚のアンケート用紙を取り出した。各部屋の大きさはどれぐらいが希望なのか? キッチンのタイプは対面型か、L型か? などの質問が並んでいる。
「まずは設計プランを作ってみませんか? このプラン依頼用紙にご記入してもらえればいいんです。初回設計料は無料サービスですよ」
「これ、今書くんですか?」と涼介が訊いた。僕は気を利かせて、
「もちろん、熊本の奥様とじっくり相談なさってください。その用紙は、今週の土日までに私が受け取りに参りましょう」
 涼介は納得したようだった。
「じゃ、彼女と相談しながら書いてみます」僕は頷いた。
「ええ、ぜひそうなさってください。女性の方はやはり、キッチンなどにこだわりがあるでしょうからね」そして、もう一度気合いを入れ直して、涼介と母親に向き合った。
「設計プランをお作りするにあたり、青井様の敷地を実際に拝見したいのですが、よろしいですか?」
 涼介は母親の顔を窺った。
「ああ、ええですよ」と母親は頷いた。
「家を建てる際には、現地調査というものが重要なんです」と僕は、資料集の現地調査のページを指差しながら説明した。
「まずは、敷地の形、高低差、境界杭の有無、前面道路の幅などを調べます。それから、いざ、家を建てようとすると、いろいろな法律の制約を受けるんです。例えて言うなら敷地には、目に見えない透明な箱がかぶさっていると思ってください」
 建てようとする建物は、その透明な箱の内側で建てる必要がある。もし、外側に飛び出てしまったら、それは違法建築なのだ。
「では五日の午後二時に、設計士と二人で現地調査にお伺いさせて頂きます。プラン依頼用紙は、翌日六日の夜八時に受け取りという事で」
「はい、いいです」実にすんなりとアポが取れる。まずは順調な滑り出しだ。僕はそれとなく腕時計をみる。接客開始から約一時間半経っていた。親子はダイニングテーブルからゆっくり立ち上がった。リビングを改めて見回しながら涼介は、ドーム型に外に突き出たティールームを指差した。
「あれ、めちゃくちゃカッコいいですね」
「皆さんに誉めて頂いてます。アールコーブというんです」
 よく、若いカップルがこの展示場に遊びにくる。中には、このアールコーブでお茶するのが夢だった、などとうっとりする女の子もいるぐらいだ。だけど、青井涼介の予算で、こんなものを希望されたら、僕は首をくくらねばならないだろう。展示場の役割というのは、目立って客を集めること、そして入ってきた客を出来るだけ長く滞留させる、この二つだ。アールコーブや四百万円以上するシステムキッチンも、客をおびき寄せ、あり地獄の様に取り込んでゆく、仕掛けの一つに過ぎないのだ。
 青井親子は玄関で靴を履いていた。
「さあさあ、お母さん、これ!」僕は福袋を二つ捧げ持ち、母親に押し付ける様に渡した。
「二つぐらい、遠慮しないで、持って帰ってね」とひたすら親近感を抱かせる様に演出する。玄関先を出て、駐車場の方まで付き添う。この後で、他のメーカーに寄り道されてたまるものかと思った。
「ご丁寧に、どうも、すいませんねぇ」と母親は僕に頭を下げた。
「アマミヤさん、じゃ、うちの調査の方、よろしくおねがいします。あっ、ここでいいですよ、ほんとに」と涼介は、駐車場の車までついて行こうとする僕を制した。
「それではお母様、五日の午後二時にお伺いします。涼介さん、熊本の奥様によろしくお伝えください」と僕は頭を下げた。涼介は照れくさそうに、
「その奥様って言うの、まだピンとこないですわ」と頭をかいた。僕と青井親子は笑顔で別れた。
 僕は一時間半の接客で、ほとんど全神経を集中させていた。緊張のピークを超えたような感覚だった。足腰がふらつきそうになりながらモデルハウスに戻った。
「おめでとー。やったねー」
と声をかけてくれたのは野呂さんだった。
「おめでとうございます」とこれまた律儀に徳光君も祝福してくれた。二人の顔を見て一気に緊張の糸が解けた。
 とうとうやったのだ。やっと初めてのプラン依頼。そして初めての現地調査が取れた!二人の顔を見ながら、住宅営業という仕事で初めての喜びを噛み締めていた。二階のスタッフルームへいったん引き返すと、ほっと一息ついた。僕は自分でコーヒーを入れ、ひとときゆっくりと味わった。まだ軽い興奮状態だ。もうひとくちコーヒーを飲むと、さっそく住宅地図で青井涼介の家を探す。豊田市は広い。住宅地図も何冊かに分かれていた。そのなかから豊田市北部の住宅地図で、涼介の家は見つかった。地図を見る限り、周りの家も皆、敷地は広そうである。地図をコピーして、涼介のアンケート用紙にホッチキスで留める。そのあと、手書きでお礼のメッセージを書いた。
 午後から夕方にかけて、何組かの客をさばいた後、僕は粗品の花の苗木を持って、夜間訪問に向かった。展示場から東南へ三十分程走る。夜で、しかも周りは灯もまばらな農村地帯だ。うっそうとした森もあった。目印のお寺と水路を見つけ、ちょっとホッとする。その近くで涼介の家を見つけた。道路脇に車を止め、砂利道の路地を歩く。表の道路からは、かなり奥まった所にある家だった。母屋の玄関には、ぼうっとした電灯が頼りなげに点いている。古い、和風木造建築で切妻屋根の家である。暗がりに見渡してみると、狭い路地からは想像出来ない程、敷地は広かった。左手にはビニールハウスらしき物が、夜の闇の中に白っぽく浮かび上がって見えた。
 ネクタイを締め直し、ちょっと居住まいを正して玄関横のスイッチを押した。ゆっくり指を折りながら十秒数えて、もう一度スイッチを押す。しばらく待っていると、玄関の引き戸がゆっくりと開き、母親が顔だけを出した。昼も陰気くさい感じの母親が、夜はなおさら陰鬱に見えた。その母親の顔が、僕を見ると、あっと驚いた顔に変わった。
「夜分恐れ入ります。ダイニッケンホームのアマミヤでございます。本日はご来場、誠にありがとうございました」と僕は型通りの挨拶をした。
「ああ、これはどうも」と母親は恐縮した様な素振りを見せ、深くお辞儀をした。
「すぐ涼介呼んできますから」と言って、いったん奥へ引っこむ。そのあと、とんとんと急ぎ足で廊下を歩いてくる足音がした。
「えっ、アマミヤさん?」と涼介が、母親と言葉を交わしながら玄関先に出て来た。
「はい、アマミヤでございます。今日、ご来場のお礼を一言だけ言いたくて、駆けつけて参りました」と僕は勢い込んで挨拶した。涼介はびっくりした様に僕の顔を見た。
「すごいですね。わざわざここまで来るなんて。迷いませんでした?」
「はい、暗いのでちょっと迷いましたけど。でも大丈夫です」そう言って僕はメッセージカードと、粗品の苗木を涼介に渡した。
「夜分、本当に失礼しました。じゃ、今度、五日、現地調査にお邪魔しますので」
「ハイよろしくお願いします。僕もその時は、家に居る様にしますので」ありがたい言葉だった。涼介は帰ろうとする僕を、外の道まで見送ってくれた。
「住宅営業って大変ですね。こんな夜にまで」と感心したようだった。
「いえいえ、慣れてますから」と僕はちょっとベテランぶって答えた。夜間訪問をしてうれしい気分は初めてだな、と思いながら僕は展示場への帰路についた。
 翌日二日には、風見店長や軽部さんも展示場に姿を見せた。僕は青井涼介の現地調査依頼書に、必要事項を書いて店長に廻した。この書類には店長の承認印が必要なのだ。
「アマミヤ君、現調とれたのか」
「ハイ」
「やっぱりええ客、来たやろうが」
 ちょっと悔しい気もしたが、この業界の大先輩である店長の言った事が的中したのだ。
「元旦から出た甲斐があったな」風見店長は横目で僕を見ながら、書類にハンコを押した。
「設計にファックス入れとけや」と言いながら僕にその書類を渡した。まるで自分が現地調査をとって来たかの様な、得意そうな顔だった。


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