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第一話 白いピアノ

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第一話 白いピアノ

■第一話■ 白いピアノ

ο月曜日 23時過ぎ 若い宿泊客の場合

「ピアノじゃん。弥生、なんか弾ける?」
「猫踏んじゃった、なら」
「やってみろよ」
 風呂から出たばかりで、バスタオルを身体に巻き付けただけの女が白いグランドピアノの前に座り、下手な演奏を始めた。つっかえつっかえの『猫踏んじゃった』。
「なんかだせえな。ショパンかなんか弾けないのかよ?」
「じょーだんでしょ」
「じゃあ、開脚版猫踏んじゃった、は?」
 やはり全裸の男が、ピアノの前に座る女の背後に回り、両脇を抱えるようにして女の身体を反らせた。
 女はバスタオルの上から胸を愛撫されながら、両脚を持ち上げ、脚の指で鍵盤を叩いた。
 もちろん、まったく演奏にはならなかった。
 

ο火曜日 11時半から入った怪しげな4人組の場合

   
「よーい。スタート」
 Tシャツにジーンズという格好の中年男の号令で、白いグランドピアノの前に座った女優が演奏を始めた。
 フリルをふんだんにあしらったお嬢様風のドレス姿。年齢は二十歳前後だろうか。
 女優は、子供の頃に覚えたバイエルの練習曲を弾き始めた。うまくはないが、聴けないというほどでもない。
「OK。じゃあ、今度は脱いで弾いて。後で画像編集して、ドレス姿のと交互に組み込むから、斉藤君、あんまり手元は映さないようにね」
「分かりました」
 監督の指示で、女優はドレスを脱いだ。
 ショーツも取って、全裸で再びピアノに向かう。
 剥き出しの尻に、ピアノ椅子のレザーが冷たく触れる。 
 緊張からか、さっきよりも演奏は少し下手になった。
 

ο水曜日 13時過ぎに入った中年の男女の場合


「別に無理して笑わなくていいよ。むしろ物憂げな感じで鍵盤に軽く視線を落として」
「はい」
 コンタックスの大判カメラを構える初老の男性の指示に従って、下着姿の女が素直にポーズを取った。
 女は三十代半ばの人妻。男はジャズピアノ教室の経営者。
 男は、彼女のレッスンのたびに口説き、今日、ようやくモデルになることを承諾させたのだった。
「こういう場所、私、初めてなんですけど、ピアノがあったりするんですね」
 女は白いグランドピアノの鍵盤を軽く爪弾いた。
 男は返事をせず、カメラのシャッターを切る。
「後で、先生の演奏が聴きたいわ」
 女はレンズのほうを意味ありげに一瞥しながら言った。
「こういうところにあるピアノは調律も滅茶苦茶だし、弾く気はしないなあ……あ、もう一つ胸のボタンを外してみようか」
 男はさらにシャッターを切り続けた。
 女は少しもったいつけながら、言われた通り、スリップの前ボタンを外した。
 あまりふくよかとは言えないが、年齢相応の色気を放つ白い胸元が覗く。
「そんなに狂っていますか? これ」
 女は、片手で軽くスケールを弾いてみた。
「ん? そうでもないね。へえ、驚いたな」
 音色や鍵盤のタッチは安っぽかったが、その白いグランドピアノは、正確な音程を奏でていた。
 だが、結局彼がそのピアノを弾くことはなかった。
 言葉巧みに女の下着を一枚ずつ脱がしていき、ベッドの中に連れ込むことに成功した後は、ピアノの存在さえ忘れてしまった。
 子供が帰るまでには家に戻りたいという女の言葉に促され、ジャズピアニストの男は、白いグランドピアノを振り返ることもなく、そそくさと自動精算機で部屋代の支払いを済ませた。
 

ο水曜日 掃除が済んだ部屋にて

 
 中国人アルバイトによる掃除が終わり、次のカップルを待つその部屋に、制服を着た若い女性が入ってきた。
 彼女はまっすぐにピアノのところへ行くと、慣れた手つきでざっとスケールを弾いた。
 やはり、二度上のD#の音が微妙に狂っている。さっき、ルームサービスの品を運ぶとき、ドア越しにかすかに漏れてきたピアノの音を聴いて、気になっていたのだった。
 女は用意してきた調律ハンマーキーを取り出すと、D#の弦のナットを調整し始めた。
 普通の人間には分からないほんの一ヘルツ前後の狂いを、彼女の耳は正確に聴き分ける。
 三分もかからずにその微妙な狂いを修正すると、彼女は調律ハンマーをしまい、改めてピアノを演奏し始めた。
 数分間、運指練習をした後、徐々に即興演奏に移行していく。
 ラブホテルの一室に流れるジャズピアノの調べ。弾いているのは制服姿の従業員──。一種不思議な時空間が現出する。
 彼女はこのホテルにほぼ住み込みで働いているフロント係だった。フロントと言っても、自動清算なので客と直接顔を合わせることはない。部屋の清掃以外の雑用をほとんど一人でこなしている。客からルームサービスの注文が入ると、電子レンジでパスタやラーメンを作り、持っていく。テレビのリモコンが動かないという苦情があれば、単三電池を手に駆けつける。
 ピアニストを目指していたが、家が貧しかったので、専門的な音楽教育も受けていなければ、自分のピアノも持ったことがない。
 ジャズが好きだった母親の影響で、物心ついたときからラジオのFENをBGM代わりに聴いて育った。その母親も、彼女が小学校に上がると同時に死んだ。親戚の家をたらい回しにされた後、中学卒業と同時に働きに出た。それでも、ピアノを弾きたいという夢だけは捨てられず、楽器店やピアノバーの皿洗いなど、少しでも音楽に近い仕事場を探し、転々としてきた。
 このホテルに住み込みで働くようになって、もうすぐ三年になる。目当ては、この部屋にある白いグランドピアノだった。幸い、経営者は物わかりがよく、空いている時間に彼女がピアノを弾くことは黙認してくれた。
 忙しいホテルの仕事の合間を縫って、この部屋のピアノに触れるときが、彼女の生活の中で、もっとも意味のある時間だった。
 調律が狂ったピアノを自分で直すために、最初の給料は調律ハンマーの購入で消えてしまった。その後は頻繁に調律しているので、このピアノはいつも完璧な音程を保っている。
 ディスプレイ目的の安物だから、音色はよくないし、キーのタッチも悪い。それでも、彼女にとっては生まれて初めて身近に存在するグランドピアノだった。
 新しいベース音の入れ方を研究しながら、自分のスタイルを見つけようと集中し始めたとき、ポケットの中の携帯電話が鳴った。
 支払いは自動システムなので、フロントには人がいないことが多い。フロントにかかる電話は、直接彼女の携帯電話につながる。
 彼女はすぐに演奏をやめ、電話に出た。
「はい。フロントでございます」
〈あのー、コスプレセットの貸し出しお願いしたいんですけど〉
 気弱そうな青年の声がそう告げた。
「かしこまりました。何番がよろしいでしょうか?」
〈えーと、2番をお願いします〉
「ありがとうございます。今、お届けに上がります」
 彼女は名残惜しそうにピアノの蓋をそっと閉めると、部屋を後にした。506号室に、セーラー服を届けるために。
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