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 ここ数年、体調を崩す事など無かったのに、急に風邪をひいた。

 

 現在アパートに独りぐらし、金も無いのでろくなものを食べていなかったし、このところ夜中に暑く朝方に冷えるというのに、横着をして布団を掛けなかったのも悪かったかもしれない。

 

 二日前、喉の痛みには気付いていたが、寝ていれば治ると高を括っていた。常備薬なんて洒落たものは置いていないし、風邪が治りそうな食い物も冷蔵庫に入っていない。

 

「あー。ビタミン食いてえ……」

 

 熱と喉の痛みと体のだるさと空腹で、力が入らず目の前がぼやけて見える。冷蔵庫の扉をもう一度開け、何か無いか見てみるが、こんな時に限って何もない。

 

 ふと、オレンジジュースとピーナッツが食べたくなった。

 

 昔から、風邪をひいたり、疲れがたまった時にはオレンジジュースにピーナッツと決めていた。この組み合わせは、不思議とどんな薬よりも良く効くので、一種のジンクスみたいなものになっていた。

 

「さすがに駅前のスーパーまでは行く気になれないからなぁ。コンビニかぁ……でもアソコのコンビニ、コンビニのくせに品揃え悪いんだよな……タバコ屋にもそういや……」

 

 油断をすればたちまち思考が止まってしまいそうな頭を激しく二、三度振って、どうすれば一番楽にオレンジジュースとピーナッツを手に入れる事が出来るか、考えをめぐらせた。

 

 家から最も近い店は歩いて十分のコンビニ、その次に近いのは徒歩十二分程のタバコ屋、続いて徒歩十五分の自然食品の店である。

 

 一軒目のコンビニに行き、売っていなければ二軒目のタバコ屋へ行き、そこがダメなら最悪、自然食品の店まで行けば、さほど遠出をせずとも帰ってくる事が出来る。そう思って、上は薄汚れたTシャツ、下はスウェットに下駄を履き、さいふ片手に家を出てコンビニに向かった。

 

 コンビニに着くと、自動ドアを潜って右脇のレジを通り抜け、奥にある飲物売り場へ直行した。千ミリリットルの飲み物が置いてある場所を探すと、いくつか種類があった。だが、こんな日に限って果汁百パーセントのオレンジジュースは品切れだった。


 仕方がないので売り場を回り、つまみのコーナーへ行って、大粒の有機バタピーを手にすると、そのままレジへ向かった。

 

 レジには三人の客が並んでいた。

 

 その後ろに慌てて付こうとしたものの、直前で別の客に並ばれてしまい、前には客が四名。少々苛立ちながらも、黙って待つことにした。

 

 レジ打ちをしていた店員は、新入りのアルバイトなのか、驚くほど要領が悪い。

 

 ちょうど買い物をしている中年女の、すぐ後ろで待っていた若い男の客が足先を何度も床に叩きつけたり、指先でレジ台の端を叩いたりと、全身から苛立ちを表していた。他の客も対応の遅さに苛立ったように、落ち着きの無い様子で自分の番を待っている。

 

「早くしてくれよぉ」

 

 二つ前に並んでいる中年男が声をあげた。

 

「こっちは急いでるんだからさぁ」

 

 声を聞いて店員が顔を上げる。謝るかと思ったら、不貞腐れたように客を無視し、急ぐこと無くレジ打ちの終った商品をゆっくりビニール袋に詰めている。

 

「チッ」

 

 文句を言った中年男が舌打ちをした。

 

 さりげなく前の人たちが買おうとしているものを見るとみな随分量がある。

 

 だが、苛立つ客など気にすることなく、店員は無言のままマイペースなレジ打ちを続けていた。


 ようやく前の客まで回ってきた時、先ほど会計を済ませた中年の女が慌しく戻って来て、レジ台を乱暴に叩いた。

 

「ちょっと、値段違ってるじゃないの」

 

 レジ台に置いてある他の客の商品などお構いなしに、中年女はバサッと買い物袋をレジ台に置いて、レシートを店員の目の前に突きつける。

 

「このレトルトカレー、私百二十円だったから買ったんだけど、何で三百六十円なんかになってんの?」

 

 女は左手にレシートを掲げたまま、右手の人差し指で乱暴に何度もそれを叩いて、店員の注意をひきつけようとした。

 

 だが、店員の態度は変わらなかった。一瞬だけ躊躇した様子を見せたものの、再び無言のまま、対応中の客の商品を袋に詰め始めた。

 

「あんた、聞いてんの?」

 

 中年女が苛立った様子でレジ越しの店員に詰め寄った。

 

「ちょっとお待ちください」

 

 店員は面倒くさそうな表情で一言、そして袋詰めを終えて、礼も言わずに対応中の客にレジ袋を手渡すと、クレームをつけてきた中年女の方を向いた。

 

「レシート、間違っていましたか」

 

 目を合わせる事無く、店員は中年女からレシートを受け取った。


「レトルトカレーですよね」

 

 中年女がレジ台に置いたレジ袋を漁って、店員は箱入りのレトルトカレーを取り出す。

 

「ちょっとお待ちください」

 

 そう言って、店員はレジ台をグルリと回って客側に出ると、売り場の方へ歩き始めた。 
 無論、走る事などしない。ゆっくり、微妙に状態を左に傾けながら、面倒くさそうに歩いていく。

 

 店員の対応に苛ついていると、突然背後から肩を叩かれた。

 

「ねえ君」

 

 振り返ると、妙に頭の大きい中年男が立っていた。

 

「君、スゴくいいね」

 

「はっ?」

 

「モデルとか、芸能界の仕事に興味はないかい?」

 

「……」

 

 男が何を意図しているのか分からなかったが、嫌な予感がした。

 

「ボク、カメラマンでね。モデルを探してるんだよ」

 

「……」

 

「今、ニューなコンセプトの写真集を企画しているんだけど、君がボクのイメージにピッタリなんだよね」

 

「はあ……」

 

「テーマは天国と地獄。つまりヘヴンとヘル……」

 

「……」



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