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 全てはこの風邪のせいである。

 

 苛立ちは頂点に達し、熱を持った体がそれを放つように、ゴホゴホと、抑え切れない激しい咳が出始めた。

 

「おいおい大丈夫か?」

 

 社長が意外そうな、同時に迷惑そうな目でこちらを見る。

 

「ほら、坊やにオレンジジュースとピーナッツを出してやれよ」

 

 マッチョがいたたまれなくなった様子で、オーナーに言う。

 

「そ、そうね、オレンジジュースよね。あったかしら」

 

 そう言いながら、オーナーは慌ててビロードカーテンの奥に消えていった。

 

 客達は全員黙ったが、店内では相変わらず演歌が流れ続けていた。

 

 喉の痛みは激しさを増し、咳き込むたびに痰がからむのが自分でもわかった。苛立ちから熱も上がっているのだろう、ぼやけたままの視界が晴れる事はなく、ロバやゴリラに変わった客の姿も元の人間に戻る事はなかった。

 

 徐々に力も抜け、たまらずカウンターに寄りかかると、ビロードカーテンの奥から店員が顔を出した。

 

「ねえ、オレンジジュースじゃなきゃダメなの? ナマのオレンジならあるんだけど」

 

「ゴホッ……オレンジじゃ……なくて……」

 

 オレンジジュースじゃなきゃダメなんだと言いたくとも声が思うように出ない。

 

「ええ? 何? なんていってんの?」

 

 演歌で声が聞き取れなかったのか、耳をつんざくような声でオーナーが聞き返してくる。

 

「ゴホッ……だから……」

 

「これでいいの? ダメなの? はっきりしてよォ、お客さん!」


 怒鳴るような声で、オーナーが尋ねる。

 

「だからゴホッ……ダメ! ゴホゴホ」

 

 左手でカウンターに手を付いたまま、力いっぱい右手を振って答えると、派手女が代わりに答えた。

 

「マジでこの人、やばいんじゃない?」

 

「オレンジジュースがいいんだってよ」

 

 マッチョも同情したのか、助け舟を出す。

 

「はいはい。分りましたよ。でもね、オレンジジュースよりも、オレンジの方がきっと体にいい気がするのよォ」

 

 オーナーは口を尖らせ、カーテンを潜ってカウンター前に来ると、果物のオレンジを二つ置いた。

 

「これはサービス。で、オレンジジュースはどこだっけ……」

 

 オーナーは店内を見回した。

 

「ああ、あったあった」

 

 そう言って、オーナーはカウンターをぐるりと回り、店内に出ると、店の出入り口方向へゆっくりと歩き始めた。

 

 と、ちょうどその時、店の扉が開いて男児を連れた母親が店に入ってきた。

 

 母親は三十超えていないのだろうか、割と若々しく、顔立ちもスタイルも美しかった。

 

 社長がおっと顔をあげて下品な笑みを改め、急に紳士的な表情になった。

 

「あらいらっしゃい」

 

 そう言うオーナーを無視したまま、母親は入ってすぐ右隣奥にある冷蔵棚から、私の探していたオレンジジュースを掴み取ると、いそいそとカウンターに向かった。


「これくださいな」

 

「ああっ。それね、今……」

 

 言いながらオーナーはこちらを横目で見たが、母親が常連なのか、それ以上は何も言わなかった。黙ってレジを打ち、お金を受け取ると、オレンジジュースをビニールに入れる。

 

「いつもありがとねん。また来てねぇ」

 

 オーナーが首を傾げ、母親の隣にいた子供にウインクをすると、子供が顔を歪め「あの人怖い」と母親の後ろに隠れた。

 

「超ウケるんですけど!」

 

 派手女が笑ったのと同時に、子供がゴホゴホと咳き込んだ。

 

「この子、昨日から風邪が酷くて……。でもビタミンCを摂らせようとしても果物が嫌いなものですから、オレンジジュースを飲ませようと思っているんですのよ。それなのに、タバコ屋さんにも、コンビニにもなかったものですから……」

 

 母親は長くウエーブの掛かった柔らかそうな髪を細い指先で弄りながら、困ったように他の客達に声を掛けた。

 

「それはいけませんな。風邪には何と言ってもオレンジジュースが一番ですからね」

 

 社長がさりげなく派手女から離れ、紳士的な笑みを浮かべながら母親に近づいて言った。

 

「ピーナッツなんかも合うそうですよ」

 

 マッチョもすかさず言った。

 

 最初に笑い飛ばした派手女は、居心地悪そうに二歩ほど後ろに下がっていた。

 

「あら、よくご存知ですのね。オレンジジュースとピーナッツって、とてもよく合うんですのよ」

 

 母親は上品な笑みを浮かべ、カウンター越しに店員に話しかけた。

 

「せっかくですから、ピーナッツもいただけます?」


「承知しましたですぅ」

 

 周りの緊張感がうつったかのように、店員はピョンと跳ねてカーテン裏に消えると、驚くほど手際よくピーナッツの入った袋を差し出した。

 

「ごちそうしますよ」

 

 さりげなく母親の隣に立った社長が囁くように言う。

 

「まあ本当?」

 

 母親は嬉しそうに首を傾げて微笑むと、袋詰めされたピーナッツとオレンジジュースを手に取った。

 

「ごきげんよう」

 

 そう言って、母親はゆっくりと出口へ向かい、扉を開けてからこちらを一旦振り返ると、ユラユラと手を振って、そのまま外へ出て行った。

 

「えらい美人だな」

 

 マッチョが溜息交じりに言う。

 

「うむ。基本的には若い方がいいが、ああいう上品そうな熟女ってのもたまらんな。ブヒヒ」

 

 笑おうとしたのに、鼻が詰まってうまく声が出なかったのか社長は豚のように笑った。

 

「クッゴホッ。そろそろ俺も帰る事にするか」

 

 マッチョも軽く咳き込みながら言う。

 

「アタシも、なんか喉痛くなってきたしィ。帰りたい」

 

 皆が母親に夢中だったのが面白くなかったのか、派手女はふてくされたように言った。

 

「また来るぞ……マスタァ……グフォッ」

 

 社長がオーナーに手を振って挨拶をしようとして、途中で咳き込み、自分でも訳がわからないといった様子で喉に手を当てた。


 三人はどこか具合が悪そうな様子で、咳き込みながら店を出て行った。

 


 三人が帰っても、店内では演歌が流れていた。

 

 オーナーがようやく落ち着いたように大きく息をつき、こちらを見た。

 

「それで、オレンジジュースなんですけどね」

 

 オーナーの口調は、いつのまにかオネエ口調ではなく、普通のものになっていた。どこか疲れたような表情をしていた。

 

「今ので冷やしてあるのが最後だったんですよ。冷えてないやつなら、一つ残っているんですけど、残念ながら賞味期限が一週間ほど切れていて……ゴホンッ」

 

 オーナーもまた、他の客と同じように咳き込んで、首をかしげた。

 

「いえ、それならいらないです」

 

「じゃ、ピーナッツはお渡ししますよ。社長さんのおごりだそうですから」

 

「ありがとう」

 

 袋詰めされたピーナッツを受け取り、ふとカウンター上に目を留めると、先ほどオーナーが出してきた果物のオレンジが二つおいたままになっている。

 

「これ、戴いても?」

 

「結構ですよ。こっちはよく冷えてますからね。どうぞお持ち帰りください」

 

「ありがとう」

 

 一つをビニール袋に詰め、もう一つを詰めようとすると袋が切れそうだったので、右手にオレンジ、左手にビニール袋とむき出しのネギを持って店の出口に向かう。

 

「またよろしくお願いします」

 

 扉を開けたとき、店員が後ろから言った。



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