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 女は相変わらず笑い続けている。

 

「若いのに風邪をひくなんて、日頃から鍛えていない証拠だよ」

 

 マッチョも勝ち誇ったように、こちらを見下ろして言う。

 

「そんな事じゃ、彼女をヒィヒィ言わせる事も出来んぞ」

 

 むき出しにした歯茎から、ぶ厚い舌をのぞかせて社長が言う。

 

「それが、彼女いないらしいですよ」

 

 マッチョが嬉しそうに言った。

 

「そんなんだから風邪をひくんだ。とにかく風俗行け、風俗。風俗はいいぞォ。ま、別の病気をうつされるかもしれんがな」

 

「もう、社長ったら超ウケル!」

 

 三人がゲラゲラ、こちらを見ながら笑っている。

 

 苛立ちと体調不良からか、目の前が朦朧とし、三人の顔がぼやけていく。やがて社長の姿がロバになり、女がブタになり、マッチョがゴリラに変わっていく。

 

 三人の顔が目の前でぐるぐると回転木馬のように回りだし、笑い声もあちこちから聞こえるような錯覚に陥っていた。

 

 その笑い声と耳が痛くなるような演歌が交じり合い、私は完全に精神的な消化不良を起こしていた。

 

 吐きたくなるような苛立ちと体調不良、そして言いたいこともうまく言い返せないもどかしさとで体中が熱くなり、震えが止まらなかった。

 

「おまたせぇ。あらあ、若い子を虐めちゃダメよ。いくらアナタたちの勃ちが悪かったとしてもよぉ」

 

「何を言っとる、ワシはバイアグラに頼らなくとも、これを飲むだけでいけるんだぞ」

 

 社長がムキになって反論する。


「俺だって、彼より年を取っているかもしれないが、貧弱じゃないぞ。やはり男は頭脳よりも体が財産だからな」

 

 マッチョも同じようにムキになり、体に力を込めてポーズを決めた。

 

「ギャハハ。超ウケるんですけど!」

 

 派手女は相変わらず、出来の悪いロボットのように同じ言葉を繰り返している。

 

「すまないわねェ皆、アナタみたいな若くて可愛い男を見ると、すぐに張り合っちゃうんだから」

 

「張り合うってなんだね。失敬な!」

 

 社長は途端に眉間に皺を寄せた。

 

「もう、怒っちゃいやよん」

 

 オーナーは社長の扱いに慣れた様子で肩を上げ、いそいそとカウンター上で瓶を包み始めた。

 

「釣りはいらんぞ。そこの学生に、オレンジジュースとピーナッツを買ってやれ。ま、風邪にきくとは思えんがな」

 

 そう言いながら、社長はポケットから財布を取り出して、一万円札を三枚取り出すとカウンターに置いた。

 

「いつもありがとうございますぅ」

 

 深々と頭を下げて、オーナーが礼を述べた。社長がちらっとこちらを見たので、私も釣られるように頭を下げた。下げながら、自分の情けなさに思わず涙が出そうになった。

 

 本当はオレンジジュースとピーナッツくらい自分で払えるから結構だと、強く言ってやりたかった。これほど嫌な思いをしながら、おごってもらうくらいなら、値段の倍を払ってでも、自分で買ったほうがずっとマシだった。

 

 普段だったら、もう少しまともに言い返せたかもしれない。シモネタを言われようが、気の利いたギャグで返せたかもしれない。子供扱いされようが、自分の方がずっと大人の対応をして、あしらう事だって出来た筈だ。


 全てはこの風邪のせいである。

 

 苛立ちは頂点に達し、熱を持った体がそれを放つように、ゴホゴホと、抑え切れない激しい咳が出始めた。

 

「おいおい大丈夫か?」

 

 社長が意外そうな、同時に迷惑そうな目でこちらを見る。

 

「ほら、坊やにオレンジジュースとピーナッツを出してやれよ」

 

 マッチョがいたたまれなくなった様子で、オーナーに言う。

 

「そ、そうね、オレンジジュースよね。あったかしら」

 

 そう言いながら、オーナーは慌ててビロードカーテンの奥に消えていった。

 

 客達は全員黙ったが、店内では相変わらず演歌が流れ続けていた。

 

 喉の痛みは激しさを増し、咳き込むたびに痰がからむのが自分でもわかった。苛立ちから熱も上がっているのだろう、ぼやけたままの視界が晴れる事はなく、ロバやゴリラに変わった客の姿も元の人間に戻る事はなかった。

 

 徐々に力も抜け、たまらずカウンターに寄りかかると、ビロードカーテンの奥から店員が顔を出した。

 

「ねえ、オレンジジュースじゃなきゃダメなの? ナマのオレンジならあるんだけど」

 

「ゴホッ……オレンジじゃ……なくて……」

 

 オレンジジュースじゃなきゃダメなんだと言いたくとも声が思うように出ない。

 

「ええ? 何? なんていってんの?」

 

 演歌で声が聞き取れなかったのか、耳をつんざくような声でオーナーが聞き返してくる。

 

「ゴホッ……だから……」

 

「これでいいの? ダメなの? はっきりしてよォ、お客さん!」


 怒鳴るような声で、オーナーが尋ねる。

 

「だからゴホッ……ダメ! ゴホゴホ」

 

 左手でカウンターに手を付いたまま、力いっぱい右手を振って答えると、派手女が代わりに答えた。

 

「マジでこの人、やばいんじゃない?」

 

「オレンジジュースがいいんだってよ」

 

 マッチョも同情したのか、助け舟を出す。

 

「はいはい。分りましたよ。でもね、オレンジジュースよりも、オレンジの方がきっと体にいい気がするのよォ」

 

 オーナーは口を尖らせ、カーテンを潜ってカウンター前に来ると、果物のオレンジを二つ置いた。

 

「これはサービス。で、オレンジジュースはどこだっけ……」

 

 オーナーは店内を見回した。

 

「ああ、あったあった」

 

 そう言って、オーナーはカウンターをぐるりと回り、店内に出ると、店の出入り口方向へゆっくりと歩き始めた。

 

 と、ちょうどその時、店の扉が開いて男児を連れた母親が店に入ってきた。

 

 母親は三十超えていないのだろうか、割と若々しく、顔立ちもスタイルも美しかった。

 

 社長がおっと顔をあげて下品な笑みを改め、急に紳士的な表情になった。

 

「あらいらっしゃい」

 

 そう言うオーナーを無視したまま、母親は入ってすぐ右隣奥にある冷蔵棚から、私の探していたオレンジジュースを掴み取ると、いそいそとカウンターに向かった。


「これくださいな」

 

「ああっ。それね、今……」

 

 言いながらオーナーはこちらを横目で見たが、母親が常連なのか、それ以上は何も言わなかった。黙ってレジを打ち、お金を受け取ると、オレンジジュースをビニールに入れる。

 

「いつもありがとねん。また来てねぇ」

 

 オーナーが首を傾げ、母親の隣にいた子供にウインクをすると、子供が顔を歪め「あの人怖い」と母親の後ろに隠れた。

 

「超ウケるんですけど!」

 

 派手女が笑ったのと同時に、子供がゴホゴホと咳き込んだ。

 

「この子、昨日から風邪が酷くて……。でもビタミンCを摂らせようとしても果物が嫌いなものですから、オレンジジュースを飲ませようと思っているんですのよ。それなのに、タバコ屋さんにも、コンビニにもなかったものですから……」

 

 母親は長くウエーブの掛かった柔らかそうな髪を細い指先で弄りながら、困ったように他の客達に声を掛けた。

 

「それはいけませんな。風邪には何と言ってもオレンジジュースが一番ですからね」

 

 社長がさりげなく派手女から離れ、紳士的な笑みを浮かべながら母親に近づいて言った。

 

「ピーナッツなんかも合うそうですよ」

 

 マッチョもすかさず言った。

 

 最初に笑い飛ばした派手女は、居心地悪そうに二歩ほど後ろに下がっていた。

 

「あら、よくご存知ですのね。オレンジジュースとピーナッツって、とてもよく合うんですのよ」

 

 母親は上品な笑みを浮かべ、カウンター越しに店員に話しかけた。

 

「せっかくですから、ピーナッツもいただけます?」



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