目次

閉じる


     いくら落書にはげんでみたところで、余白を埋めつくしたり出来っこない。

安部公房

 

 

 地方の郊外によくあるような、雨垂れのあとが染みつき汚れ、当初予定されていた客層――つまり遠出するにも場所がなく、たとえあったとしても体力がなく、仕事や育児に追われ、夫婦仲の健全な配慮に追われ、日々蓄積された泥のような疲労を一層上塗りするのはもちろんのこと、得も損もない無意味な時間をだらだら過ごす気にもならず、涼しくて、華やいで、また子供も自分もある程度の気晴らしにはなる娯楽施設をもとめて休日、簡素な相談を繰り返しつづける中流子持家族――すらも陰気でかび臭い全体的外装ないし内装によって失い、離れ、拠り所とするのはもはやわずかな周辺家庭の食料品購入より他なく、数年も経てば突如閉鎖され崩れ落ちあっさりとした空き地となって荒み、すぐさま新たな商業施設やマンションが過去をぬぐい去るかのように定型的に立ちあがるのであろう老朽化した商業施設店舗の裏手にある、それこそさらに老朽化した、というより息絶えた腐乱死体のような面持ちの廃墟――おそらくきっと、生まれた瞬間には太陽のあらゆる輝きによってあふれ、多くの視線を集め、それらをゆるやかに受け入れはたすほどの頑強なる力を持ち、今も、そこに住んでいた一定数の男女共々の記憶の奥底に懐かしさをもって時折反復され、磨きあげられているのであろうアパートのすでに直視されることのない廃墟――の周囲には自分の見て知る様々な物体、現象をなりふりかまわずおぼろげな路線図として定着しようとする子供たちや表向きには怖いもの見たさで、結局のところあまりにもあっさりと忘れ捨て去られてしまうより他ない友人関係の一種の保全として(とりあえず)提案された日の落ちた夜陰の草むらの生い茂る夏の蒸気にも似た息苦しい匂いのなかを危うくも微笑みながら訪れてはスプレー缶で彩り豊かな輪郭のはっきりしない巨大で無意味な文字列を壁のいたるところに書き連ねて楽しむ「肝試し」のようなものを求める若者それぞれを暴力的に、かつ穏和に押さえこむためにこそ設けられたと言われている――正直なところそんなありふれた理由のためにそれらが設けられたという事実はあまり合点のいかぬ、いやむしろ淡白すぎて受け入れることすらも憚られるような気がしないでもないが――銀色の鉄製の格子状の雨風にさらされて防腐用の灰色の塗装も破れ欠けて茶色と黒の混ざったような色、手触りをしている刺々しい高さ2メートルほどの簡易フェンスが周囲をぐるりと囲んでいて、さながら危険な薬品の刺激臭でも漂ってきそうな雰囲気のある廃墟のなかへ先日、みなさんの素晴らしい活動等々に触発されて潜りこみ、残念ながらそれはまったくもって初めての体験だったので経験豊富なみなさんよりも幾分ばかりか不馴れで、いつも散歩のときにはかかさず持ち歩いているはずの安物の小さなデジタルカメラを机の引き出しに忘れてきてしまってそのことにフェンスを乗りこえてからようやく気づき、せっかくだから引きかえそうかとも思ったのですが今更なようにも思え、なおかつ「ちょっと覗いてみるだけだから」などというなんとも言いわけがましい言葉が背骨の裏側をのぼり、弾け、都合のいいように納得してまた草の生い茂る夏の蒸気にも似た息苦しい匂いと沸き立つ太陽光の皮膚を焼くじりじりとした静かな音に心ふるわしながら一歩一歩近づき、近づき、近づく度にゆっくりとなにやら頭痛のするような悪臭が顔や胸や呼吸を覆って、咳きこみ、汗ばみ、ぬるついた掌を――フェンスに付着していた煤のような、黒い粉のような汚れが細かい無秩序な皺の谷間にそってこびりつき、そのまま顔に触れると大量の汗と共に頬や鼻先を汚してしまうように思えたのだが(事実そうだったのだが)しかしそんなことも忘れ、気づかぬままに掌を――口元にあてて目を細めては咳きこみ、汗ばみ、それはおそろしくもまた定型的に確かな老朽化をつづけている裏手の商業施設の内部にかろうじて出店している寂れたいくつかのファーストフード店の排水が下水管――経営不振のため健全なる点検のなされぬまま月日が過ぎ、むなしくも、結果として錆びつき廃れ、小さな罅の無数に入っている下水管――を通ってごぼごぼと流れる最中にわずかばかしぽたぽたと洩れ出てしまって、拡散し、そのために、山林の奥深くで小さな水溜まりのように(しかしとはいえ滅法大きく広がっているのではあるが)広がっている飼育放棄外来生物用解放地区などと冗談交えて子供たちが呟きあうほど生態系の入り乱れた池の表面から前兆もなく真夏の木々の枝葉のあいだを縫うようにして空高く湧きあがり、立ち上ぼり、雲影へと染みこんでいく死骸と腐葉土と湿気と塗装の入り混じったかのような(まるで地を這う埃のような)耐えがたくまた同時に時が経てば身体の方が慣れきってしまい逆に自分からそれとなく漂わせてしまいそうな(気もする)潰れた悪臭を廃墟にもたらしているのではないか、もしかしたら本当にそうなのかもしれないなどと人々に思わせてしまうほどに老朽化した商業施設は客入りが少なく、つまり経営が成り立たず、休日の昼時でさえフードコートには客の姿がまばらで、頭上に灯された照明ばかりがやけにあかるく人々を照らし、ファーストフード店に勤める幾人ものパート従業員主婦らは口をそろえてこの商業施設の閉店、取り壊しをささやきあい、そうなれば自分は家の近くのいつも仕事帰りに軽いデザートを買うため通っている小奇麗なコンビニで腫れぼったい目をした大学生とおぼしき若者や無闇矢鱈に大きな声で過剰な心遣いをする中年男や嫌味のひとつでも口うるさくこそこそと影で言っていそうな「オバサン」やそういった輩といっしょに画一的な制服、画一的な表情、画一的な仕事内容をこなさなくてはならなくなるのだろうからせめて子供が大学を卒業して無事就職して仕送りのいらない生活を確保できるようになってから潰れるなら潰れてほしいわ、うん、そうそう、でもきっと、それよりずっと早く取り壊されちゃうんでしょうね、たぶんね、だってあんなものがいつまでもあそこに突っ立っていること自体おかしい話じゃない、もっとはやくから壊しちゃうべきだったのに、なんでいつまでも壊さないのかしら、ほんと、どんくさいったらありゃしない、取り壊す金もないのかねえ、などと口々に噂されている当の廃墟アパートの間近までたどりつき、ようやくあの著しい腐敗臭にも慣れてきて――しかしそれでも私にはどうしても吐き気を催さずにはおれず、その日のあいだ中ずっと、こみあげる痺れと耳鳴りによって点滅し、おちぶれ、ざわめきながらひとり夜を過ごしたのですが――口元から汚れた掌をはなし、日に焼けて色あせた黒いTシャツの袖で口元をぬぐい、額の汗をぬぐい、見上げれば圧縮された廃墟の側面の、各部屋にあるベランダの手すり――長すぎる時の蓄積が、錆びついて、太く乾きながら囲う、規則的ないくつもの垂直線――窓枠の、ステンレス製の平面に嵌めこまれたガラス――大半が割れ、残っているものも罅の入ったりしてまるで、薄いビニールを張り並べているかのような、そんな反射光をみせる窓ガラスを通して、見える太陽の歪んだ残像は、眼球の視神経の裏側にまで刺さり至り、徹底した神経伝達物質の排除、ないし過剰分泌をうながし、促進し、おもわず視界を閉じる――変色した壁の一帯には、過敏な繊細さのまとった葉々が、蔓が、植物が一定の方向性をもって伸び広がって侵食し、わずかながらの部屋の、ベランダや、もしかしたら室内まで及んでいるのかもしれない繁殖、繁茂の押し固められた圧迫感さえともなう拡大描写の連なり、連なり、連なりを拒絶して振りむけば、2メートルほどの高さの簡易フェンスが遠方の、巨大な立体交差点の下の湿ったコンクリート柱と重なり、薄まり、部分的にも簡易フェンスの格子の一本一本がそれぞれ平面的に、抽象的に、融和して伸びあがり、縮みあがり、震えながらも脳の遠近感覚を狂わして、まったく、自分がどれだけあのフェンスから離れてきてしまったのか、漠然と、わからなくなってしまうほどに暑く、嘆かわしく、喉も渇き、口内の、ピンク色の粘膜さえも乾燥して歯茎や舌裏と擦れあい、ざらつきあい、咳きこむ度に首の根本のあたりがぎりぎりと軋み痛んでしまうのを我慢しながら躊躇し――みなさんならおわかりでしょう、光の奪われた、助けのない薄暗い階段の濃密さ、不穏な塊そのものとも言える生物の、生暖かい吐息のような物質感、一度入れば全身が犯されて喪失し、二度と取り戻せなくなるような、そんな怯えにも似た表情のまま――日差しを浴びつづけ、熱せられ、実感のないまま過ぎていく時間の消耗の急進的な速度によって、前方か後方かのどちらか一方をなさなければならないと焦り、狼狽し、もう一度、日に焼けて色あせた黒いTシャツの袖で口元をぬぐい、汗をぬぐい、踏みしめるようにして決心の固まった足で――それとも諦めだろうか、それとも後悔だろうか――階段を一段一段登りはじめたのですが、やはりみなさんのおっしゃるとおり、階段にはネズミやゴキブリの死骸はもちろんのこと、蜘蛛の巣から泥から、いろいろと、段差の端々に転がっていて、避けながら、しかし決定的に欠けてしまっている光量、判断ままならない茫漠において瞳孔は、またたく間に散大を達成し、残存する暴力的なかがやきの蝕みゆく認識の整合性――幸か不幸か、階段の登り降りに慣れきった肉体の筋肉や関節や骨格は、不明瞭な段差を正確に突き進んでいくなかで、律儀にも――異質な物体を凝視し、それらがどのようにしてそこに定着したのか、はたして、蜘蛛や泥ならまだしも、ネズミやゴキブリなどはどのようにして死骸としてそこにあろうとする以前の歴史、生活を営んでいたのか、餌はどこか、寝床はどこか、親は、要因原点はどこか、わからないままに階段を過ぎて――彼らは人間も捨て去った廃墟のアパートで、どのようにして生活しているんでしょうね、もちろん彼らが人間なしに生きることのできないわけではないことを、十分に理解してはいるつもりですがしかし、彼らの生存が、アパートの一室一室で、放置された痕跡のなかで消費されているのであるならば――私は階段を登り終え、穿たれた光の強弱にまばたきし、通路より広がる2階からの風景の、雑多な事象事象の折り重なり(電柱――線路――学校――踏切――陸橋――空地――塵処理場――電車――信号機――白線――側溝――橋梁――山脈――カーブミラー――自動販売機――駅構内――車列――病院――家屋――アパート――建設現場――川原――鉄塔――立体交差点――フェンス――商業施設)その異質な風景は、階段を経るごとに更新され、上昇し、徐々に可視性と圧縮率を高めていき、ついには単なる白濁とした風景となって価値のない一枚の模範的な画像へと落ちぶれてしまう物悲しさで――街は折れ曲がった路地のその、錯覚によって自らを、広大で複雑な空間へと、昇華せしめようとしながらも、ことごとく失敗してしまう実情が、あっけなく曝される――私は恐れと期待に絡みつかれ、困惑する血管を抑えながら、鉄製の扉のノブを握り、回していくものの大半は開くことなく、鍵が閉まったまま変化なく、開いた室内のほとんども、まるで印刷されたかのように無個性な、ありふれた空室でしかなく、まったくの期待はずれな状況に若干の肩透かしをおぼえ――みなさんの常々の功績を見ているならば、それは当然のことでしょう、廃墟の存在とともに残された、ありし日の居住者の息づかい、テーブルや食器やカレンダー、箪笥、時計や衣服や色あせた大量の家族写真の数々――しかしその繰り返しのなかでたどりつく、たどりついてしまうことが幸運なのかどうか、わからないまま今に至るのですが――鍵はおろか扉さえ設けられてはいないあの部屋に――4階の、たしか右から3番目の空白――はっきりと、いやまったくといっていいほどはっきりと、憶えてはいないのですが――あきらかに異質で硬直した、扉のついていない入口を横目でそっと、覗きこんでみると扉は蝶番から一息に、引きはがされたかのように失われていて――ねじまがった金属の、変色した物質性の強調――かび臭いコンクリートの玄関が、抵抗もなく夏日によって直視され、またとない特徴的な雰囲気を、漂わせる陳腐なまでの期待感――少年は首から吊りさげられたカメラの胸高まる重みを握り、自分の確信は間違いではなかった、まさしくこの部屋の奥にあの老人が――そっと足音をたてぬようにして玄関へ入り、細くせまい廊下を土足のまま進んで床の軋む音がして、埃まみれのテーブルや台所、曇った窓ガラスの蒸し暑さ、ところどころ穴のあいた襖の向こう側に敷かれているいぐさの抜け散らかった畳のうえに座っている老人の沈澱した泥のような匂い――

 

 

電子掲示板に書きこまれたその稚拙な文章にたいして結果的に浴びせられた批判は数多く、大半は、意図して避けられたかのようにさえ思える廃墟の正確な所在地に関しての疑問、もしくは際立って珍しくもないその文章の内容に関しての非難――廃墟におけるホームレスとの遭遇は、適度な回数をこなした者たちにとっては取り立てて話題にする価値のないようなものであったためにわざわざそれを、さも自分だけの特別な体験であるかのように書き連ねた素人の出現は、電子掲示板に在中する自称熟練者たちの集団的な怒りをかったのであり――それらに対する弁明も反論も一切、当の本人によって書きこまれることがなかったために、数日たったころにはだれも、思い出すことができなくなってしまっていた。

 

 

――もうね だいぶ忘れちゃってるんだって

――うん

――昔どこ行ったとか たいてい わからないんだって

――うん

――しばらくしたらわたしたちも 見ず知らずの他人として扱われるのかもね

――うん

――どうする

――べつにどうするわけでもないよ

――どうして

――だってどうしようもできないじゃないか

――じんわりと 死んでいくみたいね

――そう

 

 

それは単純に、無限の、そして自発的な変化を見せる細胞が、同一平面上を何度も、何度も行ったり来たりしているだけで生涯を、終えてしまうかのように――砂の、どれだけ強く握ってもさらさらと、流れ落ちていく性質のように――忘れる、かつて少年であった記憶までもが薄れつつあるなかで、ましてやひとつのありふれた文章などどこにも――傷すらも――残らないのだと、にわかに証明しているように感じられる。消費すべき対象が、眼前に、もしかしたら多すぎるのかもしれないなどと仮定することすらもあふれる、川を――アスファルトに塗り固められた灰色の窮屈すぎる川を――あふれる、汚泥を含んだ氾濫の水にも似ている街の状況はひたすらに、反復のみを欲している。その証明だ、証明なのだ、きっと、根拠は多岐に及ぶから……

しかし、はたして証明が必要とされているのか、この身に、この思考に、はたして証明が必要とされているのか、男にはわからない。女の横で眠る男にはわからない。女の言葉の響きを足の、指先の感覚で確かめる。装った眠りからそっと目覚めたまどろみの境において、女の皮膚の、ざらついた体温を見失わないように――その癖は、幼いころから変わらず身についていて――今も、憶えているという事実だけを憶えている。街だから忘れるのか、街でなかったら忘れないのか、人々の日常は示さない。たとえ忘れてしまったとしても、人々はなんら苦に思わないからこそ、過ぎ去った衝動を忘れるのか――それならば抵抗も、一時の満足でしかないだろう。そしてそのほとんどが、正しい。

砂の舞いあがる道々、風に吹きつけられて乾燥し、硬くなってひび割れて、ペンキの光沢も鈍って触れれば壊れて、しばらくの時が過ぎればあらたに建て直されるはずの家々のなかで、積み重なる言葉のたどたどしい発声は、伝達のつながりによって失われたはずの顔面を描いていく。安易な仮面ではなく堅固で、信頼のできる顔面を描くことが、ある一面では忘れない、定まった韻律を生むのだから、これといって困難な障害につまずくことはない。元来そうやって生き長らえてきたのだから不安もないし、環境は、慣れきった配置にあって、男は疑うことも知らないから、また性懲りもなく思い出そうともする。欠落した表面を、内部を、深層を、まったく種の逸した材料で補強しさえすればそれでいい。どこまでも、既視感は終わりなく広がって薄まり、またその空間を廃墟と呼んでも差しつかえないだろう。咎めるべき相手がいつまでも、目の前にあらわれないままなのだ。

 

 

カメラをなくした思い出として語った、語りながらおぼろげな感情が巡った、どんなカメラだったの、という女の声によって落胆した。父親がくれたカメラでね、もうだいぶ古かったんだけどくれたんだ、フィルムといっしょに――モノクロの――まずはフィルムでカメラの基礎から学ばなくちゃならないって信じこんでたんだよ、まったく、ただ金のかかるだけなのにね――声は壁にむかって吐かれる、ささくれだった、小さくおぼろげな反響をして――子供のころからずっと欲しかったんだけど親はまったく興味がなくて、記念日にもプラスチック製のインスタントカメラでとりあえずの記録は残しておく程度で現像された写真はみんなどれも手振れがひどくってそのことをあっさりと笑いながら済ます家族の誰ひとりとしてカメラを持たないまま十数年、あれこれ想像して期待して、初めて高校生のときにアルバイトの金で買ったカメラを持ち歩くままにそれからずっと写真のことばかり考えてたような人だから子供にも写真をやらせたかったんだろうね、自分の子供だからきっと写真にも興味を示すだろうって思ったのかもしれない、もちろんそれが完全に見当外れだったとは言わないけれど少なくともたぶん勝手な押しつけだったことには違いない――じゃあ嫌いだったの――いやそういうわけでもなくて、うん、僕はカメラをなくしちゃったようなやつだから――それきり黙る。理由なく黙る。黙ったとしても女がつづきを急かす様子はなくて、じっと天井のぼやけた染みを見ている。いやもしかしたら窓にひかれた焦げ茶色のカーテンの丸く小さな模様の並んでいる数をかぞえているのかもしれない。ところどころがほつれ、くたびれきった焦げ茶色のカーテン。だが男は女の視線の動きを見てはいない。ただ黒すぎる眼球を腫れぼったい瞼と瞼のあいだからわずかに覗かせているだけでなにも感知してはいない。次の言葉も、次の動作も、次の馴れ合いもすべて雑然とした室内における二人の動作からは読み取れないままで、遠方のどこかから電車の走る音がする、金属的な、単調な、亀裂を走らせるような音で――女の衣擦れの音がする。もうだいぶ、遅いね……

うん、もう遅いから……女は男と別れて夜の小道を歩いて街灯の下、見慣れたアパートまで戻るとばったりとベッドのふくらみに倒れて眠りこみ、極めて断片的な夢をみる――今までみた夢のなかで一番、はるかに気持ちの悪い夢だったと目覚めながら考え、コーヒーの苦味を噛み締めながら瞬間、忘れてしまうような夢をみる――次の日の暑すぎる夏のなか、ひとり商業施設の入り口を抜ける。洪水のような、まるで配慮の足りない冷房の吹きつけに髪を揺らしながら、唐突にぼんやりと思い出す――男がカメラを、いったい、どうしたのだったっけ――並べられた商標と金額の文字列の連鎖によってなにもかも上書き、更新されてあれこれの消費の過程を考えはじめる――誤りは許されないから、日常は、気を抜けば即座に流されてしまうから――それきりもう二度と、ふたりは出会わない。なにも、僕たちに違和感はない。

それから男は情事のあとの一瞬の空白を眺め、眺め、眺めるとともにあのアパートでの腐敗臭――死骸と腐葉土と湿気と塗装の入り混じったかのような(まるで地を這う埃のような)耐えがたくまた同時に時が経てば身体の方が慣れきってしまい逆に自分からそれとなく漂わせてしまいそうな(気もする)潰れた悪臭――を思い出し、思い出し、思い出す度に呼吸を取り乱してしまいながらも数々の不手際を並べ立てる。今だからこそ可能なのか、今だからこそ不可能なのか、列挙される後悔と訂正の繰り返しは幼いころの家族との記憶のなかでの交流、執着、大切な日常の補填――憐れな皮膚感覚には目立つ、屈折して放射される反射像――境界もなく、始点もなく、段階さえも見当たらない映像の停滞を通して初めて感知される――いや、きっとそうなのだろう――砂と共に吹かれゆく発声音「いまだそこにありつづける

 少年の訪れたその場所が、噂されていた老人のいる廃墟なのかわからず、確かにあの少年の部屋の内部において、電子画面に向き合っていたあの瞬間においての確信はまったくもって疑いようのないもので、老人をフィルムに収めるということ、それも明らかな露性アンダーの薄暗さ、強烈な存在の輪郭の刻印をフィルムに焼きつけて脱出するということを断じて予測などといったものではなく――少年にとっては予測が問題ではなかった、むしろ予測はシャッターを切るその指を、硬直させ溶かし狂ってしまう毒物のようなものでしかなかった――ある種の質感をはなつ映像が、ひたすらに回転を繰り返しては泡立って、その廃墟への訪問を必然的な事実として受け入れさせたのだったが、今の男には自分の見た文章がいったいどんなものであったのか、それこそ様々な臭気と混じりあって文字列の読み取れなくなった古い看板のように錆びつき、ざらついた焦燥へと男を飲みこんでいく。

 

 

 ――どうして

――どうしてだろう

――ひとりで行ったの

――そうひとりで 

――こわかった

――いや別に そこまでこわくなかった 

――あのアパートなんでしょう

――そう あそこ

――行ってみる

――いや いいよ

――カメラがあるかも

――ないよ もうないよ 壊れてる

 

 

(燃えつきたフィルムの匂いの巡って)

 

 

いつのまにか目覚めている。

 

 

眠りすぎた身体は水を吸いこんでぶよぶよと腫れあがっているかのように重く、熱せられた室内に充満している濃密な汗と金属と食物の腐ったような匂いがいったいどこから立ちのぼっているのか――配水管、流し台、ベランダ、押入れ、ソファ、もしくは自分を覆う皮膚表面からなのか――側頭部と口蓋をつなぐ直線的神経を波のようにはっきりとしない痛みの羅列がつづく。その振動にも似た、吐き気にも似た記憶の感覚の誤配を、どこか手の届かない場所へ追いやるためにこそ渇きを覚える。安定しない足取りでフローリングの床を歩くと、途端に眼球の端がきりきりと鳴っているのがわかる――指で瞼の上から強く、抉るようにして何度も押さえつけていると奥歯のねばつきが、頬の裏側を擦って思わず唇を開く――もう長いあいだ開いたことのなかったように思える。声は、はたして出るのだろうか、わずかでも――確かめる相手はいなくて――また音を聞きたくもなる。流し台のステンレスは小さな曇りガラスからひろがる光を集めて強すぎる光沢を生むから、その明るさは蛍光灯のついていない薄暗い部屋のなかを幾分か盲目的に裂くようにして男の視界に挟まるから、そっと、勢いよく蛇口をひねって水を出す――固まって、落ちて、ぶつかる衝突音は嫌というほど聞きなれたものだから――コップに注いでもがくように飲む。しかし飲めない、飲むことができない。咽喉の内側からめくりあがるようにして生じるこの感覚はなんだろう。咄嗟に吐き出すと尖った鋭利な衝突音がいっそう大きくなって壁という壁に反響し――まるで殴り潰したかのようで、指摘されそうで、自然と息を止めて――そっと、今度はゆっくりと、飲みこむ。冷たさが背骨のそれぞれを、なぞる。突然鳴り響いた電話に驚きながら受話器をとると、もう二度と耳にすることのないだろうと思っていた――いやそんなことはありえないのだが、気休めとして、もう二度と耳にすることのないだろうと思っていた――母親の声がして、それも若干の焦りと落胆を含んでいるかのような声で、いくらか年老いたような気もして――うん、うん、そう、わかった、行くよ――などと単発的な返事をしたのはいつのことだっただろう。あれから一度も電話の鳴り響くことはなく、前触れもなしに時間の不明瞭さを力づくで吹き払われるようなこともなくて、平静かつ扁平な生活は男のアパートの一室を限りなく蝕むようにして凝り固まっていた。吸いこみと吐き出しを繰り返し――繰り返し――繰り返す内臓の頽廃した空気が閉鎖的な循環を巡っていくなかで少しずつ、微かに、しかし紛れもなく重みを増していくのがわかる。沈殿した垢や埃や毛髪が、男の動く度に視認することのできないような精緻さで舞いあがって光彩を歪め――またそのような新鮮さとはほど遠い日常が、あの写真展で見たいくつもの写真たち――白く清潔な壁面に所狭しと並べられた黒い額縁のなかの白い台紙のなかの黒い写真たち――の印象と重なって、自虐にも似た居心地のよさを男に与える。こういう写真は天才だけが撮れるものだから凡人とは関係のない唯一無二のものなんだ、すごいだろう、ほら見ろこれなんて絶対にこの人にしか撮れない、と言って父の指差す先にあるのはどこにでもいくらでもありふれていそうな街路の夕暮れを歩く人々の陰鬱な表情で、真んなかよりすこし左のあたりに立つ一本の道路標識の文字列や店先にぐいと伸びて掲げられた広告のなかの女の微笑みはみんな光彩のように重なりあって白く消し飛び――まるでそこには最初からなにもなかったかのように白く消し飛び――と同時に触れればこちらが触れられ溶かされ、腐敗させられてしまうのではないかと疑ってしまうほどに質感のありすぎる黒を伴い、その黒と白の混在した写真は写真というものをまだほとんど知らなかった少年の初めての、揺るぎのない価値基準として焼きつき離れず、にわかに興奮しながら「この人は天才だから」と繰り返している父の(意図していたかどうかはわからないのだが)息子に対する嗜好操作はすんなりと、なんら目立った障害もなく成功を収めたのだった。父の写真を何度か見たことがあったが父はあの写真展の写真家に心底陶酔しきっていたようで、思い出す度に男は写真展のあの黒くぼんやりした写真たちを色濃く、濃密に連想してしまうがために今自分が思い出している写真ははたして父のものなのか写真展のものなのか、記憶のなかの夕暮れの緊張感をうまく判断できずにいる――しかし判断してどうなるというのか、純粋な記憶を抱いて健やかな日々を送りたいとでもいうのか、時計はすでに予定の時間を過ぎている、あからさまに不要な仕事はいらない、そもそもの写真が腐っているのだ、後追いにもほどがあるというものだ――水の半分以上残っているコップを置いてそのままカーテンを開くと薄暗かった部屋に突き刺すような日差しが入りこんで瞬き、目の慣れていないために見える物々は裂かれたようにして空白となって生まれ、じりじりと痛む目の奥のなかでは黒い内部が反転する。反転しては沸騰し、沸騰しては湾曲する表層部分に連なって無数の筋の入った虹彩が肥大化し、膨張し、瞳孔の小さく縮まっていく感覚が自然と瞼を閉じさせる。まばたきを繰り返し、繰り返し、繰り返すことでなにかが変わるということもないのにまたどうしてもまばたきを繰り返してしまう本能的ななにか、反射、生理作用、思うようにことの進まぬ状況への不満も恐れも嘆きもなくただ呆然と立ち尽くすばかりで他はない。それでもやはり本能的ななにかは――男の意思とは関係なく――働いていて眼球の光の調整が済むとガラス越しにアパートの前の細く風化した路地――自動販売機が二台に電柱が三本と今は閉まっていて夕方ごろにようやく開いてあまり客の入っているところを見たことがない小綺麗な居酒屋の隣には看板の廃れ具合から言ってそこに建てられてからかなりの年月が経っているらしい病院の眼科という文字の上に描かれたところどころ色落ちしている古風な眼球の断面図――を歩いている人や走っている車や走っている自転車の姿が見えてその組み合わせというか並べられ方というか光の当てられ方というのは最初このアパートに越してきたときにはいくらか価値あるものとして見受けられはしたもののすぐにそんな興味は薄れてきて最近ではわざわざ注意を払うこともなかったのだがその日に限って男はカーテンの開いた拍子にガラス越しのアパートの前の路地のあれこれに目を遣ってしまい結果として小さく黒く点のような穴からこちらをひたすらに凝視している標準単焦点レンズを――男の意思とは関係なく――見つけてしまう。その向こう側にいる視線――ひずみやゆがみの補正しつくされた視線――あれはいったい誰だったのだろうといくら後になって考えてみても顔の知っている形態や構造とは似ても似つかぬ形態や構造であっておそらくは互いに名前も声も知らないまったくの赤の他人なのだろうがしかしもしかしたら知らないのではなくただ単に憶えていないだけなのではないかこちらが忘れているだけなのではないかと皮肉まぎれに訝しみもするのだがしかし顔見知りのいるアパートにわざわざ自前のカメラを向けるなどということが――それもちょうど男の部屋の窓の奥の男に視点をあわせて向けるなどということが――もしかしたら偶然――いや偶然だと結論づけるのであればそもそも知り合いだろうかそれとも赤の他人だろうかと思案を巡らすこと自体が滑稽でおかしな話であってそもそも周辺に散らばり点在した凹凸大小様々なる情報各種をその小さく黒く点のような穴に凝縮させて渦巻いている標準単焦点レンズの反射光に覆い隠されている視線――向こう側の視線――やつれた、巧妙な、生真面目な、気だるげな、あでやかな、つまらない、しゃがれた、くたびれた、硬いジーパン、黒いシャツ、濡れた脇、骨ばった指、浮きあがる関節、刻まれる年齢、ぎこちない立脚、晴れやかな消化、並べ立てる言い訳、感じる秘匿、上からの観察、下からの観察、単調な観察、停止した観察、往復する観察、溺愛する観察、観察、観察、観察、観察を受諾して男は表情の凍えた無音な暴力によって何度も何度も何度も何度も叩いて潰れてちぎれて固着した表情、意識のまま――シャッターを押したのかどうかさえわからずわからないまま――カメラを下ろして道なりに規則通りに進んで去っていったことが路地を路地的な路地に戻す。

それから男はまるで逃げるようにして軽い荷物を準備し――携帯電話、文庫本、財布、手帳、音楽プレイヤー、そのほか生活における小さなゴミたちのつまったままでいる焦茶色のバッグを持って――アパートを出ると横断歩道、陸橋、交差点、地下道、陸橋といった順番で速やかに歩き、まわり、ひたすらに労働者の混雑している駅へと向かう。電車を何本か乗り継ぎしながら用意された路線の風景をたどり、なぞり、もはや不要だったはずの地図のおおまかな区分を反芻してなんとか現実という現実を受け入れようとするのだが、人々の体臭の穏やかに染みこんで土と紫の交錯したような色合いになっている座席に座ってなにを見るでもなく頭上の蛍光灯へ――その配慮された光の限定へ――二つの楕円形の眼球を晒している男の耳には音楽プレイヤーから送信されるありきたりな音楽――かつて少年の聞いていたであろう音楽――が無様にも流れていたのだった。 

 

 

 そして数時間後には街へと帰っている。


 

――どうしてホテルでいるの

 ――もともとそんな仲だったし 父親がああなったから来てるだけで

 ――お葬式の準備とか

 ――親戚が多いから 兄とかも

 ――つらい

 ――いや別に あのままだらだらと生きてた方がまずかっただろうし

 ――どうだった

 ――忘れてた 自分の名前だって言えないくらいに 忘れてた

 ――ああそう

 

 

「言い訳したくないから」という理由のためだけに二人して無言のまま学校を抜け出し、客のいない電車の座席に座って窓の外の繰り返し――繰り返す色彩の乱舞に寄り添って――環状線のレールの規律に従いほとんど無変化な映像を何度も、何度も厭きることなく凝視しつづけていた少女はそのままに少女となって――女となって――男の前にあらわれる。久しぶり、元気だった、というようないつ聞いたのかすら判別つかなくなってしまいそうな、ありふれた言葉を聞いて男は外見が少女と変わらないままに女の触感を得た少女の残像を拾いあげる。

どうして、久しぶりに帰ってきてるのいま、毎年帰ってきてる? 

いやちょっと用事があって、もう何年ぶりだろう、わからないけどすごく久しぶりなのはわかる気がする、そっちこそ元気――などと言いながら欠如と、余分な対応の摂取を帯びた女の姿かたちに怯える――わけでもなく淡々と、目の前の会話をこなしていく男もまた大きすぎる制服を着て、長すぎるコードの先のイヤホンから流れる音楽の遮断に浸っていたあの少年の歩行の姿から様々なものを失い、獲得し、もはやそれは否定を伴った回想にしかなりえない。

かつての少女は視点の方向を変えぬままに言った――言い訳したくないから――という少女の、決して塗り分けられることのない(はずの)少女という身体、少女という発声、少女という選択、少女という記憶をただひとり必死に守るためにこそ紡がれる言葉、男はそれだけを今でも全身の末端に刻みこんでいる。他の雑多な事象事象は折り重なって白濁とした風景となり、もうすでに確証さえ見当たらないから――どれだけ具体的に記憶していたとしてもその多くは外敵の侵入を許して錆びつき擦れるようなギリギリとした金属音を発して、もはや境界線など見当たらなくて――電車を待っているときに二人して座っていた駅のベンチの色や形やそこに記された広告の内容や日差しの角度や駅員の服装や少女の服装や顔色や仕草や髪の風に吹かれてなびく様や冷たさや温度や僕の君の吐く息や白さやかじかむ手や痛みや感覚や――それ以前それ以後に吸収された固定的な描写の数々を忘れたくても忘れられずにいつまでも憶えているからすべてが吐瀉物のように混ざってしまって帰り道は辿れないままなのだ、きっと、たぶん、そう、おそらくきっと、そうなんだろうなと思い――ねえ、今なにしてるの? と女は尋ねてくるから答える。へえ、そうなんだ、といってまた尋ねてくるから答える。写真は撮ってるの? 写真は撮ってるの? 写真は撮ってるの? と尋ねてくる内にこれがはたして少女なのかどうなのかいっこうに確信が持てなくなってくる。いや、そんなことはまったく関係なくて、ただ話すということだけが男の目の前にはあるはずなので実際に男の目の前にはただ話すということだけがある――どうして? 

 

 

カメラのことを少女に話したのがなぜ数年後の今になったのか、言い換えればなぜあの時の少年はカメラのことを少女に話せなかったのか、それは単に今と比べれば会話自体が成り立つような関係じゃなかったからだと思い――話したところで返ってくるのは喉を叩くような「うん」という声だけだったのだ、きっと、そうか、変わらないのか、今も――と考えてはホテルの外の街を見る。日の暮れかけているホテルの外の街を見れば、やはりそこには電柱とアパートと人々のゆるやかな足踏みがあって――街を離れた数年間は数年間として肉体や建物やその他に色濃く刻まれてはいたものの、街の根底に流れる川の流れのような基調音は基調音としてやはり街の根底に染みつき離れず(離れないままで)少年の言葉の累積によって配置された過去の街の数々は鈍磨した状態でそのままガラスの表面越しに繰り返し立ち現れ――描写され――男はそれらに一切の焦点をあわそうとはしない。なぜあわす? なぜあわそうとするのか? 見たことのある顔、見たことのある素振り、聞いたことのある声色、触れたことのある布地。わずかな陰影は塗りつぶされて、アスファルトの白い塗装だけが網膜へと広がる――薄まる――広がる。

 

 

 ――絵を描きたかったの

 ――描けばいいじゃないか

 ――どうでもいい

 ――なにが

 ――絵

 ――そうだけど 親が反対するの

 ――知らない

 ――どんなやつ描くの

 ――べつに 昔のことだから

 ――昔

 ――子供の頃のはなしだから

 

 

網膜へと広がった白い塗装は次々と打ち消され、逃走し――遠近感のない鮮烈な画板の表面にめくるめいて――交錯した凹凸状の絵具は、眼球の裏側、眼窩と視神経の接続部周辺をするどく刺激し、僕たちの認知できぬどこか一瞬において、頭痛のような、継続的かつ広範囲な苦しみへと変わろうとしていることは明らかで、目にうつる物質性の排除、徹底した排除の繰り返し、繰り返し、繰り返される連なりが感覚的にすり減っていくということを伝えようにも伝えられず、そう、伝えられないままで――伝えるまでもなく少女は知っていた――もう出つくしてるの、そう、もうみんな出つくしてるから少年はなにも言わず、なにも発することなくじっと少女の描いたという絵画をいくつも見ていく、少女はその動作のひとつひとつを執拗に目で追っていく、検分、検分は為されて――すごいね、すごいね、すごいねというような賞賛とも激励とも似つかないような言葉がついて出て――ついて出る言葉はやはりそういった空疎なものでしかないのであって、僕たちに感想はなかった。

なにかしらの感情を伝えようと――それは多くの場合「わかる」とか「伝わる」とかそういったような意味合いに近く、もしくは「元気?」とか「大丈夫?」とかそういったような意味合いに近く、しかし「わかってもいない」し「伝わってもいない」し「元気」でもないし「大丈夫」でもないことは誰がどう見ても明らかで――短い言葉を投げ掛けようともするのだが、少年にはことごとく矛盾ないしは欠落点が目につき離れず誤解、誤解、誤解を恐れるためにこそ誤解を避けようともする少年の途切れ途切れの言葉は肋骨に囲まれて小さく反響して、発しているのが自分であるのかそれとも他人であるのかわからない――どこか遠くで掻き鳴らされた指の砂をならす音のようで――変色することなく川の水の流れるためには大量の、あふれんばかりの水が必要であり、地上のあらゆる砂地を押し流すほど大量の水はいったいどこにあるのか、海、川、空、池、沼地、排水溝、浄水場、下水道――そんな大量の水はどこにも存在しない、ということと同じように――どれだけ多くの複雑な、絡みあった意図を用意しようとも発見しようとも、長方形のフィルムの枠内に配置された物体名称すべては単純明快に名指しされる――これは犬、これはビル、これは車、これは人、といった具合に――名指しされた(ある意味では極めて正確な)地図を大事そうに抱えて眠ることなんてできない、誤解というものはそれほどまでに聴覚を蝕むから。 

 

 ――写真をとって生きたい

 ――撮ればいいじゃない

 ――これも同じなんだよ

 ――なにが

 ――君と

 ――なにが

 ――もう少しはやく生まれてたら

 ――そんなの 同じにしないで

 

 

変わった、変わった、変わったね、ずいぶんと表情の豊かになったもんだ、なんて言いながらすぐに自分のなかの少女それこそがまさしく演じられたものであったことを確認する。いや、すべて同じだ。どのように変化したとしても結局は多くの場合と同じようにすり減ったビデオテープを雑音混じりに見つめているだけなのだからもう、憶えている意味がないということを僕たちはすでに知っていた。

たとえば君の――倉庫のように息苦しいその部屋の壁には重々しい絵画が掛けられ、窮屈におかれた木製の、いや一見木製に思えるがしかし実際は木製にみせかけているだけのプラスチック製本棚には数年前の雑誌や小説や漫画や写真集が並べられ、ベッドの薄い布団は朝起きてすぐの状態のままで放置されていたりする。その隣におかれた小さめの箪笥の上には角をまるく削られたガラス製の水槽があり――歪んで二重にあらわれては消える部屋のひとつひとつの前景の狭間で――容量一杯に注がれた温水の波打つ環境のなかで右に左に上に下にと泳ぎ漂う熱帯魚がぬめった身体を無限に、そう無限に光らせている――構成された――群れの動きを見ながら途切れることのない濾過装置の発声を耳にしながら死んだ魚の遺体は小さな海老の集団によって分解咀嚼されることが常で今もそのようにして魚は姿を消そうとしている――ほうっておけば勝手にいなくなるってちょっとおもしろいと思わない?――小さな踏切の警報音が行方の知れぬどこかより響いてきて言葉は効力を失うばかりか物質さえもその輪郭を淡く溶かされて無残にも崩れ去っていくというたとえばそういったような――ああそういったこともあった――映像が流れこんできたとすればすぐにでも高架橋の下へ力いっぱい投げ捨てるべきなのだ、そうだろう? 焼け焦げる乾性油と合成樹脂と顔料と銀化合物と感光剤のけぶった匂いか煙の痛みか、すぐにでも忘れてしまって僕たちは今この瞬間の僕たちはもしかしたら記憶のなかの古く曖昧な映像のなかの僕たちの行動に過ぎないのかもしれない  という現在地点から呼び起こされた映像を結果の出ている映像を丁寧に再生しているだけなのかもしれない、どう思う? というその少年の発想の元となったなにかを少女はなぜか知っていて微細な自惚れと軽蔑を覚えながらも唇の動きを最小限にとどめて返事する――そうね、そうね、そうね

そのことを思い出すだけで僕は顔も向けられなくなってしまう、坂道を登り曲がって住居の影へと消えていく君の背中、足、歩行、言葉をまるで骨格だけの排水路に向かって転がし落としているかのようだったと言って笑う――笑う――笑いたい――笑う――駈けていく――どこまで――笑っている。

 

 

  「もう出つくしてるの、そう、もうみんな出つくしてるから」     どうして

つまらない

どうして

                          つまらない

                              どうして

 

 

――ねえ燃やさない

――なにを

――いろいろ

――たとえば

――絵とか

――いいよ

――どうする

――フィルムを 

 

アリザリンクリムソンカドミウムイエローコバルトターコイズトランスペアレントレーキローズバイオレット喧騒をまるで強引にトランスペアレントポートレート押さえこんだかのような痙攣を見せる首筋とアスティアデイライトポリエステル肩とオープンアクリリックス二の腕とリキテックスリキッドアクアオイル肩甲骨の生み出す窪みの皮膚の張りに指先をなぞらせカラーデュオアクリラハイドレンジャーブルーモノクロームチントウオーム呼吸の感度を唇の奥で確かめてアスティアデイライトバイエン変わらないアクアオイルカラーデュオホルベインアリザリン習慣と指図がわからないクリムソンカドミウムイエローコバルトターコイズアリザリンクリムソンカドミウムビリジャンセルロイドネオパンコダックコバルトグリーンペールフィルムベースコバルトブルーペール非対称の平衡のバライタグリーンスカーレットレーキローズバイオレット固まったプラスチックな室内でトランスペアレントゴールデンバイエンシオカゼライター淀んだローシェンナフレンチバーミリオンビリジャンゴールデンオープンアクリリックス汗のぬるさに触れられるリキテックスライターローシェンナフレンチバーミリオン寝ると夢を見すぎて怖いのゴールデンオープンアクリリックスリキテックスライターローシェンナ脊椎に溜まった軋みを抜くとフレンチバーミリオンゴールデンオープンアクリリックス再び包装にも似た切り口を求めるリキテックスライターローシェンナフレンチバーミリオンビリジャンゴールデンオープンまるで小さな虫たちをアクリリックスリキテックスリキッドセルロイドネオパンしがみつく幼げな手つきでもってするコダックコバルトグリーンペールフィルムベースオルソクロマチックパンクロマチックベルビアポートレート圧して削らなければならないコバルトブルーペールバライタグリーンスカーレット沈黙のうちに待っているアリザリンクリムソンカドミウムイエローコバルトターコイズコバルトゴールデンアスティアデイライトポリエステルブルーペールバライタグリーンなにも大したことはないよネオパンコダックコバルトグリーンペールフィルムベースイエローフィルターセルロイドオルソクロマチックパンクロマチック古い夢が動きだしたものだったベルビアポートレートアスティアデイライトポリエステルブルーペールバライタ箱のなかに伸びてくるグリーンスカーレットレーキローズバイオレット優しげで狂った指を切るオープンアクリリックスリキテックスリキッドそれをアクアオイルカラーデュオホルベインアクリラハイドレン簡易で恐ろしい興奮がスカーレットレーキローズバイオレットトランスジャーブルーモノクロームチントウオームアスティア為さねばならぬことを妨げてデイライトポリエステルバイエンアクアオイルカラーデュオホルベイン為しているすべてを妨げてセルロイドオルソクロマチックパンクロマチックアクリラハイドレンしかしそれ以上は許せないジャーブルーモノクロームアイボリーホワイトアイボリーブラックチントウオームセピアレーキローズバイオレットトランスペアレントゴールデンオープン深くおろした拒絶を吐き出すがアクリリックスリキテックスネオパンコダックコバルトグリーンペールリキッドアクアオイルカラーデュオ互いに否定はできないホルベインアクリラハイドレン濡れた靴のように慌ててジャーブルーモノクロームチントウオームセピアアイボリー書き直す隙間から漂ったホワイトアイボリーブラックトランスペアレントガーネットネオジンクホワイトトランスペアレントレッドゼラニウムレーキトーン彼女の身体をあわせてグレイッシュコバルトバイオレットライトヒューオキサイドそれはひとつの枠だったオブクロミウムフジクロームエクタクロームネオパンコダックコバルトグリーンペールフィルムベース事前に提出された記録を被ってイエローフィルターセルロイドオルソクロマチックパンクロマチックベルビアポートレートそこを見るアスティアデイライトポリエステルブルーペールバライタグリーン同じく触れるだけで終わるスカーレットレーキローズバイオレットトランスペアレントバイエンシオカゼレーキローズ焦燥バイオレットバイエンシオカゼライターローシェンナまた音もなく消えるようにフレンチバーミリオンオープンアクリリックス宛名のない手紙が消えるようにリキテックスライタービリジャンゴールデンオープン内臓のあらゆる醜さを嫌ってアクリリックスリキテックスリキッドセルロイドオルソクロマチックパンクロマチックベルビア上書きして戻らないことを嫌ってアクリリックスリキテックスリキッドセルロイドオルソクロマチックパンクロマチック収差する僕たちの最後の描線だベルビアポートレートアリザリンクリムソンカドミウムイエローコバルトターコイズコバルト最後をゴールデンオープンアクリリックス最後がリキテックスリキッドアクアオイルカラーデュオホルベインアクリラハイドあふれた放棄はまたとなくレンジャーブルーチントウオームアスティアデイライト演じる動作はみな恥じてバルトターコイズトランスポリエステルアリザリンもうないクリムソンカドミウムイエローコ伝わった体温がもうなくてバイエンアクアオイルカラーデュオホルベインアクリラハイドレンジャーブルー表さないモノクロームチントウオームセピアトランスペアレントスカーレットイエローコバルトターコイズコバルトアスティアデイライト僕の衝動は掠れてポリエステルブルーペールライターレーキローズゴールデントランスペアレントバイエンシオカゼセルロイドコバルト

 

 

                              もうだいぶ、遅いね……


やわらかなコンクリートの先の陽炎が、ちらちらと、蒸発しながら見え隠れしている道路を、黙々と、だらり首から古いカメラをぶらさげて歩く無知な少年だったあの日――自分の見て知る様々な物体、現象をなりふりかまわずおぼろげな路線図として定着しようとする少年だったあの日――太陽に熱せられた鉄製の格子状のフェンスは、風にさらされて防腐用の灰色の塗装も破れ欠け、茶色と黒の混ざったような色、手触りをしている刺々しい高さ2メートルほどの簡易フェンスは、細かく弾け、重い、分厚い熱をまとっていた。警戒もなしに触れて、掌に、刺さった痛みを感じる――その痛みは今でも熱せられた夏の簡易フェンスをどこかでちらと、直視する度にまさしく反射的な速度で掌に感じられてしまうほどに男の中枢深くへしっかりと植えつけられているのだが、少年はそんなことをまったくもって知るよしもなく――すぐに離れ、すぐに見上げ、息を飲んでからもう一度そこに触れる。なにも、我慢できないことはなくて――数秒の、皮膚的な痛みに耐えることは自室で電子画面に向き合っていたあの瞬間においての確信――つまり噂されている廃墟とはまさしく自分の家の近くの古い商業施設の裏手にある息絶えた腐乱死体のような面持ちの廃墟のことでありその一室には間違いなく死する直前のような重苦しい老人の肉体があってそれをフィルムに収めるということ、明らかな露性アンダーの薄暗さで収めるということ、強烈な存在の輪郭の刻印をフィルムに焼きつけ父親に見せるということを期待し、興奮し、確信していたわけで――その遂行と比べれば数秒の、皮膚的な痛みに耐えることなどは微塵も苦しむべき行為ではなく、むしろ遂行後の余韻に浸るための事前準備にも思われるほどで高なる期待に胸打ち震わせ――みしみしと軋む音を立てながら少年は不器用に登りはじめる。腕を曲げ伸ばし、身体をしならせながら少しずつ登る度にぶらぶらと、カメラが前後左右に揺れて(特にレンズの部分が)鉄製の格子状のフェンスと何度も何度も繰り返しぶつかってしまい――なるべくぶつけたりとかしないようにな、カメラは繊細で、すぐに壊れちまうから――という言葉を発端の掴めぬどこかから拾いあげ、めくりあげ、思い出したかのような気がするのだがあれは父の言葉だったかそれとも父によく連れていってもらった個人営業のカメラ専門店のくたびれたおじさんの言葉だったか、どちらも野太く高圧的な、それでいて頭上高くから浴びせられるような発声であって――少年はなるべくカメラをぶつけないように気をつけフェンスを登ろうとするのだが、しかし熱せられた鉄製の格子状の皮膚的な痛みもあってなかなかうまくはいかず、結局あきらめてそのまま何度もぶつけながらフェンスを登った。少年の背後で立体交差点の上を走る車列のエンジン音とタイヤの回転音が高まって、静まって、繰り返し――繰り返す地を這うような風と蝉の音も聞こえる。2メートルほどの高さの簡易フェンスを乗り越え飛び降りた先の草の生い茂っている場所には、夏の蒸気にも似た息苦しい匂いと沸き立つ太陽光の皮膚をじりじりと焼く静かな音があふれていて、少年はカメラの重厚的なボディの側面をぬるりと指の先端でなぞる。金属製の部分とプラスチック製の部分の温度がなにかしら違うような気がしてならない。脂まみれの鼻頭を押しつけ、ファインダーを覗き、シャッターを押そうか押すまいかと力み過ぎる腕の緊張に耐えながら判断の迫られる瞬間には決して感じられることのないようなカメラの重みの絶え間なく伝わってくる幅1センチ程度の長めの紐の首にかかる痛みはいつも疲れる。汗をかく。掌を見るとフェンスに付着していた煤のような黒い粉のような汚れが細かい無秩序な皺の谷間にそってこびりつき、そのまま顔に触れると大量の汗と共に頬や眉間を汚してしまうように思えたので母親の穿かせてくれた黄土色のポケットのいくつもあるズボンの表面でぬぐう。それから頭皮より流れる汗の雫を掌でぬぐう。ぬぐった掌をまた黄土色のズボンの表面でぬぐう。瞼、鼻筋、唇、顎や頬、あらゆるところから汗は吹き出してきて流れ、合わさり、大きな雫の一滴となってよろめきながらも首筋を巡り、色褪せたシャツの襟元へと消えていく(というその情景において生暖かい風が冷たくもないのに涼しい)。さらさらと、一方向に波打ち揺れている胸の高さまで生え伸びた緑色の葉々の必要以上に尖り尖った視界のなかをぐいぐいと進み続ける足元は夏の活気によって促されたのであろう植物たちの止めどない成長によって覆われ、満たされ、その部分部分を光沢のある黒と銀と白の汚れたスニーカーでしっかり踏みつけ押しのけ歩いていく少年の幼い姿を叢の遠くから意志も感情も目的もなくただじっと見つめているだけの(もしくは睨んでいるだけの)白く白濁した眼球を辛うじて内包している瞼と睫毛――過度の放射熱によってひどく焼け焦げてしまったかのように黒く、こべりつき、離れない大量の目脂によってうまく開くことのできない状態にある犬の瞼と睫毛――の生じている顔面は長期的な飢えを象徴しているかのように痩せ細って強ばり、骨張り、頭部から眉間にかけてするりとなだらかな隆起が二本、露骨と言ってもいいほど明確に浮きあがってしまっている。その二本の隆起の先には擦れて爛れ、なかば腐ったような状態の鼻があり、わずかながらの鼻孔すらも見て取ることはできず、おそらくは呼吸もままならないのだろう、絶えず口を開いて舌を垂らす。垂らした舌も、口を開くことで覗く歯茎も同様に腐ってしまっているのかどうか、その色は奇妙に赤紫を帯びていて健康な淡紅色からはほど遠く、見ているだけで腐肉の匂いを感じる。それだけでなく身体の節々から匂いを感じる。必要最低限の脂肪さえもそげ落ちて、足は歩行の度にがたつき、肋は半円状の段差の積み重なるようにあらわれ、尻尾は途中で引きちぎられたかのように短く、すべての毛は垢と泥と血と糞尿にまみれて匂い立つ。犬はじっとこちらを見つめ、吠えることもまた距離をおくこともせず、ただ見つめ、少年は思う、どうやってこの犬は生きてるんだろう? この閉鎖された場所で、フェンスに取り囲まれた場所で、廃墟と叢に寄り添い、生き長らえるにはどうやったらいいんだろう? もしかしたらフェンスに穴の空いている部分があったのかもしれない。そこからいつも出入りしていたのかもしれない。そこまで苦痛はないのか? しかし雨の日の路肩に横たわっている、おそらくは誰かが車道から運んできたのであろう犬の死体の、おそらくは高速なゴム製タイヤの回転によってはね飛ばされ砕け、眼球の飛び出し、容赦なく毛皮の剥がれた(かつての)顔面に大きく被せられたいつの日かの新聞紙、インクが滲み、もはや新聞紙としての役割を終えてしまっている(善意としての)新聞紙の表面にぼとぼとと、落下する雨音の、赤みもなく、静けさもない黒々とした発声を聞いたときに男は、自分を見つめていた犬の、その痩せ衰えた姿をもう一度、フィルムの形でいいから見てみたい、もう一度、あの眼球によって見つめ見つめられたいという願望の燻っていることに気づかされる。それは勝手な書き換えなのだろうか? 今だからこそ思える嗜虐的な考えなのだろうか? そうかもしれない、もしかしたらそうなのかもしれない――だが男は白濁した視線の対峙を思い出すとともに、あの粘つく腐敗臭もまたくっきりと、思い出していたりもするのだ――死骸と腐葉土と湿気と塗装の入り混じったかのような(まるで地を這う埃のような)耐えがたく、また同時に時が経てば身体の方が慣れきってしまい逆に自分からそれとなく漂わせてしまいそうな(気もする)潰れた悪臭を、性懲りも無く思い出したりもしていて――確かにそれは廃墟の面影へと近づくにつれて、ゆっくりと湧きあがって立ち上り、少年の興奮をしたたかに揺さぶり狂わす――成功の、まるで約束されたかのような喜びと息苦しさをいつまでもいつまでも憶えている。それははたしてあの文章に書かれていた腐敗臭なのだろうか、本当に、それは適切な腐敗臭なのだろうかという不信もまたしぶとく残っていて表には出さない――隠す――隠して廃墟の側面を見上げる。視点の関係で(つまり真下から見上げているために物と物とが重なりあって)あたかも圧縮されたかのように細かな部分のわからなくなっている廃墟の側面の、各部屋にあるベランダの手すりには長すぎる時の蓄積が錆びつくように染みこみ、乾き、窓枠のステンレス製の平面に嵌めこまれたガラスは大半が割れている。割れて失われたガラス……残っているものも罅の入ったりしてまるで、薄いビニールを張り並べているかのようで、反射した太陽の歪んだ残像は眼球の視神経の裏側にまで刺さり至る痛み――健やかな痛み――吸収される痛み――突き抜けそうな痛み――眼球の薄い皮膜の奥の、黒い内部が反転する。ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐると模様だけが渦巻いているのがわかる。白い模様、黄色い模様、赤い模様、色の反転している模様の反転しては沸騰し、沸騰しては湾曲する表層部分に連なって無数の筋の入った虹彩が肥大化し、膨張し、瞳孔の小さく縮まっていく感覚が自然と少年の瞼を閉じさせる。まばたきを繰り返し、繰り返し、繰り返すことでなにかが変わるわけでもないのにまたどうしてもまばたきを繰り返してしまうという抗いようのない事実にことさら執着して苛立ちながら屋上の、白と茶色と灰色の突端だけがちらりちらり光のなかで見え隠れする――腐敗し発酵し、苔や黴や蛆虫で満たされ、もはや決して使われることのないであろう汚水を一定量含み持ったまま延々と放置され続けている――貯水タンクや、間違いなく雨垂れのあとや風化や酸化によって変色してはいるものの表面には過敏な繊細さのまとった葉々が、蔓が、植物が一定の方向性をもって伸び広がっているわけではない壁の一帯を見るにつけ、そういった微小な差異までもが疑念を募らせていく自らの現状に呆れてしまう。無駄骨に終わることが明らかであったとしてもすでに引き返す余地のないところまで来てしまっているのだから無価値な言葉を思いつくままにつらつらと垂れ流していても仕方がないだろうし、第一、言葉というものはそこまで信用に足るものではないとあのとき胸に刻みこんだのではなかったのか、二度と、失敗することのないよう胸に刻みこんだのではなかったのかと腹立たしくさえ思うがしかしよく考えれば少年は少女とすらまだ出会ってはいないのだった。

「それで僕は廃墟に入った、外との対比で光の一切が失われたみたいに暗くなっている階段を登る前に茶色い斑点のいくつもいくつもついている――雨風に晒されたわけでもないのにやっぱり錆びつくもんなんだね金属ってのは――規則正しく並べられた郵便受けに貼られている(もちろんそのほとんどは剥がれてなくなっちゃってるんだけど)名札の名字を読んだ、それでどうということもないんだけど読んで、郵便受けを使っていた人たちは今どうしてるんだろう、どこでなにをしてるんだろうなんて当たり障りのないようなそれこそありふれた想像をしながら階段を登った、階段は暗かった、階段は暗かったけれどまったく先の見えないようなことはなくてうっすらぼんやり物々の輪郭は見えた、登った、ゆっくり登った、ネズミの死骸にゴキブリの死骸にカラスや猫の死骸まで僕は期待してたんだけど何一つとしてなくて――まあそんなのがあるわけないけどね、あったら逆にいろいろと困ったんじゃないかな――あるのは乾燥した泥や埃や蜘蛛の巣くらいでそれもすみっこの方に小さくあるくらいで大抵暗かったから見えづらくて正直どうでもよかった、僕は」

 少年の目に映る風景の更新が階を経るごとに為されていくことは明らかで、最初こそ2メートルほどの高さの簡易フェンスや自動販売機や立体交差点の下のわずかな砂地やカーブミラーや白線や走行する軽自動車のよく磨かれた車体や商業施設――そういえばあそこいつの間に新しくなったの――ついこのあいだ、といっても2年くらい前かしら、とうとう潰れちゃったらしくてしばらくそのままになってたんだけど1ヶ月くらい経ってから突然、取り壊され始めて(黄色い工業機械がたくさんぞろぞろやって来て一瞬、一息よ、壊すのなんて、耳をつんざくような音で砂埃みたいな、たぶん砂埃ではないんだろうけど砂埃みたいなものを辺りに撒き散らしながらただの砂地に戻るのなんて一瞬、一息)気づいた頃には新しくなっててキレイで広くてオープンセールには客もいっぱい来てたみたいだしわたしもよく気晴らしに行ったりするんだけどそれにしても本当に帰ってきてなかったのね、ずっと、ここ何年も――階を経るごとに風景は更新される、見えなかったものまでがあからさまに見えるようになったりする――たとえば山の稜線の上で青白く霞んで見える鉄塔の不規則な連なりや夏には完全に干からびて底の土が粉を吹き断裂して一枚一枚のめくれあがっている皮膚病患者の荒れきった皮膚ような状態となる川の一ヶ所をまたいで架かる軽トラック一台分くらいの幅のコンクリート製橋梁や周囲のものとの明確な差別化を図ろうとして屋根の色や扉の形や表札の字体といった部分に神経をことさら使ってはいるもののしかし結局は同一規格であるがためにどことなく似たような雰囲気を(お互いに)漂わさざるをえない手狭な住宅地の手狭な家屋たちや立体交差点の向こう側に暗く陰鬱な表情で建っている古めかしい(というより衰えた印象のある)病院の外壁の全体を計算しくした直線で無数に走っている排水パイプや個室の窓にそって等間隔に配置されている(妙に巨大で重厚な)空調室外機やテレビの情報(もしくは音、光、外部)を欲する患者、付添人、看護師のために何本か設置された(らしい)鋭利なUHFアンテナなどは最初さまざまなものに阻まれてうまく見えなかったもののある種の集積であり蓄積でありそれは普通に(適切な)日常を過ごしているだけでは決して気づくことのできないほどに高速かつ穏健な循環をあらわしているようで人々はもっと大きくもっと激しく盛大に喉を震わせ声を発したいと思う、もっともっと、もっともっと大きく小さく一般的な聴覚には触れないほどの甲高さで泣き叫ぶというか取り乱すというか絶対に壊してはならないと忠告されていて自分も絶対に壊しちゃだめだと信じて疑わないようなそんな貴重なものとか人とか生きものとかみんな一度壊れたらどうやったって取り返しのつかないようなそんなあれこれをいつのまにか壊しちゃってることに気づいたときに感じる、感じる、きっとたぶんおそらくきっと感じるんだろうなと(根拠もなく)思っている憎しみのような怒りのような押しつけのような(半ば責任転嫁のような)感情で泣き叫びたくもなるのだけれどしかし僕はどうしても泣き叫ぶことでなにかが解決するとはどうしても思えないし第一泣き叫ぶなんてあまりにも陳腐でありふれていて逆に誰も人が泣き叫んでいるところを直接自分の目で見たことなんてないんじゃないか、そう、そうだろう、なあそうなんだろう、なあ――

 

 

 白く、あまりにも清潔で、かえって吐き気を催しそうなほどに清潔で、皺も汚れもなく、几帳面に張られたシーツは微動だにしないまま、あたかも未使用状態で、新たな患者を待ち受けているかのような、新たな末期的症状を抱えこんだ悲痛な患者とその家族を待ち受けているかのような、そんな気さえもするのだが、窓際におかれた、医療用ベッドのなかではそれでも細く透明で、しかも柔軟な性質を持ったゴム管が、点滴液に満たされた灌注器からするりと伸びて右腕の、肘関節の部分に(血管の、不気味に浮き出てぷっくりと、腫れあがっているように見え、しかもその近辺には青黒いというか紫の、斑模様が産毛の間からぞろぞろ覗いている部分に)注射針を通して刺さって、肉体の、静脈内へ絶えず薬液や栄養素が送りこまれている老化した、一見して修復不可能なほどに老化した身体が横たわり、男の目には掛け布団のかかっていない首から上しか見ることができないのだが、それだけでも老人の、年不相応なほどにやつれ覇気の失っている様を(老人はまだ老人と呼ばれるような歳ではなく、たしかまだ五十代なかば、少なくとも六十代には達していなかったのではないだろうかと、あいまいに思い出したりもして)確認することができた。子供が遊び、引きちぎってしまった弾力のある、それでいて壊れやすいゴム製玩具の欠片のような、毒々しい化学的な色をした唇の上には、斜めに丸く、深く、黒い鼻孔の大胆にあいている(後付けされたかのように不自然に、顔面の中央で高まっている)鼻柱があってその左右、くっきりとまるでペン先かなにかで繰り返し何度も同じところを力強く、根気強くなぞって押しつけて行ったり来たりさせることで結果的に(偶発的に)生じたかのように思えるくらい片側へ(つまり頬の側から口元へ)覆い被さっている皮膚の成す断層としての皺は、いつの間に、ここまでくっきりと刻まれてしまったのか、頬は足りない食事によって窪み、瞼の裂け目は限りなく細められて光を通さず、額は広がり、耳は萎縮し、眉毛や頭髪はどれも脱色が目立っている。不要に明るすぎてはいけないと、過敏に調整されているのかどうかはわからないが室内を照らす白色蛍光灯は脆く、薄く、勢威なく転がっている末期段階の頭部の全体へ淡くやわらかな陰影を描き、正体の隠されているようでいて逆に余分な想像を働かせる。老人は傍らに立って、無言のまま自分を見つめている男の視線に、ほんのわずかな注意すらもはらうことなくじっと、窓の外の舗道を行き交う車の往来に見入っていて、時折呻くような、耐えるような、低く断片的な声を発するが、なかば呆然、なかば執拗に立ちつくす男の耳には届かない。ねえ元気、来たよ、ねえ元気、というようなありあわせの言葉をいくつか連ねてみるものの、どうせ伝わらないことはわかっているし、それ以上になにか、大切な行為の妨げとなってしまっているような気もするので必然的に、ささやくような、口ごもったような呼び掛けとなって男は、今更ながら後悔する――老人に呼び掛けようとしたことだけでなく、老人との関係の改善を放棄したままでいることだけでなく、病院を訪れてしまったこと、それ自体を恨みの混じった感情で――いつまでも――後悔している。

病室を出た男は、廊下におかれた長椅子の端で俯き加減に座っている兄の方へと近づき、もう帰るよ、とだけ言ってそのまま帰ろうとしたのだが、やはりそこでも一瞬の躊躇を挟んでしまい、機会を逃す。数秒間ふらつき、よろめき、兄の曲がった背中を眺めながら言葉を探し、探せば、探そうとして諦め、ぐったりと壁にもたれる。所在なく壁にもたれかかって廊下――毎日のように磨きあげられているのか、それとも強力な塗装を施しているのか、やけに光沢のある廊下――の先を見つめれば画一的な制服、画一的な行動、画一的な表情を纏った看護師たちの疲労――それはこの煮沸処理された仕事場において感じるどことなく窮屈な疲労だけでなく各々の家庭の立場や環境や未来や関係によって本人の知らぬ間に――もしくは過剰に認知されて――積み重なり堆積していった疲労――が建物の骨格や地盤や労働者からすでに体臭のように発せられ、生じ、ぬぐい去れないひとつの形容となった薬品の匂いと融和して拡散し、膨大稀薄な、それでいてあからさまな一種の悲観をあらわしており、死に瀕した重病患者でなくとも足の捻挫や頭痛を伴う熱病や視力の違和感を訴える弱者や完治間際の往診患者や定期健康診断を命ぜられた肥満気味の中年会社員などであっても心の内に漠然とした失望――二度と、あらゆる努力を尽くそうとも取り戻すことのできないような喪失――状況、愛情、快楽、時間を二度と、あらゆる努力を尽くそうとも取り戻すことのできないような失望――を感じずにはいられないのだから自分はとりわけ悲惨な立場におかれているわけでもなくて、一定の確率で、かなりの人数が日々直面しているであろう現実に立ち会っているだけなのだと自答し、同時にそれが自己弁護のための詭弁なのかそれとも理路整然とした客観なのかわからず――なにを判断基準におけばいいのかすらもわからず――わからないまま唐突に、写真全部燃やしちゃったんだぜ、という兄の小さな呼びかけ――もしくは独り言――が聞こえてはっとする。

 

 

――どういうこと

――いやそのまま

――燃やしたって なにを

――だから写真

 

 

夏など特に雑草の生い茂っていて誰も手入れすることのなくなってしまった――もちろん数年前までは適度な間隔で手入れされてそこまで見栄えの悪いものではなかった――庭の奥にあるプレハブ小屋は長らく物置として使われていてアルミ製の折り畳み式梯子やペンチやニッパや虫かごやすごろく――兄が小学校低学年だったころにクリスマスプレゼントとして「サンタさん」から貰って弟と一緒に二人で何度も繰り返し遊んだゲームキャラクターの絵柄のたくさん入った独特のルールのあるすごろく――などといった物たちが限られたスペースへ器用に無理矢理押しこめられているなかから金属製のところどころ凹み曲がってしまっているバケツをいくつか――おそらく五つくらい――持ち出してきて庭の雑草の比較的少ない――というより短い――場所に倒れないよううまく配置し、自室の押し入れに長期間かけて少しずつ、しかし大量に溜めこまれていった写真のフィルムたちをそこへ均等に投げ入れ――あらかたすべて投げ入れ――その上からこれもまた長い間物置に人知れず仕舞いこまれていたのだろうバーベキュー用固形燃料をパキパキと割って投げ入れさらにその上から火のついた新聞紙の丸めて棒状にしたものを投げ入れ手際よく燃やしていた一時退院中の父親の異質な行為を不穏な音や匂いや煙で気づいた母が急いで止めはしたもののすでに大方のフィルムは燃えていてとりあえず火事とかそういったことにはならなくてよかったけれどでもいろいろと危なかったのだという話を責めるような言葉で聞いて男はすぐさま少女のあの日の提案、もしくは誘導の発声の小刻みな振動をおぼろげにだが思い出さずにはいられず、かつては強力な塗装によって数週間手入れされることがなくともまばゆい光沢をあざやかに見せていたのだろうが今では埃と泥と傷と染みによって黒ずんだ、というか沈下した、光を反射して鈍く輝くくらいでとりたてて塗装の面影も見えない緑色の、歪んだ波紋、もしくは木目のような装飾の施された廊下を焦りや緊張や不安や安静の入り交じった呼吸で、歩きながら数人の同級生を避け、歩き、階段へと向かい、ふと視線を横に散らすと、金属サッシュに囲われた引き違い窓の外では樫の木が、季節外れにこんもりと、膨れあがった葉々を、ざわざわと風に揺らしているのがわかる。

樫の木は常緑樹だから、ずっと落葉しないの。

そうなんだ、知らなかったと少し早口に言うと、馬鹿ね、授業でやったじゃん、と返され、まあいいよそんなことは、と寒さに唇を強ばらせながら呟き、いまだ例外的な行動の匂わせる、がたついた神経の痙攣に苛立ちながらそれを押し隠し、努めて明るい表情で、意外と簡単なもんだね、まあね、しかしいつもと比べて逆に口数の多い気がして、互いに現在の状況を意識しすぎていることが露骨すぎるほどにわかり、それ以降は一切喋らず、黙々と寒さに耐え忍ばなければならないと考え、根拠もなく考え、遠い背後では授業開始のチャイムが木霊する、足取りが自然と速まる。

 

 

踏み切りの遮断の終わりを待っているときのあの時間、あの警報、あの鳥肌を憶えているだろうか、冷感、少しずつ近づき、眼前を圧力とともに走り過ぎ、その瞬間、その瞬間に映った気がする電車の乗客の人数、格好、口調。黄色と黒の交互に塗りあわされた遮断機の、上へ上へとあがっていく音の、あの軋みを憶えているだろうか、残像のように――それは単純な比喩でしかなく――繋ぎあわせた立方体のコラージュに命名して。ところどころ無秩序に、略奪するように、黄色の蛍光マーカーで汚してやろう、なるべく見えづらく、わかりづらく、幻滅するように。もちろんそんなことをしても緯度や経度で美しく整えられていくことは目に見えているし、そこまで想像できないほどあからさまな無知でもないが、展示する、にこやかに振る舞って、尖らせる、挿入した言葉を排除する。いらないものはいらないものとしてはっきり憶えていられればいいけれど、まるで証明写真のように、白い枠内に訂正されて、肝心なところはぼんやりと写って、結局川へと流すだけで、いっこうになにも手元には残らないままで――空振る――僕は鞄を持っていた。父さんほど多くはないけれど、ある程度たくさんのフィルムが入ってて、僕はそれを右肩に掛けている。君はおそらく手ぶらで、鞄は教室の誰も座っていない場違いな、机の横にでも吊るされているんだろう、僕は知らない、僕は知らないままで、いつまでこうしていればいいのか、答えは飽きるほどに聞いた。おかげでいつもより幾分か身軽で、持つものも持たなくていいのだし、凍える両手はどちらもポケットで擦りあわせるようにして硬く、痙攣的に、握りしめられているから、風を防げるし、閑散とした駅は客も駅員もいなくて、切符販売機の前で財布を取り出し、そういえば忘れた、一緒に置いてきた、という少女のために僕は小銭を二人分投入して、ボタンを押すと出てくる切符の四角をくるくる、くるくる回す。指の先でくるくる、くるくる回していると首や胸のあたりの寒さの和らぐ気がして黙ったままくるくる、くるくる回し、ベンチに座り、青いプラスチックの欠けた、壊れた、ベンチの冷たさを共有し、これじゃあ立ってる方がいいかもね、なんてやるせない気持ちを装い、しばしの沈黙、さほど時間のかからない内に近くの踏み切りがまた鳴って、電車は滑りこみ、開いた車内に入ると効きすぎた暖房で喉が渦巻くように絞まる。

車内アナウンスと走行音と他人の少なすぎる座席のざらつきだけで距離は埋まり、一様に、声を掛けあったように同じ速度、同じ間隔、同じ方向、同じ力で揺れては振られる吊革を同じように二人で見ている。それも一時のことで、たどりつく場所はすぐそこだ、僕たちは部屋を訪れなければならない、準備のために部屋を訪れなければならない。かつての君の部屋にはたしか木製のようにみせかけたプラスチック製本棚があって、そこには美術系の雑誌や小説や漫画や写真集がたくさん、たくさん並べられていたと思うけれどあれらはまだ残っているのか、小さめの箪笥の上の、角をまるく削られた綺麗なガラス製水槽はまだ残っているのか、まだ容量一杯に注がれた温水の波打つ環境のなかで、右に左に上に下にと泳ぎ漂う熱帯魚は相変わらず泳いでいて、君は濾過装置の地鳴りのような発声を耳にしながら寝て起きて毎日を過ごしているのか。ぬめった身体を無限に光らせている群れの動きを見ながら待っている少年の側で、自分の描いてきた数々の「無価値な落書き」たちをビニール紐で何重にも結び、重ね、もしかしたら多すぎるかもしれない、全部持っていくのは無理かもしれない、いやいいよ、持つよ、いいの、わかった、そそくさと縛られていく少女の絵は均一に「ありふれた空気を含んでいる」らしいが少年にはわからず、わからないまま、しかしおそらくは適切なのだろう、画布に刻まれた折り目の強さと可視性……

 

 

平日の昼間にも関わらず両手に大きな紙袋を持って破れそうな底の耐久性を確かめあい、ふらふらと覚束ない手順で寂れた駅構内に至るあきらかに場違いな制服姿の少年少女を見て年老いた駅員は間の抜けたような、それでいて怪訝な顔つきをするが、勝手な想像ともいえる一抹の疑惑の追求のために今ここで働いているわけではないことを長年の駅員としての経験から十分過ぎるほどに深く、根強く思い返し、数秒間、怪訝な顔つきをするだけであとは意味のない淡白な無表情を取り戻し、手慣れた通常業務へとかえる。

 

 

再びの車内の暖房はやはり乾燥と圧力に満たされていて、呼吸の一回にも細心の注意が払われなければならない。不安定な荷物を振動する床に置いて手を休めると、なかの荷物がガタガタと鳴り喚くから悴んだ掌で静かに押さえる。重みと摩擦の持続によって赤く痛んだ指先は感覚が鋭く、わずかな温度変化にも反応して関節を容赦なく痺れさせる。向かい側の座席の端には若い母親と小さい幼児が座っていて飽きることなく何度も互いに顔をあわせては笑い、笑おう、笑っては流れ去る風景の列挙に純粋な関心を持ち、ひたすらに丸みを帯びた顔で窓ガラスを触ったり、近づいたり、離れたり、吹きかかった鼻息に含まれた水分の付着で白く曇った部分を発見すれば首を曲げて喜ぶし、座席の突っ張ったようにざらついてあまり手触りのよくない毛並みも楽しむし、運転手の演技がかったアナウンスにも鳥肌を立てるし、母親の差し出す皮膚の乾燥して固まった指の一本一本を握って匂いを嗅いだりして笑う。別車両では毛羽だった外套に身を包んで脇を限りなく締めて、暖かみを逃さないようにしている老人が目を閉じて俯き加減に眠っているのかそれとも起きているのか、容易に判断できない様子でいるし、若い茶髪の男が大げさに足を組みながら顔を反らし目線を上げて4、5本の太い金属製パイプで構成された銀色の荷台にいつの日のものか知れない古新聞を見つけてそれをじっと睨んでいるし、吊り下げられた広告紙の文字や写真はカラフルだし、蛍光灯のうちの一本は切れかけて点滅しているし、踏み切りを渡る度に遠くで甲高い警報音の響いている気がするし、電車はひたすらに、そのほとんどが誰もいない無人駅に停まって模範的に扉を開き、冷気を吸いこみ、暖気を吐き出し、まれに客の入れ換えを行い、また錆びついた線路を走る。車体の上部に取りつけられている菱形のパンタグラフと電線は決して離れることなく接触し、電流を交じらす。電線は上下する。パンタグラフも上下する。圧縮空気によって上下するパンタグラフの電圧を忘れる。憶えていない。そもそも憶えてなどいない。それでも人々は電車を見るし街は電車を走らせるし少年は電車を憶えている。あの振動、あの寒さ、あの息苦しさ、あの気だるさを。風景は変わるが変わらずに同じ意図や目的を発している。何十万もの鉄柱が平行して地面を覆っている。直線、そこから読み取れるものなどなにもなくて、もう出つくしてるの、そう、もうみんな出つくしてるから翻訳も訂正も求められてはいない。単一な文法しか求められてはいない。建物や水や電線は、幾重にも折り重なって白濁とした風景となり、その単調な風景をかたどっている輪郭すらも直線となりはてているがために、人々は、どうやっても直線から逃れることができない。視界には絶えず直線らしき直線が混入し――写真は撮ってるの?――答えは予兆もなく潰れてしまったのか。

 

 

僕たちの降りた駅は当然のように赤錆だらけの軽量鉄骨で覆われていて、無人だった。扉の開いた瞬間に潮の香りが寒さにくるまれて身体に当たり、思わず君と顔を見あわせた。電車が速度を速めて視界の末端を通り抜けたとき、微かに、でもはっきりと、海水の飛び散る音が聞こえて、寒くない? 大丈夫、寒くない。僕は血の止まるくらい寒かった。風が横殴りに吹いていて、なんだか少し笑えてきてしまった。雲は油絵具のように黒く、白く、灰色で、重みをもった粘度の高い色合いで、雲だけでなく空全体がゆっくりと下がり、低く、流れはいつまでも見えない。明るさと暗さが太陽の、姿を隠した逆光によって浮きあがり、発散し、鼓膜の表面で渦巻く風音の高鳴りが、雲の、風紋のようなかたちと重なる、焦点が一致する。湿気を含んだ白い粘膜のような空気を喉から吐き出し、震え、首や頬のあたりにまとって感じると寒気は一層極まる。目元や口元、指の第一関節から第二関節にかけての皮膚の強ばりを感じて――どこか遠い場所の、どこか遠い一点において何度も、何度も手繰り寄せられているかのように感じられ――強ばった皮膚の奥底から刻まれる、血液の脈打ちは繰り返す。重みのない乾燥した木造家屋を挟んですぐのところに直線の、防波堤は連なり、横へ横へと続く防波堤のわずかに傾斜したかたちをそのまま乗り越えるにはあまりに荷物が大きすぎて――探す――幅の狭い階段を見つけ登って越える、風化したコンクリートの摩滅したように削れた階段を先に少女が登り、後に続いて登る。遮るもののなにもなくなったことで潮風は存分に吹きあげて――呼吸の徹底した阻害に息づき慌てて――瞼が刺されたように痛む。重心を失う。乾いて縮まって、ひとつの断片と化している海草の点在はもとよりとして、潰えた夏の余韻を引きずる空缶やごみ袋、釣糸、釣針、プラスチック製容器に発泡スチロール破片、ガラス、煙草、それら生臭さの染みこむ海岸に放置されていた廃物の集まり――脱け殻のような蟹の死骸のもろさを眺めて――赤い表面の模様にそって白くうっすらと粉を吹いた殻はいつの日か訪れた何者かによって固く踏みつけられ砕け、ちぎれ、拡散し、肉片は既になく、かろうじてその色と輪郭は残され――消波ブロックの角張った表層にまるで塗りつけられたかのように擦りつけられたかのように残っていることからそれが蟹の死骸もしくは甲殻の断片であることがわかるばかりで日の当たらない隙間の側面に身を寄せあって寒気に耐えるフナムシたちをいくらか過剰に見やり確かめ進む少女の砂浜に降りる音(と同時に紙袋の底が破けてなかの括られた絵画たちの落下、衝突、破損、混濁)砂にまみれた彼女の求める伝達の落下にたたずむ。しわがれた痴呆の静止を嫌って崩れる砂浜をひた歩き、適切な場所を探すがなかなか見つからず、波の寄せては返す音、頭の裏側にこびりつき、一歩進む度にくたびれた運動靴の底の砂が踵と爪先にのしかかって気だるく、上辺だけの流木を蹴りあげて距離も感触も少ない運動によろめき、安定性を失い、倒れそうになるのを必死にこらえて平坦な場所のとりたてて適切とも不適切とも言えないところに決めると、両手の荷物を置き、絵画を慎重に取り出し、砂の上にゆっくりと重ねる。少女は走って落下した絵画を拾いにいき、抱え、それらを無造作に重ねる。積みあがった層の上、鞄のなかへ片手を何度も挿しこみ、まさぐり、取り出したフィルムをのせると少女が急いで一枚の絵画を引き抜き、被せる――風で飛んじゃうじゃない――四辺を流木で囲って、ポケットに入っていた使い捨てライターに点火、発火、風に煽られて波打つ炎の危うさに落ち着かず、火傷しないよう気をつけて、などと呼びかけようとした矢先に――いいの、本当にいいの――いいよ、やって、ほらはやく――しかしなかなかうまく燃えず、今にも消え入りそうなライターの火の、はぜるような光が海岸をまたたき、貫き、キャンバスに引火した瞬間、熱の広がりの容赦なく、立ち上る煙の冷たさに分断され、少しずつ、確実に欠けていく記録が目の前で、見失う、煤煙となってあふれる。たとえば一瞬、この一瞬を唯一、絶対なものとして劣化させずに残すことが可能かといえばそれは不可能で、疑いようのない事実として僕たちの前に常時まくしたてられている。なぜか、どうして、潰えることのない誤差が、容赦なく、視界のまわりを取り巻いている、ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐると、模様だけが取り巻いているのがわかる。しかしそれでも再来を、あふれた煙のようなものの再来を、僕はつきることなく想像する夏の冷え切った火葬場において――想像する――一応の配慮をともない、何度も、何度もささやくようにして取り交わされた名称――あまりに多くの人々のなかで、あまりに多くの姿かたちを取った名称――もはや答えることのない、もはや呼ばれることのないであろう父の短すぎる名称そのものは、立脚点を失い、なにかしら架空の記述のような気さえもするのだが、遺影に映し出された焦点の、決して交わりあうことのないその顔の防腐性こそが僕たちの求める最大限の静止なのではないか――いや、それはわからない、それはもちろんわからないことで――僕たちは今どこにいるのだろう、光源を失った像は、日々の雑多な事象事象によって塗り重ねられていくのか、どろどろと、性別も過去も肉体も嗜好もすべてあらかた抱えこんでしまって、その身振りや手振りや声や足ぶみやすべては雑踏のざわめきのなかに補正され消えていくのか――もしそうならばすぐにでも、覆われることのないひとつの現象として凍りつきたいのだが、僕は、どこまでも、凍りつきたいのだが――果たされることのない想像は、得てして眠気に襲われる。煙さえも密閉の循環へと吸収されて、見えることのなかった火葬の結果としての骨片を拾いあげて、もはや愛着も薄らいだ。新たに生まれることのない一瞬は、一瞬としてではなくただの、繁茂する草花の川原にひろがる種別のように、見分けのつかない長期的な味気無さとなって、ただ反復を繰り返し、繰り返し、繰り返すその前に立ちすくむばかりで暫定的な補強すらもままならない。おまえさ、いつまでそうやってるの――なにが――写真好きですって言ったっていつまでもそんなんじゃ食えないだろ――なんで――知るかよ、わかってんだろ、無理だって――いいんだよ、もういいんだ、別に――そういった会話の合間合間にもまた生物の腐った沈殿のような潮風が匂えてきて詰まる。兄は捨てる。兄は弟を捨てて火葬場から立ち去る。

 

 

――ねえ

――なに

――カメラ持ってるの

――どうして

――撮ってよ わたしの写真 撮ってよ 


その一見して娯楽のような、搾取のような言葉は小さすぎて聞こえず、聞こえないまま曖昧な微笑みで返した男はひとり、女と別れて歩く、夜の街を歩く。日の落ちた街、模造された街、集団的な人々の交換と売買が息つく暇もなく行われ苦しみ、楽しみ、疲弊し、忘却し、平凡な会話の行く末にあるのはそうやって簡素な重みのないゆるやかな別れでしかなく、要因、ネオンの響き渡るつややかな茫漠とした電光が昼間のうちに熱せられた道路や囲いや建築物の壁面にうっすらと食いこみ、広がり、ありとあらゆる動作音の混ざりあい分別のつかなくなったざわめきが顔という顔に反響して狂わせる神経――各部の機能のそれぞれを一括統御するための刺激の伝導路として働く細胞の接続――ひたすらに断裂を促し、促すが無意となる結論。街灯の間隔、おぼつかない歩幅で計って忘れ、用途不明の情報ばかりが脳裏をよぎる、映像がまたたく。すれ違う人々の閉じられた口から発せられるまるで平均のない、それでいて強固な、絶対的な中心の構造を読み取り、忘れ、しかし読み取ったことは忘れず、いつまでも炸裂の寸前で停止している。型通りに動く、歩道の指図に従う、作りあげられた画面の端々で嘔吐する。発汗した子供、睡眠する浮浪人、夥しい解説と疑問の弾けて息を止め、奇妙な模様の浮いている頭上で漂う雲や鳥や虫たちの行きつき帰りつく場所――おそらくは誰の目にも映らない狭間――地図上には存在しているものの黒すぎる目には映らない微細な衝動、概念、水泡、輝く水泡、鼓動する水泡、決して消滅することのない白色の水泡に自らの漆黒を強められた街のなか、交差する信号を拒絶し、また同じ信号を発する街の眼差しを繰り返し、繰り返し、繰り返す反復はさながら不明な文字列のようで、少なくとも人が、僕たちの筆跡を無視する限り、街は街であり続ける想像、空間、頭蓋に穿たれたピンボール大の綺麗な、誤差のない穴から漏れ出てくる緩慢さ、もうそれ以上同じことをひたすらに続ける勇気などなくとも――激怒が粉砕する骨格を埋めつくしていようとも――すぐさま新しい、それでいて同様の労働が課せられる循環、観察される循環、腐敗した路肩に転がっている黒い塵袋の中身や捻らない蛇口のパイプの奥底や舗道に繁殖するマンホールの直下やすべては容易く述べられ写され恐れるものなどなにもなく、突然の既視的な痛みさえも忘れてすぐそこの新たな事実に期待し、高揚し、訪れない出来事に諦めを覚える。これまでの歴史、様相、生成と滅却を何度も繰り返してきた結果としての街の様相は、重力を焼き払った過去の自分を隠し生きる街の涯から涯まで巡り、分析し、あるものが壊れ、あるものが直され、あるものが風化し、あるものが生まれる激烈な螺旋の形容をそのままに色濃く濃密な匂いは身体の芯まで染みこみ手遅れだ、もう意識しないではいられない――それでいてことごとく焦点のあわない――透明な規律、実感のない規律、流れる川の遠く静かな基調音にも似ている、いや似ていない、いや似ている、いや似ていない、いや似ている、いや似ていない理解を求める、訂正を求める、肉体を反芻して歴とした痛みを味わってほしい。轟くもののなにもない地表に回転はくすぶり、機械の回転はくすぶり、一本の体系をなびかせる、種類や速度を見失う、車体番号も見失う、依り代も見失う、暗さでなにも見えない、あることだけがわかる、いやそれもまた足りない、それもまた足りない視力は足りない、もうすぐあふれる、解体があふれる、もうすでにあふれている、沈黙さえもあふれている。あの遠い振動が聞こえるか、いやまったく聞こえない。あの発光する輪郭が見えるか、いやまったく見えない。あの多くの添付がわかるか、いやまったくわからない。街の外へ追いやられた事実がなんであったのかすらも今ではわからない。報復しようともその根拠が見当たらない朽廃した状況下、遺骨を集めて切り貼りする味気なさを噛み締め――捨て去ってしまえばいいのか、川底に沈めてしまえばいいのか、発火装置を手にして自発的に焼却すればいいのか、煙の濁った隔絶を見あげて――すでに出つくした構成を顔面に見いだす。人間の、五感や思考に見いだす。答えは出ている、美しい模範をなぞって、露光の行き過ぎた画面を瞳孔に刻まれる。はっきりと、白く消し飛んだ匂いや触感――あと数分も経てば緩やかに崩れ落ちるままに補正され、あっさりとした空き地となって荒みゆき、すぐさま新たな風景が、過去をぬぐい去るかのように定型的に、それこそ美しく、それこそ完璧なまでに立ちあがるのであろう老朽化した油性の記述のなかにある、それこそさらに老朽化した、というより息絶えた腐乱死体のような面持ちの廃墟――おそらく生まれた瞬間の、あの晴々しい新鮮な興奮をまとった瞬間には太陽のあらゆる輝きによってあふれ、多くの視線を集め、期待をもしくは希望を全身表層部分に差しこまれ、それらをゆるやかに受け入れはたすほどの頑強なる力を発し、今もそこにかつて住んでいた一定数の男女共々の記憶の奥底に、懐かしさをもって時折反復され、磨きあげられているのであろうアパートのすでに直視されることのない風景の残像は、眼球の視神経の裏側にまで刺さり至る痛み、吸収される痛み、健やかなる痛み、突き抜けそうな痛みとなって眼球の薄い皮膜の奥の黒い内部を反転させる、ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐると模様だけが渦巻いているのがわかる。白い模様、黄色い模様、赤い模様、色の反転している模様の反転しては沸騰し、沸騰しては湾曲する表層部分に連なって無数の筋の入った虹彩が肥大化し、膨張し、瞳孔の小さく縮まっていく感覚が自然と少年の瞼を閉じさせる。ベランダから投棄された縫合糸。隠蔽された多重露光の配線。あきらかに異質で硬直した扉のついていない入口を横目でそっと覗きこんでみると、扉は蝶番から一息に引きはがされたかのように失われていて――ねじまがった金属の、変色した物質性の強調の、ほとばしり暴発した緊張感――そっと足音をたてぬようにして玄関へ入り、細く狭い廊下を進んで、土足のまま進んで――埃まみれの台所、テーブル、黒い油だらけの換気扇、青いタイル張りの浴槽に、曇った窓ガラスの蒸し暑さ、ところどころ穴のあいた襖の向こう側の、湿っていぐさの抜け散らかった畳のうえに座っている老人の、沈澱した泥のような匂いを少年は、噎せるように吸いこんで、背骨の中枢深くへ鉄骨が、冷たい歯痛のような鉄骨が、さらさらと流しこまれて血液の、微細な成分と反応し、錆びつき、集約し、硬直した指先や胴体や肩や腕や首や太股や舌先や足裏の力み過ぎて動かず、しかし視線の合致を避けたい一心で――視線の不可逆な承認を求めて――金属製の部分とプラスチック製の部分の温度がなにかしら違うような気がしてならないカメラを構えて、脂まみれの鼻頭を押しつけ、ファインダーを覗き、シャッターを押そうか押すまいかと震える腕の反発や緊張に耐えながら、判断の迫られる瞬間には決して感じられることのないようなカメラの重みの絶え間なく、伝わってくる幅1センチ程度の長めの紐の、存在している意義も役割も忘れてカメラを構えて、四角く見えづらいファインダーを覗き、自分だけの価値ある一瞬を一瞬として提出しうるその時を迎えた眼球、高ぶった眼球に映る青黒いというか紫の、斑模様が産毛の間からぞろぞろ、ぞろぞろ覗いて見える皮の弛みきった腕や、足や、子供が遊び引きちぎってしまった弾力のある、それでいて壊れやすいゴム製玩具の欠片のような、毒々しい化学的な色をした唇や、斜めに丸く、深く、黒い鼻孔の大胆にあいている、後づけされたかのように不自然に、顔面の中央で高まっている鼻柱やその左右にくっきりと、まるでペン先かなにかで繰り返し、何度も、同じところを力強く、根気強くなぞって、押しつけて、行ったり来たりさせることで結果的に、必然的に生じたかのように思えるくらい片側へ、つまり頬の側から口元へ覆い被さっている皮膚の成す断層としての皺は、顔全体を埋めつくすように取り巻き、頬は足りない食事によって窪み、瞼の裂け目は限りなく細められて光を通さず、額は広がり、耳は萎縮し、眉毛や頭髪はどれも脱色が目立っている修復不能な老人の、ゆっくりと立ちあがる動作動作を確認して思わずカメラを下ろすと、干からびた指先が突然、奇妙に素早い速度で伸びてきて、レンズの部分を掴み握りぐいと引っ張る力は少年の、はてしなく及ばない力で、握り引き寄せ動転する少年は咄嗟に無意識にカメラを手放すとするり奪われ手段は永遠に額縁の枠外へ滑りこみ、視線のまったく一致する呑まれる爆ぜるカメラを構えて、衰えた腕の、筋肉に鞭打って、長らく使われていなかった神経をなぞるようにして覗くファインダーの先のぼやけた少年の走り去る姿を、足音を、虚しさを噛み締め、しばらく呆然とした後に、まるで打たれたように、まるで思い出したように、まるで急き立てられたようにいぐさの抜け散らかった畳の上でふらつきよろめき立ちあがり、左右の裸足を引きずりながら進み、ところどころ穴のあいた襖の向こう側の台所、テーブル、黒い油だらけの換気扇、青いタイル張りの浴槽に曇った窓ガラスの蒸し暑さ、手遅れと再生のあらましの拮抗する呼吸で部屋を出て、玄関を抜けて開かれた光の強さに目が眩み、そこから見える白く白濁とした風景を、幾重にも折り重なり白濁とした風景を限りなく、そこはかとなく感知せず、まるで演じているかのようにさえ思えるひたむきさで進み、通路を進み、様々な人々の、様々な生活の、様々な記憶の充満していつまでも消えることのない集積、ありふれた集積、満ち満ちた定式の充満している個室をいくつもいくつも過ぎて、なにもかもが予測されていたかのような巧みさで朽ち果てていく廃墟の内部を消費し、階段を降りて、転げるように降りて何度か転倒し、直角に足や鼻を痛めて、既に炭化しきった皮膚は衝撃に耐え切れず、繊維の砕けて破裂する骨や血管のそれぞれの本来あるべき状態が凝固する血液によって浸されて、それでも目立った変化なく、そのまま進み行き、暗闇の明るさの冷たさの暑さのこもった四方の壁の反響する呻き声を発して誰にも聞かれず、誰にも見られず、発する老人はさらさらと一方向に波打ち揺れる胸の高さまで生え伸びた緑色の葉々の必要以上に尖り尖った視界のなかに出て、刺すような日光の直射を浴びせられ、ぐいぐいと進み続ける不安定な足元は夏の活気によって促されたのであろう植物たちの止めどない成長によって覆われ、長期的な飢えを象徴しているかのように痩せ細り、強ばり、骨張って頭部から眉間にかけてするりとなだらかな隆起が二本、露骨と言ってもいいほど明確に浮きあがってしまっている顔のその二本の隆起の先には擦れて爛れ、なかば腐ったような状態の鼻があり、わずかながらの鼻孔すらも見て取ることはできず、おそらくは呼吸もままならないのだろう絶えず口を開いて舌を垂らし、その垂らした舌も口を開くことで覗く歯茎も同様に腐ってしまっているのかどうか、その色は奇妙に赤紫を帯びていて、健康な淡紅色からはほど遠く、病の患って死にかけている犬の無機質な視線にも気づかず、いや違う、それがひとつの過程として述べられることそれ自体がなんらかの欺瞞、援助となって老人の傷ついた足や聴覚をなだめているそのことからして意図が、垂らした舌も口を開くことで覗く歯茎も同様に無視し、盲目的抑揚で進み、進めば、進もうとする意志が働いているのであろう眼前に銀色の鉄製の格子状の雨風にさらされて、防腐用の灰色の塗装も破れ欠け、茶色と黒の混ざったような色や手触りをしている刺々しい高さ2メートルほどの簡易フェンスが太陽に熱せられて細かく弾け、重い、分厚い熱をまとっている境界としてあらわれ、触れては押し返し、触れては押し返される境界の堅固な物質に阻まれて、金網を揺らし、指先で揺らし、固定された映像かそれとも連なる瞬間か区別のつかない車道の交錯するタイヤの回転音に流されて        と叫び、というより唸り、というよりささやき、ざわめきによって消え去り、顔面を近づけ、鼻先を擦りつけ、フェンスに付着していた煤のような、灰のような、黒い粉のような汚れは細かい無秩序な皺の谷間にそってこびりつき、     と唱えてカメラを構えて、ファインダーを覗き、眼球を収め、シャッターを切るが切ろうとして切れない、切っても切れない、残せないフィルムの存在が根本からありえず、不確かでありえず、提出された工程表にそって感情は組み立てられていくそのことに反旗を翻す手立ても気力も見当たらず、行っては帰り、行っては帰る意思と欲求の枯渇した肉体をくずおれ腐敗した記憶に重ねて蓄積し、        という言葉を聞いてほしい、指先の爪の先端に触れてほしい、混濁した風景のあの微細な変動を見極めてほしい――残したい、残して君に渡したい、フェンスの向こう側の君に(失われた図面の確かさで生きる君に)渡したい、反復する律動のありふれた、先の読める思いを持って、囲われた閉鎖的地帯の沸きあがり立ち上る空間に依拠して、変換する諦めの微熱を振り払い、        へのささやかな抵抗をこぼして、忘れる、既定の伝達に没して、届かない、光の酸化になびいて――

 

 

それきりもう出会わない、なにも、僕たちに違和感はないままで、


この本の内容は以上です。


読者登録

山本浩貴+hさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について