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江戸の改革

一般には明治維新をもって近代日本の始まりとするが、ここでは明治維新に大きな影響を与えた江戸時代から語り起こすことにしたい。


18世紀、関が原から百年を経た江戸幕府は揺らいでいた。その主な原因は「財政難」である。幕府税収というのは、今日の眼から見ると異常なものがあり、税金は農民、それも米にしか掛からなかった。商人が幾ら儲けても(直接は)課税されなかったし、農民が米以外の作物をつくっても、やはり税金は取られなかった。


これは家康の本国・三河で常識だった米課税を、江戸幕府に持ち込んだものだと言われている。三河では貨幣経済が未発達であり、米が事実上の通貨として使われていたので、米課税が当然だったのである。


江戸初期(17世紀初頭)はそれでも良かったのだが、商工業が発達してくると、米で決算する不便さから、貨幣が通貨として使われるようになる。貨幣経済の進展である。すると税として取り立てた米は、一旦換金しなければ利用できなくなり、幕府や諸藩からの米を換金するために、大阪には諸国の船が集まり、大いににぎわった。


米の換金は別段悪いことではないが、問題は17, 18世紀を通じて新田開発が進行し、米価は下落した点にあった。米価の下落は、米の売却で収入をえていた幕府にとっては、事実上の減収となってしまったのである。


加えて人口増大、贅沢豪奢によりインフレが発生して諸費用は上昇し、幕府の支出もうなぎノボリに増大。収入減と支出増のギャップが、幕府を苦しめだしたのである。


     ☆


これをただすために、八代将軍吉宗は享保の改革を断行(1716 - 35)。自ら倹約を率先して幕府の支出を減らした。現在の感覚からすれば首相一人が倹約したからと言っても、財政再建にはなんの役にも立たないが、江戸時代、将軍家の年中行事への支出は莫大で、それを節約することは、予算節約に大きな効果があったのである。


さらに農村への課税を強化し(定免法。厳密には豊作・凶作に関わりなく毎年一定の割合で課税する制度だが、事実上の増税であった)、参勤交代を緩和する代わりに諸大名からも税金を取り立てた(上米。江戸在住を一年から半年にする代わり、1万石に付き米百石を上納させた)。


これらの諸政策によって、幕府の財政破綻は回避され、吉宗は「中興の祖」とまで讃えられたが、しょせん、お殿様の吉宗は、経済というものをよく知っていなかった。財政難の原因が「米不足」にあると信じ、新田開発を推進した結果、米が余ってしまったのである。


米価は下がり、農民から取り立てた米を売ることで税収を得ていた幕府は、またもや財政難に見舞われることになる。


     ☆


その点、農民は賢かった。彼らはもはや米作りに固執せず、納税分だけ申し訳程度に稲を栽培すると、余力は換金作物に向けられた。綿、大豆、い草、サトウキビ、野菜などの商品作物や、生糸類には税金はかからず、作った分だけ金銭に変えられるため、余力のある農民はこぞってこれらの作物の増産に努めたのである。


(かつては江戸時代の農民は食うや食わずの貧農だらけだったと言われたが、現在ではすくなくとも大都市近郊や、特産品をもつ農村は富み栄えていたことが分かっている)


増産された綿からは肌着が作られ、大豆からは豆腐が造られるなど、商工業が発達。経済は活性化した。


これに眼を付けたのが、老中・田沼意次である。彼は財政再建に商人の力を利用することを考え、問屋や株仲間などのギルドを作らせて商人の特権を保護する一方、商人らから税金(運上金)を取り立てた。


これによって財政は一息つくことができたが、幕府と商人の緊密なつながりは賄賂や不正の温床となり、また武士が士農工商最下層の商人と利を争うのは意地汚い、として田沼の重商主義は保守派の反感をかい、やがて彼の息子は惨殺され、改革(1772 - 86)は潰されてしまう。


田沼を葬った老中・松平定信は寛政の改革(1787 - 93)を行い、重商主義とは真逆の農本主義を採った。定信は倹約令を出して庶民にまで倹約を徹底させ、出稼ぎを制限して、自国を離れていた農民らを農地に戻し、農業を振興させた。そしてさらに棄エン令を発して旗本・御家人の借金を整理した。


旗本・御家人とは将軍直属の家来であり、幕府は彼らを養う義務があった。その数は、旗本三千騎といわれているが、実際には旗本は5千人、御家人は2万人もおり(18世紀)、そのほとんどは何も生産しない、純粋な寄食階級であった。


むろん何人かは官僚として勤務していたが、官僚機構と呼ぶにはあまりに簡素であった江戸幕府では、2.5万人もの官僚は必要でなく、おおくは無為徒食の日々を送っていた。


これらの余剰人員を養うことも、幕府には大きな負担だったのである。そして給与を削りに削った挙句、旗本・御家人らは借金に手を出し、クビが回らなくなっていたのを、定信は救済したのである。


ところがこの「借金踏み倒し」は、旗本・御家人らにはマイナスに働いた。踏み倒された貸し元らは、最早金を貸さなくなったからである。これに当初は歓迎していた旗本らも、次第に改革を疑問視するようになった。


また寛政の改革は諸事の出費を抑える「デフレ改革」であり、経済は冷え込んで商人らの反発をかった。そして最後には、質素倹約を嫌った大奥の策謀により、定信は失脚したとされる。


     ☆


けれども財政再建の必要性は誰の眼にも明らかであり、1833年に天保の大飢饉が起こると、農村は疲弊し、物価は高騰。財政はさらに悪化した。これに対して水野忠邦は天保の改革を行う(41 - 43年)。彼は寛政の改革を手本として、倹約令、物価統制令を出して物価高騰に対処。都市に出稼ぎに来ていた農民らを送還して農業を保護。仕上げとして「上地令」を出した。


上地令とは、江戸と大阪周辺の大名らの土地を取り上げ、代わりに別の土地を与えるというものである。理由としては、当時、アヘン戦争(1840 - 42年)が勃発。日本周辺にも西洋船が出没していたことが挙げられる。


水野はこれを危惧し、江戸・大阪の軍備を固めようした。だがこれらの地域では天領と私領が複雑に入り組んでおり、軍隊の移動にも支障があったので、一元管理するために私領を廃し、天領に統一しようとしたのである。


また裏の理由としては、土地を自由自在に取り上げることで、創設期のような「強い幕府」の再現、天領より収益の高い私領を没収することによる税収増も、目的だったといわれる。


これに驚いたのが、幕府自身であった。幕閣・旗本の中には、江戸大阪に土地を持っているものがおり、彼らは一致団結し、こぞって水野を糾弾した。さらに、もともと食えないから都市に出稼ぎに来ていた農民を、強制的に送り返したところで餓死者を増やすことにしかならず、物価を統制して無理やり下落させようにも、商人らは売り惜しみに走るだけで、解決には至らなかった。


結果、水野は失脚。天保の改革は大失敗の烙印を押され、3年足らずで終わってしまう。だが他藩では改革に成功したところもあった。薩摩と長州である。


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薩摩と長州

 

薩摩藩は、関が原で敗退したわりには、取り潰しを免れた数少ない藩の一つである。それは関が原で薩摩武士が見せた勇猛さが、家康を恐れさせたからだと言われている。


1600年、西軍として関が原に参陣した島津義弘は、戦いの趨勢が決まった後、降伏を選ばずに戦場脱出を決意。脱出ルートに当たる伊勢街道に出ようとしたが、その前には東軍が布陣していた。そこで義弘は敵中突破を敢行する。




意表を突かれた東軍は義弘の突破を許し、また追撃しようにも、軍というものは集団で動いており、急な方向転換は難しかった。だが体勢を整えた徳川方は、追撃に移り、島津に迫る。


そこで島津は「捨テガマリ」戦法を繰り出す。これは数名の兵士に鉄砲をもたせて置き去りにし、殿軍を努めさせるというものである。当然置き去られた兵士らは全滅するが、その間に本隊が逃げ落ちるという、「トカゲの尻尾切り」作戦であった。


一般に当時の日本では個人主義がよわく、個人の命よりも、一族郎党の存続を先に考える風潮があったが、古代の風をつよく残す薩摩では、それが極端であった。


これに徳川は苦戦。徳川家きっての武闘派と謳われた井伊直政も、銃撃を受けて負傷。この傷が元で、後に死亡したという。だが島津方も、義弘の甥で、朝鮮の役で名を馳せた勇将・豊久が戦死するなど、軍団は壊滅寸前であった。


井伊直政の負傷を知った家康は、戦争も完全に終結していない今、深追いする愚を避けて追撃停止を命じたため、義弘は九死に一生を得て、戦場離脱に成功。伊勢街道を南に走って大阪方面に出て、船に乗って帰国した。帰国途中、豊後水道では黒田如水とも一戦を交えたが、彼自身は無事、逃げおおせた。


彼が連れて行った千の兵のうち、生きながらえたのは、ほんの八十余名にしか、過ぎなかったという。


     ☆


帰国後、義弘は防備を固め、徹底抗戦の意を示した。幸い関が原で消耗した兵は一千のみであり、薩摩本国にはなお、兵一万余が健在であった。


これに対し、家康は九州諸大名に命じて薩摩征伐を行わせる。加藤清正、黒田如水ら、諸大名は3~4万の兵で薩摩国境に押し寄せるが、一千の兵で十万の東軍に立ち向かった薩摩兵の勇猛さは広く知れ渡っており、大名らは乗り気ではなかった。


当時は豊臣家も健在であり、薩摩を強引に攻めて徹底抗戦に持ち込まれたら、豊臣家になびく大名も現れかねない。そもそも清正も如水も、元は秀吉の家臣であり、いつ大阪方に寝返りを打つかも分からなかった。


慎重な家康のアタマをよぎったのは、小牧・長久手の戦いだったろう。関が原を遡ること16年前。信長没後の天下をかけて秀吉と家康は対戦した。大軍を擁する秀吉は圧倒的に有利であったが、野戦上手の家康は戦局を有利に運び、持久戦となった。


四国・九州・関東以北を統一しておらず、配下の諸大名も完全に掌握してなかった秀吉は、妥協。家康が臣従すれば、領土を保全するという交換条件を持ちかけた。これを受けて、秀吉は天下統一を達成したのである。そして家康に対しては、関東への転封を命じて力を殺ごうとした。


そのアイデアを家康はもらいうけ、島津との正面対決さけて、これを許した。ここに徳川300年の安泰が開かれたと言っていいだろう。その代わり家康は、搦め手で薩摩を弱体化させようと目論んだ。


参勤交代である。


部下の妻子を自分の城下にとどめて人質とする一方、部下には勤務地と城下を往復させるという部下統制法は、戦国時代から行われていたが、これを制度化したのは徳川幕府である。


江戸と国元との往復には、莫大な費用がかかった。特に江戸から最も遠い場所にある薩摩家では尚更である。費用を切り詰めようにも、家格に見合った行列人数や格式が押し付けられ、予算削減には限界があった。とりわけ薩摩藩は徳川家に次ぐ家格が設定されており、「身に過ぎた家格」が藩主を苦しめていたのである。


藩主の浪費もあって薩摩藩の借金は雪だるま式に増え、天保のころには5百万両を突破。もはや誰も金を貸してくれない事態にまで落ち込んでしまっていた。


この緊急事態の打破を任されたのが、調所広郷(ずしょひろさと)である。調所は茶道職という低い身分であったが、茶道職は藩主らと会話する機会も多く、気に入られれば出世ができるという利点もあった。


調所は隠居していた前藩主・島津重豪に見出され、出世を重ねる。家老に上り詰めたのが1838年、63歳のときであった。


彼の打ち出した解決策とは、「借金の250年分割返却」である。


分割返済とは言うものの、早い話が「踏み倒し」である。これに怒った貸し元に、調所は「そなたが返済を受けなくとも、そなたの子孫が受けるではないか。孫子(まごこ)大事と思え」と、しれっと答えたという。


それでは、と思って証文を取り出そうとして、貸し元は思い出した。先日、調所が「借金があまりに多いので、証文を借りて整理したい」と言って、証文を借りていったことを。つまりは仕組まれた罠だったのである。


幕府に訴え出るも、すでに薩摩藩は幕閣に手を回しており、結局、貸し元は泣き寝入りする他なかった。無恥厚顔な振る舞いではあるが、これによって財政は立ち直り、平行して行政改革、商品開発が行われていく。


調所はサトウキビに着眼。当時、庶民にまで茶道が広がり、茶菓子などで砂糖の需要は鰻登りであったが、日本では砂糖が採れず輸入に頼っていた。これを知った調所は奄美大島などでサトウキビを栽培させて、巨利を得た。


また属国であった琉球を通して密貿易を行い、これまた莫大な利益を獲得。これらの政策により改革から10年ほどたった1844年には、50万両もの金子をたくわえるに至った。


だがその功労者である調所は、48年、73歳で自殺して果てた。その裏には、島津家の跡継ぎ争い「お由羅騒動」があったとされる。


     ☆


藩主斉興には、正室の子である長男・斉彬(なりあきら)と、側室お由羅の子・久光がいた。側室可愛さから斉興は久光を跡継ぎにしたいと考え、開明派で浪費的な斉彬が藩主になれば再び財政が悪化する、との恐れから調所も久光を推していた。


しかし藩内には英明な斉彬を推す声も強く、斉彬派は密貿易の一件で調所を糾弾。これを自殺に追い込んだばかりか、お由羅、久光の暗殺をも試みた。


これを知った斉興は斉彬派を処刑。お家騒動の収拾を図ったが、時既に遅く、騒動は幕府の耳に届いていた。幕府は、斉興に責任を取らせて隠居させ、嫡男である斉彬を藩主とした。これがお由羅騒動の顛末である。


家督争いに勝利した斉彬は調所一族を冷遇したが、調所が蓄えた資力そのものは大事に使い、これをバックに、洋式武器・技術を導入。富国強兵政策に乗り出していくのである。


ちなみに大久保利通、西郷隆盛、ともに斉彬派に属しており、お由羅騒動のさいには、大久保は父が島流し、自分自身は免職と、苦難に陥った。そのとき彼を援助したのが、西郷である。ここから薩摩の二大巨頭の親交が始まるのである。


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さて、おなじく天保の改革を成功させた毛利家は、関が原の戦いでは石田三成に与し、当主・輝元は西軍総大将を務めた。そして自らは大阪城に詰め、関が原には従兄弟の吉川広家らを送った。


しかし広家は、領土保全の密約を徳川方と交わしており、関が原では終始動かず、東軍勝利の一因をなした。


戦後、広家に徳川方から手紙が送られた。それには、褒賞として彼に「周防・長門の二カ国を与える」と記されていた。だがこの二国は毛利家の領土である。訝しくおもった広家は手紙をよく読んでみると、そこには「毛利本家は取り潰す」と記されていた。


西軍の総大将であった毛利家を許すつもりは、ハナから家康にはなかったのである。


これに驚愕した広家は家康に泣きつき、自領となった周防・長門を毛利家に譲る許しを得た。戦前、毛利家は120万石を有する大大名であったが、40万石と1/3に減らされてしまう。


また周防・長門は毛利家が本拠とした広島地方に比べると経済力が低く、加えて幕府は萩という辺鄙な場所にしか築城を許さなかったので、これを恨んだ代々の藩主は幕府への復讐を誓ったといわれる。だがやがて貧困化の波に巻き込まれ、倒幕どころではなくなっていく。


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19世紀始め、幕府による天保の改革、調所広郷による薩摩藩の刷新と同時期に、長州藩政の改革を任されたのが、村田清風である。藩校で頭角を現した村田は、小姓を皮切りに出世を重ね、やがて重職に取り立てられて家臣の借金整理に手をつけた。


長州では予算カットの一環で家臣の給与も引き下げられており、借金に苦しむものも多かったのである。この件だけでも一大事だが、加えて借金を貸し付けた商人は藩政にも口を出すようになり、藩政が乱れるという副作用も無視できなかった。


これに対し、村田は借財を37年間かかって返すという強硬手段を打ち出し、家臣の救済と、商人の影響力排除を達成。さらに諸藩の船が行きかう下関港に着目し、倉庫や取引制度を整えて、そこで商人らに取引を行わせて利益を上げた。


また専売制を解除して商業を活性化させ、密貿易を盛んにするなど、様々な手段を講じて富国に努めた。


村田自身は、借金を強引に整理された商人や、下関に交易の場を奪われた大阪(つまり大阪を天領としていた幕府)の抗議にあって失脚するが、その改革の方向性は受け継がれ、やがて長州・薩摩は「雄藩」として、天下に名を轟かせるようになっていく。


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朱子学から尊皇攘夷へ

 

長州・薩摩に共通しているのは、密貿易が盛んで、海外事情に聡いことであった。その中で彼らはアヘン戦争の情報に接する。


アヘン戦争(1840 - 42)とはイギリスと清との間に起きた戦争で、アヘンを清に売りつけようとしたのを、清が反対。それに怒ったイギリスが軍隊を派遣し、清軍を打ち破った事件である。


結果、中国はアヘン販売を許さざるを得なくなったどころか、その弱体化が衆目にさらされ、列強諸国の(半)植民地化が始まるのであるが、これを知った長州・薩摩は軍備を増強し、外国を排斥しようと企てる。


特に長州では吉田松陰の影響もあり、尊皇論と結びついて「尊皇攘夷」が盛んになった。松陰のベースとなったのは朱子学であり、中国宋時代の思想である。


宋は北半分をモンゴルなど遊牧民族に奪われ、外憂に苦しんだ時代である。その中で生を受けた儒学者・朱子は「漢民族の皇帝こそが正しい王統であり、それを尊んで異民族を駆逐すべし」、と説いた。この考えを後の明王朝は受け継ぎ、モンゴル族を追い出して漢民族による中国統一を果たしたのである。


朱子学は日本でも採用され、「官学」として発展した。江戸幕府がそうしたのは、朱子学のもつ「正統論」が、将軍をトップとする身分秩序の維持に役立つと考えたからである。つまり将軍=皇帝ととらえ、諸侯から庶民までがそれを尊んでいれば、幕府は安泰というわけである。


朱子学は諸藩でも流行し、とりわけ儒教に強い関心をもっていた水戸光圀はこれを奨励し、多くの儒学者を召抱え、議論や書物の編纂を命じた。水戸学の始まりである。


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その中で朱子学は純粋培養され、官学とは違う方向を歩むようになる。それは、中国の皇帝とは単なる統治者でなく中華文明の権化でもあるのだが、日本でそれに当たるのは将軍よりも、むしろ天皇だということに水戸の学者らは気づいてしまったのである。


ここに日本で尊ぶべきなのは天皇であり、将軍でさえ、それに従うべきだという「日本型尊皇攘夷論」が誕生する。


(突き詰めれば日本も東夷(異民族)であり、漢民族ではなかった。だから中国の朱子学を厳密に適用すれば、天皇とて中国の皇帝には服従しなければならない。この矛盾を克服するために、「天皇は中国人である」という珍説までうまれた。


一方、日本と同様に朱子学を導入した朝鮮半島では、異民族というハンデを「中華文明と道徳の正当な継承者」という方向で解決した。つまり明の後に中国を制した、満州人による清王朝は、中華文明を正しく受け継いでおらず、正しい継承を行ったのは朝鮮である、と考えたのである。「中華」という概念は人種というより、文化的な概念なのを利用した解釈である。


この考えは日本でもあり、光圀などは、満州人によって滅ぼされた儒教的道徳を自分が保護している、との矜持があったという)


朱子学は陰陽二元論から説き起こして、宇宙と人間社会の原理を体系的に説き明かそうとした壮大な試みであるが、思索的であり、実践的ではなかった。そのため明代では朱子学を実践的観点から批判した王陽明が現れ、「行動する思想家像」を確立した。


朱子学では物事の原理を窮めてから、行動に移るべしと説く。そのため王陽明は当初、「竹の理」を窮めようと竹林の前で不眠不休に瞑想を行ったが、竹の原理を得るどころか、鬱病に陥ってしまった。そしてその反省から、行動しながら考えるという実践主義を説いた。これが陽明学である。


明末清初になると、王朝交代の騒乱を避けて多くの儒学者らが来日し、朱子学や陽明学を日本に伝えた。中でも陽明学者の朱舜水は水戸光圀に招かれて陽明学を伝授し、水戸学の発展に大きな影響を与えた。


そして心学などの影響をも受けて、「行動の中で尊皇攘夷の理想を達成する」という、革命像が出来上がっていくのである。


大塩平八郎の乱も、その文脈で語られる。大塩は大阪の与力で、陽明学の徒で、清廉潔白で知られていた。天保の飢饉のさい、商人らが米価を吊り上げて庶民を苦しめるのを見かねて、上司の東町奉行と鴻池(大阪の大商人)に救済を訴えたが無視され、遂に武力蜂起して両者を殺害し、幕府と商人が所蔵する米を放出させて、庶民をすくう決意を固めた。


蜂起自体は仲間の密告により失敗。大塩も隠れ潜んでいたところを通告され、自爆して果てた。


しかしこの事件は幕府の思想体系を大きく揺るがした。何しろ与力というれっきとした幕府の役人が、武装蜂起というかたちで幕府自体を否定したのである。幕府の公認朱子学によれば、与力は奉行を敬い、奉行は将軍を敬うことで、社会秩序の安定がが保たれるのだが、大塩が上司の奉行の殺害を企てた時点で、秩序は根本から崩れたのである。


それを可能にしたのは、儒教のもつ「革命思想」であった。現代でこそ儒教は封建的、身分秩序の桎梏、というイメージが強いが、それは朱子、とりわけ日本に輸入されて官学と化した朱子学のもので、原始儒教はむしろ自由闊達なエネルギーをもっていた。


たとえば戦国時代の儒家・孟子は主君が暴虐であるならば、これを打ち倒して新政府を樹立しても構わない「易姓革命」を説いている。これは武王が殷王を殺害して周を建国した事実を説明するために編み出された理論だが、これを受け入れるとなると、たとえ将軍であっても、それにふさわしい振る舞いをしなければ殺してもよいことになる。


むろん、大塩はそこまでは言っておらず、あくまで悪逆な役人商人へ「天誅をくだす」としか述べていないが、その主張をつきつめていくと、倒幕に行き当たるのである。


そして諸藩、とりわけ長州藩では、吉田松陰が中心となって、尊皇と革命思想をすり合わせた「尊皇攘夷・倒幕」運動を開始させる。これは実践的な陽明学の影響を受けて、幕府の武力打倒をめざすものであった。


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