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 ドッ、ドッ、ドッ、ドッ……。
 最初は、何のことはないわずかな衝撃だった。次の瞬間、激しい縦揺れが下町の木と紙でできた家屋を一瞬にして叩き潰した。

 大正12年9月1日11時58分。

 関東大地震である。
 ちょうどお昼のご飯を作っている時間帯。炊事の火の上に木の家が覆い被さった。至る所で火の手が上がる。地震の第一撃を何とかしのぎ、避難所に集まっていた人たちをも火災旋風が飲み込んだ。本所区、深川区、浅草区など(現在の東京都江東区、江戸川区など)東京市の南東全域が火の海に沈んだ。

 このとき、三島海雲は恵比寿にある彼の会社・カルピス製造株式会社の本社にいた。会社にはさしたる被害もなかったが、電気も水道も止まっていた。電信・電話も不通で、ラジオ放送もまだ始まっていない時代であり、被害の規模がつかめない。丸の内、霞が関、内幸町の界隈も瓦礫の山、「不燃」を売りに鳴り物入りで建造された煉瓦造りの警視庁の庁舎でさえ炎に包まれようとしていた。何が起こったか正しく把握し、皆に知らせることができる者は誰もいなかった。号外も出ない。この日、帝都のマスメディアは死んだ。三島もただ不気味に東の空に立ち上る入道雲を見上げながら胸騒ぎを覚えるだけだった。
 しかし、その日も夕方から夜になると、火災から逃れてきた人の口から断片的に震災の状況が伝わってくるようになった。三島は、増上寺に避難した人々が池の水を汲んで米をといでいる、という話を聞くなりそのとき会社の金庫にあった金を全額つかみだしていた。
「この金でトラックを借り、きれいな水を配るのだ」
三島はこの会社を興す前、清朝治下のモンゴルで事業を営んでいた。そのときに不衛生な水がどんなに恐ろしいかを身をもって体験した。地震と火災で多くの人が亡くなったのだろう。その遺体がまだ埋葬されていない同じ場所で、皆が溜まり水を汲んで飲む……。その年の東京は残暑が特に厳しかった。そうでなくてもこういった被災地には疫病が発生しやすい。
 自らも飛び出そうとして、ふと立ち止まった。
「そうだ。どうせ配るのなら、ただの水ではなくカルピスを混ぜ、氷を浮かべた水を配った方がいいんじゃないか? 疲れたときに甘いものを飲めばホッとするし、力も湧いてくる」
思いついた次の瞬間には、そのとき本社にあったカルピス原液を残らず被災者に配るように指示していた。
 三島は自分の作り出した製品に絶対の自信を持っていた。

(なにしろ、これこそモンゴル帝国が世界を席巻する原動力になった食物だからな)




※本所区の死者が突出しているのは、陸軍被服敞跡地で火災旋風に巻き込まれた38,000人の焼死者を含むため。横浜、小田原等でも火災が発生し、関東大震災の死者は全国で10万人を超える。




 三島は25歳の時大陸に渡った。明治35年、少しでも野心のある日本人なら誰でも大陸にあこがれを持っていた時代のことだ。最初は中学校の教師をし、やがて商売を始めた。いろいろな商品を扱ったが、その中で軍馬を買い入れる仕事をしていた事がある。
 現在の中華人民共和国内モンゴル自治区にあたる広大な地域を走り回り、モンゴルの牧民から馬を買い集めた。ただ、牧民から買うとは言っても彼らを治めているモンゴルの王侯たちに無断でと言うわけにはいかない。彼らはチンギス=カンとその兄弟たちの子孫であるボルジギン氏であり、由緒正しい一族らしく清の皇帝と縁戚関係にある。三島は彼らと親しく交流していろいろ便宜を図ってもらった。
 しかし、そのときは時期が遅く、馬はさっぱり集まらなかった。みずみずしい夏の青草をたっぷり食べ、一年で一番馬の身体が充実する秋のうちに牧民は馬を売り払う。三島の行ったのはその後、もう冬が始まろうという時期だったのだ。
 日に日に寒さのつのる中、騎馬で茫漠とした内モンゴルの草原をかけずり回っているうちにいつしか疲労がたまっていたらしい。ケシクテン旗を旅している時に遂に倒れてしまった。小さい頃身体が弱かった三島は、身体を意識して鍛え健康にも気を遣っていたので人並みの体力はあったが頑健な方ではない。ケシクテン旗の王侯ボルジギン氏の許でしばらく厄介になった。滞在中、王侯の奥方が椀に盛った白い食べ物を三島にごちそうしてくれた。
 乳製品には間違いなかった。柔らかな甘みがあり、ちょっと酸っぱかった。初めて口にした味なのになぜか懐かしい。弱った胃に優しく染みこんでいくようだった。
 驚くべき事に、食べているその間にも頭にこもっていた熱がすーっと消えていくのが感じられた。
「これは……。これは、いったい何という食べ物ですか?」
三島は感激して尋ねた。
「ジョッヘといいます」
「ジョウヒ……?」
と、日本人、三島の耳には聞こえた。作り方を聞くと実に簡単。絞った乳を静かにおいておくだけだという。

 牛乳でも羊乳でも、搾った乳を静かに置いておくと比重が軽く微細な球の形をした乳脂肪分が上に浮いてくる。それがクリーム(生クリーム)で、モンゴルでは、クリームが浮いてくる間にも乳桶の中で乳酸菌が盛んに活動して乳酸発酵が進む。だから、乳の表面に層になったクリームをすくい取る時には既に発酵(サワー)クリームとなっているのだ。それがジョッヘである。
 現在の日本では、牛乳の脂肪分が輸送中に分離しないように牛から乳を搾った直後に脂肪球を粉砕して均質化(ホモゲニゼーション)するため、市販の牛乳(ホモ乳)をただ置いておいてもクリームはできないが、乳の本来持つ性質はこのようであり、われわれ哺乳類が地球上に誕生して以来変わらない。そして、チンギス=カンの昔から……いや、遊牧という生活形態が成立してからずっと牧民はこの性質を利用して乳の保存性を高め、様々な味、様々な食感の食べ物を作ってきた。

 毎日ジョッヘを食べているうちに三島の体調は回復していった。そればかりか、困難な仕事に再び立ち向かう闘志がみなぎってくるように感じられた。
(ははぁ。これがチンギス=カンの騎馬軍団が世界を席巻した原動力なのだな)
滋養がある上にこの上なくおいしい。三島の生家は西本願寺系のお寺であり、自身も僧籍にあったので、これが仏教で最上のうま味と言われる「醍醐」(サルピルマンダ)なのかとも思った。日本では獣肉を食べない時代が長く続いたので酪農業はすっかり廃れており、醍醐の作り方も失われて久しかった。

 三島の大陸での事業は、大もうけしたり大損したり平坦ではなかった。たまに書く手紙も満足に届いていなかったらしく、遂に家人は心労で倒れてしまった。大正4年、三島は大陸での事業をすべて清算して帰国した。
 日本に帰ってからしばらくは看病に専念した。その間にも、三島は次にどんな事業を興そうかと色々構想を練っていた。何より家族を食わせていかなければならない。

 そんな折。三島はヨーグルトなるものを食べてみた。ヨーグルトは「長寿の妙薬」といううたい文句とともに明治末期に日本に紹介され、この頃わずかだが市販されるようになっていた。
(たいして美味くないな。これならモンゴルで食べたジョウヒの方がずっと美味い)
yoğurt(ヨウルト)はやはり遊牧を営んでいたトルコの言葉である。モンゴル流に言えば、ジョッヘを採った残りの発酵した脱脂乳がヨーグルトとほぼ同じ食品だ。モンゴルではそのまま食べるよりも更に加工してもっと保存の利く食べ物にすることのほうが多い。ヨーグルトが長寿の妙薬というのなら、ジョッヘのほうがもっと薬効があるではないか。それにもっとずっと美味い。三島はジョッヘを日本に紹介しなければならない、と思った。仏教で言う究極の味「醍醐」とはきっとジョッヘのようなものだ。これから世界に出て西欧列強と互角にやり合える体力・精神力を養うのに役立つに違いない。……三島は、ジョッヘを「醍醐味」の名で製造販売するために「醍醐味合資会社」を設立した。
 雑誌「実業之日本」に紹介記事が掲載されたこともあり、「醍醐味」は大変な評判を呼び、生産が間に合わないほどだった。当時日本の酪農業はまだまだ未熟だったので、生乳を安定的に確保するのは一苦労だった。その大切な生乳から採れるクリームは、原料の生乳が十としたらわずかに一。原料乳の80~90%が廃棄物になってしまうのだった。豚にやっても食いきれない。処理に困って田んぼに捨てた。すると、
「稲の葉っぱばかり育って困る!」
と苦情が来る始末。
 売れるには売れても、ただでさえ歩留まりが悪いのに、多量の廃棄物を処理するコストがかさむと採算がとれない。結局、「醍醐味」は生産を中止せざるを得なくなった。

 さて、醍醐味製造から見ると廃棄物でも、クリームを採った後の残り物の脱脂乳も優れた食品である。発酵させれば「長寿の妙薬」ヨーグルトになるくらいだから。脱脂乳が有効利用できるなら、醍醐味も併せて採算ラインに乗る。試行錯誤が続く。
 そのものずばり脱脂乳を乳酸菌で発酵させた商品も含め、幾つもの商品を開発して売り出した。しかし、そもそも乳や乳製品を飲んだり食べたりする習慣が皆無と言っていい日本人の舌には馴染まなかったのか、売れ行きは良くなかった。そんな中でも、乳酸菌入りのキャラメル(商品名「ラクトーキャラメル」)はなかなか好評だったから、多くの人が健康に関心を持っており、乳を使った食べ物でも口に合えば売れるのは確かなのだ。ただ、このキャラメルは高温で溶けるという欠陥を改善することができず、生産を終了せざるを得なくなってしまったのである。主力商品を失って、業績は悪化するばかりだった。

 あるとき、思いつきで脱脂乳に砂糖を入れてそのままにしておいた。翌日飲んでみるとおいしくなっていた。天然の乳酸菌や酵母が入り込んで発酵させたものらしい。もう一日おいたものはもっとおいしかった。甘酸っぱい何とも言えないさわやかな飲み物になっていた。


 これはいける。しかし、乳酸菌任せで放っておいたらできたというのでは消費者にアピールしにくい。そこで、日本人には不足している、もっととるべきだと指摘されていたカルシウムを加えた。
 三島はこれにカルシウムと醍醐のサンスクリット語サルピルマンダから取って名前を付けたいと考えた。
(カルシウムの「カル」とサルピルの「ピル」で「カルピル」? なんだか語呂が悪いな)
三島の脳内に「カルピス」という名前がひらめいた。
 よし、「カルピス」だ。カルピスでいこう。そう思った三島は、さっそく作曲家の山田耕筰の許を訪れ、「カルピス」という名前はどうだろう、と相談してみた。
「これは非常に発展性のある名前だ」
山田は三菱や三井の名前を挙げて、会社の発展と名前の音韻には関係があると力説し、カルピルよりカルピスの方が音韻的に優れている、と太鼓判を押した。サンスクリットの権威で仏教界の至宝といわれる渡辺海旭にも相談に行った。海旭は仏教の五味のうち最上は醍醐でサルピルマンダだが、その次の熟蘇ならサルピスというしサンスクリット的にも全然変ではない、良い名だと言ってくれた。

 こうしてできたカルピスは、絶対良いものだと三島は確信していた。日本の人々をたくましく健やかにするものだ、チンギス=カンに率いられ、世界を駆けめぐったモンゴルの戦士のように。
 だから関東大震災の時も、自らトラックに乗ってカルピスを配って回ったのは、被災した人たちの元気になると考えたからだった。それだけの事だった。



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