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販売価格840円(税込)
『覚りの境地』 』 『 『観』 』 『 『功徳』 』 『 『一円の公案』 』 『 『信仰』 』 『 『解脱(げだつ)』 』 『 『仏道の真実』 』 を購入した方は 480円(税込)
カテゴリー 小説・ノンフィクション ノンフィクション 作者 SRKWブッダ
価格 840円(税込)
『覚りの境地』 』 『 『観』 』 『 『功徳』 』 『 『一円の公案』 』 『 『信仰』 』 『 『解脱(げだつ)』 』 『 『仏道の真実』 』 を購入した方は 480円(税込)
タグ 仏教仏道ブッダ覚り修行感興句
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価格改定しました。 → ¥840 (すでに購入いただいた方、ご了承くださいませ)

  もろもろの如来、つまり生き身の仏は人々の問いに応えて理法を説く。いわゆる説法である。しかし、説法はどうしても説教じみたものになってしまう。と言うのは、衆生たる人々の問いは未熟で、本質・核心に迫る問いをなかなかなさないからである。したがって、その問いに対する答えも如来の本質をなかなか反映したものにならないのである。

ところで、如来たちは時として問われないのにふと思いを込めて言葉を発することがある。それが感興句である。この感興句は如来たちが発した純粋な言葉のいわば宝庫である。そこには仏の本質、覚りの真相、法(ダルマ)の根本にまつわることがらについての言葉がちりばめられている。

 本書は、釈尊をはじめとする過去の仏たちの感興句を引用したものではなく、現代の仏たる私(=SRKWブッダ)がこれまでに発した感興句の中から修行者の覚りの道に役立つであろう言葉を私自らが抜粋しまとめたものである。聡明な人は、この本に記されたそれぞれの言葉が人智を超えたところから発せられた智慧の一端を表すものであると知って自らの覚りの道を堅固ならしめるであろう。感興句とはそのような働きをもつ言葉なのである。

 本書を読んで覚りの道を歩みを堅固ならしめた人は、発心し、必ずや解脱を果たして欲しい。ただ、それは本で得た知識によるものではなく自分自身の因縁によってもたらされるものであることを忘れないで戴きたい。(PDF640KB) 「読者登録」・「手紙」歓迎します。

【おしらせ】

 ホームページ『覚りの境地』(→ http://www.geocities.jp/srkw_buddha)の涼風通信のパスワードは、本書の目次の次のページに最新版が記載されています。

 姉妹本『覚りの境地』も参照ください → http://p.booklog.jp/book/19730

コメント一覧

とても面白くて夢中で読みました。そして、たくさん付箋を貼りました。一つだけ、『煩悩を見極める』ということばを手帳にメモしました。次の日、目が覚めた瞬間、『静けさ、悲しませない、優しさの追及、ぴったり、楽しく』と心に挨拶しました。素直な心と真摯に向き合い歩みます。
kanabunn : 2014-07-27 14:51:11

ここで言うところの<物質的な存在>とは、現実世界の実相がそうであるという意味ではなく、あくまでも人間が認知する(認知し得る)ところの感覚的感受の総体としての世界観がそうであるということである。したがって、この感覚的感受としての大元の認知は形態(rupa)作用にもとづいてなされているものである。覚ればこの形態(rupa)作用の解脱が起こり、感覚的感受が正常となり、識別作用は止滅するに至る。それを言語表現として「一切の感受が正常となる」と言う。このように理解しなければなりません。
SRKWブッダ : 2012-01-07 12:49:27

ありがとうございます。 世人として僕は、 <一切> とは <物質的な存在> が何らかの作用、機能、状態、関係などとして実現するありさま(事)であると思っております。  <解脱した人は、その一切の認知が正常となる> とは、あくまでもそういう「事」の認知が正常になるという理解でよろしいでしょうか。
bon : 2012-01-07 07:26:52

物質的な存在とは一切のことである。人は一切しか感受することができない。しかもその一切の感受は正しくない。(名称と形態(nama-rupa)によって錯誤している) すなわち、人は眼耳鼻舌身意識(六識)によって知り得ることがらによってのみ世界を認識しているが、それぞれの識による消滅現象をみてこの世界はこのようなものだと考え見なす。仮にこれ以外のことがらによって世界を認知しようとしても、それは構成概念を超えず本質に迫れない。そこで人々(衆生)は、結局はこの世界のありさまについての(形而上学的)断定に陥る。しかしながら、それらは実はすべて虚妄なのである。もちろん、一切ならざるものによって世界を認知することはできない。解脱した人は、その一切の認知が正常となるのである。
SRKWブッダ : 2012-01-06 11:12:07

ありがとうございます。ところで、「感受される物質的な存在についての生起と消滅」と物質的な存在に限定しているわけをお教えください。
bon : 2012-01-06 10:56:27

世人が世の中において感受される物質的な存在についての生起と消滅の様子を見て(形而上学的な)断定を下すというのは、因果にとらわれているという意味である。つまり、因果を知ることでしあわせに到達できると誤って信じていることを指す。 さて、因果はここに明らかな果(結果)があり、あれがまさしくその因であったと当事者に確信され、また第三者から見てもその(当事者が確信した)それがまさしくその因であると考えられるという場合においてさえ、因果を確定することは実はできない。 その一方で、縁起はここに明らかな報(結果)が顕れ、あれがまさしくその縁であったと当事者に確信された場合、その(当事者が確信した)それが真実に縁であったと正しく確定され、それが覆ることはない。それは、第三者に認定してもらう必要のないものであり、それゆえに縁起を識る人には明(みょう)があると知られる。 縁起を知った人は、因果の虚実を識る。しかしながら、因果を思惟・考研してその極限に達しても縁起の真実を識ることはできない。縁起によって無明を破った人だけが因果(のくびき)を超克するのである。 このように理解しなければなりません。
SRKWブッダ : 2012-01-05 09:29:11

こんにちは。以下はp.17からの抜粋ですが、<(形而上学的な)断定>あるいは<世人が抱く種々の断定>とは具体的にどのようなことを指すのでしょうか? そのことが縁起の法と<似て非なるもの>であるとは? ご教示お願いします。 { 世人は、世の中において感受される物質的な存在についての生起と消滅の様子を見て(形而上 学的な)断定を下し、世間のうちに迷っている。もし人が、種々の断定にこだわるならば、かれ がそのままの状態において覚りの境地に至ることはとてもあり得ないこととなる。なんとなれば 、一切世間において観察されるあらゆる生滅現象とそれによって世人が抱く種々の断定は、すべ てが、人をして覚りの境地に至らしめることについての真実(すなわち縁起の法)に似て非なる ものであるからである。}
bon : 2012-01-05 07:22:39

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