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遍歴

 人が不滅の安穏に至るその道はいかなる宗教にも属さない。それゆえに、もし人がやすらぎを求めるのであるならば、世に宗教と名づけられるあらゆる迷妄と妄執の所産からこころを解き放ち、それだけでなく世間の束縛のくびきをすっかりと離れて、世間にあって世間に汚されることなく、よく気をつけて遍歴すべきである。

 「真理」を探求することより大切なことは、世に数限りなく存在する。それでも、修行者は正しく遍歴せよ。それによって、修行者は真に探究すべき大切なことが何なのかを知ることができるであろう。

 名称(nama)に翻弄される者は、虚ろな問いを発する。それは、問いとしての言語的形式を備えてはいるが、空疎で、ニルヴァーナに役立たない。それは、ただ紛糺を増すだけのものとなる。

 名称に翻弄されない人は、賢者である。かれは、名称(nama)作用が名称にもとづいて起こるものであると、こころに識って名称に翻弄されないのである。かれは、問うときには真実の問いを発する。その問いは、世間の何かに触発されて生じたものでは無く、かれのこころの深奥からわき上がった、かれにとってはどうしても解決されるべき、かれだけの問いである。しかしながら、そのかれの問いは、まさしく人類普遍の問いであると認められるものなのである。円かなやすらぎを求める人は、何にもまして、能く問う人であれ。けだし、自ら発する真実の問いこそが、自らの苦悩を終滅せしめるもといとなるからである。

 的外れなことをする者は、最初から的を外していながら、自分では的の中心をとらえているかのように錯覚している。まして、自分が的外れなことをしていると薄々感じつつ、それでもなおかつ、敢えて的外れなことをする人はなおさらあやうい。

 正しい道を歩んでいる人は、そもそも的外れなことをすることがない。かれの行為は、大団円の結末を迎えることになる。それどころか、かれは、たとえ的外れなことを(意識的に)しようとしても、それをわずかさえも為すことが出来ない。かれは、うまくやろうなどとは決して考えないが、明知が為すべきことと為すべからざることとを識り分けて、つねに的の中心を射抜くのである。それは、まるで大地に向かって矢を放つように、至極当然の顛末であったと本人には感じられるであろう。その一方で、的外れなことをする人は、まさに大地に向かって矢を放っていながら的を外し、悲嘆にくれるのである。

 的を射抜くのも外すのも、心構え一つである。それは本来容易なことではないが、聡明な人はそれをまるで容易にやり遂げる。狙うから的を射抜けるではない。狙わないから的を射抜くのでもない。狙わなくとも的は射抜かれるのである。心構えの正しさが、その不可思議なことをやり遂げる。

 的外れな行為は、どんな言い訳を用意したとしても空しく、詰まるところ道を汚す行為に他ならない。こころある人は、その愚をさとって諸事の錯乱を慎しみ、以て自らの道を浄めかし。聡明な人は、人と世の真実のすがたを見極めて、ついに究極の立場に立って自らの観を完成せよ。それを為し遂げたならば、的外れな行為を為すことはもう決してなくなるからである。

 こだわりを捨て去ることは容易ではない。なぜならば、こだわりを捨てようと思うその思い自体がこだわりに他ならないからである。こだわりを捨て去るためにこそ正しい遍歴を為せ。

 人々(衆生)は、聞いて心を楽しませ、聞いて喜びを生じる言葉を耳にすることをつねに欲している。それゆえに、人々(衆生)は、覚りの境地に至ることについて語られる言説についても、それは心を楽しませ心を喜ばせるようなものであるべきだと考えるのである。しかしながら、もろもろの如来が人々(衆生)に向けて語る理法や、善知識が世に稀有に発する法の句(=善知識)は、必ずしも人々を楽しませ、喜ばせるものではない。なんとなれば、人を覚りに導く真理の言葉は、聡明で、よく気をつけている、聞く耳をもつ明知の人だけに理解され得る微妙なる言葉であって、それはただ明知の人だけを真実に楽しませ、明知の人だけに真実のよろこびを生じせしめる言葉であるからである。こころある人は、言葉の感覚的感受を喜んではならない。世間に飛び交う何に触れても、高ぶることなく平静であれ。聡明な人は、心を損なうことがないように、よく気をつけて世を遍歴せよ。

 ここなる人が、他の人の所作・言動・振る舞い・態度などを見て、「かれは楽しそうである」と思うよりも 「かれは寂しそうである」とか「かれは悲しそうである」とか 「かれは苦しそうである」と感じたとするならば、それは実にめぐまれたことである。それは、およそ人がひととして生まれ歩む人生において行うべき正しい省察の大いなる糧となり、かれをして自ら不滅の安穏へと導き至らしめる確かな道しるべとなるからである。

 どんなに立派に見えても、見かけ倒しなものは役には立たない。たとえみすぼらしく見えたとしても、真に堅固なものこそがやすらぎに役立つものである。やすらぎを求める人は、揺らぐものに頼った平安に安住してはならない。揺らぐことのない信仰によって揺らぐことのない究極の境地に到達せよ。

 正しい道を知り、その道を歩もうと思った人は預流に入ったと言われる。しかし、それは道の歩みの始まりに過ぎない。せっかく正しい道を見い出しても歩まなければ安らぎには到達しないからである。

 善知識との邂逅を果たし、正しい道を知り、この一なる道を歩もうと思った人は預流果を得たといわれる。預流果は、別の名を”発心”と言う。これは道の歩みのすべてである。預流果の修行者が、あと一歩進んだならば解脱する。しかし、解脱するまでは油断するな。解脱したときには解脱したという正しい知見を生じる。解脱知見を得て初めて解脱したのである。

 いたずらに主張しても、一方的に聞き入っても、この一なる道を歩むことはできない。問うべき人に向かってあり得べき問いを為し、善き人々が発する稀有なる言葉を聞く耳を持つ人だけが道の歩みを堅固ならしめる。愚者が覚れないのは当然であるが、賢者さえも覚りは難しい。聡明な人は、仏の言葉を信じて道の歩みに奮励せよ。

 善かれと思って人々をけしかけ、煽動しても、その結果が善いとは限らない。大勢がその道筋を大挙して歩んだがために、全員が悲惨な目に遭うこともあるからである。しかしながら、この一なる道は果てしなく広くて平坦であり、そのようなことがない。ゆえに、この道を”危険が無い道”とも称するのである。

 最高のものを味わったのに、それが最高のものであると認識できない者の人生は哀れで空しい。かれの人生において、それ以上のものを味わうことは出来ないからである。さらに、もしも中途半端なものを味わって、それが最高であると誤って認識してしまうならば、まさに悪魔の手中に落ちたのである。

 最高のものを味わったのにそれが最高のものであると認識できない者の人生は、哀れで空しい。かれの人生において、それ以上のものを味わうことは出来ないからである。 最高のものを味わったのにそれが最高のものであると認識できない者は、果てしない輪廻を繰り返すことになる。これは遍歴とは呼ばれない。

 最高のものを味わったのに、それが最高のものであると認識できず、むしろそれが最低のものであると認識してしまう者の人生は悲惨で恐ろしい。かれは地獄に堕ちて長い間苦しむ。

 最高のものを味わって、それが最高のものであると認識する人の人生は楽しく喜ばしい。かれ(彼女)は、遠からず覚るであろう。最高のものを最高のものであると素直に識ることそれ自体が、その人に聖求と明知と安らぎへの熱望があることを確かに示しているからである。聡明な人は、理法に則り自ら解脱するであろう。

 経典を読んで分かった気になる。それは実は分かっていない証左である。経典を読んでそれが理解できなくても、真実を知ろうと熱望する人はその理解にまつわる意外な形で解脱を果たす。経典のこの部分で覚ったと明確に知る人もあれば、どこか分からないが経典を縁として覚る人もあるからである。

 経典を読んで分かろうとしないのはまずいが、経典を読んで理解できないことそれ自体は悲観するにはあたらない。経典の真意を、頭ではなく心に理解したならば解脱が起こるであろう。形態(rupa)の解脱者の存在は、それを確かに示唆している。

 焦ったところで覚りにより早く近づくものではない。むしろ、覚りは遠のいてしまうだろう。遠回りに見えても、ゆっくりと邁進する人がかえって覚りに大きく近づく。修行が積み重なって覚るのではない。功徳を積んでいて、「その真実」を知った人が一瞬に覚るのである。

 上手にやろうと思った瞬間に正しい道の歩みを逸れてしまう。覚りに向かうこの一なる道の歩みは、すべからく自分から(恣意的に、思惑を抱いて)動いてはならない。すべてを縁に委ねて、流れに従って歩むべきである。意外に思うかも知れないが、正しい遍歴とはそのようなものなのである。

 この一なる道の歩みには、追い風も向かい風も横風もない。まっすぐに歩もうと思う人は、その通りにまっすぐにニルヴァーナへと近づく。道の障害などど こ吹く風である。まっすぐに歩めない者があるとするならば、心がまっすぐではないために知らぬ間に歩みが曲がってしまうのである。

 自分が到達するべき処を(こころに)はっきりと知っていて、世間に汚されず、欲を御し、悪を制し、けしかけられず、駆り立てられず、見るべきものを見て、聞くべきことを聞き、知るべきことを知って、自ら見い出した道の歩みに邁進する心。それがまっすぐな心である。

 自分がまっすぐに道を歩んでいるかどうかを知りたい人は、次のことを知らなければならない。『紆余曲折に見えようとも正しい遍歴を為す人が、実はまっすぐに道を歩んでいるのである。 』

 道の途中にどんな紆余曲折があろうともそれによって心が混迷せず、(正しい)信仰をたもち、目的の境地が容易に見えなくてもそのことで苛立つことなく、好ましいことに遭遇しても好ましくないことが生じてもそれによって心が汚されることのない人。そのような人が正しい遍歴を為す。

 人生において数限りない悲苦憂悩に出会ってもそれによって煩悩の燃えさかることが少なく、仏に出会うことが無くても自ら到達すべきすがたを見失わず、世間の何に触れても欲望に溺れず、執著を起こさず、心が汚されることのない人。そのような人が正しい遍歴を為す。

 じたばたせず、うろうろせず、あくせくしない人。そのような人が正しい遍歴を為す。

 真実を知ろうと熱望する人が、本当のことを知りたいと心から願う人が、真のやさしさを体得しようとする人が、いかなるひとをも悲しませることのないようにしようとする人が、正しい遍歴を為す。

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あとがきに代えて

 本書は、拙著『覚りの境地』(電子出版:パブー)の姉妹本である。『覚りの境地』では主に覚りの真相とそこに至る一なる道について余すところなく書いた。この本では、覚りに至る道筋そのものではなく、そこに到達した仏がどのような境地に住しているのかを感興句を通じて人々に示し、修行者たちを力づける一助としたつもりである。

 世には、すでに沢山の経

典が存在している。仏縁ある人はそのどれによっても覚りに至るであろう。それでも経典の言葉はその多くが説法形式の理法である。感興句を知ることは仏の内面を知る手掛かりとなり、それぞれの経典の真意

を理解することをいわば内側から支えるものとなるに違いない。事実、私もそのようにして覚りの道を大いに堅固ならしめた経験がある。

 このような理由で、本書は通常の本とは趣を異にしている。本書は単なる詩集ではない。本書は単なる寄せ集めの言葉ではない。本

書は、覚りの機縁の切っ掛けを生じると期待される言葉のモニュメントである。しかしながら、このモニュメントは修行者の心に働きかけて、けしかけられることなく道の歩みに邁進する糧となるであろう。安らぎを求めるこころある人は一読して欲しい。

 なお、本書の現在のすがたは本として一応の完結を見ているが、先の著作と同様に電子書籍による執筆方法の特徴を活かした修正・拡充・増補を行っていきたい。

  2011年3月11日 自宅にて記す      

 

 


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奥付



『感興句』


http://p.booklog.jp/book/22417


著者 : SRKWブッダ
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/buddha1219/profile


発行所 : ブクログのパブー(http://p.booklog.jp/
運営会社:株式会社paperboy&co.


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『覚りの境地』 』 『 『観』 』 『 『功徳』 』 『 『一円の公案』 』 『 『信仰』 』 『 『解脱(げだつ)』 』 『 『仏道の真実』 』 『 覚りの境地(2019改訂版) 』 を購入した方は 480円(税込)

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