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学識

 ありのままに見るのではなく、誤って見るのではなく、見ないのではなく、見て見ぬ振りをするのでもない。かれは、真実の真相を見極める。

 ありのままに聞くのではなく、誤って聞くのではなく、聞かないのではなく、聞いて聞かぬ振りをするのでもない。かれは、覚りの機縁を生じる。

 もろもろの仏典の内容は、至る所が重要であり、同時にどの箇所も重要であるとは言えない。なんとなれば、人は、仏典の記述を見て覚りの境地に至る機縁を生じ得るが、それは仏典に記された言葉そのものによるものではないからである。それゆえに、人が仏典の記述そのものにこだわるならば、それはただちに悪魔の説と化す。その一方で、人が仏典の記述をよく理解して、しかも理解したことにこだわることがないならば、かれにとって仏典はこの世における最上の宝のありかを示してくれる稀有なる地図となるであろう。

 他人の解釈は、参考にはならない。しかしながら、他の人の解釈を読んで、それによって仏典の真意を理解することはあり得る。したがって、仏典を読誦して覚りの境地に至ることを目指す人は、仏典について記された諸説をも平らかに読み究めるべきであると言えよう。人は、経典を転じるべきであって経典に転じられてはならない。それは、このように仏典に取り組むことによって達成されるであろう。賢者は、仏典の記述によってまごうことなき覚りに至れ。

 安穏の近くにあって安穏を知らず、安穏ならざるもの(=苦悩)に安住しながらしかも嬉々として世間を生きて、笑いながら(自らを滅ぼす)悪を為す者。かれこそ<暗愚>と呼ばれる。その者は、豊富な知識によっても、研ぎ澄まされた見識によっても、暗愚を離れることができない。その者は、学識に欠けるところがあるからである。

 聡明な、こころある人は、学識ゆたかな人々とつきあい、以て自らの学識を増大せしめて暗愚を離れ、自らによって自らの明知を輝かせよ。明知によってもたらされる智慧こそが、人の心の闇を破る唯一無二の光明なのである。

 いかに望みが高く、願いが深くとも、誤った見解を奉じていては、その人がやすらぎの境地に至ることは遠いこととなる。かれは、たとえ百人の仏に出会ってその言葉を聞き、千・万人の菩薩と歩みを同じくしようとも、かれ自身の行き着く先は思いもよらない処となる。その一方で、たとえ志が低く、知識が浅くとも、正しい見解をいだく人は、ついに円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと至る。かれは、たった一人の菩薩に出会うことでその一なる道を歩む心を起こし(=発心し)、たった一つの仏の言葉(=法の句)を聞いて心が解脱して、究極の境地へと辿り着くからである。

 世には、純一ならざるものだけが満ちあふれているのではない。智者は、世の雑多なものの中から純一なるものだけを選び取るのである。世は、すべてが迷妄に覆われているのではない。明知の人は、世に稀有に出現する真実のすがたを眼のあたりにして、妄執を超え、ついに目覚めるのである。

 世間において聞き及んだ知識の多寡や優劣などへのこだわりを捨て、正しく混乱と迷いと憂いとを去って、ただ自らの正しい見解によって道を歩め。真実に純一なるものは、そのような人に必ず、適時に開顕されるからである。

 賢い象は、沼地を恐れて近づかない。彼は弱いからそうするのではない。沼地においては、彼の重い体重や大きな身体が利点とはならず、むしろそれは身を滅ぼす要因となることを察知しているからである。このような象は聡明であると言われる。賢者は、悪を恐れて近づかない。彼は弱いからそうするのではない。悪処に身を置いたならば、彼の高い知能も多くの知識も深い経験も役に立たず、むしろそれは身を滅ぼす要因となることをこころに知っているからである。このような人は聡明であると言われる。賢い象は、自らを全うして大地の王者となる。賢者は、自らによって自分自身を解脱せしめて法(ダルマ)の体現者となる。真実の理を耳にして、理に従う人は究極に到達する。安らぎを求める人は、聡明であれ。この真の聡明さは、誰しもが持っている筈のものであるからである。

 聞くだけで安らぐ言葉を知っていて、それを実際に聞くことで心が安らぐ人は素晴らしい。かれは静けさの境地が虚妄ならざるものであることをこころに覚知しつつある。それそのものは一種呪文のようなものに過ぎないが、それを超えて真実を見極めたとき、真の静けさが訪れる。

 ニルヴァーナの楽しみは世の最上のものである。しかし、世の楽しみを知らない人がどうして最上の楽しみを覚知できよう。楽しみを知って溺れず、快楽に堕することなく、心が静まることによる楽しみを知った人はついにこの無上の楽しみを体得する。

 仏の言葉は気休めではない。仏たちは二心なき真実の言葉を語る。それを聞く人の心が安まったならば、それは聞く耳を持つ人の手柄である。

 正しい学びの心を持たなければ、努力を重ね多くの犠牲を払ったとしても目的を達成することはとても出来ない。正しい学びの心を持たない者は、やるほどに悪い癖がつくだけとなるからである。かれの心は混乱し、想いは散乱し、確固たる行為を為すことができずに迷うのである。かれは、ことに臨んでは気が動転し、望ましい結果を出すことができない。かれが長い時間をかけ、精魂傾けた努力によって得た(と思い込んでいる)何某かの知見がいざというときには何の役にも立たないことを思い知ることになる。それどころか、それらは手枷足枷となってかれの自由を奪い、憂いと煩いと苦悩の伏線と化してしまうであろう。

 その一方で、正しい学びの心を持つ人は、目的に向けて行った種々さまざまな努力が時々に応じて無駄なく望みを達成する力として働くことを知る。そして、一見して目的とは無関係に思える努力さえもがかれの望みを達成する糧となるのである。かれは、いかなる犠牲も払うことがなく、損なわれるものも失われるものもない。かれは、そのようにしてついに望みを超えた究極の望みを達成するであろう。それは正しい学びの心の賜である。

 正しい学びの心を持たない人の努力は、なぜ望みどおりに成就しないのであろうか? それは、かれがそれぞれの局面において意識する時々の望みが、かれの本当の気持ち(=<本性>)と合致しないことによる。このため、かれのあらゆる努力は空回りして周りと軋轢を起こすこととなり、心をすり減らすだけとなっている。あるいはまた心が沈んでしまって、学びの継続にさえ支障をきたすこととなる。かれは、自ら作り為した歓喜と悲哀とに束縛・翻弄されており、埒のあかない堂々巡りを繰り返していることを知らない。かれには、疑惑と、不信と、迷いと、嫌悪とが影のようにつきまとい、種々の憂いを生じ、栄えがなく、不吉なことが順次に迫り来ることになる。かれは、ついに望みを達成することなく老死にあってくずおれてしまう。

 もし人が、一切の束縛を脱することを願い、苦悩を滅し尽くしたやすらぎの境地に至ることを欲するのであるならば、学識ゆたかな人々につきあうべきである。学識ゆたかな人々は、学識を増大させようとこころから望む人を温かく迎えてくれるからである。人の学識は、そのようにしてこそ増大し、互いにことわりを聞かせてはひとしくニルヴァーナに至ることになるのである。

 世人は、世の中において感受される物質的な存在についての生起と消滅の様子を見て(形而上学的な)断定を下し、世間のうちに迷っている。もし人が、種々の断定にこだわるならば、かれがそのままの状態において覚りの境地に至ることはとてもあり得ないこととなる。なんとなれば、一切世間において観察されるあらゆる生滅現象とそれによって世人が抱く種々の断定は、すべてが、人をして覚りの境地に至らしめることについての真実(すなわち縁起の法)に似て非なるものであるからである。

 しかし、それだけであるならば、人は一体どのようにして真実を知り得るのであろうか? もろもろの如来は、人は覚り以前においても真実を微かなりとも覚知しその真相を察知することができると説くのであるが...。この尤もな問いには、次のように答えなければならない。 『人は、自らの明知によって真実を覚知するのである。人は、自ら疑惑を超えて、やすらぎ(=ニルヴァーナ)の虚妄ならざることを察知するのである。人が、まさしくそのようにして真実を真実に知ることそれ自体が法(ダルマ)の現れに他ならない。』

 世間においても、何かを人づてに聞き知ってそれを他の人に正しく伝えることができたとき、その人はそのことについて確かに理解しそれを身につけたのだと言われる。それと同様に、出世間のことがらについても、それを聞き知ってその真意を自らの明知によってさとり、たとえその一部であっても他の人に伝えることができたとするならば、かれは諸仏の智慧をこころに理解したと認めてよい。かれは、過去・現在・未来の仏達を供養したことになり、確かな功徳を積んだのである。

 世において知るべきことを知るべきことであるとこころに知り、知るべきでないことを知るべきでないことであるとこころに知っている人。かれが明知の人である。かれは、ことに臨んで、見えないものを見てその真実のすがたを捉え、また聞こえない声を聞いてその真実の意味を知るのである。

 種々さまざまなことを思索・考研することそれ自体が無駄なのではない。こころある人が、時間の無駄を気にしないで一切の想いと思惑とを離れて思索・考研を行なうならば、それは決して無駄にはならないからである。かれの明知が、思索・考研すべきこととそうでないこととを能く弁別し、無駄なことを為させない。人を導く明知は、かれ自身、自己にまつわる不当なる思惟の根本(=我執)を捨て去ったところに現れる。すなわち、明知は、欲望への執著を離れた心に宿るのである。それゆえに、明知にもとづいて為される思索・考研は、世の一切の悪をとどめ、人の心を浄める機縁となるのである。けだし、明知は無住なる心(応無所住而生其心)の発露に他ならない。明知は、それゆえに<明知>と名づけられる。そして、明知は一切の前提条件を離れたところから出現するのである。

 気をつけることは、最上の行ないである。たとえ、今現在それが不完全なものであるとしても、気をつけることは確かな果報をもたらす。それは世間の利益(りやく)には必ずしも直結しないが、功徳を積むこととはつねに大いに関係している。

 欠陥のない言葉によって、あるいは欠陥のある言葉によってさえ、世には完全なものがあると微かでも覚知したならば、その人はついに完全な一体に達すると期待され得る。

 信じていたものが偽物だったと分かると「あれは何だったんだろう?」と思うものである。その時点に戻ることができたとしてもその過ちを犯さずに済むかどうか分からない状況もある。それでも、明知ある人は信じたものに決して裏切られない。真実を見て、それが真実だと知るからである。

 悪に手を貸すくらいならば、何もしない方がよい。それはその通りなのであるが、目の前の善を為さないならば、とても覚りに達することはできないだろう。善悪そのものは絶対的なものとしては実は存在していない。それぞれの人々の心構えいかんによって同じ行為が善にもなれば悪にも堕するのである。

 悪行によって悪を知ることができるかも知れないが、悪の正体そのものを明らめることはできない。その一方で、善行によって善を知った人は善の真相を明らめるに至る。それゆえに、悪行よりは善行の方がすぐれていると知られるのである。しかし、智慧によって法(ダルマ)の全貌を知った人は一切の苦悩を終滅せしめる。これは善悪を超えたものであって、これが最上である。

 善かれと思って為したことが人を苦しめ悲しませてしまう。それでは善行とは言えない。善かれと思って為したことが大団円のなかに終局し、余計な余韻を残さない。それでこそ善行である。何でもない瞬間をまっとうする人は、ことに臨んだその瞬間にも間違えないであろう。そのような人が、ついにこの円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと到達する。

 愚かな者は、言葉にとらわれて自分で自分をがんじがらめにしてしまう。たとえそれが正しい言葉でも、その真意を知らなければその言葉は愚者を地獄へと引きずり下ろす。愚者は、宝の使い方を知らないので愚者なのである。愚かな者を、他の人が救うことはできない。誰であろうと、自分で自分を救うしかない。すべからく、覚りは各自のことがらなのである。

 たとえ世間的に豊かな一生を送っても、この正法を知ることのない人生は空しい。それは決して豊かな一生とは言えないものである。たとえ極貧にあえぎ、糊口をすすいでも、この正法を知ることができた人は豊かである。人は、この正法によってのみ世の最高の境地に到達できるからである。

 ものを知らないと言うことは恥ずかしいことである。愚者は、ものを知らないのに、それでもうまく世渡りできるのだから自分は誰よりも賢いと思っているが、それこそが愚者の明かしである。

 正法を微かさえも知らないのに、恥ずかしいとは思わないのが衆生である。真に恥じることを知らない衆生が、どうして覚ることができよう。善知識は高貴である。その高貴さが、こころある人に恥じることを教えてくれる。恥じた人は真実を目指すであろう。真実を目指した人は、ついに一切の苦悩から解脱する。

 衆生にとって経典は難解である。しかし、難解でもつくり話ではない真実の言葉を聞いて、その真意を知ろうとせよ。それによって、人はその内容を頭で理解しなくても心に理解して、学識を増大せしめ、ついにはこの世で最高の果実を味わうことができるであろう。それを味わった人は、解脱するからである。

 どんなに面白くても、興味深くても、覚りの役に立ちそうな気がしても、つくられた話に心が縛られているのでは、とても安らぎに到達することはできない。下らないものによって学識が増大することはない。つくられたものは、最初は甘いが、終わりは苦く、気づいたときには毒が回っている。

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遍歴

 人が不滅の安穏に至るその道はいかなる宗教にも属さない。それゆえに、もし人がやすらぎを求めるのであるならば、世に宗教と名づけられるあらゆる迷妄と妄執の所産からこころを解き放ち、それだけでなく世間の束縛のくびきをすっかりと離れて、世間にあって世間に汚されることなく、よく気をつけて遍歴すべきである。

 「真理」を探求することより大切なことは、世に数限りなく存在する。それでも、修行者は正しく遍歴せよ。それによって、修行者は真に探究すべき大切なことが何なのかを知ることができるであろう。

 名称(nama)に翻弄される者は、虚ろな問いを発する。それは、問いとしての言語的形式を備えてはいるが、空疎で、ニルヴァーナに役立たない。それは、ただ紛糺を増すだけのものとなる。

 名称に翻弄されない人は、賢者である。かれは、名称(nama)作用が名称にもとづいて起こるものであると、こころに識って名称に翻弄されないのである。かれは、問うときには真実の問いを発する。その問いは、世間の何かに触発されて生じたものでは無く、かれのこころの深奥からわき上がった、かれにとってはどうしても解決されるべき、かれだけの問いである。しかしながら、そのかれの問いは、まさしく人類普遍の問いであると認められるものなのである。円かなやすらぎを求める人は、何にもまして、能く問う人であれ。けだし、自ら発する真実の問いこそが、自らの苦悩を終滅せしめるもといとなるからである。

 的外れなことをする者は、最初から的を外していながら、自分では的の中心をとらえているかのように錯覚している。まして、自分が的外れなことをしていると薄々感じつつ、それでもなおかつ、敢えて的外れなことをする人はなおさらあやうい。

 正しい道を歩んでいる人は、そもそも的外れなことをすることがない。かれの行為は、大団円の結末を迎えることになる。それどころか、かれは、たとえ的外れなことを(意識的に)しようとしても、それをわずかさえも為すことが出来ない。かれは、うまくやろうなどとは決して考えないが、明知が為すべきことと為すべからざることとを識り分けて、つねに的の中心を射抜くのである。それは、まるで大地に向かって矢を放つように、至極当然の顛末であったと本人には感じられるであろう。その一方で、的外れなことをする人は、まさに大地に向かって矢を放っていながら的を外し、悲嘆にくれるのである。

 的を射抜くのも外すのも、心構え一つである。それは本来容易なことではないが、聡明な人はそれをまるで容易にやり遂げる。狙うから的を射抜けるではない。狙わないから的を射抜くのでもない。狙わなくとも的は射抜かれるのである。心構えの正しさが、その不可思議なことをやり遂げる。

 的外れな行為は、どんな言い訳を用意したとしても空しく、詰まるところ道を汚す行為に他ならない。こころある人は、その愚をさとって諸事の錯乱を慎しみ、以て自らの道を浄めかし。聡明な人は、人と世の真実のすがたを見極めて、ついに究極の立場に立って自らの観を完成せよ。それを為し遂げたならば、的外れな行為を為すことはもう決してなくなるからである。

 こだわりを捨て去ることは容易ではない。なぜならば、こだわりを捨てようと思うその思い自体がこだわりに他ならないからである。こだわりを捨て去るためにこそ正しい遍歴を為せ。

 人々(衆生)は、聞いて心を楽しませ、聞いて喜びを生じる言葉を耳にすることをつねに欲している。それゆえに、人々(衆生)は、覚りの境地に至ることについて語られる言説についても、それは心を楽しませ心を喜ばせるようなものであるべきだと考えるのである。しかしながら、もろもろの如来が人々(衆生)に向けて語る理法や、善知識が世に稀有に発する法の句(=善知識)は、必ずしも人々を楽しませ、喜ばせるものではない。なんとなれば、人を覚りに導く真理の言葉は、聡明で、よく気をつけている、聞く耳をもつ明知の人だけに理解され得る微妙なる言葉であって、それはただ明知の人だけを真実に楽しませ、明知の人だけに真実のよろこびを生じせしめる言葉であるからである。こころある人は、言葉の感覚的感受を喜んではならない。世間に飛び交う何に触れても、高ぶることなく平静であれ。聡明な人は、心を損なうことがないように、よく気をつけて世を遍歴せよ。

 ここなる人が、他の人の所作・言動・振る舞い・態度などを見て、「かれは楽しそうである」と思うよりも 「かれは寂しそうである」とか「かれは悲しそうである」とか 「かれは苦しそうである」と感じたとするならば、それは実にめぐまれたことである。それは、およそ人がひととして生まれ歩む人生において行うべき正しい省察の大いなる糧となり、かれをして自ら不滅の安穏へと導き至らしめる確かな道しるべとなるからである。

 どんなに立派に見えても、見かけ倒しなものは役には立たない。たとえみすぼらしく見えたとしても、真に堅固なものこそがやすらぎに役立つものである。やすらぎを求める人は、揺らぐものに頼った平安に安住してはならない。揺らぐことのない信仰によって揺らぐことのない究極の境地に到達せよ。

 正しい道を知り、その道を歩もうと思った人は預流に入ったと言われる。しかし、それは道の歩みの始まりに過ぎない。せっかく正しい道を見い出しても歩まなければ安らぎには到達しないからである。

 善知識との邂逅を果たし、正しい道を知り、この一なる道を歩もうと思った人は預流果を得たといわれる。預流果は、別の名を”発心”と言う。これは道の歩みのすべてである。預流果の修行者が、あと一歩進んだならば解脱する。しかし、解脱するまでは油断するな。解脱したときには解脱したという正しい知見を生じる。解脱知見を得て初めて解脱したのである。

 いたずらに主張しても、一方的に聞き入っても、この一なる道を歩むことはできない。問うべき人に向かってあり得べき問いを為し、善き人々が発する稀有なる言葉を聞く耳を持つ人だけが道の歩みを堅固ならしめる。愚者が覚れないのは当然であるが、賢者さえも覚りは難しい。聡明な人は、仏の言葉を信じて道の歩みに奮励せよ。

 善かれと思って人々をけしかけ、煽動しても、その結果が善いとは限らない。大勢がその道筋を大挙して歩んだがために、全員が悲惨な目に遭うこともあるからである。しかしながら、この一なる道は果てしなく広くて平坦であり、そのようなことがない。ゆえに、この道を”危険が無い道”とも称するのである。

 最高のものを味わったのに、それが最高のものであると認識できない者の人生は哀れで空しい。かれの人生において、それ以上のものを味わうことは出来ないからである。さらに、もしも中途半端なものを味わって、それが最高であると誤って認識してしまうならば、まさに悪魔の手中に落ちたのである。

 最高のものを味わったのにそれが最高のものであると認識できない者の人生は、哀れで空しい。かれの人生において、それ以上のものを味わうことは出来ないからである。 最高のものを味わったのにそれが最高のものであると認識できない者は、果てしない輪廻を繰り返すことになる。これは遍歴とは呼ばれない。

 最高のものを味わったのに、それが最高のものであると認識できず、むしろそれが最低のものであると認識してしまう者の人生は悲惨で恐ろしい。かれは地獄に堕ちて長い間苦しむ。

 最高のものを味わって、それが最高のものであると認識する人の人生は楽しく喜ばしい。かれ(彼女)は、遠からず覚るであろう。最高のものを最高のものであると素直に識ることそれ自体が、その人に聖求と明知と安らぎへの熱望があることを確かに示しているからである。聡明な人は、理法に則り自ら解脱するであろう。

 経典を読んで分かった気になる。それは実は分かっていない証左である。経典を読んでそれが理解できなくても、真実を知ろうと熱望する人はその理解にまつわる意外な形で解脱を果たす。経典のこの部分で覚ったと明確に知る人もあれば、どこか分からないが経典を縁として覚る人もあるからである。

 経典を読んで分かろうとしないのはまずいが、経典を読んで理解できないことそれ自体は悲観するにはあたらない。経典の真意を、頭ではなく心に理解したならば解脱が起こるであろう。形態(rupa)の解脱者の存在は、それを確かに示唆している。

 焦ったところで覚りにより早く近づくものではない。むしろ、覚りは遠のいてしまうだろう。遠回りに見えても、ゆっくりと邁進する人がかえって覚りに大きく近づく。修行が積み重なって覚るのではない。功徳を積んでいて、「その真実」を知った人が一瞬に覚るのである。

 上手にやろうと思った瞬間に正しい道の歩みを逸れてしまう。覚りに向かうこの一なる道の歩みは、すべからく自分から(恣意的に、思惑を抱いて)動いてはならない。すべてを縁に委ねて、流れに従って歩むべきである。意外に思うかも知れないが、正しい遍歴とはそのようなものなのである。

 この一なる道の歩みには、追い風も向かい風も横風もない。まっすぐに歩もうと思う人は、その通りにまっすぐにニルヴァーナへと近づく。道の障害などど こ吹く風である。まっすぐに歩めない者があるとするならば、心がまっすぐではないために知らぬ間に歩みが曲がってしまうのである。

 自分が到達するべき処を(こころに)はっきりと知っていて、世間に汚されず、欲を御し、悪を制し、けしかけられず、駆り立てられず、見るべきものを見て、聞くべきことを聞き、知るべきことを知って、自ら見い出した道の歩みに邁進する心。それがまっすぐな心である。

 自分がまっすぐに道を歩んでいるかどうかを知りたい人は、次のことを知らなければならない。『紆余曲折に見えようとも正しい遍歴を為す人が、実はまっすぐに道を歩んでいるのである。 』 

 道の途中にどんな紆余曲折があろうともそれによって心が混迷せず、(正しい)信仰をたもち、目的の境地が容易に見えなくてもそのことで苛立つことなく、好ましいことに遭遇しても好ましくないことが生じてもそれによって心が汚されることのない人。そのような人が正しい遍歴を為す。

 人生において数限りない悲苦憂悩に出会ってもそれによって煩悩の燃えさかることが少なく、仏に出会うことが無くても自ら到達すべきすがたを見失わず、世間の何に触れても欲望に溺れず、執著を起こさず、心が汚されることのない人。そのような人が正しい遍歴を為す。

 じたばたせず、うろうろせず、あくせくしない人。そのような人が正しい遍歴を為す。

 真実を知ろうと熱望する人が、本当のことを知りたいと心から願う人が、真のやさしさを体得しようとする人が、いかなるひとをも悲しませることのないようにしようとする人が、正しい遍歴を為す。

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あとがきに代えて

 本書は、拙著『覚りの境地』(電子出版:パブー)の姉妹本である。『覚りの境地』では主に覚りの真相とそこに至る一なる道について余すところなく書いた。この本では、覚りに至る道筋そのものではなく、そこに到達した仏がどのような境地に住しているのかを感興句を通じて人々に示し、修行者たちを力づける一助としたつもりである。

 世には、すでに沢山の経典が存在している。仏縁ある人はそのどれによっても覚りに至るであろう。それでも経典の言葉はその多くが説法形式の理法である。感興句を知ることは仏の内面を知る手掛かりとなり、それぞれの経典の真意を理解することをいわば内側から支えるものとなるに違いない。事実、私もそのようにして覚りの道を大いに堅固ならしめた経験がある。

 このような理由で、本書は通常の本とは趣を異にしている。本書は単なる詩集ではない。本書は単なる寄せ集めの言葉ではない。本書は、覚りの機縁の切っ掛けを生じると期待される言葉のモニュメントである。しかしながら、このモニュメントは修行者の心に働きかけて、けしかけられることなく道の歩みに邁進する糧となるであろう。安らぎを求めるこころある人は一読して欲しい。

 なお、本書の現在のすがたは本として一応の完結を見ているが、先の著作と同様に電子書籍による執筆方法の特徴を活かした修正・拡充・増補を行っていきたい。

  2011年3月11日 自宅にて記す


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奥付



『感興句』


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著者 : SRKWブッダ
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/buddha1219/profile


発行所 : ブクログのパブー(http://p.booklog.jp/
運営会社:株式会社paperboy&co.


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