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── 目次 ──

注記) 記号をつけた節は試し読み可です         【2012.01.25版】

1章 仏道
    道   9,872文字
    学識 ,783文字
    遍歴 4,448文字

2章 聖求
    聖求  5,329文字

3章 修行
    修行 9,338文字
    仏弟子 655文字
    友 1,616文字
    戒 6,115文字
    悪魔とその軍勢 2,942文字
4章 法(ダルマ)
    法(ダルマ) 4,965文字
      9,069文字
    覚りの因縁   3,071文字

5章 如来
    如来  3,001文字

 あとがきに代えて 591文字


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はじめに

 もろもろの如来、つまり生き身の仏は世の人々の問いに応えて理法を説く。いわゆる説法である。しかし、説法はどうしても説教じみたものになってしまう。衆生たる人々の問いは未熟で、本質・核心に迫る問いをなかなかなさないからである。したがって、その問いに対する答えも如来の本質をなかなか反映したものにならないのである。

 ところで、如来たちは時として誰からも問われないのにふと思いを込めて言葉を発することがある。それが感興句である。この感興句は、如来たちが機縁に応じて世に出現せしめた法の言葉そのものである。それは、如来たちにしか発することができない世に誦出された法の現れに他ならない。そこには仏の本質、覚りの真相、法(ダルマ)の根本にまつわる言葉がちりばめられている。

 さて、本書は釈尊をはじめとする過去の仏たちが発した感興句を引用したものではなく、現代の仏たる私(=SRKWブッダ)がこれまでに機縁に応じて発した感興句の中から修行者が覚りに近づくのに役立つであろう言葉を抜粋し、内容ごとに章・節を分けてまとめたものである。

 聡明な人は、この本に記されたそれぞれの言葉が人智を超えたところから発せられた智慧の一端を表すものであると知って自らの覚りの道を必ずや堅固ならしめるであろう。感興句とはそのような働きをもつ言葉なのである。

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 この孤独を超えた境地は、決して孤独な世界では無く、かと言って孤高に徹した境地でもない。それは、<崇高なる境地>と名づけられる。

 自らにのみ依拠し、自ら(正しく)気をつけて行い、自ら見い出し、自ら知って、自ら決心し、自ら至るのが、仏道に他ならない。

 正しい考えは正しい実践のもといであり、正しい実践は正しい考えのよすがとなる。これらが完成したとき、考えは智慧となり、実践は定(=精神の安定統一)となる。それゆえに、やすらぎを目指す人は、考えと実践とが別のものであると見なしてはならない。これらは、道の二つの側面に他ならないからである。

 偏見を超えることは容易ではない。しかしながら、偏見を超えた人が道を見い出してやすらぎへと近づく。自らの無知を知ることは難しい。しかしながら、自分が無知であることを知って明知の輝きを増し、学識ゆたかな人々に親しむ人が、ついに無学の人(=この世でそれ以上何も学ぶ必要の無い人)となる。

 師に頼り、経典に頼り、修行に頼って、上手に道を歩もうとするならば、それでは偏見を超えることはとてもできない。心構え正しく、自らに依拠して道を見い出し、歩み行く人が、師に頼ることなく、経典に頼らず、「気をつけること」を修行と為して、超え難き偏見を超えるのである。

 人に何かを問うことが道なのではない。自らのこころに問うてこそ道は見い出される。そして、そのようにして見い出された道を歩んでこそ根本の問題は解決されるのである。しかしながら、このことをこのように知って、それでも敢えて他の人に向かってこころからの問いを発するならば、覚りの機縁を生じるであろう。実に、人の覚りの機縁とは摩訶不思議なものであるからである。

 まっすぐに進むことは簡単そうに思えるものである。しかしながら、実際にはまっすぐに進むことは決して容易なことではない。

 どんなに苦しい目に遭っても、仏を信じることができない。それが衆生のありさまである。生きているうちに為すべきことを為さないならば、行き着く先は苦しみの輪廻である。次の世で仏に出会えるとは限らない。こころある人は、為せるときに為すべきことを為して、苦しみの輪廻から解脱せよ。

 闇雲であっては、まっすぐに進むことは出来ない。それは眼をつぶったまま歩くようなものだからである。しかし、だからといって道々の景色に足を止め、ふと目に留まった施設などに心を奪われているのでは先に進むことができない。

 途中で道を尋ねることは、恥ずかしいことではない。適宜に尋ね聞いて知ったことを、道の歩みに役立てるべきである。しかし、尋ね聞いたことがらによって、かえって道に迷うようでは困ったことである。明知の人は道に迷わない。

 詰まらない取るに足らないものを大事にして、役に立つ無上の宝を粗末にする。それが衆生のありさまである。愚かな者はそんなもののために命を縮め、道を逸れてしまう。浅はかな者は、余計なことに気を取られているうちに危険が迫ることに気がつかない。いとも聡明な人が正しい道を見い出して歩む。

 この世には、数多の怪しげな宗教が存在している。しかし、そのどれによってもニルヴァーナに到達することはできない。この一なる道の他には、ニルヴァーナに至る道は無いからである。仏道は宗教ではない。真実の追究によって宗教の呪縛を離れたとき、人は確かな道を見い出す。

 この一なる道は、最後まで到達しないと道を歩んだとは言えない。そして、そのためにはどうしても善知識を聞く必要がある。つまり、善知識を聞いていないのであれば、その人の修行は完成せず、一歩たりとも道を歩んでいないのも同然である。道が果てしなく思えるのは、このことがあるためである。

 経典の中には善知識は存在しない。もろもろの如来は、善知識そのものを語ることはないからである。修行者は、あくまでも自分自身で善知識を求めなければならない。いかなる思惟・考研によっても決して得ることのできない善知識を聞こうと熱望せよ。それを聞いて理解したならば直ちに解脱を生じると説かれる。

 順逆の念が、人の心を疲弊させる。順逆の念が、人をけしかけ労苦へと駆り立てるものである。順逆の念が、人の平らかなる歩みを乱す因である。それゆえに、順逆の念を離れた人は、心が疲弊することがなく、何かに駆り立てられることがなく、自らの人生を平らかに歩み行く。

 我ありという想い(=我執)が、順逆の念を生むもとのものである。人が、この我執を捨て去るならば、かれは一切の煩いから解放されるであろう。それは、かれのあらゆるこだわりを打ち砕く心の土台となる。人は、この堅固な土台に立脚して覚りを体現するのである。

 人は、決して自らを卑下してはならない。しかしながら、それよりもなお、他の人を軽んじてはならない。他の人を見下し、貶め、辱めてはならぬ。この戒めを尊守して、己の心と相手の心をともに護りぬいたとき、人は順逆の念を離れ、我執を打ち砕くに至る。こころある人は、心を護って、心に巣くう順逆の想いを払拭せよ。

 人を思いやる心の根底にあるものは、「他人事(ひとごと)ではない」という気持ちである。かれはこのとき、有縁の衆生に対して慈悲観を行なっているのである。そして、もし人が、無縁の衆生に対して思いやる心を起こすならば、かれはついに観を完成するに至るであろう。なんとなれば、人を思いやる無心の心(=一切の想いを離れた心)こそが、平等心に他ならないからである。

 発心以前においては、人は〈中道〉を知ることができない。したがって、人は発心以前において〈中道〉をそれと知って歩むことはとてもできないことである。しかしながら、発心以前においてさえ人は〈中道〉を歩み得る。なんとなれば、こころある人は世間を平らかに歩むからである。

 かれはあやしげな行為を為さない。かれは異教に誘われない。かれは正しい道を踏み外すことがない。かれは、そうしてついに究極の境地へと到達する。そこに至ったとき、かれ自身まさしく〈中道〉を歩んでいたことを後づけで知ることになるのである。

 覚りの境地に至る道においては、その道中においてその道が正しい道であるという気づきは何一つ起こらない。すなわち、発心においても、(第一の、そして第二の)気をつけることにおいても、覚りの境地に至った瞬間においてさえも、覚りに至る道の道すがら地点と称すべきどの地点においても、それが正しい道であるという気づきは一切起こらないのである。

 自分が正しい道を歩いて来たのであるという確かな認識は、覚りの境地に至った後に後づけで起こる。その認識が起きたならば、正しい道を歩んで来たのである。

 愚かな者どもが右往左往している間に、道の人は真っ直ぐに、すみやかに安らぎの境地へと向かう。その歩みを悪魔でさえも邪魔することはできない。彼は危険のない道を進んで、まるで周到にやすらぎに到達するからである。道中の不安を払拭して、修行者は信仰によって激流を超えよ。

 人が一度無上道に入ったならば、かれ(彼女)はもう道を逸れることがない。それゆえに、無上道は<無上道>と名づけられる。

 無上道は、それがすべての道の最上のものであるというだけで無上道となるのではない。無上道は、目的地に至るまで決して迷うことの無い道であるゆえに無上道と呼ばれるのである。

 無上道はその歩みを決して邪魔されることが無い道であるゆえに無上道と呼ばれる。邪魔されてもそれが気にならないから無上道なのではない。最初から最後まで決して邪魔が入ることがないゆえに無上道なのである。こころある人は、無上道に入り、歩み行きて、この円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと到達せよ。

 迷える人は、闇雲に進まざるを得ない。しかしながら、闇雲に進むことよりも手探りで進むことの方がまだすぐれている。そして、手探りで進むことよりも、憂い無く、晴れやかな心を以て足下に見い出した堅固なる道を歩むことの方がさらにすぐれているのである。それゆえに、覚りに至る道を知ろうと熱望する人は、道を上手に見いだそうなどと考えて心の安定統一を損なってはならない。なんとなれば、心が真っ直ぐな健き人は、つねに気をしっかりと保ち、何を見聞きしても心の安定統一を損なうことなくよく気をつけているものであるからである。

 世間においてさえ、よい道とは「広くて平坦な道」のことであるといわれる。そして、人が覚りの境地に至るこの一なる道も、それ以上に「果てしなく広大で平らかな道」である。その道は、覚りを目指す人々の慈悲に満ちた広いこころと、平等心の極みたる平らかなる想いによって導かれ、見い出されるものであるからである。ただその道が、余りにも「果てしなく広大で平らかな道」であるゆえに、心構え正しからざる人は進むべき方角を見失い、自ら抱く疑惑によって短く長く迷いつづけることになるのである。かれは、進んでは退き、あるいは横切って、広大なる道を逸れてよろめき、ときに道を踏み外してしまう。道に迷いたくない者は、こころに羅針盤を持つべきである。その羅針盤は、真実を明らめようと精励することによって手に入れることができるであろう。

 もし人が、ものを欲しがるように覚りを望むならば、覚りの境地に至ることはおそらくついにない。その一方で、人が覚りの境地に至ることを最初から望まないのであるならば、それではかれが覚りの境地に至ることはあり得ないこととなる。覚りの境地に至る道は、これら両極端の想いに汚されない道である。それは、いかなる熱意にもよらず、人の正しい熱望によってもたらされる道である。

 実に、かれの望ましい望みが、かれを覚りの境地に導き、かれ自身をまごうことなき覚りの境地へと至らしめるものである。そこには、いかなる前提条件も付帯条件も存在してはいない。それゆえに、もろもろの如来は、人々が無条件に、無心に、無住なるこころで覚りを熱望することをつねに称讃するのである。

 いかなる先入観にもとらわれない人が、道を歩んでいる。かれはそれゆえに、たとえば三昧(サマディ)とか涅槃(ニルヴァーナ)とかの言葉を耳にし、それらにまつわる現象を目にしても、それらの言葉や観念、現象に心を奪われず、ものを欲しがるようにそれらを望んだりしない。かれの柔軟な思考は、心の顛倒(心理的・精神的錯覚)に打ち勝ち、三昧(サマディ)や涅槃(ニルヴァーナ)の真実を(こころに)理解する。かれは、違う道を歩む人々と遭遇しても、同じ道を歩む人と出会っても、それぞれの人々の考えに安易に同調せず、それにもまして自分の考えを押しつけたりしない。ただ、かれの明知が、縁ある人々に贈与を超えた贈り物を為し、またいかなる贈り物よりもすぐれているその言葉(=法の句)を得るよすがとなるのである。

 こころある人は、言葉によって生じる迷妄と、想いによって現れる妄執とを自らの明知によって超克して、人と世の真実を見極めよ。それによって、すべての重荷を下ろすことを得るのである。

 覚りに限らず、志を同じくする人々が集うのは楽しいことである。そこには、一つの場が形作られる。人々は、そのような場においてこそ当初の望みを超えた高い望みをも達成するものである。そしてまた、そのような場に触れて道を歩み始める人も少なからずある。しかしながら、敢えて覚りそのものについて言うならば、人は場ではなく道によって究極に至るのである。なんとなれば、覚りの起点たる発心も、覚りの終点たる解脱の縁起も、道あればこそ世に出現し、ついに人の身に体現されるのであるからである。それゆえに、聡明な人は、場にこだわってはならない。場に触れ、場に属することがあっても、場に浴することを避けよ。わき起こる歓喜も、秘やかな楽しみも共に捨てて、場に属しつつも自身の心の静寂を護るべきである。

 道の人は、場にまつわるあらゆることがらから心を解き放ち、覚り以前においても孤独の境地に励まねばならぬ。けだし、覚りは最初から最後まで各自のことがらなのである。そして、実にそのようにすることこそが、浄き場(=サンガ(僧伽))に真に属することに他ならないのである。こころある人は、覚りに至る道の真実と、人の心の機微をこのように知って、よく気をつけて世を遍歴せよ。世間のいかなる場にも属することなく、自らの心の中にこそ我がもろもろのこころの寄る辺たる浄き場(のもとい)を現出すべきである。人は、まさにそのようにして心身を合一せしめ、つとめて正しい道を歩み行くのであるからである。

 人の覚りは、大きく分けて二つの道筋がある。一つは自力で覚るものである。もう一つは善き人との縁によって覚るものである。自力で覚る人は、おそらく極めて少ない。自力で覚る因縁をもって生まれてくる人がそもそも少ないからである。さらに現代社会においては、自力で覚る道を歩むことは難しくなっている。

 善き人との縁によって覚ることは、誰に対しても勧められる道である。法(ダルマ)は、時に善き人の口を借りて世に出現するからである。それゆえに、もし解脱して円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと至ることを願う人は、他の人々と善くつき合うことを心がけるべきである。

 一方的に言葉を発したり、他の人から自分に向けて発せられた言葉に注意を向けないことは決して望ましいとは言えない行為である。こころある人は、聡明にして、自らの明知の輝きによって道を見い出し、稀有なる法(ダルマ)を耳にして、自分自身によって自分自身を究極の境地へと至らしめよ。

 どんなに有意義で素晴らしい人生を歩んだと自負していても人が覚ることなく世を去ったならば、それは「くずおれた人生」であると言われる。有意義でもなく、素晴らしくもない人生だと感じている人のそれはなおさらである。

 如来は、多くの人々のくずおれた人生を見る。しかしながら、もろもろの如来は人々のくずおれた様子を見て敢えてそれを立て直してあげようとはしないし、また為し得ない。もろもろの如来は、ただ道を説き、自らの境地を世に示すだけである。

 時として、人々のくずおれた人生に触れて今こそが一大事であると見る人が現れる。彼は善知識と称される。善知識は、くずおれた人に向かって世に稀有なるその言葉(=善知識)を発する。善知識の言葉はやさしい。

 すぐれた行為には特徴がある。それは『行為する前にはこころ楽しく、行為している最中には心を清浄ならしめ、行為を為しおわってこころによろこばしく、そののちも後悔の念に苛まれることがない』ということである。

 人は、覚りの境地に至ることを目指すのだという執着があってこそ道を歩み始めるのである。そして、それが執着にもとづいて始められたことであるとしても、心構え正しくありさえすれば、かれの歩み始めたその道は必ずや真実に至る正しい道へと結びついて、まさしく仏道を歩むことになる。なんとなれば、人は実にそのようにしてこそ<慈悲>や<平等>を知ろうとする(正しい)熱望を起こし得るものなのであり、しかし最終的には、そのようにして確立し完成した<平等心>によって、覚りを目指すのだという執着心を含めたあらゆる執着心を捨て去るに至るからである。

 もし人が、人をけしかけることがないならば、ただそれだけによっても、かれは自分自身にも、自分ならざるものにさえも、決してけしかけられることは無くなるであろう。

 仏道は、苦行が楽に転じる道ではない。仏道は、その歩み自体が楽しみであり、栄えとともに楽(=ニルヴァーナ)が訪れるまるで夢のような道である。こころから信じ、人と世の真実を明からめたとき、人は自らの因縁によって解脱を果たす。それが覚りの真実である。

 沈黙を破ることで、相手や目撃者やことの顛末を伝え聞いた人が、あるいは後世の人々が、そして結局は自分自身が苦しみ後悔すると思われる場合があるであろう。そのようなとき、断乎として沈黙せざるを得ない。これを、<聖なる沈黙>と名づける。そして、聖なる沈黙においては、自分がそのような沈黙をしていることを決してさとられてはならない。なぜならば、もし誰かにそのことをさとられると、何かをけしかけてしまう恐れが出てくるからである。

 聖なる沈黙を正しく行為するならば、次のことが期待され得る。

    ○ 知りもしないことを言わずに済み、相手の心と自分のこころの両方を安楽たらしめる。
    ○ そうしなければ知り得なかったであろう、自分の本心を知ることができる。

 人々が、くずおれた人生を送るのもそれを立て直すのも各自のことがらである。聡明な人は、耳を澄ませて善知識のことばを聞く人であれ。それによって人生を全うすることができるからである。他の人々のくずおれた人生を垣間見ては真実を知ろうと熱望せよ。それによって道は見い出されるからである。

 人は、希望があるから勤しむ。人は、希望をもって勤しむことによって願いを叶えようとするのである。そして、それが邪なものでない限り、その願いはきっと叶うであろう。

 人の覚り(=解脱)も、勤しみによって達成され得ることがらである。それゆえに、円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)に至ることを望む人は、希望するがよい。それが濁りなき希望(=熱望)であるならば、ついに達成されるであろうからである。

 心構え正しき人の希望は、ついに叶えられる。真如が道の歩みを誤らせないからである。いとも聡明な人の希望は、人間を超えた楽しみをもたらす。明知が、妄執を超えさせるからである。こころある人の希望は、自らにやすらぎを生じせしめ、同時に他の人々をもくつろげる。信仰が、争いを超克するからである。

 人が、人と世の真実を知ろうと熱望して精励するならばついに覚知するであろう。それが希望である。そこに至れば憂いがない。人が、苦と衆生の真実の姿(=〈すがた〉)を知ろうと熱望して精励するならばついに解脱する。これこそが本当の希望である。そこに至れば苦悩がない。こころある人は、希望することによって願いを超えた本当の願いを叶え、ついに世の一切の苦悩から解脱せよ。

 もし人が、言わずもがなのそのときに、清く聖なる沈黙をまもり互いの心を護り得たならば、ただそれだけによっても、そうしなければ知ることができなかったであろう自分の本心を識ることができるであろう。

 静けさを目指すことなく、争いと闘いと威圧と虚偽によって安らぎを目指しても、正しい道を見い出すことがない。 獣道が道だと主張するようなものである。

 家があるゆえに場所に縛られる。職業があるゆえに人間関係に縛られる。財があるゆえに他人への依存に縛られる。名称と形態(nama-rupa)があるゆえに苦悩に縛りつけられている。

 家を捨て去ったならば場所に縛られない。職業を離れたならば人間関係を十全ならしめる。 財を布施したならば仏に近づく。名称と形態(nama-rupa)を滅したならば解脱する。

 持っていれば使いたくなる。それゆえに余計なものを持っている人は余計なことに気を取られて容易には究極に到達しない。知っていればやってみたくなる。しかし仏道を知る人は少ないので、この一なる道を歩む人は少ない。もしも仏道を知ったならば道を歩め。自ら見い出したその道こそ安らぎに至る道である。

 疑問は自分で解決しなければならない。そうでなければ覚りの道をまっとうすることはできないであろう。疑惑は自力で超えなければならない。疑惑を去ったとき、人は解脱した自分自身を発見するのである。真実を求める人は省察せよ。真理を求める人は観を為せ。安らぎを求める人は智慧を見い出せ。

 明知ある人は疑問を解決する。聖求の人は疑惑を超える。いとも聡明な人が智慧を見い出して覚るのである。修行者は、自らの明知を信じて遍歴せよ。静けさを目指して疑惑を超えよ。安らぎに至ったとき、智慧はまさしく開顕されたのである。 

 正しい道は自ら見い出すものである。他人に聞いてもそれだと知ることはできない。自分自身を信頼する人が正しい道を見い出す。こころに問うていつわり無き進むべきその道を自ら発見せよ。まっすぐに進めば必ず安らぎに到達するであろう。

 世の風潮に流されながら、善いことをしていると考えるのは愚かである。たとえそれが人のためになることであっても、他ならぬ自分自身のためにならないならばそれは善い行為とは言えない。人のためになることで、自分のためにもなることで、健全なことを為せ。それは確かな功徳の機縁となるからである。

 真っ直ぐに進む人は、必ず覚りに到達する。紆余曲折する者が、ついに覚らない。もちろん、当初は紆余曲折があろうとも、機縁によって自らの道の歩みを矯めたならば彼は真っ直ぐに道を歩むことを得る。そうして、安らぎの境地へと到達する。

 たとえすべてを無くしてしまおうとも、道を見い出した人は栄える。たとえ世の宝をすべて手中に収めようとも、道を外れた者は滅びる。しかし、真の修行者はそれらさえも捨て去って、安らぎの境地を目指すのである。彼は、そこに至れば一切の苦悩が終滅すると知っているからである。

 この世のことはまるで突然に終局を迎える。仏弟子は、楽しみと共に無上の楽しみ(=ニルヴァーナ)へと到達する。善人は、憂いなく天界へと向かう。愚者は、苦しみの中に人生を終える。悪人は、笑いながら地獄へと赴く。それぞれの行き先は、それぞれの行為に従う結末である。

 愚かな者は、笑いながら悪処へと赴く。本人は、自分ではまったく気づいていない。本人は、自分はいい線を行っていると信じ込んでさえいるのである。それゆえに哀れで悲しい。愚かな者を、誰も助けられない。自分で自分を苦悩から解脱せしめるしか方法はないからである。

 賢者は、何も為していないように見えて功徳を積む。本人が気づかないうちに功徳を積むことさえある。本人は、自分が道に迷っているかの如くに思っているかも知れないが、実際には大道の真ん中を歩んでいる。このような賢者が覚るのを、誰も邪魔することはできない。賢者は、自分で自分自身を解脱せしめるからである。

 世人は、過去を背負って励むと言う。しかしながら、重荷を下ろしてこそ道の歩みは軽快となる。正しい励みは、つねに軽快である。道の人は軽快に、修行者は真っ直ぐにこの一なる道を歩む。

 世人は、家族や仲間を背負って励むと言う。しかしながら、重荷を下ろしてこそ道の歩みは軽快となる。正しい励みは、孤独の境地へといざなう。道の人は軽快に、修行者は真っ直ぐにこの一なる道を歩み、ついに究極の楽しみへと到達する。

 『世人は歓喜に束縛されている。思わくが世人をあれこれ行動させるものである。妄執を断ずることによって安らぎがあると言われる。』と釈尊は説く。まさ しくその通りであるが、実際に妄執を超えることは容易ではない。しかし、涼しい風が吹いて解脱する者もあるのだ。諦めてはならない。

 他の人が解脱したのを知って、その人を称讃し祝福するかどうかはともかく、自分の修行に影響を来さない人が真の修行者である。他の人の覚りなど、何処吹 く風でよいと言うのではない。他の人の覚りを耳にして、自分も覚れるのだと正しい信仰を深める人が道を歩んでいると言えるのである。覚りに近道など存在しない。しかし、自分でわざわざ覚りを遠くしてしまう者はある。余計なことに気を取られて、心の重荷を増やすならば、せっかく順調に進んでいる船も停滞し、最悪の場合転覆してしまうだろう。修行者は、自らの道をゆっくりと邁進せよ。

 すでに歩いた道は、過ぎ去ったものである。目の前にはつねに新しい道がある。それゆえに、修行者はつねに新鮮な気持ちで修行に邁進すべきである。覚りの機縁は、道々の景色にではなく道の中にある。省察と観(=止観)によってそれらを安らぎの糧とせよ。

 分かった気になっていても仏の道は深遠である。実のところその真髄を理解した人は極少ない。最高の真理を極めるまでは決して油断してはならない。道の途中には有意の実りはないからである。こころある人はすみやかに覚りに達せよ。

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学識

 ありのままに見るのではなく、誤って見るのではなく、見ないのではなく、見て見ぬ振りをするのでもない。かれは、真実の真相を見極める。

 ありのままに聞くのではなく、誤って聞くのではなく、聞かないのではなく、聞いて聞かぬ振りをするのでもない。かれは、覚りの機縁を生じる。

 もろもろの仏典の内容は、至る所が重要であり、同時にどの箇所も重要であるとは言えない。なんとなれば、人は、仏典の記述を見て覚りの境地に至る機縁を生じ得るが、それは仏典に記された言葉そのものによるものではないからである。それゆえに、人が仏典の記述そのものにこだわるならば、それはただちに悪魔の説と化す。その一方で、人が仏典の記述をよく理解して、しかも理解したことにこだわることがないならば、かれにとって仏典はこの世における最上の宝のありかを示してくれる稀有なる地図となるであろう。

 他人の解釈は、参考にはならない。しかしながら、他の人の解釈を読んで、それによって仏典の真意を理解することはあり得る。したがって、仏典を読誦して覚りの境地に至ることを目指す人は、仏典について記された諸説をも平らかに読み究めるべきであると言えよう。人は、経典を転じるべきであって経典に転じられてはならない。それは、このように仏典に取り組むことによって達成されるであろう。賢者は、仏典の記述によってまごうことなき覚りに至れ。

 安穏の近くにあって安穏を知らず、安穏ならざるもの(=苦悩)に安住しながらしかも嬉々として世間を生きて、笑いながら(自らを滅ぼす)悪を為す者。かれこそ<暗愚>と呼ばれる。その者は、豊富な知識によっても、研ぎ澄まされた見識によっても、暗愚を離れることができない。その者は、学識に欠けるところがあるからである。

 聡明な、こころある人は、学識ゆたかな人々とつきあい、以て自らの学識を増大せしめて暗愚を離れ、自らによって自らの明知を輝かせよ。明知によってもたらされる智慧こそが、人の心の闇を破る唯一無二の光明なのである。

 いかに望みが高く、願いが深くとも、誤った見解を奉じていては、その人がやすらぎの境地に至ることは遠いこととなる。かれは、たとえ百人の仏に出会ってその言葉を聞き、千・万人の菩薩と歩みを同じくしようとも、かれ自身の行き着く先は思いもよらない処となる。その一方で、たとえ志が低く、知識が浅くとも、正しい見解をいだく人は、ついに円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと至る。かれは、たった一人の菩薩に出会うことでその一なる道を歩む心を起こし(=発心し)、たった一つの仏の言葉(=法の句)を聞いて心が解脱して、究極の境地へと辿り着くからである。

 世には、純一ならざるものだけが満ちあふれているのではない。智者は、世の雑多なものの中から純一なるものだけを選び取るのである。世は、すべてが迷妄に覆われているのではない。明知の人は、世に稀有に出現する真実のすがたを眼のあたりにして、妄執を超え、ついに目覚めるのである。

 世間において聞き及んだ知識の多寡や優劣などへのこだわりを捨て、正しく混乱と迷いと憂いとを去って、ただ自らの正しい見解によって道を歩め。真実に純一なるものは、そのような人に必ず、適時に開顕されるからである。

 賢い象は、沼地を恐れて近づかない。彼は弱いからそうするのではない。沼地においては、彼の重い体重や大きな身体が利点とはならず、むしろそれは身を滅ぼす要因となることを察知しているからである。このような象は聡明であると言われる。賢者は、悪を恐れて近づかない。彼は弱いからそうするのではない。悪処に身を置いたならば、彼の高い知能も多くの知識も深い経験も役に立たず、むしろそれは身を滅ぼす要因となることをこころに知っているからである。このような人は聡明であると言われる。賢い象は、自らを全うして大地の王者となる。賢者は、自らによって自分自身を解脱せしめて法(ダルマ)の体現者となる。真実の理を耳にして、理に従う人は究極に到達する。安らぎを求める人は、聡明であれ。この真の聡明さは、誰しもが持っている筈のものであるからである。

 聞くだけで安らぐ言葉を知っていて、それを実際に聞くことで心が安らぐ人は素晴らしい。かれは静けさの境地が虚妄ならざるものであることをこころに覚知しつつある。それそのものは一種呪文のようなものに過ぎないが、それを超えて真実を見極めたとき、真の静けさが訪れる。

 ニルヴァーナの楽しみは世の最上のものである。しかし、世の楽しみを知らない人がどうして最上の楽しみを覚知できよう。楽しみを知って溺れず、快楽に堕することなく、心が静まることによる楽しみを知った人はついにこの無上の楽しみを体得する。

 仏の言葉は気休めではない。仏たちは二心なき真実の言葉を語る。それを聞く人の心が安まったならば、それは聞く耳を持つ人の手柄である。

 正しい学びの心を持たなければ、努力を重ね多くの犠牲を払ったとしても目的を達成することはとても出来ない。正しい学びの心を持たない者は、やるほどに悪い癖がつくだけとなるからである。かれの心は混乱し、想いは散乱し、確固たる行為を為すことができずに迷うのである。かれは、ことに臨んでは気が動転し、望ましい結果を出すことができない。かれが長い時間をかけ、精魂傾けた努力によって得た(と思い込んでいる)何某かの知見がいざというときには何の役にも立たないことを思い知ることになる。それどころか、それらは手枷足枷となってかれの自由を奪い、憂いと煩いと苦悩の伏線と化してしまうであろう。

 その一方で、正しい学びの心を持つ人は、目的に向けて行った種々さまざまな努力が時々に応じて無駄なく望みを達成する力として働くことを知る。そして、一見して目的とは無関係に思える努力さえもがかれの望みを達成する糧となるのである。かれは、いかなる犠牲も払うことがなく、損なわれるものも失われるものもない。かれは、そのようにしてついに望みを超えた究極の望みを達成するであろう。それは正しい学びの心の賜である。

 正しい学びの心を持たない人の努力は、なぜ望みどおりに成就しないのであろうか? それは、かれがそれぞれの局面において意識する時々の望みが、かれの本当の気持ち(=<本性>)と合致しないことによる。このため、かれのあらゆる努力は空回りして周りと軋轢を起こすこととなり、心をすり減らすだけとなっている。あるいはまた心が沈んでしまって、学びの継続にさえ支障をきたすこととなる。かれは、自ら作り為した歓喜と悲哀とに束縛・翻弄されており、埒のあかない堂々巡りを繰り返していることを知らない。かれには、疑惑と、不信と、迷いと、嫌悪とが影のようにつきまとい、種々の憂いを生じ、栄えがなく、不吉なことが順次に迫り来ることになる。かれは、ついに望みを達成することなく老死にあってくずおれてしまう。

 もし人が、一切の束縛を脱することを願い、苦悩を滅し尽くしたやすらぎの境地に至ることを欲するのであるならば、学識ゆたかな人々につきあうべきである。学識ゆたかな人々は、学識を増大させようとこころから望む人を温かく迎えてくれるからである。人の学識は、そのようにしてこそ増大し、互いにことわりを聞かせてはひとしくニルヴァーナに至ることになるのである。

 世人は、世の中において感受される物質的な存在についての生起と消滅の様子を見て(形而上学的な)断定を下し、世間のうちに迷っている。もし人が、種々の断定にこだわるならば、かれがそのままの状態において覚りの境地に至ることはとてもあり得ないこととなる。なんとなれば、一切世間において観察されるあらゆる生滅現象とそれによって世人が抱く種々の断定は、すべてが、人をして覚りの境地に至らしめることについての真実(すなわち縁起の法)に似て非なるものであるからである。

 しかし、それだけであるならば、人は一体どのようにして真実を知り得るのであろうか? もろもろの如来は、人は覚り以前においても真実を微かなりとも覚知しその真相を察知することができると説くのであるが...。この尤もな問いには、次のように答えなければならない。 『人は、自らの明知によって真実を覚知するのである。人は、自ら疑惑を超えて、やすらぎ(=ニルヴァーナ)の虚妄ならざることを察知するのである。人が、まさしくそのようにして真実を真実に知ることそれ自体が法(ダルマ)の現れに他ならない。』

 世間においても、何かを人づてに聞き知ってそれを他の人に正しく伝えることができたとき、その人はそのことについて確かに理解しそれを身につけたのだと言われる。それと同様に、出世間のことがらについても、それを聞き知ってその真意を自らの明知によってさとり、たとえその一部であっても他の人に伝えることができたとするならば、かれは諸仏の智慧をこころに理解したと認めてよい。かれは、過去・現在・未来の仏達を供養したことになり、確かな功徳を積んだのである。

 世において知るべきことを知るべきことであるとこころに知り、知るべきでないことを知るべきでないことであるとこころに知っている人。かれが明知の人である。かれは、ことに臨んで、見えないものを見てその真実のすがたを捉え、また聞こえない声を聞いてその真実の意味を知るのである。

 種々さまざまなことを思索・考研することそれ自体が無駄なのではない。こころある人が、時間の無駄を気にしないで一切の想いと思惑とを離れて思索・考研を行なうならば、それは決して無駄にはならないからである。かれの明知が、思索・考研すべきこととそうでないこととを能く弁別し、無駄なことを為させない。人を導く明知は、かれ自身、自己にまつわる不当なる思惟の根本(=我執)を捨て去ったところに現れる。すなわち、明知は、欲望への執著を離れた心に宿るのである。それゆえに、明知にもとづいて為される思索・考研は、世の一切の悪をとどめ、人の心を浄める機縁となるのである。けだし、明知は無住なる心(応無所住而生其心)の発露に他ならない。明知は、それゆえに<明知>と名づけられる。そして、明知は一切の前提条件を離れたところから出現するのである。

 気をつけることは、最上の行ないである。たとえ、今現在それが不完全なものであるとしても、気をつけることは確かな果報をもたらす。それは世間の利益(りやく)には必ずしも直結しないが、功徳を積むこととはつねに大いに関係している。

 欠陥のない言葉によって、あるいは欠陥のある言葉によってさえ、世には完全なものがあると微かでも覚知したならば、その人はついに完全な一体に達すると期待され得る。

 信じていたものが偽物だったと分かると「あれは何だったんだろう?」と思うものである。その時点に戻ることができたとしてもその過ちを犯さずに済むかどうか分からない状況もある。それでも、明知ある人は信じたものに決して裏切られない。真実を見て、それが真実だと知るからである。

 悪に手を貸すくらいならば、何もしない方がよい。それはその通りなのであるが、目の前の善を為さないならば、とても覚りに達することはできないだろう。善悪そのものは絶対的なものとしては実は存在していない。それぞれの人々の心構えいかんによって同じ行為が善にもなれば悪にも堕するのである。

 悪行によって悪を知ることができるかも知れないが、悪の正体そのものを明らめることはできない。その一方で、善行によって善を知った人は善の真相を明らめるに至る。それゆえに、悪行よりは善行の方がすぐれていると知られるのである。しかし、智慧によって法(ダルマ)の全貌を知った人は一切の苦悩を終滅せしめる。これは善悪を超えたものであって、これが最上である。

 善かれと思って為したことが人を苦しめ悲しませてしまう。それでは善行とは言えない。善かれと思って為したことが大団円のなかに終局し、余計な余韻を残さない。それでこそ善行である。何でもない瞬間をまっとうする人は、ことに臨んだその瞬間にも間違えないであろう。そのような人が、ついにこの円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと到達する。

 愚かな者は、言葉にとらわれて自分で自分をがんじがらめにしてしまう。たとえそれが正しい言葉でも、その真意を知らなければその言葉は愚者を地獄へと引きずり下ろす。愚者は、宝の使い方を知らないので愚者なのである。愚かな者を、他の人が救うことはできない。誰であろうと、自分で自分を救うしかない。すべからく、覚りは各自のことがらなのである。

 たとえ世間的に豊かな一生を送っても、この正法を知ることのない人生は空しい。それは決して豊かな一生とは言えないものである。たとえ極貧にあえぎ、糊口をすすいでも、この正法を知ることができた人は豊かである。人は、この正法によってのみ世の最高の境地に到達できるからである。

 ものを知らないと言うことは恥ずかしいことである。愚者は、ものを知らないのに、それでもうまく世渡りできるのだから自分は誰よりも賢いと思っているが、それこそが愚者の明かしである。

 正法を微かさえも知らないのに、恥ずかしいとは思わないのが衆生である。真に恥じることを知らない衆生が、どうして覚ることができよう。善知識は高貴である。その高貴さが、こころある人に恥じることを教えてくれる。恥じた人は真実を目指すであろう。真実を目指した人は、ついに一切の苦悩から解脱する。

 衆生にとって経典は難解である。しかし、難解でもつくり話ではない真実の言葉を聞いて、その真意を知ろうとせよ。それによって、人はその内容を頭で理解しなくても心に理解して、学識を増大せしめ、ついにはこの世で最高の果実を味わうことができるであろう。それを味わった人は、解脱するからである。

 どんなに面白くても、興味深くても、覚りの役に立ちそうな気がしても、つくられた話に心が縛られているのでは、とても安らぎに到達することはできない。下らないものによって学識が増大することはない。つくられたものは、最初は甘いが、終わりは苦く、気づいたときには毒が回っている。

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遍歴

 人が不滅の安穏に至るその道はいかなる宗教にも属さない。それゆえに、もし人がやすらぎを求めるのであるならば、世に宗教と名づけられるあらゆる迷妄と妄執の所産からこころを解き放ち、それだけでなく世間の束縛のくびきをすっかりと離れて、世間にあって世間に汚されることなく、よく気をつけて遍歴すべきである。

 「真理」を探求することより大切なことは、世に数限りなく存在する。それでも、修行者は正しく遍歴せよ。それによって、修行者は真に探究すべき大切なことが何なのかを知ることができるであろう。

 名称(nama)に翻弄される者は、虚ろな問いを発する。それは、問いとしての言語的形式を備えてはいるが、空疎で、ニルヴァーナに役立たない。それは、ただ紛糺を増すだけのものとなる。

 名称に翻弄されない人は、賢者である。かれは、名称(nama)作用が名称にもとづいて起こるものであると、こころに識って名称に翻弄されないのである。かれは、問うときには真実の問いを発する。その問いは、世間の何かに触発されて生じたものでは無く、かれのこころの深奥からわき上がった、かれにとってはどうしても解決されるべき、かれだけの問いである。しかしながら、そのかれの問いは、まさしく人類普遍の問いであると認められるものなのである。円かなやすらぎを求める人は、何にもまして、能く問う人であれ。けだし、自ら発する真実の問いこそが、自らの苦悩を終滅せしめるもといとなるからである。

 的外れなことをする者は、最初から的を外していながら、自分では的の中心をとらえているかのように錯覚している。まして、自分が的外れなことをしていると薄々感じつつ、それでもなおかつ、敢えて的外れなことをする人はなおさらあやうい。

 正しい道を歩んでいる人は、そもそも的外れなことをすることがない。かれの行為は、大団円の結末を迎えることになる。それどころか、かれは、たとえ的外れなことを(意識的に)しようとしても、それをわずかさえも為すことが出来ない。かれは、うまくやろうなどとは決して考えないが、明知が為すべきことと為すべからざることとを識り分けて、つねに的の中心を射抜くのである。それは、まるで大地に向かって矢を放つように、至極当然の顛末であったと本人には感じられるであろう。その一方で、的外れなことをする人は、まさに大地に向かって矢を放っていながら的を外し、悲嘆にくれるのである。

 的を射抜くのも外すのも、心構え一つである。それは本来容易なことではないが、聡明な人はそれをまるで容易にやり遂げる。狙うから的を射抜けるではない。狙わないから的を射抜くのでもない。狙わなくとも的は射抜かれるのである。心構えの正しさが、その不可思議なことをやり遂げる。

 的外れな行為は、どんな言い訳を用意したとしても空しく、詰まるところ道を汚す行為に他ならない。こころある人は、その愚をさとって諸事の錯乱を慎しみ、以て自らの道を浄めかし。聡明な人は、人と世の真実のすがたを見極めて、ついに究極の立場に立って自らの観を完成せよ。それを為し遂げたならば、的外れな行為を為すことはもう決してなくなるからである。

 こだわりを捨て去ることは容易ではない。なぜならば、こだわりを捨てようと思うその思い自体がこだわりに他ならないからである。こだわりを捨て去るためにこそ正しい遍歴を為せ。

 人々(衆生)は、聞いて心を楽しませ、聞いて喜びを生じる言葉を耳にすることをつねに欲している。それゆえに、人々(衆生)は、覚りの境地に至ることについて語られる言説についても、それは心を楽しませ心を喜ばせるようなものであるべきだと考えるのである。しかしながら、もろもろの如来が人々(衆生)に向けて語る理法や、善知識が世に稀有に発する法の句(=善知識)は、必ずしも人々を楽しませ、喜ばせるものではない。なんとなれば、人を覚りに導く真理の言葉は、聡明で、よく気をつけている、聞く耳をもつ明知の人だけに理解され得る微妙なる言葉であって、それはただ明知の人だけを真実に楽しませ、明知の人だけに真実のよろこびを生じせしめる言葉であるからである。こころある人は、言葉の感覚的感受を喜んではならない。世間に飛び交う何に触れても、高ぶることなく平静であれ。聡明な人は、心を損なうことがないように、よく気をつけて世を遍歴せよ。

 ここなる人が、他の人の所作・言動・振る舞い・態度などを見て、「かれは楽しそうである」と思うよりも 「かれは寂しそうである」とか「かれは悲しそうである」とか 「かれは苦しそうである」と感じたとするならば、それは実にめぐまれたことである。それは、およそ人がひととして生まれ歩む人生において行うべき正しい省察の大いなる糧となり、かれをして自ら不滅の安穏へと導き至らしめる確かな道しるべとなるからである。

 どんなに立派に見えても、見かけ倒しなものは役には立たない。たとえみすぼらしく見えたとしても、真に堅固なものこそがやすらぎに役立つものである。やすらぎを求める人は、揺らぐものに頼った平安に安住してはならない。揺らぐことのない信仰によって揺らぐことのない究極の境地に到達せよ。

 正しい道を知り、その道を歩もうと思った人は預流に入ったと言われる。しかし、それは道の歩みの始まりに過ぎない。せっかく正しい道を見い出しても歩まなければ安らぎには到達しないからである。

 善知識との邂逅を果たし、正しい道を知り、この一なる道を歩もうと思った人は預流果を得たといわれる。預流果は、別の名を”発心”と言う。これは道の歩みのすべてである。預流果の修行者が、あと一歩進んだならば解脱する。しかし、解脱するまでは油断するな。解脱したときには解脱したという正しい知見を生じる。解脱知見を得て初めて解脱したのである。

 いたずらに主張しても、一方的に聞き入っても、この一なる道を歩むことはできない。問うべき人に向かってあり得べき問いを為し、善き人々が発する稀有なる言葉を聞く耳を持つ人だけが道の歩みを堅固ならしめる。愚者が覚れないのは当然であるが、賢者さえも覚りは難しい。聡明な人は、仏の言葉を信じて道の歩みに奮励せよ。

 善かれと思って人々をけしかけ、煽動しても、その結果が善いとは限らない。大勢がその道筋を大挙して歩んだがために、全員が悲惨な目に遭うこともあるからである。しかしながら、この一なる道は果てしなく広くて平坦であり、そのようなことがない。ゆえに、この道を”危険が無い道”とも称するのである。

 最高のものを味わったのに、それが最高のものであると認識できない者の人生は哀れで空しい。かれの人生において、それ以上のものを味わうことは出来ないからである。さらに、もしも中途半端なものを味わって、それが最高であると誤って認識してしまうならば、まさに悪魔の手中に落ちたのである。

 最高のものを味わったのにそれが最高のものであると認識できない者の人生は、哀れで空しい。かれの人生において、それ以上のものを味わうことは出来ないからである。 最高のものを味わったのにそれが最高のものであると認識できない者は、果てしない輪廻を繰り返すことになる。これは遍歴とは呼ばれない。

 最高のものを味わったのに、それが最高のものであると認識できず、むしろそれが最低のものであると認識してしまう者の人生は悲惨で恐ろしい。かれは地獄に堕ちて長い間苦しむ。

 最高のものを味わって、それが最高のものであると認識する人の人生は楽しく喜ばしい。かれ(彼女)は、遠からず覚るであろう。最高のものを最高のものであると素直に識ることそれ自体が、その人に聖求と明知と安らぎへの熱望があることを確かに示しているからである。聡明な人は、理法に則り自ら解脱するであろう。

 経典を読んで分かった気になる。それは実は分かっていない証左である。経典を読んでそれが理解できなくても、真実を知ろうと熱望する人はその理解にまつわる意外な形で解脱を果たす。経典のこの部分で覚ったと明確に知る人もあれば、どこか分からないが経典を縁として覚る人もあるからである。

 経典を読んで分かろうとしないのはまずいが、経典を読んで理解できないことそれ自体は悲観するにはあたらない。経典の真意を、頭ではなく心に理解したならば解脱が起こるであろう。形態(rupa)の解脱者の存在は、それを確かに示唆している。

 焦ったところで覚りにより早く近づくものではない。むしろ、覚りは遠のいてしまうだろう。遠回りに見えても、ゆっくりと邁進する人がかえって覚りに大きく近づく。修行が積み重なって覚るのではない。功徳を積んでいて、「その真実」を知った人が一瞬に覚るのである。

 上手にやろうと思った瞬間に正しい道の歩みを逸れてしまう。覚りに向かうこの一なる道の歩みは、すべからく自分から(恣意的に、思惑を抱いて)動いてはならない。すべてを縁に委ねて、流れに従って歩むべきである。意外に思うかも知れないが、正しい遍歴とはそのようなものなのである。

 この一なる道の歩みには、追い風も向かい風も横風もない。まっすぐに歩もうと思う人は、その通りにまっすぐにニルヴァーナへと近づく。道の障害などど こ吹く風である。まっすぐに歩めない者があるとするならば、心がまっすぐではないために知らぬ間に歩みが曲がってしまうのである。

 自分が到達するべき処を(こころに)はっきりと知っていて、世間に汚されず、欲を御し、悪を制し、けしかけられず、駆り立てられず、見るべきものを見て、聞くべきことを聞き、知るべきことを知って、自ら見い出した道の歩みに邁進する心。それがまっすぐな心である。

 自分がまっすぐに道を歩んでいるかどうかを知りたい人は、次のことを知らなければならない。『紆余曲折に見えようとも正しい遍歴を為す人が、実はまっすぐに道を歩んでいるのである。 』 

 道の途中にどんな紆余曲折があろうともそれによって心が混迷せず、(正しい)信仰をたもち、目的の境地が容易に見えなくてもそのことで苛立つことなく、好ましいことに遭遇しても好ましくないことが生じてもそれによって心が汚されることのない人。そのような人が正しい遍歴を為す。

 人生において数限りない悲苦憂悩に出会ってもそれによって煩悩の燃えさかることが少なく、仏に出会うことが無くても自ら到達すべきすがたを見失わず、世間の何に触れても欲望に溺れず、執著を起こさず、心が汚されることのない人。そのような人が正しい遍歴を為す。

 じたばたせず、うろうろせず、あくせくしない人。そのような人が正しい遍歴を為す。

 真実を知ろうと熱望する人が、本当のことを知りたいと心から願う人が、真のやさしさを体得しようとする人が、いかなるひとをも悲しませることのないようにしようとする人が、正しい遍歴を為す。


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