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ネットワークシステム【ノア】

「全ては、このネットワークに存在している」

 ネットワークに繋がれていないモノはこの世界に存在してはならない。全てのマシン、全ての組織、そして全ての人間は、巨大なネットワークシステム【ノア】により管理されている。ありとあらゆるモノに固体識別番号が割り与えられ、その番号は枯渇することもなく、再利用されることもない。

 工場で開発された製品の識別番号のみならず、製品を構成する部品ごとに識別番号は存在し、詳細な項目を含めると膨大なデータが【ノア】によって管理されている。

 

 管理されているものはモノだけではない。この世界では生命すら管理の対象として扱われている。生物の誕生と同時に監視システムは固体の識別番号を割り与え、一瞬のうちに識別番号と生体情報はネットワークシステムで管理される仕組みとなっている。

 

 この管理システムが稼動して、すでに100年以上が経過している。当然、このネットワークシステム【ノア】を初期開発した担当者は既にこの世にはいない。

 

 【ノア】はもともと生産者情報から所有者情報のルート履歴を表示し、製品の品質保証を行う単純な製品のトレース管理システムであった。

 

 すべての始まりは旧世紀に【ノア】が複数の国家間による共通プロジェクトとして仮想世界プロジェクト導入の対象システムとなったことであった。再構築された【ノア】は巨大な一企業によって開発された。

 【ノア】は、購入者によるレビューの結果や代替品の提案といった情報を瞬時に収集し、分析、結果を表示し、未来予測までを行うシステムとなった。

 

 初期の【ノア】は不具合を出しながらも特定の国々のみで運用された。

 

 

「全ては、このネットワークに存在している」

 


 企業の過剰な謳い文句は、アレゲなネットユーザを中心に世界へ発信され、次第に【ノア】の利用者は増加した。体内に埋め込む(文字通りのプラグイン)端末の標準アプリとして【ノア】が組み込まれたことが普及の決め手となった。

 そして企業が電子政府を築いた時、既に地球上に存在する全てのモノは、この【ノア】に取り込まれていた。

 

【ノア】はモノや生命をデータによって支配した万能システムではあったが、幾つかの問題は開発当初から次期検討課題として残り続けていた。【ノア】の決定的な弱点。それは【ノア】は思想や時間までを管理することができなかったことである。

 

 【ノア】の広報担当はこの問題について語っている。

 「次期改訂では思想までも管理されることとなる。思想は脳波をデータに変換することで【ノア】に取り込まれることとなる。これは支配ではなく共有なのです」

 

 【ノア】の広報担当は続けた。
 

「アナログな意思はディジタルな意思へと変換され、相手との意思疎通は完全なものとなる」

 

 この完全ともいえる管理システムから、はじき出された男がいた。

 

 彼は世界に存在してはいけない男だった。


ある男の朝

 焼き付くような太陽光。ダイレクトに脳へ送られる光信号。閉じたまぶたでも視神経に届く信号を防ぐことはできない。

 奥歯を噛み締めながら、わずかな意識で右手を動かす。右手から人差し指に意識をシフトさせ、伸びきらない指先で右こめかみにあるスイッチを押す。

 眩しかった光信号が止まった。視界の奥ではメッセージが表示されているが、おそらく不要な情報だ。

 

「もう、こんな時間か……光アラームもいいけど、やっぱ音の方がいいかもな、もしくは光の調節が必要だな」
独り言を呟きながら重い体を鈍く動かす。

「たまにはcron使ってみるかな……」

 

 定期的な行動を事前に登録しておけば無意識で会社まで到着することができる。
中には仕事内容まで登録し、仕事中は睡眠時間という猛者もいる。

 かつて「下手な考え、休むに似たり」という誰が言ったかわからない格言があったようだが、「ルーチンワーク、休むに似たり」という言葉のほうが、この時代では適切だ。

 

 寝ていた時間を取り戻すようにメッセージの履歴情報を確認する。
 視界に半透明のダイアログが表示され、未読のメッセージが表示される。

 新着メッセージは2通。嫁からだ。最重要のタスクである。

「まだ、起きていないの?」「ご飯作る身にもなって」

「……どうせ、【朝御飯レシピ】だろうが」
 朝御飯のデリバリサービスが一時期流行ったのだが、今の流行は【朝御飯レシピ】だ。【朝御飯レシピ】は朝御飯を作る一連の行動をパッケージにして販売しているサービスである。「好きな時間に好きな量を、さらに出来立てを自分で作ることができる」というのが売りらしい。

 

 【レシピ】なしで自分で料理できる人間がこの世にいるというのなら会ってみたいほどだ。おそらく、一流と呼ばれるシェフでなければ作らないだろうし、それを食べることができるのは一部の人間だけだろう。まあ、自分は嫁が作った一流シェフの複製品を毎日食べているわけで何も問題がないわけだが。

 

 

 新着メッセージが届いた。
「あなたの音声届いているのよ」

 

 そうだった。今日から音声の記録、共有システムも適用されていたんだ。プライベート設定を行うのを怠っていた。

 

 

あいつ、自分だけプライベート設定しやがって。

 

「ごめん、ごめん。すぐに食べに行くよ」
 2階の個室から1階のダイニングへ向かう。この階段はわずかながらの運動である。自分はエレベータやエスカレータといった類は好きではない。特権階級のヤツラは転送装置とかいう機器も使えるらしいが……もし、自分が使えたとしても、そんないかがわしい装置なんて利用したくない。そもそも人間さまを機械が転送するなんて意味がわからない。昔で言う…Faxのような扱いを自分はされたくない。

 

 食卓に着く。向かい側には嫁。黙って朝飯を食べている。

「今日の朝御飯は、なんだよ?」
「【朝御飯レシピ】見ればわかるでしょ」
 箸と口だけを動かす嫁。

 

「いや、会話が欲しくてさ」
「【会話レシピ】買ってくれるの?」
 箸と口だけを動かす嫁。まばたきくらいしろよ。

 

「どっちかって言うと【寝る前レシピ】のほうがいいんだけどさ」
「はい、はい」
 そっと黙って席を立つ。自分の後頭部を人差し指で掻きながら、黙々と朝御飯を食べる嫁の後ろに回る。

「……モード変えとくか」
 後頭部のスイッチを押す。【ツン・モード】から【デレ・モード】へ変換するか。

 

「あなた、今日はいつ帰ってくるの? 会社休めば?」

 

 手のひらを返したかのような嫁の変わりっぷり。これがたまらないわけだが。ま、本当のお嫁さんを手に入れるまでは我慢だ。
 近年の統計データにおける未婚率の増加は、生涯のパートナーがアンドロイドでいいからだろう。

 男が結婚したいと思っても、女性は女性で理想の男性アンドロイドを持っているし、この時代に生身の人間と結婚なんて普通にありえない話なのかもしれない。恋愛の駆け引きが楽しいといっている奴等のほとんどはイケメンだ。奴等は勝った状態で駆け引きを楽しんでいるにすぎない。

 

ニヒルな笑みを浮かべ俺の嫁を見る。

「男は愛するもののために働くもんだ」

もちろんプライベート設定でつぶやいた。


輸送車両が運ぶモノ

別れを惜しみ家の外まで送り出してくれる嫁を背に駅まで歩く。


「今日は晴れか。午後12時より曇り。午後14時より午後16時まで雨か。……よしっ!」

 巨大なドーム内に構築されたコロニーでは気象庁が天気を投票結果で決めている。天気は事前申請である程度の得票があれば思い通りの天気になるわけだ。
 【晴れの日推進会】とか言う晴れの日だけを申請する輩がいる。だから自分はあえて雨を申請している。雨の日を考える善良なドーム民たちの思いが実った成果が雨の日なのである。

 

 天気マニアになれば、翌日の天気などは天気予報などを見る必要はない。天気マニアは前日のレコメンド商品を見ることで翌日の天気を予想する。レコメンド商品に傘が入っていれば間違いなく配送日の翌日は雨だ。

 このコロニーでは未来は決められている。未来を決めるうえでの不確定な要素は可能な限り排除されている。これはコロニー運営だけでなく一般生活においても有益なことが多いため未来決定志向に対する反論者は少ない。

 未来を知りたくなければ未来を知らなければいいだけだと未来決定信者は語気を荒くして言う。まあ、自分は未来決定信者と戦う極めて少数派の未来決定反論者の一人である。

 

 新着メッセージが届いた。

「まもなく輸送車両が到着します」

 ドーム内を定期的に周回している輸送車両が駅に到着する。この輸送車両は5分以上の遅れが発生したことは無い。

 

 輸送車両に乗り込む。車両は6両編成。席は余っている。いつもと同じ顔が並んでいる。

 

 新着メッセージが届いた。同じ車両で通勤している同僚の4410だ。社員番号が4410だったのでそう呼んでいる。
「音声をプライベートモードにしてないだろ?」

 あわてて自分の音声をプライベート設定を行う。エリアチャットでは音声データが行き交っていた。プライベートモードの設定を忘れている乗員が多いようだ。

「エリチャの設定忘れていたな…出かける前のあのセリフ、誰にも聞かれていないだろうな」

 

 4410が自分の右隣に座る。手に何か持っている。

「なあ、おもしろいもの手に入れたんだ。見てみるか?」
「ああ、どうしたんだよ。急に」

「これ、ドームの外から手に入れたんだ。これ、検索してみろ」
「ん? 登録されていないものか」

「そう、そうなんだよ。珍しいだろ」

 ドーム間の通勤を行うものは少ない。ドームの外は環境汚染が激しいためドームの外には出ることは禁止されている。ドーム間の移動を行うためには、双方のドームの許可が必要という規律まであるくらいだ。

「これは2つある。1つ、やるわ」

 自分は差し出された未登録のモノを受け取るとスーツの内ポケットに入れた。

 

 会社に着きデスクワークを行う。あの未登録のモノが何であったかが気になったが、業務が忙しく定時まで確認することは無かった。

 もちろん定時になったら帰宅する。定時退社デーだったからだ。何も悪いことはしていない。

 自宅のドアを開ける。三つ指を立てて頭を下げた【デレ・モード】の嫁がいた。

「おかえりなさいませ、ダンナ様」
 晩御飯を食べ終わると、気になったモノを検索した。

 

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【石】

ただの石。

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「なんだ、ただの石か」

すでにネットワークシステム【ノア】にはデータが登録されていた。
しかし、一時登録のせいか参照可能な情報はわずかであった。次第に情報が付加されていくのだろう。

 

 翌日も同じように輸送車両に乗って通勤。
「誰か一緒にいけるやつがいたらなあ」


招かれざる訪問者

 会社の最寄駅が近づく。輸送車両のインタフェースに降車メッセージを送信する。

輸送車両は緩やかに減速し、駅の停止線ぴったりに停車する。

「今回も失敗だったか」

 ギリギリのラインで輸送車両のインタフェースに降車メッセージを送信すれば、停止線を越えるのではないかと些細な通勤時の楽しみをしているのだが、どうやら他に降車する人間がいたようだ。

「もしや、cronで停止ラインギリギリのメッセージ送信タイミングを制覇している奴が、この中にいるのか」

降車する人間を見ても該当者はいない。

「まあ、もしも止まらなかったら困るからな」

 

 考え事をしながら輸送車両から降りる。ここからは徒歩だが駅から5分程度の距離だ。
 空調の利いた会社の自動ドアが開くと同時に新着メッセージが表示される。

 

「勤怠データが更新されました。本日は定時退社日です」
 識別番号と体内デバイスに組み込まれた位置情報送信装置で勤怠の管理が行われている。

 ちなみに「本日は定時退社日です」のくだりはカスタムメッセージで自分で追記したメッセージである。気持ちはいつも定時退社。それが信条である。

 

 会社では空いている席が自分のビジネススペースとなるわけだが、自分にはコダワリの席がある。

 【1F東側の窓際の席】。

 これが自分のコダワリの席である。なぜなら最も人目につかない場所であるからだ。そして、季節の景色が最も色鮮やかに鑑賞できる場所でもある。cronで作業しているフリをしている会社員は知らないだろうし、興味の無いことだろうが。

 

 自分の体内デバイスのみで作業は可能であるが、会社の端末を使うことでビジネスエリアに設定した利用者と情報を共有することができる。
 情報は既に十分すぎるほど公開されているため情報漏えいはさほど問題にはならない。ただし、プライベートな部分の情報漏えいが問題になることが多いのは人類が智恵を手に入れた頃から何一つ変わっていない。

 新着メッセージが届いた。

 

「【緊急】お客様からお呼び出しです。1F応接室へ向かってください」


 ……緊急ねえ。強制割り込み機能を持ったメッセージで送信が行われている。cron会社員の対策の一環だ。今やほとんどの業務メッセージには【緊急】という接頭語がついている。

「本当に緊急なのかと問い詰めたい。小一時間ほど問い詰めたい」


 

 ビジネススペースに展開されたディスプレイを消去し席を立つ。黙々と作業をしている振りの会社員を横目に応接室へ移動する。既に来訪者は応接室の中にいた。

 


 

「すみません、遅くなってしまって。どうしても離せない作業がありましたもので」
「いえいえ、私の方こそアポなしで訪問しておりますので」
 どうやらお得意様のお客ではなさそうだ。営業マンか、何かの監査団体だろう。
「ところで、どなたさんなのでしょうか」

「名乗るほどではございませんので」

 旧世紀では名刺交換等のやり取りを行ったり、相手に手袋を渡したりしたようだが、このご時世では検索しておくのが常識である。


 すでに相手の検索は行っていた。しかし、検索結果が表示されない。

「ん? ちょっと待って下さい」

「あ、私、登録されていませんので」

「ああ、そうなんですか」

「私、こういうものです」

 来訪者は紙を差し出した。四角い型紙に印字された……なるほど、これが名刺というものか。

 

【ノア】エリア代表補修人 カジキ

 

 

「なんか、すごい人のようですね」

 自然に出た言葉はお世辞と本音の入り混じったものだった。
「システムのメンテナーです。簡単に言うと修理屋です」

 冷静にカジキという男は応えた。
「で、どういうご用件で」

 

 

「あなたにエラーが見つかりました」

 

 

「はぁ?」


予期せぬエラー

「もう一度言います。あなたにエラーが見つかりました」

 

「え? はぁ?」

 

「聴覚、思考データにエラーは出ていないはずですが、もしかしたら」
「確かに自分は頭の出気が悪いかもしれませんが、それは元からでして、その、なんていうかエラーと言われるのは心外ですが」
「いえいえ、あなた自身がエラーではないんですよ。あなたの体内デバイスがエラーだということです」
「なるほど、では修理してください」

 

 

「それが無理なんですよ」

 

「へ?」

 

「ご相談にあがったのは、無断では削除できない法律になってまして」
「削除。削除ってどういうことですか」

 

「あなたの代わりをこちらで用意するので、同意をお願いしますという確認です。あなたはいなくなります。しかし、世間一般的にはあなたは存在していることとなります。固体識別番号もそろえますので、この世間的に問題ありません」

「問題ありですよ」

「ほとんどの方がそう仰いますね」
「で、自分は死ぬことになるんですか」

「代わりのあなたは生き続けますよ」

カジキという男は冷静だ。この不毛なやり取りに慣れているようだ。

 

やばいな。このままだと消される。なんとかして自分が生きることを正当化しなければ。

 

「【ノア】の関係者ならご存知ですよね? 【ノア】は生命すらも管理したと公言していますが思想や考え方までは復元や複製はできない。これは過去からの【ノア】の永遠の課題ですよね。実際には、あなたたちは生命について何もわかっていらっしゃらないようで」


 

 自分の発言にカジキという男の眉が動いた。この問題は【ノア】の関係者にはタブーの領域である。

 

 

「はい、あなたの思考にもエラーがあるかもしれませんね。【ノア】は完璧です。まあ、説明を聞いてください」

 そう言うとカジキは我に返り、定型作業のように話を続けた。自分の発言について、うまくお茶を濁された感じだ。

「あなたの体内デバイスにメモリリークが発生しているようなんですね。原因はバグとは言いにくいのでウイルス感染だと考えています」
「なるほど、バグではないと。あくまでウイルス、ウイルスと。ウイルスによる不具合と」

「類似障害がありまして間違いありません。一番怖れているのは、外部への感染を怖れているわけです。もし、あなたのコンピュータウイルスが飛び火してしまうとパンデミックが発生するわけです」
「では、そのパンデミックの対策はどのようにするんですか」
「あなたと通信を行った端末の隔離と検疫、あなたと感染者の削除」

 

「そういうことですか」

「そういうことです」

 

やばいな。これは。自分の体内デバイスがおかしいのは事実なんだろう。でも、どうする。

「家内に相談したいのですが」

「あなたに家内はいませんよね」

 

「では、親に」

「ご両親はいませんでしたよね」

 

「弟と相談したい」

「弟さんがいらっしゃったんですか。ま、期限がありますので、明日にはあなたを削除します。代わりのあなたも用意いたします。最期の一日を楽しんでください」

 

「長い休暇になりそうです」

「ええ。では、ただ今より、あなたはロストナンバーとなります」

「そうですか」

 

「データの移行期間がありますが、あなたの権利はすべて、代わりのあなたに委譲されます」

「そうですか」

 

「つまり、あなたはいつ殺されてもおかしくない状態になります」

「そうですか、では、私は家に帰ります」

 

「今から作業開始しますが帰りの車両は乗れると思います」

 


 はあ、人生オワタ。


死の前夜

「ただいま」

 かかとで片方の靴を踏み靴を脱ぎ捨てる。

「おかえりなさいませ、ご主人様」

 靴を揃える嫁を脇目にもせず、リビングに向かった。

 


 【デレ・モード】の嫁の声が聞けるのも今日で最後だ。おそらく自分の代わりへデータが移行された段階で自分の存在は不要になる。殺されるとしたならばその瞬間だろう。

 この体内デバイスがネットワークに繋がっているのであれば、一瞬で心臓を止めることも可能なのではないだろうか。

 

「待てよ。すでに攻撃は始まっているかもしれないな」

 

 

 自分の活動ログを確認する。メモリエラーもなく端末に異常の気配は無い。

 

「朝9時、出勤」「朝11時、来客対応」「午後、体調不良により帰宅」

 

 ローカル情報には何の変化もない。虫歯が悪化したことを除けば特に問題は無い。

 

 

「どうやら個人の活動ログは改ざんできないようだな」

 

 カジキとの話し合いの後、【1F東側の窓際の席】に戻り、仕事を再開しようとした。しかし、既に自分の作業実績は記録されていた。カジキが訪れた際のビジネススペース内での緊急メッセージは削除され、カジキとの来客対応は無かったことになっていた。しかし、個人の活動ログは残っていた。

 プライバシーの配慮から、【ノア】の管理人クラスであっても個人の活動ログは改ざん、参照できないようになっているのだろう。

 

「真面目か!」

 このあたりは真摯に仕様通りに作りすぎているのでないかと、不覚にも【ノア】の誠実さに感心した。

 

「待てよ……」

 個人ログはコピーも参照もできない。ここに自分が生き延びることのできるチャンスがあるかもしれない。

 公式ログの記録と事実の差異が発生すれば記録上では死亡し、実際には生存している状況を作り出すことができるかもしれない。

 

 

 【ノア】側からの通信は全て受け付けないようにする必要がある。自分から【ノア】側への接続も控える必要がある。

 

 

「ご主人様、ご飯冷めちゃいますよ」

 未来を憂う自分を嫁の甘い声が現実に引き戻す。

「悪い、悪い。食べるよ。おいしいうちに」

 

 

嫁が作った最期のご馳走を食べ終える。

「オムライス、作るの上手くなったな。美味いよ。本当に」

「また、明日も作りますね」

 毎回の食事の後に自分好みの味になるように、【レシピ】のパラメタをいじっているのだから、美味しくなるのは当然である。

「また…明日な」

 

 食事を終え、自室に引き篭もると、過去に調べた資料を全てプライベート領域に格納した。体内デバイスを含む全ての端末の設定を変更し、外部からの応答は全て弾くようにした。

 

 

 リビングに戻る。充電器の前で座り込む嫁。

 いつもは自分の位置情報から帰宅前になると起動していたため、無表情の嫁を見るのは購入した時以来であった。

「なあ、今までありがとうな」

 嫁に対して感謝の言葉だった。自分の言葉に嫁からの応答は無かった。

 

 

「わかってる。もう、お前には、僕の声、聞こえてないんだからな」

「……」

 相変わらず無反応の嫁。

 

「……からの」

「……」

 相変わらず無反応の嫁。

「だよな。何もないよな。これでいい、ああ、これでいいんだ」

 

 

 自分の位置情報から自分の生存信号まで処断した。これで自分が死んでも身内や救急隊が駆けつけてくることも無い。知人にしてみればコンタクトリストに登録しているリストから自分一人のIDが削除されただけに過ぎない。削除されたことに気がつくのもわずかな知人だけだろう。

 

 

「テストは完了した。よし、元に戻しておくか」

 端末の設定を元に戻す。プラグイン端末が自分の位置情報、生存信号の送信を始めた。

 

「ご主人様、いつのまに戻っていたんですか」

「ふ、魔法使いは突然現れるもんだ」

 上目遣いに驚く嫁に、自分なりのニヒルな笑みを返した後、小さく呟いた。

「本当は魔法使いにはなりたくないんだけどな」

 

 

「さて、明日、何時まで生きているんだろうな。本物の自分は」


死の宣告

 デジタル音が鳴っている。かすかに意識を取り戻した。

 デジタル音が鳴っている。問題ない。

 デジタル音が少し大きくなった。まだ我慢しよう。隣人には影響がない。

 デジタル音が何分鳴り響いているのかわからない。もう起きよう。

 

 

「……光信号からデジタル音に変えてみたが、朝起きれないのは体質の問題だな」

 旧式の目覚まし時計であった。音だけは馬鹿でかい。こいつのいいところは電池で動いているということだ。そう、この使い勝手が悪いところが自分に似ていてたまらない。

 

 新着メッセージを受信しました。

「【重要】入替作業のご案内」

 

 

「メンテナーのカジキです。先日は貴重なお時間を頂き、誠にありがとうございました。

移行準備が整いましたので、本日の13:00より入替作業を実施いたします。

最寄の公的機関、もしくは自宅にて作業開始時まで待機をお願いいたします。

以上、よろしくお願いいたします。」

 

 

「最寄の公的機関? どういうことだ」

 

 新着メッセージを受信しました。

「【補足】移行作業オプション」

 

 

「メンテナーのカジキです。移行時に以下のオプションがあります。

・キャリアアッププラン

 経営者になってみませんか。入替作業時にあなたの経歴を一部変更いたします。古いあなたは新しいあなたに代わり、素晴らしい経歴を持った状態で生活していくことができます。

・スキルアッププラン

 あなたは天才だったのです。他人には気がつかない程度にあなたの能力を価格に応じてスキルアップを行います。ばれても大丈夫。「努力」と「才能」という言葉があなたを守ってくれます。

・オーバーライドプラン

 残したい記憶があれば消してみませんか。あなただけの記憶ではなく、すべての記憶を上書きいたします。あなたが消える際にすべての情報を消してみませんか。

・スペシャルプラン(期間限定その1)

 メンテナーとして第二の人生を歩みませんか。ただいま【ノア】ではメンテナーを募集しています。興味のある方は本日の12:00時までに、【ノア】人事部までご連絡ください。

・スペシャルプラン(期間限定その2)

 最新の【ノア】を体験してみませんか。あなたは永遠の存在を手に入れることができます。興味のある方は本日の12:00までに、【ノア】人事部までご連絡ください。

すばらしいプランをぜひご購入、ご体験してください」

 

 メッセージの斜め読みを終えると、ため息とともに愚痴が漏れる。

「なるほど。なんて目覚めの悪い朝だ。最期の日、死の宣告ってわけか」

 再度、「【補足】移行作業オプション」のメッセージを開く。価格の欄を見てすぐにメッセージ画面を閉じる。

「オプション品はどれも購入できそうにないな。メンテナーになるのにも金が要るのかよ。金、金、金だな」

 

「ご主人様、今日はどのようなご予定ですか?」

 嫁からの新着メッセージ。

「ああ、スケジュール入れるの忘れていたな」

 スケジュールを開く。13時に公的機関とすでに予定が入っていた。「承諾」をクリックする。

「それなら公的機関とやらにいってやろうではないか」

 公的機関であるコロニー管理局は【ノア】のデータセンターの1つである。コロニー管理局のエリア内でしか行えない登録手続き、更新手続き、抹消手続きがある。

 

 軽いストレッチを行い、ダイニングルームに向かうと既に嫁は朝飯を作っていた。エプロンをつけた嫁の後姿を見ることができるのもこれが最後かもしれない。

「ご主人様、公的機関に行って何をされるのですか?」

「悪あがき」

「ご主人様、捕まらないようにしてくださいね」

「ああ。もちろん」

 嫁が皿を両手で持って振り返る。

「今日もオムライスなのかい?」

「ご主人様、オムライス嫌いでしたっけ?」

「いや、そういう意味ではない」

 

 オムライスを口の中に詰め込む。歯を磨き、髪を整え、スーツに着替える。

見た目は何も変わらない。

「さあ、戦闘準備はOKだ。今日の夜には戻ってくるよ」

「いってらっしゃいませ、ご主人様」

 

 定期便の輸送車両に乗ると、コロニー管理局へ向かった。

 12:00。タイムリミットまで、あと1時間。


ID交換

 普段と変わらぬ輸送車内。携帯端末でゲーム対戦をしている子供たち。眼鏡越しに難解そうな本を読む老人。周りの迷惑を顧みず大声で話すおばさん…失礼、婦人たち。キャバ嬢風アンドロイドとデート中の男性。

 この乗客の中にもうすぐ消される人間がいるなんてことは誰も予想すらしていないだろう。ぼんやりと景色を眺めながら輸送車両に揺られること30分。コロニー管理局前の駅で降りる。


 12:45。タイムリミットまで、あと15分。

 

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コロニー管理局。
コロニーの全住民、全施設、外部へのアクセス、外部からのアクセス、すべての情報を管理している公的機関。

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 コロニー管理局は円筒型の灰色の建物で入口のみの建物で中を覗けるような窓はない。エアーダクトからは生暖かい空気が放出されていた。

 

「何年ぶりかな。管理局に入るのは」

自動ドアが開く。

 12:47。タイムリミットまで、あと13分。

 右手を受付の端末に乗せると、ディスプレイに「6FのフロアB」と表示された。
「へえ、ここ6Fまであったんだ。知らなかったな」

 網膜ディスプレイにエレベータまでのルートが表示される。案内されるままにエレベータのある部屋へと進んでいく。

 

 コロニー管理局の職員とすれ違うこともなくエレベータの前に到着した。エレベータが開く。

 目の前に自分がいた。

 自分が右手を上げるが、目の前の自分は、あきれた顔でこちらを見ていた。鏡ではないようだ。

 

「どうぞ、こちら空いていますので、お乗りください」
「あ、いや、自分、次ので乗るんで。結構です」
「そうですか」

 自分とのやり取り、お互いの無言の時、わずか数秒の出来事が数分のように感じた。
 エレベータは自然に閉まった。閉まり際に目の前の自分が微笑んだのがわかった。
 悪魔のような素敵な笑顔だ。鏡の前で笑う自分とそっくりだった。


「あの人が、新しいあなたなのですよ」
 背後からの声。聞き覚えのある声。振り返る。カジキだ。

 

「ロストナンバー。先ほどのあなたが新しいあなたです」
 両手を広げ、神の申し子のように語り掛けるカジキ。

 

「…ドッペルゲンガーかよ」
「あなたのIDは新しいあなたに引き継ぎました」
 自分の言葉に耳を貸さないカジキ。相変わらずだ。

「なるほど、ちょっと不満を言ってもいいかな」
「応えられる範囲であれば」

「もうちょっとイケメンにしてほしかったな」
「これ以上は無理でしたね」


 12:54。タイムリミットまで、あと6分。


「あと、5分ほど後にあなたは死にます」
「死因は? それより痛くないんだろうな?」

「強制シャットダウンによるガベージです」
「時間もないし、サルでもわかるように言ってほしい」

「あなたの体内デバイスを暴走させます。脳への血流を止め、同時に心臓を停止させます。ご安心を、痛みはありません。体への負担の少ない方法で肉体および臓器は再利用できます」

「その起動スイッチはどこにあるんだ?」
「このコロニー管理局のスケジューラに登録してます。自動でキックされます」

 

わざわざコロニー管理局へ呼んだのは電波障害を防ぐためだったのか。

 

「今から電波の届かない場所でも行こうかな」
「このコロニーの外に出るということでしょうか? それならば、異動手続きが必要ですよ」

そういえば、コロニー内で電波が圏外になることなかったな。いい仕事をしてらっしゃる。

 

「あと、3分後にあなたは死にます」
「いちいち言わなくても、時間くらい自分でわかる」

 

あと、2分じゃないか。多めに見積もるなよ、カジキ。

 

「そういえば、さっきのクローン。自分とIDが同じって言ってたな」

「ええ、純粋な複製ですから」

「同じIDなら同時に死ぬんじゃないの?」

「ご安心を。実際は、あなたのIDを消した直後に、あなたのIDの入れ替えを行うのです」

「なるほど、しっかりテストはやったのか?」

「ええ、万全の体制です」

 

「まもなく、あなたは死にます」