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神保町の大金庫 《2》

《2》

 ある夕方、俊介はこの日も宙書房を訪ねていた。

 玄関を入ると、階上から言い争う声が聞こえてきた。奈津子と娘の香織である。

「お母さん、もういい加減、ここから引っ越してよ。ここは古すぎるし、危険だわ」

「心配いらないわよ。香織だって知ってるでしょ、この建物。土台がしっかりしているし、家賃だって安いんだから」

「そりゃ2階は落ちないだろうけど、地震で屋根が壊れたり、壁が崩れたりするわ。でも私、そんなこと、言ってるんじゃないの……」

「じゃ、何なのよ」

「古すぎるでしょ、この建物」

「別にあなたが生活しているわけでもないし、事務所として立派に使ってるだけなんだから。香織が気にすることじゃないわ。とにかく、私はちゃんと仕事をしてるんだから、とやかく言われたくないわね」

「よく考えてよね、私の気持ちも。お母さんをこんな所に置いておきたくないの。恥ずかしい姿をみせたくないのよ。私たち、母一人娘一人なんですからね」

 娘の香織は、大手証券会社に勤めていた。30台半ばの彼女は、保険運用のコンサルタント営業として実績をあげ、そこそこの給料を手にしているらしい。まわりでは、〝鷹が鷹を生んだ〟と評判の娘であった。

 俊介は、階上の喧騒を聞き、出直そうかと迷ったが、そんなことを気にする2人ではない、そう思って階段を上がることにした。

 2、3段上がったところで、香織が踊り場に顔を出した。

「じゃ、お母さん、また来るけど、よく考えておいてね」

 香織は扉を閉めると、階段口の手すりに手を伸ばした。

「あら、吉田さん、ご無沙汰しています」

 香織は、登ってくる俊介の顔を認めると、軽く会釈をした。

 俊介もまた会釈を返す。そして登っていた階段を下まで戻った。とてもじゃないが、すれ違えるほど、階段は広くない。

 2人は玄関口で顔を合わせると、あらためて挨拶し合った。

「香織さん、お久しぶりですね。今日はどうしたんです? 賑やかな声がしてたけど……」

「ええ、そうなの。お母さんに、ここから引っ越すよう頼んでいたのよ。もう古いでしょ。それにみっともないし、危険だから。どこか小じんまりとした事務所にでも移ってもらいたいわ」

「いいじゃないですか。僕、ここ好きですよ。とっても牧歌的で……」

 口をついて出た言葉であったが、俊介自身、あらためてそのことに気付いた。

〈そうか、牧歌的か。この言葉こそ、ここの雰囲気にぴったりだ〉

自分で自分に感心していると、

「そんなこと、他人だから言えるよ。身内にしてみればとっても心配だわ。でも、仕方ないわね、こればっかりは。お母さんが決めることだもの」

 香織は、俊介の無責任な言いように最初は不満に思ったが、なかばあきらめの気持ちと、ふんわりしたここの雰囲気は認めざるを得なかった。

「お母さんのこと、これからもよろしくお願いしますね」

 それから彼女は軽く一礼すると、玄関を出ていった。日頃はカビ臭いこの空間に、彼女の甘い匂いが残った。

 一方、彼女を見送った俊介は、外の光に一瞬目を細めたが、現実に引き戻されたかのように、再び階段上を見上げた。それから、ギシギシと音を立てて登ると、いつものようにノックもせず、引き戸を開けた。

「奈津ちゃん、こんにちは。香織さん、相変らず美人ですね。もう10年若かったら、放っておかないのに――」

 部屋に入ると、仕事中の奈津子に声をかけた。

「あら、俊ちゃん、いらっしゃい。何、バカなこと言ってんの。それより、何か飲む?」

 奈津子は、老眼鏡をはずすと振り向き、立ちあがろうとした。

「あっ、自分でやります」

 俊介は、片手で制しながら、作業台横の冷蔵庫を開けた。

「下まで聞こえてましたよ、お2人の会話。仲がいいんですね」

「ま、女同士の親子なんて、どこもこんなものじゃない? 姉妹みたいなものよ」

 奈津子は眼鏡をかけ直すと、再び机に向かった。請求書を起こしているようだ。

「そんなの、パソコンでやったら? 何なら、僕がマスターを作ってあげましょうか」

「いいわよ、そんなにないんだから。却って時間がかかっちゃうわ」

 俊介は、そのまま作業台の椅子に腰を下ろすと、上着から煙草を取り出し、冷蔵庫の上の灰皿をとった。あまり話しかけて奈津子の仕事の邪魔をしては悪い。

 一方の奈津子は、仕事を続けながらも、先ほどの香織の言葉を考えているらしかった。

「香織の気持ちもわかるけど、本当は彼氏をここに連れて来たくないんじゃないかしら。彼氏、外資系銀行のエリート社員で、『お母さんは何を?』と聞かれて『出版社の社長』って答えたらしいんだけど、こんなんじゃねえ。恥ずかしいのかもね」

 自分から香織のことを話題にし始めた。

「そんなことないですよ。本当に心配しているんじゃないんですか?」

「ま、そうかもしれないけど……。私、ここを引っ越す気なんてさらさらないわ。何しろもう何十年も住んでいるんだから」

 奈津子がこの神田神保町に事務所を開いたのは、旦那と離婚してすぐである。お腹には娘の香織がおり、本格的に働かねばならなかった。

そもそも奈津子と旦那は学生運動で知り合い、結婚後もなにくれとなく活動を続けていたらしい。離婚後、奈津子は周囲の活動仲間の支援を得て、神田神保町に出版社を開いた。ここに事務所を開いたのは、家賃が安かったからである。大家さんは奈津子に同情し、しかも1階にある使い物にならない大金庫のおかげで、格安でここを貸してくれた。

また周囲の仲間は、書いて発表できる場が欲しかったので、奈津子が出版社を作ったことを歓迎した。それらの好条件が重なり、本の街神田神保町に事務所を開くことができたのである。

 宙書房には多くの人が出入りしていたという。大学の先生、院生、作家の卵、活動家など。みんな書くことが好きで、稿料がなくても気にしなかった。自分の書いたものが世に出るだけで嬉しかったのである。

 時代は学生運動や労働運動が盛んな頃で、この頃から加藤登紀子の〝お登紀さん〟をもじって〝神田神保町の奈津ちゃん〟と呼ばれていた。

 その後、学生運動は下火になるが、宙書房は順調に続いていた。何しろ出版は時代の最先端であったし、本もよく売れた。しかも、まだ女性が会社を経営するという時代ではなかったので、世間からも注目を集めていた。いうなれば、シングル・マザーという言葉もキャリア・ウーマンという言葉も、彼女が先駆けであったかもしれない。

 俊介は、机に向かっている奈津子の背を見ながら、『いろいろあったんだろうな』と空想していた。

〈水道橋通りに学生のデモ隊がシュプレヒコールを上げている。それを両脇から固める機動隊。突然ピィッ、ピィッ、ピーと警官が学生を制す。そのうち、甲高い警笛や学生の怒号が入り混じり、両者が一気に衝突する。それらの音がこの部屋からも聞こえてきて、急に緊張感が高まる……〉

 また、

〈原稿用紙を手にした若者が奈津子に説教されている。『この程度の内容だったら売れやしないわよ、もっとしっかり書かなきゃ』、『活字は文化よ、文化をなめちゃダメ、もっと覚悟を決めて書きなさい』と叱られていたかもしれない。なかには、いまは名の知れた著述家の卵もいたらしい〉

 何も仕事だけじゃない。昔の彼女はマドンナ的存在だったという。

〈美形だったから、言い寄る男も多かったに違いない。しかし彼女は男には目もくれず、仕事と子育てに集中していた。『私は誰の助けも借りない。自分一人で生きて行くわ』そう言っていたかもしれない〉

 俊介は、短くなった煙草を灰皿に押しつけると、もう1本取り出した。それから、壁に貼ってある年代物のポスターを眺めたり、棚に無造作に置かれた宙書房出版の本の背表紙を見ていた。

 そのうち俊介は、静かな部屋の雰囲気に耐えかねて、奈津子に声をかけた。

「奈津ちゃん、あの本の著者、いまでも連絡があるんですか?」

「え、どの人?」

 奈津子は振り返ると、俊介が指さす背表紙に目をやった。いまはよく知られた評論家である。

「あ、あの人ね。あるわけないじゃない、もう昔のことよ。でも、誰かの葬式でチラッと見かけたわ。すっかり老けてしまって、もう昔の面影なんてなかったわね」

「〝安保は遠くなりにけり〟ですか」

 俊介は、独り言のように言った。

 しばらくして、ギシギシと階段を上ってくる音がする。

 顔を出したのは、いつもの桂木であった。

「おっ、香水が匂うけど、さてはレディが来てたな。おっ、またまた俊ちゃんか。相変らず暇そうだな」

 桂木は鼻をクンクンさせながら、作業台横のイスに座った。

「桂木さん、こんにちは。香織さんが来てたんですよ」

「そいつは残念、香織ちゃんの美形、拝みたかったんだがなあ。ところでどうだい、俊ちゃんの仕事のほうは?」

「もちろんダメ。こう景気が悪いと、仕事なんて回ってきませんよ。それより、桂木さんこそ大変なんじゃありません?」

 近頃では、印刷業界は構造不況業種と呼ばれている。インターネットが発達し、印刷物を造らなくなってしまった。パンフレットや広告はネットに代わり、雑誌は売れなくなった。会社案内もインターネットで済ますことができるし、チラシも同様だ。ましてや、本も読まれない。

昔は、印刷業界は右肩上がりで、不況知らずと言われてきた。景気が悪ければ宣伝しなければならず、良ければ良いで情報発信が多くなる。だから、印刷だけは不況知らずと言われてきたのである。

 しかしこの頃は、景気が良かろうと悪かろうと、印刷そのものがなくなる時代であった。

「ああ、確かにな。だが、ワシはまだいいほうだ。親父がここ神保町で印刷の仕事をしていたから、地上げがあったが財産だけは残った。いまの会社だって、いわば道楽みたいなもんだ。建てられたビルの一階を優先的に借りることができたからな。どうしても立ち行かなくなれば廃業するさ」

 桂木は、いつものように冷蔵庫を開け、バーボンを取り出した。

「奈津ちゃんもそろそろ楽隠居したら? 娘さんも大きくなったことだし――」

「仕事を止めたら、逆に、病気になっちゃうわよ。それに、私がここを止めたら、あんたたち、どこへ行くのよ。どうせ行くとこなんてないんでしょ?」

「そりゃ、そうだ。しかしなあ……」

 奈津子と桂木は、長い間この神田神保町で近所付き合いをしてきた。良いも悪いも、お互いに了解し合っているのかもしれない。

「香織も同じことを言っていたわ。早く引っ越せって……」

 ちょっとしんみりした雰囲気になってきた。

 俊介は、場をなごませようと2人の会話に割り込んだ。

「2人ともいいじゃないですか、老後のおカネ、心配しなくていいんですから。オレらなんて、定年の頃には年金なんて貰えませんよ。どっか田舎に行って百姓でもしなきゃ」

「お、それいいね。いまから行っちゃいなよ。同じ行くなら、白馬あたりがいいんじゃないか? 遊びに行くからよ。何しろ、北アルプスの玄関口だからな。な、俊ちゃん、そうしろ、そうしろ」

「はは、いいですね」

 俊介は苦笑いした。

 そのうち奈津子は、眼鏡をはずして立ちあがると、いつもの酒肴の準備を始めた。立ち際、

「そういえば俊ちゃんて、どこの出身だっけ?」

「はい、山形の遊佐町というところです。酒田市のちょっと先、秋田県との県境です」

「お、それじゃ、鳥海山の麓じゃないか。すぐにも帰りなよ。帰って百姓やった方がいいぞ。ところでおまえ、長男か?」

 桂木は茶化しながら、バーボンをぐっと飲み干した。

「鳥海山の麓なんて、とってもいい所じゃない。私、引っ越すなら、そんな所がいいわね」

 奈津子の言葉は、本気とも冗談ともつかない。

 俊介は、桂木の冗談に苦笑いしながらも、奈津子の言葉の意味を考えた。

〈やはり奈津子さんでも引っ越ししたいのだろうか? それにしても不思議な人だ。母一人子一人で苦労しただろうに、そんな険しさがほとんどない。いつもみんなの相手をしてくれて、みんなの愚痴を聞いたりしてくれて……。笑顔が絶えない……〉

 そのうちに、いつの間にか人が増え、いつものようにサロンと化し、そして、いつの間にか散会となった。

 


神保町の大金庫 《3》

《3》

 ある日の夕方、俊介は、いつものように神田神保町の宙書房を訪ねていた。

 作業台で煙草を吸いながら、いつもの井戸端状態である。そのうち、思い出したように奈津子に言った。

「奈津ちゃん、いつか言ってたあの大金庫、今日こそ見せて下さいよ」

「いいわよ。でも、ただの鉄の塊で、何にもないわよ」

 俊介は、奈津子の後ろに従って部屋を出、階段を下りた。

 階段脇の木造引き戸を開けると、中は暗く、空気は止まったままだ。外の騒音さえも聞こえない。床は打ちっぱなしのコンクリートで、隅にはスチール机や金属棚が積み上げてあった。どれも埃がたまり、長い間、人が入ってないのがわかる。

「ちょっと待ってね、いま、電気をつけるから」

 奈津子がスイッチを入れた。

「あっ」

 俊介は息をのんだ。

 四角く黒い鉄の塊がある。圧倒的な存在感である。

 裸電球が部屋全体を照らしたが、その埃っぽい部屋は薄暗いままだった。その薄暗さもあって、威圧感とともに不気味ささえも感じさせる代物である。

部屋のほぼ半分を占めるその黒い箱は、まるで小部屋のようであった。扉の前で手を広げると、3人が手をつなげそうだ。6~7mはあるに違いない。

観音開きの扉は、半折れで開かれたままになっており、中をのぞくと奥行き5~6mの何の仕切りもないシンプルな空間だった。その四角い空間に、古くなった紙が積み上げられていた。茶色に変色し、紙の端はぼろぼろだ。残紙としてそのままに打ち捨てられていた。昔は、中に棚がしつらえられ、お札や証券が保管されていたに違いない。

 外に出て黒い扉の上の方を見ると、そこには家紋が彫られてあった。いまでいえばロゴのつもりなのであろう、いかにも時代を感じさせた。扉の厚みは20センチほどで、表面は錆だらけである。

「『すごい』の一言です。それにしてもこれだけの金庫、もったいないですね。何かに使えばいいのに」

「もちろん昔は使っていたわよ。本の在庫を保管したり、いろんな資料を置いてた時もあるわ。でも、もう昔ほど本が売れないから、いつの間にかただの倉庫に――。もう使い道なんてなくなったわね」

「金庫本来の使い道はなかったんですか?」

 俊介は、中に入り、足を踏み鳴らしてみた。鉄板の下はコンクリートらしく、振動すらしない。

「ま、それは無理ね、そんなにおカネがあるわけじゃないし。それに、いちいち開けたり閉めたりするの、大変でしょ? あ、そういえば昔、明治の学生さん、ここに匿ったことがあるわ。警察から追われてたらしく、どこから聞いたのか10人ほどでやって来て、匿ってほしいって。それで隠してあげたの」

 神田神保町を上がった高台に明治大学があり、警察から追われたデモの学生たちが逃げるときにはお茶の水や神保町へと下ってくる。

「でも、密閉された空間で、逆に怖くなかったのかなあ」

「もちろん、締め切らないわよ。扉を半閉じにして、本を積み上げ、外からわからないようにしてあげたの。でもよくよく考えてみれば、警察もこんなところまで調べに来ないわよね。人の家みたいなもんでしょ」

「いやあ、本当にロマンだなあ。まるで映画みたいじゃないですか」

「あの頃は何でも大雑把だったわね。付近には下町の匂いがして、みんな学生さんを大事にして……」

 奈津子は、隅に積み上げられた錆びた子供自転車を目にした。

「そういえばここ、香織が小さい頃の遊び場でもあったわね。女の子なのに、基地だとか言って自分で囲いを作ってね」

「そういえば、あれから仲直りしたんですか?」

「いいえ、家には立ち寄るけど、ここには来てないわ。相変らず忙しいみたいよ」

「いつかはわかってくれますよ」

「慰めなんていらないわよ。娘は娘、私は私。好きにしたらいいんじゃない」

 俊介は、金庫の厚みを確かめるかのように、手で観音扉をパンパンと叩いた。やはり振動すらしない。まるで壁のような感触であった。

「それにしてもこの金庫、すごいな。戦前はおカネや株券、戦時中は重要書類、そして戦後は本という文化。それぞれを守ってきたんですね。バブル期には、地上げ屋からもここを守ってきた。それに、当時の学生さんや奈津ちゃんの生活さえも守ってきたんですね」

「そうね、この金庫があったから家賃は安かったし、いまもこうしてここに居ることができている――」

「何度も言うようですけど、圧倒的な存在感ですね。まさに世界遺産ですよ。これだけいろんなものを守ってきたんだから、もっとリスペクトしたほうがいいんじゃないんですか?」

「なによ、リスペクトって?」

「敬意を表するっていうか、もっと大事にするというか……」

「何言ってるの、邪魔なだけよ。ここの家賃、わずかだけど、いまも私が払ってるのよ。俊ちゃん、何ならあんたがこの金庫、使う? 安くしとくから」

 笑っている。

「じゃ私、先に行くから、電気、切っておいてね」

奈津子は、もう十分でしょと言わんばかりに背を向けると、さっさと2階へと戻って行った。

 


アラビア湾の小鳩 《1》

アラビア湾の小鳩                       

喜多川雅人 

《1》

 濃霧が途切れ、ロンドン郊外が慌しく見え隠れする間隙を縫って、B747がヒースロー空港に滑り降りた。2度目のトライで成功した巧みな着陸に満席の機内から大きな拍手が沸く。ビジネスクラスの座席にすっぽりと沈んでいた男は、軽く閉じていた眼を開きシート・ポケットに忘れ物がないか素早く確認すると、長身を大きく伸ばしながら、チーフ・パーサーの挨拶を背に前方の出口をくぐった。来月には60歳で定年を迎えて退職する辻井琢哉の最後の出張である。海外出張での秘書ともいうべき、情報がびっしり収まった皮製の書類鞄とも今回でお別れだ。空港内に流れる『イマジン』が妙に懐かしかった。

 

 1960年代の終わりに高度成長の真只中の航空会社に入った琢哉は、空港と市内支店での現場研修が終わると営業本部に配属され、持ち前の交渉力と語学力が買われて、その後はほとんどの時間を国際線旅客航空運賃のスペシャリストとして働いた。IATA(国際航空輸送協会)という、全世界の航空会社から成る航空業界の国連のような機構があって、航空運賃は、そこで合議されたものが各国行政当局の認可を得て設定される慣わしになっている。

IATAの本部はモントリオールとジュネーブにあり、定例会議はいずれかで開催される。それに加えて、米国を除くアジア、ヨーロッパ、中東の各地で、局地的な協議が頻繁に行われるから、琢哉は1年の3分の1を海外で過ごしてきた。今回のロンドンへの出張は英国航空との運賃調整で、帰路はドバイに寄って、エミレーツ航空とも打合せが予定されている。

2日間にわたる英国航空との会議を終えてホテルに戻ると、執行役員で欧州支配人を務める同輩の正木から夕飯に誘うメッセージが残っていた。早速電話を入れる。

「辻井です。電話を有難う。久し振りだね。今晩は何もないからどこにでも付き合うよ」

「長い間大変だったね。俺もそろそろ日本に戻る頃だが、今日はとりあえず君の慰労会をしよう。(宿泊先の)モントカーム・ホテルから歩いてすぐのところにちょっと洒落たインド料理店があるけど、そこでどう? 本場のカレーが食べられる。7時前にロビーで待ち合わせよう。ネクタイはいらないけど、ジャケットは頼むね」

「了解。ではのちほど」

案内されたインド料理店は地下1階にあり、階段を下ると、ターバンを巻いた大柄なインド人が丁寧に出迎えてくれた。デリーに近いパンジャブ地方から出稼ぎにきているに違いない。正木が好んで使っている店らしく、もてなしは至極丁重である。店内にはインド的装飾とムードが隅々まで溢れている。エキゾテイックだ。ミデイアム・ドライのブルゴーニュ産赤ワインで乾杯すると、常客らしく正木がてきぱきとオーダーしたメニューが次々と運ばれてきた。

会社の経営や、同期の仲間などの噂話が一通り終わると、趣味の話、第2の人生といった話題に移った。

「辻井は八ヶ岳の方にログハウスを建てて東京と棲み分けているそうだけど、それも悪くないな。俺は辞めたら海外でのロングステイを考えている。ロングステイは年金の範囲でできるらしい。春はイギリス、夏はバンクーバー、冬はハワイなんてところかな。ワイフ次第だがね。結局、転勤で住んでいたところが気安いだろうからね」

「ところで、君がロンドンで集めている骨董品はどうなった?」

「我々の給料では大した物は買えないが、2度のロンドン勤務で少しは目が肥えてきたかもしれない。小さなやつばかりだがね。いずれ、猫の額の庭をつぶして個人ギャラリーを建てるかなんて夢を見ているところだ」

「それも面白いね。ギャラリーの隅にワインバーをつくるなんていうのはどうかね」

「そういえば思い出した。近頃親しくなった骨董屋がノッテイングヒルにあってね。かなり名が知れた店だけど、そこの店主が、若い頃は東京で航空会社勤めをしていた変り種で、君をよく知っているらしい。大分親しかったような感じだった。ギリシャ系の女性だが、名前は何といったかなあ。男っぽい可笑しな日本語をしゃべる」

「イレーヌ(Irene)というギリシャ人なら、独身時代に東京で一年ほど付き合ったことがある。19723年の話だ。アテネ線が開設される頃でね。例のオナシスが持ち主だったオリンピック航空の営業所が東京に出来るので、何かと手伝ったことがある。営業所長の秘書をやっていたのがイレーヌで、何故か馬が合った」

「どういう関係か俺にはよく分からんが、そのイレーヌだよ。そうだ、この間貰った名刺がある・・・、これが彼女の名刺だ。君のドバイ行きは明日の夜の便だろう。朝一に電話して再会するというのはどうかね。俺は付き合えないがね」

 


アラビア湾の小鳩 《2》

《2》

縁は不思議なものである。翌朝10時過ぎに電話を入れると、忘れもしないイレーヌの声が返ってきた。

Hi, Irene。琢哉だけど憶えている? 今出張でロンドンにいる」

「ああ驚いた。正木さんからも電話があったの。本当にびっくりした。お昼でも食べる?」

「勿論そのつもりだった。イレーヌが好きだった飲茶でどう?」

OK。ラスター・スクエアのジョイ・キン楼って知っている?」

「うん、ロンドンに来るとかならず寄っている。美味しいよね。そこで12時前に会おう」

電話が終わって、昼前までのひと時をベッドに寝転び、軽いクラシックのBGMを聴きながら眼を閉じると、30数年前が走馬灯のように蘇った。

デートは隔週で、金曜日と決まっていた。待ち合わせ場所は、ビートルズが日本で始めて記者会見したので有名な山王のヒルトンホテルのメインバー。そこで行き先を決め、琢哉が通勤に使っていた小さなブルーのルノーで走り回った。痩躯長身でファニーフェイスのイレーヌと、日本人にしては長身の琢哉のコンビだから人目につく。本人たちは「ローマの休日」のオードリー・ヘップバーンとグレゴリー・ペック気取りだったかもしれない。まもなく業界でもちょっとした噂が広まった。

イレーヌは父親がギリシャ人、母親はロシア人のミックスである。父親の姓はステファノスといって、オナシスに次ぐレベルの船舶財閥の直系だった。日本の高度成長期にタンカーを大きく取り扱っていたようだ。父方の祖父がアテネの本社で指揮をとっていて、跡継ぎであるイレーヌの父親は日本に支社をつくって長期滞在し、一人娘のイレーヌは中学から大学までを日本で過ごしていた。中高は横浜のアメリカンスクールである。日本人の帰国子女もいたから、読み書きは出来ないが日本語の会話にまずは不自由しない。ただし、ビジネスになると文書で記録しておく必要もあるので、英語を使った。

六本木のアントニオなどでパスタを楽しむか、横浜の中華街を探訪するかがデートの定番で、横浜ならそこから本牧辺りのバーで踊ったりしたものだ。イレーヌは早いテンポのジルバやサンバが得意だったが、合間のスローで抱くと上手い具合に2人の身体が合わさるのがなんともいえなかった。

当時は飲酒運転に今ほど厳しくはなかったので、長いデートが終わると、ルノーで彼女を北青山の家まで送る。庭に車のアプローチがある大きな邸宅だったが、イレーヌは門の手前で車を止めさせ、琢哉に素早く唇を合わせると、ドアから宵闇にひらりと消えていくのが常だった。

逢瀬を重ねるごとに恋心が募り、琢哉が結婚を意識するようになった晩春の頃だった。イレーヌが日帰りで箱根に連れて行ってほしいという。

「芦ノ湖を水彩画で描きたいの。出来上がったら琢哉にあげる。ロマンスカーって乗ってみたいし…」

「久し振りに箱根もいいね。ゆっくり話したいこともあるから車でなくロマンスカーにしよう」

 

 爽やかな五月晴れの朝、ロマンスカーで湖畔に着くと、イレーヌは早速キャンバスを広げて2時間ほどスケッチに集中する。琢哉はガードマンとして傍で寝転んでペーパーバックスの頁を繰っていた。絵が出来上がると、琢哉が予めデイユース(日泊まり)で予約しておいた強羅の老舗・富士屋ホテルに脚を伸ばした。

温泉でゆっくり手足をほぐしたあと浴衣に着替えて、ルームサービスでランチを楽しんだが、何故かイレーヌの言葉が途切れがちで、表情が冴えない。

帰りの車中で肩をそっと抱こうとする琢哉の腕を抑えて、イレーヌから思わぬ別れの言葉が低いくぐもった声で告げられた。

「琢哉、来月ギリシャに帰ることになったの。おじいさんが亡くなってパパが事業を継ぐことになったのよ」

「(驚いてしばし無言で見つめたあと)イレーヌ、好きだよ。大好きだ。前から思っていたけど結婚しない?」 

「(うつむいてしばし無言ののち)駄目。琢哉は大好きだけど、結婚は無理なの。パパはオナシス家の遠縁に当る人を探してきて、彼が待っているみたい。一人っ子だから後を継ぐにはそれしかないのだって。それに琢哉には何も言わなかったけど、今はいえない身体の秘密もあるの。もう会わないつもり。だから今日誘った。この絵は琢哉への贈り物。大事にして…」

 後は言葉にならない。

「そうか、そうだったの。実はこっちもジュネーブのIATA本部への出向を内々言われていてね。今日イレーヌの気持ちを確かめようと思っていたんだよ。つらいけど、イレーヌのこれからを考えると、ご両親とアテネに帰るしかないのかもしれないね」

 週明けに出社すると海外勤務の内示があった。やがて梅雨に入る頃、イレーヌはギリシャへ、琢哉はスイスへとそれぞれの旅路に着いた。その後、風の噂で、イレーヌは結婚したものの数年後には夫をクルーズの事故で失なったと聴いていた。

 


アラビア湾の小鳩 《3》

《3》

半年ほど前に、サラリーマン生活から第2の人生に入る準備としてパソコンを買い替え、人脈の整理を兼ねて興味本位で思い出す名前を次々と検索してみた。イレーヌ・ステファニスと入れると、アメリカンスクールの同窓会のホームページに繋がり、更に辿ると柔らかく長い黒髪で茶色の目をした高校時代のイレーヌが現われた。ところが、Lost(不明)と注記されている。Passed(死亡)ではないけど、行方不明で連絡が取れないらしい。どうしたのだろう…。不審に思いながらもそれ以上は検索できなかった。それが最後の出張先で32年振りに再会できるとは、神様も粋な演出をなさるものだ。

 待ちきれずホテルを飛び出して、マーブルアークから地下鉄に乗り、ラスター・スクエアの待ち合わせ場所に着いたのは11時半。飲茶は客足が早いが、何とか1階の奥に2席抑え、小さな茶碗でジャスミンテイを2杯ほど飲んだ頃、入り口から半ば白髪の女性がフィリピン人らしいメイドに支えられながら近づいてきた。イレーヌだ。杖をついている。琢哉が立ち上がるとすがりつくようにハグしてきた。メイドは琢哉にイレーヌを預けると、「終わったら、携帯で連絡してください。すぐ迎えに来ます」といって店を出て行った。

「琢哉、会いたかった。夢みたい」

「本当に夢みたいだ。32年振りか。ネットで検索したら行方不明となっていたので心配していた。それがこんな再会になるなんて…」

横浜のデートを思い出して、次々に点心を注文しながら話は弾んだ。事故で夫を失ってから間もなく今度は、母親、父親が相次いで病死して、船舶会社はオナシス・グループに吸収される形で解散した。

かなりの遺産を相続したようだが、傷心のイレーヌに追い討ちをかけるようにリューマチが襲った。足が不自由なのはそのせいで、実は日本にいて琢哉と出会う頃に医者から持病として宣告されていたそうだ。

両親の死後は、アテネから父親の故郷レフカス島に移ったが、リューマチが悪化したのを機に、気候のよい季節はロンドンでプライベート・ドクターの治療を受けながら過ごしている。ノッテイングヒルに家を持って、父親が収集していたアンテイークを基に骨董店を開くと、商売上手の血が流れているのか、かなりの成功を収めた。自分自身もアンテイークが好きになり、趣味と仕事が一本化しているらしい。

「レフカス島って、確か小泉八雲の故郷だよね」

「そうよ。彼のお父さんはアイルランド人。ギリシャは英国と変な繋がりがあるのよ。エリザベス女王と結婚したフィリップ、つまりエデインバラ公の祖先も半分はギリシャの血が入っているらしいわ。治療でロンドンに住んでいるのも因縁があるのかもね」

 再婚は諦め、結婚している頃にアテネで雇って今ではすっかり家族の一員になったフィリピン・メードと一緒に住んでいるという。暗くて寒い冬場は、骨董店はイギリス人の友人に預けてレフカス島に戻る。

オイルリッチのドバイにも小さな店を出し、パーム(The Palm)というタイガーウッズやベッカム様が別荘を持つ超高級リゾートの一角にも家を買ったというから凄い。ジュメイラというビーチからアラビア湾にシュロの葉のように突き出た、お伽の国のような海の上の別荘地である。

なぜかロシア人のお金持ちが大挙して訪れるという。ソ連が崩壊したあと資本主義経済に素早く変身して大儲けした成金さんが多いらしい。イレーヌの母親はロシアの旧家の生まれだが、一族にアラブの王族と釣るんでいる従兄弟がいて、その紹介でパームを知ったという。

「今夜の便でドバイに寄ってから日本に戻るので、パームも覗いてみよう。イレーヌから貰った水彩画は結婚した後も我が家の壁に架かっているよ。仕事で世界中を廻っているうちに、行く先々で気に入った銅版画や小さな絵を買い求めたのが家中に飾ってあるけど、イレーヌの『芦ノ湖』もそのうちの一点になっている。『永遠の芦ノ湖』というわけ」

「永遠の芦ノ湖? It’s all Greek to me.(なんだかさっぱり分らないわ)。たまには絵をみて思い出してね。セルフォン(携帯)のカメラで琢哉を撮っておくね。寂しくなったら見たいから」

 あっという間に2時間が過ぎ去った。そろそろホテルに戻り、チェックアウトして支店に挨拶する時間だ。携帯でフィリピン・メイドを呼び戻し、イレーヌとの長いハグを解いて彼女に預け戻した。

 



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