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プロジェクトM顛末記 《3》

《3》

 いよいよ私の出番だ。これぞ決め手と、仕事を絡めて第3弾の仕掛けを繰り出すことにした。真吾が引合い段階からプロマネをして受注した、新工場建設の起工式の手伝いに、悠子を出張させることにしたのだ。場所は茨城県央の笠間の工業団地でやや遠いが日帰りはできる。

真夏の強い日ざしの下で、お客とうちの会社のお偉いさんが主役の堅苦しい式が終わった後、営業の私とプロマネの真吾が、両社の担当を招いて、夕方から慰労を兼ねた懇親会を開いた。

「業務外で悪いけれど、できたら君も付き合ってもらえないかな。本社のレディが加わると座が盛り上がるんだ」

私は、帰りの時間を気にする彼女に被せて誘う。

「最初ちょっと顔を出すだけで、すぐ抜け出していいから」

その一方で、真吾には「君のプロジェクトの手伝いに悠子を出すから、帰りは家まで送り届けるように」と事前に伝えてある。
 宴がはじまると、座の中心の彼女が席を立つのは難しくなる。そのうち雨も降ってきた。予想通り、予報通りの成り行きだ。頃を見計らって、私は彼女を救い出し、信吾の愛車ランクルに乗せて送り出した。かなりあざといやり口だが、これも縁結びのためだ。

中野の彼女の家まで2時間半ほど、午前様になる前には帰れるだろう。2人きりの夜のロングドライブ、その首尾や如何に――。

 次の日の朝、悠子の顔を見るや、声を掛けた。

「昨日はご苦労さん。遅くなって叱られなかった?」

「大丈夫です。懇親会に出る前に電話しておきましたから。部長命令といって」

「わあ、お父さんにクレームを付けられたらどうしよう。……で、真夜中のドライブはどうだった?」

「真吾さんがひとりでお喋りし通し。理系なのに、文学、芸術、哲学に宗教ことまで詳しいので驚いちゃいました。凄く本を読んでいるですって」

「彼の話は面白かった?」

「わたしにはちょっと難し過ぎて……。でも、一生懸命話してくれるんです」

――折角のチャンスなのに、それだけか。

私が自信を持って打ち込んだ球は、一気に勝負を決めるサービスエース、とはならなかったようだ。いくらお膳立てをしても、こちらの描くシナリオ通りには展開しそうにない。いささか張り合いが抜けてきた。

「あいつ、なに考えているんだ」

業を煮やした私の気持を察して、火付け役の山内が真吾をつかまえ、彼の気持を確かめた。山内の報告はこうだ。

私たちが二人を結びつけようと画策していることは、当然、真吾も気付いていた。予てから悠子に好感を持っていたので、2人が接近する機会を作ってくれたことには感謝している。

しかし、と彼は続ける。この年になると、周りから煽られたからといって、それに乗って突っ走るわけにはいかない。ことに自分は天邪鬼だし、過去に手痛い失恋をしたトラウマも消えていないので……。あとは自分たちに任せてそっとしておいて欲しい。ほどなく毎年観に行っている秋の美術展が上野で開かれるので、彼女を誘ってみる。

彼なりに前向きで進行形の積りだ。山内は友達甲斐に忠告した。

「おまえ、女と2人のとき、どうして難しい話題ばかり持ち出して理屈っぽく話すんだ? たいていの女は逃げ出すぞ」 

「わかってる。でも、照れ臭くて、間が持てなくて……。気がつくといつも1人で喋っている――」

 いい年をして、好きな女の前では、普段とは別人のように、緊張し過ぎてしまうなんて。そんな男はいまどき中高生でもめったにいないだろう。

 木田さんが、山内の話を聞いて、じれったそうに申し出た。

「真吾さんがそんなに煮え切らないなら、あたしが麻原先輩の気持を訊いて、彼女の方からもっと積極的にアプローチするように勧めましょうか」

「どうだろう。2人とも素直とはいえないから、せっつくと逆効果になるかも」

実をいうと、私は、悠子に「話せる部長」と思われている、と密かに自信を持っていた。で、遠からず彼女は相談にくるだろう、と心当てにしていたのである。


プロジェクトM顛末記 《4》

《4》

 それから3ヶ月ほど経った年の瀬、悠子が私の席にやってきた。

「部長、ちょっとお話が……」

 それきた! 別室に招いて、話を聞く。

「あの……、突然で済みませんが、わたし結婚することになりました。相手は中学の社会の先生で……、いえ、最近お見合いした人です」

「あれ、ちょっと待って。真吾はどうしたの」

「彼は結婚する気はないみたいですよ。わたしは、彼もいいな、って思っていたんですが、その方向の話はまったくないし、わたしも来年は大台だし……」

しまった。悠子の背中を押そうか、という木田さんの提案に乗ればよかった。ひとりよがりの当て込みのために機を逸したか。

私は憮然として質した。

「それでお見合いした? それにしても即決だね」

「はい、お見合いの翌日から一気呵成(いっきかせい)に迫られて……。そんなに素敵な人じゃないけれど解りやすくて、なんか一緒にいて寛げる感じ。
 あっ、部長にはずいぶん気遣ってもらったのに済みません」

 かくして、プロジェクトMは見事に失敗した。

彼はその後も結婚せず、「うちの営業はだらしない。おれを売り込むこともできない」と、自分のふがいなさを棚に上げて、今も憎たれ口を叩いている。


神保町の大金庫 《1》

神保町の大金庫

廣澤重穂 

《1》

 神田神保町に、今も時代に取り残されたかのような一軒の木造建築物がある。

 廃屋にも似た建物であったが、開けっぱなしになった玄関から、人が出入りしているのがわかる。だが玄関以外の1階部分は漆喰と板塀で囲まれ、窓さえ見当たらない。風雨に晒された外壁は朽ち、汚れたままだ。唯一、2階の外壁ファンが唸っていることから、今も使われていることが確認できた。

 その2階に、いまも小さな出版社が事務所を構えていた。名前は宙(そら)書房。社名は大きいが、女性社長ひとりが切り盛りする、いまにも潰れそうな出版社である。社長の名は須藤奈津子、年齢64歳、すでに髪は薄く、白いものがチラホラ見える。老婆というには若く、小母さんと言うほど若くない。温厚な人柄から、みんなから〝奈津ちゃん〟と呼ばれていた。

 この日も夕方、吉田俊介はこの出版社を訪ねていた。

 俊介は広告代理店の中堅営業マンであったが、宙書房を訪ねたのは仕事のためではない。息抜きというかサボりというか、いわゆる世間話で立ち寄っただけである。営業マンなら普通のことであった。

 俊介は、水道橋通りから脇道にそれると、1本の路地へと入った。両側には8~9階建ての新しいビルが立ち並び、2、3棟先には目指す木造建物があった。

〈なるほど、歯抜けとはうまいことを言ったものだ〉

両ビルに挟まれた古い瓦屋根の空間だけが、歯が抜けたように空いている。

俊介は玄関を入ると、目の前にある木造階段を登った。45度はあろうかという急階段で、とても狭い。人ひとり通るのがやっと。足を踏みしめるごとにギシギシと音がした。

「こんにちは」

 踊り場まで上がると、いつものようにノックもせず、半開きの扉を引いた。いまどき珍しい引き戸である。

「あら、俊ちゃん、今日も暑いわね。冷たいお茶でも飲む? じゃ悪いけど、戸棚からコップ取ってきて」

 奈津子は事務机から立ち上がると、冷蔵庫のほうへと歩いて行った。

 8畳ほどの事務所は、壁に向かって机が2つ、金属製の本棚4脚、ファックス、コピー機、パソコンなどがぐるりととり囲んでいる。そして、部屋の中央には、卓球台半分ぐらいの大きさの作業台が置かれてあった。カッターを使ってもいいように全面にラバーが貼られた作業台である。冷蔵庫は、その作業台のすぐ脇にあった。

 俊介は、いったんはその作業台の椅子に腰を下ろすが、すぐに立ちあがると再び踊り場に出て、共同炊事場の食器棚からコップを取り出した。

「どのコップでもいいんですよね。奈津ちゃんのも持っていきます?」

 俊介は、事務所の方に向かって声をかけた。そのとき俊介は、ちょっと失礼かなと思いつつも、皆と同じように〝奈津ちゃん〟と呼んだ。よくよく考えてみれば母と同じような年齢である、失礼でないわけがない。しかし彼女には、それを気にさせないだけの雰囲気があった。

「いいわ、私のはあるから」

 奈津子は、俊介が持ってきたコップを受け取ると、お茶を注いで手渡した。それから、「まだ飲む?」とボトルをちょっと差し上げて聞くと、黙ってボトルごと手渡した。

「毎日、暑いわね。それにしても、俊ちゃんも暇なようね」

「ええ、開店休業です。うちみたいな中堅の広告代理店なんか、ちょっと景気が悪くなると、真っ先にやられますからね。予算カットでどの会社も相手してくれません」

 それから2030分、俊介の愚痴話が続いた。

奈津子は、「そうね」とか、「仕方がないわよ」と言いながら、俊介の話に付き合っていた。

5時を過ぎた頃、もう1人、いつもの客がやってきた。近所の印刷会社の親父さんである。桂木久雄といい、家族経営の小さな工場をやっている。

 桂木は扉を開けて入ってくると、立ったまま奈津子に声をかけた。

「オレ、今度の週末、穂高に行ってくるわ」

 桂木は時候の挨拶もせず、自分の家にやってきたように屈託がない。いまも山登りが趣味らしく、ここに来るといつも山の話ばかりしていた。自分で冷蔵庫を開けると、当たり前のようにバーボンのボトルを取り出した。手にはすでにコップが握られている。部屋に入る前、食器棚に立ち寄ったらしい。

「お昼の残りだけど、芋の煮っ転がしでも食べる?」

 奈津子は立ちあがると、桂木の返事を待たず、流し台のある踊り場へと出て行った。いつも奈津子は、誰であろうとちょっとしたつまみを用意し、歓待してくれる。

 それを見ていた俊介は、

「桂木さんは気楽でいいですね。今週も山登りですか」

 そう言いながらわずかに残っていたお茶をすすると、コップを桂木の前に置き、バーボンを催促した。

「もちろんストレートでいいよな? ところで、夏の穂高はいいぞ。なにしろ緑が濃いんだ。空の青も深いしな。俊ちゃん、金曜の夜に出発するけど、どうだい一緒に?」

「いえ、ちょっと……」

 俊介は『用事があって無理です』と続けようとしたが、桂木は言葉を待っていない。小皿とお箸を手に戻ってきた奈津子に、もう話しかけていた。

「奈津ちゃん、それにしても、ここにやってきて、もう長いねえ。どれくらいになる?」

「そうね、もう40年になるかしら」

 奈津子は、小皿とお箸を作業台に並べながら、思い出すように言った。

「それにしても奇跡だね。いまもここが残ってるなんて。ここは神田神保町だよ、東京の一等地だよ。その神保町にいまもこんな所が残ってるなんて。奇跡としか言いようがない」

 桂木は、何度も〝奇跡〟を連発した。

 その間も奈津子は、聞くでもなく無視するわけでもなく、流し台と部屋を往復していた。そして、煮物の入った鍋と佃煮、漬物を作業台に並べた。

「こんな一等地なのに、どうしていまもこの建物、残っているんですかね? 十数年前は、地上げが大変だったでしょうに」

 俊介にとってみれば、それまで考えたことはなかったが、言われてみれば確かにそうだ。神田神保町という都心に、いまもこのような廃屋があることが不思議だった。

「おや、知らないの、俊ちゃん? 一階にある大金庫のおかげさ」

 桂木は、当たり前のことを聞くなと言わんばかりに、俊介の顔を見た。

「大金庫って?」

「一階に大金庫があって、あまりの大きさで撤去できなくて地上げ屋でさえお手上げだった、ていうやつさ」

「え、1階に金庫なんてあったんですか? 1階は物置だとばかり思ってました。だけど今時、撤去できないなんて、そんなことないでしょ。これだけ機械が発達してるんだから、壊すぐらい何でもないと思いますけど……」

「何言ってる。あの東京大空襲でも焼け残った金庫だぞ。鋼鉄とコンクリートで固められた大金庫よ。ほら、あのヤクザ映画なんかに出てくる事務所の金庫、あれのもっと、もっとでっかいやつよ」

 話によれば、昭和初期、このあたりに銀行の本店があったらしい。銀行だけに頑丈な金庫があるのは当然だが、そのころの金庫は建て付けで、鋼鉄製の鉄枠にコンクリートを流し込んだものだった。

 やがて戦争が始まり、そして戦争終了直前、神田神保町周辺は大空襲を受けた。建物は破壊されたが、この大金庫だけは残った。焼け野原に、ポツンと巨大な黒い箱だけが取り残されていたという。

戦争が終わって、家主はここに建物を建てようと思ったが、この大金庫を動かすこともできず、壊すこともできない。仕方なく金庫の上に建物を建てることにした。そこで、1階は大金庫と空きスペースに、2階は通常の部屋や炊事・台所、共同トイレなどにしてしまったという。

「へー、そうなんですか。いつも来てるのに、誰もそんな話、教えてくれなかったじゃないですか」

「あら、話さなかったかしら?」

 奈津子は、注文書籍の発送準備をしていたが、手を止めて男2人の方をふり返った。

「その大金庫、ぜひ見せてください」

「ええ、いいわよ、今度ね。でも、ただの大きな鉄の塊よ」

 奈津子がまだ作業していたので、俊介はそれ以上の無理強いはできなかった。しかも、奈津子も桂木も興味がないらしく、立ちあがろうとさえしない。

 そのうち、3人の会話は景気の話になり、桂木の登山の話になった。その頃には、また数人が遊びにやって来て、いつの間にかサロンと化していた。そして、いつのまにか散会となった。

 


神保町の大金庫 《2》

《2》

 ある夕方、俊介はこの日も宙書房を訪ねていた。

 玄関を入ると、階上から言い争う声が聞こえてきた。奈津子と娘の香織である。

「お母さん、もういい加減、ここから引っ越してよ。ここは古すぎるし、危険だわ」

「心配いらないわよ。香織だって知ってるでしょ、この建物。土台がしっかりしているし、家賃だって安いんだから」

「そりゃ2階は落ちないだろうけど、地震で屋根が壊れたり、壁が崩れたりするわ。でも私、そんなこと、言ってるんじゃないの……」

「じゃ、何なのよ」

「古すぎるでしょ、この建物」

「別にあなたが生活しているわけでもないし、事務所として立派に使ってるだけなんだから。香織が気にすることじゃないわ。とにかく、私はちゃんと仕事をしてるんだから、とやかく言われたくないわね」

「よく考えてよね、私の気持ちも。お母さんをこんな所に置いておきたくないの。恥ずかしい姿をみせたくないのよ。私たち、母一人娘一人なんですからね」

 娘の香織は、大手証券会社に勤めていた。30台半ばの彼女は、保険運用のコンサルタント営業として実績をあげ、そこそこの給料を手にしているらしい。まわりでは、〝鷹が鷹を生んだ〟と評判の娘であった。

 俊介は、階上の喧騒を聞き、出直そうかと迷ったが、そんなことを気にする2人ではない、そう思って階段を上がることにした。

 2、3段上がったところで、香織が踊り場に顔を出した。

「じゃ、お母さん、また来るけど、よく考えておいてね」

 香織は扉を閉めると、階段口の手すりに手を伸ばした。

「あら、吉田さん、ご無沙汰しています」

 香織は、登ってくる俊介の顔を認めると、軽く会釈をした。

 俊介もまた会釈を返す。そして登っていた階段を下まで戻った。とてもじゃないが、すれ違えるほど、階段は広くない。

 2人は玄関口で顔を合わせると、あらためて挨拶し合った。

「香織さん、お久しぶりですね。今日はどうしたんです? 賑やかな声がしてたけど……」

「ええ、そうなの。お母さんに、ここから引っ越すよう頼んでいたのよ。もう古いでしょ。それにみっともないし、危険だから。どこか小じんまりとした事務所にでも移ってもらいたいわ」

「いいじゃないですか。僕、ここ好きですよ。とっても牧歌的で……」

 口をついて出た言葉であったが、俊介自身、あらためてそのことに気付いた。

〈そうか、牧歌的か。この言葉こそ、ここの雰囲気にぴったりだ〉

自分で自分に感心していると、

「そんなこと、他人だから言えるよ。身内にしてみればとっても心配だわ。でも、仕方ないわね、こればっかりは。お母さんが決めることだもの」

 香織は、俊介の無責任な言いように最初は不満に思ったが、なかばあきらめの気持ちと、ふんわりしたここの雰囲気は認めざるを得なかった。

「お母さんのこと、これからもよろしくお願いしますね」

 それから彼女は軽く一礼すると、玄関を出ていった。日頃はカビ臭いこの空間に、彼女の甘い匂いが残った。

 一方、彼女を見送った俊介は、外の光に一瞬目を細めたが、現実に引き戻されたかのように、再び階段上を見上げた。それから、ギシギシと音を立てて登ると、いつものようにノックもせず、引き戸を開けた。

「奈津ちゃん、こんにちは。香織さん、相変らず美人ですね。もう10年若かったら、放っておかないのに――」

 部屋に入ると、仕事中の奈津子に声をかけた。

「あら、俊ちゃん、いらっしゃい。何、バカなこと言ってんの。それより、何か飲む?」

 奈津子は、老眼鏡をはずすと振り向き、立ちあがろうとした。

「あっ、自分でやります」

 俊介は、片手で制しながら、作業台横の冷蔵庫を開けた。

「下まで聞こえてましたよ、お2人の会話。仲がいいんですね」

「ま、女同士の親子なんて、どこもこんなものじゃない? 姉妹みたいなものよ」

 奈津子は眼鏡をかけ直すと、再び机に向かった。請求書を起こしているようだ。

「そんなの、パソコンでやったら? 何なら、僕がマスターを作ってあげましょうか」

「いいわよ、そんなにないんだから。却って時間がかかっちゃうわ」

 俊介は、そのまま作業台の椅子に腰を下ろすと、上着から煙草を取り出し、冷蔵庫の上の灰皿をとった。あまり話しかけて奈津子の仕事の邪魔をしては悪い。

 一方の奈津子は、仕事を続けながらも、先ほどの香織の言葉を考えているらしかった。

「香織の気持ちもわかるけど、本当は彼氏をここに連れて来たくないんじゃないかしら。彼氏、外資系銀行のエリート社員で、『お母さんは何を?』と聞かれて『出版社の社長』って答えたらしいんだけど、こんなんじゃねえ。恥ずかしいのかもね」

 自分から香織のことを話題にし始めた。

「そんなことないですよ。本当に心配しているんじゃないんですか?」

「ま、そうかもしれないけど……。私、ここを引っ越す気なんてさらさらないわ。何しろもう何十年も住んでいるんだから」

 奈津子がこの神田神保町に事務所を開いたのは、旦那と離婚してすぐである。お腹には娘の香織がおり、本格的に働かねばならなかった。

そもそも奈津子と旦那は学生運動で知り合い、結婚後もなにくれとなく活動を続けていたらしい。離婚後、奈津子は周囲の活動仲間の支援を得て、神田神保町に出版社を開いた。ここに事務所を開いたのは、家賃が安かったからである。大家さんは奈津子に同情し、しかも1階にある使い物にならない大金庫のおかげで、格安でここを貸してくれた。

また周囲の仲間は、書いて発表できる場が欲しかったので、奈津子が出版社を作ったことを歓迎した。それらの好条件が重なり、本の街神田神保町に事務所を開くことができたのである。

 宙書房には多くの人が出入りしていたという。大学の先生、院生、作家の卵、活動家など。みんな書くことが好きで、稿料がなくても気にしなかった。自分の書いたものが世に出るだけで嬉しかったのである。

 時代は学生運動や労働運動が盛んな頃で、この頃から加藤登紀子の〝お登紀さん〟をもじって〝神田神保町の奈津ちゃん〟と呼ばれていた。

 その後、学生運動は下火になるが、宙書房は順調に続いていた。何しろ出版は時代の最先端であったし、本もよく売れた。しかも、まだ女性が会社を経営するという時代ではなかったので、世間からも注目を集めていた。いうなれば、シングル・マザーという言葉もキャリア・ウーマンという言葉も、彼女が先駆けであったかもしれない。

 俊介は、机に向かっている奈津子の背を見ながら、『いろいろあったんだろうな』と空想していた。

〈水道橋通りに学生のデモ隊がシュプレヒコールを上げている。それを両脇から固める機動隊。突然ピィッ、ピィッ、ピーと警官が学生を制す。そのうち、甲高い警笛や学生の怒号が入り混じり、両者が一気に衝突する。それらの音がこの部屋からも聞こえてきて、急に緊張感が高まる……〉

 また、

〈原稿用紙を手にした若者が奈津子に説教されている。『この程度の内容だったら売れやしないわよ、もっとしっかり書かなきゃ』、『活字は文化よ、文化をなめちゃダメ、もっと覚悟を決めて書きなさい』と叱られていたかもしれない。なかには、いまは名の知れた著述家の卵もいたらしい〉

 何も仕事だけじゃない。昔の彼女はマドンナ的存在だったという。

〈美形だったから、言い寄る男も多かったに違いない。しかし彼女は男には目もくれず、仕事と子育てに集中していた。『私は誰の助けも借りない。自分一人で生きて行くわ』そう言っていたかもしれない〉

 俊介は、短くなった煙草を灰皿に押しつけると、もう1本取り出した。それから、壁に貼ってある年代物のポスターを眺めたり、棚に無造作に置かれた宙書房出版の本の背表紙を見ていた。

 そのうち俊介は、静かな部屋の雰囲気に耐えかねて、奈津子に声をかけた。

「奈津ちゃん、あの本の著者、いまでも連絡があるんですか?」

「え、どの人?」

 奈津子は振り返ると、俊介が指さす背表紙に目をやった。いまはよく知られた評論家である。

「あ、あの人ね。あるわけないじゃない、もう昔のことよ。でも、誰かの葬式でチラッと見かけたわ。すっかり老けてしまって、もう昔の面影なんてなかったわね」

「〝安保は遠くなりにけり〟ですか」

 俊介は、独り言のように言った。

 しばらくして、ギシギシと階段を上ってくる音がする。

 顔を出したのは、いつもの桂木であった。

「おっ、香水が匂うけど、さてはレディが来てたな。おっ、またまた俊ちゃんか。相変らず暇そうだな」

 桂木は鼻をクンクンさせながら、作業台横のイスに座った。

「桂木さん、こんにちは。香織さんが来てたんですよ」

「そいつは残念、香織ちゃんの美形、拝みたかったんだがなあ。ところでどうだい、俊ちゃんの仕事のほうは?」

「もちろんダメ。こう景気が悪いと、仕事なんて回ってきませんよ。それより、桂木さんこそ大変なんじゃありません?」

 近頃では、印刷業界は構造不況業種と呼ばれている。インターネットが発達し、印刷物を造らなくなってしまった。パンフレットや広告はネットに代わり、雑誌は売れなくなった。会社案内もインターネットで済ますことができるし、チラシも同様だ。ましてや、本も読まれない。

昔は、印刷業界は右肩上がりで、不況知らずと言われてきた。景気が悪ければ宣伝しなければならず、良ければ良いで情報発信が多くなる。だから、印刷だけは不況知らずと言われてきたのである。

 しかしこの頃は、景気が良かろうと悪かろうと、印刷そのものがなくなる時代であった。

「ああ、確かにな。だが、ワシはまだいいほうだ。親父がここ神保町で印刷の仕事をしていたから、地上げがあったが財産だけは残った。いまの会社だって、いわば道楽みたいなもんだ。建てられたビルの一階を優先的に借りることができたからな。どうしても立ち行かなくなれば廃業するさ」

 桂木は、いつものように冷蔵庫を開け、バーボンを取り出した。

「奈津ちゃんもそろそろ楽隠居したら? 娘さんも大きくなったことだし――」

「仕事を止めたら、逆に、病気になっちゃうわよ。それに、私がここを止めたら、あんたたち、どこへ行くのよ。どうせ行くとこなんてないんでしょ?」

「そりゃ、そうだ。しかしなあ……」

 奈津子と桂木は、長い間この神田神保町で近所付き合いをしてきた。良いも悪いも、お互いに了解し合っているのかもしれない。

「香織も同じことを言っていたわ。早く引っ越せって……」

 ちょっとしんみりした雰囲気になってきた。

 俊介は、場をなごませようと2人の会話に割り込んだ。

「2人ともいいじゃないですか、老後のおカネ、心配しなくていいんですから。オレらなんて、定年の頃には年金なんて貰えませんよ。どっか田舎に行って百姓でもしなきゃ」

「お、それいいね。いまから行っちゃいなよ。同じ行くなら、白馬あたりがいいんじゃないか? 遊びに行くからよ。何しろ、北アルプスの玄関口だからな。な、俊ちゃん、そうしろ、そうしろ」

「はは、いいですね」

 俊介は苦笑いした。

 そのうち奈津子は、眼鏡をはずして立ちあがると、いつもの酒肴の準備を始めた。立ち際、

「そういえば俊ちゃんて、どこの出身だっけ?」

「はい、山形の遊佐町というところです。酒田市のちょっと先、秋田県との県境です」

「お、それじゃ、鳥海山の麓じゃないか。すぐにも帰りなよ。帰って百姓やった方がいいぞ。ところでおまえ、長男か?」

 桂木は茶化しながら、バーボンをぐっと飲み干した。

「鳥海山の麓なんて、とってもいい所じゃない。私、引っ越すなら、そんな所がいいわね」

 奈津子の言葉は、本気とも冗談ともつかない。

 俊介は、桂木の冗談に苦笑いしながらも、奈津子の言葉の意味を考えた。

〈やはり奈津子さんでも引っ越ししたいのだろうか? それにしても不思議な人だ。母一人子一人で苦労しただろうに、そんな険しさがほとんどない。いつもみんなの相手をしてくれて、みんなの愚痴を聞いたりしてくれて……。笑顔が絶えない……〉

 そのうちに、いつの間にか人が増え、いつものようにサロンと化し、そして、いつの間にか散会となった。

 


神保町の大金庫 《3》

《3》

 ある日の夕方、俊介は、いつものように神田神保町の宙書房を訪ねていた。

 作業台で煙草を吸いながら、いつもの井戸端状態である。そのうち、思い出したように奈津子に言った。

「奈津ちゃん、いつか言ってたあの大金庫、今日こそ見せて下さいよ」

「いいわよ。でも、ただの鉄の塊で、何にもないわよ」

 俊介は、奈津子の後ろに従って部屋を出、階段を下りた。

 階段脇の木造引き戸を開けると、中は暗く、空気は止まったままだ。外の騒音さえも聞こえない。床は打ちっぱなしのコンクリートで、隅にはスチール机や金属棚が積み上げてあった。どれも埃がたまり、長い間、人が入ってないのがわかる。

「ちょっと待ってね、いま、電気をつけるから」

 奈津子がスイッチを入れた。

「あっ」

 俊介は息をのんだ。

 四角く黒い鉄の塊がある。圧倒的な存在感である。

 裸電球が部屋全体を照らしたが、その埃っぽい部屋は薄暗いままだった。その薄暗さもあって、威圧感とともに不気味ささえも感じさせる代物である。

部屋のほぼ半分を占めるその黒い箱は、まるで小部屋のようであった。扉の前で手を広げると、3人が手をつなげそうだ。6~7mはあるに違いない。

観音開きの扉は、半折れで開かれたままになっており、中をのぞくと奥行き5~6mの何の仕切りもないシンプルな空間だった。その四角い空間に、古くなった紙が積み上げられていた。茶色に変色し、紙の端はぼろぼろだ。残紙としてそのままに打ち捨てられていた。昔は、中に棚がしつらえられ、お札や証券が保管されていたに違いない。

 外に出て黒い扉の上の方を見ると、そこには家紋が彫られてあった。いまでいえばロゴのつもりなのであろう、いかにも時代を感じさせた。扉の厚みは20センチほどで、表面は錆だらけである。

「『すごい』の一言です。それにしてもこれだけの金庫、もったいないですね。何かに使えばいいのに」

「もちろん昔は使っていたわよ。本の在庫を保管したり、いろんな資料を置いてた時もあるわ。でも、もう昔ほど本が売れないから、いつの間にかただの倉庫に――。もう使い道なんてなくなったわね」

「金庫本来の使い道はなかったんですか?」

 俊介は、中に入り、足を踏み鳴らしてみた。鉄板の下はコンクリートらしく、振動すらしない。

「ま、それは無理ね、そんなにおカネがあるわけじゃないし。それに、いちいち開けたり閉めたりするの、大変でしょ? あ、そういえば昔、明治の学生さん、ここに匿ったことがあるわ。警察から追われてたらしく、どこから聞いたのか10人ほどでやって来て、匿ってほしいって。それで隠してあげたの」

 神田神保町を上がった高台に明治大学があり、警察から追われたデモの学生たちが逃げるときにはお茶の水や神保町へと下ってくる。

「でも、密閉された空間で、逆に怖くなかったのかなあ」

「もちろん、締め切らないわよ。扉を半閉じにして、本を積み上げ、外からわからないようにしてあげたの。でもよくよく考えてみれば、警察もこんなところまで調べに来ないわよね。人の家みたいなもんでしょ」

「いやあ、本当にロマンだなあ。まるで映画みたいじゃないですか」

「あの頃は何でも大雑把だったわね。付近には下町の匂いがして、みんな学生さんを大事にして……」

 奈津子は、隅に積み上げられた錆びた子供自転車を目にした。

「そういえばここ、香織が小さい頃の遊び場でもあったわね。女の子なのに、基地だとか言って自分で囲いを作ってね」

「そういえば、あれから仲直りしたんですか?」

「いいえ、家には立ち寄るけど、ここには来てないわ。相変らず忙しいみたいよ」

「いつかはわかってくれますよ」

「慰めなんていらないわよ。娘は娘、私は私。好きにしたらいいんじゃない」

 俊介は、金庫の厚みを確かめるかのように、手で観音扉をパンパンと叩いた。やはり振動すらしない。まるで壁のような感触であった。

「それにしてもこの金庫、すごいな。戦前はおカネや株券、戦時中は重要書類、そして戦後は本という文化。それぞれを守ってきたんですね。バブル期には、地上げ屋からもここを守ってきた。それに、当時の学生さんや奈津ちゃんの生活さえも守ってきたんですね」

「そうね、この金庫があったから家賃は安かったし、いまもこうしてここに居ることができている――」

「何度も言うようですけど、圧倒的な存在感ですね。まさに世界遺産ですよ。これだけいろんなものを守ってきたんだから、もっとリスペクトしたほうがいいんじゃないんですか?」

「なによ、リスペクトって?」

「敬意を表するっていうか、もっと大事にするというか……」

「何言ってるの、邪魔なだけよ。ここの家賃、わずかだけど、いまも私が払ってるのよ。俊ちゃん、何ならあんたがこの金庫、使う? 安くしとくから」

 笑っている。

「じゃ私、先に行くから、電気、切っておいてね」

奈津子は、もう十分でしょと言わんばかりに背を向けると、さっさと2階へと戻って行った。

 



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