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プロジェクトM顛末記 《2》

《2》

1週間後、私と山内、それにアシスト役の、部下で年若のOL、木田さんの3人が、会社近くの店に集まった。

「悠子はまだフリーのようだ。ただ親が焦りだして、次々に話を持ってきている。あまりのんびりとしていられないな」

と、私が探りを入れた話を伝える。

「『部長、誰かいい人いませんか』だって――。感づかれたかな」

「真吾には『口は禍の門』としっかり注意しておきました。彼も口に出した後で、しまったといつも悔むそうですが……」

 そこで作戦会議。もう大人だし、殊にマイペースの2人にお仕着せは下策だろう。できるだけ自然に2人きりになる場をつくって、後は若い2人で、じゃなくて大人の2人で……が、上策といえよう。

 先ず、近く開く予定の営業部の飲み会に彼を呼ぶことにした。

 会場の設営は木田さんの担当。西麻布の交差点にほど近い、外苑西通りのイタリアンの店を予約した。白を基調にした女性好みのインテリア、大きな窓ガラスから見えるロマンチックな夜景が売りだが、それで選んだわけではない。本音は、駅からのアクセスの悪さが理由というから面白い。地下鉄の六本木からも表参道からも15分くらい掛かる。乃木坂駅はやや近いが、青山墓地の縁(へり)を歩くので夜は気持ちが悪い。
 木田さんは、会を盛り上げるため、彼女の同期をゲストに呼んでくれた。好奇心旺盛な娘だけれど、こんなに乗り気になるとは思わなかった。

 当日の幹事はもちろん山内で、男6名、女3名の宴がスタートした。いつもの居酒屋チェーン店などでやる飲み会とは違い、お洒落な店で美味しいワインと食事、それにゲスト参加の若い娘が華やかさを添える。いい雰囲気だけれど、場馴れしないうちの連中は借りてきた猫みたいにおとなしくなり、アルコールが回って口が滑らかになるまでしばらく時間を要した。

山内が差配して、真吾の横に悠子を座らせ、木田さんが近くの席から気配りする。ところでこの2人はお酒が飲めない。まだ悠子はワインならグラス1杯は空けるが、真吾ときたら、奈良漬にも酔ってしまう口だ。ただ彼は、酔っ払いに合わせて、というよりそれ以上に、赤ら顔でよく喋る、ジンジャーエールを飲みながら。場の雰囲気にすっかり溶け込んでいるから、大半の人は彼が素面であることを忘れてしまう。

 料理のコースが進んで次はデザートという時、山内がさりげなく切り出した。

「きょうはいつもと違う趣向で楽しかったけれど、ちょっと肩がこったな。気の置けない店で飲み直しをするか。遅くなるから女性は無理しなくていいよ」

即座に木田さんが応えた。

「あたしたちは大丈夫。きょうは家に断わってきたから」

「それはいい。それじゃ、歌えるところがいいな」

一番の酒好きが先ず喜ぶ。

「わたしはちょっと……」

いつものパターン通り、悠子が小声で告げる。

「どうぞ、どうぞ」

山内は軽く受けてから真吾に声を掛ける。

「真ちゃん、麻原さんを送ってくれるかな。ここは駅まで結構あるし、道も解かりにくいんだ」

「いいよ。ぼくも2次会は勘弁して欲しいから」

 彼がこの辺りの土地勘があることは押さえてあった。ジャズ好きの彼は、この近くにある名門クラブの「ブルーノート東京」に時たま出入りしている。

 2人を無事に送り出した後、私たち3人はうなずき合って、残ったメンバーと一緒に2次会に繰り出した。

 翌日、山内と木田さんがそれぞれ集めてきた情報によれば、彼らは表参道まで骨董通りを歩き駅で別れたという。真吾がアンティークに造詣が深いことを知って悠子は感心したらしい。ただ、次のデートの約束をするまではいかなかったようだ。まあ、初回はこんなものか。

 あまり間をおかずに、山内は次の手を打った。彼らの同期仲間の集いに悠子と木田さんをゲストに招いたのだ。スペイン旅行を計画している悠子に、最近マドリードに出張した仲間が写真を持ってくるとか口実をつけて。この時もうまく謀って、真吾と悠子の2人を早く帰したのはいうまでもない。

 その効果は? 「マドリードに行くならプラド美術館は必見、特にベラスケスは画家の中の画家だよ」と真吾はいい、後日彼女に美術館の高価な案内書を渡す約束をしたそうだ。スローペースながら着実に進展しているのかな。


プロジェクトM顛末記 《3》

《3》

 いよいよ私の出番だ。これぞ決め手と、仕事を絡めて第3弾の仕掛けを繰り出すことにした。真吾が引合い段階からプロマネをして受注した、新工場建設の起工式の手伝いに、悠子を出張させることにしたのだ。場所は茨城県央の笠間の工業団地でやや遠いが日帰りはできる。

真夏の強い日ざしの下で、お客とうちの会社のお偉いさんが主役の堅苦しい式が終わった後、営業の私とプロマネの真吾が、両社の担当を招いて、夕方から慰労を兼ねた懇親会を開いた。

「業務外で悪いけれど、できたら君も付き合ってもらえないかな。本社のレディが加わると座が盛り上がるんだ」

私は、帰りの時間を気にする彼女に被せて誘う。

「最初ちょっと顔を出すだけで、すぐ抜け出していいから」

その一方で、真吾には「君のプロジェクトの手伝いに悠子を出すから、帰りは家まで送り届けるように」と事前に伝えてある。
 宴がはじまると、座の中心の彼女が席を立つのは難しくなる。そのうち雨も降ってきた。予想通り、予報通りの成り行きだ。頃を見計らって、私は彼女を救い出し、信吾の愛車ランクルに乗せて送り出した。かなりあざといやり口だが、これも縁結びのためだ。

中野の彼女の家まで2時間半ほど、午前様になる前には帰れるだろう。2人きりの夜のロングドライブ、その首尾や如何に――。

 次の日の朝、悠子の顔を見るや、声を掛けた。

「昨日はご苦労さん。遅くなって叱られなかった?」

「大丈夫です。懇親会に出る前に電話しておきましたから。部長命令といって」

「わあ、お父さんにクレームを付けられたらどうしよう。……で、真夜中のドライブはどうだった?」

「真吾さんがひとりでお喋りし通し。理系なのに、文学、芸術、哲学に宗教ことまで詳しいので驚いちゃいました。凄く本を読んでいるですって」

「彼の話は面白かった?」

「わたしにはちょっと難し過ぎて……。でも、一生懸命話してくれるんです」

――折角のチャンスなのに、それだけか。

私が自信を持って打ち込んだ球は、一気に勝負を決めるサービスエース、とはならなかったようだ。いくらお膳立てをしても、こちらの描くシナリオ通りには展開しそうにない。いささか張り合いが抜けてきた。

「あいつ、なに考えているんだ」

業を煮やした私の気持を察して、火付け役の山内が真吾をつかまえ、彼の気持を確かめた。山内の報告はこうだ。

私たちが二人を結びつけようと画策していることは、当然、真吾も気付いていた。予てから悠子に好感を持っていたので、2人が接近する機会を作ってくれたことには感謝している。

しかし、と彼は続ける。この年になると、周りから煽られたからといって、それに乗って突っ走るわけにはいかない。ことに自分は天邪鬼だし、過去に手痛い失恋をしたトラウマも消えていないので……。あとは自分たちに任せてそっとしておいて欲しい。ほどなく毎年観に行っている秋の美術展が上野で開かれるので、彼女を誘ってみる。

彼なりに前向きで進行形の積りだ。山内は友達甲斐に忠告した。

「おまえ、女と2人のとき、どうして難しい話題ばかり持ち出して理屈っぽく話すんだ? たいていの女は逃げ出すぞ」 

「わかってる。でも、照れ臭くて、間が持てなくて……。気がつくといつも1人で喋っている――」

 いい年をして、好きな女の前では、普段とは別人のように、緊張し過ぎてしまうなんて。そんな男はいまどき中高生でもめったにいないだろう。

 木田さんが、山内の話を聞いて、じれったそうに申し出た。

「真吾さんがそんなに煮え切らないなら、あたしが麻原先輩の気持を訊いて、彼女の方からもっと積極的にアプローチするように勧めましょうか」

「どうだろう。2人とも素直とはいえないから、せっつくと逆効果になるかも」

実をいうと、私は、悠子に「話せる部長」と思われている、と密かに自信を持っていた。で、遠からず彼女は相談にくるだろう、と心当てにしていたのである。


プロジェクトM顛末記 《4》

《4》

 それから3ヶ月ほど経った年の瀬、悠子が私の席にやってきた。

「部長、ちょっとお話が……」

 それきた! 別室に招いて、話を聞く。

「あの……、突然で済みませんが、わたし結婚することになりました。相手は中学の社会の先生で……、いえ、最近お見合いした人です」

「あれ、ちょっと待って。真吾はどうしたの」

「彼は結婚する気はないみたいですよ。わたしは、彼もいいな、って思っていたんですが、その方向の話はまったくないし、わたしも来年は大台だし……」

しまった。悠子の背中を押そうか、という木田さんの提案に乗ればよかった。ひとりよがりの当て込みのために機を逸したか。

私は憮然として質した。

「それでお見合いした? それにしても即決だね」

「はい、お見合いの翌日から一気呵成(いっきかせい)に迫られて……。そんなに素敵な人じゃないけれど解りやすくて、なんか一緒にいて寛げる感じ。
 あっ、部長にはずいぶん気遣ってもらったのに済みません」

 かくして、プロジェクトMは見事に失敗した。

彼はその後も結婚せず、「うちの営業はだらしない。おれを売り込むこともできない」と、自分のふがいなさを棚に上げて、今も憎たれ口を叩いている。


神保町の大金庫 《1》

神保町の大金庫

廣澤重穂 

《1》

 神田神保町に、今も時代に取り残されたかのような一軒の木造建築物がある。

 廃屋にも似た建物であったが、開けっぱなしになった玄関から、人が出入りしているのがわかる。だが玄関以外の1階部分は漆喰と板塀で囲まれ、窓さえ見当たらない。風雨に晒された外壁は朽ち、汚れたままだ。唯一、2階の外壁ファンが唸っていることから、今も使われていることが確認できた。

 その2階に、いまも小さな出版社が事務所を構えていた。名前は宙(そら)書房。社名は大きいが、女性社長ひとりが切り盛りする、いまにも潰れそうな出版社である。社長の名は須藤奈津子、年齢64歳、すでに髪は薄く、白いものがチラホラ見える。老婆というには若く、小母さんと言うほど若くない。温厚な人柄から、みんなから〝奈津ちゃん〟と呼ばれていた。

 この日も夕方、吉田俊介はこの出版社を訪ねていた。

 俊介は広告代理店の中堅営業マンであったが、宙書房を訪ねたのは仕事のためではない。息抜きというかサボりというか、いわゆる世間話で立ち寄っただけである。営業マンなら普通のことであった。

 俊介は、水道橋通りから脇道にそれると、1本の路地へと入った。両側には8~9階建ての新しいビルが立ち並び、2、3棟先には目指す木造建物があった。

〈なるほど、歯抜けとはうまいことを言ったものだ〉

両ビルに挟まれた古い瓦屋根の空間だけが、歯が抜けたように空いている。

俊介は玄関を入ると、目の前にある木造階段を登った。45度はあろうかという急階段で、とても狭い。人ひとり通るのがやっと。足を踏みしめるごとにギシギシと音がした。

「こんにちは」

 踊り場まで上がると、いつものようにノックもせず、半開きの扉を引いた。いまどき珍しい引き戸である。

「あら、俊ちゃん、今日も暑いわね。冷たいお茶でも飲む? じゃ悪いけど、戸棚からコップ取ってきて」

 奈津子は事務机から立ち上がると、冷蔵庫のほうへと歩いて行った。

 8畳ほどの事務所は、壁に向かって机が2つ、金属製の本棚4脚、ファックス、コピー機、パソコンなどがぐるりととり囲んでいる。そして、部屋の中央には、卓球台半分ぐらいの大きさの作業台が置かれてあった。カッターを使ってもいいように全面にラバーが貼られた作業台である。冷蔵庫は、その作業台のすぐ脇にあった。

 俊介は、いったんはその作業台の椅子に腰を下ろすが、すぐに立ちあがると再び踊り場に出て、共同炊事場の食器棚からコップを取り出した。

「どのコップでもいいんですよね。奈津ちゃんのも持っていきます?」

 俊介は、事務所の方に向かって声をかけた。そのとき俊介は、ちょっと失礼かなと思いつつも、皆と同じように〝奈津ちゃん〟と呼んだ。よくよく考えてみれば母と同じような年齢である、失礼でないわけがない。しかし彼女には、それを気にさせないだけの雰囲気があった。

「いいわ、私のはあるから」

 奈津子は、俊介が持ってきたコップを受け取ると、お茶を注いで手渡した。それから、「まだ飲む?」とボトルをちょっと差し上げて聞くと、黙ってボトルごと手渡した。

「毎日、暑いわね。それにしても、俊ちゃんも暇なようね」

「ええ、開店休業です。うちみたいな中堅の広告代理店なんか、ちょっと景気が悪くなると、真っ先にやられますからね。予算カットでどの会社も相手してくれません」

 それから2030分、俊介の愚痴話が続いた。

奈津子は、「そうね」とか、「仕方がないわよ」と言いながら、俊介の話に付き合っていた。

5時を過ぎた頃、もう1人、いつもの客がやってきた。近所の印刷会社の親父さんである。桂木久雄といい、家族経営の小さな工場をやっている。

 桂木は扉を開けて入ってくると、立ったまま奈津子に声をかけた。

「オレ、今度の週末、穂高に行ってくるわ」

 桂木は時候の挨拶もせず、自分の家にやってきたように屈託がない。いまも山登りが趣味らしく、ここに来るといつも山の話ばかりしていた。自分で冷蔵庫を開けると、当たり前のようにバーボンのボトルを取り出した。手にはすでにコップが握られている。部屋に入る前、食器棚に立ち寄ったらしい。

「お昼の残りだけど、芋の煮っ転がしでも食べる?」

 奈津子は立ちあがると、桂木の返事を待たず、流し台のある踊り場へと出て行った。いつも奈津子は、誰であろうとちょっとしたつまみを用意し、歓待してくれる。

 それを見ていた俊介は、

「桂木さんは気楽でいいですね。今週も山登りですか」

 そう言いながらわずかに残っていたお茶をすすると、コップを桂木の前に置き、バーボンを催促した。

「もちろんストレートでいいよな? ところで、夏の穂高はいいぞ。なにしろ緑が濃いんだ。空の青も深いしな。俊ちゃん、金曜の夜に出発するけど、どうだい一緒に?」

「いえ、ちょっと……」

 俊介は『用事があって無理です』と続けようとしたが、桂木は言葉を待っていない。小皿とお箸を手に戻ってきた奈津子に、もう話しかけていた。

「奈津ちゃん、それにしても、ここにやってきて、もう長いねえ。どれくらいになる?」

「そうね、もう40年になるかしら」

 奈津子は、小皿とお箸を作業台に並べながら、思い出すように言った。

「それにしても奇跡だね。いまもここが残ってるなんて。ここは神田神保町だよ、東京の一等地だよ。その神保町にいまもこんな所が残ってるなんて。奇跡としか言いようがない」

 桂木は、何度も〝奇跡〟を連発した。

 その間も奈津子は、聞くでもなく無視するわけでもなく、流し台と部屋を往復していた。そして、煮物の入った鍋と佃煮、漬物を作業台に並べた。

「こんな一等地なのに、どうしていまもこの建物、残っているんですかね? 十数年前は、地上げが大変だったでしょうに」

 俊介にとってみれば、それまで考えたことはなかったが、言われてみれば確かにそうだ。神田神保町という都心に、いまもこのような廃屋があることが不思議だった。

「おや、知らないの、俊ちゃん? 一階にある大金庫のおかげさ」

 桂木は、当たり前のことを聞くなと言わんばかりに、俊介の顔を見た。

「大金庫って?」

「一階に大金庫があって、あまりの大きさで撤去できなくて地上げ屋でさえお手上げだった、ていうやつさ」

「え、1階に金庫なんてあったんですか? 1階は物置だとばかり思ってました。だけど今時、撤去できないなんて、そんなことないでしょ。これだけ機械が発達してるんだから、壊すぐらい何でもないと思いますけど……」

「何言ってる。あの東京大空襲でも焼け残った金庫だぞ。鋼鉄とコンクリートで固められた大金庫よ。ほら、あのヤクザ映画なんかに出てくる事務所の金庫、あれのもっと、もっとでっかいやつよ」

 話によれば、昭和初期、このあたりに銀行の本店があったらしい。銀行だけに頑丈な金庫があるのは当然だが、そのころの金庫は建て付けで、鋼鉄製の鉄枠にコンクリートを流し込んだものだった。

 やがて戦争が始まり、そして戦争終了直前、神田神保町周辺は大空襲を受けた。建物は破壊されたが、この大金庫だけは残った。焼け野原に、ポツンと巨大な黒い箱だけが取り残されていたという。

戦争が終わって、家主はここに建物を建てようと思ったが、この大金庫を動かすこともできず、壊すこともできない。仕方なく金庫の上に建物を建てることにした。そこで、1階は大金庫と空きスペースに、2階は通常の部屋や炊事・台所、共同トイレなどにしてしまったという。

「へー、そうなんですか。いつも来てるのに、誰もそんな話、教えてくれなかったじゃないですか」

「あら、話さなかったかしら?」

 奈津子は、注文書籍の発送準備をしていたが、手を止めて男2人の方をふり返った。

「その大金庫、ぜひ見せてください」

「ええ、いいわよ、今度ね。でも、ただの大きな鉄の塊よ」

 奈津子がまだ作業していたので、俊介はそれ以上の無理強いはできなかった。しかも、奈津子も桂木も興味がないらしく、立ちあがろうとさえしない。

 そのうち、3人の会話は景気の話になり、桂木の登山の話になった。その頃には、また数人が遊びにやって来て、いつの間にかサロンと化していた。そして、いつのまにか散会となった。

 


神保町の大金庫 《2》

《2》

 ある夕方、俊介はこの日も宙書房を訪ねていた。

 玄関を入ると、階上から言い争う声が聞こえてきた。奈津子と娘の香織である。

「お母さん、もういい加減、ここから引っ越してよ。ここは古すぎるし、危険だわ」

「心配いらないわよ。香織だって知ってるでしょ、この建物。土台がしっかりしているし、家賃だって安いんだから」

「そりゃ2階は落ちないだろうけど、地震で屋根が壊れたり、壁が崩れたりするわ。でも私、そんなこと、言ってるんじゃないの……」

「じゃ、何なのよ」

「古すぎるでしょ、この建物」

「別にあなたが生活しているわけでもないし、事務所として立派に使ってるだけなんだから。香織が気にすることじゃないわ。とにかく、私はちゃんと仕事をしてるんだから、とやかく言われたくないわね」

「よく考えてよね、私の気持ちも。お母さんをこんな所に置いておきたくないの。恥ずかしい姿をみせたくないのよ。私たち、母一人娘一人なんですからね」

 娘の香織は、大手証券会社に勤めていた。30台半ばの彼女は、保険運用のコンサルタント営業として実績をあげ、そこそこの給料を手にしているらしい。まわりでは、〝鷹が鷹を生んだ〟と評判の娘であった。

 俊介は、階上の喧騒を聞き、出直そうかと迷ったが、そんなことを気にする2人ではない、そう思って階段を上がることにした。

 2、3段上がったところで、香織が踊り場に顔を出した。

「じゃ、お母さん、また来るけど、よく考えておいてね」

 香織は扉を閉めると、階段口の手すりに手を伸ばした。

「あら、吉田さん、ご無沙汰しています」

 香織は、登ってくる俊介の顔を認めると、軽く会釈をした。

 俊介もまた会釈を返す。そして登っていた階段を下まで戻った。とてもじゃないが、すれ違えるほど、階段は広くない。

 2人は玄関口で顔を合わせると、あらためて挨拶し合った。

「香織さん、お久しぶりですね。今日はどうしたんです? 賑やかな声がしてたけど……」

「ええ、そうなの。お母さんに、ここから引っ越すよう頼んでいたのよ。もう古いでしょ。それにみっともないし、危険だから。どこか小じんまりとした事務所にでも移ってもらいたいわ」

「いいじゃないですか。僕、ここ好きですよ。とっても牧歌的で……」

 口をついて出た言葉であったが、俊介自身、あらためてそのことに気付いた。

〈そうか、牧歌的か。この言葉こそ、ここの雰囲気にぴったりだ〉

自分で自分に感心していると、

「そんなこと、他人だから言えるよ。身内にしてみればとっても心配だわ。でも、仕方ないわね、こればっかりは。お母さんが決めることだもの」

 香織は、俊介の無責任な言いように最初は不満に思ったが、なかばあきらめの気持ちと、ふんわりしたここの雰囲気は認めざるを得なかった。

「お母さんのこと、これからもよろしくお願いしますね」

 それから彼女は軽く一礼すると、玄関を出ていった。日頃はカビ臭いこの空間に、彼女の甘い匂いが残った。

 一方、彼女を見送った俊介は、外の光に一瞬目を細めたが、現実に引き戻されたかのように、再び階段上を見上げた。それから、ギシギシと音を立てて登ると、いつものようにノックもせず、引き戸を開けた。

「奈津ちゃん、こんにちは。香織さん、相変らず美人ですね。もう10年若かったら、放っておかないのに――」

 部屋に入ると、仕事中の奈津子に声をかけた。

「あら、俊ちゃん、いらっしゃい。何、バカなこと言ってんの。それより、何か飲む?」

 奈津子は、老眼鏡をはずすと振り向き、立ちあがろうとした。

「あっ、自分でやります」

 俊介は、片手で制しながら、作業台横の冷蔵庫を開けた。

「下まで聞こえてましたよ、お2人の会話。仲がいいんですね」

「ま、女同士の親子なんて、どこもこんなものじゃない? 姉妹みたいなものよ」

 奈津子は眼鏡をかけ直すと、再び机に向かった。請求書を起こしているようだ。

「そんなの、パソコンでやったら? 何なら、僕がマスターを作ってあげましょうか」

「いいわよ、そんなにないんだから。却って時間がかかっちゃうわ」

 俊介は、そのまま作業台の椅子に腰を下ろすと、上着から煙草を取り出し、冷蔵庫の上の灰皿をとった。あまり話しかけて奈津子の仕事の邪魔をしては悪い。

 一方の奈津子は、仕事を続けながらも、先ほどの香織の言葉を考えているらしかった。

「香織の気持ちもわかるけど、本当は彼氏をここに連れて来たくないんじゃないかしら。彼氏、外資系銀行のエリート社員で、『お母さんは何を?』と聞かれて『出版社の社長』って答えたらしいんだけど、こんなんじゃねえ。恥ずかしいのかもね」

 自分から香織のことを話題にし始めた。

「そんなことないですよ。本当に心配しているんじゃないんですか?」

「ま、そうかもしれないけど……。私、ここを引っ越す気なんてさらさらないわ。何しろもう何十年も住んでいるんだから」

 奈津子がこの神田神保町に事務所を開いたのは、旦那と離婚してすぐである。お腹には娘の香織がおり、本格的に働かねばならなかった。

そもそも奈津子と旦那は学生運動で知り合い、結婚後もなにくれとなく活動を続けていたらしい。離婚後、奈津子は周囲の活動仲間の支援を得て、神田神保町に出版社を開いた。ここに事務所を開いたのは、家賃が安かったからである。大家さんは奈津子に同情し、しかも1階にある使い物にならない大金庫のおかげで、格安でここを貸してくれた。

また周囲の仲間は、書いて発表できる場が欲しかったので、奈津子が出版社を作ったことを歓迎した。それらの好条件が重なり、本の街神田神保町に事務所を開くことができたのである。

 宙書房には多くの人が出入りしていたという。大学の先生、院生、作家の卵、活動家など。みんな書くことが好きで、稿料がなくても気にしなかった。自分の書いたものが世に出るだけで嬉しかったのである。

 時代は学生運動や労働運動が盛んな頃で、この頃から加藤登紀子の〝お登紀さん〟をもじって〝神田神保町の奈津ちゃん〟と呼ばれていた。

 その後、学生運動は下火になるが、宙書房は順調に続いていた。何しろ出版は時代の最先端であったし、本もよく売れた。しかも、まだ女性が会社を経営するという時代ではなかったので、世間からも注目を集めていた。いうなれば、シングル・マザーという言葉もキャリア・ウーマンという言葉も、彼女が先駆けであったかもしれない。

 俊介は、机に向かっている奈津子の背を見ながら、『いろいろあったんだろうな』と空想していた。

〈水道橋通りに学生のデモ隊がシュプレヒコールを上げている。それを両脇から固める機動隊。突然ピィッ、ピィッ、ピーと警官が学生を制す。そのうち、甲高い警笛や学生の怒号が入り混じり、両者が一気に衝突する。それらの音がこの部屋からも聞こえてきて、急に緊張感が高まる……〉

 また、

〈原稿用紙を手にした若者が奈津子に説教されている。『この程度の内容だったら売れやしないわよ、もっとしっかり書かなきゃ』、『活字は文化よ、文化をなめちゃダメ、もっと覚悟を決めて書きなさい』と叱られていたかもしれない。なかには、いまは名の知れた著述家の卵もいたらしい〉

 何も仕事だけじゃない。昔の彼女はマドンナ的存在だったという。

〈美形だったから、言い寄る男も多かったに違いない。しかし彼女は男には目もくれず、仕事と子育てに集中していた。『私は誰の助けも借りない。自分一人で生きて行くわ』そう言っていたかもしれない〉

 俊介は、短くなった煙草を灰皿に押しつけると、もう1本取り出した。それから、壁に貼ってある年代物のポスターを眺めたり、棚に無造作に置かれた宙書房出版の本の背表紙を見ていた。

 そのうち俊介は、静かな部屋の雰囲気に耐えかねて、奈津子に声をかけた。

「奈津ちゃん、あの本の著者、いまでも連絡があるんですか?」

「え、どの人?」

 奈津子は振り返ると、俊介が指さす背表紙に目をやった。いまはよく知られた評論家である。

「あ、あの人ね。あるわけないじゃない、もう昔のことよ。でも、誰かの葬式でチラッと見かけたわ。すっかり老けてしまって、もう昔の面影なんてなかったわね」

「〝安保は遠くなりにけり〟ですか」

 俊介は、独り言のように言った。

 しばらくして、ギシギシと階段を上ってくる音がする。

 顔を出したのは、いつもの桂木であった。

「おっ、香水が匂うけど、さてはレディが来てたな。おっ、またまた俊ちゃんか。相変らず暇そうだな」

 桂木は鼻をクンクンさせながら、作業台横のイスに座った。

「桂木さん、こんにちは。香織さんが来てたんですよ」

「そいつは残念、香織ちゃんの美形、拝みたかったんだがなあ。ところでどうだい、俊ちゃんの仕事のほうは?」

「もちろんダメ。こう景気が悪いと、仕事なんて回ってきませんよ。それより、桂木さんこそ大変なんじゃありません?」

 近頃では、印刷業界は構造不況業種と呼ばれている。インターネットが発達し、印刷物を造らなくなってしまった。パンフレットや広告はネットに代わり、雑誌は売れなくなった。会社案内もインターネットで済ますことができるし、チラシも同様だ。ましてや、本も読まれない。

昔は、印刷業界は右肩上がりで、不況知らずと言われてきた。景気が悪ければ宣伝しなければならず、良ければ良いで情報発信が多くなる。だから、印刷だけは不況知らずと言われてきたのである。

 しかしこの頃は、景気が良かろうと悪かろうと、印刷そのものがなくなる時代であった。

「ああ、確かにな。だが、ワシはまだいいほうだ。親父がここ神保町で印刷の仕事をしていたから、地上げがあったが財産だけは残った。いまの会社だって、いわば道楽みたいなもんだ。建てられたビルの一階を優先的に借りることができたからな。どうしても立ち行かなくなれば廃業するさ」

 桂木は、いつものように冷蔵庫を開け、バーボンを取り出した。

「奈津ちゃんもそろそろ楽隠居したら? 娘さんも大きくなったことだし――」

「仕事を止めたら、逆に、病気になっちゃうわよ。それに、私がここを止めたら、あんたたち、どこへ行くのよ。どうせ行くとこなんてないんでしょ?」

「そりゃ、そうだ。しかしなあ……」

 奈津子と桂木は、長い間この神田神保町で近所付き合いをしてきた。良いも悪いも、お互いに了解し合っているのかもしれない。

「香織も同じことを言っていたわ。早く引っ越せって……」

 ちょっとしんみりした雰囲気になってきた。

 俊介は、場をなごませようと2人の会話に割り込んだ。

「2人ともいいじゃないですか、老後のおカネ、心配しなくていいんですから。オレらなんて、定年の頃には年金なんて貰えませんよ。どっか田舎に行って百姓でもしなきゃ」

「お、それいいね。いまから行っちゃいなよ。同じ行くなら、白馬あたりがいいんじゃないか? 遊びに行くからよ。何しろ、北アルプスの玄関口だからな。な、俊ちゃん、そうしろ、そうしろ」

「はは、いいですね」

 俊介は苦笑いした。

 そのうち奈津子は、眼鏡をはずして立ちあがると、いつもの酒肴の準備を始めた。立ち際、

「そういえば俊ちゃんて、どこの出身だっけ?」

「はい、山形の遊佐町というところです。酒田市のちょっと先、秋田県との県境です」

「お、それじゃ、鳥海山の麓じゃないか。すぐにも帰りなよ。帰って百姓やった方がいいぞ。ところでおまえ、長男か?」

 桂木は茶化しながら、バーボンをぐっと飲み干した。

「鳥海山の麓なんて、とってもいい所じゃない。私、引っ越すなら、そんな所がいいわね」

 奈津子の言葉は、本気とも冗談ともつかない。

 俊介は、桂木の冗談に苦笑いしながらも、奈津子の言葉の意味を考えた。

〈やはり奈津子さんでも引っ越ししたいのだろうか? それにしても不思議な人だ。母一人子一人で苦労しただろうに、そんな険しさがほとんどない。いつもみんなの相手をしてくれて、みんなの愚痴を聞いたりしてくれて……。笑顔が絶えない……〉

 そのうちに、いつの間にか人が増え、いつものようにサロンと化し、そして、いつの間にか散会となった。

 



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