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プロジェクトM顛末記 《1》

プロジェクトM顛末記

浜 木綿 


《1》                      

はじまりは「雨夜の品定め」だった。

その夜の空模様はともかく、居酒屋で気のおけない会社の仲間と女子社員たちの噂をしていたときのことだ。めったに女子を褒めることのない彼がふともらした。

「彼女みたいのを個性的な美人っていうのかな」

そのひと言に彼の同期の男が反応し、私にそっと目配せをした。

彼の名は佐藤真吾。佐藤は本社だけでも5人もいるから、たいていは真吾と呼ぶ。エンジニアだが、プロマネの仕事が多いので、営業の私たちと行き来が多い。彼女とは麻原悠子、同期の男は山内哲で2人とも私の部下だ。かくいう私は朱牟田公彦、太平洋化工の営業部長をしている。

 翌朝、山内が声を掛けてきた。

「部長、昼休みに話しませんか」

面白い遊びを見つけた子どもみたいに目が輝いている。

 昼時に山内が持ちかけてきた話は、案の定、四十路を過ぎてまだ独身の真吾と三十路も間近の悠子をなんとか結びつけようという企てだ。

 お見合いの釣り書風にいえば、信吾は大阪の一流大学を優秀な成績で卒業し、会社では、前途を嘱望されているプロジェクト部の課長である。口うるさいところが難点だが、付き合うと純で気持ちのいい奴だ。背は高く年より若くみえ、ルックスは悪い方ではない。独身貴族を謳歌しており、住宅ローンと教育費に追われるこちとらには縁のない高級なブランドものを身にまとい、お気に入りの車を乗り回している。

悠子は短大を出てOL経験は7、8年か。そろそろベテランの部類に属する。マイペースを保ち、派閥を作って仲間でつるんだりはしない。そう、群れないのだ。(日本人離れした彫りの深い顔で、美人には違いないけれど、日によって目鼻立ちが整って見えるときと、化粧のせいか体調のせいか、ちょっとバランスが崩れて映るときがある。仕事は無難にこなし、安心して任せられる貴重な存在だ。
 私は、まず山内に確認してみた。

「真吾のやつ、結婚する気はあるのかな」

「最近は願望ありです。病弱の母親からもうるさく言われているとか」

「悠子には迷惑な話だろう」

「どうでしょう。『嫌い』とは言っていませんが……」

「そうか、彼をまったく受け付けない女)が多いからな」

「あの口がいけないんです」

 その話はいくつか聞いたことがある。

例えば、こんな失礼なこといって、中堅どころのOLを怒らせた。

「あんたはいつまでも幼児体型のまんまだな」

たしかにキュピーさんの体型をしていて、言い得て妙だけれど相手が悪かった。彼女は同年代の女子社員を仕切っているボス。頭の回転が速くて下手をすると上司もやり込められる。その彼女に本人が一番気にしていることをいうなんて、気の弱い私にいわせれば「命知らず」だ。彼女の影響下にある女性たちから、彼が徹底的にしかとされたことはいうまでもない。)

 新入りの女の子が、彼の入社は20年前と聞いて驚いたときも、

「そうだよ。きみがお尻にウンチを挟んで走り回っている頃、ぼくはもうサラリーマンをしてたんだ」

と、余計な言葉を返して、彼女たちのひんしゅくを買った。

 もう十数年前のことなので、相手にされない程度で済んだが、今なら完全にセクハラで懲罰ものだ。

めずらしいことに、こんな彼でも悠子には拒否反応がないという。ならば、脈があるかもしれない。柄にないことだけれど、ひとつ「出雲の神」を買って出るか。

私は山内に伝えた。

「よし、彼女にまだ決まった人はいないか、当ってみよう。君は真吾に、結婚を望むなら女性に嫌われる発言は慎むように、厳重注意をしてくれ」

「はい、わかりました。朱牟田部長がその気になって下さると百人力です。2人の結婚を秘密工作(エンジニアリング)をする『プロジェクトM』ですね」(

はしゃぎ過ぎている山内にちょっと意地悪をしてみたくなった。

「プロジェクトで思い出したけれど、先週、君が決まりそうといっていたあの案件、上手くいっているかね」

「い、いえ、まだ先方の検討待ちで……」

「もたもたしていると、後から現れたライバルに出し抜かれるぞ」

「ひゃあ、とんだ薮蛇――」


プロジェクトM顛末記 《2》

《2》

1週間後、私と山内、それにアシスト役の、部下で年若のOL、木田さんの3人が、会社近くの店に集まった。

「悠子はまだフリーのようだ。ただ親が焦りだして、次々に話を持ってきている。あまりのんびりとしていられないな」

と、私が探りを入れた話を伝える。

「『部長、誰かいい人いませんか』だって――。感づかれたかな」

「真吾には『口は禍の門』としっかり注意しておきました。彼も口に出した後で、しまったといつも悔むそうですが……」

 そこで作戦会議。もう大人だし、殊にマイペースの2人にお仕着せは下策だろう。できるだけ自然に2人きりになる場をつくって、後は若い2人で、じゃなくて大人の2人で……が、上策といえよう。

 先ず、近く開く予定の営業部の飲み会に彼を呼ぶことにした。

 会場の設営は木田さんの担当。西麻布の交差点にほど近い、外苑西通りのイタリアンの店を予約した。白を基調にした女性好みのインテリア、大きな窓ガラスから見えるロマンチックな夜景が売りだが、それで選んだわけではない。本音は、駅からのアクセスの悪さが理由というから面白い。地下鉄の六本木からも表参道からも15分くらい掛かる。乃木坂駅はやや近いが、青山墓地の縁(へり)を歩くので夜は気持ちが悪い。
 木田さんは、会を盛り上げるため、彼女の同期をゲストに呼んでくれた。好奇心旺盛な娘だけれど、こんなに乗り気になるとは思わなかった。

 当日の幹事はもちろん山内で、男6名、女3名の宴がスタートした。いつもの居酒屋チェーン店などでやる飲み会とは違い、お洒落な店で美味しいワインと食事、それにゲスト参加の若い娘が華やかさを添える。いい雰囲気だけれど、場馴れしないうちの連中は借りてきた猫みたいにおとなしくなり、アルコールが回って口が滑らかになるまでしばらく時間を要した。

山内が差配して、真吾の横に悠子を座らせ、木田さんが近くの席から気配りする。ところでこの2人はお酒が飲めない。まだ悠子はワインならグラス1杯は空けるが、真吾ときたら、奈良漬にも酔ってしまう口だ。ただ彼は、酔っ払いに合わせて、というよりそれ以上に、赤ら顔でよく喋る、ジンジャーエールを飲みながら。場の雰囲気にすっかり溶け込んでいるから、大半の人は彼が素面であることを忘れてしまう。

 料理のコースが進んで次はデザートという時、山内がさりげなく切り出した。

「きょうはいつもと違う趣向で楽しかったけれど、ちょっと肩がこったな。気の置けない店で飲み直しをするか。遅くなるから女性は無理しなくていいよ」

即座に木田さんが応えた。

「あたしたちは大丈夫。きょうは家に断わってきたから」

「それはいい。それじゃ、歌えるところがいいな」

一番の酒好きが先ず喜ぶ。

「わたしはちょっと……」

いつものパターン通り、悠子が小声で告げる。

「どうぞ、どうぞ」

山内は軽く受けてから真吾に声を掛ける。

「真ちゃん、麻原さんを送ってくれるかな。ここは駅まで結構あるし、道も解かりにくいんだ」

「いいよ。ぼくも2次会は勘弁して欲しいから」

 彼がこの辺りの土地勘があることは押さえてあった。ジャズ好きの彼は、この近くにある名門クラブの「ブルーノート東京」に時たま出入りしている。

 2人を無事に送り出した後、私たち3人はうなずき合って、残ったメンバーと一緒に2次会に繰り出した。

 翌日、山内と木田さんがそれぞれ集めてきた情報によれば、彼らは表参道まで骨董通りを歩き駅で別れたという。真吾がアンティークに造詣が深いことを知って悠子は感心したらしい。ただ、次のデートの約束をするまではいかなかったようだ。まあ、初回はこんなものか。

 あまり間をおかずに、山内は次の手を打った。彼らの同期仲間の集いに悠子と木田さんをゲストに招いたのだ。スペイン旅行を計画している悠子に、最近マドリードに出張した仲間が写真を持ってくるとか口実をつけて。この時もうまく謀って、真吾と悠子の2人を早く帰したのはいうまでもない。

 その効果は? 「マドリードに行くならプラド美術館は必見、特にベラスケスは画家の中の画家だよ」と真吾はいい、後日彼女に美術館の高価な案内書を渡す約束をしたそうだ。スローペースながら着実に進展しているのかな。


プロジェクトM顛末記 《3》

《3》

 いよいよ私の出番だ。これぞ決め手と、仕事を絡めて第3弾の仕掛けを繰り出すことにした。真吾が引合い段階からプロマネをして受注した、新工場建設の起工式の手伝いに、悠子を出張させることにしたのだ。場所は茨城県央の笠間の工業団地でやや遠いが日帰りはできる。

真夏の強い日ざしの下で、お客とうちの会社のお偉いさんが主役の堅苦しい式が終わった後、営業の私とプロマネの真吾が、両社の担当を招いて、夕方から慰労を兼ねた懇親会を開いた。

「業務外で悪いけれど、できたら君も付き合ってもらえないかな。本社のレディが加わると座が盛り上がるんだ」

私は、帰りの時間を気にする彼女に被せて誘う。

「最初ちょっと顔を出すだけで、すぐ抜け出していいから」

その一方で、真吾には「君のプロジェクトの手伝いに悠子を出すから、帰りは家まで送り届けるように」と事前に伝えてある。
 宴がはじまると、座の中心の彼女が席を立つのは難しくなる。そのうち雨も降ってきた。予想通り、予報通りの成り行きだ。頃を見計らって、私は彼女を救い出し、信吾の愛車ランクルに乗せて送り出した。かなりあざといやり口だが、これも縁結びのためだ。

中野の彼女の家まで2時間半ほど、午前様になる前には帰れるだろう。2人きりの夜のロングドライブ、その首尾や如何に――。

 次の日の朝、悠子の顔を見るや、声を掛けた。

「昨日はご苦労さん。遅くなって叱られなかった?」

「大丈夫です。懇親会に出る前に電話しておきましたから。部長命令といって」

「わあ、お父さんにクレームを付けられたらどうしよう。……で、真夜中のドライブはどうだった?」

「真吾さんがひとりでお喋りし通し。理系なのに、文学、芸術、哲学に宗教ことまで詳しいので驚いちゃいました。凄く本を読んでいるですって」

「彼の話は面白かった?」

「わたしにはちょっと難し過ぎて……。でも、一生懸命話してくれるんです」

――折角のチャンスなのに、それだけか。

私が自信を持って打ち込んだ球は、一気に勝負を決めるサービスエース、とはならなかったようだ。いくらお膳立てをしても、こちらの描くシナリオ通りには展開しそうにない。いささか張り合いが抜けてきた。

「あいつ、なに考えているんだ」

業を煮やした私の気持を察して、火付け役の山内が真吾をつかまえ、彼の気持を確かめた。山内の報告はこうだ。

私たちが二人を結びつけようと画策していることは、当然、真吾も気付いていた。予てから悠子に好感を持っていたので、2人が接近する機会を作ってくれたことには感謝している。

しかし、と彼は続ける。この年になると、周りから煽られたからといって、それに乗って突っ走るわけにはいかない。ことに自分は天邪鬼だし、過去に手痛い失恋をしたトラウマも消えていないので……。あとは自分たちに任せてそっとしておいて欲しい。ほどなく毎年観に行っている秋の美術展が上野で開かれるので、彼女を誘ってみる。

彼なりに前向きで進行形の積りだ。山内は友達甲斐に忠告した。

「おまえ、女と2人のとき、どうして難しい話題ばかり持ち出して理屈っぽく話すんだ? たいていの女は逃げ出すぞ」 

「わかってる。でも、照れ臭くて、間が持てなくて……。気がつくといつも1人で喋っている――」

 いい年をして、好きな女の前では、普段とは別人のように、緊張し過ぎてしまうなんて。そんな男はいまどき中高生でもめったにいないだろう。

 木田さんが、山内の話を聞いて、じれったそうに申し出た。

「真吾さんがそんなに煮え切らないなら、あたしが麻原先輩の気持を訊いて、彼女の方からもっと積極的にアプローチするように勧めましょうか」

「どうだろう。2人とも素直とはいえないから、せっつくと逆効果になるかも」

実をいうと、私は、悠子に「話せる部長」と思われている、と密かに自信を持っていた。で、遠からず彼女は相談にくるだろう、と心当てにしていたのである。


プロジェクトM顛末記 《4》

《4》

 それから3ヶ月ほど経った年の瀬、悠子が私の席にやってきた。

「部長、ちょっとお話が……」

 それきた! 別室に招いて、話を聞く。

「あの……、突然で済みませんが、わたし結婚することになりました。相手は中学の社会の先生で……、いえ、最近お見合いした人です」

「あれ、ちょっと待って。真吾はどうしたの」

「彼は結婚する気はないみたいですよ。わたしは、彼もいいな、って思っていたんですが、その方向の話はまったくないし、わたしも来年は大台だし……」

しまった。悠子の背中を押そうか、という木田さんの提案に乗ればよかった。ひとりよがりの当て込みのために機を逸したか。

私は憮然として質した。

「それでお見合いした? それにしても即決だね」

「はい、お見合いの翌日から一気呵成(いっきかせい)に迫られて……。そんなに素敵な人じゃないけれど解りやすくて、なんか一緒にいて寛げる感じ。
 あっ、部長にはずいぶん気遣ってもらったのに済みません」

 かくして、プロジェクトMは見事に失敗した。

彼はその後も結婚せず、「うちの営業はだらしない。おれを売り込むこともできない」と、自分のふがいなさを棚に上げて、今も憎たれ口を叩いている。


神保町の大金庫 《1》

神保町の大金庫

廣澤重穂 

《1》

 神田神保町に、今も時代に取り残されたかのような一軒の木造建築物がある。

 廃屋にも似た建物であったが、開けっぱなしになった玄関から、人が出入りしているのがわかる。だが玄関以外の1階部分は漆喰と板塀で囲まれ、窓さえ見当たらない。風雨に晒された外壁は朽ち、汚れたままだ。唯一、2階の外壁ファンが唸っていることから、今も使われていることが確認できた。

 その2階に、いまも小さな出版社が事務所を構えていた。名前は宙(そら)書房。社名は大きいが、女性社長ひとりが切り盛りする、いまにも潰れそうな出版社である。社長の名は須藤奈津子、年齢64歳、すでに髪は薄く、白いものがチラホラ見える。老婆というには若く、小母さんと言うほど若くない。温厚な人柄から、みんなから〝奈津ちゃん〟と呼ばれていた。

 この日も夕方、吉田俊介はこの出版社を訪ねていた。

 俊介は広告代理店の中堅営業マンであったが、宙書房を訪ねたのは仕事のためではない。息抜きというかサボりというか、いわゆる世間話で立ち寄っただけである。営業マンなら普通のことであった。

 俊介は、水道橋通りから脇道にそれると、1本の路地へと入った。両側には8~9階建ての新しいビルが立ち並び、2、3棟先には目指す木造建物があった。

〈なるほど、歯抜けとはうまいことを言ったものだ〉

両ビルに挟まれた古い瓦屋根の空間だけが、歯が抜けたように空いている。

俊介は玄関を入ると、目の前にある木造階段を登った。45度はあろうかという急階段で、とても狭い。人ひとり通るのがやっと。足を踏みしめるごとにギシギシと音がした。

「こんにちは」

 踊り場まで上がると、いつものようにノックもせず、半開きの扉を引いた。いまどき珍しい引き戸である。

「あら、俊ちゃん、今日も暑いわね。冷たいお茶でも飲む? じゃ悪いけど、戸棚からコップ取ってきて」

 奈津子は事務机から立ち上がると、冷蔵庫のほうへと歩いて行った。

 8畳ほどの事務所は、壁に向かって机が2つ、金属製の本棚4脚、ファックス、コピー機、パソコンなどがぐるりととり囲んでいる。そして、部屋の中央には、卓球台半分ぐらいの大きさの作業台が置かれてあった。カッターを使ってもいいように全面にラバーが貼られた作業台である。冷蔵庫は、その作業台のすぐ脇にあった。

 俊介は、いったんはその作業台の椅子に腰を下ろすが、すぐに立ちあがると再び踊り場に出て、共同炊事場の食器棚からコップを取り出した。

「どのコップでもいいんですよね。奈津ちゃんのも持っていきます?」

 俊介は、事務所の方に向かって声をかけた。そのとき俊介は、ちょっと失礼かなと思いつつも、皆と同じように〝奈津ちゃん〟と呼んだ。よくよく考えてみれば母と同じような年齢である、失礼でないわけがない。しかし彼女には、それを気にさせないだけの雰囲気があった。

「いいわ、私のはあるから」

 奈津子は、俊介が持ってきたコップを受け取ると、お茶を注いで手渡した。それから、「まだ飲む?」とボトルをちょっと差し上げて聞くと、黙ってボトルごと手渡した。

「毎日、暑いわね。それにしても、俊ちゃんも暇なようね」

「ええ、開店休業です。うちみたいな中堅の広告代理店なんか、ちょっと景気が悪くなると、真っ先にやられますからね。予算カットでどの会社も相手してくれません」

 それから2030分、俊介の愚痴話が続いた。

奈津子は、「そうね」とか、「仕方がないわよ」と言いながら、俊介の話に付き合っていた。

5時を過ぎた頃、もう1人、いつもの客がやってきた。近所の印刷会社の親父さんである。桂木久雄といい、家族経営の小さな工場をやっている。

 桂木は扉を開けて入ってくると、立ったまま奈津子に声をかけた。

「オレ、今度の週末、穂高に行ってくるわ」

 桂木は時候の挨拶もせず、自分の家にやってきたように屈託がない。いまも山登りが趣味らしく、ここに来るといつも山の話ばかりしていた。自分で冷蔵庫を開けると、当たり前のようにバーボンのボトルを取り出した。手にはすでにコップが握られている。部屋に入る前、食器棚に立ち寄ったらしい。

「お昼の残りだけど、芋の煮っ転がしでも食べる?」

 奈津子は立ちあがると、桂木の返事を待たず、流し台のある踊り場へと出て行った。いつも奈津子は、誰であろうとちょっとしたつまみを用意し、歓待してくれる。

 それを見ていた俊介は、

「桂木さんは気楽でいいですね。今週も山登りですか」

 そう言いながらわずかに残っていたお茶をすすると、コップを桂木の前に置き、バーボンを催促した。

「もちろんストレートでいいよな? ところで、夏の穂高はいいぞ。なにしろ緑が濃いんだ。空の青も深いしな。俊ちゃん、金曜の夜に出発するけど、どうだい一緒に?」

「いえ、ちょっと……」

 俊介は『用事があって無理です』と続けようとしたが、桂木は言葉を待っていない。小皿とお箸を手に戻ってきた奈津子に、もう話しかけていた。

「奈津ちゃん、それにしても、ここにやってきて、もう長いねえ。どれくらいになる?」

「そうね、もう40年になるかしら」

 奈津子は、小皿とお箸を作業台に並べながら、思い出すように言った。

「それにしても奇跡だね。いまもここが残ってるなんて。ここは神田神保町だよ、東京の一等地だよ。その神保町にいまもこんな所が残ってるなんて。奇跡としか言いようがない」

 桂木は、何度も〝奇跡〟を連発した。

 その間も奈津子は、聞くでもなく無視するわけでもなく、流し台と部屋を往復していた。そして、煮物の入った鍋と佃煮、漬物を作業台に並べた。

「こんな一等地なのに、どうしていまもこの建物、残っているんですかね? 十数年前は、地上げが大変だったでしょうに」

 俊介にとってみれば、それまで考えたことはなかったが、言われてみれば確かにそうだ。神田神保町という都心に、いまもこのような廃屋があることが不思議だった。

「おや、知らないの、俊ちゃん? 一階にある大金庫のおかげさ」

 桂木は、当たり前のことを聞くなと言わんばかりに、俊介の顔を見た。

「大金庫って?」

「一階に大金庫があって、あまりの大きさで撤去できなくて地上げ屋でさえお手上げだった、ていうやつさ」

「え、1階に金庫なんてあったんですか? 1階は物置だとばかり思ってました。だけど今時、撤去できないなんて、そんなことないでしょ。これだけ機械が発達してるんだから、壊すぐらい何でもないと思いますけど……」

「何言ってる。あの東京大空襲でも焼け残った金庫だぞ。鋼鉄とコンクリートで固められた大金庫よ。ほら、あのヤクザ映画なんかに出てくる事務所の金庫、あれのもっと、もっとでっかいやつよ」

 話によれば、昭和初期、このあたりに銀行の本店があったらしい。銀行だけに頑丈な金庫があるのは当然だが、そのころの金庫は建て付けで、鋼鉄製の鉄枠にコンクリートを流し込んだものだった。

 やがて戦争が始まり、そして戦争終了直前、神田神保町周辺は大空襲を受けた。建物は破壊されたが、この大金庫だけは残った。焼け野原に、ポツンと巨大な黒い箱だけが取り残されていたという。

戦争が終わって、家主はここに建物を建てようと思ったが、この大金庫を動かすこともできず、壊すこともできない。仕方なく金庫の上に建物を建てることにした。そこで、1階は大金庫と空きスペースに、2階は通常の部屋や炊事・台所、共同トイレなどにしてしまったという。

「へー、そうなんですか。いつも来てるのに、誰もそんな話、教えてくれなかったじゃないですか」

「あら、話さなかったかしら?」

 奈津子は、注文書籍の発送準備をしていたが、手を止めて男2人の方をふり返った。

「その大金庫、ぜひ見せてください」

「ええ、いいわよ、今度ね。でも、ただの大きな鉄の塊よ」

 奈津子がまだ作業していたので、俊介はそれ以上の無理強いはできなかった。しかも、奈津子も桂木も興味がないらしく、立ちあがろうとさえしない。

 そのうち、3人の会話は景気の話になり、桂木の登山の話になった。その頃には、また数人が遊びにやって来て、いつの間にかサロンと化していた。そして、いつのまにか散会となった。

 



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