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 娘の大学進学が決まった。
 成績も割合い優秀で課外活動にも積極的だった娘は、教師の評判も良く、すんなり地元の大学へ推薦入学が決まったのだ。一人暮らしをさせる必要もないので、余計な心配をしないで済むし、経費節減も見込める事となり、女房はほくほく顔だ。俺としても、この家で女房と二人っきりになるのは、どうにも気詰まりなのでホッとしている。このまま就職も地元でしてくれれば有り難い。
 娘はすっかり緊張の糸が切れ、入学までの自由な一時をどう過ごそうかと、あれこれ計画しているようだ。


 俺が大学に進学したのは、もう三十年も前の事。今の豊かで洒落た大学生とは雲泥の差がある貧乏学生だったが、あれはあれで楽しかったと今でも思う。「バンカラ」と言う言葉がまだ死語になっていない時代、周りの友人は皆朴訥で野暮で田舎者だった。
 大学の三年間は、付属の男子学生寮で暮らした。四年になる頃、その寮が閉鎖される事になり、已む無く学生向きの安アパートへ引越しをしたわけだが、そうでなければ卒業までその寮に住んでいた事だろう。先輩がほとんどいなかったのも、居心地が良かった理由の一つだ。

 その学生寮は、戦後に建てられたボロボロの木造二階建てで、一階に五部屋と食堂、応接室、風呂、洗濯室、管理人室、公衆電話が有り、二階に五部屋と自習室、談話室、物干し場が有った。トイレと洗面所は一、二階共に有った。
 一部屋に二人で暮らすので、二十人ほどの寮生がいたのだが、俺はニ階の部屋に住んでいたせいで、一階に住んでいた寮生とはあまり接触がなく、三年も同じ寮に住んでいながら、名前と顔が一致しない学生が何人かいて、学内で挨拶されても、誰だか分からず失敬な態度を取った事もあったのは、我ながら申し訳なく思っている。

 部屋の窓は二重とは言え木枠で、すきま風かヒューヒュー吹きこみ、壁は安普請で隣室の宴会は丸聞こえと言う、いかにも貧乏臭い寮ではあったが、何せ一日二食付いて一ヶ月の寮費が三万円だったのだ。電気、水道代も込みで、冷房は無かったが暖房だけはセントラル・ヒーティング。小さいながら共同風呂も有り、飯のオカズは美味くはなかったが白飯と味噌汁だけは沢山食べられるので、貧乏な家の子どもとしては、文句は無かった。

 寮生の部屋は八畳の和室で、一間の押入れと左右の壁に半間ほどの、衣服を掛けられる吊戸棚が有った。窓の下には文机が二つ並んでいる。文机なんて、今の若者には何の事だか分からないだろうか。座って物書きをする為の木で出来た小ぶりの机で、真ん中に薄っぺらい引き出しが二杯付いていた。部屋の備品は、この文机と天井のサークルライトと煤けた灰色のカーテンのみだ。

 寮に入る際に持ち込むよう指示された物は、布団類、ポット、マグカップ、洗濯・洗面道具、三段ボックス、デスクライト、底がフェルト製のスリッパだったと思う。底がフェルトのスリッパというのは、音がしなくて滑らないかららしかったが、音はともかく、床も階段もツルツルの木で出来ていたので、滑ること滑ること。履かない方がましだった。

 寮暮らしが快適かどうかは、同室の相棒との相性で決まる。
 俺と同室になった相棒は、学校側の配慮なのか同郷の学生で、入寮初日から地元の話で盛り上がり、すぐ友達になれたのは幸運だった。
 その相棒の名前は三沢貴明と言い、俺の名前は八重樫浩司。ニ階の真ん中の部屋、十号室に住んでいた。日本では四号室や九号室は、ゲンを担いではずす習慣があるが、この寮でもご多分に漏れず、その番号の部屋は存在しなかった。

 三沢は面白いくらいに女に対して免疫の無い男だった。
そう言う俺も、金属工学科に進学したので、学内で女の子と話す機会なんてほとんど無かったのだが、高校は共学だったので、女の子を見ただけでクラクラするなんて事はない。進学してしばらくしてから見つけたバイト先でも、同僚の女性職員と話すのは、苦痛でも無ければ特別な喜びでも無かった。しかしながら三沢は男子高校卒だったのである。
 中学生の時も、クラスの女子とろくに話した事が無かったようなので、彼は自分が最後に身内以外の女性と個人的会話を交わしたのが何時なのか、最早思い出せないらしかった。そんな訳で三沢は、事務局の女子職員と話す時さえ、真っ赤な顔をしてシドロモドロになる、純情な野暮天だったのだ。

 本人に女に対する免疫が無いとしても、こいつの見た目が二枚目なら周りの女性が放って置かなかっただろうが、勿論こいつは二枚目ではない。ひょろりと痩せた肌の浅黒い男で、分厚いレンズがはまった大きな黒いセルのメガネを掛けていた。言い様によっては、品が良いと言えない事も無い細面の顔には、小さめのパーツが整然と並んでいて、日に焼けた男雛の様な面相に、中途半端に伸びた長髪が鬱陶しい。背はそれほど高くなく、動き方がどことなくギクシャクしていて、運動神経に恵まれていないのが一目で分かるタイプだ。とは言え、性格はさっぱりして明るく、見た目とは裏腹に男っぽい気骨の有る奴なので、俺よりもずっと友達は多かったと思う。

 寮生の中には、高校時代からの彼女と連絡を取り合っている者もいれば、ちょくちょく他の女子大生と合コンをしている者もいたのだが、どういう訳かこの寮の二階に住んでいる男達は、全くと言っていいほど女に縁が無かった。
 ある晩、夕食を済ませた俺の部屋に、両隣の友人達がダベリに来た。酒は禁止されていたので、缶コーヒー、コーラ持参である。一部屋に六人もの男が集まるのだから、むさ苦しい事この上無い。

 八号室の柴田二郎という男は、背が高くちょっと外人っぽい派手な顔立ちの男で、着る物に気を使えばかっこ良くなると誰しも思っていたのだが、本人はまるで興味がないようで、いつも同じジーパンにダンガリーのシャツを着ていた。多分、着替えは春夏、秋冬分、一二枚しか持っていなかったのだろう。アダ名が愛用のダンガリーシャツから取られて、ダンになっていた。

 同室の四方(よも)武彦は、中肉中背だが武道オタクで、脱ぐとスゴイとダンが言っていた。こいつも、あまり見た目には気を使わないタイプで、年中ジャージを着ていた。夏になると、ダンクトップ姿で額にバンダナを巻いていて、皆にそれとなく、それは止めておけと言われていた。男同士としては面白くていい奴なのだが、男らしすぎて女が引いてしまうタイプである。

 十一号室の五嶋雅志は小柄で小太り。ちょっと見は中学生かと思うような童顔だった。顔立ちは、色白で目が大きくマツゲも長く、可愛いと言えば可愛いのだが、中学、高校と女子に色々からかわれる事が多かったらしく、女に対して軽い恐怖心を持っている文学青年だった。こいつも皆に、もっと背が伸びて痩せればなぁ、と不憫がられていたくちだ。

 もう一人が、五嶋と同室の七尾伊玖磨という背の高い男で、この中では一番お洒落だったと思う。俺達が読まない男性向けのファッション雑誌をいつも買ってきて、バイトしてはせっせと服を買う男だったが、いかんせん顔が茄子に目鼻を書いたような三枚目だったので、俺達はよく、その服をダンに着せてやれ、とからかったものだ。

 かく言う自分も、中肉中背の目立たない男で、純日本風の地味な顔立ちだ。母親に、お前はムキになると柴犬みたいな顔になるから、あんまり怒るな、と腹の立つアドバイスを貰ったこともある。俺も服に興味が無い以前に金が無かったので、身を飾るなんて発想は頭から無く、取りあえず着る物は清潔であればいい、くらいにしか考えていない、泥の付いたジャガイモのような野暮な大学生だったのだ。

 それは、全員目出度く進級も決まって、二年目の春を迎えた頃だった。
 我が十号室に六人の男が集まって、コーラやコーヒー片手に大騒ぎしているうちに、部屋の中はどんどん暑く、息苦しくなって来た。文机の前に座っていた俺は、ちょっと腰を浮かして煤けたカーテンを開け、少しだけ窓を開けて空気を入れ替えた。

「この部屋って、通りの向こう側まで見通せるんだな。あっちに商店街があるんだ」
 伸び上がるようにして外を見たダンがつぶやいた。
 このニ階の窓から見える風景は大したものではない。

 まず、この敷地を囲む、緑色の金網のフェンスが有り、その向こうは隣家の畑だ。今はまだ何も植えておらず、ただ茶色いパサパサした地面が広がっている。そ の向こうに幹線道路が通り、その道に沿って小さな商店街が形成されている。コンビニが珍しかった時代なので、夜九時ともなれば店は閉まり、街灯の灯りがボ ンヤリと下りたシャッターを照らしている。

「見えるよ。八号室って見えないの?」
 俺が答えると、四方とダンが頷いた。
「俺らの部屋の窓開けると、すぐ向かいの松の木しか見えねぇわ」
「ああ、そっか。でっかい松の木あるもんな」
「僕らンとこの部屋からも、向こうの商店街までは見えないよね?」
 十一号室の五嶋が相方の七尾に同意を求める。
「向こう側までは見えないよな。俺らの部屋からだと、向かいの農家の建物に隠れちゃうんだよ。俺、あっちに商店があるなんて、今初めて知ったわ」
「へー、そうなんだ。でも、俺もあっちの商店街って行った事ないよ」
「用事ねぇしな。学校行く途中にスーパーあるし」
 三沢が興味なさ気に言いながら、膝で歩いて来て、窓から外を見た。

 ダンと七尾が立ち上がり、窓を全開にして、本格的に商店街観察を始めた。
「あれは酒屋か?隣は薬局だろうか。自転車屋とかもあるぞ」
「果物屋とかはあんまり用事無いよなぁ。まぁ薬局は近くにあると、いいかもよ。昼間じゃないと良くわかんねぇけど」
 三人で、窓から半分体を乗り出して外を見ている。
「わぁ、寒くねぇの、お前ら?」
 全開の窓から夜気が吹きこみ、部屋の空気は一気に寒くなった。俺はパジャマを着た両腕を擦りつつ、部屋の隅に投げ出してあったカーディガンに袖を通した。

「八重樫、寒がりだな。俺なんか、もう半袖Tシャツで外出られるぞ」と、四方が寝っ転がって笑っている。
「四方君だけだよ、それは。ねぇ?」五嶋は座布団の上に、お行儀よく正座している。
「そうだ、お前の代謝は異常だ」
「あれぇ、引越しかなぁ」
 ダンの呟きを耳にして、俺と五嶋、四方も立ち上がって窓の外を見た。窓から六人の男が体を乗り出して、ギュウギュウ詰めだ。危ない事この上ない。

 五人の体の隙間から、首だけ出すように外を見ている五嶋が不思議そうに言う。
「もう、十時近いよねぇ。引越しなんて、こんな時間にする?」
「赤帽みたいの来てるぞ。なんかいわくつきか?」
「ああ、薬局のニ階がアパートになってるんだよ。あそこに入るんでない?」

 街灯と軽トラックのライトが、シャッターの下りた薬局の前で行われている小さな引越し風景を、紙芝居のように浮き上がらせていた。そして薬局の二階に、二つ並んでいる窓の左側の方に、ぽっと白い明かりが点いたのが見えた。何せ夜の事だし、畑と幹線道路の向こうの出来事なので、はっきりとは動いている人間の判別は出来なかったが、作業員が二人ほどと、もう一人で荷物を運び入れているようだった。
 六人の中で一番視力の良い、四方が力強く一言、言った。
「女だ!」
「ええ?どれ?」
 みんな、目を凝らして道の向こうを見たが、年配の作業員二人が、大きな家具を二人で持ち上げ、暗闇に消える様子しか見えなかった。
「今、薬局の左側に行ったの、女だよ。ポニーテールっぽかった。あっちにアパートの玄関が有るんだよ」
「お前、良く見えるな。もう中に入ったんだろうか。あ、ニ階の窓に人影が見えるわ」
 今度は皆んなで、ニ階の左側の窓に注目だ。すると確かに、黒っぽい人影が部屋の中を動いているのが見えたが、窓が磨りガラスなので性別も何も分からなかった。そのまま何となく、俺達は他人の引越しの様子を眺めていたのだが、引越し自体はほんの十数分で終わってしまい、作業員は軽トラックに乗って走り去った。

 俺は、さぁオシマイオシマイと言って皆んなを下がらせ、素早く窓を閉めてカーテンを引いた。
 七尾がヒョロリと長い体を丸めて、両腕で体を抱いている。
「う~、さむ!体、冷えたわぁ。八重樫、コーヒー恵んでくれ」
 お湯は夕食後にポットに入れたら、次の日の朝まで補充出来ない為貴重なのだが、俺は七尾のマグカップにインスタントコーヒーの粉を入れて、小さなポットからお湯を注いでやった。

「ああいうアパートに住んだら、月の家賃ってどれぐらいなんだろうな」
 俺が、七尾にカップを手渡しながら、誰にともなく訊くと、皆んな三万前後じゃないか、と曖昧に答えた。
「あの建物、そんなに古くはなさそうだし、六畳一間二点ユニットって感じかなぁ。三万ちょっとくらいじゃないか?」


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