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はじめに

 本書は、電子書籍『うつせみのあなたに』(全11巻)の中から、比較的読みやすい文章を選び加筆したものです。もとは、ブログ記事であったものばかりです。

 

 以下に、本書に収められた記事の解説と抜粋を紹介します。お読みになる際に参考にしていただければ幸いです。

 

-1- 「不思議」 : 【解説】日ごろ、特に何も考えることなく、道具として使っている言葉。言葉を収めた辞書。ワープロソフトで書くさいに利用する文字変換。言葉を習うときに最初に目にする、五十音表やアルファベット表。そうした当たり前のものに潜んでいる不思議さについて考える。 【抜粋】びっくりしました。それまで何度も英和辞典を引いていながら、そんな見て明らかなことに、全然気づかなかったことに気づいたのです。分かるようで分からなくなりました。

 

-2- 「聞こえてる?」 : 【解説】さまざまな「見えない障害」について紹介する一方で、健常と障害という区別への疑問にも触れる。特に、難聴者として生きることの不自由さとちょっと笑える話に焦点が当てられる。健聴者に対し、耳を大切にして欲しいというメッセージも込められている。 【抜粋】もうどうでもよくなってくる。聞いている。聞こえている。聞いている。聞こえている。そのうちに、聞こえてくるのが言葉ではなく、音、音楽、旋律のように感じられてくる。そして意識が薄れる。

 

-3- 「文字の顔」 : 【解説】普段は書かれている内容や情報が優先されるために、見えていながら見えていない存在である文字。その文字の「顔」にまで、時には目を向けてみようと呼びかけている。「普段は見えないものたち」への愛をつづった文章。 【抜粋】読めない。でも、あの人の書いたものだと分かる。こんな夢のようなことが、他の言語でもあり得るのでしょうか。日本語の豊かさ? 美しさ? 言霊? まさか。そんな抽象的なことではないと断言できます。

 

-4- 「仮面と人形(仮面編)」 : 【解説】エッセイ風味の小品。お面や仮面に代表されるさまざまな「ぺらぺらなもの」について、「深読み」するという少々ひねった文章。内容は割とマジ。 【抜粋】かつら、お面、仮面、お化粧、表情、顔つき――こうしたものは、さきほど書きました「表象の働き」とか「象徴の仕組み」という言葉でひっくるめることができそうです。要するに、Aの代わりに「Aではないもの」を用いることです。ぶっちゃけた話が、何かに「化ける」ことです。もう少しお上品に言うと「装う」ことです。

 

-5- 「仮面と人形(人形編)」 : 【解説】前回の続編。人間が自分に似せたものをやたら作るのは、どうしてなのか? その不思議な現象について考えた文章。エッチな話も混じっています。 【抜粋】お人形さんの起源は、子どものおもちゃだけでは、説明できないことが分かりますね。もっと、深いというか、恐ろしいというか、言葉にしにくい感情が込められているのではないか。そんな気がします。ですから、人は人形(=にんぎょう・ひとがた・ひとかた)に対して、「ひとかたならぬお世話になっております」と、一言お礼を述べてもいいのではないでしょうか?

 

-6- 「あなたなら、どうしますか?」 : 【解説】かつてミステリーを書こうとして勉強中に知った、驚くべき事実。誰も逃れることができない恐ろしいものとは? 【抜粋】 「このバカタレ!」と言うお叱りの声が聞こえるようです。でも、本気です。反抗しちゃ、駄目です。一つ間違うと反抗から犯行へと即座に発展して有罪になってしまうんです。あくまでも、とりあえず、おとなしくしておいて「ハンコ」ポンポンペタペタ=ペーパーワーク、に身をゆだねるしか、ないんです。

 

-7- 「やっぱり、ハンコはえらい(続・「あなたなら、どうしますか?」)」 : 【解説】ハンコがなぜ偉いのか、に徹底的にこだわったエッセイ的風味の小品。かなりマジ。他人事ではない話。 【抜粋】要するに、「伝染るんです (うつるんです、と読みます、念のため)」。恐ろしい言葉が出てしまいました。とうていタミフル(「民振る」とか「民降る」とか「民 full 」とか「 民fool 」とも書きます)なんかじゃ、太刀打ちできません。吉田さんのお孫さんも、官僚と役人の「伝染るんです」には勝てませんでした(お孫さんでは役不足が過ぎました)。たとえ戦車を繰り出しても、太刀打ちできないでしょう。

 

-8- 「女装文学登場」 : 【解説】文学史における、ちょっと気になるお話を思い出しながらつづったエッセイ。 【抜粋】女装が女性運動に火をつけちゃった。つまり、女装が女性運動のさきがけとなった。そんな話なのです。やっぱり、ややこしいし、屈折していますよね。

 

-9- 「女心を男が歌う国」 : 【解説】大学生時代に、ある米国人から指摘されたことを思い出し、もしもそれが本当ならば日本はよほど「特殊な」国ではないか、と戸惑っているエッセイ。 【抜粋】以上は昔の話ですので、最近、米国生まれの方に確かめてみると、やはり「あり得ない」とおっしゃりました。本当なんですか? それこそ、「あり得ない」という感じがして、アンビリーバボー状態なんです。

 

-10- 「複数形のわたし」 : 【解説】前々回と前回のエッセイの連作。性差だけでなく、ヒトがTPOに応じてさまざまな役割を果たしている状態を常態とみなすのがテーマ。 【抜粋】人をメスとオス、男性と女性、子どもと大人と二つに分けるのは、やっぱり窮屈です。なぜなら実際には、人間はもっと多面的な存在として、日々の生活をいとなみ、人生を送っているはずだからです。

 

-11- 「小説と性」 : 【解説】結果的に4回の連作となったエッセイの最終回。この連作が、翌日から書く予定の小説の助走=序奏であったと説明している。 【抜粋】以上の小説たちにおける書き手は、複数性をそなえたヒトです。一方、小説の登場人物は、複数性をそなえたヒトをモデルに書かれています。ヒトである書き手がどのようなキャラクターを書いても、それはしょせんヒトの変種でしかないようです。


-12- 「空前の「純文学」ブーム(前編)」 : 【解説】エッセイ。現在、かつてないほどの大きな規模で「純文学」ブーム、または「純文学」復興運動が起きているという説を展開する。また、ケータイ小説についても持説を述べる。 【抜粋】毎日、数えきれないほどの「純文学」の書き手たちが、数えきれないほどの作品を書いているのです。いえ、海外の話ではありません。この国で起きている現象であり、現実なのです。嘘ではありません。さて、純文学とは何でしょう?

 

-13- 「空前の「純文学」ブーム(後編)」 : 【解説】現在、出版界で「純文学」を上梓しにくくなっている状況を述べ、新しい「純文学」の出現に期待を寄せ、その書き手たちにエールを送る。 【抜粋】 「作為」「演技」「物語性」とは、「かつて純文学の規範とされた私小説と心境小説が排除しようとし排除し切れなかった要素」、つまり「言葉で書かれたものである、あらゆるテクスト=フィクションにこびりついている属性」です。こうしたややこしい話も、どうでもいいでしょう。

 


もくじ


はじめに

もくじ
-1- 不思議

-2- 聞こえてる?

-3- 文字の顔

-4- 仮面と人形(仮面編)

-5- 仮面と人形(人形編)

-6- あなたなら、どうしますか? 

-7- やっぱり、ハンコはえらい(続・「あなたなら、どうしますか?」)

-8- 女装文学登場

-9- 女心を男が歌う国

-10- 複数形のわたし

-11- 小説と性

-12- 空前の「純文学」ブーム(前半)

-13- 空前の「純文学」ブーム(後半)

あとがき

 

 

 



-1- 不思議

 とりとめのない話とか、分かるようで分からない現象が好きです。そうは言っても、漠然とした話ですよね。不思議とか曖昧な事や物が好きだ。こう言い換えれば、分かっていただけるでしょうか。

 

 恥ずかしいのですが、一足す一が二になるということが未だによく分かりません。足し算とか引き算とか掛け算とか割り算など、計算はできます。でも、あれは条件反射みたいなものでやっていて、実は分かっていないのです。どうなんでしょうか。大抵の人は一応分かってやっていることなのでしょうか。恥ずかしくて、他人様(ひとさま)に尋ねたことはありません。

 

 たった今、恥ずかしいと書きましたが、本当のところを申しますと、それほど恥ずかしく思わなくっているのを、最近ひしひしと感じています。年を取るにつれて、図々しくなってきたのかもしれません。

 

 話は変わりますが、辞書を読むのが好きです。国語辞典も英和辞典もおもしろいです。引くと言うよりも、読むのです。辞書というのは、当然のことながらエッセイや小説ではないのですが、とりとめのない話に満ちているような気がします。

 

 自分にとっては、分かるようで分からない話の宝庫でもあります。各語の項目に解説してある複数の語義のからみ合いなど、こじつけめいていて特に読んでいて楽しいです。語源の解説も駄洒落みたいで結構笑えます。

 

 高校生だったときのことです。

 

 確か二年生になった春でした。新学期が始まって、新任の英語教師が教壇に立ちました。教師も生徒たちも、たがいに相手を探りあう瞬間です。その教師は、黒板に自分の氏名を書き、簡単な自己紹介をした後、生徒たちの氏名と顔を照らし合わせながら、出欠をとり終えました。

 

「みなさん、辞書は持ってきていますか。ない人は、持っている人のそばに行ってください。どのページでもいいから、そうですね、三回ほどめくって開いてみましょう。ページの中身を読む必要はありません。ただ見るだけでいいです」

 

 教師はそう言いました。英語の授業とはいえ、唐突な感じがしました。教室内がうるさくなり始めました。席を離れてもいいと言われたわけですから、あちこち動き回る生徒もいます。

 

「じっくり、読む必要はありませんよ。目を細めて、少しページから目を離して見てください。きっと、そのほうが、よく分かりますから」と、さらに教師は言います。

 

「えーっ」

 

 生徒たちの不ぞろいな声が上がります。なんだか謎々めいてきました。電子辞書など、空想もできなかったころのことです。生徒たちは、ひとりで、あるいは数人が固まって、高校生向けの分厚い辞書を開き、遠視か老眼の人のように、左右見開きのページから目を離し、近視の人のように目を細めています。

 

 三分ほどして、教師は言いました。

 

「何か、気づいたことはありませんか? 読んだ感想じゃないですよ。見た目の印象です。気づいたことを聞かせてください」

 

 初めて相手にする英語教師に対し、誰も発言しようとはしません。ただ、ざわざわするだけ。そのうち、教室内が白けた感じになってきました。

 

 一体なんだろう、みたいな謎々めいた疑問の効果も薄れ、室内のざわめきが収まりかけたころ、教師は次のように言い足しました。

 

「短い単語ほど、たくさん意味が書いてありませんか?」

 

「なーんだ」とか、「うーん」とか、「おーっ」とか、「はあ?」とか、「……」とか、生徒たちの反応はさまざまでした。

 

「英語でいちばん短い単語は何でしょう? そう、a です。a を引いてみましょう」

 

 よくは覚えていませんが、確かそのときに持っていた中型の学習辞典には、番号が振られていて、いくつかの a があり、冠詞の a の項には一ページをはみ出るほどの意味や例文が載っていました。

 

 短いけど長い。単語は短いけど解説は長い。

 

 びっくりしました。それまで何度も英和辞典を引いていながら、そんな見て明らかなことに、全然気づかなかったことに気づいたのです。分かるようで分からなくなりました。不思議でした。

 

 その不思議さに気づかせてくれた英語教師と出会って、数年後、自分が大学生になり、言語について考えるようになったとき、その教師が生徒たちを相手に行った「いたずら」というか「謎々」と、その「種明かし」をよく思い出しました。

 

 そのころには、英語にはゲルマン系(土着の言葉系)とラテン語系(外来語系)という二重構造があるらしいという知識も頭に入っていました。日本語にも、そうした二重構造があるようだという話も知りました。

 

 日本語では、大和言葉系の日常語と、インテリや支配階級の用いた漢語系の二重構造があるそうです。たとえば、「彼女、『おめでた』だって」は大和言葉系、「彼女、『妊娠』したんだって」は漢語系ですね。すごく単純化すると、訓読みと音読みのニュアンスの違いと言ってもいいかもしれません。「書く」と「記述する」の違いみたいに。

 

 さきほども簡単に触れましたが、英語にも、ゲルマン系とかいう土着系の言葉つまり日常語と、侵入者兼征服者兼支配階級だった人たちの言語の二重構造が残っている。こんな話を、大学の語学の授業などでよく聞かされました。

 

 土着の言葉のほうが、日常生活に密着していてよく使うから意味の層が厚い、つまり多義的なのは、何となく分かるような気がします。何となく分かるようだけど不思議です。その曖昧さに心が惹かれます。

 

 今、この文章をパソコンのワープロソフトで書いていますが、文字の変換というのは、よく考えると、分かるようで分からないの典型だという気がします。とりとめがなく曖昧な感じもします。自分は、そういう落ち着かない気分が好きです。わくわく感を覚えます。昔はワープロ専用機なんてありましたね。そのころから、感心していたのですけど、日本語の文字変換のソフトを開発した人たちはすごいなあ、と素直に思います。

 

 でも、そのすばらしいソフトを利用して文字を書いていても、やっぱり迷いますね。「変える」か「換える」か「代える」か「替える」かなんて、しょっちゅう迷います。そんなとき、モニターに小さめのボックスがひょこりと現れて「候補」を示し、その用法の解説や例文まで教えてくれるようになりました。

 

 それでも確信が持てない場合には、辞書を引きます。そう言えば、さきほど例に挙げた「書く」ですけど、「かく」と読みますね。ちょっと大きめの国語辞典で「かく」というひらがなだけを引いてみると、違う漢字を当てて別項扱いになっていますが、たとえば、「書く」と「描く」と「掻く」と「画く」は、もともと大和言葉としては同じところから出てきていると書いてあります。この四つの「かく」の解説を合わせただけでも、結構な長さになりそうです。

 

 短いけど長い。単語は短いけど解説は長い。

 

 これは、英語だけでなく日本語でも当てはまりそうだと気づきました。不思議です。分かるようで分からない。摩訶不思議。

 

 不思議という言葉で思い出したことがあります。「あいうえお表」とか「五十音表」と言うのでしょうか、小さいころ、親の手製の表が、机の上の壁に貼ってあったのを覚えています。そのとき、不思議だったのが、「や行」と「わ行」です。親が作ってくれたものでは、確か、次のようになっていました。

 

    ( 前略 )
  ま み む め も
  や    ゆ    よ
  ら り  る れ  ろ
  わ    を      ん

 

 この表を見るたびに、不思議に思っていました。

 

「なんで、あそこが抜けてんだろう?」

 

 今でも不思議です。国語のお勉強をしっかりしなかったせいでしょう。誰かに話せば笑われそうですが、個人的には、あの「抜け」はたぶん「傷跡」なのだと思っています。だから、かわいそうだと感じてしまいます。歴史的仮名遣いとか呼ばれているものあたりと、関係があるのではないかという気もします。でも、よく分かりません。

 

 いつだったか辞書を読んでいるときに、「ゐ」と「ゑ」に出くわしたことがあります。「これだ――」と思って説明に目を通しましたが、短く書かれてあるせいか理解できませんでした。追求する気もありませんでした。それっきりです。

 

 グーグルなんかで検索して調べれば、謎が解けるのでしょうが、自分は、これだけは謎のままにしておきたいと思っています。傷跡はそのままそっとしておいて、出来れば触れたくないという気持ちがあります。いつか、傷跡の意味が解けることもあるでしょうが、今のところは、このままでいいです。怠け者だから調べないと言えないこともありませんが、これだけは不思議なままでいい。そう思います。

 

 ここまで書いて、また一つ思い出したことがあります。親の書いてくれたものではなく、学校にあった表です。

 

    ( 前略 )
  ま み む め も
  や い ゆ え よ
  ら  り る れ ろ
  わ  い う え を
  ん

 

 忘れかけていました。こういうのも確かに見ました。懐かしいです。で、今、こうやって、二つの表を見比べてみると、頭が混乱してきました。めまいに似ています。

 

 どうなっているのでしょう。

 

 ちょっとうろたえてきました。これもまた、専門の本なり、グーグルでしっかり検索すれば、解決するのかもしれません。でも、この謎も、そうっとしておきたいです。曖昧なままで構いません。

 

 それにしても、二番目に挙げた表の「ん」って、どこか寂しそうじゃないですか。英和辞典の最後のほうに載っている「X」や「Z」を思い出します。語数というかページが極端に少なくて、かわいそうな気がします。「X」と「Z」みたいにページの少ないアルファベットに「Q」がありますが、この「Q」で始まる単語の二番目に、決まって「U」が来るのも昔から気になって仕方ありません。やっぱり辞書って、引くだけではなく読んでみると、「不思議」と「曖昧」だらけです。

 

「あ」で始まって「ん」で終わる表と、「A」で始まって「Z」で終わる表がある。その文字だけやその文字を頭にかぶった語をたくさん収めた辞書がある。そんなことが不思議です。でも、曖昧なままでいいです。

 ややこしい謎解きや詮索をするより、そうした文字で記すことの出来る言葉たちが生きて輝くのを聞いたり見たり、一緒に遊んでもらうほうが大切だという気がします。

 

 いずれにせよ、言葉って大好きです。愛しています。陳腐な言い方ですけど、愛に理屈なんて要りません。素性や出自も関係ないです。

 





-2- 聞こえてる?

 難聴者であるせいか、人の顔や表情を読もうとする傾向が強いようです。顔色をうかがう、顔色を見る、顔色を読む、という言い方がありますが、実感としてよく分かります。単純に言えば、表情から相手の気持ちをくみ取ろうとするわけです。

 

 聴力が著しく低い、ろう者の中には、話している人の口の形と唇の動きに注視して、話し言葉を読みとろうとする訓練を受けている、または受けた経験のある方が多いそうですが、現実には至難の業だと聞きました。

 

 相手の表情を読もうとする話にもどりますが、とにかく疲れます。ストレスになります。自分の場合には、肩がばんばんに腫れて凝ります。でも、そうするしか仕方がない状況が多いです。

 

 何度も聞き返される目に遭う相手の方も、ストレスを覚えるにちがいありません。相手の身になって考えると、つい気を遣い、遠慮してしまうことがあります。いわゆる空返事をしたり、うやむやに会話を済ませることも多いです。いいことではないのですが、流れでそうしてしまいます。

 

 自分の場合、「聞こえにくさ」は、先天的なものではなく、ある年齢から聴力が低下しはじめ、現在では、補聴器なしには生活はできなくなったというものです。中途難聴と呼ぶことがあります。現在では聴力が著しく低くなったために、身体障害者手帳の交付を受けています。

 

 自分が特に感じるのは、聴力が低下するにしたがって、周りの人の表情、目つき、仕草、身ぶりなど、身体が発しているさまざまな「信号」に敏感になってきたということです。

 

 話は変わりますが、川端康成の文章の中に、自分の目つきについて、ある女性からある癖を指摘されて、はっとしたという意味の一節があった記憶があります。家にある川端康成の本を何冊か探し、あちこちめくってみたのですが、どの本に書かれていたのか、見つけることが出来ませんでした。記憶が間違っていたら、許してください。確か次のような話でした。

 

 相手が無遠慮または不躾(ぶしつけ)と感じるような目つきで、他人の顔をじっと見つめる癖がある。自分では全く意識したことのなかった癖を指摘されて、大きな衝撃を受けた。これまで無意識のうちに、どれだけ多くの人に不快な思いをさせてきたかと考えると心が痛む。

 

 そうした意味の文章に、川端の自己分析が添えられていました。これもうろ覚えなのですが、確か川端が少年時代まで一緒に暮らしていた――二人きりの生活だったと記憶しています――祖父の目が不自由だったために、祖父の顔をじっと見る癖がついていて、それが知らない間に長年の習癖になってしまったのではないだろうか。川端はそう回想し、同時に戸惑っていました。

 

 それを読んでいて、あることをふと思い起こしました。目の不自由な方は、誰もが完全な暗闇の中にいるというわけではなく、明暗を感じとることが出来る方が多いという話です。祖父についての川端の文章の中でも、祖父が日の当たっている方向へよく目を向けていた、という思い出が語られていた記憶があります。こちらの思い違いかもしれません。でも、分かるような気がします。

 

 ところで、「目に見えない障害」という言葉があります。聴覚障害者は、その障害が目につかないために苦労するので、この言葉の意味を日々実感しています。店や銀行や病院で名前を呼ばれても分からないため、係の人に事情をいちいち説明し、合図を送ってもらう必要があります。そのたぐいの不自由さを挙げれば、切りがありません。

 

 内部障害、あるいは内臓障害という言葉もありますね。内臓や身体内部の機能に障害をかかえた人は、たとえば、公共の乗り物の優先席に座って体を休めたいと思っても、周りの人たちに、苦痛や不調が「見えない」ために、遠慮が先立ってなかなか座る勇気が出ない。「すみません、もしよろしければ、席を譲っていただけませんか」と、言い出せない。冷や汗をかきながら、苦しみをひたすら我慢する。そうした経験談を聞いたことがあります。

 

 広く意味をとると、在日の日系外国人や、一部の帰国子女も、そうです。初めての場所を訪ねなければならないとき、ローマ字表示がないために道に迷う。人に尋ねたいが、言葉に不自由する。きょろきょろ辺りを見回していても、髪や目や肌の色、そして容貌にきわだった「異国性」がない場合には、ほとんどの人が親切心を示してくれないそうです。困ったあげくに、道を尋ねようとして、片言の日本語で話しかけると、気味悪がられたり警戒される。場合によっては、相手が逃げて行くこともあるらしいです。

 

 こう考えると、目または視覚というものは、ある意味でとても残酷ですね。もちろん、「見える」つまり「目につく」障害を持つ人にとって、他人の目または視線が残酷なものだということは、容易に想像できるでしょう。自分をじろじろ見る相手。あるいは、自分を見たとたんに視線をそらす相手。そうした状況を毎日体験している人たちがいると思うと、視線の残酷さの意味が分かる気がします。

 

 唐突ですが、障害者と健常者という区別に違和感を覚えます。法律、つまりお役所や行政の都合による線引きという印象を拭いきれません。障害とは、誰もがかかえている「程度の問題」であり、健常と障害とは別個のものではなくて連続している。たとえ一時的または短期間であっても、不調や不自由な体験を強いられれば、それは障害ではないかと広く考えています。

 

 体調が悪い、病気になる、怪我をする、生理が重い、妊娠する、過労でダウン寸前、心が痛くて死んでしまいたい、年を取るにしたがって徐々にさまざまな不自由が出てくる。そうした状態や状況も、広義の障害だとみなしても構わないのではないか。実生活や実社会では、それくらい柔軟に障害を受け止めるほうが自然なのではないか、という気がします。

 

 話が広がりすぎました。話をもどし、自分自身の体験で語れる難聴にテーマを絞ります。

 

 切実な悩みに、聞き間違いがあります。頻繁に経験します。笑って済ませられる場合もある一方で、それがもとで他人(家族や親しい人も含みます)との間に不和が生じたり、時には深刻な問題にまで発展する事態やトラブルも起こります。 仕事や金銭がからむ場合を想像すると、理解しやすいと思います。当然のことながら、職を探すさいには、難聴は大きなボトルネックになります。

 

 補聴器をつけていれば大丈夫でしょうと、よく言われます。そうお思いになるのも無理はありません。でも残念ながら、それは誤解です。補聴器は「完璧な」解決策ではありません。

 

 難聴には個人差があり、奥が深い問題で一概には言えないのですが、補聴器についてはとても説明しにくい部分があります。個人的な実感を申しますと、「聞こえるけど聞けない」のです。英語を持ち出せば、「 hear できるけど、listen できない」のです。分かっていただけたでしょうか。英和辞典で両者の意味の違いを確認すれば、「聞こえるけど聞けない」のニュアンスがお分かりになるではないかという気がします。

 

 ヒアリング・テストというのは、本当はリスニング・テストですよね。ヒアリング・テストは、聴覚能力を診断する、耳鼻科などの医師が行う検査。リスニング・テストは、聞いた内容の理解度を測るテスト。こう説明すれば、ご理解いただけるでしょうか。厳密に言えば違うのですが、比喩的に言えばほぼそのようなものだと考えてもいいかと思います。

 

 相手の喋っている言葉が音としては、はっきり聞こえる一方で、意味のある言葉としては聞き取れない。たとえば、次のような感じです。

 

「あいた うしに ほご いーちに いてね」

 

 聞こえにくさは、人によってさまざまです。ある特定の音域が失聴(または低下)している人、全体的に聞こえが低下している人、耳鳴りが伴う人、片方の耳だけが聞こえない人、ある子音または母音を聞き取るのが苦手な人……。ここで、さきほど書いた意味不明の言葉を再現します。

 

「あいた うしに ほご いーちに いてね」

 

「あしたうちに午後一時に来てね」

 

 後者の「言葉」が、前者のような「音の連なり」として「はっきりと聞こえる」のです。あくまでも、たとえばですが、自分の場合には補聴器を着けていても、誇張すればそんなふうに聞こえることがあります。こうした聞き間違いついては、笑える話もあります。

 

 スーパーでのことです。レジの前の列に加わっていました。そのときには親と一緒でした。自分たちの前にいた女性二人が、会話をしていました。ご高齢の方と、五十歳前後に見える方です。ご高齢の方が、ある医院の話をしていました。補聴器をしている自分は、少しだけその話の内容が聞き取れました。実は、その医院はうちの親も通っているところなので、親も聞き耳を立てていたようです。

 

「あの先生、あそこ、ばっかりいじっていて、ちっとも聴診器を当ててくれないんだから。あんなんで、いいの?」

 

 自分には、はっきりとそう聞こえました。驚きました。それが事実ならドクハラです。大病院から独立して開業されて、それほど経っていない、四十歳を少し過ぎたくらいのお医者さんです。とても優しく、患者さんの話をよく聞き、医院の設備も最新で、自分も親もすごく気に入り頼りにしている方なのです。だから、自分はびっくりしました。

 

 ところが不思議なことに、その二人の女性もうちの親も、いっこうに動揺していないのです。自分一人だけが、どぎまぎして赤面していました。レジでの支払いを終え、店内のテーブルでマイバッグに、買った物を詰めながら、さきほどの二人の会話について、親に尋ねようとしたのですが、周りに人がいたので言い出せませんでした。帰り道でも、恥ずかしさが先に立って尋ねられませんでした。でも不思議でなりません。聞き間違えたことは確かです。難聴者ですから、そんなことは日常茶飯事です。

 

 聞き間違いらしきことに関しては、いったん気になると解決せずにはいらない性質なので、家に帰ってから思い切って、親に尋ねました。「さっきスーパーで、○○先生のことを話している女の人たち、いたよね?」とおもむろに切り出し、ついに核心部分について触れました。自分に聞こえた通りの言葉を繰り返したのです。

 

 親は首を傾げて、けげんな顔をしています。何の話か、分からないというか、あの女性たちの会話が思い出せないみたいなのです。少ししてようやく、「ああ、あの話?」と言った後、一瞬口ごもり、いきなり笑い出しました。中途難聴者を子に持つ親ですから、「あれ、何て言ったの?」に答えるのは、これまた日常茶飯事です。でも、そのときの親は笑ってばかりいるのです。返答がありません。

 

 こっちは納得できません。「『あの先生、あそこばっかりいじっていて、ちっとも聴診器を当ててくれないんだから』って、聞こえたよ」。笑い声を上げている親に向かって再度言いました。「あれはねえ、『あの先生、パソコンばっかりいじっていて、ちっとも聴診器を当ててくれない』って言ってたんだよ」

 謎が解けました。あの医院は設備が最新で、カルテも電子カルテです。だから、先生は問診しながら絶えずキーボードを叩いているのです。親の前では笑えなくて、声を立てて笑ったのは自室に入ってからでした。

 

 よく聞こえない日常を送っていると、聞こえる人とはちょっと違った生活の楽しみ方をしているなと感じる場合があります。

 

 日曜の朝などに、NHKテレビで、生き物たちの生態の映像を集めた番組が放映されることがありますね。音楽や音だけで、ナレーションがほとんどないものもあれば、少し解説が少し入るものもあります。いずれにせよ、静かな番組です。自分は大抵ミュートにして見ます。かすかな音を聞き取ろうとすると、ストレスになり肩が凝るからです。

 

 あの種の番組をミュートにして見ていると、いろいろな発見があります。映像に集中するからでしょうか。いつも思うのですが、どの生き物もビクビクしながら生きています。自分の周囲の様子をすごく気にしながら、生きています。当然ですよね。弱肉強食の世界にいるのですから、のんびりなんかしていられないのでしょう。それに、動きが速い。小動物、たとえば、うさぎ、ねずみ、りすなどの仲間たちは、驚くほど機敏な動作をします。

 

 昔、ジャンガリアンハムスターを飼っていました。ハムスターをケージから出し、よく床に放して遊ばせていましたが、その走るさまを見ていて感心しました。体のサイズと、走る距離を比べてみると、F1並みのスピードで走るんです。参りました。思わず尊敬してしまいました。

 

 こちらも床に這いつくばって、自分の目をハムスターの目線にできるだけ近づけ、走る様子を見ているとうっとりします。とにかく格好いいのです。目線で思い出しましたが、どうしてこんなに可愛い顔をしているのかと思い、ハムスターの目と鼻辺りをじっと見つめていたことがあります。それで気がつきました。黒目ばかりで白目がほとんどないのです。そう言えば――と思い当たり、アニメの番組を見てみました。キャラクターたちが黒目がちなのを確認し、ひとりで納得していました。

 

 BBCという英国のテレビ局が制作した生き物の番組は、よくできていて感動します。BSで放映されていますね。ただ、解説があまりにも出来すぎている感じがしませんか。人間の思い入れがやや強すぎるように思えます。勉強になることは多いのですが、そこだけが気になります。あの番組も、ミュートで見ると印象が、がらりと変わります。言葉による解説から得られる情報とは異質な、生き物たちが発しているさまざまな「信号」に目が行き、新しい発見があるのではないかと思われます。

 

 どんな番組でもかまいません。音を消してご覧になると、思いがけない発見がありそうです。バラエティー番組をミュートで見ていると、登場する人たちの間の目配せや、ちょっとした表情なんかがクローズアップされて見えます。スタジオ内の人の位置や配置、雰囲気、漂う空気を始め、音や声を聞いていては、音声に気をとられて、見えない物や出来事がきっと見えます。または「読めます」。目と耳の関係は、意外と奥が深そうです。

 

 バラエティー番組は、特に音がうるさいですね。難聴者の耳には大音響の雑音に聞こえてしまいます。画面の下に字幕もよく出ますが、あれもうざったいです。自分は、カレンダーの裏の白い面を折って作った被いを用意しています。それで字幕を隠しミュートにして番組を見ることがあります。もちろん、親がテレビを見ていないときですけど。

 

 いつもとは、視点や方法を変えてみる。それで、世界ががらりと変わって見えたり感じられる。おもしろいですよ。

 

 話は変わりますが、子どものころ、次のような経験をしたことがありませんか。

 

 夜、床につく。目がさえて眠れない。近くで、あるいは隣室から大人たちの声が聞こえてくる。耳をそばだてると、話の内容がはっきりと分かる。誰かの噂話をしている。あっ、知っている人だ。へえー、あの人、そんなことやっているんだ。あんな顔をして。ふーん。えーっ、すごい――。

 

 やがて眠気がおとずれる。噂話には興味があるけど、もうどうでもよくなってくる。聞いている。聞こえている。聞いている。聞こえている。そのうちに、聞こえてくるのが言葉ではなく、音、音楽、旋律のように感じられてくる。そして意識が薄れる。

 

 そうしたことが、ありませんでしたか。もう子どもではない今でも、無意識のうちに似たような経験をしていることがあるのではないか、と思われます。音、音楽、旋律のように聞こえる言葉。いささか甘美すぎる比喩ですが、「聞こえるけど聞けない」というのは、それにちょっとだけ似ています。

 

「聞こえてる?」

 

 きょとんとしていると、よく言われます。

 

 聞こえているよ。でも聞けないんだ。何を言われたのか分からない――。内心、そうつぶやくことが頻繁にあります。

 

 先天性の難聴、中途難聴、失聴、ろう、という現実を日々生きていらっしゃる方、あるいは、そのご家族や友人の方に、申し添えたいことがあります。筆者の不用意な記述のために、この文章を読んで不快に思われたさいには、心よりお詫び申し上げます。

 

 そして、健聴者の方、どうか耳を大切にしてください。特に、ヘッドホン、イヤホンのたぐいは、あまりお勧めしたくありません。ケータイのスピーカーに長時間耳を押し付けるのも、耳には良くないようです。お節介だと言われるのを承知で申しますが、利用するなら、音を小さめにするとか、時間を短くしてみてはどうでしょう。

 

 聴力は、ある聞こえの周波数の部分がいったん、低下したり、失われると、それを回復することは、きわめて困難で、不可能に近いと言われています。早期発見、早期治療が決め手だとのことです。もしもお心当たりのある方は、急いで耳の専門医を訪ねてください。すぐにです。煙草が体に悪いように、耳元での大きな音やヘッドホンは、耳に有害です。くれぐれも、気をつけてくださいね。

 





-3- 文字の顔

 ある文章について思い出そうとしているのですが、なかなか出てきません。自分にとっては、とても大切な意味を持つ文章なので、書き進めながら、何とか思い出してみます。

 

 まずは、その文章の前提というか、背景となる話から書きます。

 

 ヨーロッパのある国に、日本映画、それも 一九三〇年代から五〇年代に撮られた作品が好きでたまらない女性がいました。その女性が、日本からその国の大学に留学して文学を研究している男性と、恋愛関係になり、結婚しました。

 

 これは想像ですが、ふたりの仲を取り持ったのは映画だと思います。なにしろ、その男性の映画好きは度を越していました。現在も、そうです。半端じゃありません。

 

「自分より映画を愛している他者を認めない」

 

 そんな意味の、挑発的なタイトルのウェブサイトをコーディネートしているくらいです。今、コーディネートと書きましたが、サイトにある言葉をそのまま使っただけです。「公式ウェブサイト」なのでしょうか。その辺の事情は、自分にはよく分かりません。

 

 かつて、「さよなら、さよなら、さよなら」と三唱しながらこの世を去った、黒縁眼鏡のおじいさんがいました。映画関連の世界の伝説として残る存在だ、と勝手に思っています。あの映画の化身みたいだった人の向こうを張ろうとでもいうのでしょうか。それだけでも、すごいです。

 

     *

 

 その男性は、夫人を伴って帰国しました。大学の講師になり、子をもうけ、やがて助教授――昔の話です。当時はこの名称が生きていました――になりました。

 

 その助教授は、所属する大学でのアカデミックな仕事以外に、文芸批評や映画批評を専門誌に寄稿し、一部の若者の間でカリスマ的な存在になりました。親衛隊みたいに、その助教授に付きまとい、非常勤講師として授業を行っている他の大学にまで押しかける。そんな熱烈なファンまでいました。

 

 独特の文章を書く人でした。書かれている内容ではなく、その文章の書かれ方の虜(とりこ)になる学生も、たくさんいました。そうした学生の中には、亜流の文章を書く者も少なからずいました。

 

 その意味では、「焼跡闇市派」を名乗り、「黒眼鏡」をトレードマークにしていた、往年の流行作家と似ています。その独特の文体を模倣した、亜流の文章の氾濫という点で似ています。ただし、その助教授とその追随者たちの場合には、「氾濫」の規模は、「焼跡闇市派」連中のそれとは、とても比較にならないほどごく局地的なものでしたが。

 

 この記事を書いている自分も、その助教授――自分の在籍した大学では、その人は非常勤講師でしたが――の文章に幻惑され、呪縛されたひとりです。思えば、長い間、その影響下にありました。今でも、その名残を強く感じることがあります。

 

 時折、読点つまり「、」は打たれるものの、句点つまり「。」になかなかたどり着かない、長いセンテンスを書き連ね、漢字を多用した改行の少ない文体が特徴でした。しかも、改行が極端に少ないために、改行なしのページすらありました。読み手による好き嫌いが、はっきりと分かれるたぐいの文体でした。いや、「文体です」と書くべきでしょう。総長という地位を経て名誉教授となった現在も、その人は息の長い文章を書きます。

 

 字面が悪い。日本語としての美しさに欠ける。悪文。そもそも、文が長すぎる――。

 

 その人の文章の書き方に批判的な向きから、そんな意見が出たこともありました。この国の言葉で書かれた文章で「、」と「。」が記されるようになったのが、「つい最近」だという事実をうっかりお忘れになった方々の錯覚だったのだろうと理解しております。

 

「 」や( )も、濁点も、主語という概念も、ましてや「?」とか「!」も無かった長い時代があったという、義務教育でお勉強したはずの「知識」を思い出しましょう。字面が悪いなんて、無知から出る言葉以外の何ものでもありません。

 

 いや、えらそうなことは申せません。なにしろ、この文章を書いているのは、児童・生徒・学生時代には、国語が大の苦手だった者です。この国の文章と表記に関する点で事実誤認がありましたら、どうか、ご容赦とご勘弁を願います。

 

     *

 

 さて、その助教授の夫人である、さきほど触れた女性ですが、この女性もまた、語学学校やアカデミックな場で語学の教師として働きながら、夫と共に子育てをし、日本での生活に満足しているようでした。でも、やはり日本語には相当な苦労をしていたとの話です。

 

 ひらがな、カタカナ、漢字、ローマ字の混在する書き言葉。敬語の複雑さ。そうした日本語のややこしさに日々悩みながらも、その女性は日本語を覚えようと必死で努力を続けました。

 

 その女性が、ある文章を書きました。確かエッセイだったと記憶しています。その内容からして、おそらく、原文はその女性の母語で書かれていて、その女性の夫が日本語に訳したものだと想像しています。

 

 その文章について、冒頭から思い出そうとしているのですが、記憶が定かではありません。それを書いた女性の名も、その夫の名も知っていますが、その文章のタイトルや、何に掲載されていたのかが、どうしても思い出せないのです。グーグルで、検索してみましたが、キーワードが足りないか不適切らしく、その文章に関するデータが得られません。

 

 今、述べましたように、さまざまな点について不明な話であるため、やむなく固有名詞抜きで、この文章を書いている次第です。申し訳ありません。

 

 内容は、次のようなことであったと記憶しています。

 

 その女性は、まだ日本語がよく分からない。日常会話には、それほど不自由しなくなったが、読み書きとなると、心もとない。夫は、毎日書斎で机に向かって何やら書いている。デスクの上の原稿を、見たことはある。その文字の連なりなら、何度か目にしている。でも、何を書いているのかは、さっぱり分からない。

 

 今、思えば、日本人でも、その男性の文章の内容を「理解した」と言い切れる人は、それこそ数えるほどしかいなかったにちがいない文章の書き手です。異国出身の夫人が読めなくて、当然でしょう。

 

 でも、分かる――。

 

 読めはしないけど、夫の書いた文章が雑誌に掲載されていれば、ぱらぱらめくっているうちに、それだと分かる。読めないが、分かる。愛するあの人の書いたものだと分かる。

 

 その女性の文章には、そうした意味のことが書かれていたと記憶しています。エッセイのテーマとは関係なしに言及してあった部分を、こっちが勝手に拡大して思い出しているだけかもしれません。やはり、固有名詞は出さないほうがよろしいようです。フィクションとして、このままお読みくだされば幸いです。

 

 なぜ、あの文章が、今もなお、これほど気になるのか。自分でも、不思議です。夫婦間の美談でも、男女間の神秘的な体験でも、国際結婚についての「ちょっといい話」でもありません。書かれた日本語の字面を感知できるようになった、一外国人の苦労話でもなければ、言語の実相を垣間見るなどという、大そうな逸話でもありません。

 

 あえて、一言つぶやくとしたら「感動」かもしれない。「感傷」とは遠い「感動」、むしろ知的な興奮に近い「感動」です。

 

 少なくとも、かつて、その女性の文章を読んだときの自分は、文字通り心を動かされたのです。それだけは、はっきりと覚えています。

 

 読めない。でも、あの人の書いたものだと分かる。

 

 こんな夢のようなことが、他の言語でもあり得るのでしょうか。日本語の豊かさ? 美しさ? 言霊? まさか。そんな抽象的なことではないと断言できます。

 

 となると、言葉の物質性、言葉そのものとの遭遇、意味から遠く離れた言葉。そうした小ざかしげなフレーズが、次々と浮かんできますが、「感動」の代わりにそうした空疎な言葉をつづるのは、きょうはやめておきます。

 

 なかなか思い出せないあの文章についての記憶を、今、改めてたどろうとすると、やはり感動のほうが先に立ちます。夢を見ているような、うっとりした心もちです。それでいて、むずがゆい、鳥肌が立つような興奮をうなじから両肩辺りに覚えます。

 

 その皮膚の感覚を大切にしたいと思います。あの幻の文章について、これ以上、言葉をこねくりまわすのは止めておきます。

 

     *

 

 話はがらりと変わりますが、よく「人面OO」と言いますね。なかなかおもしろい話です。犬や野菜などの、動物や生物一般。岩や石などの無生物。ちょっと変わったところでは、「人面瘡(じんめんそう)」とか、「人面疽(じんめんそ )」などという、尋常ではない言葉もあります。瘡も疽も、できものや腫れ物を指しますから、穏やかではありません。

 

 いろいろなものに仲間の顔を見てしまう。どうやら、人間には、そうした習性があるようです。困ったものですね。いや、困ることはないのかもしれません。その想像力というか創造力に、「すごいなあ――」と素直に驚嘆するべきなのかもしれません。

 

 自分も頻繁にいろいろなものに「顔」を見ます。人間であるという証拠だと観念もし、また喜んでもおります。見慣れたものに「顔」を見る場合が多いような気がします。たとえば、トイレの壁の模様の一部が、そうです。見るたびに、どきっとします。あそこが目、あそこが鼻、あそこが顎、あそこが口――。そんな具合です。

 

 似たような経験はありませんか? そうですか、やっぱり、ありますか? よかった。トイレの壁だけではなく、見慣れた天井の染みでも、同じような思いをすることがありませんか? ありますよね。

 

「うん、ある、ある」なんて言っていただくと、精神的に落ち着きます。ああ、よかった。自分だけじゃなかった。そんな安心感を覚えます。

 

     *

 

 ところで、文字に「顔」を見るということはありませんか? 今、ご覧になっているモニター上に映し出されている拙文を構成している活字でも構いません。ぼーっと眺めてみてください。「顔」が見えませんか? 

 

 さきほども触れましたが、この国の文字には幾種類かがあります。漢字にいたっては、おびただしい数になるようです。

 

 また、明朝やゴチックなどという言葉でおなじみの、書体とかフォントと呼ばれている文字の形の分け方があります。同じ書体でも、大きさや、印刷の方法、紙質、テレビの画像として見るか、パソコンなどのモニター上で見るかによっても、印象が違います。そうした違いを気にしていては、肝心の意味を取るのに支障が出ますから、普通は「文字の顔」など気にしません。

 

 ずいぶん昔のことですが、活字のデザイナーを志したことがありました。写植機(写真植字機)のオペレーターになろうとも思い、その操作を教える学校にも通いました。タイポグラフィーと呼ばれる分野の本、印刷会社や活字メーカーが出している書体見本を集め、虫眼鏡で書体ごとの特徴を鑑賞する楽しみも覚えました。

 

 文字にはそれぞれ「顔」があるみたいです。少なくとも、個人的には、そう信じています。

 

 一口に印刷物と言っても、紙やインクの質、刷り上り具合やレタッチ(写真製版の修整)の状態によって、普段は気にも留めない違いが生じるのを知ったのが、そうした時期でした。今でも、新聞・雑誌の文字や写真を、虫眼鏡で拡大して見る習慣があります。趣味と言ってもいいかもしれません。時々熱中しすぎて、時が経つのを忘れてしまいます。

 

 書道、書写、写経という経験をなさった方も多いと思います。また、パソコンのワープロソフトを使って文字を表示あるいは印刷しようとしてフォントの選択に迷う。手書きで年賀状の宛名を書こうとして緊張したり、逆に集中力が薄れてきて何を書いているのか瞬間的に分からなくなる。本や雑誌を読んでいてだんだん眠くなり、活字を目で追うのさえ億劫になる。

 

 ハングルやアラビア文字で書かれたメールや手紙が届いて戸惑う。パソコンのワープロソフトで文章を書いていて文字変換にてこずる。読みにくい手書きの文字で書かれた文章を苦労しながら判読する。眼鏡を外した状態で目にしたぼんやりとした文字を見る。虫眼鏡で拡大しなければ小さな虫のようにしか見えない文字を前にまばたきする。

 

 以上は、視覚によって文字を認識するさいに、「文字が文字として感じられなくなる」体験だと考えることができそうです。つまり、「文字」に備わっているはずの「意味」や「読み」が、曖昧になる。または、文字が、「かたち」や「もよう」に見えてくるというわけです。

 

 普段は「読み取る」とは「分かる・悟る・学ぶ」「理解する・納得する・習得する」へと向かう行為だと言われています。それに対して、「文字が文字として感じられなくなる」体験は、「ぼんやりしている」「書かれている内容に集中していない」「ちょっと変だ」と言われそうな気がします。

 

 でも、その「ぼんやり」や「集中していない」や「変」は、誰もが日常生活で頻繁に経験しているはずです。さもなければ、起きている間じゅう、ずっと神経を集中していなければなりません。それだけの集中力は、人間には備わっていないようです。

 

 授業中、仕事中、自動車の運転中でも、状況は変わらない気がします。無意識のうちに適度に気を抜いているからこそ、然るべきときに集中できる。そんな感じではないかと思われます。

 

     *

 

 ぼけーっとする。

 

 この言葉とイメージが好きです。ぼけーっとするとき、人間は、無意識にいろいろなものに「顔」を見てしまうのではないでしょうか。だから、安心してぼけーっとしていられる。仲間たちに囲まれているような落ち着きを得られる。人間は森羅万象に「人間」を見ている。そう思っていても、この文章では、そこまでは書きませんが。

 

 ぼけーっとした頭で、こんなとりとめのない文章を書いているうちに、目の前のパソコンのモニターに並んでいる文字たちがいろいろな顔に見えてきました。文字の顔、字面、人面字という感じでしょうか。

 

 前のほうで紹介した、「愛するあの人の書いたものだと分かる」、「読めない。でも、あの人の書いたものだと分かる」という字面についての経験は、ある種のぼけーっとした状態でなければ味わえないものだという気がします。「ぼけーっとする」という言い方に抵抗があれば、「リラックスする」とか「宇宙に身を任せる」とか「癒やされモードでいる」でもいいです。

 

 いつも見ているのに、実は見ていないもの――それが文字の顔です。真剣に見ても見えないけど、ぼけーとすれば見えるもの――それが文字の顔です。ぼけーっとしていないと出会えないのです。

 

 この駄文の内容や意味なんか忘れて、たまには文字の顔を見てやってください。モニターは目に良くないですから、きょうの朝刊でもいいです。虫眼鏡なんかで、見出しや記事を拡大し、前後関係など無視して、文字の顔を見てやってください。もちろん、普段のように裸眼で見ても構いません。顔を見てやってください。きっと喜びますよ。

 

 文字は、いつも控えめにしていて、表に出ないように気を遣っています。それでいて、意味やメッセージや思想や情報などを信号として送ってくれているのです。けなげで、いとおしくて仕方ありません。

 

 ぼけーっとしましょう。ふざけてなんかいません。お酒なんか飲んでもいません。考えちゃ駄目です。理屈も抜きです。トイレの壁の模様や染みを見る要領です。ぼけーっとしましょう。文字に限りません。辺りを見回してみてください。顔に出会えますよ。

 







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