目次
3月はなだれの季節
3月の星座 おおぐま座
春の天気は忙しい
うららかな春
桜の樹下で
春の蜃気楼
地球の気温
運気学「二の気」
仲良しのふたご座
巨大かにと怪物へびの友情
チューリップバブル
女の子のお祭り
世界の卒業・新学期
プラセボ効果と健康食品の存在意義
肺の老化  
食養生について
男性と女性の老化パターン
人はどんなときに病気になる?
ストレス太りは何故起こる?
胃腸の冷えと花粉症
発がん要因をチェックしてみましょう
食物アレルギー
ワカメの色の神秘  
食物酵素のお話
カレーの歴史
麺類の仁義なき戦い!
お肉柔らかな素
朝食定番メニューに豆乳
戦国武将はどんなものを食べていたのか?
美味しく体に優しいキャベツ
食文化を変えた工場食品たち
風邪に効くお茶
病気になったらはじめる養生
要介護にならないために!
過ぎたるは及ばざるが如し
季節野菜の効用
日本食は庶民が発展させた
<電子レンジ簡単レシピ>ま~るいオニオンスープ
<電子レンジ簡単レシピ>白子のとろろ蒸し
<電子レンジ簡単レシピ>芋餅
<電子レンジ簡単レシピ>リゾット風ミルク がゆ
なぜか身近に感じる二胡の音色
普通に出てきた物が食べられる社会
決して絶望する事なかれ
1万円出しても惜しくない握り飯
一諾を守る」の持つ信用力
幕末のアイドル坂本龍馬の実相
優秀な家臣がいても
大金持ちの財力
「高松城の水攻め」にみる黒田官兵衛の心理作戦
人生意気に感ず 功名誰かまた論ぜん
よく遊びよく働け、野村徳七の教え
慶長遣欧使節団に託した思い
スマホで変わる世の中
『古事記の神々』 その12
スコットランド式シャワー
車を安く直す秘訣 
オイル交換を忘れずに
水の色は?
ペット用携帯電話
ノロウイルスの消毒に関する注意点について
丸い氷で一杯
再生細胞の不思議   
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1万円出しても惜しくない握り飯

 先日、拙宅の夕食のおかずに、鶏肉に卵と野菜を炒めた物が並んでいたところ、少し余ったので、家内がガキどもに、「ご飯にこれを掛けて、親子丼にしてあげようか?」と言っていました。その翌夕、家内がガキが書いた小作文に目を通しながら、子供に、「あんた、いつ、ウナギ丼など食べたとね?」と言っている・・・。

「もしかして、親子丼じゃないの?」・・・と。

後で、そのプリントを見てみたら、うちのガキは、「昨日は、うなぎどんを食べたよ。せんせいは、なにをたべた?」などと書いてある・・・。

先生も、「うなぎ丼なんて食べたの?いいなー」などと返事がありました・・・。

何だか、うちが、毎夕、そんな豪華な物ばかり食べているような誤解を与えたような・・・(汗)。

「お前が食べたのは、親子丼だ!」と・・・(笑)。

 島田洋七の「佐賀のがばいばあちゃん」の中で、洋七のばあちゃんが、「別に、値段が高い物が美味いわけではない。品数が少ないから値段が高いだけだ」と言っていたのを聞いて、ある意味、「ほー!」っと思いました。

 これって、立派なインフレーションの原理でしょうし、確かに、言われてみれば、その通りなんですが、それを普通に田舎の老婆が理解していた・・・ということに新鮮に驚きましたよ。

 よくあるのが、「昨日5万円もするステーキを食ったんだぜ!」などというやつ・・・。

5万円と聞いただけで、何だか、もの凄く有り難い気がするのですが、でも、その5万円の中には、場所代も、運送代も入っての5万円なわけなのですから、それが、そのまま、美味さの等価ではないはずなんですよね・・・。(第一、人によっても、美味いまずいは違うわけで・・・。私に言わせれば、あんなに美味い「雑煮」ってやつを嫌いなやつなんて居るはずがない!と思っていたところ・・・、すぐに居ました(笑)。

 そう言えば、名古屋人である織田信長の味覚は、かなり、濃い味で、京都の貴族たちが食べる高級な食い物というのは、「どえりゃあ、まずうてかんわ」だったようです(笑)。)

ただ、普通、多くの人が美味いと思うから、皆が欲しがる。→皆が欲しがるから、品数が少なくなる。→品数が少なくなるから、値段が高くなる・・・ってことなのでしょうが、でも、皆、その理屈を疑おうともせず、盲信しているキライがありますよね。

 しかし、確かに言われてみれば、高い物が必ずしも美味いとは限らないんですよ。

以前、テレビで、東京銀座の一流寿司店の特集で、その店の店主は、直接、産地の漁場に買い付けに行ったときの映像がありました。

その店主は、市場に行くだけではなく、自ら漁に同行し、船の上で、釣れた魚をその場で捌いて、味見をしていました。

 で、一言、「釣ったその場で食べる、漁師飯というのが一番美味い。これに敵う物はない」と。

そして、続けて、「どうしても、東京に、持って行く間に鮮度が落ちてしまう。あとは、如何に、その鮮度を落とさないように調理するかが、料理人の腕」というような意味の事を言ってました。

鮮度をできるだけ落とさないで調理する技術という意味では、確かに、東京や大阪などの一流店には、そういう人材が揃っているのでしょうから、その意味では、高額な食い物というのは、「産地まで行かなくても食べられる」という利点にお金を払っているとも言えるでしょう。

 であれば、逆に言えば、「産地まで行って食べられる人」、もっと言えば、「産地に住んでる人」にとっては、必ずしも、この理屈は通らないわけですから、必ずしも、「高額な物が美味い」というわけでもないと・・・。

私が敬愛する大橋武夫という人がこういうことを言ってました。

「私はひとつの握り飯に1万円出しても惜しくないと思ったことがある。それは、糖尿病になって、食事制限されたときだ」と。

 結局、これが、「食」という物に対する人間の本来のあり方なんでしょうね。

(小説家 池田平太郎)2012-03


一諾を守る」の持つ信用力

 一諾を守る・・・ということ、それは、いくら最終決定権を持つ権力者とは言え、そう簡単な事ではありません。一諾とは、一面、実行力という面も持っているからです。

 あるいは、「決定権者になりさえすれば、そんなの簡単だ・・・。」と言われるかもしれませんが、前回申し上げました大久保利通にしても、田中角栄にしても、権力の座に着く前から一諾を守ってきたがゆえに、権力の座についてからは権力と信用というものが相乗効果を得て、それが誰にも打倒することが出来なかったという点では、まさに、運命的にまで強い「権威」というものを持ち得ることに繋がったのだろうと思います。「今日から、決定権者になったから、約束を守るよ!」と宣言しても、信用という物は一朝一夕につくものではないからです。

 一方で、そうは言いながらも、歴史上の英雄と言われた人たちを見てみると、どなたも、多かれ少なかれ梟雄的なところが有るようです。必要と有れば、約束など破るのに、それほどの躊躇は持たない。あるいは、約束など破っても、自分が強くなれば、相手は付いてこざるを得ない・・・という判断があったのかもしれません。

 それらの古今東西、英雄と呼ばれる人の中で、一人だけ、信用という点で、異彩を放っている人物がいます。それこそが、偉大なる大ハーン、チンギス・ハーンです。チンギス・ハーンについては、今更、言うこともないでしょうが、彼の創設したモンゴル帝国は、旧ソ連に次ぐと言われる、空前の版図を獲得したことでも知られてます。晩年、幽閉中のナポレオンをして、「余の為したる事は、彼の偉業の前には児戯に等しいものであった・・・。」と言わしめたとか。

 もっとも、モンゴル帝国の版図が最大になったのは、彼の死後であり、また、そのときには、事実上、帝国は分裂しており、厳密な意味での彼の帝国は、もっと、小さかったとは思いますが・・・。

 で、そのチンギス・ハーンですが、彼だけは、どういうわけか、どのような苦境にあっても、どれほどに被害が大きくなっても、まさに、綸言汗の如し・・・で、一度、口にした言葉は絶対に実行したと言います。

 「この城を落とす!」と宣言した後、攻城戦がうまくいかなかったときも、どれほどの犠牲を出してでも攻略したと言いますし、彼が「許す」と言った人間は絶対に「許された」と言います。

 さらに、この人物の尋常成らざるところは、自分もそれほどに一諾を守るものの、同時に、他人にも、その一諾を強制したことです。

1221年、バーミヤン攻略の折、ハーンの可愛がっていた孫が戦死したことで、激怒したハーンは、「この都市のすべての生き物を抹殺せよ!」と将軍に命令したと言います。その将軍は、命令通り、住民はおろか馬も犬も皆殺しにした後で、ハーンの入城を待って復命しているときに、その足許をネズミが一匹、駆け抜けていったことで、「命令違反」として殺されたか・・・。

 また、逆に、戦いに敗れて帰ってきた将軍が、「今回は、装備が不十分で、雪と寒さに負けたのであって・・・。」と弁明しようとすると、ハーンは、「わかった。では、次回は春になって出撃しろ。」と言って、前回より多い兵を付けて送り出したとか・・・。その将軍は、もう、死にものぐるいで戦ったそうです。

 それはそうでしょう。彼の主君は、自ら、どれほどのことがあっても、一諾を守るということを見せつけている人間なのですから・・・。これで、負けて帰ったら、彼は「約束を守らなかった人間」ということになり、その後に、何が自分を待っているかは、火を見るよりも明らかだったでしょう。

 自らが、一旦、口にしたことは、どんなことでも守る代わりに、部下にも、それを遵守することを要求する・・・。モンゴル軍が強かったはずです。自分のところの大将が、戦争前に、「撤退しない」と言ったのであれば、この戦いには、「撤退」はないわけですから・・・。

(文:小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)
2010-03


幕末のアイドル坂本龍馬の実相

世の中には、時々、「俺は平成の坂本龍馬だ」などと自ら口にする人がいるようですが、まあ、人間、自分でそういうことを口走り始めると、大体ろくな事はないようです。

で、その坂本龍馬ですが、そもそも、彼が幕末にあれほどの八面六臂の活躍を為し得たのは、奇跡的・・・いやかなり奇術的なことで、やはり、それを為し得たのは龍馬の人柄や能力などもあったのでしょうが、何と言っても、幕臣勝 海舟の知遇を得たことが大きかったように思います。

今で言うならば、経済産業省の審議官のような人の信頼を得たようなもので、その人の私設秘書として有力政治家や大物経済人などに使いさせられるうちにそこで得た面識と信用をもって、事業に取り組み始めた・・・と。

そう考えると、坂本龍馬という人物を評する上では、人脈を活かし、企業間の周旋を取り持つことを得意とする経営コンサルタント・・・という見方をするのが一番適当でしょう。

ただ、一方で、西郷隆盛は「長州工作は坂本という土佐の浪人を使ってやっている」と書き送っているそうで、それをして、実は龍馬は使われていた一人に過ぎないんじゃないか・・・という見方もあるようですが、私はこれは採りません。

まず、そもそも彼が英雄として知られることになった経緯としては、明治16年(1883年)、高知の新聞に掲載された「汗血千里の駒」なる読み物や、明治37年(1904年)、日露戦争直前に、時の皇后の夢枕に龍馬が立った・・・などという話などがあるようですが、何より、坂本龍馬の名を幕末の風雲児・・・から、アイドルにまで高めたのは、やはり昭和37年に連載が開始された司馬遼太郎氏の「竜馬が行く」でしょう。

ただ、司馬遼太郎という人の、あまりにも良い仕事をしすぎたがゆえの弊害は大きく、ここに書かれている龍馬の姿を史実・・・、いや、「現実」と思いこんでいる人も多いようで、意外に先生と名が付く方の中にも、これを現実の姿だと思っている人たちが多いようにも聞きます。

しかし、司馬氏は、生前、「竜馬が行く」を教科書で使いたいという打診があったとき、「とんでもない!あの作品は、実在の『龍馬』ではなく、あくまで、私が作り出した『竜馬』なんだ」と説明したそうです。

この点は、昨今流行の昭和ノスタルジー映画などが「良い時代であった」・・・・・ということを描こうとするあまり、デメリット部分を描いていないことと共通するでしょうか。

つまり「リアルではなくリアリティが大事」だと・・・。

確かに制作者の目的は真実を伝えることではなくあくまで観客を楽しませることにあるわけで、観衆はそこを理解して見なければならないのでしょうが、大衆とはとかく、虚構と現実の区別が付かなくなるもののようで・・・。

その意味では彼が薩長同盟の仲介者たり得たのは、逆に背景がなかったことがよかったということもあるでしょう。

あれが、龍馬個人、もしくは、海援隊という、どこにも所属していない、言わば、非営利団体のようなものだったから、薩長をはじめとする諸藩にとってはそれなりに使い勝手が良かったわけでしょうが、それがもし、土佐藩やどこかの藩主が仲介者だったとしたら、色々と面倒なことになっていたと思います。

つまり、ある意味、時代が、龍馬や中岡慎太郎などのフリーの志士の活躍を容認していた・・・、そういう時代だったということでしょう。

   (文:小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)

2008-1

 


優秀な家臣がいても

 安芸(広島県)の小豪族の次男に生まれながら、一代で大内、尼子といった強敵を滅し、中国地方に覇権を確立した毛利元就。元就といえば、「自分亡き後、専守防衛に徹し、中央の覇権争いには首を突っ込むな」と言い残したという話がありますが、実際には元就は晩年になっても専守防衛どころか尚も拡大を志向しており、特に大内の遺領で未併呑であった北部九州は「何としても自分の目の黒いうちに」とばかりに関門海峡を越えて侵攻しています。

 その元就を打ち負かし、九州から追い落としたのが、豊後(大分県)の大友宗麟。宗麟といえば、一時は九州を席巻する勢いを見せながら、慢心し新興宗教にのめり込み、格下のはずの龍造寺や島津に敗れ、最後は追い詰められた所を秀吉に救援された・・・ということで、どうしてもマイナー感が否めない武将かと思いますが、でも、あの!毛利元就を打ち負かした武将ですから、決して無能ではなく、むしろ開明的という部分では信長に通じるものさえあったでしょう。

 で、この大友家ですが、実は「豊州二老」、あるいは「三老」とも呼ばれる重臣らに代表されるような、いずれ劣らぬ錚々たる有能な重臣らがおり、彼らの多くは下克上の時代にあって珍しく主家に忠節を尽くし、特に際立っているのが大友の家運が傾いてから。島津の万余の大軍の前にわずか763名で立ち塞がり大友武士の意地を見せて玉砕して果てた高橋紹運や、その子で、秀吉をして「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と言わしめた立花宗茂。さらに、関ヶ原の折に黒田如水の手腕を知悉しながらも主君に殉じ憤死した吉弘統幸など、これでもかと言うほどに勇将、猛将が大友家の滅亡に花を添えています。(ちなみに統幸の父も叔父も曽祖父も主家の戦いで戦死しています。)この辺が名門の底力ということなのかもしれませんが、その意味では、大友家は本当に良き家臣に恵まれていたといえるのでしょう。(徳川家臣団は「忠誠無比の三河武士団」などと言われますが、あれは多分に家康の統率力あってのことで、事実、家康の父も祖父も家臣に殺されています。)でも、結局、ナポレオンが「1頭の狼に率いられた百頭の羊は、1匹の羊に率いられた百頭の狼に勝る」と喝破したように、哀しいかないくら家臣が良くてもトップがしっかりしてないとダメということで、大友家は秀吉の九州平定により辛うじて命脈を保つも、文禄の役で不始末を咎められ改易。さらに、再起を賭けた関ヶ原では負け組に付いてしまい流罪。その後、吉統の子、義乗が徳川家に旗本として召抱えられ、辛うじて名家として存続し得たと。

(小説家 池田平太郎/絵:そねたあゆみ)2016-03

 

 

 

 

 

 


大金持ちの財力

 現在の三菱電機や三菱銀行、三菱自動車などで知られる三菱グループに繋がる「三菱財閥」の創業者・・・と言えば、おそらく、多くの人が「岩崎彌太郎」と答えられると思いますが、実は、彌太郎は三菱の創業者ではあっても三菱財閥の創業者ではありません。彌太郎の三菱はその死後、別の会社と合併し、現在の日本郵船になっており、つまり、系譜の上ではまったく別の会社ということになるわけです。では、三菱財閥を築いた人は誰かと言えば、彌太郎の16歳下の弟、岩崎弥之助です。

 弥之助は兄の死後、行き詰まっていた海運業から撤退。新たに、鉱山開発と造船業に活路を求めます。「海から陸への転換」を目指したわけですね。やがて、三菱は順調に成長し、三菱財閥が形成されていくわけですが、弥之助は当初の9年間社長の座にあっただけで、事業が軌道に乗ったのを見届けると、あっさりと、亡き彌太郎の長男・久弥に社長を譲っています。弥之助としては、「元々、この会社は兄が作った物。私は甥が成長するまで預かっていたにすぎない」ということだったようですが、なかなか、見事な出処進退です。

 で、私が言いたいのは、弥之助その人の素晴らしさ・・・ではなく、この後のことで、悠々自適となった弥之助は明治35年、欧米視察の旅に出ています。当時は、今と違い、船旅ですから、単純に行って帰るだけでも何ヶ月もかかることも珍しくなく、結果、弥之助が日本を出て帰国するまでに要した日数は7ヶ月強。事実上の世界一周旅行ですね。

 ただ、時代は日露開戦前夜。ロシアの圧力は日に日に高まっており、日本は強大なロシアに対抗すべく日英同盟を結んだばかり。そのため、特に、後ろ盾となってくれる同盟国イギリスの首都ロンドンには約70日間滞在し、連日、政財界の要人を招いてのパーティを主催しています。ただ・・・、現在、ロンドンの最高級ホテルのスイートルームは一泊150万円。となると、弥之助だけの部屋代でも1億超。これにパーティでの交際費に随行者の宿泊費が加わり、かつ、ドイツやアメリカなどにも滞在しているわけで、旅全体での総額となると、一体、総額でいくらかかったんだ・・・と絶句します。

 ちなみに、弥之助はこの少し前に、それまでどんぶり勘定だった岩崎家の財産を甥の久弥と分けていますが、そのうち、弥之助が得たのはわずか二割。残りの八割は久弥に渡しており、この点でも見事という他ありませんが、逆に言うと、わずか二割でもこの財力ということ。改めて、財閥の財力というものの凄まじさがわかるでしょうか。なお、現代のアメリカの富豪、ビル・ゲイツの家族旅行は150億円という話もあり、大金持ちの財力には気が遠くなりますね。

(小説家 池田平太郎)/絵:そねたあゆみ 2017-03

 

 

 

 

 

 



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