目次
3月はなだれの季節
3月の星座 おおぐま座
春の天気は忙しい
うららかな春
桜の樹下で
春の蜃気楼
地球の気温
運気学「二の気」
仲良しのふたご座
巨大かにと怪物へびの友情
チューリップバブル
女の子のお祭り
世界の卒業・新学期
プラセボ効果と健康食品の存在意義
肺の老化  
食養生について
男性と女性の老化パターン
人はどんなときに病気になる?
ストレス太りは何故起こる?
胃腸の冷えと花粉症
発がん要因をチェックしてみましょう
食物アレルギー
ワカメの色の神秘  
食物酵素のお話
カレーの歴史
麺類の仁義なき戦い!
お肉柔らかな素
朝食定番メニューに豆乳
戦国武将はどんなものを食べていたのか?
美味しく体に優しいキャベツ
食文化を変えた工場食品たち
風邪に効くお茶
病気になったらはじめる養生
要介護にならないために!
過ぎたるは及ばざるが如し
季節野菜の効用
日本食は庶民が発展させた
<電子レンジ簡単レシピ>ま~るいオニオンスープ
<電子レンジ簡単レシピ>白子のとろろ蒸し
<電子レンジ簡単レシピ>芋餅
<電子レンジ簡単レシピ>リゾット風ミルク がゆ
なぜか身近に感じる二胡の音色
普通に出てきた物が食べられる社会
決して絶望する事なかれ
1万円出しても惜しくない握り飯
一諾を守る」の持つ信用力
幕末のアイドル坂本龍馬の実相
優秀な家臣がいても
大金持ちの財力
「高松城の水攻め」にみる黒田官兵衛の心理作戦
人生意気に感ず 功名誰かまた論ぜん
よく遊びよく働け、野村徳七の教え
慶長遣欧使節団に託した思い
スマホで変わる世の中
『古事記の神々』 その12
スコットランド式シャワー
車を安く直す秘訣 
オイル交換を忘れずに
水の色は?
ペット用携帯電話
ノロウイルスの消毒に関する注意点について
丸い氷で一杯
再生細胞の不思議   
奥付
奥付

閉じる


<<最初から読む

48 / 64ページ

優秀な家臣がいても

 安芸(広島県)の小豪族の次男に生まれながら、一代で大内、尼子といった強敵を滅し、中国地方に覇権を確立した毛利元就。元就といえば、「自分亡き後、専守防衛に徹し、中央の覇権争いには首を突っ込むな」と言い残したという話がありますが、実際には元就は晩年になっても専守防衛どころか尚も拡大を志向しており、特に大内の遺領で未併呑であった北部九州は「何としても自分の目の黒いうちに」とばかりに関門海峡を越えて侵攻しています。

 その元就を打ち負かし、九州から追い落としたのが、豊後(大分県)の大友宗麟。宗麟といえば、一時は九州を席巻する勢いを見せながら、慢心し新興宗教にのめり込み、格下のはずの龍造寺や島津に敗れ、最後は追い詰められた所を秀吉に救援された・・・ということで、どうしてもマイナー感が否めない武将かと思いますが、でも、あの!毛利元就を打ち負かした武将ですから、決して無能ではなく、むしろ開明的という部分では信長に通じるものさえあったでしょう。

 で、この大友家ですが、実は「豊州二老」、あるいは「三老」とも呼ばれる重臣らに代表されるような、いずれ劣らぬ錚々たる有能な重臣らがおり、彼らの多くは下克上の時代にあって珍しく主家に忠節を尽くし、特に際立っているのが大友の家運が傾いてから。島津の万余の大軍の前にわずか763名で立ち塞がり大友武士の意地を見せて玉砕して果てた高橋紹運や、その子で、秀吉をして「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と言わしめた立花宗茂。さらに、関ヶ原の折に黒田如水の手腕を知悉しながらも主君に殉じ憤死した吉弘統幸など、これでもかと言うほどに勇将、猛将が大友家の滅亡に花を添えています。(ちなみに統幸の父も叔父も曽祖父も主家の戦いで戦死しています。)この辺が名門の底力ということなのかもしれませんが、その意味では、大友家は本当に良き家臣に恵まれていたといえるのでしょう。(徳川家臣団は「忠誠無比の三河武士団」などと言われますが、あれは多分に家康の統率力あってのことで、事実、家康の父も祖父も家臣に殺されています。)でも、結局、ナポレオンが「1頭の狼に率いられた百頭の羊は、1匹の羊に率いられた百頭の狼に勝る」と喝破したように、哀しいかないくら家臣が良くてもトップがしっかりしてないとダメということで、大友家は秀吉の九州平定により辛うじて命脈を保つも、文禄の役で不始末を咎められ改易。さらに、再起を賭けた関ヶ原では負け組に付いてしまい流罪。その後、吉統の子、義乗が徳川家に旗本として召抱えられ、辛うじて名家として存続し得たと。

(小説家 池田平太郎/絵:そねたあゆみ)2016-03

 

 

 

 

 

 


大金持ちの財力

 現在の三菱電機や三菱銀行、三菱自動車などで知られる三菱グループに繋がる「三菱財閥」の創業者・・・と言えば、おそらく、多くの人が「岩崎彌太郎」と答えられると思いますが、実は、彌太郎は三菱の創業者ではあっても三菱財閥の創業者ではありません。彌太郎の三菱はその死後、別の会社と合併し、現在の日本郵船になっており、つまり、系譜の上ではまったく別の会社ということになるわけです。では、三菱財閥を築いた人は誰かと言えば、彌太郎の16歳下の弟、岩崎弥之助です。

 弥之助は兄の死後、行き詰まっていた海運業から撤退。新たに、鉱山開発と造船業に活路を求めます。「海から陸への転換」を目指したわけですね。やがて、三菱は順調に成長し、三菱財閥が形成されていくわけですが、弥之助は当初の9年間社長の座にあっただけで、事業が軌道に乗ったのを見届けると、あっさりと、亡き彌太郎の長男・久弥に社長を譲っています。弥之助としては、「元々、この会社は兄が作った物。私は甥が成長するまで預かっていたにすぎない」ということだったようですが、なかなか、見事な出処進退です。

 で、私が言いたいのは、弥之助その人の素晴らしさ・・・ではなく、この後のことで、悠々自適となった弥之助は明治35年、欧米視察の旅に出ています。当時は、今と違い、船旅ですから、単純に行って帰るだけでも何ヶ月もかかることも珍しくなく、結果、弥之助が日本を出て帰国するまでに要した日数は7ヶ月強。事実上の世界一周旅行ですね。

 ただ、時代は日露開戦前夜。ロシアの圧力は日に日に高まっており、日本は強大なロシアに対抗すべく日英同盟を結んだばかり。そのため、特に、後ろ盾となってくれる同盟国イギリスの首都ロンドンには約70日間滞在し、連日、政財界の要人を招いてのパーティを主催しています。ただ・・・、現在、ロンドンの最高級ホテルのスイートルームは一泊150万円。となると、弥之助だけの部屋代でも1億超。これにパーティでの交際費に随行者の宿泊費が加わり、かつ、ドイツやアメリカなどにも滞在しているわけで、旅全体での総額となると、一体、総額でいくらかかったんだ・・・と絶句します。

 ちなみに、弥之助はこの少し前に、それまでどんぶり勘定だった岩崎家の財産を甥の久弥と分けていますが、そのうち、弥之助が得たのはわずか二割。残りの八割は久弥に渡しており、この点でも見事という他ありませんが、逆に言うと、わずか二割でもこの財力ということ。改めて、財閥の財力というものの凄まじさがわかるでしょうか。なお、現代のアメリカの富豪、ビル・ゲイツの家族旅行は150億円という話もあり、大金持ちの財力には気が遠くなりますね。

(小説家 池田平太郎)/絵:そねたあゆみ 2017-03

 

 

 

 

 

 


「高松城の水攻め」にみる黒田官兵衛の心理作戦

  豊臣秀吉がまだ織田家の部将であった頃、「三木の干殺し、鳥取の飢殺し、高松城の水攻め」で中国地方を席巻したと言われてます。

 特に有名なのが城の周囲に延々と土堤を築き、川の水を引き込んで水没させて落とした備中高松城ですが、私がかねてより疑問だったのが、なぜ、ここだけ水攻めだったのか・・・ということです。

 もちろん、他の2つと違い、水を貯めやすい地形だったということはあるのでしょうが、でも、他の2つは普通に兵糧攻めで落ちてるわけですから水没させなくても落とせたんじゃないの?・・・と。

 で、さらに疑問なのが、秀吉方は救援に来た毛利軍の猛将・吉川元春の軍と土堤との間にはわずかな部隊しか配置していないことで、これでは、毛利軍がその気になれば夜間にでも急襲をかけて土堤を破壊し、城を水没から救うことは出来たんじゃないの・・・と。

 ここまで考えて、ハッとしました。

つまり、「ここがどういう場所か?」ではなく、「今がどういう時期か?」と。

 戦闘は梅雨から初夏にかけて行われたそうですから、織田家と違い、兵農分離が進んでいない毛利兵は農繁期の出兵を嫌ったのではないか・・・と。

 兵からすれば、「だったら、来年の年貢は負けてもらえるんですか?」と言ったとしても、言われた側は現代もそうであるように税収不足は困るわけで、「いや、それはそれで・・・」としか言えず、だったら「冗談じゃない」となった・・・と。

 となれば、救援に来た毛利軍は実際には大した兵力を確保できておらず、さらに、いくら、「もうすぐ終わるから」と言ったところで、目の前でしっかり水に浸かっている城を見れば、長引くというのは明らかで、そうなると今いる兵を引き留めるのも難しくなっていたのではないか・・・と。

 結果、少ない兵力で土堤に向かってて出動すれば、待ってましたとばかり、秀吉軍の主力部隊に捕捉され、全滅してしまう可能性があり、また、秀吉もそれを狙っていた・・・と。

 そういう目で見れば、高松城は周辺の泥沼で防御するという「時代遅れの城」で秀吉軍なら水攻めでなくてもどうにでもなった・・・と。

 つまりは、織田家の革新兵制「兵農分離」も含めた戦争形態の変化が勝利の背景にあったと言えるでしょうか。

 ちなみに、この攻略法を献策したのは秀吉の参謀として頭角を現していた黒田官兵衛(如水)だったと言いますが、これは私もそう思います。

 なぜなら、作戦計画という物には人それぞれの傾向というものがあるもので、官兵衛のそれは、後の小田原攻囲の時などでもそうですが、単に物理的に攻略を企図するのではなく、心理的効果を狙うというのが一つの特徴のように思えるからです。

 つまり、水攻めは攻略の手段ではなく、敵兵に与える心理的効果を狙った象徴的な物だったと。(小説家 池田平太郎 /絵:そねたあゆみ)2014-03

 

 

 


人生意気に感ず 功名誰かまた論ぜん

「唐王朝」というのは変わった王朝です。

「大唐」と呼ばれ、中国の歴史上、「牡丹の花」にも例えられるほどの繁栄を誇ったほどでありながら、創業者よりも二代目の方が有名な王朝なのです。

普通、二代目というのは、どうしても、創業者・徳川家康に置ける二代将軍秀忠のように、あくの強い創業者の陰に隠れてしまいがちなのですが、この唐王朝に限っては、その限りではありません。

二代目である太宗皇帝・李世民は、兄を殺し、初代皇帝である父を軟禁して、帝位についたほどにあくの強い人物であり、この点は、父にして鎌倉幕府初代執権、北条時政を追放し権力を掌握した二代目・北条義時を想起するでしょうか。

その李世民の治世は、「貞観の治」と呼ばれ、徳川家康も参考にしたほどに治世の理想とされています。

それほどの治世を補佐した重臣に魏徴という人物がいるのですが、この人は、元々、世民が殺した兄皇太子の側近だった人物であり、当時、皇太子に対し、たびたび、「早く李世民を殺すように」と進言していたとのことで、皇太子死去後、A級戦犯として断罪される立場となったものの、その能力を見込まれ、逆に、太宗皇帝の重臣として重用され、癇癪を起こした太宗を諫めたこと数多であったと言われています。

その魏徴が詠んだ歌の一部です。

「人生意気に感ず 功名誰かまた論ぜん」(「人生なんてのは意気に感じるもの。功績や手柄などというのは誰か人が語ってくれ」:平太意訳

この話で思い出すのが、春秋時代の中国の故事です。

王を囲んでの宴の席で、余興として、灯りを消して飲もう・・・ということになったとき、暗闇に紛れて、誰かが王の寵姫の唇を盗んだ・・。

このとき、寵姫は機転を利かせて、その者の冠に傷を付け、すぐに、王の側に駆け寄り、王に灯りを付けてくれるように注進したところ、事情を聞いた王は、「いや、皆、今宵は無礼講と言ったはず。これが、つまらぬ事を言ったようだが、皆、今宵は冠を外して飲むことにしよう」と言い、宴席は灯りを付けないまま、お開きとなった・・・と。

後年、王は大国・秦との戦いに大敗し、命からがら敗走を重ねる身となったところ、このとき、一人の戦士が現れ、全身に針鼠の如く、矢を受けながらも、王を安全なところまで逃がし、「なぜ、おまえはここまで・・・」と聞く王に対し、その戦士は、「実はあのとき、寵姫にいたずらをしたのは私でした。王の配慮のおかげで、満座の前でさらし者にならなくて済みました。私はいつか、この恩義に報いねばならないと思っていました」と言い残し、ついに息絶えたと・・・。

何かの浪曲でもありましたよね。親分が祝儀の席に行かないものだから、やむなく、子分が代理として出席したものの、そうそうたる親分衆が集まる中で、肩身が狭い思いをし、さらに、続々と高額の祝儀金が発表されていくと、自腹でなけなしの金1両を包んだのみだったその子分は、何ともいたたまれない気持ちに・・・。

ところが、自分の番で、読み上げられたのは「OO親分!金100両!」のコール・・・。満座のどよめきに面目を施したこの子分は、同時に、心中、「いつか、この人の為に働かなきゃなるまい」と思う・・・と。

(小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)
2008-03


よく遊びよく働け、野村徳七の教え

野村證券の創業者、野村徳七翁には、「よく働きよく遊べ」の遺訓があり、今でも、野村證券には、そういう社風が生きていると聞く。

昭和三十年代、野村證券に君臨した奥村綱雄、瀬川美能留といった人たちは、同時に遊びのほうも他社の追従を許さないと言われたとか。

ところが、よく見ていると、野村證券がよく「遊んで」いるのは、主に、証券業界が好調のときであり、一旦、証券不況となると、一変した。

野村證券について、三鬼陽之助という、財界記者が遺した古い経済記事がある。

三鬼翁の記事から、その辺を抜粋すると、

「不況襲来の昭和38年後半から40年の前半にかけての野村の幹部連の活動が、じつにめざましかった。会長、社長をはじめとして、幹部総がかりの体制で、いわゆる新規投資層の開拓に、地方の農村・漁村をかけめぐったのである。

これに対して、山一では、地方支店の従業員をはぶけば、支店長以下幹部社員たちは、この非常時にあって、遊ぶでもなく働くでもなく、土曜日の午後になると浮かぬ顔でゴルフに出かけるというありさまであった。

軍隊では、賢明な指揮官であればあるほど、ここ一番の突撃という前夜など、兵士たちをよく遊ばせ、そしてよく眠らせるという。ビジネスの世界においても、これと同じことが言えるのである」と。

もっとも、遊びという意味では、「格差社会」などと言われながらも、普通のOLさんたちが、フランスだ、エジプトだハワイだ・・・と、海外に出かけている。現代の日本人は、ある意味、驚くほど上手に実践しているのではなかろうか。天正10年、宿敵、武田勝頼を滅ぼし天下統一をほぼ、確実なものにした、戦国の覇王、織田信長は、帰途、徳川家康に案内させて、富士山を観光している。戦国の覇者にして、事実上の日本国王と言っても過言ではなかった信長にして、この程度だったのである。

(文:小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)
2007-03



読者登録

atecさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について