目次
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梅雨前線のメカニズム
紫外線を吸収してくれるオゾン
夏の健康の味方「スイカ」
意外とすごい!?スイカの効用
七夕バレンタイン
たなばたとお星さま
土用の丑の日に鰻
朝顔にも歴史あり
低気圧の誕生
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花(蓮)よりラーメン
5G時代の新聞
袋鉢で夏野菜
日焼け対策は「黒」
海に沈むことのない2つの星座
アロマオイルでゴキブリなどの害虫対策!
車も日焼けする?
夏を彩る浴衣
各国の夏休み
知って得する機内サービス
アルカリイオン水でアルカリ体質になるの?
女性は7の倍数で歳をとります
脾不統血の崩漏
細胞の感情
脱水と熱中症のおはなし」
絵画の楽しみ方
食器を手にもつのは世界的にはめずらしい
『いただきます。ごちそうさま。』
鍋とお箸の熱くない関係
旬を食す
生のまま野菜を食べる?
牛乳物語
百寿者の分析から
健康にいい植物オイルの使い方/選び方
イギリスの飯はまずい?
食の宝庫、ニュージーランド
遥かなる原始時代の食文化① 
幸せのおにぎり
うまい!TKG。
世界に広がるラーメン!
美味しく食べて健康に!
ときめいて過ごしましょう!
過激なダイエットは逆効果
お腹が張る原因
代謝低下で起こるめまい
不快サヨナラ、痰濁のめまい
熱中症予防に『熱さ指数』
フワフワ眩暈(午前型)
無意識ストレスと酸化
血に関する老化
沈先生の風邪対処民間療法
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ストレスと便秘(気滞便秘)
恐怖感
体育会系薩摩藩士が見た長州の同志的放言
中間管理職の悲哀
音声入力が凄い!
信長が西向きゃ家康は東
太平洋横断の歴史 
満点アタチュルク
幕末維新は、女たちの戦いでもあった
英雄、残酷さと一瞬の微笑
損な役回り、蒲冠者範頼  
ちょっとの心がけで、豊かな暮らし
「提灯はまっすぐ下がる」の理に感嘆!
『古事記』の神々(その4)
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りんごの唄にみる詩人の凄み
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信長が西向きゃ家康は東

上杉謙信の生涯を動線で表すと、彼は関東に一番多く出兵しており、次が川中島、最後が京都方向という順になります。

即ち、東、南、西(北は海)とまさに、動線が全方位に散っているわけです。

同様のことが謙信ほどでないにしても、武田信玄、毛利元就など大半の戦国武将にも当てはまります。

これに対し、織田信長の動線は西に一本だけ太く伸びています。

即ち、重点がはっきりしているわけです。

家康の動線は逆に東へのみ伸びています。

信長と同盟を結んだ極めて初期の段階で、家康は自らの動線を、強敵がひしめく東へと決定したわけですから驚きです。

信長の場合、西には斎藤道三以外にはそれほどの強敵がいなかったこともあり、何より京というわかりやすい目標もあったわけですが、家康が東を決定した段階では、西には小国なれど斬新な政策を展開しつつある新興の織田、東には崩壊しつつある今川家とその向こうに北条、武田という巨大勢力・・・、というまさに、今川の屍肉を挟んで、西へも東へも進めない袋小路状態だったわけで、ある意味、信長よりも難しい判断を迫られていたと思います。

この時点で18歳の家康は進路を東へ決定したわけですから、一体、どういう脳みそをしていたのか、大変驚きます。

(以後、自領西端で秀吉を迎え撃ったことはありますが、関ヶ原まで西へ向かうことはなかったわけです。)

確かに、今川崩壊後、武田、北条がその旧領へ進出してくる→その為には、少しでも自力を付けておく→取りやすい今川領へ出る→その結果、武田、北条勢力と必然的に国境が接触し圧迫され、気が付いてみれば、同盟者信長(及び後継者秀吉)は比べものにならないくらい巨大になっており、今更、西へ出ることはできなかったということも言えるでしょう。

しかし、家康が信長以前の旧タイプの武将であったら、今川の旧領を併呑しながらも何だかんだ言っても織田領にも隙があったら侵食し、少しでも巨大化しようとしたはずです。

家康にはやはり、信長の「方向」という物のもつがよく理解できていたのではないでしょうか?

方向性とは、下から順に「戦闘→戦術→戦略→目標→目的」と、これらをつなげた物であり、下から積み上げていくことはその都度、必要なことをしていくことであり、それほどの難事ではないのでしょうが、これに一貫性を持たせる為には、上位を先に決定する必要があるわけですが、それは、ある意味、この矢印を逆に決定していくわけですから、降ってくる物を逆に読んでいくようなもので、誰にもそれができるというわけではないようです。

(文:小説家  池田平太郎/絵:吉田たつちか)06-07

 


太平洋横断の歴史 

 航空機発達以前、日本から「西洋」に行くには船しかなかったわけですが、その場合、インド洋を抜ける西回りか、もしくは太平洋を渡る東回りで行くかになります。このうち、西回り航路は割合、陸伝いに行くことが出来るので、燃料や食料、水などの補給にも有利で、難破の可能性も少ないとされたのに対し、東回り航路は途中に補給地らしい補給地はハワイしかない上に、地球上で最大の太洋である太平洋を横断することになるので危険も増しました。そこで、太平洋を横断し、さらにその向こうの大西洋に抜けるにはどういうコースがあったか、日本の使節団を例に見てみると、時代の変遷が感じられ、なかなか、興味深いものがあります。

 まず、有名なところでは、明治4年の岩倉使節団があります。(国の首脳の大半が一度に世界一周するなど、「遭難」ということをまったく想定しておらず・・・。いくら、アメリカ側から「大丈夫ですよ」と言われたとしても、明らかに不慣れさは否めません。)彼らは横浜を出て太平洋を横断、サンフランシスコに上陸後、大陸横断鉄道に乗り換えてアメリカ東海岸へ達しています。一方、その12年前、咸臨丸で有名な万延元年遣米使節団では(咸臨丸は正使一行が乗船する米国海軍船とは別に「護衛」名目で派遣された船。これには、万一、正使が遭難した場合の「保険」という意味合いもあったようです。)、同じく、横浜を出港し、途中、補給のためにハワイのホノルルに寄港した後、サンフランシスコに到着。そこから、アメリカ合衆国を横断・・・ではなく、そのまま船旅を続け、もっともアメリカ大陸が細くなる地パナマに上陸。ここを汽車で横断し、再び船に乗り、ようやくワシントンに到着しています。つまり、大陸横断鉄道もパナマ運河もまだ無かったわけですね。

 そして、その前に日本人が使節団として太平洋を渡った・・・となると、いきなり飛んで、これより247年前の仙台藩主・伊達政宗の家臣、支倉常長による慶長遣欧使節団になります。(コースは、ほぼほぼ万延元年遣米使節団と同じですが、当然、まだ汽車はなく。)これが初めての・・・と言いたいところですが、実は初めては、その3年前に家康がメキシコの国情視察目的で送り出した大坂、堺、京都の商人20名となります。もっとも、彼らはメキシコ止まりで大西洋を渡ることはしていませんが。ちなみに、この使節一行についての現地側の記録。「全員着物を着ており、サンダル(草鞋?)を履いて、鷲のような歩き方をする。頭の表面をきれいに剃って、そこだけ光沢があり、チョンマデを結っている」。

(小説家 池田平太郎)2019-07

 

 


満点アタチュルク

 私がムスタファ・ケマルという人の伝記をどういう経緯で読もうという気になったのかは覚えていない。ただ、その本は今でも手元にあるので引っ張り出してみたところ、j.ブノアメシャン 著、牟田口義郎 訳、「灰色の狼 ムスタファ・ケマル‐新生トルコの誕生」という本で、一九九〇年に改訂第一刷の日付があるから、おそらく、その前後に購入したのだろう。ただ、当時、これを読んでとても強い印象を受けたことは覚えている。

 トルコ建国の父、ケマル・アタチュルクは、元々、ムスタファという名前であり、ケマルとは幼年兵学校時代、数学のテストであまりに毎回、満点(ケマル)を取るのでそれが仇名となり、そのまま自分の名前にしたと言われている。つまり、満点アタチュルクという意味で在る。思えば、ナポレオンも幼少期には数学が得意であったというが、彼らのような、「人の上に立つ人」の場合、特徴としては二通りあるのだろう。数学的思考法に長じた者と文学的思考法に長じた者である。ケマルやナポレオンなどは明らかな前者の代表だろうが、後者の代表としては国語が得意だったという毛沢東が挙げられるだろう。両者の質の違いは、直線的と包括的、直感的と思索的、一方は中央突破、一方は包囲殲滅、あるいは西洋的と東洋的、軍人と政治家の違いと言い換えても良いのかもしれない。

 第一次世界大戦中の大正四年(一九一五年)、ガリポリ半島攻防戦で頭角を現したオスマン・トルコの軍人、ケマル大佐は、大戦後もそのまま祖国解放戦争の指導者となって戦い続け、国土を占拠したギリシア軍を撃退。列強の干渉も撥ね退け、さらに、事ここに至ってもなおも自らの保身のみを図ろうとする皇帝メフメト六世との暗闘にも勝利し、ついに、オスマン・トルコを廃して、現代のトルコ共和国を建国したことで「国父(アタチュルク)」の称号を受け、今日でも多くのトルコ人の尊敬を一身に浴びている。

 ちなみに、ガリポリでケマルが英・仏連合軍を撃退したことで、戦死したのが「原子番号」の概念を発見し、ノーベル賞を確実視されていた天才的物理学者、ヘンリー・G・J・モーズリーであり、失脚し、長い雌伏の時を余儀なくされたのがこの作戦の立案者であったウィンストン・チャーチルであり、そして、彼らに代わって歴史の表舞台に登場することになるのが「アラビアのロレンス」こと、トーマス・E・ロレンス大尉である・・・といった方がむしろ、この戦いの輪郭を思い浮かべやすいのかもしれない。

(小説家 池田平太郎)2018-07

 


幕末維新は、女たちの戦いでもあった

私は元々、大河ドラマは結構、好きだったのですが、以前に比べ、最近は何か視聴者にすり寄ってるよなーって感じを強くしています。     本来、すり寄らないからNHKなんでしょうが・・・。 最近の作品の中で一番よかったのは、モックンがやってた「德川慶喜」でした。 その徳川慶喜ですが、彼の妻も母も養母も高級公家の出身であり、逆に慶喜の伯母さんは公家に嫁いでおり、関白は従兄・・・という、德川家と朝廷とは幾重にも張り巡らされた縁戚関係にあったわです。それから、先代将軍の未亡人は孝明天皇の妹、和宮であり、彼女が嫁ぐときに運動したのが岩倉具視であり、さらに、先々代将軍の未亡人は薩摩の島津家の出身、天璋院篤姫であり、彼女が嫁ぐときに主君、成彬の命を受け一切の世話をしたのが西鄕隆盛・・・。

よくこれで、明治維新ができたなと思います。(この辺は、第一次大戦の時のヨーロッパの王室もしかりですね。カイザーもツァーリもハプスブルグ家も皆親戚であり、まさか、これらの王室がいっぺんになくなるとは、当時は誰も思わなかったのではないでしょうか?

歴史というモノは、動くときには実にあっさりと動きますね。たとえ、どれほど歯止めが打ってあっても・・・。)

孝明天皇なき後の慶喜にとっては、幕軍10万よりも、これらの人間関係のほうが、はるかに強力な援軍だったのではないでしょうか?特に「慶喜追討」の際には、先代、先々代のこの二人の将軍家未亡人から言われたら、西郷も岩倉も何も言えなかったんじゃないですか?

「岩倉、今度はこなたが私の願いを聞く番ではごじゃらぬか。」

「吉之助、そなたは亡き成彬公の命により嫁して参った私に兵を向けると申されまするのか!」

共に主筋であり・・・、輿入れには自分たちが深く関わったわけですから、もう、「ははー。」しか言えないでしょう。

改めて、幕末維新というのは、女たちの戦いでもあったのだと思いました・・・。

 さておき、慶喜に対する歴史の評価は賛否あると思いますが、少なくとも普通の王様は自らの王朝が滅亡するなら、国も国民も道連れにしてやろうと思ってもおかしくはないわけですし、実際、オスマン・トルコのスルタンなどには、そういう動きがあったと聞いてます。

それを考えたなら、自らが汚名を受けながらも、それをしなかったわけですから、私はもっと、高い評価をされてもいいと思いますけどね・・・。

(文:小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)07-07


英雄、残酷さと一瞬の微笑

三国志の中で、「乱世の奸雄」と呼ばれ、影の主役と呼ばれた魏の武帝・曹操が、あるとき、二人の敵将が籠もる城を攻撃した時。鎧袖一触!これを撃破し、敵将二人は、這々の体で城を逃げ出したがそのうちの一人が捕まって、曹操の前に引き出されてきた。

その降将は「俺は、本当は貴公に敵対するつもりはなかったんだ。もう一人のあいつにそそのかされたんだ」と釈明した。

それを聞いて曹操は、「では、なぜ逃げた!?」と。

その男は、「うっ!」と詰まりながらも、苦し紛れに「そ、それは・・・、付き合いだ」と一言。

その答えに、曹操は思わず吹き出して大笑い。

呵々大笑し、この男は一命を助けられたという。

大体において、英雄というものは多かれ少なかれ残酷なことをやっているもので、ある意味、マキャベリの言う「君主は愛されるより恐れられよ」ではないが、まあ、権力者の意向が適正に行われる為には、時として、配下の荒くれ兵士どもが震え上がるような、それ以上の残酷なことをしなければ、威令が行われないというところもあるのでしょう。

その典型が、中世のイングランド人の傭兵隊長、ジョン・ホークウッドでしょう。

この人物は、占領地で部下二人が、捕らえた美しい尼僧を巡ってにらみ合いになったとき、「待て待て、我々の掟では、何事も平等に・・・となっているだろうが」と言いながら、長剣を抜くや、「あ!」っと言う間もなく、その尼僧を頭蓋骨から尾てい骨まで、縦に一刀両断にしてしまったそうです。

青ざめる部下たちに向かい、ニコニコ笑いながら、「さあお前たち右でも左でもどちらでも好きな方を選んで良いぞ。これで平等だ」と言ったとか。

「未開の蛮族ほど、恐怖という物に理屈抜きに従順」だということでしょうか・・・。

曹操もその点では、無名時代に人相見から、「治世の能吏乱世の奸雄」と言われたという話がありますが、実際に、怒りの余り、一州をまるごと皆殺しにした・・・などという残酷な話には事欠きません。

癇癪持ちで、残酷なことをしたことでは曹操以上だと言える織田信長も、行軍中に見かけた障害者に情けを掛ける・・・というエピソードがあります。

こういう人達は、何かの拍子に、突然、人間らしい感情が甦るのかもしれませんね。この人たちに限って、残酷さが演技ということはないでしょうから・・・。 

(文:小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)08-07



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