閉じる


<<最初から読む

25 / 42ページ

政党助成金

麻生元総理「テリーさんね、例えば、小選挙区約40万人。有権者40万人。そのうち10万人にテリー伊藤のパンフレット。郵便代切手80円。印刷代、封書して印刷しますから、それで約10万人かけますと、印刷代、封筒代何とかで最低200円。それでかける80円、足す80円。280円かける10万円、それで2800万円ですよ。あれだけ1枚で。これだけお金がかかるということはテリーさん、それだけかかると思っておられました。」

                          2009.3.15 NHK「総理に聞く」より

 

 民主選挙を行なう限り、選挙にお金がかかることは殆ど避けられない。だから、いろんな企業や団体なんかからの政治献金はとても有難いものだったし、献金が無いととても選挙なんかできない。ところがそうした選挙献金が色々と問題になって、制約を課すようになった。そして、その制約の代償として1994年に政党助成金というものが導入された。

 

 政党助成金とは政党の活動を助成する目的で国庫から交付される資金のことで、その総額は国民1人あたり年間250円。額としては、人口一億二千万人から250円づつ集めて、全部で300億円くらい。 07年の政党助成金は、自民党が165億9583万7000円、民主党には110億6382万4000円が支給されている。全体としてみれば大きな額のように見える。だけど議員一人頭に換算すると五千万円から一億円程度。これでも多いじゃないかと思えなくもないのだけれど、冒頭の麻生総理の発言で分かるとおり、例えば有権者に候補者のパンフレットを一枚出すだけで一人あたり280円かかる。

 

 政党助成金が国民1人あたり年間250円。国民にパンフレットを一枚郵便で出すだけで1人あたり280円。差し引き30円のマイナス。候補者は一年で一枚のパンフレットも送れない。 ならば手紙じゃなくて、どこかの集会場にすればいいじゃないかという考えも当然ある。だけど、もしそうしたとしても、多くの人数を収容できて、しかもタダで貸してくれる場所なんて殆どない。たとえば球場を使ったとしても、せいぜい数万人ぐらいしか入れない。それに球場使用料だってバカにならない。地方球場なんかだと一日数千円で貸してくれるところもあるだろうけれど、都市部でドーム球場なんかになったら、数万、数十万単位で必要になる。

 

 ましてや選挙区全員が一度に入れる会場なんて考えられない。それ以前に何万人も一箇所に集めたら、会場設営だとか警備誘導だとか安全確保のための人員も必要になる。入場料でも取らないと採算が合わなくなってしまう。 そうなると必然的に大会場ではなくて、地元の集会場なんかを安く借りてということになるけれど、そんなところは大抵50人か100人入ればもう満杯。だから、より多くの有権者に聞いて貰いたければ、順番に何度もやるしかなくなる。

 

 仮に有権者一人あたり250円助成して貰えるという前提で考えてみても、会場に100人に来てくれてやっと二万五千円分の助成金が貰える。それを午前と午後の一日2回やったとして、200人で5万円。いくら地元の集会場とはいえ、会場を一日借りる費用にお茶とお菓子を出せば殆ど無くなってしまう。スタッフに謝礼でも払えばまず赤字。 テリー伊藤氏は、民主主義の運営コストとして政党助成金を払っているというけれど、一年で一枚の手紙も送れず、会場も満足に借りられないような金額しか渡せなくて、一体何を助成していると言うのだろうか。

 


地盤・看板・鞄は民主主義のコストを最小化する

 選挙に勝つためには、「地盤」「看板」「鞄」の所謂、三バンが必要だとは良く言われること。 「地盤」とは、選挙区内における支持者の組織、団体のこと。 「看板」とは、広く一般にその名が知られていること。知名度があるということ。 「鞄」とは、選挙資金がそれなりにあるということ。 日本の選挙での当落は後援組織の充実度、知名度の有無、選挙資金の多寡や集金力の多少に依存している場合が多く、それらを端的に表したのがこの三バン。

 

 民主主義における選挙において、候補者は本来有権者に何を知らせなければいけないかといえば、その候補者の政策。有権者はその政策を聞き、また候補者の人となりを知った上でその可否を判断しないといけない筈なのだけれど、そのためには避けて通ることの出来ない前提がある。それは、有権者に候補者の存在をまず知って貰わなければならないということ。 何処の選挙区に何々という候補が立候補している、という事実を有権者に知って貰わなければ始まらない。政策云々はその次の話。 この知ってもらうという事だけでさえ、膨大なコストが発生する。

 

 先に、麻生総理のコメントとして、一枚のパンフレットを10万人に配るだけで2800万円かかるという話を紹介したけれど、2800万円かけてパンフレットを配ったとて、どこまでそのパンフレットを読んでもらえるか分からない。隅々まで読んでくれる人も当然いるだろうけれど、名前だけ見て、あとは忘れてしまう人とか、中には、何にも見ないでゴミ箱にポイする人だっているかもしれない。 しかも、パンフレット程度の大きさだと、多少なりとも公約くらいは書けたとしても、細かな政策を書いたりするだけのスペースは無いし、書いたところで大抵は専門的な内容になる政策を、文章だけで正確に理解してもらうことは難しい。いきおい何々を実現しますとか、これこれを目指します、とかいった当たり障りの無い、抽象的な文言になりがち。 だから、選挙で沢山のお金を使って、パンフレットなり手紙なり、葉書なりを有権者に送ったりしたところで、名前だけでも覚えて貰えば御の字というのが現実。

 

 また、選挙になると、よく家に何々候補をよろしくお願いします、なんて電話が掛かってくるけれど、そのほとんどは名前しか伝えないし、伝えられない。中には政策やら何やらを話すこともあるかもしれないけれど、あまりにも深い内容になると、候補者本人とか政策秘書でないと答えられないし、電話でそんなに一人に時間を取られては効率が悪くてやってられない。大抵は事務所に来てくださいとなる。

 

 そういう現状を考えると、「地盤」「看板」「鞄」の三バンがどれ程のアドバンテージを生んでいるのか良く分かる。 「地盤」があれば、候補者の名前なんか、支援組織内では衆知の事実。改めて知らせる必要はない。それどころか、友人・知人に候補者の支援をお願いしたり、選挙活動を手伝ってくれたりさえする。「知らせる」コストが殆どタダで済むどころか、勝手に知らせてくれさえする。とても有り難い存在。「看板」があれば、候補者の名前は既に知られている。有権者に「名前」を知らせる必要は殆どない。唯一必要になるのは、立候補している事実を伝えること。それとて、タレント候補や著名人なんかだと、雑誌やテレビで立候補しましたなんてニュースやインタビュー記事をバンバン流してくれるから、立候補したことを知らせるコストすら最小化されている。 「鞄」があることの優位は説明するまでもない。豊富な選挙資金があれば、それこそパンフレットなり手紙なりをどんどん刷って配って、電話攻勢もガンガンやって、候補者の名前を衆知徹底させることができる。

 

 だから、選挙における三バン、特に「地盤」と「看板」は、最初から名前を知らせるというコストが殆ど発生しない。また「鞄」ですら資金があればあるほど、スケールメリットが働くから相対的にコストは抑えられる。 地盤・看板・鞄は、民主主義のコストを最小化する。

 


鼓腹撃壌の日本

有老人、含哺鼓腹、撃壌而歌曰、「日出而作 日入而息 鑿井而飲 耕田而食 帝力何有於我哉」

また一人の老人が口に食物をふくみながら、腹つづみをうち、足で地面をたたいて拍子をとりながら、「おてんとうさまが上れば耕作に出かけ、おてんとうさまが沈めば家に帰って休む。井戸を掘ってうまい水を飲み、田を耕しておいしい飯をたべる。天子のおかげなどわしらには何の関係もないことだ」

                                 『十八史略』より


 古代中国の伝説の五賢帝の一人である堯帝は、ある日自分の政治がうまくいっているか知るために忍び姿で街に出たところ、一人の老人がこのような歌を歌っていて、それを聞いた堯帝は治世がうまくいっていることを知ったという有名な逸話。ここから治世がうまくいっていることを「鼓腹撃壌」というようになった。この老人は、日々の生活に充足し、満足しており、天子の政治を意識することすらない。

 

 経営アナリストの増田悦佐氏はその著書で、高齢者の生活困窮者の国際比較データを例示している。 それによれば、経済的に日々の暮らしに困っている、または少し困っていると答えた人の割合は、日本で14.5%で一番少ない。この割合はアメリカで27.6%、ドイツで29.9%、フランスが40%、韓国に至っては49.6%だというからダントツに低い。 こうしてみると、日本人は政治に殊更関心を示さなくても、日々の暮らしは普通に行なわれ、社会が維持されている。日本は世界で一番「鼓腹撃壌」を成し遂げている国。

 

 日本人は、政治に関心のない国民だと云われるけれど、逆に言えば、国民が政治を意識しなくても生きていけるという古代中国の理想社会になっているとも言える。 確かに国が戦乱に明け暮れていたり、餓死者を大量に出すような社会状況であれば、政治に関心を持たないと生きていけない。先日タイでクーデター騒ぎがあったけれど、そんな社会だったら要人暗殺も日常茶飯事だし、いつ戒厳令が敷かれるかもわからない。安心して暮らせない。日本でも以前大騒ぎになった毒餃子事件。昨今の新型インフルエンザもそう。普段政治のことなんて知らん振りのくせに、いざ自分の身に危険が及ぶとなったら大騒ぎ。

 

 老子の第十七章には「太上下知有之」《太上(たいじょう)は、下(しも)これあるを知るのみ》とあり、治められた人民が、ただ自分たちの上に政治をする人がいるということを知るだけで、有り難いとも何とも感じていないのが最上の政治だとしている。 本当にこのようなことが在り得るとしたら、本当に行き届いた理想的な政治が行なわれているか、民の要求レベルが極めて低くて生きているだけで満足する程度の、実に慎ましやかな欲求しか持っていないかのどちらか。

 

 毒餃子問題、新型インフルエンザ騒ぎのみならず、時にガラパゴスとも揶揄される機能満載の携帯電話やデジタル家電、これでもかというくらいのサービスに加え、次から次へと新製品が登場する日本。 日本人の要求レベルは極めて高い。だから、日本の政治が「太上下知有之」になっているとしたら、それは本当に「鼓腹撃壌」の国になっていたのだ、と考えるべき。 もし日本が、毒餃子や新型インフルエンザが日常茶飯事の国であったなら、もっともっと政治への関心は高くなる筈。だけどそれは、決して褒められたものじゃない。 そして更に、日本がその高まった関心を抑圧し、弾圧するような国家体制だったとしら、どこかの国のように日常的に暴動が起こっているに違いない。 日本は荒れてきたとはいえ、そこまで酷くはない。日本はまだまだ老子の理想の国の範疇にある。


徳治主義と民主主義の隙間

 「鼓腹撃壌」はその前提として、仕事があり、住処があり、食糧が行き届いていなければ、成立しない。戦後の高度経済成長がそれに大きく貢献したことは否定しない。 そもそも民主主義とは、自分の国のことは国民皆で話し合って決めようという制度だから、お上から何々はご禁制である、という具合に問答無用で規制されることはない。原則論としてそう。ゆえに国民ひとりひとりの能力が最大限に発揮されることになって、国力が増大しやすいのが民主主義の強み。その増大の程度は国民の数だけ足し算されてゆくから、専制政治なんかよりうんと大きい。

 

 だけど、高度経済成長を振り返ってみると、今でこそ何かと問題視されている政財官のトライアングルがその核となっていた。これによって経済成長が強力に推進されていったことは事実。そしてそれがあまりにも巧く行き過ぎたことが逆に仇となった。 どういうことかというと、日本の戦後復興からの発展は、国民ひとりひとりが政治に対してコストを掛けることなく、ましてやコストが掛かることを殊更に意識することなく行なわれ、しかも成功してしまったということを意味するから。 仮に、政財官のトライアングルを"天子"だと見立てれば、戦後日本は民主制を敷いていながら、実際に行なってきたのは徳治政治であり、なおかつその理想である「鼓腹撃壌」社会を実現したことに当てはまる。 民主主義においては、政治にコストがかかるということを国民が意識していない。ここに今の問題がある。

 

 徳治主義はその政策決定において、少数の"天子"によって決定されるからコストはそれほどかからない。それに対して民主主義は民の意見を全部聞いて、取り纏めないといけないから、民の数だけコストがかかる。 だけど、徳治主義は"天子"に全てを任せて、それでうまくいくという政体だから、それが逆に、国民ひとりひとりが政治にコストを払うという民主主義の基本を忘れさせる。 日本の政治家は、当然日本人のための政治をしてくれる筈だという「徳」を信じる全うな国民ほど、民主主義のコストを払わない。自分から何もしなくてもうまくやってくれると思っているから、そんなコストを支払う訳がない。 だけど、それは自分達に都合のよい政治をさせようと思う輩(やから)が、意識して民主主義のコストを支払うことで、恣意的な政治をさせることができてしまうという危険をも同時に孕んでる。

 

 建前や制度として民主主義であっても、国民の意識が徳治主義のままであると、その隙間を狙われてしまう。今の日本で一番注意すべき点はここ。 よく政治不信だなんだといわれるけれど、民主主義がきちんと機能している限り、不信など在り得ない。自分達で選んだ政治家を信じられないということは、即ち自分自身が信じられないということになる。だから日本で政治不信というのは、徳治政治をしている筈の政治家がそのように見えないから信じられないということであって、政治に不信ではなくて、政治家の「徳」に対して不信を抱いているということ。徳治国家から徳が失われたら、目も当てられない。民が悲惨な目にあう。

 


世襲という看板

「いよいよ、九代正蔵を襲名いたしました。これもひとえに、長く温かい目で見守っていただいた皆様のご声援のおかげと、心より感謝しております。江戸より続く名跡を立派に継ぎ、七代目の祖父をはじめ歴代の正蔵の名に恥じぬよう、これからも精進していく所存であります。どうぞ末長く、ご贔屓のほどお願い申し上げます。」  
                              2005年吉日 林家正蔵

 

 政治家が自分の地盤を息子・娘に継がせるときに、後援会や支援者達にそう伝えて継いだ子供を紹介するけれど、これって、歌舞伎や落語なんかの襲名披露となんら変わらない。

歌舞伎や落語の世界では、世襲なんて掃いて捨てるほどいる。落語家の子供が落語家になっても誰も不思議に思わない。何故、歌舞伎役者や落語家の世襲は問題なくて、政治家の世襲が問題とされるのか。

 

 マスコミは、政治家の世襲は新人の登場を妨げるからだと批難する。確かに新人が政界にどれくらい進出できるかどうかで、世襲制の是非を問われる面はある。 多少強引な例えだけれど、政治家を落語家に置き換えてみると件(くだん)の三バンは次のように置き換えられるだろう。

 

地盤・・・師匠・一門
看板・・・屋号・噺家名(三遊亭なになにとか、桂何某とか。)
鞄 ・・・寄席・定席

 

 そして政治家としての能力は次のように置き換えられよう。

 

政治手腕   ・・・芸の力量
得意分野   ・・・芸風

 

 そして、選挙で当選することを真打ちになることだと置き換えてみると、新人が代議士になる道は相当に険しいことが分かる。 真打ちになるためには、芸の力(政治手腕)があることは勿論なのだけれど、寄席や定席で何席も打って御客さんに認めてもらわないといけない(政治実績)。そうした実績を示した上で、一門から認められて推薦(党公認)されないといけない。 だから、弟子入りして、芸を磨いて、寄席に出て研鑽を積む。それを続けてようやく真打ちが見えてくる。

 

 そんなとき、落語家の息子だったらどうかというと、その噺家を知るお客さんは、ああ、あの噺家の息子かという目で見る。一門も跡をつぐのだろうとなんとなく思っているし、幼いころから寄席にも顔を出すような環境で育つ。親の七光りがある。スタートからアドバンテージがあることだけは確か。だけど、落語界は別に噺家の息子でなくても、実力さえあれば、真打ちになれる。それは、芸を磨く環境がちゃんとあるから。政治家と落語家の一番の環境の違いはここ。

 

 三バンが全くない新人を落語家に例えてみると、まず、何処かの師匠や一門に入門(入党)するまではいいのだけれど、ここからが違う。まず看板がないから、誰も知らない前座名から始まる(尤も、噺家の子供であってもスタートは前座名になる)。地盤がないから師匠に稽古をつけて貰えない。鞄がないから寄席にも出られない。これでどうやって真打ちになれというのか。 独学で芸を磨いて、自分で営業して席をもうけたり、ストリート落語でもやって、少しづつファンを増やしていくしかない。よほどの才能に恵まれないかぎり、真を打つまで物凄く時間がかかる。

 

 だからといって、世襲を禁止したり、制限したところで問題の根本解決にはならない。世襲新人は党公認を受けられないだとか、親類縁者からの資産を受け継いではいけないだとかいうのは、地盤や鞄を剥ぎ取る事と同義。誰であろうと、問答無用で前座に突き落としてドサ回りをさせるようなもの。 本来は、誰が弟子入りしても、自らの芸を多くの人に見てもらって、あの噺家ならば将来真を打てるだろうと、お客さんに認めてもらう仕組みをどうやって作っていくかを考えるべきであって、どんなに才能があっても簡単に真打ちにさせないやり方は、かえって才能の芽を摘むことだってある。民主主義的考えからは、多少逆行してる。

 

 一門から破門して、ストリート落語をやって修行してこいと突き放すのは、芸の肥やしにはなるかもしれないけれど、そうであれば、普段からストリート落語をやらせておいて、芸を磨かせておくべき。選挙になったからさぁやってこいというのは少し違う。 それに、いくら地盤と看板を剥ぎ取ったところで、親の七光りまで剥ぎ取れない。民主党の鳩山代表が北海道から立候補したところで、鳩山邦夫氏が福岡から立候補したところで、世間は鳩山ファミリーだと見る。看板は下ろさせて貰えない。

 

 ただの冗談だけれど、政治家も、噺家の襲名披露ようにかつての大政治家の名を名乗ることで一気に認知してもらうことだって理屈としては可能。三代目大久保利通とか、二代目西郷隆盛とか名乗って立候補すれば「看板」の問題は解決する。尤も、本人の実力が伴わずに、イエスとか秀吉とか過去の偉人の名を名乗ったところで相手にされないであろうことは言うまでもない。

 



読者登録

日比野克壽さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について